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1000字小説バトル

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1000字小説バトル stage3
第71回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
青野 岬
1000
2
小笠原寿夫
1000
3
叶冬姫
1000
4
サヌキマオ
1000
5
ごんぱち
1000
6
咲 朝日
746
7
深神椥
1000
8
蛮人S
1000
9
田中貢太郎
1000

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

真夏の蝶
青野 岬

 アイスを食べながら仕事をする。食欲が無いのは暑さのせいだけではない。このところ仕事も人間関係もうまくいかず、完全に行き詰まっていた。
 窓からは、うるさいくらいの蝉の声が聞こえてくる。熱気を含んだ空気に冷たい風が混ざり、激しい雷雨を予感させた。
 アイスの棒を咥えたまま仕事を続ける。はかどらない。集中力が持続せず、気がつくと手の動きも止まっている。納入の期日が間近にせまっているというのに。
 僕はため息をついて窓の外に視線を向けた。するとそれまで大合唱していた蝉の声がぴたりと止んだ。空気も一気に重みを増す。
 そのとき窓の向こうに一匹の美しい蝶が、ひらひらと飛んでいるのが見えた。
 蝶の羽根はとても不思議な色をしていた。角度によっては暖色系に見えたり、寒色系に見えたりする。しかも金粉のようなものが混ざっていて、羽根を動かすたびに妖しく煌いた。
 網戸を開けて手を差し伸べると、蝶は素直に部屋の中へ入ってきた。すると蝶は僕の目の前で人間の女に姿を変えた。
「……何者だ?」
 窓の外には暗雲が垂れ込め、部屋の中は薄い闇に塗り替えられている。
 女の肌はひんやりと冷たい。ふたりの唇が重なる。女がこの世のものではないことは、わかっていた。それゆえの妖しい色気に惑わされて、僕は自分の動きを止められなくなっていた。
 閃光に浮かび上がる、異世界への入り口。僕は女の股間に顔を埋めて、蜜のしたたる果肉を一心不乱にむさぼった。
「きて……」
 女が耳元で囁いた。この声を以前、耳にしたことがある。遠い夏の日の記憶。

 小学生の頃だった。高熱を出して寝込んでいた僕は、夢うつつの中で蝶を見た。
「誰……?」
 縁側から入ってきた不思議な羽根の色をした蝶は寝ている僕を見下ろすように飛んだ後、若い女に姿を変えた。そして僕の頬を両手でそっと挟み込んだ。
 すると、それまで全身に篭っていた熱が女の手のひらに吸い込まれていくような感覚があった。女は寝ている僕の隣に横になり、小さな僕の体を包み込むように抱きしめた。
「大丈夫よ」
 女の肌は陶器のように冷たく、なめらかだった。僕は女に抱かれながら、深い眠りの淵に墜ちていった。

 シャワーを浴びて戻ってくると、部屋に女の姿はなかった。僕は窓を開けて蝶を探したけれども見つけることはできなかった。

 雨上がりの爽やかな風が吹いている。僕は気を取り直して、仕事を続けるために再びパソコンに向かった。
真夏の蝶    青野 岬

ひとり語り~タクシー編~
小笠原寿夫

笑っちゃうよね。喉頭癌だってさ。声が出ないんだもの。しょうがないよね。マァ、咄家だからって訳じゃないけど、声を売る商売なんだから。
医者も面倒見てくれれば、いいのにさ。呆気なかったよ。咳を絡ませて、苦しそうにしててさ。よっぽど呼吸器外してやろうかと思ったよ。これを外せば、楽になれるんだろ?だけど、最期に「ありがとう」って言いたくて、短く耳元で囁いたよ。
なんかスゲー心地好さそうな表情浮かべてさ。運転手さん、そこ右ね。
でさ、咄家ってお弟子さんが居るじゃん。毎日のように見舞いに来てくれるんだけど、その日は、一門会だったらしくて、誰も来れなかったんだよ。その日に限って、急に体調が悪くなって。家族にだけ看取られて。
ただ、なんだろうね。
偉大な人だったって報道されてるけど、実際は、普通のお父さんって感じだったけどね。お弟子さんには、厳しかったんじゃないのかな。師弟制度って一般人には、よく分からないよね。だってさ、絆って言ったって、芸を教える側と教わる側ってだけでしょ?実際は、違うの?運転手さんなら分かる?俺がお前を守るだとか、師匠だけは憎めないとか。タクシーってそういう縦社会なの?そうなんだ。だけど、接客業である以上は、お客さんありきでしょ?一人前になったら、もう自分の好きなように出来るんじゃないの?違うの?
確かに、生前には、お弟子さんが運転する車で、送ってもらってたよ。お小遣いとかもあげてたんじゃないかな。知らないけど。後継者とか、跡継ぎっているじゃん。ああいうのが、分からないよね。小さい時分から、憧れた商売な訳じゃん。それで、この名前が欲しいとか、真打ちになりたいとか、言いながら、真面目に稽古つけてもらったりしてね。僕?僕は、アパート借りて一人で事務仕事してるよ。そっちの方が、性に合ってるっていうか。マァ、親父見て育ったから、手習いみたいな事は出来なくもないけど、あの人達には敵わないと思う。だって、朝から晩まで飲んでは稽古し、稽古しては、飲んでるんだよ。アルコールが入ると、よく声が出るんだって。親父が若い頃によく言ってた。で、落語会なんかが、たまにあるでしょ?その時は、打ち上げなんかで、一夜中、飲み歩いてんだよ。あの人達には、僕はなれないよ。え?着いた?いくら?2800円?お釣りある?じゃあ、一万円で。ありがとう。ここまで送ってくれて。授業料は要らないから。気をつけて。さようなら。
ひとり語り~タクシー編~    小笠原寿夫

百年の庭
叶冬姫

 中学一年から高校を卒業する迄の間、僕は大伯母の屋敷で過ごした。理由は姉が受からなかった私立中学に、僕が合格したからだった。大学受験で再起を図っていた姉にとって、同じ家の中に堂々と校章をつけて通学する僕がいるのは辛いことだったようだ。僕の方からいえば、何の努力もせずに合格したと思われていることも癪で、互いに良い感情を持っていなかった。僕等の様子は、周りから見ればかなり切迫していたようだ。

 そんな理由で僕は六月のある日曜日、大伯母の屋敷の前に立った。僕の家は所謂、地方都市の名家の分家で、大伯母は本家筋にあたる。大伯母と住み込みの家政婦の品子さんが、日当たりの良い部屋と寝室の二部屋を整えてくれた。高台にある屋敷からは、海と閑静な住宅街と、美しい庭が見えた。
 閑静な住宅街すら見下ろす名家というものは、それに見合ったものを求められる。子供なら成績を。そして屋敷には常に美しく整えられた庭を。
 二人は、特に大伯母は、庭の手入れを手伝っていれば他は自由にさせてくれた。ただ、それは余程の理由がない限り、必ず毎日と決まっていた。成績維持が難しくなりそうで、最初は嫌々だった。『これはミケランジェロ』僕にはただの黄色の薔薇の名前を呟き、僕の目には十分に美しく咲いている薔薇を、品子さんが迷いなく切り、踏み潰した時には驚いた。『マメコガネがいたのよ』目尻に笑い皺を寄せ、品子さんが笑った。

 庭の手入れは屋敷での最優先事項だった。『男の子は良いわね。力仕事が頼めるわ』言われたように肥料を運ぶことなどが、僕には当初精一杯だった。薔薇以外なら水遣りをしても良いと言われた頃には、成績維持に全く関係ない事をするのも良いものだと分かりはじめ、一鉢の薔薇を育てなさいと言われた頃には、僕自身が思っていたより追いつめられていたことに気がついた。
 そして二人に尋ねながらやっと一輪の薔薇を咲かせた時、僕は姉のいない時を選んで、姉の机の上に切り取った薔薇を置いてきた。手書きのメッセージを添えて。その夜、姉から一輪挿しに飾られた写真とともに『ありがとう。次はこの花瓶に挿してあげてね』というメールが届いた。

 家族でも、時には互いに手入れをしなければならない。僕が百余年続くあの屋敷で学んだことで、今では他愛のない話である。『弟からのプレゼントは薔薇一輪よ、気障でしょう』という姉の笑い話になるのは、存外悪くないと思っている。
百年の庭    叶冬姫

サヌキマオ

 野を歩いていると沢山の骸にあった。沢山の骸がいるということは良くない病気があるということで、足早にここを去る必要がある。概ねきれいな骸だった。きれいというのは外傷のないというだけのことで、衣服や装飾や道具はすっかり剥がれ、腐るものは蛆に蛆を重ねている。埋葬するものがいないのは、通りかかった僧侶とて自身が死の沼に足首を突っ込むのは御免だからであろう。骨身を晒す者、顔色から土気に染まる者、まだ眠っているかのような新しい者もある。向こうの茂みががさがさいうので身構えると、表情もなく熟睡した若い娘に腰を使っている男がいた。「もうちょっとで終わるから待っていてくれ」と云ってからが長かった。しばらく待った。
「どうも見られていると気になるタチでな」男は悪びれもしない。「さ、次やっとくれ。なかなかいい具合だったぞ」
「いや、そういうことではなく」骸のことを聞きたかった。「蟲がいるのだ」と男はそっけなかった。「蟲が耳から入る。蟲は脳をいじって幸せな夢を見せる。食べるものにも、着るものにも困らない、自由自在な都合のいい夢だ。そうしておいてから蟲は脳を喰う。人間は幸せにその一生を終える――で、そうした幸せな連中の遺産を預かって食っているのが、俺含めこのへんの集落の人間だ」男はものを言いながら耳栓を取った。「で、お前さんは、何だね」
「通りがかりです、旅の者です」
「だったら早く過ぎるといい」男は土埃で薄汚れた耳栓を両手の指で摘んで見せる。「耳と口と鼻と肛門さえ守ればどうということはない。指で耳と鼻をふさいだままこの先の橋を渡るのだ。そうすれば蟲も出てこなくなる」
 「どうも」と男に頭を下げたが、向こうさんはこちらにはすっかり興味を喪ってしまったらしい。すでに件の女の脇に座り込んで、粛々と持ち物を物色している。
 致し方なく言われるまま両の親指で耳を、薬指で鼻の穴を塞ぐが、十も歩かぬうちに背後の空気がぎゅっとこわばった。かと思うと首筋に強い圧がかかって眼球が飛び出そうになる。地面に無様に顎から落ちる。

 全身の皮膚を暖かな風が撫でていく。
 地に点いた視界の先、だらしなくひらいた股から白子を垂れ流す件の娘がいる。娘はうっとりとした顔で眠っているようにみえる。
「蟲」だなんてホントにいるのかな、と思ったがその刹那、全身が黄金色に輝きだした。美しい筋骨を手に入れた私は目眩く快感に大地を蹴って音速で駆け出す。
蟲    サヌキマオ

ラーメンの構造とその運用に措ける心理・病理学的諸問題
ごんぱち

「苦節四〇年、ようやくラーメンの親指混入の解決法を、ついに見つけたぞ! 助手の蒲田君!」
「やりましたね、四谷教授! どんな方法なのですか!?」
「フフフ、これだ!」
「でっかい……マグカップ?」
「丼の縁を持つから指が入る、となれば、取っ手を付ければ良い! 逆転の発想だな!」
「――ククク、お笑いだな、四谷君」
「むっ、貴様は! キザで嫌味で鏡ばかり見ている光矢助教授!?」
「なんの用です、光矢助教授!」
「キミは、そのマグカップの化け物を使えば、我々の学派が二七〇年に渡って取り組んできた『ラーメンの構造とその運用に措ける心理・病理学的諸問題』が解決する、と、そう言いたいのかね?」
「そう聞こえなかったなら、随分と耳が悪いな! いや、ウェルニッケ野の方がくたびれたか?」
「フフフ、私の脳は至って健康だよ。世紀の難問をマグカップ如きで解決出来ると思い込まない程度にはね」
「解決出来ないという根拠はなんだ! どこの世界にマグカップに指を突っ込むヤツがいる? せいぜい、灰皿と間違えて入れた吸い殻を拾い上げる、薄らぼんやりした喫煙者ぐらいのものだ!」
「実証で見せよう。そのオバケマグを持ってみたまえ。水を八分目入れてな!」
「――むっ、むむむ、お、重い!? バ、バカな!」
「フフフ、右手一本でどれだけ持ち続けられる? 反対側に手を添えざるを得んよなぁ!」
「うごぐぐ……」
「ああっ、四谷先生が左手を添えた!」
「ぬぁああああ、もうダメだあああ!!」
「四谷先生の左手の親指が、丼の水の中にずっぽりと!」
「し、しまった!」
「勝負あったな」
「く……重さは同じ筈! 持つ場所如きで変わる訳が!」
「変わるのだよ、四谷君。その増加割合は、重心からの距離と比例する。持ち手のサイズから考えて、そのオバケマグの体感重量は縁を持った時の約二倍! 片手で保持出来る重さじゃあない!」
「光矢、貴様は……既に法則を見つけ出していたというのか!?」
「フフフ、この私にどこまでも長い取っ手付けたなら、地球とさえ釣り合う事だろう! 光矢の原理、とでも名付けるか!」
「なんという大発見! 完敗だ……」

「――と、まあ、これが、車輪の再発明という例だ」
「分かったかな?」
「新人君?」
「……昨日、ちょっと引っかかった語句のために、ここまでの小芝居を仕込んで来たこの先輩達は、いい人なんだろうか、それともアレな人なんだろうか」
「わははは、そんなに褒めるなよ!」
ラーメンの構造とその運用に措ける心理・病理学的諸問題    ごんぱち

regret
咲 朝日

雨が全てを黒く染めた。

「君に話したいことがある」

そんな言葉を何度使えばいいのだろうか。
手には紺色の傘。暗いとも言えず、明るいとも言えないその色は、どこか僕の感情を表しているようだった。

足元が揺れる。ただただ小さな波をつくって。ポツリ、ポツリ、ポツリと水が落ちていく道に一人たたずむ僕の無力さ。動けない体とどうしようもない感情。

吐き捨てたのはあの言葉。
「それ程僕は単純じゃない」
そう言ってしまったあの日は、溶けて、消えて虚無へと誘われていけばいい。なんてね、思いたくても思えない。

足元の揺れが強くなると、落ちてくる水が激しくなった。僅かな通行人も、赤や透明な傘をさしている。自分の色が澄んでいないからその色が綺麗だと思えるのか、と自問自答を繰り返した。答えなんてない。
背の向こうにあるのは小さな空き地。荒れているのに、雨が降っているのに、どこか静かだった。

大きな上の世界は暗闇で、吸い込まれて自分も黒く染まりそうだ。
君は上の世界で見ているのだろう。想像以上の暗闇の中で。
君は僕の世界のように、激しい雨を降らせているのだろうか。それを拭うことは僕には出来ない。

巡り巡るこの世界で、この地球で、消えちゃいたい僕。
巡りに巡って終わりを告げた、この場所で、消えてしまった君。

君の通ってしまった道は、ターミナルなんて存在しない。戻ることも許されない。
一生僕から遠のいていく。
近づくことなんて出来やしない。
気付いた時には、終わりを告げる。
全てが僕を笑う。
雨が降って、また君を思い出す。
心も体も僕の全てが泣いている。

でも、さよならを言おうか。
さよならを……

僕はそっとマリーゴールドを一輪置いて、傘もささずに暗闇の中に吸い込まれていった。

ーーもし君がまだ生きてたなら、言いたいことがある。でももう手遅れなんだ。
regret    咲 朝日

a light in the black
深神椥

「サエキ、もう寝た?」
 オレは右隣で寝息を立てている近藤を起こさないよう、小声で聞いた。
「んー、起きてるよ」
 テレビドラマ等でよくあるセリフ。
もし相手がもう眠っていて、起こすことになったらどうするんだ?と思っていたが、思わず口にしてしまった。
でも、どうやらまだ眠っていなかったようだ。
「どうした?」
 自分から切り出したのに、いざとなると中々言葉が出てこない。
 暗闇だし、お互い表情は見えないはずなのに――。
「あのさ……」
「んー?」
「何で、フッた?」
 暗闇だから、サエキは目を瞑っているだろうから、聞いてみてもいいだろうと思った。
「何だよ急に」
「いや、お前、黒瀬のことカワイイって言ってたろ。付き合うなら黒瀬かなって」
 オレは天井を見たまま言った。
「んー、別にいいだろ、今更。終わったことだし」
「オレが、オレが言ったからだろ。オレが、黒瀬は軽いんじゃないかって」
「もういいだろ。そんなことどうでも」
 小声で、だけど強めに、オレの言葉に被せるように言った。
「オレには合わなかったんだよ。オレが自分で決めたことだからいーんだよ」
「合わなかったって……付き合ってみないとわかんないんだろ」
「あーもーうるさいなー。しつこい」
 もしかしたらコイツは、オレの言葉で黒瀬を諦めたのかもしれない。
 でも、オレは内心、ホッとしていた。
 コイツが黒瀬をフッてくれて。
「明日も早いんだし、もう寝ろよ」
「……うん」
 オレは表情をほころばせ、目を閉じた。


「そこ終わったら、次こっちお願いします」
「あ、はい」
 しまった。手が止まっていた。
今はバイト中だった。
 ふと、高校の修学旅行の時のことを思い出してしまった。
――アイツとは大学も別々で、高校を卒業してからは殆んど会ってはいなかった。
 今どこで何をしているのかもわからない。
噂で聞いたのは、黒瀬と付き合ってるとかいないとか。
結婚も近いとか近くないとか――。
 事の真相はわからないが、やっぱり、黒瀬のこと好きだったんだなって。
――あの時、ホントにオレの手前、気遣ったのかな。
 それも悔しいけど。
 ちゃんと言ってくれた方がオレとしては良かった。
 「諦め」がついたというか、心のモヤモヤが晴れたかもしれない。
でも、それがアイツなりの「友情」だったのかな。
「友情」……。

 オレは目を閉じ、しばしの間、アイツの「友情」に浸った。
 それからしっかりと前を向くと、次の仕事に取りかかった。
a light in the black    深神椥

ウツシの記録
蛮人S

 木漏れ日の奥、山路の先から軍馬が来る。その後に馬車が連なる。
 積荷は戦の備えだろうか――石弓、鉾、魔鏡、よく分からない棒、何であれ俺の役目には関係ない。俺は携えた木箱に霊石を挿し込み、肩に担ぐ。樹の根元に背を預け、下草の中に身を沈める。口引く馬丁の掛け声が山道に響く。

 ぃよう……ほう、いよぅ……

 俺の役目は「ウツシ」。石の能力を買われて史部様に雇われる。
 いま俺は、ただここに山の一部となり、意識を揃え、目前の有様を感じるまま霊石に写す、のだ。
 息を殺し、心を沈める。石に意識が流れ込む。

 馬が行き、荷車が来る。
 馬丁の声、軋む車軸。

 逞しい馬の呼吸、金具の光、荷の響き、跳ねる小石……
 蹄、掛け声……折れる小枝、汗、油の匂い、掛け声……

 虫の羽音、草の葉擦れ……

 息を吸い、微かに身を揺らす。肉体に意識が戻る。俺は強張った指を曲げ伸ばし、霊石を静かに抜き取り、箱の引き出しに収めて閉じた。
 ふう、と息を吐いた時、道の彼方から響く別の声に気付いた。

 いぃ、あらやいっ! あららぃ、らい……!

 市場に向かう車だ。
 それは遠目にも華やかだった。荷を引く矮馬さえ美しく花に飾られ誇らしげに首を振る。荷台には五色の布がはためく。鈴の音が近づく。おお、そうか初荷だ。なるほど、勇壮の五月神の初荷じゃないか。
 馬が笑う。馬丁も笑う。俺は思わず次の石を取り出そうとしていた。その手がぴしりと棒で打たれる。
「余計な事をするな」
 史部様だった。離れて見ていたのだ。俺は慌てて平伏し、荷車はその前を賑やかに通り過ぎていった。
「その霊石がどれほど尊く貴重と思う。ウツシが終わればさっさと返すのだ。後の工程も幾つも待っておる。お前に分かるか、即ち祀積構幽、焼読復改、融香印刻、彩染組彫の……」
 分からない。ただ途方もない人手と歳月をかけて秘術と細工を施し、千年万年の後世までも宝物殿に残すと伝え聞く。
 それが歴史だそうだ。俺には関係ない。


 役を終えて村に帰ると、いつも子供らに囲まれる。村では一種の畏敬を集める俺だが、特別の扱いがあるわけでもない。それは幸いな事だ。
「ウツシのオッチャン、馬見たか?」
「見たぞ。初荷の車も見たぞ。さあ、こうだぞ。シャンシャンシャン」

 いぃ、あらやい、あららぃらい!

 身振り交じえて伝えれば、真似して子供は歌いだす。

 いいあらやい、あららいらい!

「お馬のお顔は花だらけぇ」
 みんなが笑った。
ウツシの記録    蛮人S

狐と狸
今月のゲスト:田中貢太郎

 燕の恵王の墓の上に、一疋の狐と一疋の狸が棲んでいた。二疋とも千余年を経た妖獣であったが、晋の司空、張華の博学多才であることを知って、それをへこますつもりで、少年書生に化けて、馬に乗って出て往こうとすると、華表神が呼び止めて、
「君達はどこへ往くのか」
 と聞いた。華表神とは墓の前にある鳥居の神である。狸は華表神の問いに答えて、
「司空の張華と、議論しに往くところだ」
 と言った。すると鳥居の木の精が、
「張司空は才人であるから、二人が命を失うばかしでなく、その禍が俺たちにもかかってくる、どうかやめてくれ」
 と言ったが、狸と狐は聞かずに出かけて往った。
 そして二疋で、張華の処へ往って、張華に逢って議論をはじめたが、その議論にはさすがの張華も弱らされた。張華はこの少年たちはどうしても人間でないから、化けの皮を剥いでやろうと考えていると、知合の雷孔章という者がやってきた。張華は雷孔章の顔を見ると、
「怪しい書生が二人来ている」
 と言って話した。雷孔章は、
「君は国の棟梁で、賢者を薦め、不肖者を退けている人じゃないか、自個より議論が偉いといって、妖怪あつかいにするは怪しからん、しかし真箇に怪しいものなら、猟犬を伴れてきて、けしかけたらいいじゃないか」
 と言った。
 そこで張華は猟犬を伴れて、少年たちのいる室へ入ったが、少年たちは平気であった。
「僕達の才智は、天から与えられたものだ、それを却って妖怪として、犬を伴れてくるとは怪しからん」
 と狸の方が言った。張華はこれを聞くと、
「百年の精なれば、猟犬を見れば形を現わすが、千年の妖なら、千年の神木の火で見ればきっと形を現わす」
 と言った。雷孔章が、
「そんな神木がどこにあるか」
 と言うと、張華は、
「燕の恵王の塚の前の華表木が千年を経ているということだ」
 と言って、使をやってその木を取らした。その使が木の近くにゆくと、空に青い着物を着た小児が現われて、
「君はどこからきたのか」
 と言った。使は、
「張司空の処から華表木を取りにきた」
 と言った。すると小児は、
「あの古狸が馬鹿で、わしの言葉を聞かなかったから、わしにも禍が及んできた」
 と言って泣きだしたが、すぐ見えなくなった。
 そこで使の者は華表木を伐ってみると、木の中から血が流れた。そして、その木を持って帰ってきて、それに火を点けてみると、狸と狐の姿が現われた。張華はその二疋をつかまえて煮てしまった。