[QBOOKS]

第1回3000字小説バトル
Entry1

街灯の下

作者 : pavane [パヴァン]
Website : http://www.ne.jp/asahi/my/pavane/
文字数 : 2988
 夕方に降った雨のせいで、空気はねっとりと湿っている。芦屋川
の水量もわずかに増えているのだろう、水の音が虫の音を抑えるよ
うに響いていた。
 川沿いの道端に立つ、錆びれた灰銀色の街灯の下に、一人の少年
がいた。白地のTシャツに半ズボン、頭には阪神タイガースの野球
帽がのっかっている。少年は、さっきから右手の人差し指で街灯の
支柱をコツコツと叩いている。鈍く低い音が不規則な間隔で鳴った。
時折違う音程が鳴ると、少年はその周りを少し強く叩いた。
 少年は街灯の光を見上げる。真上にあるはずの星は、その街灯の
光のせいでよく見えない。光の周りを飛び回る小さい虫の方が、は
っきりと見えた。
 少し肌に風を感じたとき、足音が聞こえた。少年が坂の下の方を
見やるのと、懐中電灯の光が少年の顔を照らすのと、ほとんど同時
だった。
「坊や、こんな時間にどうしたんや?」
 警官が一人、少年の前に立っている。
「家はどこや。連れてったろ」
 少年は脅えた表情で、何も言わずに突っ立っていた。

 探偵事務所というところは、有名なところでもない限り、そう毎
日忙しいということはあり得ない。それにしても今週は暇だった。
だから午前中に事務所に入ったものの、今日も木原は来客用のソフ
ァに座って、ゆっくり時間をかけて新聞を読んだ。出前のお好み焼
きを平らげたころにようやく所長の笠原が出てきたが、そのときに
は三紙とも隅から隅まで目を通してしまっていた。
「おう、木原、仕事やで」
 机につくなり所長に呼ばれて、木原は無言で奥の部屋に入った。
「まあ座り。そこのテーブルに依頼書置いてるやろ」
 木原は入口近くのソファに座って、卓上の封書からA4判の用紙
を抜き取った。
「ほとんど白紙じゃないですか」
 右手に持った依頼書をひらひらと所長に示しながら、木原は言う。
「池田建設の金子社長の依頼や。直接電話で相談された。ま、大丈
夫やろ」
 日頃から、依頼書だけは必ず取ってこい、と口癖のように言って
いる人の言葉とは思えないが、木原は無表情のまま聞き流して、代
わりに質問した。
「確か、金子社長からの依頼は初めてでしょう?」
「そうや。紹介はようしてもらっとるけどな」
 木原は依頼書を封筒にしまってから、所長の方を見やった。嫌な
予感がした。所長は、部下の機嫌をうかがうような愛想笑い。木原
は一つ溜め息をついた。
「で、内容は?」
「ああ。社長の息子さんがな、夜に家を抜け出してな、警察に補導
されたんやと。それがな、別に街中に出て行くわけやのうて、いっ
つも家の近くの路上で保護されるらしいんや。この一週間で三回。
毎回同じとこにおるらしいわ」
 木原はあくまで無表情に、社長を見つめている。
「それで?」
「理由を調べてほしい」
  木原はソファから立ち上がって言った。
「我々がでしゃばらなくても、家庭内で解決できる問題でしょう」
「わしもそう思う」
 所長は苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「そやけど、金子社長はうちのお得意さんや。よう紹介してもろと
るからな。その金子社長からの依頼や。内容は関係なく、調べなあ
かんやろ。そうは思えへんか?」
「私もそう思います」
 所長は満面に笑みを広げた。
「悪いな。せこい仕事ばっかりで。わしはこれから例の失踪人探し
の件で東京に行かなあかんのや。後、頼むで」
「分かりました」
 木原は一礼を残して、部屋を出た。

 午後三時というのに、そのファミリーレストランには結構客が入
っていた。それでも、奥の喫煙席の方は客の姿もまばらで、なんと
か結果報告にも支障はなさそうに見えた。金子社長は角のテーブル
席に座って、コーヒーを飲んでいた。
「お待たせしてすいません。改めてご挨拶申し上げます。笠原探偵
事務所の木原行視と申します」
「金子です」
 野太い声だ。名刺を渡しながら、木原は首をすくめた。
「失礼だが、木原くんは探偵をして何年です?」
「まだ二年目です」
 かちんときたが、なんとか木原は無表情を保った。
「ほう、それにしては優秀だ。まだ依頼してから五日しか経ってい
ないが。笠原くんもいい助手がいて幸せだな」
「ありがとうございます」
 微かだが、表情に出てしまったかもしれない。しかし、折りよく
ウェイトレスがやってきたので、なんとかさとられずにすんだ。
「ご注文は?」
「コーヒーを」
 木原はウェイトレスを遮るように答えた。彼女が立ち去るのを待
って、木原は傍らに置いたアタッシュケースから大判の封筒を取り
出し、金子社長に手渡した。
「書面にいたしましたので、詳しくはお読みいただければ分かると
思います」
 金子社長は抜き出したA4判の書類をじっと見つめている。
「綾子を、探したのか」
「はい、今回の御依頼には必要なことと思われましたので。一応、
最後のページに御連絡先を付けています」
 一度、金子社長は睨みつけるように木原を見やったが、何も言わ
なかった。
 金子社長が読み終えるまで、木原はじっと待っていた。途中、ウ
ェイトレスがコーヒーを運んできたが、金子社長は全く反応を示さ
ず、書面を追い続けた。木原が二口めのコーヒーを飲んでカップを
戻したとき、金子社長はようやく顔を上げた。
「私は、綾子を探そうとしたことは一度もない。それは綾子を軽蔑
しているからだ。綾子は買い物に出たっきり、私も含め、息子も、
家庭も捨てた」
 金子社長は俯き加減で続ける。
「綾子が精神科医にかかっていたとは、知らなかったよ。この、失
踪の折りの状況は綾子から直接聴いたのか?」
「いえ。私は綾子様にはお会いしておりません。全てその精神科医
から聴いた話です」
 金子社長は肯いて、コーヒーを一口含んだ。
「それにしても、あのとき息子が一緒だったとは知らなかった。し
かし、どうして綾子はわざわざ息子を道端に残していったんだろう
な」
「私も同じことを疑問に思って、その精神科の先生に尋ねました」
「答えは?」
「本当に財布を忘れたんでしょうよ。そう言われていました」
 私が微笑むと、金子社長も笑みを漏らした。
「それで、綾子は今も精神科にかかっているのか?」
「いえ。時々相談には見えられるようですが。その精神科医の連絡
先もお教えしましょうか?」
「いや、その必要はない」
 金子社長はそこで立ち上がり、木原に向かって右手を差し出した。
「ありがとう、木原くん。助かったよ」
 木原はその手を握り返して、立ち去る金子社長に頭を下げた。

 雨が降っていた。
 派手な赤い傘をさして、少年は街灯の下に立っていた。俯いて、
足元にできた水溜まりをじっと見つめている。雨の音は全てを圧し
て、少年の周りの空気を乱暴に叩き続けた。だから、坂の下の方か
ら近づいてくる足音にもしばらく気づかなかったし、それが何人の
足音なのかも、なかなか分からなかった。だいいち、青い傘の下の
人影は、最初一人にしか見えなかったのだ。傘の下から人影が飛び
出してきて、少年の方にかけ寄ってきたとき、少年が一瞬脅えたよ
うな表情を見せたのも無理はない。
「しょうちゃん!」
「お母さん…」
 この一年間、少年の頭の奥で響き続けていた声は、このとき、入
れ替わった。
 お母さん、財布忘れちゃった。ちょっと取ってくるから、ここで
待っててね。分かった?  しょうちゃん。
 雨の中で母の匂いを感じながら、少年は街灯を見上げている。父
親は無言で母子の上に青い傘を差しかけ、その街灯の光を遮った。
 雲はまだ厚く、雨音が静かに響いている。