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第1回3000字小説バトル
Entry16

Blue Pain

作者 : ヒロト
Website : http://www.or.jp/~hirotok/index.htm
文字数 : 2990
 先発の茂木さんがまた打たれた。
 こりゃあマズいかもなと呟いたカントクの首がぐるっと回って俺
を見る。試合中だというのにひどく眠そうな顔だ。
「竹中、お前、とりあえず準備しとけ」
 馬鹿言わないでくださいよ、あの茂木さんが三回途中でノックア
ウトされるはずがないでしょう――そんな言葉を言えないまま飲み
込んでしまう自分が嫌になる。四十をひとつ越えてから、茂木さん
の球威はさっぱり衰えてしまった。もはや周知の事実だ。十五年前
の日本シリーズの胴上げ投手も、寄る年波には勝てないのだろう。
俺が甲子園を目指していた頃、ブラウン管越しに見た眩しいばかり
の輝きは、もう影を潜めてしまっている。きっと誰よりも、茂木さ
ん本人が一番わかっているにちがいないが。
「……ういっす」とだけ答えて俺は立ち上がり、グラブにとまった
赤とんぼを追い払う。平泳ぎをするみたいに夕闇を滑ってゆく透明
な羽根が、灯が入ったばかりの照明をぎらぎらと反射した。こいつ
らの季節が来て、スタンドから客足は遠のき、俺の出番が増えてゆ
く。昨年と何も変わらない。
 俺はベンチ裏からブルペンへと続く鉄の扉を押し開けた。
 どこから放たれたものかわからない尖った野次につられて振りか
えると、マウンドでは茂木さんが、眉間に深い皺を寄せつつ、ユニ
フォームの袖で汗を拭っている。うつむいた四角い顔が蝋細工みた
いに蒼ざめて見えるのは、たぶん照明のせいだろう。その茂木さん
の隣で、マスクを外し腕組みをして偉そうに語りかけているのは、
俺と同期の大倉だ。どうせまた神経質な小言を繰り返しているにち
がいない。図体ばかり大きいから、レガースやプロテクターが肉に
圧縮されて悲鳴をあげているようにも見える。太りすぎたロブスタ
ーを俺は想像してしまう。きっと中身はスカスカだから、美味いは
ずがない。投手をいたわる脳みそまで不足している。大倉が辛い注
文ばかり付けるから、茂木さんはいっそう消耗してしまうのだ。そ
うに決まっている。ぜったい、大倉のせいだ。
 ベンチにまで溢れてくるカクテルライトに背を向けて、俺は口の
中で粘りつく唾を吐き棄てた。

 切れかけた蛍光灯が憂鬱そうにまばたきをする廊下を通り抜ける
と、角の部屋から日陰の土の匂いが漂ってくる。いつもながら、鼻
の奥にカビがはえたような気がするのだが、決して不快ではない。
夕暮れ時の神社の冷えた空気と同じ匂いがする。あの境内で親父と
キャッチボールをしなくなったのは、いつからだろうかと考えなが
ら、春に生まれたばかりの息子のことを俺はぼんやりと思い浮かべ
る。息子とキャッチボールをする頃にも、俺は現役の投手でいられ
るだろうか。微妙なラインだ。
 シロアリに食い尽くされた板を引き剥がすように扉を開ける。
 ブルペンに足を踏み入れると、コンクリートの壁と天井に囲まれ
ているせいか、土の匂いがいっそう濃くなった。部屋の隅にしゃが
みこみ、ラジオ中継に聞き入っているのは、ブルペンキャッチャー
のサメさんだ。他の連中は控え室でくつろいでいるのだろう。今日
もお世話になります、と後ろ姿に声を掛けると、広い背中に描かれ
た「SAMESIMA」のアルファベットと「121」の数字がよじれて、
ひとなつっこい笑みがこぼれた。筋骨隆々なくせに、子牛みたいに
つぶらな瞳。その瞳に向かって、俺は帽子を取り、軽くおじぎをす
る。かわいいと言ってしまうのは失礼だから、言わないでおく。
「タケちゃん、残念だったなあ。しばらくはタケちゃんの出番、な
さそうだよ」
「え?じゃあ、やっぱり茂木さん、抑えたんですね?そうこなくっ
ちゃ」
 残念と口にしながらも、サメさんは嬉しそうだ。やはり茂木さん
のことが気になっていたのだろう。茂木さんとサメさんが「球界の
おしどり夫婦」と呼ばれていたのは、もう十年以上も前のことだが、
ふたりは今でも最高に息の合ったバッテリーだと俺は信じて疑わな
い。ただちょっと、サメさんの腰の故障が長引いているだけなのだ。
もし復帰すれば、大倉なんぞに負けるはずがない。
「ま、ぼちぼちやっとこうか、タケちゃん」と俺に笑いかけて、サ
メさんは立ち上がり、俺の左手にボールをねじ込む。ミットのよう
に膨れ上がったサメさんの堅い指先が、俺の掌をかすめてゆくとき、
白い筋のようなものを残した。
「マジっすか?今日は茂木さん、完投しちゃうんでしょ?」
 俺はそう答えつつ、小脇に抱えていたグラブを右手に装着する。
サメさんは沈黙を守ったまま、目尻に深く刻まれた笑い皺のなかに
何かを隠していた。
 今季の茂木さんの完投数がゼロだということくらい、俺にもわか
っている。慢性的な投手力不足を何年も解消できないでいるチーム
事情が、茂木さんの引退を許さないことも。フロントはいったい何
をやっているのだろう。とにかくローテーションの柱になれる投手
を補強しなくては、来年もまた最下位街道まっしぐらだ。もちろん、
ドラフトで上位指名されておきながらちっとも成長していない、俺
みたいな選手にも責任の一端があるとは思う。そんなのは痛いくら
いわかっている。だが、わかったからって、どうすればいいのか、
わからないのだ。期待されるには遅すぎる。
 ラジオが中古車販売店のコマーシャルをがなりたてている。高く
買いますあなたの愛車……。そんな陽気な歌声に合わせて、俺は柔
らかいマウンドをスパイクで整える。
 左のワンポイント・リリーフなどと呼ばれてはいるが、別にスペ
シャリストなんかじゃない。ただ、技術も才能も足りないだけの話
だ。俺を買ってくれる球団など他にあるはずもない。それだけは、
嫌になるほどはっきりわかっている。

「ん、ナイスボール!」
 サメさんの声はよく響く。コンクリートの壁がびりびりと震えて
いるみたいだ。グラウンドに出たら、ホームから外野まで肉声で指
示が届くにちがいない。
「今日も調子、いいんじゃないの、タケちゃん?」
「そんなこと、ないですって」
 俺は苦笑しながらも、悪い気はしない。何せ昔から憧れていた歴
戦の名捕手におだてられているのだ。まるで自分が十五年前の茂木
さんみたいに思えてくる。あの日本シリーズのマウンドで、茂木さ
んは何を考えて投げていたのだろう。
「ようし、低めぎりぎりいっぱい!」
 バスン、と景気のいい音をたてて、黒光りするミットの中に白球
が吸い込まれてゆく。サメさんはキャッチングが抜群に上手いのだ。
だから、ボールがそこに収まるべくして飛んでゆく、そんな感じが
する。大倉相手だと、こうはいかない。大倉のミットはせいぜい湿
った座布団だ。
「うわっ、スライダーも切れてるねえ。……次、目一杯のストレー
ト、十球いってみようか」
 サメさんが大きな目を丸くして、オーバーに驚いてみせる。サメ
さんの大声がラジオの音を掻き消しているせいで、ゲームの進行状
況が掴めないが、そろそろ俺の出番が近づいているらしい。もうじ
きブルペンコーチもやってくるにちがいない。それからリリーフカ
ーに乗り、茂木さんからボールを受け取って、とりあえず責任をま
っとうする。いつもと何も変わりはしないだろう。だからずっとブ
ルペンでサメさんとキャッチボールをしていたいんです、そう言っ
たら呆れられそうだから、言わないでおく。
「いいぞ。その調子で、ラスト一球」
 俺は冷えた空気と土の匂いを胸一杯に吸い込む。