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第1回3000字小説バトル
Entry4

軽い死、重い自由

作者 : 永井真咲 [ナガイマサキ]
Website : http://www.ceres.dti.ne.jp/~mah/index.htm
文字数 : 2944
 こうも簡単にいくとは。
 ぼくは安堵した反面、いささか落胆していた。もっと烈しい抵抗
があるものだとおもっていたのだ。こんなにすんなり事がはこんで
しまったのでは、自らすすみでて罰を受ける気にもならない。あま
りにも軽すぎるじゃないか。この軽さは、このあっけなさは、なん
なんだ。ぼくは唇を噛んだ。それからその荒れた唇をやや開いてつ
ぶやいた。ぼくは裏切られた。
 目の前には、父の死体があった。父といっても血のつながったほ
んとうの父親ではない。法律によるところの義父というのでもない。
勝手に自分をぼくの父だと主張する、母さんが連れてきたよその男
だ。
男はぼくに、自分のことを父と呼べと強要した。だから、ぼくはし
かたなく彼のことを、とうさん、と呼んでいたのだ。でも、それは
昨日までのことだ。いま僕の前に横たわる男は、もはやただの物体
であって、すくなくともぼくの父親ではない。もともと違うのだか
ら、あえて父親ではないと否定する必要はないのだけれども、ぼく
はいま具体的な行為によって、それを証明したのだ。
 男の腕を軽く持ちあげてみた。肩の筋肉が柔軟さを失っている。
これが死後硬直というやつだろうか。首のあたりに跡が残っている。
そこを締めあげたのだ。唇の端からは涎がすこし垂れていたけれど
も、いまはもう乾いて、粉をふいたようになっている。ぼくは男の
体にかけられた布団をはぐった。寝返りをうたせるように体を転が
して、ランニングシャツの裾をまくりあげた。あらわになった背中
に赤い斑点がいくつも浮き出ている。これも本で読んだとおりだ。
死斑とはよくいったものだ、とぼくは妙に感心した。それから男を
元通りに寝かせ、ぼくは立ち上がって寝室の窓にかかったカーテン
を開いた。
 やや明度の低い西日が目に刺さって、ぼくは軽くおどろいた。そ
れから振り返って、壁に掛けられた時計をみた。すばやく計算した。
なんと八時間半も、ぼくは彼の死体の前に座っていたのだった。そ
のあいだ、ぼくはいったい何をしていたのだろうか。ほんのすこし
ばかりの時間、彼の死を観察していただけのつもりだったのに。放
心していた? いや、そんなはずはなかった。なぜなら、ぼくはこ
の男を殺すことをかれこれ二か月も考えつづけ、なんどもなんども
その時のことを頭の中でシミュレートしていたからだ。発作的にと
った行動ではなかったのだ。しかも本番においては何のハプニング
もなく、想定していたケースのなかのどれよりもスムースに行われ
たのだから、このぼくが動揺して放心状態におちいることなどあり
えなかった。
 ではいったい、ぼくはこの八時間半のあいだ、なにを考えて、な
にを見ていたのか。無理に記憶を引っぱりだそうとしてみたが、や
はり何もでてこなかった。いずれにしても、もはやどうでもいいこ
とだ。そう考えてふと、時間というのは相対的なものだ、と何かの
本に書いてあったのを思い出した。しかし、それもどうでもいいこ
とだ。それよりも、これからどうするか、考えなくてはならない。

 ぼくは寝室を出て、居間に置いてあるソファに座りこんだ。顎に
手を当てて、死体の処理方法について考えをめぐらせはじめた。な
にせ、ぼくは男を殺したあと、警察に出頭するつもりでいたのだ。
男を殺すことにはなんのためらいもなかったけれども、人を一人殺
すことは事実なのだから、その罪は償うべきだと考えていた。いや、
ほんとうはそれだけじゃない。ほんとうは、ぼくが男を殺したこと
を公にすることによって、母さんにも罪を償わせたかったのだ。母
さんは、ぼくが嫌がるのを無視して、男がこの家に住むことを許し
た。新しいお父さんなんて、最初はおかしな感じかもしれないけど、
そのうち慣れるわよ、と母さんはぼくにいったのだ。母さんはわか
っていなかった。ぼくが嫌だといったのは、新しい父親ができるこ
とではなくて、その男がぼくの新しい父親になることだったのだ。
ぼくは男をはじめて見たときに、いやな予感をもった。そしてその
予感は見事に的中したのだった。
 男は母さんを殴り、ぼくを蹴飛ばした。ウィスキーの瓶で、ぼく
が可愛がっていたハムスターを叩き潰した。ぼくはどちらかという
と忍耐強い性格なので、それだけならまだなんとか耐えることがで
きた。が、男はそんなぼくの寛容さをあっさりと踏みにじった。そ
の日のことは、今もはっきりと覚えている。
 母さんは夕方から仕事に出かける。それから夜の遅くになるまで、
ぼくは男と二人だけで過ごさなくてはならなかった。母さんがいな
いときに男がぼくに危害を加えることはなかったし、普段の彼は酒
を飲んでごろごろしているだけだったので、そのことは特に苦痛で
はなかったが、それでも憂鬱な時間ではあった。ところがその日は
どういうわけか、母さんが出かけてしばらくしたあと、男はぼくに
なにもいわず外出したのだった。
 一時間ほどして帰ってきたとき、男はぼくのしらない女の人を連
れていた。ぼくは男を睨んだ。母さんがいるときはひどく凶暴にふ
るまう男だが、ぼくと二人だけだとどこか気弱そうにみえる。この
ときも、いいわけめいた目でぼくを見かえした。しかしけっきょく
居直ったのか、曖昧に目をそらして女を寝室へつれこんだ。しばら
くして、すすり泣くような女の声が、自分の部屋にいたぼくの耳に
聞こえ始めた。ぼくはまだ子供だったので、そのときになってはじ
めて事をすこしだけ理解したのだった。ぼくはすくなからず動揺し
ていたが、男になにか抗議すべきだと思い立って寝室へむかった。
 寝室のドアは開かれたままだった。そのせいで、声がぼくの耳に
まで届いたのだ。そこでぼくは、男と女がつながっている様子を生
まれてはじめて目のあたりにした。その様子のあまりのおぞましさ
に、ぼくは思わずドアを閉めていた。ぼくが彼を殺そうと決意した
のはそのときだったのだが、なぜそう決意したのか、自分でもうま
く説明できない。ただ、迷いはなかった。
 いずれにしても、ぼくは警察に出頭するつもりだった。そうする
ことで、この男のように愚劣で醜悪なものを選んだ母さんをも罰し
たいと思っていたのだ。ところが、男があまりにも簡単に死んでし
まったために、ぼくのこの考えは全面的に変更せざるをえなくなっ
ていた。男の死は、あまりにも軽すぎる出来事だった。ハムスター
の死でさえ、ぼくにとって、もっと現実感があったような気がする。
こんなに他愛もなく、まるで枯れ枝がぽきりと折れるように死なれ
たのでは、ぼくの出頭に引きあわない。
 ふいに、痛みを思いだした。両手首にびっしりと爪の跡がついて、
そこから血が滲んでいる。これが男の唯一の抵抗だったのだ。しか
し、この血はぼくの血であって、男のものではない。男は一滴の血
も流すことなくこときれたのだ。

 ぼくは死体の処理をあきらめた。母さんが帰ってくるまでの時間
に、車どころか免許さえ持たないぼくが、大人の人間の死体を誰に
も見つからずにどこかへ運ぶことなど、不可能だと結論したのだ。
かわりに、ぼくは逃げることを選んだ。お金なら、今から銀行へ走
れば母さんの口座からたんまり引き出せるだろう。逃げ切れるか?
そんなことは問題じゃない。遠くへ。ただ、遠くへ行きたかった。
ぎりぎりのところでぼくは気づいた。ぼくはいま、自由だ。