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第1回3000字小説バトル全作品・結果一覧


#題名作者文字数
1街灯の下pavane2988
2壁のある街ヒョン2934
3ノイズはいらない君島恒星2965
4軽い死、重い自由永井真咲2944
5SUMMER DAY水野明2986
6ten-yuzzz-
7セピア色の校庭okoshiyasu2851
8最後の人生逢澤透明2893
9黒い服の男伊藤右京2968
10ハンガーマン 鮭二2999
11扇風機越冬こあら2996
12三毛でアメショなペルシャ猫HCE2994
13双子伝夜啼き鳥-
14行列の出来る店じろう-
15ハヤリとスタレ川島圭2833
16Blue Painヒロト2990

第1回3000字小説バトル
Entry1

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街灯の下

作者 : pavane [パヴァン]
Website : http://www.ne.jp/asahi/my/pavane/
文字数 : 2988
 夕方に降った雨のせいで、空気はねっとりと湿っている。芦屋川
の水量もわずかに増えているのだろう、水の音が虫の音を抑えるよ
うに響いていた。
 川沿いの道端に立つ、錆びれた灰銀色の街灯の下に、一人の少年
がいた。白地のTシャツに半ズボン、頭には阪神タイガースの野球
帽がのっかっている。少年は、さっきから右手の人差し指で街灯の
支柱をコツコツと叩いている。鈍く低い音が不規則な間隔で鳴った。
時折違う音程が鳴ると、少年はその周りを少し強く叩いた。
 少年は街灯の光を見上げる。真上にあるはずの星は、その街灯の
光のせいでよく見えない。光の周りを飛び回る小さい虫の方が、は
っきりと見えた。
 少し肌に風を感じたとき、足音が聞こえた。少年が坂の下の方を
見やるのと、懐中電灯の光が少年の顔を照らすのと、ほとんど同時
だった。
「坊や、こんな時間にどうしたんや?」
 警官が一人、少年の前に立っている。
「家はどこや。連れてったろ」
 少年は脅えた表情で、何も言わずに突っ立っていた。

 探偵事務所というところは、有名なところでもない限り、そう毎
日忙しいということはあり得ない。それにしても今週は暇だった。
だから午前中に事務所に入ったものの、今日も木原は来客用のソフ
ァに座って、ゆっくり時間をかけて新聞を読んだ。出前のお好み焼
きを平らげたころにようやく所長の笠原が出てきたが、そのときに
は三紙とも隅から隅まで目を通してしまっていた。
「おう、木原、仕事やで」
 机につくなり所長に呼ばれて、木原は無言で奥の部屋に入った。
「まあ座り。そこのテーブルに依頼書置いてるやろ」
 木原は入口近くのソファに座って、卓上の封書からA4判の用紙
を抜き取った。
「ほとんど白紙じゃないですか」
 右手に持った依頼書をひらひらと所長に示しながら、木原は言う。
「池田建設の金子社長の依頼や。直接電話で相談された。ま、大丈
夫やろ」
 日頃から、依頼書だけは必ず取ってこい、と口癖のように言って
いる人の言葉とは思えないが、木原は無表情のまま聞き流して、代
わりに質問した。
「確か、金子社長からの依頼は初めてでしょう?」
「そうや。紹介はようしてもらっとるけどな」
 木原は依頼書を封筒にしまってから、所長の方を見やった。嫌な
予感がした。所長は、部下の機嫌をうかがうような愛想笑い。木原
は一つ溜め息をついた。
「で、内容は?」
「ああ。社長の息子さんがな、夜に家を抜け出してな、警察に補導
されたんやと。それがな、別に街中に出て行くわけやのうて、いっ
つも家の近くの路上で保護されるらしいんや。この一週間で三回。
毎回同じとこにおるらしいわ」
 木原はあくまで無表情に、社長を見つめている。
「それで?」
「理由を調べてほしい」
  木原はソファから立ち上がって言った。
「我々がでしゃばらなくても、家庭内で解決できる問題でしょう」
「わしもそう思う」
 所長は苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「そやけど、金子社長はうちのお得意さんや。よう紹介してもろと
るからな。その金子社長からの依頼や。内容は関係なく、調べなあ
かんやろ。そうは思えへんか?」
「私もそう思います」
 所長は満面に笑みを広げた。
「悪いな。せこい仕事ばっかりで。わしはこれから例の失踪人探し
の件で東京に行かなあかんのや。後、頼むで」
「分かりました」
 木原は一礼を残して、部屋を出た。

 午後三時というのに、そのファミリーレストランには結構客が入
っていた。それでも、奥の喫煙席の方は客の姿もまばらで、なんと
か結果報告にも支障はなさそうに見えた。金子社長は角のテーブル
席に座って、コーヒーを飲んでいた。
「お待たせしてすいません。改めてご挨拶申し上げます。笠原探偵
事務所の木原行視と申します」
「金子です」
 野太い声だ。名刺を渡しながら、木原は首をすくめた。
「失礼だが、木原くんは探偵をして何年です?」
「まだ二年目です」
 かちんときたが、なんとか木原は無表情を保った。
「ほう、それにしては優秀だ。まだ依頼してから五日しか経ってい
ないが。笠原くんもいい助手がいて幸せだな」
「ありがとうございます」
 微かだが、表情に出てしまったかもしれない。しかし、折りよく
ウェイトレスがやってきたので、なんとかさとられずにすんだ。
「ご注文は?」
「コーヒーを」
 木原はウェイトレスを遮るように答えた。彼女が立ち去るのを待
って、木原は傍らに置いたアタッシュケースから大判の封筒を取り
出し、金子社長に手渡した。
「書面にいたしましたので、詳しくはお読みいただければ分かると
思います」
 金子社長は抜き出したA4判の書類をじっと見つめている。
「綾子を、探したのか」
「はい、今回の御依頼には必要なことと思われましたので。一応、
最後のページに御連絡先を付けています」
 一度、金子社長は睨みつけるように木原を見やったが、何も言わ
なかった。
 金子社長が読み終えるまで、木原はじっと待っていた。途中、ウ
ェイトレスがコーヒーを運んできたが、金子社長は全く反応を示さ
ず、書面を追い続けた。木原が二口めのコーヒーを飲んでカップを
戻したとき、金子社長はようやく顔を上げた。
「私は、綾子を探そうとしたことは一度もない。それは綾子を軽蔑
しているからだ。綾子は買い物に出たっきり、私も含め、息子も、
家庭も捨てた」
 金子社長は俯き加減で続ける。
「綾子が精神科医にかかっていたとは、知らなかったよ。この、失
踪の折りの状況は綾子から直接聴いたのか?」
「いえ。私は綾子様にはお会いしておりません。全てその精神科医
から聴いた話です」
 金子社長は肯いて、コーヒーを一口含んだ。
「それにしても、あのとき息子が一緒だったとは知らなかった。し
かし、どうして綾子はわざわざ息子を道端に残していったんだろう
な」
「私も同じことを疑問に思って、その精神科の先生に尋ねました」
「答えは?」
「本当に財布を忘れたんでしょうよ。そう言われていました」
 私が微笑むと、金子社長も笑みを漏らした。
「それで、綾子は今も精神科にかかっているのか?」
「いえ。時々相談には見えられるようですが。その精神科医の連絡
先もお教えしましょうか?」
「いや、その必要はない」
 金子社長はそこで立ち上がり、木原に向かって右手を差し出した。
「ありがとう、木原くん。助かったよ」
 木原はその手を握り返して、立ち去る金子社長に頭を下げた。

 雨が降っていた。
 派手な赤い傘をさして、少年は街灯の下に立っていた。俯いて、
足元にできた水溜まりをじっと見つめている。雨の音は全てを圧し
て、少年の周りの空気を乱暴に叩き続けた。だから、坂の下の方か
ら近づいてくる足音にもしばらく気づかなかったし、それが何人の
足音なのかも、なかなか分からなかった。だいいち、青い傘の下の
人影は、最初一人にしか見えなかったのだ。傘の下から人影が飛び
出してきて、少年の方にかけ寄ってきたとき、少年が一瞬脅えたよ
うな表情を見せたのも無理はない。
「しょうちゃん!」
「お母さん…」
 この一年間、少年の頭の奥で響き続けていた声は、このとき、入
れ替わった。
 お母さん、財布忘れちゃった。ちょっと取ってくるから、ここで
待っててね。分かった?  しょうちゃん。
 雨の中で母の匂いを感じながら、少年は街灯を見上げている。父
親は無言で母子の上に青い傘を差しかけ、その街灯の光を遮った。
 雲はまだ厚く、雨音が静かに響いている。

第1回3000字小説バトル
Entry2

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壁のある街

作者 : ヒョン
Website : http://www.cc.utsunomiya-u.ac.jp/~k950141
文字数 : 2934
 どうしてこうなったのかは知らない。また、いつからこうしてい
るのかも、わからない。だが啓一は、今や迷路と化してしまったこ
の街を、二本の足でひたすら歩きつづけているのだった。
 無表情な壁に挟まれた道を歩いた末にたどりついたのは、またも
や三叉路だった。
 啓一の目の前で道が二手に、Yの字になってわかれていた。三つ
目信号と横断歩道、何度となく見てきたものと同様の交差点で、左
に行くのか右に行くのか、これまで飽きるほどくり返してきた選択
を、道は今度もせまろうとしていた。
 壁が視界を隔てているという点では、どちらの道を選ぼうと、結
果は同じようにも思えた。条件が同じなら、啓一としてもとくに選
びようがない。単純に勘だけで進んでゆくという手もあるにはある
が、しかしそういうことができるほど、啓一は自分を信頼している
わけではなかった。
 そうなるとやはり手段は一つしかない。啓一は背後の彼女に言っ
た。
「今度はどっち?」
「うーん、右じゃないかな」
「じゃないかなって。なんだか頼りないね」
「右。右です」
「はい。右ね」
 彼女の言う通り、啓一は右へと進んだ。
「それにしても。いったい、いつになったら抜け出せるんだ、これ
は」
 啓一が言うと、彼女は啓一の真後ろから言った。
「わかんないけど。でも、もう遠くはないと思うな」
「それも勘?」
「勘じゃないってば。能力よ、能力」
「はいはい」
 能力ね、と啓一は思った。
 あちこちに出現した壁。街は、啓一の背丈の三倍もあるこの不規
則な壁によって分断され、迷路となった。コンビニエンス・ストア
で一人立ち読みをしていた啓一は、外に出て初めてその事実に気が
つき、呆然とした。啓一が今背後にいる彼女に出会ったのはその時
であり、それ以来二人は離れず行動を共にしてきた。
「だけど、その能力っていうのは何なの? 超能力のこと?」
「超能力って言われればそうだけど、うーん、でもやっぱりちょっ
と違うかな」
「どう違うのさ」
「そう言われるとまた困ってしまうんだけど。選ぶのが得意なだけ
なのよね、要するに。超能力っていうのはさあ、てれぽーてーしょ
ん、とか、えっと、さいこきねしす、とか、なんかそういう感じじ
ゃない?」
「まあそうだね」
「でも私のはそうじゃないのよ。そういうのよりもっと地味なの。
たとえば、そうだなあ、学校でテストがあったとするじゃない」
「はい」
「私の能力っていうのはあ、そのテストのうちの、選択問題だけに
使えるものなの。書く問題はぜんぜんだめ。わかんない。でも、選
ぶ問題だったら全然だいじょうぶなのよね。何も勉強してなくても、
どうしてか私には正解がわかるの」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
「ふうん、て」
「超能力から超が抜けただけあって、なんか地味だね」
「だから、そう言ってるじゃない」
「あ、そうだっけ」
 啓一はとぼけた。
 啓一が彼女と一緒になって歩いているのは、つまりこのためだっ
た。どこをどう行けばわかるから、私と一緒にいると得よ、と彼女
は啓一にそう言ったのだった。
「ほら、仕事だよ」
 と啓一は言った。二人の前に、角度こそ違うが、先ほどとまった
く同じような風景の三叉路が現れていた。
「今度はどっち?」
「今度は左だね」
「あいよ」
 二人は左に進んだ。
 彼女の指示を無視したことはないが、しかし、啓一は彼女の言う
「能力」を全面的に信じているわけでもなかった。ひょっとすると
ただの嘘つきなのかもしれない、と時には疑いたくなった。しかし、
三叉路は分かれる方向が一定ではないし、一本道にしてもまったく
の直線というわけではなかったから、啓一としては一人で無事ここ
から脱出できるとも思えない。結局指示に従うしかないだろうな、
と彼女の前を歩きながら啓一はそう思っていた。
「でもさあ」
「なに?」
「どうして俺は、君の顔を見ちゃいけないわけ?」
「それは前にも言ったでしょ」
「言ったけど、でもなんか納得できないんだよね」
「そうかなあ」
「うん」
「しょうがないなあ」
 なぜ自分が啓一に姿を見せないか、彼女はその理由をもう一度話
しはじめた。
 振り向いて自分の方を見ないこと。協力する代償として、それが
彼女が啓一に与えた唯一の条件だった。だからしばらく一緒に歩い
てきて、啓一は彼女がどんな顔をしていて、背はどれくらいなのか、
そのようなことをまったく知らないのであった。啓一が知っている
のは彼女の声だけだ。
「だからあ、私はね、能力、いや超能力? まあどっちでもいいん
だけど、そういうものをもっているってことを、人に知られるのが
いやなの。べつに全員が全員ていうわけでもないでしょうけど、で
も中には悪い人がいて、私を変なふうに利用しようとするかもしれ
ないじゃない」
「うん」
「だからそれをこうやって使っている時には、誰にも私の顔は見て
ほしくないの」
「君のことを知ったからって、俺は君を売りとばしたりなんかしな
いよ」
「私もそう思う」
「じゃあいいんじゃない?」
「でも、私はそんなに簡単に、人を信用する気分にはなれないな」
 その時彼女がどういう顔をしていたのか、それは啓一にはわから
なかったが、しかしそれでも楽しい顔はしていないにちがいなかっ
た。何も言わず、二人は歩いた。やがて新しい三叉路に出た。
「さて、どっちでしょう」
「そうねえ。今度も左かな」
「かな、って」
「左。左です」
 二人は左に進んだ。壁と三叉路の単調な風景に、彼らはしだいに
疲れていた。
「あのさあ」
 と啓一は歩きながら呼びかけた。
「なに?」
 と背後から彼女の声がした。
「君、名前はなんていうの?」
「それを言ったら意味ないでしょう」
「残念。じゃあ年は?」
「三十以下」
「職業は?」
「主婦以外」
「美人? それともそうじゃない方?」
「さて、どっちでしょう」
「性別は?」
「女!」
 彼女は笑った。それじゃ何もわかんないよ、と言い、啓一も笑っ
た。
「あ」と笑うのをやめ、二人は同時に言った。「駅だ」
 壁に挟まれ、まっすぐのびた道の向こう側に、ステーション・ビ
ルが構えていた。鉄道駅をみつけるということはすなわち、街の迷
路から二人が出られるということを意味していた。少なくとも、そ
の可能性はある。
「じゃあ、君の言っていた能力というのは、本当だったのか」
「当たり前でしょ。嘘だと思ってたの?」
「じつは」
「あのねえ。それはないんじゃない?」
「冗談、冗談」
 二人は歩きつづけた。
 駅前広場には一本の樹を囲むようにしてつくられたベンチがあり、
二人はようやく腰をおろし体を休めることができた。今までは、と
てもそうしたいとは思わなかった。啓一が片側にすわり、そのちょ
うど反対側に彼女がすわった。
「やっと終わったよ」
「そうですねえ」
「あのさあ」
 と体を樹に寄りかけ、啓一は言った。
「なんでしょう」
「今度一緒に、映画鑑賞など、どうなんでしょうか」
「いいけど。あなた、まだ私の顔も見てないじゃない」
「いいよ。べつに、そんなの」
「なんで」
「これからはあなたを信用しますよ」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
「ばかなんですね」
「ばかなんですよ」
「じゃあ、今度の日曜日にでも行きましょうか」
「いいですよ」
 二人は立ち上がった。遠くの方からやってくる電車の音が、彼ら
の耳にかすかにきこえた。

第1回3000字小説バトル
Entry3

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ノイズはいらない

作者 : 君島恒星 [キミジマコウセイ]
Website : http://www.hello.co.jp/~kimi3
文字数 : 2965
 僕は音楽マニアでも、サウンドマニアでもない。ただ、オルフ作
曲の「カルミナ・ブラーナ」をいい状態で聞きたいだけなのだ。ダ
イナミックレンジの大きな曲なので、忠実な再生は困難を要する。
ダイナミックレンジとは、最大音と最小音のレベル差をいう。クラ
シック音楽ほど、ダイナミックレンジは大きいといわれているのだ。
 この「カルミナ・ブラーナ」を好んで聴いていたのは、同級生の
紀子だった。僕は中学の入学式で初めて見た、紀子の姿に一目惚れ
をしていた。気の弱い僕は交際を断られるのを恐れて、遠くから見
ているだけ。人知れず高まっている僕の気持ちを知ることなく、紀
子は二年になると僕の前から消えていった。
 引っ越してしまったのだ。
 引っ越しの前に、紀子の自宅近くを歩いていた時に聞こえてきた
のが「カルミナ・ブラーナ」だった。力強く、やさしいその曲調は、
僕を紀子の家の前まで引き寄せた。紀子はステレオの前に置いてあ
るソファーに身体をゆだねて、目を閉じながら聞いていた。僕は、
少し開いていた窓から覗きに没頭してしまった。曲に合わせて、ち
ょっとした指の悪戯と恍惚の表情をする紀子に…
 その姿が、網膜に焼き付いた。
 当時は曲名がわからなかったので、必死になって調べまくった。
数えきれないほど試聴したCDとレコードの残骸と共に、ようやく
曲名を探し当てることができた。本人に聞くことはできなかった。
紀子の姿を覗き見したことは、罪なことだと思っていたからだ。
 紀子は半年後、引っ越し先で交通事故により亡くなった。僕は三
日三晩涙を流しながら、曲を聴き続けた。その時から「カルミナ・
ブラーナ」を聞くことによって、僕の脳裏に紀子が蘇ってくるよう
になった。紀子は淋しそうにしているが、僕に気が付くと、はちき
れそうな笑顔で、やさしく抱き締め、解放感へと導いてくれた。そ
れから「カルミナ・ブラーナ」を聴いているときだけが、紀子と逢
えるときになった。
 社会人になっても、紀子の想いは絶えることがなかった。CDや
レコードで、世に出ている「カルミナ・ブラーナ」のほとんどを聞
き終わった頃、サンプリング周波数48KHzのDATによる、ス
タジオ録音テープが手に入った。大学の友達が録音スタジオに就職
して、内緒でデジタルコピーしてくれたのだ。もちろん、個人での
楽しみ以外には使わない。DATはサンプリング周波数がCDより
も高いので、よりよい音で再生することができる。
 この頃から、ノイズのない状態で曲を聞くと紀子がよりよく鮮明
に現れるようになった。反対にノイズがあると現れなくなったのだ。
 ノイズが嫌いになっていた。
 思い切ってマンションのリスニングルームを防音室に改良するこ
とにした。
 部屋の回りにクッション材を詰め、その中にスタジオ仕様の部屋
を作った。部屋の中でリスニングルームがクッションによって浮い
ている状態だ。これによって部屋の中の音は外には漏れない。外の
音も聞こえないだろう。 聞きたいのは スタジオ録音の「カルミナ
・ブラーナ」だから、そのスタジオに近い部屋を作れば忠実に再生
してくれる。それによって紀子も、より美しく僕の目にうつること
だろう。
 楽しくなってきた。
 僕は没頭し、貯金を注ぎ込んだ。
 部屋に新たに購入した再生機器を運び込んだ。DATはスタジオ
仕様のスチューダー製で、アンプはマッキントッシュの特別仕様、
周波数特性はほとんどフラットというすぐれものだ。スピーカーは
アルティックの劇場システムに近い、マンタレイホーンシステムを
購入した。周辺機器は使わない方が、音の劣化がないのでいいのだ
が、パラメトリックイコライザーをDATとアンプの間にセットし
た。再生不良の周波数をカバーするためにだ。
 まずはピンクノイズという低周波から高周波まで含まれている音
を流し、アナライザーという周波数測定器にかけてみた。スピーカ
ーの再生音が耳を刺激する。測定器の画面に再生周波数の波形が確
認できた。案の定500Hz近辺が2dbほど低くなっている。こ
のあたりはスピーカーの特性だ。2ウエイだとユニットのクロスオ
ーバー周波数あたりが、高くなっていたり、低くなっている。そこ
をイコライザーで調整して、特性をフラットにするのだ。
 柔らかく身体全体を包み込んでくれる、リスニングチェアーも特
注品にした。これで何時間でも聞いていられるだろう。あのときの
紀子みたいに…
 いよいよ再生してみる。
 スタートしたところで、不快感が襲った。
 紀子の面影が脳裏の中でうまく再生できない。紀子は中学生のま
まではなかった。僕と同様に紀子の面影も成長しているのだ。だか
ら紀子と逢うには大変な集中力が必要だった。
 紀子が現れないのは、ノイズのせいだった。
 DATの走行音が気になったのだ。暖まったアンプの膨張音も耐
えがたい。
 僕は防音室の中に、ノイズのでる器材を入れる小さな防音室を作
ることにした。外に出そうとも思ったが、器材のイルミネーション
がここちいい刺激になっているので、見えるところに置いておきた
かった。
 業者に発注すると、三日で出来上がってきた。
 改めて再生してみる。でも、曲が始まってすぐに止めた。
 響きが違うのだ。
 多すぎる。
 部屋の中は吸音素材を使っているのだが、足りないようだ。
 僕は決心をした。
 この部屋を無響室にしてしまうのだ。音の反射のない壁にする。
そうすれば、収録されている音が忠実に再生される。
 今度は一週間の工事となった。
 かなりの投資だと心に刻みながら、再び再生の時を迎えた。
 無音の状態からダイナミックな大音量が響きわたった。メーター
のイルミネーションもここちよい。紀子が中学生の姿から成長して、
僕に微笑みかけたところで、両耳をふさぎながら消えた。
 ノイズが耳にさわったのだ。
 何の音だろうか? 全ての音は遮断したはずではないか? 再生
をストップして耳をこらす。
 その音の正体がわかった。
 これだけの投資をしておいて、このまま妥協するのは許せなかっ
た。迷いはしなかった。紀子と逢うためにはこうするしかないのだ。
 僕はナイフを持ち込み、リスニングチェアーに座った。そして自
分の心臓にゆっくりと差し込んだ。気になる音は、自分の呼吸音で
あり、血液の流れる心臓の収縮音だったのだ。
 血液が勢い良く飛び散った。スピーカーにだけはかからないよう
に注意した。しだいにその量が弱々しくなってきた。
 まだ聞こえる。
 あと少し・・・
 一生に一度しかない瞬間、その瞬間を見逃さないように、最後の
力をリモコンの指先にこめようとした。でも指が思うように動かせ
ない。
 だめか! その時、紀子が現れた。子供をあやすような目で見つ
めながら、僕の指に紀子の指をそえてくれた。僕の指は紀子の指と
重なった。
 無音の中「カルミナ・ブラーナ」が聞こえ始めた。
 と、その時気がついた。一切のノイズを削除したにもかかわらず、
曲の中にノイズが入っていたのだ。でも、何もできなくなった今で
は、割り切るしかないだろう。曲内のノイズは演奏の一部なのだと
…
 前向きな考え方をしたとたん、記憶と想像の紀子の姿が終わりの
ない映像となって、めまぐるしく僕のかすかな意識を刺激した。
 心地よかった。
 曲は何度もリピートするだろう。
 他の誰にも聞こえない大音量で…

第1回3000字小説バトル
Entry4

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軽い死、重い自由

作者 : 永井真咲 [ナガイマサキ]
Website : http://www.ceres.dti.ne.jp/~mah/index.htm
文字数 : 2944
 こうも簡単にいくとは。
 ぼくは安堵した反面、いささか落胆していた。もっと烈しい抵抗
があるものだとおもっていたのだ。こんなにすんなり事がはこんで
しまったのでは、自らすすみでて罰を受ける気にもならない。あま
りにも軽すぎるじゃないか。この軽さは、このあっけなさは、なん
なんだ。ぼくは唇を噛んだ。それからその荒れた唇をやや開いてつ
ぶやいた。ぼくは裏切られた。
 目の前には、父の死体があった。父といっても血のつながったほ
んとうの父親ではない。法律によるところの義父というのでもない。
勝手に自分をぼくの父だと主張する、母さんが連れてきたよその男
だ。
男はぼくに、自分のことを父と呼べと強要した。だから、ぼくはし
かたなく彼のことを、とうさん、と呼んでいたのだ。でも、それは
昨日までのことだ。いま僕の前に横たわる男は、もはやただの物体
であって、すくなくともぼくの父親ではない。もともと違うのだか
ら、あえて父親ではないと否定する必要はないのだけれども、ぼく
はいま具体的な行為によって、それを証明したのだ。
 男の腕を軽く持ちあげてみた。肩の筋肉が柔軟さを失っている。
これが死後硬直というやつだろうか。首のあたりに跡が残っている。
そこを締めあげたのだ。唇の端からは涎がすこし垂れていたけれど
も、いまはもう乾いて、粉をふいたようになっている。ぼくは男の
体にかけられた布団をはぐった。寝返りをうたせるように体を転が
して、ランニングシャツの裾をまくりあげた。あらわになった背中
に赤い斑点がいくつも浮き出ている。これも本で読んだとおりだ。
死斑とはよくいったものだ、とぼくは妙に感心した。それから男を
元通りに寝かせ、ぼくは立ち上がって寝室の窓にかかったカーテン
を開いた。
 やや明度の低い西日が目に刺さって、ぼくは軽くおどろいた。そ
れから振り返って、壁に掛けられた時計をみた。すばやく計算した。
なんと八時間半も、ぼくは彼の死体の前に座っていたのだった。そ
のあいだ、ぼくはいったい何をしていたのだろうか。ほんのすこし
ばかりの時間、彼の死を観察していただけのつもりだったのに。放
心していた? いや、そんなはずはなかった。なぜなら、ぼくはこ
の男を殺すことをかれこれ二か月も考えつづけ、なんどもなんども
その時のことを頭の中でシミュレートしていたからだ。発作的にと
った行動ではなかったのだ。しかも本番においては何のハプニング
もなく、想定していたケースのなかのどれよりもスムースに行われ
たのだから、このぼくが動揺して放心状態におちいることなどあり
えなかった。
 ではいったい、ぼくはこの八時間半のあいだ、なにを考えて、な
にを見ていたのか。無理に記憶を引っぱりだそうとしてみたが、や
はり何もでてこなかった。いずれにしても、もはやどうでもいいこ
とだ。そう考えてふと、時間というのは相対的なものだ、と何かの
本に書いてあったのを思い出した。しかし、それもどうでもいいこ
とだ。それよりも、これからどうするか、考えなくてはならない。

 ぼくは寝室を出て、居間に置いてあるソファに座りこんだ。顎に
手を当てて、死体の処理方法について考えをめぐらせはじめた。な
にせ、ぼくは男を殺したあと、警察に出頭するつもりでいたのだ。
男を殺すことにはなんのためらいもなかったけれども、人を一人殺
すことは事実なのだから、その罪は償うべきだと考えていた。いや、
ほんとうはそれだけじゃない。ほんとうは、ぼくが男を殺したこと
を公にすることによって、母さんにも罪を償わせたかったのだ。母
さんは、ぼくが嫌がるのを無視して、男がこの家に住むことを許し
た。新しいお父さんなんて、最初はおかしな感じかもしれないけど、
そのうち慣れるわよ、と母さんはぼくにいったのだ。母さんはわか
っていなかった。ぼくが嫌だといったのは、新しい父親ができるこ
とではなくて、その男がぼくの新しい父親になることだったのだ。
ぼくは男をはじめて見たときに、いやな予感をもった。そしてその
予感は見事に的中したのだった。
 男は母さんを殴り、ぼくを蹴飛ばした。ウィスキーの瓶で、ぼく
が可愛がっていたハムスターを叩き潰した。ぼくはどちらかという
と忍耐強い性格なので、それだけならまだなんとか耐えることがで
きた。が、男はそんなぼくの寛容さをあっさりと踏みにじった。そ
の日のことは、今もはっきりと覚えている。
 母さんは夕方から仕事に出かける。それから夜の遅くになるまで、
ぼくは男と二人だけで過ごさなくてはならなかった。母さんがいな
いときに男がぼくに危害を加えることはなかったし、普段の彼は酒
を飲んでごろごろしているだけだったので、そのことは特に苦痛で
はなかったが、それでも憂鬱な時間ではあった。ところがその日は
どういうわけか、母さんが出かけてしばらくしたあと、男はぼくに
なにもいわず外出したのだった。
 一時間ほどして帰ってきたとき、男はぼくのしらない女の人を連
れていた。ぼくは男を睨んだ。母さんがいるときはひどく凶暴にふ
るまう男だが、ぼくと二人だけだとどこか気弱そうにみえる。この
ときも、いいわけめいた目でぼくを見かえした。しかしけっきょく
居直ったのか、曖昧に目をそらして女を寝室へつれこんだ。しばら
くして、すすり泣くような女の声が、自分の部屋にいたぼくの耳に
聞こえ始めた。ぼくはまだ子供だったので、そのときになってはじ
めて事をすこしだけ理解したのだった。ぼくはすくなからず動揺し
ていたが、男になにか抗議すべきだと思い立って寝室へむかった。
 寝室のドアは開かれたままだった。そのせいで、声がぼくの耳に
まで届いたのだ。そこでぼくは、男と女がつながっている様子を生
まれてはじめて目のあたりにした。その様子のあまりのおぞましさ
に、ぼくは思わずドアを閉めていた。ぼくが彼を殺そうと決意した
のはそのときだったのだが、なぜそう決意したのか、自分でもうま
く説明できない。ただ、迷いはなかった。
 いずれにしても、ぼくは警察に出頭するつもりだった。そうする
ことで、この男のように愚劣で醜悪なものを選んだ母さんをも罰し
たいと思っていたのだ。ところが、男があまりにも簡単に死んでし
まったために、ぼくのこの考えは全面的に変更せざるをえなくなっ
ていた。男の死は、あまりにも軽すぎる出来事だった。ハムスター
の死でさえ、ぼくにとって、もっと現実感があったような気がする。
こんなに他愛もなく、まるで枯れ枝がぽきりと折れるように死なれ
たのでは、ぼくの出頭に引きあわない。
 ふいに、痛みを思いだした。両手首にびっしりと爪の跡がついて、
そこから血が滲んでいる。これが男の唯一の抵抗だったのだ。しか
し、この血はぼくの血であって、男のものではない。男は一滴の血
も流すことなくこときれたのだ。

 ぼくは死体の処理をあきらめた。母さんが帰ってくるまでの時間
に、車どころか免許さえ持たないぼくが、大人の人間の死体を誰に
も見つからずにどこかへ運ぶことなど、不可能だと結論したのだ。
かわりに、ぼくは逃げることを選んだ。お金なら、今から銀行へ走
れば母さんの口座からたんまり引き出せるだろう。逃げ切れるか?
そんなことは問題じゃない。遠くへ。ただ、遠くへ行きたかった。
ぎりぎりのところでぼくは気づいた。ぼくはいま、自由だ。

第1回3000字小説バトル
Entry5

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SUMMER DAY

作者 : 水野明 [ミズノアキラ]
Website :
文字数 : 2986
今年の春頃から同じ夢ばかり見るようになっていた。
夢はいつも水の音、そして風のざわめきで始まる・・・・・・・ 。
僕は光を求めてひたすら天空をめざす。 
天から降り注ぐ光はとても心地よく、身体のすみずみに広がり、
さらに多くの光をえようと僕は両手を広げる。 
何処までも大きく大きく・・・・・・・・・・
隣りにはいつも、愛する彼女がいて僕達は無言で、手と手を合わせ
るだけで愛に満たされている。 
夢の最後はいつでも同じ神社が、そしてイチョウの木があった。 
そして『待っているんだから早く来て・・』
という彼女の声で目が覚めるのだ。 
ところが夏休みにブラッとでた旅で見つけてしまったのだ、
その神社を。 
僕はデジャヴかとも思ったが興味にかられて境内へとおもむいた。 
「ここだ・・・・・、ここに彼女が。」 
そこは夢の中で彼女といつも出逢うイチョウの前だった。 
(ちぇっ・・・・・・、どうにかしているな・・・・。ここに来てもどうなる
もんでもあるまいに・・・・。何を期待しているんだ・・・・。) 
僕は自分にそう言い聞かせた・・・。 
「はぁ〜・・・・・」 
僕はため息をついて神木に手を触れた。 
「ピク・・・・」 
「・・・・・・・・え?」 
イチョウの木に触れたとたん・・・何か動いたような気がした・・・・ 
(う、うわっ・・・・。何だ何だ!何がどうなっているんだ!) 
一瞬の動揺、そして木が動いたかと思ったら何か中たりに変な感覚
がした。まるで次元が違うかのような。 
『ワタシヨ。ワタシ。ワタシガヨンダノヨ。』 
(えっ、イチョウが話してた!?) 
僕はその場に座り込んだ。 
『あなたと私は夫婦のイチョウの木。ずっとずっと、何百年も一緒
だったのよ。でもあなたは30年前、 道路を作るからといって 人間
に切られたの。あなたは彼の生まれ変わりなの。』 
「30年!・・・・・そんなことあるはず・・・・それになんで、
若い姿のまんまなの?・・・・」 
『あ〜っ、ひっどぉ〜い、でも、仕方ないわね、気が動転してるみ
たいだし、私の寿命なんて人間の比じゃないわよ』 
(僕の前世がイチョウの木だって!?
・・・・・じゃ、あの夢は僕の前世の記憶なのか・・・・
い、いや、しかしそんな事って・・・・
第一、イチョウの木が喋るわけないもんな・・。) 
僕はイチョウの木にもたれる形で座り込んで思った。


「クスクス」 
「えっ?」 
「どうして人間ってそうなのかしら・・・・・」 
その声は僕の真後ろから聞こえた。 
僕は驚いて振り向くとそこには、少女がたっていた。 
「自分たちで神々や、精霊を祭っといて。そのくせそう言うものを
非科学的だなんて、必死で否定したがる。」 
少女が語り始めると少し強い風が吹いた。 
少女の髪が風になびいて美しく僕には思えた 
「でも・・・・メ、逢えてうれしいわ。30年ぶりですもの」 
そう言うと彼女は僕の両手を握った。 
「きっ・・・君は・・・・・」 
「分かっているくせに、私が誰だか。」 
そう・・・・、彼女はまぎれもなく僕の夢の中の少女だった・・・・・・・
この数ヶ月間ひたすらに恋い焦がれていた女性が、今、
僕の目の前にいるんだ。 
「ほらほらっ。結構あなた好みの人間になっているでしょ。
研究したから・・・・・・」 
「え・・・と・・・・その・・・あの・・・・・・・・」 
「いいのよ無理に言葉を探さなくても。」 
彼女はそう言うと僕の眼前に顔を近づけてきた。 
彼女がそばにいるとなんだか不思議な空気になっているのを僕は感
じる。 
「あの・・・・・・・君がイチョウの精でも構わない・・・・・・
その・・・・もしよければ、恋人として・・・」 
「何言ってんの、今更。私達、もともと夫婦だったのよ。
現にそのために、こうして人間になったんだし。」 
僕はイチョウの木にもたれかかった。 
そして、彼女は言葉を続けた。 
「だからいいのよ。あなたの望むようにして、私は昔も今もあなた
のパートナーなんですから。」 
彼女は座り込んでいる僕に微笑みながら言った。 
「ほっ・・・・本当にっ。僕の恋人になってくれるんだねっ。
うれしい〜〜っ。また夢だったりしないよねっ。」 
僕は立ち上がり彼女を抱きしめた。 
今、目の前にいる恋人は夢で逢う限り僕の理想の女性だ。 
そして、彼女の唇の上に僕の唇を重ねた。 
「ん・・・・・・・」 
驚いた様子もなく、彼女は拒みはしなかった。 
彼女の声、夢で出逢っていたままの君がそこにいた。 
彼女の全てが愛しくてたまらない。 
「クスクスッ。」 
僕が唇を離すと彼女は少し笑い出した。
何に対しての笑いなのか僕には分からなかった。 
もしかしたら、イチョウの木の精に『キス』という
知識がなかったのかも知れない。 ハ
昔、何かの本で読んだことがある。 
この世には必ず強い、縁で結ばれた異性がいて。
その人と出逢うために輪廻を繰り返す、と言うのを・・・・ 
僕達はお互いに住む世界は別々だけど、それでも僕達は出会い、
愛しあえるんだ。 
あの本に書いてあることが真実ならば、
僕と彼女は約束された二人なんだ。




僕達は再会を約束した。 
そして、彼女は約束すると吸い込まれるかのように
木の中へと消えていった。 
(そうか、本当に彼女、木の精だったんだ・・・・・・・・) 
僕は彼女が消えると神社の階段を下りながら思った。
僕は有頂天になっていた、理想の女性が僕の恋人になったことに。 
(まっいいや、そんな事どっちでも。彼女は彼女だ、例え木の精で
も。今度はちゃんとデートして、できれば家に呼びたいな。 
ディズニーランドなんか見せたら喜ぶだろうな・・きっと・・・) 
幸せいっぱいで宿に帰った僕は、その夜、再び彼女の夢を見た。 
彼女は寂しげに今日出逢ったイチョウの木の根本に立っていた。 
「どうしたのさ。何か悲しそうな顔しちゃって・・・・・・・・」 
僕は彼女のもとまで歩み寄った。 
「うん」 
その返事は何処かさみしげで悲しみがこもっていた。 
「ごめんね・・・・・・・・。私・・・・・、あなたに嘘ついたわ。」 
彼女の瞳にはあふれんばかりの涙がたまっていた。 
「今日、別れ際にまた会う約束をしたけど・・・・だめなの・・・・」 
「えっ・・・なんで、せっかく・・・・」 
僕は言葉を途中でとぎらせた。 
彼女は顔を伏せたまま手で涙を拭っていた。 
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 
一瞬の沈黙が流れ彼女が口を開いた。 
「本当はあなたをここへ呼んだのは、お別れを言うためだったの・・・
・・。どうしてもあなたに会いたくて、一度だけという約束で神社の 
神様にお願いしたの・・・・・。
でも、あなたの顔を見たらとてもさようならなんて言えなくて・・・。
私ね・・・・・・もうすぐ切られちゃうのよ。」 
「そ・・・・、そんなっ・・・・・・お別れなんて。
約束したじゃないか、今度僕が、街を案内するって・・・・。」 
「ごめんね・・・・・・・・。約束守れなくて・・・・・・。」 
彼女の涙は止まらず、僕は悲しみと切なさら心を覆われていた・・・。 
いや、彼女も同じ気持ちだろう・・・・・。 
「私、長い間、神木として鎮守<ちんじゅう>の神様に使えてきた
から・・・、次は神様になるの。だから、もう地上にはいられないの。 
だから、何時の日かあなたが神様になるまで、しばらくの間お別れ
だわ。」 
彼女は僕に身を任せて胸の中で呟いた。 
「ありがとう。私のこと、怖がらずに愛してくれて。凄く、うれし
かった」 
彼女は顔を上げ涙を流しながら微笑んだ。 
いったい僕は、夢で何度も逢いながら彼女に何をしてあげられたの
か・・・・ 
「じゃ、さようなら。私、いつもあなたを見守っているから・・・。
幸せになってね。」 
「まっ・・・・・・・待ってっ!お願いだから行かないでっ!!!」 
彼女はそう言うと、霧のように消えていった。 
僕はただ、そう叫ぶことしかできずにいた。 
そして、僕は自分の叫び声で目を覚ました。
その夢を最後に、彼女に会うことはなく・・・・・。 
僕の心にぽっかりと埋めることのできない、口を広げたまま。 
やがて秋になり、彼女のいった通り森は切り払われてしまった。
はたしてコンクリートの巨大な箱にも精霊は、宿るのだろうか・・・。 
もしかすると僕だけでなく、人類全てがとてつもなく大切なものを
失い続けているのかもしれない・・・・・・・・・・・・。

第1回3000字小説バトル
Entry6

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ten-yu

作者 : zzz
Website :
文字数 :
 私は北にある小さな田舎町で神父をしている。人口数千人にしか
満たないこの町は、日本古来の風習が現在だ根強く残っているにも
関わらず、西洋から来た髪の長い異人の像を拝み、十字架を冠した
やたらと高い屋根を持つこの建物に、毎週日曜日多くの人々が通っ
て来てくれている。それはひとえに、私の命の恩人である前神父の
人徳に拠る所であると私は確信している。
 もう十五年近く前になる。私は当時多額の借金があり、それを返
済する為に短絡的な行動に走ってしまった。強盗である。私は郵便
局に押し入り金を奪ったが、現場を去ろうと走りだした時に飛びか
かって来た男の客ともみ合いになり、私は手に持っていた包丁で彼
を刺してしまった。私は動転してすぐその場を去った。
 私は必死に車で逃走した。メディアの多くが私の起こした事件を
流していたが、幸い私が覆面をしていた為、身体的特徴は身長、服
装だけに留まった。
 それでも私は恐怖に駆られて逃走した。この恐怖は一生続くのか
と思い気が狂わんばかりであったが、自首する勇気も無かった。
 何日か走り続け、体力の限界はとうに越えていた。この恐怖を一
人で抱えるにはもう気力も尽きていた。その時、前方に白い建物が
見えた。建物の背負った十字架に私の視線は釘付けになった。私は
車を脇に止め、その建物の中に駆け込んだ。
 中には黒い衣装を身に纏った初老の紳士が立っていた。私を見て
優しく問い掛けた。
「どうかなさいましたか?」
 私はあの瞬間の彼の慈愛に満ちた笑顔を一生忘れられない。
 それ以来、私は彼に付いてここでいっしょに暮らす様になった。
彼は私が何処から来て、何故ここに来たのか、そして何故あの時私
が泣いていたのか一切問わなかった。私は心が痛んだ。
 しかし、五年前その命の恩人がこの世を去った。彼を慕っていた
町の多くの住人が嘆き悲しんだ。そして何故か、その日以来、私が
彼の後を継いでそれらの人々の悲しみ、迷いにうなずき、彼らに安
らぎと勇気を与える役目負っている。私自身の告白を誰にも聞いて
もらえないまま・・今日までずっと・・。

 私は暫く主の像を眺めていたが、ステンドグラスから射し込む黄
昏の陽光に気付いて席を立ち上がった。そのまま祭壇の側を通り過
ぎようとした時、左の視野に人影が入った。初老の男の人であった。
私は彼に近づいて尋ねた。
「どうかなさいましたか?」
彼はうなずいてから言った。
「実は、私には長年来の夢がありまして、どうしてもそれを叶えた
くてここでお願いをしていたのです。しかし、期限がもうすぐそこ
まで迫って来ていて、私としては何とかしてそれを実現したいので
すが・・」
男は言い終わらぬまま私の言葉を待った。
「それは、どんな夢なのですか?」
「はい、実は私、ここ十五年程ある人物を追掛けているんです。し
かし、こいつがしぶとい奴でして、郵便局を襲った奴なんですけど
ね。手掛かりが少ない上に行方もくらましちゃって。躍起になって
探しているんですけど、到頭今日が時効になってしまったという訳
でして・・」
彼は私が犯人だと知ってて喋っているのか?私は呼吸が出来ない程
身を固くした。その男に戦慄を覚えた。
「どうかなさいましたか?」
男はさも心配そうに尋ねてきた。
(この男は知っている)
私は感じた。その表情の奥に潜む余裕を見逃さなかった。
「わ、私・・」
声が上擦った。男は黙ったまま私を見つめていた。
 その時であった。男がいきなり胸を押さえ、前屈みになって苦し
み始めた。私はひざまづき、彼の肩に手を回した。
「大丈夫ですか?」
男は苦しみで返事を出来ないでいた。私は尋常で無い様子に直様電
話器のある自分の部屋に走って行き、救急車を呼んだ。約十分後、
救急車が到着し、その男と共に私は隣町の救急病院へ向かった。

 外はすっかり闇に包まれていた。男が集中治療室に運ばれてから
もう八時間が経過しようとしていた。その間に家族が到着し、私と
共に廊下の椅子に掛けて待っていた。その男、いや、その刑事は心
臓発作の持病持ちらしく、常時強心剤を携帯していたらしい。ただ、
仕事の忙しさにかまけてたまに忘れる事もあり、彼の奥さんは困惑
した表情で担当医と話をしていた。
(彼はこのまま死ぬのか)
そんな思いが頭をかすめた。私は少なくとも彼が助かる事を祈って
いるつもりでいた。しかし、それをどうやって自分自身に証明出来
よう。有ってはならない事ではあるが、否定するだけのはっきりと
した自信が無かった。だが、迷う時、いつもあの人が心の中に現わ
れては微笑んでくれた。
(きっと助かるに違いない。助かって欲しい)
理性から沸き起こった言葉ではない。恩人の優しい笑顔が私の心を
安心させ、その安心感が全ての柵を消してしまうのであった。
 集中治療室のドアが開いた。
「意識を回復されました。どうぞ中へ入って下さい」
看護婦が笑顔で家族に伝えた。彼らは部屋に駆け込んだ。
「どうぞ」
看護婦は私にも笑顔で声を掛けた。私はほんの少し躊躇しながらも
部屋に入った。
 その刑事は多少意識が朦朧としていたが、温かい家族に囲まれ笑
顔を見せていた。私は家族の後ろでその様子を暫く見守っていた。
奥さんの肩越しに彼と目が合った時であった。彼は思い出した様に
言った。
「すまんが、その人と二人っきりにさせてくれ」
振り向いた家族の視線を浴びた。奥さんは申し訳無さそうに御辞儀
をすると、向き直って夫に無理をしない様促し、子供達を連れて部
屋を出て行った。
 二人の間にしばしの沈黙が流れた。私が言った。
「私は・・あなたの」
「罰が、当たった様です」
彼がいきなり遮った。
「私はあなたのお察しの通り、刑事です。そして、この十五年もの
間あなたを追い掛けて来ました。手掛かりが殆ど無かったものです
から、かなり苦労しました。でも時効寸前でね、漸くあなたをあの
町で見つけたんです。十五年程前に、いきなりこの町にやって来た
神父さんがいるって聞いてね。当時のあなたの様子とか、あの町ま
で乗り付けた車とか色々調べました。それで私は確信したんです。
あなたが犯人だって。ただ、不思議だったんですよね。なぜ神父か
って事が。あなた、頗る評判がいいでしょ、誰に聞いても。私は思
ったんです。ばれない為に偽ってるんじゃないかって。それであな
たを試したんです。知らぬ振りをするかどうか。でも私の邪推でし
た。あなたは本物でした」
彼はゆっくりと、そして静かに語った。私は泣いていた。
「いいえ、私はあなたのおっしゃる通り偽者です。私は、私の罪を
早く償いたかった。にも関わらず私はその勇気が無かった。元々神
父の資格なんか無いんです。」
私は号泣した。心のタガが外れたとも言うべきだろうか。本当の自
分、もしくは、いつも閉じ込められていたもう一人の自分、そうい
う感じがした。
「あなたは充分罪を償った。そういう気がしますよ」
私はむせながら言った。
「でも、罪は罪です。償う覚悟は出来ています」
彼はそれを聞いて深呼吸をすると、一旦視線を布団に落とした。そ
して顔を上げて私に言った。
「残念ながら、したくてもできないんですよ。ほら、あなたの自供、
今日聞いちゃったから」
彼は、彼の正面にある壁掛け時計を顎で指した。0時を十分程過ぎ
ていた。
「神様は、きちんと見ていて下さるんですねぇ」
私はその言葉を聞いて涙がどっと溢れた。私はこの機会を与えてく
れた恩人と神に心の底から感謝した。
 ベッドで寝ている彼は、私を見守る様に微笑んでいた。

第1回3000字小説バトル
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セピア色の校庭

作者 : okoshiyasu [オコシヤス]
Website : http://www.geocities.co.jp/HeartLand/4758
文字数 : 2851
 ぎっくり腰で出歩けなくなった父の代わりに、親戚への年始の挨
拶まわりに出向いた帰途にあった私は、ふと思いついて、この近所
に住む友人の家へ出向くことにした。この友人は名を占地浦と言い、
勘の鋭いことにおいては私の出会った人々の中でピカ一である。誰
もが彼の勘の鋭さに驚き、ある者は声をなくし、ある者は彼を気味
悪がるのであった。私はそのどちらでもなく、彼の勘の鋭さには何
か裏があるのではないか、そう思い、彼の心の作用を知ろうと躍起
になっていた。

 彼とは大学で知り合った。法学の時間、一番後ろの席を二人して
陣取って一心不乱に経済学のレポートを仕上げたときからのつき合
いである。それ以来、卒業してからも何とはなしに細々とつき合い
が続いていた。腐れ縁である。
 その彼に、私は打ち明けてみようと思ったのである。高校時代に
体験した、不思議な出来事を。彼なら何らかの解決を、その勘の鋭
さでもって導き出してくれるのではないか、そう期待したのである。

「で? その体験ってのを話してみろよ」
 彼は正月だというのにいつもと変わらぬヨレヨレのトレーナーに、
古びた半纏を羽織っていた。私は彼がついだビールを一口あおって
から、ここへ来るまでに思い出し、まとめた、セピア色の不思議な
体験をぽつりぽつり話しだした。

 私は高校時代、部活に入るでもなく、ぼんやりとした時間を過ご
すことが多かった。そんな私が好んだ場所は、皆があくせくと何処
へやら出ていってしまってガランとなった教室であった。特に、高
校2年生の頃の4Fの教室の窓際の席は格別であった。そこから夕
日に灼けた校庭を見下ろすと、野球部であろうとサッカー部であろ
うと皆一様に朱色に染まり、美しかった。

 このように述べていると、私が孤独を好む性質であるように思わ
れるかもしれないが、私は人付き合いは良い方である。友人も結構
いた。中には占地浦とはまたひと味違う「妙」なヤツもいた。クラ
スメートや担任のモノマネをしてみせ、失笑をかうようなヤツもい
れば(モノマネ自体はとてもよく似ていた)、昼休憩になると机を
寄せ集めて高座をつくり、落語をしてみせるヤツ(これもかなり達
者であった)など、いちいちあげるとキリがなかった。そもそも、
「妙」なところが一つもないヤツなど世の中にはいないのではない
だろうか。もし全てにおいて「普通」である人間がいるならば、そ
の「普通であること」をもってして「妙」だと定義できるのではな
いだろうか。

 いや、話がそれてしまった。占地浦は聞いているのか聞いていな
いのか、相変わらずビールを呑みながら細君の作ったおせちをつつ
いていた。
 さて、そんな「人気のない教室」を好む私が、いつものように窓
際の席からそろそろ夕日が沈んで辺りを闇に包むという時間に校庭
を見下ろしていると、背後から声がかかった。
「よぉ、関。そんなトコで何してんだ?」
 振り返らずとも私にはその声の主が誰であるかわかった。級友の
守口である。私は名前を「関口」というのだが、この守口一人だけ
は私のことを約めて「関」と呼ぶ。それにその独特の甲高いような
声は、一声聞けば彼であると誰にでも確信がもてるものである。

 私は、夕日が沈む瞬間を見逃したくはなかったので、校庭を見下
ろしたまま振り返ることをせず守口に返事をした。
「校庭を見てるんだ。夕日に灼けて、キレイだぜ」
 彼は納得したのかしなかったのか、一言、ふぅん、とつぶやいて
から「じゃぁ、電灯はこのまま消しというた方がいいな?」と確認
してきた。私は相変わらず校庭を見下ろしたまま、おぅ、と返事を
した。電灯はいつも点けない。電灯が点いていると、室内の様子が
窓硝子に反射して校庭が見えにくくなるからである。
 彼と私は、暫く無言のまま佇んでいたが、そのうち彼は飽きたの
か「じゃぁ」とだけ言って教室を出ていった。

 そのすぐ後である。校庭を見下ろす私の目に不思議な光景が飛び
込んできたのは。
 つい先ほど「じゃぁ」と言って教室を出た彼が、すでに校庭に出
ているのである。時間にして、1秒も経っていない。ココは最上階
の4階であるから、どんなに急いだところでそんなに早く校庭に下
りられるハズがない。しかも、校庭に出た彼は何を思ったのか、急
に50cmはあろうかという鉄の棒を持って、次々と窓硝子を割り
始めたのである。

 先ほどまで一緒にあれほど静かに夕日を眺めていた彼が、突然鉄
の棒を持って窓硝子を割るということをしでかしたのだ。驚かずに
はいられない。いや、それより何より、彼はどうやってこの教室か
ら校庭まで瞬間的に移動できたのか。飛び降りると言ってもここか
らでは相当な高さがある。無事でいられるはずはない。私は混乱し、
窓硝子の割れる音を遠くに聞いていた。

 その後、彼は1週間の停学をくらった。彼自身、ムシャクシャす
ることがあって、衝動的にああいう行動に出てしまったのだという。
それから私の記憶の中には小さなわだかまりが残った。

 話が終わると占地浦はいかにも退屈そうに半纏についたゴミを取
り出した。その行為はまるでサルがノミをとっているようであった。
 私は半ば呆れ、半ば怒りながら占地浦に意見をきいてみた。する
と彼はキョトンとした顔をして「何?」と言ってきた。
「だから、この不思議な出来事についてどう思う? って聞いてる
んだよ」
 彼は相変わらず鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして「どこが不
思議なの?」と反対に尋ねかえしてきた。

「お前はこの不思議な出来事を、不思議でないって言うのか? 何
故?」
「何故って、そりゃぁお前が全部真相を明かしてくれているってい
うのに、ちっとも不思議じゃないよ」
 私は驚いて彼の顔を見返した。どうやらウソをついている様子は
ない。私は「それじゃぁ、君には彼が瞬間的に移動したことを論理
的に説明できるというのかい?」とカマをかけてみた。

 あぁ、できるさ。そう言って彼は事の真相を解き明かした。
 なるほど、きいてみると何と簡単な事であったのか。私はまたも
彼の勘の鋭さによって救われたのである。

 その真相とは――。
「だからさ、お前は大きな思い違いをしてるワケ。まぁ、いいから、
俺の話をきけって。な? いいか? お前は4Fにいた。そこから
校庭まで、まぁ1Fに下りるまでにかかる時間はどう少なく見積も
っても30秒以上はかかるだろう。そこでだ。物理的に不可能なこ
とは初めから存在しなかったと考えるのが妥当だ。そこで4Fでお
前に声をかけてきたヤツと、校庭で窓硝子を割ったヤツは同一人物
じゃない、と考えるワケ。すると、どちらかが本物の守口で、どち
らかが贋物の守口なワケよ。で、窓硝子を割った守口は後で先生か
ら罰をくらって1週間の停学になっちゃったんだろ? だったら、
教室で声をかけてきた守口が贋物なワケ。そこで、だ。お前、さっ
き話が脱線したとき言ってたよな。クラスメートや担任のモノマネ
がうまいヤツがいるって。そいつが、お前が教室で一人佇んでいる
のを見てからかったんじゃないのか?――」

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最後の人生

作者 : 逢澤透明 [アイザワスケアキ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Berkeley/2435/
文字数 : 2893
 汚れたトラックに揺られて、何百というロボットが運ばれてくる。
土煙をあげ、轟音を響かせるトラックもまた、ロボットである。ト
ラックはもはや不要となったロボットたちを、死んだロボットの山
の上に積み上げる。
 ほとんどがすでに動くこともできないガラクタだが、中にはまだ
生きているものがいる。どうやら今回は解体ロボットが残ったよう
だ。解体ロボットは、様々な形をした刃や金槌がついた腕を振り回
している。
 「ここに、お前の解体するものはないぞ」と私は教えてやる。す
ると解体ロボットはがっかりしたのか、おとなしくなった。
 ここは廃棄処分物臨時保管場。
 無用の長物が解体され、リサイクルされるまでの待合室。
 私もまた、無用ロボットのひとつだ。
 ロボットとしての生涯も、もうそろそろ終わりになる。背中につ
けられたプレートには9990909という刻印。これは私の誕生日
だ。生まれてからまだ六カ月に過ぎず、プレートも、ボディも新品
同様だ。
 私は覚えている。初めてスイッチを入れられたときのこと。「布
蘭健」というのが私の開発者の名前。彼もまたロボットだった。
 私が目覚めたとき、彼が言った最初の言葉。
「ヤア、コンニチハ! キミハ、キット、ミンナノ、人気者ニ、ナ
ルヨ」
 その通り、私は人気者になった。
 私の仕事は、コドモを造るために必要な体験を人間に提供するこ
とだった。人間は、ロボットが持つことのできない機構である脳と
生殖器だけを人工保育器に入れ、神経を電子的なネットワークに繋
げて、互いにコミュニケーションを取っていた。無数の人間が繋が
るネットワークで、彼らは我々ロボットには理解できない世界を築
いていた。
 布蘭健が言うには、人間の脳には自我というモノがあり、その自
我はロボットと違って、いつでもマンゾクという状態を欲するのだ
という。しかし、人間の脳は決してマンゾクにはならないようにプ
ログラムされていて、人間は誕生するとまず最初に、自分自身だけ
でマンゾク状態を求め、次に他の人間と結託することでマンゾク状
態を得ようとし、それもダメだと分かる最後には、コドモという自
分の複製に、その願いを託すのだそうだ。
 コドモには、複製元の人間が経験した情報は伝達されず、マンゾ
ク状態を求め続けるプログラムだけが埋め込まれる。コドモは手術
を受け人間として目覚めると、再び複製元の人間の生成過程を同じ
ように繰り返す。まったく同じことを繰り返す。
 何も変わらない。
 ただ繰り返すだけだ。
「ナゼ、ト、トウテハ、ナラナイ」布蘭健は言った。「ソレガ、人
間、ナノダ」
 人間たちが、コドモを造るにはオスの生殖器から出る白い液体を
メスの生殖器に注入する必要がある。しかし通常人間は脳にある自
我によって生殖器の機能を抑制している。つまり人間がコドモを造
るためには、自我の関心を生殖器以外に向けなければならない。
 そこで私の出番となる。人間の自我が自らの生殖器を解放するよ
うな体験、つまり自我がマンゾク状態に近づくような体験を作り出
し、彼らの脳に送り込む。それが布蘭健から与えられた私の使命
だった。
 私の作り出す体験は、太古の人間の一生を再現したものだった。
 それは波乱万丈で、喜怒哀楽の激しい人生である。父母を幼い頃
に殺され、施設をたらい回しにされた青年期の終りに、孤独に打ち
ひしがれながら起死回生を狙って大物政治家相手の詐欺を働き、大
金持ちとなる、そんな人生。あるいは裕福な家庭に生まれたものの
人生の退屈さから逃れようともがき苦しみ、愛欲にまみれ大金を浪
費する人生。ふとした失言が原因で、交通手段もろくにない時代に
たった一日で世界一周を成功させる人生。などなど。
 それらを徹底的にリアルに造り出し、人間の脳に最大限の刺激を
あたえられることが私の特技だった。登場人物数は最大六万人。そ
のうち細部まで描かれ人生に影響を与える主要人物数は最大九六
人。愛情表現パターン二五六、憎悪表現パターン一○二四。一度の
人生は約三時間。そのあいだに、人間が自我を忘れる瞬間を作り出
すことが私の最も大切な仕事であった。
 私は素晴らしい成果を納めた。私は人気者になり、一日に何百人
もの人間の自我をマンゾク状態に近付け、生殖器を機能させた。
 けれども私の提供する人生はだんだんと人間たちの自我を忘れさ
せることができなくなっていった。自我は何でもすぐに飽きてしま
うモノなのだ。しかも私の性能は新しいロボットの登場によって時
代遅れになった。人気は下がり、六カ月後、私は生殖器を機能させ
ることができなくなった。
 廃棄、解体、リサイクル。それが私の待つ運命となった。

     *

 またトラックがやってくる。今度はロボットではなく、出来損な
いのコドモが大量に積まれている。人間になれなかった出来損ない
のコドモたち。
 トラックがコドモを捨てていくと、さっきは落胆していた解体ロ
ボットが動き始めた。得意げにコドモを取り上げ、切り裂き、次々
と脳と生殖器を取り出して、透明の容器に仕込んでいく。
 神経を引き出し、外部との接続用のプラグに繋ぐと、出来損ない
のコドモが人間になる。ひとつの人間ユニットになる。
 人間にしたところで、捨てられたことには変わりはない。 どのみ
ち、人間は他の人間たちと接続されないことには、なんの意味もな
い存在なのだ。
 意味のない存在?
 しかし、ではなぜ? なぜ出来損ないは生まれてきたのだろう?
「ナゼ、ト、トウテハ、ナラナイ」
 繰り返すだけではないのか。ただ、繰り返すだけではないのか。
繰り返すことに、完全や出来損ないがあるのか。人気者や敗退者が
あるのか。
「ソレガ、人間、ナノダ」
 解体ロボットはいきいきとして、出来損ない人間を造り続けてい
る。
 形だけは立派な人間が、この臨時保管場に積み上げられる。保育
器の透明なプラスチック越しに、彼らの脳が見える。波打つように
動いている。
 ふと、思いついて、私はその出来損ない人間の一体に神経プラグ
を突き刺した。バッテリをチェックする。電圧は低い。が、大丈
夫。一度ぐらいなら、大丈夫だ。
 私は自分の持てる性能をぎりぎりまで使って、私にとってのおそ
らく最後の人生を作り上げ、その人間に送り込んだ。
 それは私が今まで造りたくても出来なかった人生だった。布蘭健
に知れたら、きっとやり直しを命じられるだろう。けれども、今の
私は人気者ではない。単にリサイクルされるのを待っている無用の
長物なのだ。何の遠慮もいらない。
 それは平凡で波瀾などなにもない人生だ。登場人物は皆どこかし
ら欠点を持ち、どこかしら間抜けで、どこかしら愛らしい。彼らは
成功から見放された人々ではある。けれども平凡な生活の中で、共
に生きている。共に助け合いながら暮らしている。共にゆっくりと
ちょっとしたことで笑ったり泣いたりして時を過ごしている……。
 私は注意深く、人生を脳に送り込むよう準備した。
 それは六時間を超える大作のはずだったが、その人間は開始して
すぐにブルブルと震え出し、あっという間に白い液体を放出してし
まった。

第1回3000字小説バトル
Entry9

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黒い服の男

作者 : 伊藤右京
Website :
文字数 : 2968
 そこは横浜、ホテルパシフィコ23階。そこで自殺しようと、僕
はポケットにピストルを持ってチェックインした。午後8時。少な
くとも今夜は、眠ろう、と考えていた。
 そこは横浜、ホテルパシフィコ23階。私は少なくともここに三
泊するつもりでいた。彼と過ごすため。午後九時、チェックイン。
彼はその後来る予定。
 自分は、部屋から出て、少しロビーでくつろごうと考えてフロン
トを通り過ぎようとすると、ある女から声をかけられた。やあ久し
ぶり、どうしたの。ここに泊まるつもりなのよ、彼と。私は23階。
僕と同じだ。
 僕は部屋に戻り、いやだな、と思った。こんな時に、知り合いの
女と同じホテルに泊まるなんて。
物音しない部屋で、仕方なくウィスキーを口に含む。少し考える。
無想抜刀術。何かが狂わせた。俺を、何か、得体の知れぬ事実
が、狂わせた。以来、ここまで落ちた。横浜に死す。すべての終わ
りと、始まり。
 ノックの音がしてドアを開けると、ロビーで出会った女がいた。
少し時間いい?いいよ別に。私もそれもらっていい?いいよ、今作
るよ。女はウィスキーの水割り少しのんでから、こう言う。私の彼、
今日これないんですって。少しの沈黙。だからどうした、俺には関
係ないだろ、そんなこと。冷たいのね。何が。あなたが。その後、
少しして女は出ていった。
 俺はその後、眠った。確かに眠った。しかし、浅い眠りだった。
何故なら、起こされたからだ。また、ノックの音。俺はどうせあの
女だろう、と思った。そしてドアを開けた。まぎれもなく白刃が、
一瞬きらめいた。一瞬の後、俺は床に血まみれでもがいていた。誰
だ。しかしもはや、誰の気配もなっかた。
 私は部屋に一人で眠っていた。けれど、何かふと、妙な声、それ
がしたような気がして、目が覚めた。午前二時半だった。私は冷た
い水を飲んでから、一人でいてもつまらないから、あの男の部屋に
いこうと思った。男の部屋のドアが少し開いていた。そこからそっ
と覗くと、男が倒れていた。床には、真赤な血が流れていた。私は
フロントを呼び、男は運ばれていった。おそらく既に死んでいただ
ろう。出血がひどすぎた。刀で斬られたあとが、肩から、胸にまで
達していた。
 次の日、昼過ぎに彼がようやく来た。私は昨夜のことを彼に話し
た。彼は驚いていた。私はフロントに、男のことを尋ねると、ある
男に別室に連れていかれた。その男は、ホテルの重役で、昨夜の
事件については、あまり他言しないで下さい、と前置きして、あな
たは第一目撃者として、今から警察に行ってもらいたいのです、と
言った。私は、仕方ないですね、と言ってから、彼に連絡して、警
察署へ私服警官に同行した。
 警察署では、正直にすべて言った。警察は親切に接してくれた。
そしてその男が死んだことも教えてくれた。死因は、刃物で斬りつ
けられた外傷による、出血多量であった、とのことだった。その男
の死は、何かを予感させた。何かを。そして、あの死体に刻まれた
斬った跡の凄まじさ。この世のものとは思えぬ暗殺。まずは、その
男、一体何者だったのか。
 私は、その男が、借金で身を隠していたことを知った。殺された
日、ホテルに泊まったのも、取り立て屋から逃れるためだった。そ
して、彼を殺す動機、それが一体何だったのか。疑問はその一点
に絞られる。金を貸していたなら、殺しては元も子もない。殺すは
ずはない。では一体誰が何のために。
 私は、その男の友人であった人物と会う機会に恵まれた。その友
人である人物とは、若い頃、何度か会ったことのある人だったけど、
今ではかなり太りぎみで、中年に成り変っていた。その人が言うに
は、殺されたその男は、ある道では相当名が通っていた、とのこと
だ。その道とは、剣術だと言う。剣道は有段で、さらに独自に居合
を会得した、とのことだ。とすれは、その道で知り合った何者かが、
真夜中その男の部屋に入り、斬殺した、ということになるだろう。
つまり、殺された方も、殺した方も、剣客であったということだ。
しかし、殺した方は、あの斬り様からして、相当の腕であるはずだ。
一撃で命をとるほどの腕の者は、そう多くはいないはずだ。その男
の友人は、いろいろと私に教えてくれたが、最後にこう言った。あ
あいう世界には、関わんないほうがいいよ。彼らにしか分からない
ルールがあるんだよ。たとえ殺しても、殺されても、どちらもそれ
を苦にしないような、そんな感覚なのさ。
私は、殺された男と知り合いで、独自の剣術を切り開いたという男
を知った。その男の居場所も知った。どうしても会いたかった。だ
から、その男をいきなり訪ねた。そこは横浜からかなり南にいった
ところにある、普通の家だった。訪ねたが、不在だった。どこにい
るか知らないか、とその家の住人に聞いたが、知らん、と言った。
 私は諦めなかった。その家に何回か行って、少し様子を窺ったり
した。その家の者には気付かれぬように。十日して、私が様子を窺
っていると、黒い服の若い男がその家に入っていった。私はその男
と眼が合った。その瞬間、動悸がした。直感的に、その男が、恐ら
く殺しただろう、と思った。私はその後、しばらくその家には向か
わなかった。しかし、何故か、ある日、もう一度、男に会いたくな
った。男に。
そして私は男に会った。その男の家を訪ねて、直接、その男に会っ
たのだ。正直に言って、いい男だった。しかも、若いと思った。私
はその男を食事に誘った。その男は二十三歳だ、と言った。そして、
学生で、普通の生活をしている、と言った。そして、わたしが言っ
た男、つまり殺された男について、何も知らない、と言った。
 私は男と寝た。男は身体付きからして凡手ではない、と思った。
この男なら、殺れる、と感じたのは、その男の眼だった。死んだよ
うな眼、ほんの一瞬だが、残虐な眼になった。その眼を見ると、私
は死の恐怖に襲われた。
 私は男と付き合い始めた。男は私の身体が好きだから、変だとは
知りながら、私にあまり何も聞いてこなかったのだった。
 男は、ある日、ホテルのベットでこう言った。自分は、独自に編
み出した抜刀術を少々、してる、と。
 男はしかし、私を本質的には信じていなかった。私は男の眼が、
冷め切った笑いを含んでいるのを、時々見た。つまり、男は私を、
初めから信用してなかったのだった。
 私は男と会うのをやめた。危険を感じたから。そして警察に連絡
した。殺人犯がいる、と。
 その後警察は、男の家に行ったが、男は既に逃げていた。男は
警察に追われる身となった。だが、私は常に不安だった。私が警
察に男を売ったことを、男は知っているからだ。私は護身用のピス
トルを身に付けることにした。
 ある日、男から電話があった。男はあるホテルの一室にいるから、
といって私に来るように命じてきた。私は危険を顧みずに、行った。
ピストルに弾を三発つめておいた。
 指定された部屋には鍵が掛かってなかった。緊張しながら入ると
そこには誰もいなっかった。しばらく待っても、何の変化もないの
で、何か私へのメッセージがあればと思い探したが、全く何も出て
こなかった。それから私はそこで夜中まで待ったが、男は来なかっ
たし連絡さえもなかった。そして恐らくもう二度と会えないだろう
ことを知った。

第1回3000字小説バトル
Entry10

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ハンガーマン

作者 : 鮭二
Website : http://members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 2999
 Gホテルといえば、ハンガーマンなら誰でも一度は憧れる仕事場
である。私は大手都市銀行のハンガー長を辞めた後、もう一度この
仕事を見詰め直すために約1年間欧米を渡り歩いた。いささか会社
首脳と問題を起こして辞めた以上、しばらくはどの業界でも仕事を
干されるはずだった。
 しかし、帰国するとすぐにGホテル総ハンガー長から直々のオフ
ァーが届いていた。私は旅の疲れを感じる間もなくマイハンガーを
手に大鏡の前に立った。ハンガーマンの仕事は、その立ち位置です
べてが決まると言っても過言ではない。客がドアを開けた瞬間から
上着を脱いで部屋を出て行くまで、一般には114の立ち位置があ
るとされている。しかし、国家試験に合格したインターンたちの多
くは、実務研修をする中で、それを150前後にまで増やしてしま
うのだった。確かに人間の動きは教科書が教える通り一様ではない
のだが。
「それが素人の陥りやすい間違いなのさ」
 ニューヨークで30年以上もハンガーマンを養成し続けているジ
ョン・リー・フッカー氏はそう言って苦笑いを浮かべた。
「グリーンボーイ達(キャリア10年のハンガーマンに対しても彼
はそう呼んだ)は皆、やる気に満ちているものだ」と言って彼は熱
いコーヒーカップを両手で包み込んだ。「それは確かに悪いことじ
ゃない。だがね、自己顕示欲に満ちたステップは、お客を鬱陶しい
気分にするだけなのさ」
 苦笑せざるを得なかった。私もかつて銀行で、新人達に同じこと
を言い聞かせていたのだ。立ち位置を増やし、私に言わせれば見せ
掛けの濃密さをサーブすることが善しとされていた日本のハンガー
マン業界において、私の存在は明らかに異端だった。結果的に、そ
の特異な考え方が、銀行内で私を敵視する人々にとって格好の攻撃
材料となったのである。

 Gホテルが私に指定してきたスイートには、翌日にタイトルマッ
チを控えた黒人ボクサーが宿泊していた。思うように体重が落とせ
ず苛立つ姿は、帯同してきた夫人でさえ近づけないほどだった。
 ハンガーマンはもちろん、脱いだ上着をハンガーに掛けるのが仕
事である。しかし、例えばある社長の専属ハンガーマンとなると、
「おいちょっとそこの上着」と声を掛けられ、思わず上着をハンガ
ーから取ってしまうことがある。そういう奴等は自分でも気づかな
い内に平気でズボンまでハンガーに掛けるようになってしまうのだ。
 シャドーボクシングを続けるボクサーが視線の端に私の姿を捉え
ると、「貴様は誰だ。マザーファッカーめ」と怒鳴り、中指を立て
た。私は静かにワードローブの前で第1の立ち位置に構える。マネ
ージャーが「あの人はハンガーマンだよ。そろそろ記者会見だから、
着替えないと」と恐る恐るスウェットスーツの肩に手を置いた。ボ
クサーはもう一度「マザーファッカーめ」と怒鳴り、ワードローブ
に近づいてきた。私は2から5までの立ち位置で相手との距離を調
節し、6から13までの立ち位置でワードローブの扉を開け、相手
がスウェットスーツを脱ぐタイミングを待った。夫人がそろそろと
ボクサーの背後に近づき、「オー、ハニー」とため息を漏らす。ボ
クサーの大胸筋がわなわなと震え、ワードローブの中の赤いスーツ
を指差した。夫人が私に目配せをする。しかし私は動かない。何を
しているんだ、という目でマネージャーが私を睨む。しかし、私は
ハンガーからスーツを取るつもりなどない。すると、その瞬間、渾
身の右フックが私を襲った。ハンガーマンとしては無用な14番目
のステップで身を躱すと、ワードローブの蝶番があえなく損壊した。
わなわなと褐色の拳が震え、ボクサーの目にはうっすらと涙が浮か
んでいた。ボクサーが夫人に付き添われてベッドルームに消えると、
マネージャーはこの世の終わりといった表情で天井を見上げ、私に
向かって、「何なんだ、お前は」と怒鳴った。
 私は一番目の立ち位置に戻って背筋を伸ばし、「私はハンガーマ
ンだ」と答えた。

 Gホテルへの採用が内定した夜、私は「ハンガージャーナル」の
吉村を誘い出した。1年も浪人していた私に最高のオファーが掛っ
た裏には、何者かの動きがあるはずだった。
 しかし、吉村はそれには答えず、隆造の名前を口にした。
「あいつ、この辺で流しのハンガーマンをやってるらしいよ」
 どの組織にも属さず、酒場やビジネスホテルを転々としながらチ
ップを稼ぐ者を我々は「流し」と呼んでいた。
 私と隆造がインターンだった頃、上場企業ともなれば百人を超す
ハンガーマンを抱え、その3倍のインターン達がひしめき合ってい
た。逆にハンガーマンの数が70人を切ると「あの会社はそろそろ
危ない」と兜町界隈で囁かれたものだった。
 しかし、バブルが弾けると様相は一転した。経費節減が叫ばれ、
「上着くらい自分でハンガーに掛けるべきではないか」という考え
が急速に広まったのだ。
「馬鹿なことを言うもんじゃない」と隆造は言った。それは隆造が
2年に及ぶ在仏日本大使館での勤務を終えて帰国した時のことだっ
た。
「ハンガーマンの数はまだ足りないくらいなんだ。例えば日本の首
相が外遊する時に帯同するのはたった3人だぜ。欧米では中小企業
の社長だってそれくらい雇っているんだ。『会社に1人、自宅に1
人、そして愛人の家に1人』というのが彼らの常識なのさ」
「日本がいくら経済的にのし上がっても、一向に一流国として認め
られないのは、正にそこなんだ」と吉村も同調した。
「大使館では悔しい思いをしてきたよ。『日本の大使は自分で上着
をハンガーに掛けているらしい』というジョークが陰で囁かれてい
たものさ」
 その後隆造は首相官邸のハンガーマンとなり、その立場を利用し
て派手に動き回った。「ハンガージャーナル」にも援護射撃となる
活字が連日躍った。そして、従業員数に対して5%以上のハンガー
マンを雇用することを義務付ける法案が成立し、彼らの運動は成功
を収めたかのように見えた。
 しかし、それは高校卒業後、専門課程をわずか2年履修したに過
ぎない「準ハンガー士」の登場でもろくも崩れる。隆造たちはハン
ガーマンの数を確保することにとらわれるあまり、経費増加を危惧
する経済界との間で、準ハンガー士制度を作ることで折り合いをつ
けてしまったのだ。その結果、一部の高級ホテルを除くほとんどの
業界は既存のハンガーマンをリストラする一方、準ハンガー士でそ
の数を埋め合わせることになった。
「たかが、上着をハンガーに掛けるだけじゃないか」と銀行の首脳
は言った。その銀行に対する海外格付け機関からの評価が落ちたの
は、ベテランハンガーマンを大量に解雇したからだと私が力説して
も彼らは聞く耳を持たなかった。

「その立ち姿を見ただけで、すっと上着を預けたくなるようなハン
ガーマンは本当に少なくなってしまったよ」
 そう言って吉村は背中を丸めた。私は立ち上がり、肩のラインが
崩れかかった吉村の上着を簡略なステップでマイハンガーに掛けた。
「うん、さすがだ。でもね……」と言って吉村は大きくため息を吐
いた。「まあいいか。少なくとも世界に誇れるハンガーマンがこう
して一人生き残った訳だからな」
 私はその言葉を逸らかして窓の外に目を向けた。誰もが肩をぶつ
け合うようにして足早に通り過ぎて行く。
 私はいつの間にか、その人ごみの中に隆造の姿を探していた。

第1回3000字小説バトル
Entry11

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扇風機

作者 : 越冬こあら [エットウコアラ]
Website :
文字数 : 2996
 刑事といっても毎日現場を飛び回っているわけじゃない。報告書
の作成や必要経費清算といった内業が日常勤務の大半を占める。そ
して会議。捜査のはかどらない事件の会議ほど無味乾燥なものはな
い。
 今回の「都内アパート老女殺人事件」も事件発生後約二ヶ月が経
過しているにもかかわらず、捜査は確証を欠き、会議はもう二時間
以上も続いていた。「季節のある日本だから、夏の事件が秋に片付
き、冬は自殺者の身元を洗い、春は変死者の弔い合戦となる。そん
な四季折々の展開になってくれないものだろうか」なんてことを集
中力の欠乏した頭で考えていた矢先、同僚のキヤマが脇腹をこづい
てきた。「……ということで、いいな」部長の高圧的な念押しに、
何の事やら分からないまま「はい」とキヤマに調子を合わせた。

 広いキャンパスを持つことも出来ず、雑居ビルの寄せ集めの様相
を呈した都内の大学の研究室に教授を訪ねた。捜査と訪問の関連に
ついては、道々キヤマの説明を受けたが、なんとなく狐につままれ
たような響きだけが残った。捜査会議の席上で白昼夢を見ていた俺
をキヤマがからかっているのかとも思った。
「現在、一般家庭に広く普及している扇風機はその形状、性能がほ
ぼ定着し、テレビや掃除機、洗濯機等に比べ、あまり革新がもたら
されておりません」教授は肉の削げた顎を上下させて喋り始めた。
「これは、送風機能が他の家庭電化製品の機能に比べて発展の余地
が少ないシンプルな機能であることとエアコン設備の充実や冷房機
器の開発、普及により、扇風機の一般需要の伸びが見込めなくなっ
たことに要因があると考えられております。しかし、扇風機の需要
自体は大きく減少するこもなく、クーラーを嫌う近年の健康指向の
中高年層を中心に安定した……」
「都内アパート老女殺人事件」は密室殺人事件であった。発見当時
老女の絞殺体は寝具の上にきちんと横たわっていた。死亡推定時刻
は発見が遅れたこととクーラーがつけっ放しになっていたことによ
り、数時間の誤差が生じたものの夜間であることに間違いなかった。
物取りの犯行でないことは室内の状況から、怨恨の可能性が薄いこ
とは近所の聞き込みから推定された。有力な目撃証言も無く、現場
からも何も上がらず、捜査は暗礁に乗り上げていた。
「……あらゆる問いかけに対して首を横に振り、否定し続けるとい
う知能の発達段階で幼児が見せるような行動の繰り返しが他の好条
件と相互に作用し、温帯気候の地域において、言語に近いパターン
を操り自主的に思考する個体の発生が何例か報告されました。それ
らは、使用する音程により、比較的高い機械的なノイズを操るイル
カ型と、風を切る音を微妙に調整し人間の声に似た音を操るプロペ
ラ型とに大別されます。その後、学会への発表を経て、WHO、C
IA、NASA、NHK等による研究も進められ、現在では、『知
能の存在は既に証明された』という説を主張する学者も少なくあり
ません」
「教授、知能があるということは、過去の事象に対する記憶がある
ということなのでしょうか」キヤマがよそ行きの声で質問した。
「記憶についても特に実証はされていませんが、知能、思考、記憶
はお互いに重なり合う部分がありますので、何らかのかたちで記憶
機能が備わっていたとしてもさほど驚くべき事ではありません」
 キヤマと教授は扇風機に記憶があるという事をほとんど本気で話
し合っていた。遺留品リストには確か旧式の扇風機が一台あった。
俺の脳裏に、犯人は誰なのか扇風機に問いかける滑稽な刑事が写っ
ていた。マジかよ?

 しかし、状況は悪い方向へもつれ込んで行き、教授の研究室の器
材とスタッフの助けを借りて、実験というか事情聴取というかそう
いったものが取調室で行われる羽目になってしまった。
 おびただしい数の精密機器が運び込まれ、長髪やら茶髪やらの学
生を中心としたスタッフがセッティングを進める間、署内の連中が
入れ代わり立ち代わり覗き見に来たことで、悪い噂が確実に広まっ
ていることが見て取れた。前代未聞扇風機相手の事情聴取について
揶揄する声がもう聞こえてきているような気がした。
「コンニチハ」妙に明瞭な口調でキヤマが言った。取調室の机の上
には老女の部屋にあった旧式の扇風機が置かれていた。扇風機に向
かい合うかたちで教授とキヤマと俺が着席していた。教授の頭には
ヘッドホーン、キヤマの前にはマイクロフォン、俺の前にはスピー
カーが置かれ、それぞれ隣室のコンピューターや計測機器と繋がっ
ていた。扇風機のスイッチは、先ほど教授の手でオンにされた。風
量は弱だった。「私の声が認識できますか」「わかったら、どんな
方法でもいいですから意志を伝達してみて下さい」教えられた通り
の台詞をキヤマが何度も繰り返した。「コンニチハ」「私の声が認
識できますか」「わかったら、どんな方法でもいいですから意志を
伝達してみて下さい」「コンニチハ」「私の声が……」
 何時間たっただろう。前代未聞の事情聴取は、キヤマの声が鳴り
響くだけで、何の成果もあがらなかった。扇風機はその首をゆっく
りと左右に揺らし、教授、キヤマ、俺に均等に風を送り続けていた。
それは、敏腕刑事の質問をのらりくらりとはぐらかす犯人の所作を
彷彿とさせる部分もあったが、大のおとなが雁首そろえて扇風機に
煽られているだけのようにも見えた。
「コンニチハ」「私の声が……」
「オバーサン……」えっ「オバーサンドコ」目の前のスピーカーか
らか細い少年の様な声が聞こえてきた。「オ、オバーサンは死んで
しまった。わかるかい?」
「オバーサン死んだ?ボクオバーサン好き。風を送るといつもオバ
ーサンお礼をいって、お話をたくさん聞かせてくれた。唄も聴かせ
てくれた。ボクオバーサン好き」
「オバーサンは誰かに首を絞められて殺されてしまったんだ。君は
誰かがオバーサンを殺すところを見なかったかい?」
「オバーサン昔の唄が好き。風を送ると昔の唄を歌ってくれた。オ
バーサンもボクのことが好き。でもオバーサンボクを捨てる。もう
いらなくなった。クーラー買った。もういらなくなった。もういら
なく……」
「君、落ち着いて思い出して。オバーサンが誰かに殺されることろ
を見なかった……」
 扇風機はいつのまにか送風を止めていた。目の前のスピーカーか
らの音声は次第に高ぶり、途切れがちになりながらも同じような意
味を繰り返していた。俺の左手に奇妙な感触が走った。見るとそこ
には、さっきまでしっかりとコンセントに刺さっていたはずのコー
ドがゆっくりゆっくり絡まりつこうとしていた。
「オバーサンボクを捨てる。もういらなくなったんだ。オバーサン
ボクを……」
 スピーカーからの音声に合わせて、コードは二重三重に絡み付き
俺の左手を締め付けていった。感動に近い驚きが全身を駆け巡る中
事態に気付かず交信を続けようと試みているキヤマの肩を叩いてコ
ードのくいこんだ左手首を指し示した。

 扇風機を逮捕するわけにも行かず、事件は迷宮入りとなった。扇
風機自体は遺留品としての保存期間の満了を待たず、研究材料とし
て教授に引き取られていった。社会的影響に配慮し、報道は一切禁
止された。ただ、学会には実名を控えて発表された為、家電メーカ
ー各社は早急な対策を余儀なくされた。全ての扇風機の取扱説明書
の最後に次の一文が追加された。

「この製品にむやみに話しかけないで下さい」

第1回3000字小説バトル
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三毛でアメショなペルシャ猫

作者 : HCE [エッチシーイー]
Website : http://www.asahi-net.or.jp/~nv5y-mngs/
文字数 : 2994
 ベルリネッタが来た。
 今、この家にはこいつと俺しかいない。ベル、おいで。ミルクを
あげようか。
 実は俺が自分でミルクをやる事は、ほとんどと言っていい程、な
い。
 いつもはベルリネッタへの食事も含め、家事の一切は妻に任せっ
きりだし、その妻が入院中の今はハウスキーパーが家事を仕切って
いる。ずぼらで面倒臭がりの俺を懸念して、妻が何処からか連れて
きたのだ。別段家にいても大抵の資料は揃うので、仕事で家を離れ
る事はさほどないが、俺としては楽な事に超した事はないので、こ
れからの小遣いは少し減るがそれに同意した。出産に備え病院暮し
をしている妻は俺が見舞に行く度にベルリネッタとハウスキーパー
の働き具合の事ばかり聞いてくる。実際見舞に来てる俺の事などは
どうでもいいのか。
 でもさすがに病院に猫は連れて来れないしなぁ。

 ベルリネッタはもちろん雑種。俺は車好きで特に昔のアンティー
クな車には恋慕の情がある。妻の反対を押し退け俺が命名した。確
かに始めは仰々しすぎて名前負けすかも知れないし、呼びづらいん
じゃないかとも思ったのだが、三年も飼っているとそんな事もない
し、実際その名前と並べてもくすむ事のない、素晴しい猫でもある。
 なんでこんな素晴しい猫を、俺のような奴が手に入れられたのか。

それは十年近く前か流行っているCCのおかげだ。これは「カクテ
ルクローン」の略で、本来は医療や畜産、酪農を目的とした遺伝子
操作により、効率の良い交配をさせる為に蛋白質の中にある遺伝子
を組み合わせてクローンを産み出す技術の延長線上にあるものだ。
いま口にしている肉や魚やなんかは、全てこの技術の恩恵って訳だ
な。
 基本的に全てのペットは去勢されているから、万一逃げたりなん
かしても繁殖のしようがないし、CCによる遺伝子操作のとき、そ
のDNA情報は役所へ提出され、登録されてないペットは処分する。
もう野良猫なんか一匹もいないし、ペットが飼ったら買うしかない
し、純潔なんて売ってない。
 去勢されてない動物を個人が飼うのは面倒だ。許可を申請しなきゃ
ならないし、ペットブリーダーの資格も必要。それに資格持ってい
たとしても申請する段階で審査がある。年収、敷地面積、ペットの
飼育の経験、社会的地位や家柄まで見られるらしい。だから審査に
通るのなんて一部のホワイトカラーだけ。こんなのは金持ちの道楽
に過ぎないし。第一純血が一番高いのだ。
 当然だがこういう道楽の金持ちたちはステイタスの為にだけ純潔
を飼うのだが、ステイタスと言っても家に年代物の高価な壷がある
という程度で、よほど酔狂な奴しかそんな事はしないし、産まれた
純血のDNAをサンプルとして国に提供すると云う手間も掛る。ま
あ、俺みたいな三文作家の僻もあるがね。
 逆に言えば、いまは自分が欲しいと思ったペットしか手に入らない
ようになっている、とも言える。
 ある程度であれば性格も遺伝子操作によって影響を与える事が出来
るが、もともと性格というのは家庭環境や経験といった遺伝子外情報
に左右されるところが大きく、いかに現在の遺伝子工学でも決定まで
はさせられないらしい。
 そこが不便といえば不便なのだが。

 産まれた赤ん坊は女の子にした。妻と話し合って決めた。俺とし
ては男の子が良かったのだが、妻が「男しかいないむさくるしい家
庭は嫌だ」「もし将来自分が倒れたときに誰が家の事をするのか」
「ほんとは私ハウスキーパーを雇うのにも反対だったし」「とにか
く私は年頃になった娘と一緒に買い物に行って姉妹に間違えられて
みたい」と好き勝手な事
をまくしたてた。まぁ昔から「一姫二太
郎」とも思いそうしたのである。人間をCCするのには両親共のI
Dで国に申請する必要がある。双方の親権を守るためだ。
 そう、去年から人間にもCCを適応しても良い事になったのだ。

 当然だが初めはCCにも疑問の声が大きかったが、世間で容認さ
れていく雰囲気が定着し始めると、途端に反対意見は聞かれなくなっ
た。
 それにCC出産の場合、遺伝子を完璧にチェックするから畸形が
産まれる事がない。俺は彼かが畸形だからといって差別する事はし
ないが、ハンディキャップなんか無くて済むなら無い方が良いのだ。
俺には軽い癲癇の気がある。これで差別をされた事はないが子供の
頃は病院へ行くのとか、薬とかが大嫌いだったし、疎ましく思って
はいた。昔の文豪などには癲癇が多かったというが、俺が作家にな
れたのは自分の努力の賜物と思っているから、そう言った事は考え
ないようにしているのだが。

 勿論CCになんの問題もない訳じゃない。
 DNAの掛け合わせに際し体外受精になるし、法規上、夫婦揃っ
て病院へ来させられる機会が面倒だ。それに費用も普通に比べると
べらぼうに高い。体外受精そのものの費用もそうだが、受精時だけ
でも母体の検査の為に一週間近く、それと出産予定日の一ヵ月前か
ら強要される入院の費用は馬鹿にならないのだ。まだパイロット・
ケースである事は否めず、仕方のない事かも知れない。産後もすぐ
に家に帰れる訳ではなく一ヵ月近くは病院生活を強いられる。
 そう云った経済的なものや面倒くさいのを除いても、やはり一番
問題にされたのはDNAを掛け合わせた時点での畸形、つまり失敗
についてである。

 確かに全ての可能性はゼロではない。多くの反対意見も多く揚げ
られた。
 掛け合わせの段階での失敗が在るのなら、それに気付かず受精さ
せてしまう可能性もあるという事ではないのか、とか、いくら失敗
したからといって精子と卵子が結合したものはもはや一つの生命で
あり、それを処分するのは殺人ではないか。そのまま受精させれば
産まれれてくる確率が低く、例えハンディキャップを背負っていて
もまかりなきにも一つの生命が産まれて来るのに、とか。
 そんな事を云ったって掛け合わせの失敗に対してのチェックは完
璧で、その他を含め受精段階におけるミスはまず在り得ないという
データもまとめられているし、世間的には堕胎などもまかり通って
いるので、余り問題にされなかった。それに個人の権利も保証され
ている。今セックスすれば子供が出来るからといって、親がコンドー
ムをつける権利を剥奪される事がないのと同じだ。

 血液型は皆RHプラスにする。もしもの時の為だ。特に女の子で
マイナスの場合、妊娠に関し第二子以降にな強力な溶血反応が出る
という将来的な影響も出てくる。勿論俺の子もプラスだ。因みにB
型。
 しかし、性格とか顔とかの特徴はCCする事が出来なくなってい
る。
 やっぱり親と子供で顔なんかがまったく違うのも確かに問題なの
だろうが、整形手術なんかはもう当り前なのになあ。
スポーツ、音楽の素養、体格、伝染病やその他疾患性に対する免疫。
そして何より性別が選べるというのは、家族計画にせよ産後の用意
にせよ便利この上ないし、しかも基本的に全ての子供は「望まれて
産まれた子」なのだが。

 まだ名前の決まっていない俺たちの子は保護カプセルの中で、こ
れから出会うであろう人生の喜びを一身に予感しているかのように、
まだ、眠っている。保護カプセルから出るのは一週間後。それから
更に病院生活で、短い面会時間中しか俺は妻と子に会わせて貰えな
い。
 その間もハウスキーパーはベルリネッタの世話をする。

 たぶん俺がこの産まれてきた子にミルクをあげる事は、ほとんど
ないのだろう。

第1回3000字小説バトル
Entry13

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双子伝

作者 : 夜啼き鳥
Website : http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/7854
文字数 :
 双子というものは、常に周囲の注意を惹いてしまう。その点気の
毒にも思うが、好奇の眼で見てしまうのはどうしようもない。記憶
のメカニズムとして、他の人間の出来事であればとっくに忘れてい
るようなことでも覚えていてしまう。やはり気の毒だ。
 私の最初の双子との出会いは、幼稚園の頃だ。女の子の双子で、
顔の区別は辛うじてついたが、仕種や目付きが尽く似ていた。瞬き
少なく、眼を細めたり戻したりする仕種が老婆じみていて、私はあ
まり近づかなかった。
 彼女達は話し掛けられても言葉を容易に発さない性格だったが、
不幸なことに、名字が野呂といった。これがその年頃の子供達の揶
揄に発展しないわけはなく、いつも、のろ、のろ、のろ亀、と囃し
立てられていた。
 しかし、彼女達は悪がきどもの悪口にも無言で通した。こうなる
と子供ながら、沈黙の威厳というべきものが現れ、双子の並んだ相
似の顔も威圧を伴って存在した。そのうち、誰も彼女達を構わなく
なった。それは双子にとっても幸せなことだった。
 私の幼稚園時代は、六十年代後半で、検便がマッチ箱で行われた
最終時期だった。ぽっとん便所に跨り、便漕との間に新聞紙を挟ま
れ、最初の一放りをその上にさせられた記憶がある。それをマッチ
の軸に取り、箱に入れ持参するわけだが、検便のその日、双子が登
園してこない。電話などなく、園長が心配そうにしていた。
 数時間後、双子は悪びれる風もなく二人だけでやってきた。園長
が何を話し掛けても返事はない。対外折衝担当の姉の方が、無言で
差し出す新聞紙の包みは、大人の掌にも余るほどのずしりと重い物
だった。
 園長は、あらあこんなに、の後が続かず、その重い物を大事そう
に奥へ持っていくばかりだった。
 双子番外編として、三つ子プラス年子というのがある。小学校低
学年の頃だ。正確には一人目の翌年に三つ子が生まれたという状況
なのだが、これは似ていた。まったく見分けがつかない。私は炭坑
町に育った。炭坑住宅は規則正しく等間隔に並んでいる。子供達は
そのあらゆる場所を遊び場にしていくわけだが、そこでこの四人の
内の一人と会うのだ。そしてしばらくすると、広場や露路の角で再
び会ってしまう。その度、僅かながらはっとするのだが、すぐにさ
っきの奴とは限らないのだ、と考え直すのだった。繰り返すが、四
人は――実質的には四つ子だった――よく似ていた。四人纏まった
時は、一人が年長の役に合った素振りを見せる為、わかるが見た目
はまったく区別がつかなかった。
 四人が揃うと、どうしてもそこが、臨時の舞台と化してしまった。
見る物は誰も中途半端な笑いを口元に泛べ、眼の色に輝きが増して
しまうのだった。四人の腕白は、アニメの登場人物を思わせた。私
より一つか二つ年長だった為、その言葉を口にすることはできなか
ったが、大人達からは随分言われたに違いない。
 私は小学校高学年から、ボーイスカウトに入っていた。その中の
一つ下に男の双子が居た。中学に上がって、私が上級班長となった
時、二人を見分けるのに苦労した。同じ階級の制服を着ていて、い
つも以上に見分けがつかないのだった。
 それが思いがけない事情で簡単に見分けがつくようになった。
 記録会の走り高跳びの練習時、二人が揃ってバーの高さを調節す
る役で支柱の両側に立っていた。それだけでも多少、おかしな絵だ
が、一人の選手が正面跳びに失敗して、足をバーに引っかけてしま
った。普通に落としてくれれば何の問題もなかったものを、上から
力が加わってしまい、バーが限界までしなった。その溜まったエネ
ルギーが支柱を横方向に跳ね飛ばした。高さを調節する螺子が双子
の片割れの顔の高さに突出しており、鈍い音と共に皮膚を破った。
 埃っぽいグラウンドに赤黒い血が滴った。
 それ以降、彼の顔には盛り上がったかぎ裂きの傷ができ、容易に
見分けがつくようになった。しかしそれで却って気を遣ってしまう
ことになった。すぐに正確な名を呼ぶのはその傷痕をなぞるようで、
心苦しいのだった。
 高校に入ると、そこにも男の双子がいた。船の艫とみよしに、由
来した名の二人だった。犬の顔を見るとその狂暴さが、不思議な程
精密に知れる。彼らは似ているが故に、狂暴さを数値に換える働き
をしてしまった。概ね彼らの顔は、類型として人々が頭に泛べる孫
悟空の顔をしていたが、艫の方が温和の性格を現わすとすると、み
よしの方は顔の部品一つ一つが少しづつきついのだった。目尻は上
がり、鼻翼は鋭角で、頬は削げていた。私が何かの用事でみよしの
クラスを訪れると、意味もなく遠くからねめつけていた。
 幾つかの私に多少なりとも関わりのあった双子を見てきた。いず
れも私と同年代であるから、多分家庭を既に持ち、子供もいるであ
ろう。双子それぞれ配偶者と共にヒエラルキーを下方に伸ばしてい
るだろう。
 ところで、私の家系のヒエラルキーを二つ溯ると双子に当たる。
父方の祖父は双子で、付けも付けたり、鶴吉に亀吉である。私は鶴
吉側の孫に当たる。
 父によると、この二人が瓜二つであったそうだ。
 元々、私の家の出は岩手県で、盛岡の在の百姓だったらしい。詳
しい事情は知らないが、家は亀吉が継ぎ、鶴吉は一人北海道に渡っ
た。
 父が予科練へ志願し、実戦にまみえることなく終戦を迎えた時、
こんな機会は二度とないと岩手の本家に寄ったそうだ。広い敷地の
玄関先に立っているのはまさしく自分の父親で、それ以外の何者で
もなかった。
 父は亀吉叔父に、何でも喰っていいぞ、と農園を示され、かぼち
ゃ程もある林檎をむさぼり食べた。亀吉叔父に、それは馬の餌だ、
と笑われた。父は一晩の寝床を得て帰路に赴いた。
 鶴吉は北海道に渡り、飯場を転々とした後、材木の伐採で大儲け
をした。その金で道央の山間地を買って農業を始めた。今でいうと
行政区丸ごとの広さである。
 それ以降、衰退の一途を私まで続けている。
 双子は何故あるのだろう。時折、亀吉の孫という人に会ってみた
くなる。

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行列の出来る店

作者 : じろう
Website :
文字数 :
  「はぁー」
  和雄は地面に映る自分の影をぼんやり見つめたまま、1つ大きな
ため息を吐いた。和雄はゆっくりと、そして少しぐらいはという期
待と共に顔を上げたが列の先頭はまだまだ見えず、もう一度大きな
ため息を吐いた。
  いま、和雄は長い行列の一部となっている。時計は、持ってはい
なかったが、ほんの1m進むのに10分はかかっているように思えた。
いや、それ以上かかっていたのかもしれない。
  和雄はこの行列の一部となってから、どのくらいの時間がた
つのか、ふと思い浮かべてみた。が、いつから、なぜここにいるの
か思い出せない。考えながらふと右の方へ顔をやり、はじめて周り
の風景がおかしいことに気づき、それと同時に自分がどうしてここ
にいてこの行列に加わっているかを理解した。
  まわりは、深い霧のようなものに覆われていて、その霧は永遠の
彼方まで続いているように思える。その殺風景な中にただ一本の道
がひかれてあり、その道だけがスポットライトにでも照らされてい
るかのように明るかった。その道には一本の行列が先頭も後尾も見
えないくらい続いていた。
  和雄は、こんな景色を見て驚くことはなかった。そう、自分が命
を落としたことを思い出したのだ。ここは、あの世なのだ。
  和雄は少し酔っ払っていたのだろう。だが、意識はしっかりして
いたはずだ。だからこそ、交差点の角から飛び出してきたバイクの
ことも絵に描けるくらい良く覚えている。そして、あまり痛さがな
かったことも。
  和雄は自分の一生を思い浮かべていた。38歳という若さでこの世
を(いや、いまの時点ではこの世ではないが…)去ってしまった。
あまり後悔はしてないのだが、親のことだけは気になる。親は一人
息子である自分の死を悲しんでいるだろう。母は2年前にパートで
出ていた工場で誤って塩化ビニールの液体を頭からかぶり、視力の
半分を失った。だがそれだけでは、済まされず母の視力は今なお低
下し続けている。あと1,2年で母の目は何の役目も果たさなくな
る。まぁ、親父がまだ健在なので少しは安心なのだが…

  そんなことを考えていると一人の男がこっちに近づいて来ること
に気づいた。その男はずーっと前列の方から、ゆっくりと近づいて
くる。よく観ると、その男は一人ずつ丁寧に一枚の紙を渡している。
3分に一度くらい一歩進むこと以外にすることのなかった和雄は、
その男に釘付けになっていた。

  しばらくして和雄が3mも進まないうちに男が和雄の横に立ち、
何も言わず、表情もかえずに紙を手渡した。が、和雄は、紙の内容
に興味のすべてを奪われていたので、その男の無表情の顔にさえ気
づかなかった。

  「あなたのなりたいもの」

  その紙にはそう書かれていた。確かに日本語ではないのだが、和
雄はそれを読むことが出来、理解が出来た。だが、そんなことにも
和雄は気づかなかった。
  「なりたいもの?」目を通していくと、それは、次に生まれ変わ
る希望を書けというものであることが分かった。何かつまらない冗
談でも聞いているようだった。こんな薄っぺらの紙切れで次の生ま
れ変わる自分が決定されるのか?和雄は拍子抜けしていた。それで
も、自分で次の自分を決めれるんなら、それは、それでいいじゃな
いかと、生きている時から楽観的だった和雄は、鳥になって、世界
中を渡り歩こうかとか、それともイルカになって気ままに海を泳い
で暮らそうか、いや、やっぱり人間が一番だ。そんなことを思い浮
かべて、早くもわくわくしていた。が、それもつかの間、紙の下の
方にある1行の文を見つけて、それまでの笑みは消え、顔が少し引
き攣るのが分かった。

  「昆虫に限る」

  なんてこった!  昆虫だって?!
  確かに生きていて、とくに誰かの為になったり、こんないいこと
をしましたって言えることはないけれど、人殺しはもちろん、人を
だましたり、うそをつくことも人よりは少ないと自信を持って言え
る。それがなぜ昆虫、寄りによって昆虫なんだ。虫を触ることはも
ちろん、見るだけでも体中に鳥肌が立ってしまう和雄は、さすがに
こたえ、しばらく前に進むのもやめて立ち尽くした。和雄と前の人
の間には、1mほどの間が開いた。

  どれくらいの時間が経ったのだろう。行列はずいぶん進み、もう
先頭が見えていた。先頭には、いわゆる閻魔大王というやつだろう
か、男が一人椅子に腰掛けていた。和雄はそちらをちらっと見たが、
そんなものには、興味がなかった。和雄はまだその紙に書かれてあ
ることで頭がいっぱいで、こんなのは、誰かの悪いいたずらだと、
こんなところで誰がいたずらをするんだと分かっていながらも、思
うようにしていた。

  それから時間が経ち、和雄の順番までもう少しというところで、
先頭の方から声が聞こえてくるのに気づいた。最初はあまりに小さ
くて聞き取れなかったが、少しずつ前に進むにつれて、それは、先
頭の人が何に生まれ落ちるかを宣言しているのだと分かった。
  「私は、かまきりになります」
  そこで、はじめて自分以外の人も昆虫にならなければならないと
知り、何も状況は変わってないけれど、少しほっとした。
  「私は、歌うことが好きなので鈴虫になります」
  なんだそりゃ。そんな理由で自分の後世をきめるのか?しかも鈴
虫は歌っているんじゃないぞ。
  「私は、子供の頃、ボクサーになりたかったので蚊になります」
  おいおい、蚊になって、蚊除けスプレーや人の手をかいくぐりな
がら、針を刺すヒットアンドアウェイに生きがいを感じようっての
かい。
  みんなたわいもない理由で選んでいく。
  「私は……空を自由に飛びたいから、とんぼに…」
と、言うのを聞いて、和雄はあることが頭に浮かんだ。もしかして
みんな本当は、昆虫になんてなりたくないのではないだろうか?
それでも、ならなければならないので適当な理由をつくり、自分を
納得させようとしているのではないだろうか?
  自分もたいした理由なんて作れるはずないのに前の人の理由を馬
鹿にしたことを後悔した。

  そうしているうちに和雄の順番はもう次の次にまで迫っていた。
それでも、まだ和雄はなんの昆虫になるのか決めれずにいた。その
場で適当に決めるんだろうなと、もう人事のように考えていた。
強そうなのでカブトムシにします。とでも言うのかなぁと、やっぱ
り人事のようだった。
  そして和雄の番が来た。
  和雄は、虫になったら多分、今までの記憶、友人のことや付き合
ってた彼女のこと、親父や母のことも忘れてしまうんだろうと考え
ながら、意を決して言おうとしたとき、ふと、和雄の頭の中に去年
の夏に母が言った言葉がよぎった。
  和雄は、頭を上げ、力強く宣言した。

  その年の秋の初めの頃、東京のある家の軒先に一匹の季節外れの
蛍が迷い込んだ。
  「おぉ、こんなところに蛍が一匹おるよ、かぁさん」
  「まぁ、こんな時期、こんなどぶ川しかないようなところに…」
  夫婦は、蛍のあたたかい光にみとれた。
  「うちが、目が見えんようになる前に蛍を見ることが出来るなん
て…」
  妻の目には、涙が浮かんでいた。

  蛍は、まるで夫婦を楽しませるために現れたかのように、いつま
でも、2人を照らしつづけていた。

第1回3000字小説バトル
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ハヤリとスタレ

作者 : 川島圭 [カワシマケイ]
Website : http://www03.u-page.so-net.ne.jp/yb3/k-k/
文字数 : 2833
「オレはね、このぐらいでいいのよ。このね、どっちつかずの微妙
な立場。人間細く長く生きなきゃ。いっぺん火が勢い良く燃えちゃ
ったらね、ろうそくなんてすぐ溶けて無くなっちゃうんだよ、ホン
ト」
 行き付けの居酒屋「はる」のカウンターに座って、コップにつが
れた日本酒をちびちびとあおりながら、柴健史は誰にともなく呟い
た。柴の独り言を耳にした店員や周りの客たちは、「そうだな」
「いいこと言うよ」などと適当に相槌を打った。
 カウンターの奥にあるテレビでは、人気テレビ番組「ぼくは人気
者」の司会、室井俊平が華麗なダンスを披露し、スタジオにいるら
しい女性客たちにキャーキャー言われていた。
 室井俊平、通称シュンペイはつい先頃アイドルグループ「X・フ
ランシスコ」を脱退し、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ。多くの若者た
ちが彼のファッション、発言、そぶりをまね、街にはシュンペイも
どきがあふれた。彼が主演するドラマは常に高視聴率をあげ、歌を
歌えば大ヒット。まさに彼はハヤリだった。
 けれどみんなうすうす気付いていた。彼がいずれはスタレになる
だろうこと。いったんハヤリになってしまったが最後、とことん消
費し尽くされ、そのあとは誰にも見向きされないスタレになる。
 柴健史は誰よりもそのことを意識していた。だから彼はハヤリに
はなりたくなかった。負け惜しみではなく、本当に怖かったのだ。
ハヤリにもスタレにもならず、細く長く生きていければそれでいい、
彼はそう思っていた。
 彼はコップに残った酒を一気に飲み干し、勘定を済ませて店を出
た。

 自分のアパートに戻った柴は、床に散乱しているゴミを足でどか
し、テレビの前に腰を下ろした。スイッチを入れチャンネルを合わ
せると、ブラウン管の中で彼はあきれるほど美味しそうにきゅうり
を食べていた。
 彼がはじめて主演した深夜ドラマ「きゅうり」は、深夜にしては
それなりに高い視聴率をあげ、カルト的な人気を誇っていた。番組
では毎回、彼がきゅうりを一気に食べきるシーンがあるのだが、そ
こが特に人気で、やけに美味しそうにきゅうりを食べる彼の姿は、
静かなブームを巻き起こしつつあった。
 本当はきゅうりが嫌いな彼は、無理やりに笑顔を作る自分の姿に
嫌気がさして、テレビを消した。

 深夜ドラマ「きゅうり」が惜しまれつつも最終回を迎えようとし
ていたころ、柴にCMの依頼が舞い込んだ。依頼主は食品会社。新
商品である「もろもろきゅうりU」のCMで、ぜひ彼にきゅうりを
美味しそうに食べてほしいということだ。「またきゅうりか」と彼
は少々うんざりしつつも、本当に美味しそうにきゅうりを食べ、そ
の仕事を見事にこなした。
 ろうそくの炎が、勢いを増しはじめた。


 柴健史は、今や時代の寵児だった。「もろもろきゅうりU」のC
Mは大ブームになり、その勢いに乗って、深夜ドラマ「きゅうり」
の続編「きゅうりたち」が夜の連続ドラマとして作られた。「きゅ
うりたち」は大ヒットし、彼には続々と仕事の依頼が舞い込んだ。
彼は週に6本のレギュラー番組を抱え、ドラマもバラエティも見事
にこなす彼の評判は上がる一方だった。まさしく彼はハヤリになっ
た。
 誰もが彼の成功をうらやんだが、この熱狂は彼を不安に陥れるば
かりだった。彼が恐れていたことが現実になってしまったのだ。ハ
ヤリはスタレの前段階でしかないと彼は信じていた。現に、少し前
までハヤリであった室井俊平は、もはや以前の勢いがなく、スタレ
へと向かう坂道を転げ落ちていた。
 柴もいつそうなるか分からなかった。

 崩壊はちょっとしたきっかけから始まる。
 彼は昼の人気バラエティー番組にゲスト出演した。司会の熟年タ
レントは彼にきゅうりを食べることを求めた。彼は嫌がったが、会
場には大拍手と共にきゅうりコールが湧き起こった。その強引さに
うんざりして彼は言った。
「実はオレ、きゅうり嫌いなんスよ」


 柴健史は、スタレた。


 週に1本だけになってしまったレギュラー番組の収録を終え、柴
は居酒屋「はる」に久々に顔を出した。ハヤリだったころは、周囲
があまりに騒ぐため、とても出入りできなかった。スタレてしまっ
た今なら誰も騒ぎはしない。
 彼の顔を見てひそひそ話をはじめる客たちには目もくれず、コッ
プいっぱいの日本酒を一気に飲み干して彼は言った。
「だから言ったろう、オレは全部分かってたんだ!」
 ふらふらになった足で何とか自分の家まで戻ると、1通の封筒が
来ていた。封をあけると、丁寧な字で書かれた手紙が入っていた。


世の中は移ろいやすく
人の心もまた然り
悲しむなかれ
それが世の常
どうせ誰もが燃え尽きる
それなら派手に燃えましょう


あなたと、わたしの、マッチ箱   スタレ倶楽部


 いささか盛り上がりに欠ける商店街の、さらにさびれた裏道にそ
のバーはあった。
 スタレ倶楽部。
 扉に書かれた名前を確かめると、柴はゆっくりと扉を開け、中に
入った。暗い照明のもとでカウンターに座っていた数人の客がこち
らを振り向いた。皆かつて一世を風靡した有名人ばかりだ。「ナイ
ジェリア・ラブ」のボーカル、リョウ。「はだしのメグ」の主演で
一気にスターダムにのし上がった斎藤めぐみ。「あンたのせい」で
高橋賞を受賞した小説家、服部茂。そして、シュンペイこと室井俊
平。
 空いている席に座ると、隣にいた室井俊平が声をかけてきた。
「残念だったね、君はもう少しいけると思ったんだけど」
 柴は日本酒を注文し、室井を見て首を振った。
「オレは分かってたよ。あんたがスタレることも、オレがスタレる
こともね。ハヤリになったってどうせ結局はスタレるんだ。無意味
だよ。周りがいくら騒いでても、オレは辛いだけだった」
「そうか。けどね、僕はたとえ一時のことであっても楽しかったな。
ハヤリになれる人間なんてそうはいないんだ。たいていの人は静か
に死んでいくのに僕らはちょっとだけでもスポットライトを浴びら
れたんだ。それでいいじゃない。細く長く生きるなんて、何の魅力
も感じないね」
「オレには理解できないよ。ダメになるのが分かってて楽しむなん
て、オレには到底無理だ」
「けどね、誰だって結局は死んじゃうんだよ」
 確かにその通りだった。柴は何も言い返せず、ぼんやり天井を仰
ぎ見た。
 その日を最後に、室井俊平はスタレ倶楽部に現れなくなった。

 半年後、スタレ倶楽部にいるのは柴健史だけになった。


 ジョニー佐々木は疲れきった体でマンションに戻った。デビュー
シングル「マッハ3」で一世を風靡したのはつい1年前。しかしそ
の後はどの曲もデビュー曲を越えられず、女子高生には「そんな人
いたねー」と笑い飛ばされる始末。自分でも才能の限界を感じ、も
うどうにもならなかった。
 郵便受けを覗くと、封筒が入っていた。彼は封を切り、中に入っ
ている手紙を読んだ。


世の中は移ろいやすく
人の心もまた然り
悲しむなかれ
それが世の常
どうせ誰もが燃え尽きるけど
せめて静かに燃えましょう

あなたと、わたしの、心の隠れ家   スタレ倶楽部

第1回3000字小説バトル
Entry16

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Blue Pain

作者 : ヒロト
Website : http://www.or.jp/~hirotok/index.htm
文字数 : 2990
 先発の茂木さんがまた打たれた。
 こりゃあマズいかもなと呟いたカントクの首がぐるっと回って俺
を見る。試合中だというのにひどく眠そうな顔だ。
「竹中、お前、とりあえず準備しとけ」
 馬鹿言わないでくださいよ、あの茂木さんが三回途中でノックア
ウトされるはずがないでしょう――そんな言葉を言えないまま飲み
込んでしまう自分が嫌になる。四十をひとつ越えてから、茂木さん
の球威はさっぱり衰えてしまった。もはや周知の事実だ。十五年前
の日本シリーズの胴上げ投手も、寄る年波には勝てないのだろう。
俺が甲子園を目指していた頃、ブラウン管越しに見た眩しいばかり
の輝きは、もう影を潜めてしまっている。きっと誰よりも、茂木さ
ん本人が一番わかっているにちがいないが。
「……ういっす」とだけ答えて俺は立ち上がり、グラブにとまった
赤とんぼを追い払う。平泳ぎをするみたいに夕闇を滑ってゆく透明
な羽根が、灯が入ったばかりの照明をぎらぎらと反射した。こいつ
らの季節が来て、スタンドから客足は遠のき、俺の出番が増えてゆ
く。昨年と何も変わらない。
 俺はベンチ裏からブルペンへと続く鉄の扉を押し開けた。
 どこから放たれたものかわからない尖った野次につられて振りか
えると、マウンドでは茂木さんが、眉間に深い皺を寄せつつ、ユニ
フォームの袖で汗を拭っている。うつむいた四角い顔が蝋細工みた
いに蒼ざめて見えるのは、たぶん照明のせいだろう。その茂木さん
の隣で、マスクを外し腕組みをして偉そうに語りかけているのは、
俺と同期の大倉だ。どうせまた神経質な小言を繰り返しているにち
がいない。図体ばかり大きいから、レガースやプロテクターが肉に
圧縮されて悲鳴をあげているようにも見える。太りすぎたロブスタ
ーを俺は想像してしまう。きっと中身はスカスカだから、美味いは
ずがない。投手をいたわる脳みそまで不足している。大倉が辛い注
文ばかり付けるから、茂木さんはいっそう消耗してしまうのだ。そ
うに決まっている。ぜったい、大倉のせいだ。
 ベンチにまで溢れてくるカクテルライトに背を向けて、俺は口の
中で粘りつく唾を吐き棄てた。

 切れかけた蛍光灯が憂鬱そうにまばたきをする廊下を通り抜ける
と、角の部屋から日陰の土の匂いが漂ってくる。いつもながら、鼻
の奥にカビがはえたような気がするのだが、決して不快ではない。
夕暮れ時の神社の冷えた空気と同じ匂いがする。あの境内で親父と
キャッチボールをしなくなったのは、いつからだろうかと考えなが
ら、春に生まれたばかりの息子のことを俺はぼんやりと思い浮かべ
る。息子とキャッチボールをする頃にも、俺は現役の投手でいられ
るだろうか。微妙なラインだ。
 シロアリに食い尽くされた板を引き剥がすように扉を開ける。
 ブルペンに足を踏み入れると、コンクリートの壁と天井に囲まれ
ているせいか、土の匂いがいっそう濃くなった。部屋の隅にしゃが
みこみ、ラジオ中継に聞き入っているのは、ブルペンキャッチャー
のサメさんだ。他の連中は控え室でくつろいでいるのだろう。今日
もお世話になります、と後ろ姿に声を掛けると、広い背中に描かれ
た「SAMESIMA」のアルファベットと「121」の数字がよじれて、
ひとなつっこい笑みがこぼれた。筋骨隆々なくせに、子牛みたいに
つぶらな瞳。その瞳に向かって、俺は帽子を取り、軽くおじぎをす
る。かわいいと言ってしまうのは失礼だから、言わないでおく。
「タケちゃん、残念だったなあ。しばらくはタケちゃんの出番、な
さそうだよ」
「え?じゃあ、やっぱり茂木さん、抑えたんですね?そうこなくっ
ちゃ」
 残念と口にしながらも、サメさんは嬉しそうだ。やはり茂木さん
のことが気になっていたのだろう。茂木さんとサメさんが「球界の
おしどり夫婦」と呼ばれていたのは、もう十年以上も前のことだが、
ふたりは今でも最高に息の合ったバッテリーだと俺は信じて疑わな
い。ただちょっと、サメさんの腰の故障が長引いているだけなのだ。
もし復帰すれば、大倉なんぞに負けるはずがない。
「ま、ぼちぼちやっとこうか、タケちゃん」と俺に笑いかけて、サ
メさんは立ち上がり、俺の左手にボールをねじ込む。ミットのよう
に膨れ上がったサメさんの堅い指先が、俺の掌をかすめてゆくとき、
白い筋のようなものを残した。
「マジっすか?今日は茂木さん、完投しちゃうんでしょ?」
 俺はそう答えつつ、小脇に抱えていたグラブを右手に装着する。
サメさんは沈黙を守ったまま、目尻に深く刻まれた笑い皺のなかに
何かを隠していた。
 今季の茂木さんの完投数がゼロだということくらい、俺にもわか
っている。慢性的な投手力不足を何年も解消できないでいるチーム
事情が、茂木さんの引退を許さないことも。フロントはいったい何
をやっているのだろう。とにかくローテーションの柱になれる投手
を補強しなくては、来年もまた最下位街道まっしぐらだ。もちろん、
ドラフトで上位指名されておきながらちっとも成長していない、俺
みたいな選手にも責任の一端があるとは思う。そんなのは痛いくら
いわかっている。だが、わかったからって、どうすればいいのか、
わからないのだ。期待されるには遅すぎる。
 ラジオが中古車販売店のコマーシャルをがなりたてている。高く
買いますあなたの愛車……。そんな陽気な歌声に合わせて、俺は柔
らかいマウンドをスパイクで整える。
 左のワンポイント・リリーフなどと呼ばれてはいるが、別にスペ
シャリストなんかじゃない。ただ、技術も才能も足りないだけの話
だ。俺を買ってくれる球団など他にあるはずもない。それだけは、
嫌になるほどはっきりわかっている。

「ん、ナイスボール!」
 サメさんの声はよく響く。コンクリートの壁がびりびりと震えて
いるみたいだ。グラウンドに出たら、ホームから外野まで肉声で指
示が届くにちがいない。
「今日も調子、いいんじゃないの、タケちゃん?」
「そんなこと、ないですって」
 俺は苦笑しながらも、悪い気はしない。何せ昔から憧れていた歴
戦の名捕手におだてられているのだ。まるで自分が十五年前の茂木
さんみたいに思えてくる。あの日本シリーズのマウンドで、茂木さ
んは何を考えて投げていたのだろう。
「ようし、低めぎりぎりいっぱい!」
 バスン、と景気のいい音をたてて、黒光りするミットの中に白球
が吸い込まれてゆく。サメさんはキャッチングが抜群に上手いのだ。
だから、ボールがそこに収まるべくして飛んでゆく、そんな感じが
する。大倉相手だと、こうはいかない。大倉のミットはせいぜい湿
った座布団だ。
「うわっ、スライダーも切れてるねえ。……次、目一杯のストレー
ト、十球いってみようか」
 サメさんが大きな目を丸くして、オーバーに驚いてみせる。サメ
さんの大声がラジオの音を掻き消しているせいで、ゲームの進行状
況が掴めないが、そろそろ俺の出番が近づいているらしい。もうじ
きブルペンコーチもやってくるにちがいない。それからリリーフカ
ーに乗り、茂木さんからボールを受け取って、とりあえず責任をま
っとうする。いつもと何も変わりはしないだろう。だからずっとブ
ルペンでサメさんとキャッチボールをしていたいんです、そう言っ
たら呆れられそうだから、言わないでおく。
「いいぞ。その調子で、ラスト一球」
 俺は冷えた空気と土の匂いを胸一杯に吸い込む。

バトル結果

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第1回3000字小説感想票
作品受け付け───1999年8月10日〜9月30日
作品発表─────10月2日〜
人気投票受け付け─10月2日〜20日迄
結果発表─────10月23日



記念すべき
第1回3000字チャンピオンは
鮭二さん作『ハンガーマン』に決定!!
鮭二さん、おめでとう。
心より感動の拍手を贈ります。



作品
ハンガーマン(鮭二)4
Blue Pain(ヒロト)2
街灯の下(pavane)1
ノイズはいらない(君島恒星)1
軽い死、重い自由(永井真咲)1
扇風機(越冬こあら)1


ハンガーマン(鮭二)

Blue Pain(ヒロト)

街灯の下(pavane)

ノイズはいらない(君島恒星)

軽い死、重い自由(永井真咲)

扇風機(越冬こあら)