第10回3000字小説バトル
Entry12

貨道

「店員さん、よろしいですか?」
 商品を並べていた三島雄平に話し掛けて来たのは、老いた紳士だった。
「!?」
 雄平は取り落としそうになったノンカロリー圧縮米を両手で持つ。
「なんの――用?」
「これ、使えますか」
 老紳士は流れる様な動きで、それを差し出した。
「え? 実貨?」
「はい」
 実貨――電子マネーの普及により、各国で発行中止になりつつある紙と金属の貨幣だった。
「んなもん出されてもねぇ」
 本来なら、商品を持って出口のゲートを通れば、客のパーソナルコードに反応して、支払いが自動的に済む。店員の姿を見る必要すらない。
「そうですか」
 老紳士が寂しげな笑みを浮かべ、実貨をしまおうとした時。
 チャリン。
 硬貨同士の触れ合う澄んだ金属音が鳴り響いた。
(あ――)
 なぜか雄平の耳には、その爽やかな音が、いつまでも残っていた。

「わはははははは、マジかよ、みっちゃん?」
 休憩室で店長が、文字通り腹を抱えて笑う。
「そんな奴いたの、今時? 二十二世紀にもなろうって時代に?」
「幻や幽霊でなけりゃね」
 雄平は瓶コーヒーを飲む。
「幽霊と紙一重だって。どこの健常者が実貨なんて持ち歩くかっての。あー、おかしい」
 笑いすぎたのか、店長は涙目になっている。
「そもそもありゃあ、余りを返さなきゃいけねえんだぜ。最低でも計算検定四級は取らなきゃ」
「それは……難しいかな」
「そうそう。そんな客は迷惑迷惑。今度来たら塩か金属の実貨でもぶっつけて追い払っちまえ」
 空瓶を持って、雄平は立ち上がった。
 なぜか、店長に対する不快感を覚えながら。

「あれ? こんな所に?」
 その日、雄平が足を止めたのは、コインショップの前だった。
 いつも勤務後に立ち寄る駅ビルの本屋の奥、書籍売場と文房具売場の間。見えてはいたが、完全に通り過ぎていた店。
「へぇ」
 ショーケース内には、和同開珎や一分銀、はたまた平成、と年号と打たれた紙幣までが、ずらりと並んでいた。
「……綺麗だ」
 お金が綺麗。
 そんな事考えも――いや、お金の形を意識した事自体、なかった。
(これさえ、あれば)
 老人から実貨を受け取り、残りを返す自分の姿が脳裏に浮かぶ。
 彼は何かに導かれるように、数枚の紙幣と硬貨をポケットに入れた。
 そしてゲートをくぐった後、携帯端末を確認する。
「あ……思ったより高い」

 アパートの部屋で、雄平は机に向かう。
 パチ、パチパチ……パチ。
「えと、百三十一円、と」
 満足げに頷いてから、彼は算盤の珠を戻した。
「さあ、次!」
 数字の書かれた紙を、目をつぶって何枚か取る。それをさっと机の上に並べ、たどたどしい手つきで算盤を弾き続けた。
 一時間ほど算盤の練習を続けた雄平は、今度は本を開く。
「ええと、『いらっしゃいませ』『千円お預かりします』、『三百円のお返しです』、『毎度ありぃ』――は、違うのか」
 雄平は眉を寄せる。
「客――お客さんと話す事って、ほとんどないんだよなぁ」
 古本屋で買った敬語の本をめくる。
「実貨を使うのに、こんなに勉強が必要とは思わなかったな」
 それから雄平は、ビデオに自作のラベルが付いたディスクを入れ、再生する。
 過去の映画やドラマの接客シーンが次々に表示されていく。
 雄平はじっと画面を見つめる。
(商品を見て計算して、実貨を受け取って釣りを返して頭を下げる)
「綺麗だな……」
 小さく首を振る。
「いや、実貨の方が、二千年以上も昔から使われてたんだ」

 一ヶ月が過ぎた。
 商品を自分のポケットやバッグに入れた客がゲートをくぐって出て行こうとする。
(ええと、二千四百……二円。計算は完璧、だが)
 大きく深呼吸をした。
『……ありがとうございました』
 かすれた声が、喉の奥に貼り付いたまま出て行かない。
(っ。今日こそ! これが言えないで実貨は使えない!)
『ありが……』
(ええい!)
 ぐっと腹に力を入れて足を踏ん張った。
「ありがとうございました!」
「!?」
 客はびくっとして僅かに振り向くと、走って出て行ってしまった。
「――みっちゃん! 何客驚かしてんだよ!?」
 ほとんど同時に店長が走って来た。
「いや、挨拶を」
「バカ、どこの世界に客と喋るスーパーの店員がいるんだ」
 好奇の目で雄平たちを見る客を、店長は睨み返して追い払う。
「でも」
「いいから、来い!」
 雄平は店長に控え室に引っぱり込まれる。
「――お前の仕事は店員だぞ? 客と喋る事じゃない。ったく、悪い評判でも立ったらどうするつもりだ」
 チャリン。
 何か雄平が言おうとした時、ポケットの中で硬貨が鳴った。
「なんだ、今の!」
 店長は彼のポケットに手を突っ込み実貨を引っ張り出す。
「なんかおかしいと思ったら、実貨だと? 事もあろうに実貨だと? このオタク野郎!」
「なんでそんなに実貨がいけないんだよ? 実貨のやり取りって、綺麗なんだよ?」
「こっちは仕事してんだよ! お前の趣味に付き合う理由はこれっぽっちもない!」
 キンッ。
 床に投げ付けられた硬貨が、音を立てて転がった。
「……趣味――そう、趣味かも知れない」
 雄平はしゃがんで実貨を拾う。
「でも俺は、実貨の扱い方を勉強していて思ったんだ」
 硬貨を集め、ポケットに収める。
「実貨を使う姿には美がある。そこに文化があった、って」
 それから雄平は店長に深く頭を下げた。
「辞めさせて頂きます」

 数年後。
 割烹着姿の雄平が、厨房の前で出来上がりを待つ。
(未練だな)
 無言で並べられるこだわりも工夫もない蕎麦を、黙々と運ぶ。
(お客さんはいても、声一つ――)
「――こんにちは」
「!?」
 反射的に雄平は入口を向く。
 客に見覚えがあった。忘れた事もなかった。
「おや、新しい店員さんですね」
 微笑んだのは、間違いなくスーパーで実貨を使おうとしたあの老紳士だった。
「あ、いや、その」
「失礼。注文をお願いしてよろしいですか? 生憎端末を持ち合わせていないもので」
 厨房から店主が雄平に目配せする。逆らわずに言うことを聞け、そんな身振りだった。
 雄平は一度深呼吸をしてから、記憶を総動員して言葉を選ぶ。
「はいっ、ご注文をどうぞ」
「ほぅ……?」
 老紳士は驚いたような顔でまじまじと雄平を見た後、にっこり微笑んだ。
「月見蕎麦を頼みます」
「う、うけ、承りました――店長、月見蕎麦一つ」
 三分と経たないうちに、機械的に作られた月見蕎麦が、カウンターに置かれる。
「お待ち――たせしました」
 雄平は記憶を総動員しながら声を掛け、蕎麦を運ぶ。
「どうもありがとう」
 礼を言う老紳士の仕草は、芸術的と言えるほどサマになっていた。
「いえ、そのええと、ゆっくりどうぞ」
 それだけようやく言って、雄平は老紳士のテーブルを離れた。
(や、やった、やったぞ)
 鼓動の高鳴りを押さえられぬまま雄平は仕事に戻る。
 二十分ほどして、老紳士は箸を置いた。
「御馳走様。実貨で申し訳ありませんが、お代は置いておきますよ」
 紙幣を一枚テーブルに置いて立ち上がろうとする。
 雄平はその一瞬に、釣り銭を計算し、ポケットから――。
「釣りはいらないよ」
 あくまでさらりと、老紳士は言った。それは、この芸術的時間を締め括るのに、充分な優雅と粋に満ちていた。
(美しい……)
 雄平はただ無駄になった釣り銭を、割烹着のポケットの中で握り締めていた。

 一期一会を基本とした実貨を使う芸事、「三島流貨道」が拓かれるのは、これから二十一年後の事である。