ものぐさ男殺人事件
ごんぱち
昔、ものぐさな男がおりました。
ある時、女房が里帰りする事になりました。
ものぐさがって飯を喰たべない事を心配した女房は、ヒモに餅を括り付け、男の首にかけておきました。
数日経って、女房が帰って来ると、男は飢え死にしていました。口の近くにあった餅しか、食べていなかったのです。
女房は逮捕され、裁判を受ける事になりました。
「被告である妻は、被害者である夫のものぐさ加減を知っていた筈、これは故意による殺人だ!」
検事が厳しく言い放ちます。
「被告は日頃、被害者の口の近くまで飯を持って行き食べさせていた。膳に置いた茶碗の飯さえ食わない男が、ヒモに付けた餅をたぐり寄せて食べる。毎日世話をしていた被告なら、それがどれほどあり得ない話か、分かっていた筈だ」
女房は俯いたまま、何も言いません。
「被告は、餅を首に吊す事で、対外的には食事を与えているように見せて罪を免れる事を期待しながら、被害者を餓死させるという、極めて計画的な犯行を実行したものと思われる!」
「裁判長」
弁護士が片手を挙げます。
「発言を認める」
裁判長が弁護士に視線を向けます。
「検察は、被告が餅を食べない事を予見できた、と考えているようですが、果たしてそうでしょうか?」
弁護士は資料のうちの幾つかを広げます。
「被害者は、自ら手を伸ばして食べ物を掴み、食べる事は出来ません。実際の筋力や運動能力があったとしても、精神の作用として行う気がない以上、出来ないと表現する事は差し支えないでしょう」
「だから――」
検事は言いかけますが、発言を許可されていない事を思い出し、黙ります。
「そこで、被害者の母親は、離乳後にそれに気付いてからは、常に口元に食べ物を持って行く事で――丁度赤子に飯を食べさせるようにして――彼を飢えさせないようにしていました。被告は、結婚前にこの事を被害者の母親から聞き、同じ方法で世話を行っていました」
傍聴席には、ものぐさな男の母親が座って、顔を手で覆い、肩を落としています。
「大事なのは、被告がそれ以外の方法を試し、結果を見た事がなかったという事です。或いは、母親は幾度か試した上で、出来ない事を確実に把握していたのかも知れません。けれど、良くできた嫁である被告は、姑の言葉に忠実に従い続け、わざわざ被害者の能力を試すような事はしなかったのです」
「やらせた事がないものを、いきなり出来るものか」
検事が堪えきれずに口を挟みますが、弁護士は余裕の表情です。
「腹が減って、目に見えるような場所に食べ物がある、なのに、食べない。これは、生物としての本能、常識を遙かに超えます。ここまで外れた常識への理解を、被告に求めるのは酷というものでしょう」
「も……もっと早くに気付いている筈だ、結婚して三年だぞ!」
「――静粛に」
裁判長は、女房をじっと見つめます。
「あなた自身の言葉を聞きたい。夫の死を、予見していましたか?」
「……はい」
静かに女房は頷きます。
検事はにっと笑い、弁護士は顔をしかめます。
「何もかも面倒だ、面倒だと言い続け、働きもせず、食事も口まで持って行かなければ食べず、厠に連れて行けば尻も拭こうともしない、交わっても微動だにしない。このまま何十年も暮らすのかと思うと……何度も、首に手をかけようとしました」
「そして、今回の里帰りを好機と見て、殺害したんだな」
検事が余裕の表情で尋ねます。
女房は頷こうとします。
「待って!」
傍聴席の母親が立ち上がる。
「傍聴人が妨害を! 退廷させろ!」
検事が怒鳴ります。
「息子を殺したのは、オラなんです……」
「おっかさん!?」
母親を連れて行こうとする警官を、裁判長は目配せして止めます。検事はその様子に気付き、黙って席に着きます。
「嫁っ子が里帰りをする前、倅の世話をオラに頼みに来たんです」
「でもおっかさん、あの時は、リウマチが辛いから、これからおじさんの家に行くって」
「口実ですよ。もう、倅を死なそうと、思ったんです」
「何故です」
裁判長は穏やかに尋ねます。
「倅はものぐさだった、いつか治る、いつか治ると思っていたけれど、結局そのままでした」
母親は女房を見ます。
「嫁っ子でも貰えば、心を入れ替えるかもと思って世話をしてやったけれども、やっぱり変わらない。嫁っ子は、こんな倅の世話を一生懸命見て、その上オラの世話もしてくれて、その上死んだおっとうを看取ってもくれました。こんないい嫁っ子が、倅のせいで、どんどん疲れ切って行くんです」
母親は涙ぐんでいます。
「倅は人に迷惑をかけるだけのものぐさ者。いっそ、いなくなってしまえば良い、そう思いました」
「しかし、手を下したのは被告だ」
検事の言葉に、母親は首を横に振ります。
「倅は、どんな風に食べ物を置いても、舌と口の届く所までしか食べやしません。もって三日。死ぬに決まってるんです」
「い、いいえ、殺そうとしたのはおらです!」
女房が叫びます。
「食べ難い餅を、選んで、長いヒモに付けて……」
「オラが殺したんだ」
「いいえ、おらが!」
「静粛に」
裁判長が言います。
「つまり、お前たち二人の共犯であるな」
「えっ、おっかあは……」
「嫁っ子は……」
「裁判長!」
「異議は認めない」
裁判長は厳しい顔をしています。
「如何なる事情があるとは言え、この若さで殺された被害者の無念、察するに余りある。それ相応の罰を受けねばならん」
女房も母親も裁判長の厳しい言葉に、黙り込みます。
「二人とも、鋸挽きの刑とする!」
「裁判長様、おっかあだけは、おっかあは悪くないんです!」
「嫁っ子には何の責任もないんです、お慈悲を! お慈悲を!」
「ならん。被害者の恨みをその身に受けるのだ」
弁護士も検事も絶句しています。
「被害者が、今まで鋸を挽いた回数だけ、首を挽く事とする」
「え」
「え?」
「あの……裁判長様、倅は今まで一度たりとも鋸を挽いた事などございません」
「おお、そうであったか。ならば、鎚で叩き潰す。被害者が今まで――」
「あの人は、鎚なんて持ち上げた事も」
「鉈で叩き割ろう」
「いえ、それも」
「釜ゆでだな。今まで汲んだ水と同じ量の灼けた油を」
「一滴も汲んだ事は……」
それから幾度か繰り返した後。
「ふむ。何かないのか?」
「はあ」
「何分、ものぐさだったもので」
「……だとすると」
裁判長はにんまりと笑いました。
「仮に、被害者が喋れたとしたら、こう言うのではないか? 『恨みを晴らすなど、面倒臭い』と」
女房と母親は小さく頷きます。
「お前たちが他の誰かを殺す事になるとは考えられない。しかも、被害者が許しているのであれば、敢えて罪を科す事もあるまい」
「え、えええ!?」
「本当でございますか!」
「うむ、仲良う暮らせよ」
裁判長はにっこりと笑いました。
「これにて閉廷!」
退廷した裁判長は廊下を歩きます。
「裁判長」
書記が声をかけて来ます。
「良かったのでしょうか、あの判決で」
「私は――思うのだよ」
裁判長は静かに言います。
「あの男、ひょっとして敢えて食を断って死んだのではないか、とな」
「自害、と?」
「己の異常な性質が、決して治らず、愛する人を苦しめていると知った時……選べる手段はそう多くはない」
「考え過ぎ……ではありませんか?」
「かも知れん、が、今さら判決を思い返すというのも」
裁判所の外に出ます。
「面倒な話じゃあないか」
広がる空は青く澄み渡っていました。