第12回3000字小説バトル
Entry18
 
星のもと
伊勢 湊
 
 
 さっき最後の一般入場客を帰し、とうとう古い天文台はその仕事を完全に終えた。アルバイトで受付と事務をしてくれていた大学生の静恵ちゃんは仕事がなくなることよりもこの町から天文台がなくなることを悲しんでくれた。化粧っ気のない今時に似合わない純朴で優しい子だ。まだ三十半ばの僕は二週間の休暇のあと、天体研究所への悪くない条件での再就職が決まっていた。正直いうと給料は大幅に上がる。それでもこの地元のシンボルともいえた天文台がなくなるのには僕も胸を痛めた。それでも僕はまだいいほうなのかもしれない。若いころからずっとこの天文台で働き四十年近くになるという所長の友崎さんは六十歳になる。星しか知らないこの人に再就職の口はない。いや、それよりももう星と関わった仕事ができないというのが友崎さんには一番辛いはずだった。
 天文台内の電気を全て消し、九月の涼しくなってきた空気の中で三人並んで丘を下るゲートへの短い小道を歩く。「おつかれさん」と小さく呟きながらゲートの南京錠を閉める友崎さんの背中から視線を上げると新月の夜の意外に明るい星々に照らされた天文台が闇の中に浮かんで見えた。

 小さい頃から星が好きだった。田舎町の田圃の真中にあった藁葺き屋根の借家までの細いあぜ道をいつも泣きながら星空を眺めて歩いた。小学校に入ったばかり東京から引っ越してきたばかりの頃は体も小さく慣れない言葉のせいもあってよく虐められていた。共働きだった両親が帰ってくるのは夜遅くなってからで、古い借家に一人でいるのはなんとなく気味が悪く縁側に出て星を眺めながら両親の帰りを待っていた。星が投げかけてくる淡く小さな光は、けれども集まると優しく闇に浸透し、なにか自分を守ってくれているような気がした。
 その頃の想いからなのか、生活が安定してきて公団住宅に引っ越してからも、やがて持ち家を建ててからも僕は夜空を眺め続けた。そして自分の想いに正直に大学で天文を勉強するようになった頃から何かが変わった。夜空に浮かぶ淡い光は鉱物かガスの固まりに変わっていった。

 最後の一年は三人だけでやってきた。仕事の帰りにこの居酒屋でよく飲んで帰ったが、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。赤のれんをくぐり細長い店に入るとお気に入りのカウンター席の一番奥が三人分ポッカリ空いていた。三人揃っていつものレモンハイを頼み尽きない天文台の思い出話しを肴に飲み始めた。静恵ちゃんが来てからだってもう三年半がたっていた。

「そういえば津野さんはどうしてこの天文台で働き始めたんです?優秀な大学出てるって聞きましたけど」
そう言って静恵ちゃんはハッと口をつぐんだ。
「いいんだよ静恵ちゃん。私もそう思ったんだから」
所長が笑って言った。僕もあのときのことを思い出して微笑んだ。
「津野君は私のところに来ていきなり言ったんだよ。光る星が見たいんです、って」
あの頃の思いでが鮮明に蘇りグラスの中身は楽しい思い出と共に飲み干されていった。

 生来の生真面目な正確のせいだったのだろう。大学での成績はよく卒業後にはあまり考えることもなく大学院の研究室へ進んだ。そこでは毎日を電波望遠鏡で撮った惑星のゴツゴツした地表や大気を覆うガスの解析に費やし、僕は星の美しさを忘れていっていた。いや正確には忘れたわけではない。商店街の明るい町並みを抜けて川沿いのアパートに帰る。少しだけ遠回りをして河川敷を歩き天を仰いだその星空はやっぱりきれいだったけど、なぜだか泣きたい気分になってきてすぐに目を逸らした。僕にとっての星は空に見上げるものではなく狭い研究室で写真で見るものになっていた。そしてたぶん、それが僕の前に用意された人生だった。大学の教授になることか研究員になることか、いずれにせよそのビジョンは僕の脳裏に克明に写し出され変えようのないものに思えた。
 そんなときにここの天文台に出会った。都心から遠く離れた郊外のこの天文台に僕は教授から頼まれた資料を届けにやってきた。そこで見たものは小高い丘の上に星明かりに照らし出された小さな天文台の影と澄んだ空気の中をいまにも落ちてきそうな星空だった。その風景は最初は僕を泣きたい気分にさせたが、目を逸らす場所もないくらい星は僕の周りを取り囲み、目を逸らすにはあまりに勿体ないほど美しかった。やがて体の力がふっと抜け体が軽くなった気がした。ここで生きていきたい、はっきりとそう思った。

 いい感じのほろ酔い気分で田圃の中道を歩く。もっとしんみりとしたものになるかと思ったがなんとか気分のいい酒が飲めた。もうすぐ完全な黄金色に覆われるであろう稲穂の上に星の光が降り注いでいる。この道を抜ければ友崎さんの家はもう近い。
「津野君はこれからもがんばらないとね。もっと働いて所帯だって持ってもいい頃だろう」
友崎さんがそう言い僕と、そして静恵ちゃんを見た。僕はこの歳でまだ結婚していなかった。ただ夜空を眺めて生きてきた。恋愛ごとには疎かったが静恵ちゃんがなぜか僕に好意を持ってくれていることには気が付いていた。何度か一緒に食事に行ったこともある。でも自信がなかった。僕は彼女より歳を取り過ぎていたし、静恵ちゃんにならもっといい相手が幾らでも見つかるはずだった。しかし同時にもう静恵ちゃんの顔が見れなくなるということに深い悲しみも確かに感じていた。それを隠すためか、それともその眼差しを受け入れることが恐かったのか、僕はただ前を向いて歩いた。
「分かっているんだよ。ふたりとも」
友崎さんが僕の背中を叩く。少しよろけて体勢を立て直したとき「大丈夫」と腕を差し出してきた静恵ちゃんと目が合った。焦って前を見ようとした僕の背中をまた友崎さんが、今度はゆっくりと叩いた。すっと体の力が抜けた。そのとき初めて静恵ちゃんの視線を受け入れた。優しく、そして少し悲しげな瞳だった。短い髪が微かに風邪に揺れていた。やがて友崎さんが話し始めた。
「あの星たちは何で出来ていると思う?鉱物かガス体か、まあそうなのだろう。
でも実際に私達の目に届くあの明るい星は光なんだよ。よく言うだろ?あの光は遠い昔に星が放ったもので光が地球に届く頃には実際には星はもうそこにないかもしれないって。それでね、まあこういうことを天文台の所長をやっていた人間が言うのも変なんだが、私は心配なんだよ。光が消えずにきちんと私達の目に届くのかって。思うんだがそんな遠くからの光など途中で消えてしまってもおかしくない。ただここに届こうとする消えそうな光の道に他の光が力を貸してやってるんじゃないだろうか。消えそうになるといろんな光が少しづつ集まって道を作りそしてやっと地球の私達の目に届くんじゃないかとね。いろんなものが光を貸すんだ。通りがかりの彗星や太陽、それからほら、あそこに見える暖かい家の光とかね」
 僕たちはそのあいだ何も言わなかった。友崎さんが指差す方にはたぶんその中に暖かい団欒があるのであろう一軒家があった。
「私はもう望遠鏡を覗くことはないだろうが、夜空の星くらいは眺め続けていたいものだよ」
そう言って友崎さんは先を歩き始めた。静恵ちゃんの手が僕の手に触れた。星明かりに照らされた静恵ちゃんの目を今度は自分から見て、小さく頷く静枝ちゃんの手を強く握り、僕たちは小走りに友崎さんを追っかけ、その背中を軽く叩いた。

 
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