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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第15回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 3月)
文字数
1
荒井
2912
2
野口 圭
3000
3
岡野義高
2185
4
Jamie.E
2580
5
竹野井 雪
1668
6
紅谷奈ヲ矢
2257
7
やす泰
3000
8
坂口与四郎
2999
9
Ame
2994
10
海坂他人
3000
11
党一郎
2402
12
林徳鎬
2926
13
3000
14
さとう啓介
3000
15
羽那沖権八
3000
16
恋糸 いと
3000
17
太郎丸
3000
18
2849
19
月季花
1697
20
朝市九楽
2976
21
伊勢 湊
3000
22
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000

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若干2名
荒井

一日の始まり。クルクルと、頭の上でハエが回転した。何か、独特の腐敗というか、黒いというか、汚れている、沈んでいる、そんな感じの臭気を自分に感じて彼は近寄ってきたのだろうか?そう思うと腹が立ち、近くにあるテレビ雑誌を丸め、ムキになってヤツと戦っている自分がいる。ヤツめ!なかなか頭がいい。というより、俺が悪いのか?などとぶつぶつ独り言を言いながら、しつこく、ヤツ全体を狙っていると、観念したのか、窓の隙間からブーンッだって・・。上手く逃げ果せたハエに敗北をきっするのが悔しい俺は、そのまま意味もなく雑誌を振り続け、
「オメーを叩こうと思ったわけじゃないのよ、ああ、手首の運動、運動、」とか何とかまた、独り言。っと気を抜いた瞬間に手のひらから雑誌、スッポ抜け、天井めがけてまっしぐら。見事、切れかかった蛍光灯にぶち当たりガッシャーンだって。ゴール、祝福の鋭利な蛍光灯の破片が一斉に真下の俺に浴びせかかる。最後に大きいのが垂直にグサット。という事で、今病院。混んでいて嫌になる。待ってる患者を見ていると、なんだか、見た感じ健康そうじゃねーか? お前等、緊急って感じじゃ無いじゃない?? っていうかココ整骨院だし、そりゃそうか。いつも、間違っているの俺。病院って感じのところだから平気だろって来たのが間違いだった。だけど、俺の頭に蛍光灯一本丸ごと刺さってるの見れば、どうぞ、どうぞと順番抜かしでVIP。すぐ看てもらえると思ったのに、なに、この人たち、無視?無視なのですか?まさか、ファションだと思ってるんじゃ・・・、違う、かなりの緊急事態なの俺。これ刺さってるのよ、皆さん。緊急事態を知らせるために、看護婦らしき白衣の女性の前で、垂直に頭に刺さってる蛍光灯を少しずらす。その瞬間、頭上から血シブキが、小さな噴水のごとくたった。OKだ。やっとだ。事の重大性を気づいてもらえる。そう、俺、緊急事態なの。と話そうと思ったら、その女、「プッ、面白いですね、それ。そういうシュールなの結構好きですよ。」っておっしゃいました。いやいや、奥さんって奥さんか奥さんじゃないのかは問題じゃなくて、今はこの頭の蛍光灯が光ってる・・・・、はっヤバイ。がんばっちゃったせいで一瞬、頭が変になった。気づいたら看護婦さんは、廊下のはるか遠く。おれ、これ以上時間がたったら、本気でヤバイと思い後を追いかけた。彼女は手にお茶を持ち、廊下の一番端の部屋に入っていった。「何だね、君は!」その部屋は院長室らしく、院長と思われる、太った男がいた。彼の肉でムチムチ、パンパンになっている白衣の名札には(ゴードン)と書いてあった。だけど、見た目、日本人。少しむかつく。「あっ、さっきの面白い人、院長、この人面白いんですよ!」ってバカ看護婦がゴードンに紹介しやがった。ばか、人間第一印象が大事でしょ?違う、面白い人って紹介されて、蛍光灯、頭に刺していたら、本当に面白い人じゃないですか?違います?「君、それより、その頭の蛍光灯、大怪我じゃなぁか。」さっさすが、ゴードン。このバカ看護婦とはやっぱ違う。あんたはやっぱり院長です。すいませんでした。よく見ればその肉体も筋肉質なデブですね。さあ、直して。あんたに任せる。終わったらチャンコ鍋食おう。もちろん俺のおごりだ。来場所もがんばれよ! ゴードン「きみ、そこに寝なさい、どれどれ、アラー、深く刺さってるね。脳みそまでいっちゃってるよ。この状態で生きてるのが不思議な位ですよ。これは、抜いたら死んじゃうね。うーん、この上からギブスで固定して刺さったままで暮らしましょう。日常生活には差し支えないですから」なんてな事を当然の口調でいいやがる。俺、男泣き。これから一生、蛍光灯を頭に刺しながら生活しなければならないのか。死んだら、火葬場で骨と蛍光灯が残るのか。それを、親戚のまだちっちゃな、俺のことなんて知らないガキが箸でつまんで、お父さんに言うんだ。「人間の骨ってガラスみたいだね。」って。それで、お父さんは、悲しい顔をして、いやいや、それは本当にガラスなんだよ。この人はね・・・ってガキに説明するのが目に浮かぶ。そう思うと悲しくなった。だけどみんな、蛍光灯も骨ツボに入れておくれ。それはもう僕の一部だから。整骨院の帰り道、おれはギブスで、頭に完全に固定された蛍光灯を摩りながら電車に乗った。ははは、もう夕方。「夕方の電車っていつも思うけどなんか雰囲気ラーメン屋じゃない?」なんて隣のサラリーマンに話かけたくなったが、そこは俺、大人だから我慢して、静かにしていた。頭に蛍光灯刺さってるし、静かにしていた。こんな自分がちょと好き。だけど、このまま家に帰ったら絶対に息子にイタズラされるな。それでうっかり抜かれたら自分、死んじゃうわけだし、ここは一つ、昔から家族の間で隠し事はナシとしてきた僕ですが、今回だけは隠しておこうと心に決め、近所の帽子屋に寄り道した。丁度イイ塩梅のストローハットが出てきて、コレくれって店員に行ったら1万5千円とぬかしやがる。どういうことだといったら、「「コレはマルコムマクラレンの・・・」等、わけのわからぬ事を、どうたらこうたらぬかしやがって、結局俺、わけのわからないまま購入。ショウガナイデショ、近所に帽子屋ココしかないし・・。家に帰り「何、あなた、いつまで帽子かぶっているの?」なんて食事中に妻に聞かれたから、おれ動揺してナスの重焼きを床に諭とす。ビッタンって音たててナスが床にへばりつく。俺、とりあえず床にへばり付いたナスを剥がす振りをしながら、時間稼ぎ。この帽子の必要性を妻に伝える言い訳をかんがえた挙句、「オシャレでしょコレ?」なんてなことを適当に言うと、妻、テレビを見ていた。会話振っといて、無視ですか、はいはいはい。わかりましたよ。テレビより面白い事が、この帽子の中で行われているのに、ああ、そうですか。わかりました。帽子の中はもうあなたには見せません。そう。絶対に。ああ、何てことだ、既に、この蛍光灯によって俺の心は荒みっぱなしだ。俺が無職なのも蛍光灯のせいだ。そう思った。すべてコイツのせいにして、俺、白紙。俺は悪くない、悪いの蛍光灯だ。と思い込むことにした。そう考えた方が、楽だから。それにしても予想外だったのが、息子の反応のなさだった。俺の帽子にも何にも触れやしない。もう父親になんか興味ねーッス!ッテ感じだった。考えてみれば、ココしばらく息子と話してなかったなぁ。そんなことを思いつつ、息子の背中を見ていた。さっきから息子がテレビゲームをやっている。そのジョイスティックさばきに俺の蛍光灯が重なり、ゾクッ。息子に見せたら脳みそコネラレルなこりゃこりゃ。蛍光灯頭に刺さり、しばらくたったある日、久しぶりに息子が会話を俺に振ってきた。こういう時間を大切にしないとね。レッツコミュニケーション。「「蛍光灯を頭に刺したまま生きている男」て言う都市伝説知ってる?」と子供に言われ、自分は動揺した。よく聞くと、学校の怪談みたいな感じになってるらしい。口裂け女・・・と俺、蛍光灯男。結婚しろ! お前等。
若干2名 荒井

イケニエの儀式
野口 圭

「はい、おまちどうさま」
 クミが両手に持った皿をテーブルに置いた。直径60㎝ほどの小さいテーブルには、その二つの大皿はいかにも窮屈なかんじがした。片方の皿にはステーキが、もう一方にはフライが山盛りになっていて今にも皿からこぼれ落ちそうだ。ステーキから肉汁が沁み出し、フライの表面は油が爆ぜる音がしている。
「すごいね。こんなにたくさんあるんだ」僕は少しあ然としながらつぶやいた。
「うん、要らないところはだいぶ捨てたんだけどね。それでもまだ残ってるのよ」
 僕はとりあえずステーキから取り掛かった。フォークとナイフを使って大きな肉片を切り分けようとするが、なかなかの重労働だ。繊維にそってナイフを入れても跳ね返されてしまうほどに硬い肉だった。
「やれやれ、こいつは大変だな。こんな肉しかなかったの?」
「それはモモだから。フライのほうはそれほどでもないの。脂が多いから」
 クミはフライを切り分ける作業をしている。彼女が言うようにフライには簡単にナイフの刃が入っていく。切り口からは湯気とともに透明なスープがあふれ出してきた。
「なんかそっちのほうが美味しそうだな」僕はクミが切り分けた一片をフォークで突き刺し、口の中に放り込んだ。衣につつまれて汁気のある肉は思った以上に熱く、口をパクパクさせて舌の上の熱を逃がした。
「もう、お行儀の悪いことするからよ」クミがあきれたように言う。
 それに答えることができずに僕は微笑を浮かべる。舌のうえの熱はまだおさまらず、口内の粘膜を傷つけていた。
 クミはそんな僕の様子にはかまわず、手際よくフライを切り分けていく。
「ところでどう? 味のほうは」
 口の中はまだぴりぴりと痛んでいたが、味をみるくらいの余裕はできている。
「うん、脂のところはけっこう甘くて美味しいよ。でも、芯のところにはやっぱりスジが残っていて堅いかな」
「ふうん。それなりに鍛えていたのね、あいつ」
「そりゃそうさ。そろそろヤバくなってくる年だからな」
「そういえばケイもスポーツ・ジムに通っている、て言ってたもんね」
「ああ。マシン・トレーニングをしたり、プールで泳いだり」
「エアロビクスは?」
「エアロビクス? 俺がそんなことやるわけがない。俺はそんなにナルシストじゃない。だいたい自分がバタバタあえいでいるのを鏡で見たら、自己嫌悪になるんじゃないかな?」
「そんなことないって。踊るのってスゴク気持ちいいんだから」
「ふん」
「ケイもあたしと一緒に踊ろうよ」
「うーん、まあ考えておくよ」
 小さい部屋の中で僕らはそんな他愛もないことを言いあいながら、肉との格闘を続けていた。
 暖房はない。が、それ程寒くはなかった。フローリングの床からは特有の冷気があがってくる。しかし僕とクミの顔のあいだには暖かな空気がゆっくりと循環していた。
 音楽もない。この部屋にはもともと電気というものは存在しないのだ。だから、冷蔵庫の発するあの不快なうなり声は聞こえない。蛍光灯がはじける微かな音さえ聞こえない。聞こえるのは遠くにある高速道路からの車がざわめく音だけだった。
 パトカーのサイレンも遠くから聞こえてくる。かなりの数が走り回っているようだ。でもその音は遠くからさらに遠くへと遠ざかっていく。もうしばらくは邪魔をされずに過ごせそうだ。
 薄暗いクミの部屋には親密な空気が流れていた。100パーセントの親密さだ。まるで昔のホーム・ドラマみたいだ。
「まるで昔のホーム・ドラマみたいだな」僕は呟いてみた。
「うん」すぐにクミが答える。親密だ。
「でも、現代的な味付けもされてるけど」
「何よ、それ?」彼女が笑いながら訊ねる。
「核家族化。現代日本では深刻な問題だ。なにせ二人しかいないんだから」
「三人よ」クミにきっぱりと否定された。「ユウジがいるじゃない」
「……」
「あれれ? もしかして妬いているの?」彼女がにやりとする。
「まあね。じつは三角関係だったってわけだ」
「そうだよ、私たちは」クミはナイフを置いた。「昔からね」
 おもむろにクミはフォークでフライを一切れ突き刺し、口の中に放り込んだ。熱いんじゃないかと心配になったが、フライはいい感じに冷めていたようで彼女は平然としている。たてつづけにステーキも一つ口の中に放り込んだ。
「すごい勢いだね。大丈夫?」僕はあきれながら言う。
 クミは激しく咀嚼をくり返しながら、何度も肯いた。両のほほがぷっくりと膨れて、おかめに似ていた。
「可愛いよ、クミ。おかめに似ていて」
 ボカッ! 返事のかわりにパンチが返ってきた。
「ごめん、ごめん。でも本当に大丈夫?」
 ごくん、という肉の塊が喉の中を通る音が聞こえた。どうやら飲み込めたらしい。
「ここんとこあまり食べていなかったから」彼女の鼻の穴が少し広がっている。だいぶ怒っているらしい。
「それにしても一気に食べすぎだよ。そんなにお腹が減っていたのなら、ほかに魚とか野菜とか買ってきたほうが良かったのかな?」
「ばかね。そんなことをしたらユウジが可哀相でしょ。ケイだったら鯵のフライやらキャベツの千切りやらと一緒に食べられたいと思うの?」
 確かに彼女の言うことが正論だった。僕もクミの胃の中で鯵やキャベツと一緒に溶かされたくはない。溶かされるなら僕だけを溶かしてほしい。
「たしかにね」
「でしょ」
 そう言うと、彼女は再び肉片を一つ二つと口の中に入れる。僕のほうはといえば二三切れは食べたものの、すっかり最初の食欲は失せてクミの様子をしばらく眺めていた。
「けっこうあっさり系の味なのね、これ」塊をのみこんでクミが言う。
「ああ、そうだな」
「もっと濃厚な脂の味がするのかと思っていたわ」
「それは霜降りの牛肉みたいなもののことだろ。あいつらは空調のきいた牛舎でたっぷりと美味いエサをあたえられて育つんだ。太るにきまっているさ。
 でも俺たちはそうじゃない。エサを得るためには自分の身体をつかって働かなきゃいけない。太っている暇なんてありゃしない」
 僕の話を聴いているのかいないのか、クミはコップの水を飲んでから再び肉に取りかかっている。僕もやはりその様子を見守ることにした。
「あー、食べた食べた。もうお腹いっぱい」けっきょく皿の上のほとんどを彼女ひとりで平らげてしまった。
「そりゃ、それだけ食べたらな」
「ケイは相変わらず少食だね」
「そんなに食べてもしょうがないだろ。そろそろ時間切れだ。もう行かないと」
 パトカーのサイレンが多くなってきた。かなり近づいてきている。
「そう?」
「ああ。退場の時間だ」
 そう、儀式は終わった。聖なる場はもう消えはじめているのだ。
「でもその前にシンクを掃除していかないと。大家さんが見つけたら心臓止まっちゃうかも」
「手伝うよ」
 二十分ほどかけて、僕たちはミニ・キッチンのシンクを掃除した。ユウジの血液は固まりかけていたので、なかなか落ちなかった。
 ポリ袋はそのまま床に置いておくことにした。どうせすぐに見つかるんだし、腐ることもないだろう。
「こんなもんでいいだろう。早く行こう」
「うん」
 車に乗り込みエンジンをかける。たくさんの車が溢れていた。無意味にクラクションを鳴らしつづけた。ダラダラ走っているんじゃない。僕たちの行き先は決まっているんだ。新しいステージだ。そう、二人のための祭場だ。今度こそ二人だけのホーム・ドラマだ。もうだれにも邪魔はさせない。だれにも。
イケニエの儀式 野口 圭

規制緩和の男
岡野義高

「だからさ、今は規制緩和の時代なんだよ」
 ぼくは言った。
 彼女は腕組みをしたままだ。

「いままでは護送船団方式っていってね、大蔵省と大企業が、持ちつ持たれつ、でのんびりやってきてたんだ。そうしたら、こんどは、ソ連の崩壊とともに、世界のマーケットが一つになって、グローバリゼーションがおこったんだ。すると、いままで、日本国内だけでやってきた日本の企業は、外国資本の企業にとても太刀打ちできなくなってしまってたんだ。国際的な競争力が落ちちゃってしまったんだよ」
 ぼくをにらんでいる。

「やっぱり競争しないとダメなんだよ。おたがいに競争しあうことによって進歩する。進化していくんだ。ハンバーガーや牛丼が安くなったようにさ。これからの時代は、競争の原理を導入することによって、健全な競争社会を築いていかなけりゃならないんだ」
 彼女の動きはない。
 
「もちろん、誰もがいい目をみるわけじゃない。むしろ、とっても不公平になるんだと思う。ダメなやつはとことんミジメになっていく。でも、やる気があって、実力のある人間は、それに見合ったいい思いができる。平等じゃないって言うやつもいるかもしれない。だけどね、努力したやつが努力したぶんだけ報われないなんて、そんなのおかしくないか?」
 だんだん舌がまわるようになってきた。

「そんなのは、悪平等ってやつだよ。小学校の運動会でさ、途中まで競争しておいて、ゴール前になったら、みんな一列に並んで、お手々つないでゴールイン、てのがあるだろ。あれとおんなじ。そんなのキレイゴトなんだよ」
 とりあえず聞いてはいる。

「俺は、そんなの認めない。いつも自分を高めていたい。どんどん経験値をあげていきたい。進化する自分でいたいんだ。他流試合をやったり、武者修業したりするサムライのようにね」
 一気に言った。

 しばらく、間があった。
 こういうときは、先に動いたほうが負けだ。──動くな。山は動かぬ。
 自分に言いきかせた瞬間、彼女が笑いだした。

 勝った!
 笑わせてしまえば、こっちのもんだ。
 ぼくは彼女のほうへ、ゆっくりと近づいていった。
──そのとき。
 肩に手をかけようとした瞬間。
 ぼくは天を仰いでいた。

 ひっくり返って倒れて、地べたに仰向けになってるんだ、と気づくまでには、しばらく時間がかかった。
 その間、彼女は部屋から出ていってしまっている。
 天井がブレて見えたり、ちゃんと見えたりしている。
 カメラのズームをワイドにしたりロングにしたりしてるみたいに。
 しばらくの間、ピントがずれたり焦点があったりした。

──俺はまちがっていないハズだ……。
 これまでの日本の男は、一夫一妻制度と女性蔑視の上にあぐらをかいていた。
 女性にたいする努力を怠ってきたのだ。

 しかし、そうした男優位の世の中は、急速に崩れつつある。
 いや、とっくの昔に崩れさったのかもしれない。

 今や、女が男を選ぶ時代なのだ。
 日本の男に物足りなくなって、海外でイエロー・キャブになったりしてるのもいる。
 男が競争して自分自身を高めてこなかったため、国際的な競争力が落ちてしまっているってわけだ。
 俺はちがう。
 いつも自分を高めようとしてきた。
 自分をバージョン・アップしようと、努力してきた。

「なぁに、ブツブツ言ってんのぉ」
 ベッドから声がした。
 様子をみに近寄ってくるわけでも、心配してるわけでもなさそうだ。
 もそもそとブラジャーをつけている。

「かんべんしてよねぇ。修羅場はゴメンよぉ。アタシ、知らないからねぇ」
 ようやく天井にピントがあった。
 左頬が、じぃんと痛む。

 ボクサーは、くるとわかってるパンチはなんとかこらえることができるけれども、意外なタイミングでくりだされた「見えないパンチ」は、たいして威力がなくても、精神的なショックでダウンしてしまうという。
 彼女のビンタはみごとなカウンターで、おまけにスティルスだった。
 ぼくはまちがいなく脳震盪をおこしている。
 しばらくは立ち上がれないだろう。

「ちょっとぉ、アタマだいじょうぶぅ。アタシ帰るわよー」
 ようやく部屋に引っぱりこんだ女はさっさと帰っていった。
 うまくいけば49人目になるはずだった。
 もうすぐ大台。
 「100人斬り」が射程距離として実感できるところまで、たどりついたはずだった。  ひさびさに大失敗をやらかしてしまった。
 まだまだ修行がたりない、ということか。

 男一人に女一人なんて、昔の話だ。
 モテるやつは、とっかひっかえ。
 モテないやつは、とことんモテない。
 それが今の時代だ。
 でも、工夫と努力しだいでは、入れ食いのときの魚のように、女を釣ることだってできるはず。

 女のほうだって、二股かけるなんてイマドキ珍しくもない。
 援助交際。
 不倫。
 なんでもあり、だ。

 規制緩和の時代。
 ボーダーレスの時代。
 そして恋愛という業界は、とっくの昔から、自由競争の時代に突入していたのだ。
 指をくわえて見てるわけにはいかない。
 負け組にはならない。
 ぼくは、この競争社会に飛びこんでいく。
 自分を進化させていくのだ。

 ポケットからタバコを探りだし、くわえて火ををつけた。
 左頬は、まだ、しびれたような痛みがある。
 とりあえず、明日はどこの街へナンパにいこうか。
 ぼくのレボリューションは終わらない。
 たとえ改革には痛みをともなうとしても。
規制緩和の男 岡野義高

おいしくない女
Jamie.E

「お待たせいたしました。カマンベールチーズでございます。」

 パク。

「お待たせいたしました。タラコのスパゲティでございます。」

 チュルル。

「お待たせいたしました。デザートのブランマンジェでございます。ご注文は以上でおそろいですか?」

「あの、お会計お願いします。」

「え!?まだどれにもほとんど手をつけていないじゃないですか。」

「いいえ、お会計してください。だって、この店の料理まずいんだもん。」

「・・・・・。」

怪訝そうにあたしの顔を見つめるウェイターを尻目に、あたしはレストランを出た。

 あたしはルミ。若干20才。職業は大学生兼拒食症寸前のモデル。友達には「スタイルいいね」ってほめられるけど、ちっともうれしくない。だって、あたしチビのころから食べる幸せを感じたことがないんだもん。

「ただいま。」

「・・・・・。」

 家に帰っても誰も返事してくれない。別に一人暮らしってわけじゃないけど、父親は外に女作って出ていっちゃったし母親はアル中だし、弟は現在浪人中&引きこもり中。あたしはフッとため息を漏らしながらいつものように夜食用に買ってきたカップラーメンをすする。

(ああ、やっぱりまずい・・・)



 翌日は雑誌のグラビア撮影の日だった。あたしは大学の講義をサボり、お昼ご飯もそこそこに道玄坂のスタジオへと急いだ。

 スタジオに着くと、あたしはバッグから携帯を出し、メールの確認をした。1通目は3ヵ月ほど前にメールで知り合ったお調子者のヨースケからのものだった。

[おっす!オラヨースケ!モデルの仕事はかどってるかーい?大学はサボっちゃだめよ!バイビー!]

(おっす!オラヨースケってお前は悟空かっ!)

あたしはヨースケのメールを無視し、2件目のメールを見た。それは最近会ってくれない私の彼氏からだった。

[ルミへ。新しい女ができた。お前はもう用済みだ。別れてくれ。]

そのメールを見た途端、あたしは腰が抜けてしまった。その後あたしがどうなったのか全くわからなかった。

 気がつくと、あたしは実家のせんべい布団で眠っていた。おなかも空いていた。しかし、あたしのためにゴハンを作ってくれる人など、この家にはいない。あたしは冷蔵庫にラップしてあるご飯とネギと卵で簡単なチャーハンを作り、一人わびしくそれを貪っていた。

 と、そこへ携帯にメールが届いた音がした。あたしは手を止め、メールの確認をした。

[ルミちゃんへ。もうそろそろおいらと一緒にデートしてくれるかなー?と思ってメールしました。出過ぎた真似してごめんなさい。]

「ヨースケ・・・」

今のあたしにとってヨースケは心の支えだった。ここ数ヶ月間、あたしを支えてくれていたのは他でもない、ヨースケだった。そのことにどうして今まで気づかなかったのだろう。あたしは泣きながら夢中でメールを打った。

[ヨースケ。食べ物がおいしいところにあたしを連れてって。じゃないとあたし、壊れちゃうよ。]

一分後、返事が来た。

[それじゃあ伊勢エビがおいしいところヘ行こう。明日の朝8時、東京駅のロビーにいる。服装は赤いフリースにジーンズ。じゃあまたね。]

(伊勢エビ?しかも明日の朝8時に東京駅で待ち合わせってどういうこと?)

あたしはヨースケのメールを消去しようとしたが、なぜか消去ボタンを押せないでいた。そしてそのまま夜が明けてしまった。



 午前7時50分。あたしは眠い目をこすりながら東京駅に着いた。好奇心と一抹の不安を抱えながら。ロビーに着くと、赤いフリースの男が確かに立っていた。ドブネズミ色のスーツの集団の中で男の真っ赤なフリースはひときわ目立っていた。あたしは導かれるように赤いフリースの男に歩み寄った。

「・・・あの、ヨースケくんですか?」

「ルミちゃん?」

「は、はあ・・・」

「何か、最近まともにご飯食べてないって言ってたけど、本当?」

「う、うん・・・」

「よし!じゃあ行こう!!」

「へっ?」

男は寡黙に、しかしとてもうれしそうな顔であたしの腕を引っ張ってゆく。

「ヨースケってさあ、家どこ?」

「下北沢。」

「下北沢!?じゃあ新宿とかで待ち合わせすれば良かったのに。」

「いいの、ここで。」

「東京駅の近くにおいしいお店なんてあったっけ?」

「誰も“店”とは言ってないでしょ?」

「えっ!・・・あ、ここ新幹線のホームじゃない!ちょっと!どこ行くつもりよーっ!」

「いいからいいから。」

 ヨースケは、嫌がるあたしの服をこれでもかというくらいに引っ張り、新幹線の中に無理やり押し込んだ。

 新幹線に乗り、電車を乗り次ぎ、何時間経っただろう?気がつくと、あたし達2人はいつの間にやらどこかの海岸に着いていた。太陽がジリジリとあたし達を照らす。

「はー、懐かしいなー。」

「で?どこなの、ここは?」

「三重。」

「三重~!?」

「そうだよ。俺のふるさとさ。」

「ふるさとって…大体どこに店があるって言うのよーっ!」

「だからあ、誰も“店”とは言ってないでしょ?」

「?」

「いや~ほんと懐かしいな。ガキのころはよくここで伊勢エビ取り大会とかやってたよな~。今でもできるかな?」

「伊勢エビ大会って…あんたまさか!?」

 ドッパ~ン!!

 「キャー!!」

 ヨースケは服のまま海に飛び込んでいった。あたしは気が動転してその場に座り込むしかなかった。

 それから何分経っただろう。ヨースケが得意気な表情で戻ってきた。夕日に濡れた赤いフリースが眩しく映った。そして、ヨースケの手には、ヨースケのフリースの色と同じくらい赤い伊勢エビが握られていた。

「どーだー!すごいだろ!」

「う、うん、すごいね…」

「これはうまいぞー!さあ、さっそく食うか!」

「え?食べるって…」

「ここの海岸で焚き火をして、その火でエビをあぶるのさ!」

「…どうして、そこまでしてくれるの?」

「ルミちゃんが“おいしいもの食べたい”って言うから、それを実行しただけだよ。」

「ありがとう…ほんとに、ありがとう…」

「あ~あ、泣かないでよ。」

 その後、あたし達は焚き火を囲み、まだピクピクしている伊勢エビをあぶって2人で食べた。

「どう?味は。」

「おいしいっ!」

「うふふふふ。」

「なによ?」

「その言葉が聞きたかったんだよ。“おいしい”って。」

「でも、伊勢エビだけじゃ何か物足りないな~。」

「よっし、それじゃあいまから伊勢神宮にでも行ってカキでももいで来るか!」

「賛成~!!」
おいしくない女 Jamie.E

グローバル・ワン
竹野井 雪

「明るい所と暗いところで話してるなんて、変だねえ」
電話口で彼は言う。こちらデンマークはお日様の機嫌がすこぶる良く、真っ青な空である。一方彼のいる日本は、お月様ががんばっている時間帯だ。時差は七時間、距離にして約一万二千キロの遠さである。こんな差がありながらも同じ地球の上だというのだから、全く不思議なものだ。
「どう?何か日本と違う所ってあるの?」
やっと聞こえるぐらいの声で、ありきたりの質問をしてくる彼。そう、確かにあの無機質な日本と比べればだいぶ違うだろう。ディズニーランドを思わせるような広さの敷地に、見渡す限り緑のグラデーション。東京の高層ビル群に淋しさを感じる私としては、こんな環境こそが生きる場所と思える。今日もついさっきまで野原のブランコに乗っていた、と私が幸せそうに報告すると、彼は想像つかねえなと首をかしげた様子だった。彼は東京生まれ東京育ち、大都会しか知らないのだから当然かもしれない。
 北の平原デンマークへやって来て一ヶ月が経とうとしている。私は一年間の留学生として大きな使命を背負っているはずだった。しかしこうして他愛もない話をしていると、そんなの夢みたいに思えてくる。使命とはなんだろうそれははっきりと示されてはいない。とにかく今回ここにやって来た、私を含めた六人の留学生は何かを期待されているに違いない。きっとその「何か」は一人一人違っているのであり、私の場合はこうして―――景色を眺め、花をいつくしみ、街を歩いて肌でこの地を感じること―――のような気がする。
 彼はいい友達だ。恋人ではない。一度そうなりたいと言ったら、見事に謝られてしまった。でも彼が私をすごく好きであるのは知っている。だからわざわざ国際電話をかけてまで話したくなるのだ。どうでもいいような日常会話でゲラゲラ笑っていると、気分が明るくなる。本当はあせっていた。ここに来たなら何か目立つことをしなければいけないのかと。前に来た人はそうだったとみんな言っていたから。
「時々ね、日本に帰りたくなるよ」
「まだ一ヶ月だろ?おい」
「うん…でもね、辛い時だってあるよ。例えば留学生だって言うプレッシャーとかね」
この時何を思ったのか、彼は少し黙った。そしてそれを振り切るかのようにおどけて言った。
「…で、君はストレス太りして夏休みあったらブクブクだったりして?」
「ひどい!バスケ部で運動してるから絶対そんなにならないもん!」
はるか遠くの東京で、彼が笑い転げているのが見えた。できたらもっと近くで見たいのだけれど、あいにくそれは無理な相談だ。この人は私を励まそうとしたんだろうか?もしかして。変に飾った同情の言葉でなく、自分自身の言葉で…。目の奥が熱くなってくるのを感じる。泣きたい、泣いても彼は怒らないだろう。でもここで泣いてしまったらあの言葉は無駄になる。無駄になんかできない、国際電話はお金がかかる。なんでもない会話をするだけで二千円だ。私は右手のグローバル・ワンを握り締めた。これは国際電話をしても減りが少なく、長く話せるカードだった。
 窓の外を見ると、相変わらず空は青いままである。タンポポの咲き乱れる庭からは、誰かの笑い声が聞こえる。私はそれをきれいだと思い、同時にこのデンマークを愛し始めていることに気づいた。
「今年のデンマークは暑くてね、日中は半袖でいたって平気なんだよ。タンポポもつくしも桜も、みんな咲いててきれいだよ」
受話器の向こうでため息が聞こえた。
「桜は終わっちゃったけどね…俺も今日は半袖でいたし、道に花がいっぱい咲いてるよ」
 地球が丸いと言うのはきっと本当だ。違うところは全く違い、同じところはほとんど同じ。そんなだから空間が曲がるのだ。そういえば、今日は食べ過ぎてしまった。夏になってストレスの大食い、などと言われるのはごめんだ。強く生きなければ。グローバル・ワンのアナウンスが残り二分であることを告げた。結局今日も二千円使い切りそうだ。私はつけられるだけ格好つけて言った。
「夏が来たら、会いに行くよ」
彼がニヤリと笑った気がした。
グローバル・ワン 竹野井 雪

粒子を感じてる
紅谷奈ヲ矢

 知らなきゃよかったのに・・・。ずっとあのまま笑っていればよかったのに・・・。
 いまさら思い返してみても遅いことはわかっている。それでも思い返さないで、ただ身を任せるのはカシスとしては気に入らなかったのだ。

 自分が人間じゃないということがわかったところで何も変わりはしなかった。ただ、いっそう悲しくなっただけ。その悲しさが水分を作り出して、蒸発して、だれかの水分となる循環。回りまわって、ぐるぐるぐるぐる、またカシスの水分になる永遠。また開いていく、そして狭くなる人間との距離。それには気づかなかった。なんせプラスチックのほっぺたの伝う液体の感覚を知るための機能などついていなかったから。それはカシスのせいじゃない。

 

 カシス=オレンジが作られたのは、もともと老人のためだったけど、肝心の老人は、もうほとんど死んじゃっていなかったわけだし必然的に、男たちの玩具となった。
 カシスは茶色くて長い髪の毛と、142センチという身長、そしてなによりそのロリータ・ルックス。それがロリータ・コンプレックスの人々に愛され続ける理由だった。

 カシスは自分自身が嫌いだった。人のためにしか何も出来ない、ただのフィギュアである自分が恨めしかった。自分の意思では歩くことも出来ない。食べることも、飲むことも出来ない。命令されればその通りに動かなくちゃならない。そのくせ、無駄にエゴは強かった。そんな自分が嫌だった。

 そんなある日、何かの拍子でその制御装置がぶっ壊れた。思いどうりに体が動く。思ったことをしゃべれる。これで人間と同じになれたんだ。どんなとこにもいける。時間さえあればなんだって出来る。どうせアタシはフィギュアだから、死ぬことなんてないんだ。アタシで遊んだ人間みたいに、好き勝手できるんだ。やりたいことをやりたいだけ・・・。

 カシスは走った。メロスよりもよっぽど走った。疲れなど感じなかった。
 いろんなところでいろんなことをした。一日中笑って過ごした。ただ人間たちはそんなカシスを快くは思っていなかったみたいだった。でもカシスは人間と同じになった喜びを、拭い去ることは出来なかった。

 人間にもっと近づきたくて、カシスはアルバイトを探した。それでもフィギュアであるカシスを雇ってくれるとこなんてなかった。雇ってくれないなら、勝手に入って働きゃいいじゃん。仕事してやってんだから感謝しなさい。そうしてカシスはおもちゃ工場に単身乗り込んだ。

 工場は赤やピンクや黄色や緑、色とりどりのぬいぐるみ、カタカタ動くサンタのおもちゃ。そんなものはなかった。鈍き光る鉄製の専用の機械でガタコンガタコン、ただ作り出すのみだった。
 でもカシスはこれでもよかった。一年前なら見るに耐えられない光景だったろうが、今では関係なかった。だってアタシはもうフィギュアなんかじゃないもの。

 カシスはガタコンガタコン、機械を動かした。作られてくるカシスと同系のおもちゃたち。ぅあー、アタシがいっぱい。なんて気楽にカシスは思っていた。仕事って楽しいわねぇ。カシスはそう思っていたが、周りの人間はくたびれた顔をして、つまらなそうに機械を動かす。

 単純な動作をしていると、頭は違うことを考え出す。それはカシスも同じだった。
 今まで出見てきた人間は、みんなつまらなそうな顔をしていた。カシス以外のおもちゃたちも、楽しそうな顔をしているやつなんていなかった。もしかしたら、生きていることなんて楽しいことなんかじゃないかもしれない。自分だけ楽しそうにケラケラ笑っているのがバカらしくなって、工場を抜け出した。

 楽しくなくするのが生きることなら、もう死んだっていいや。粉々になったってかまわない・・・。
 カシスが死に場所を求めて、街をとぼとぼ歩いてたとき、電器屋の街頭テレビのなかで、大統領がなにか言っていた。最後にこれだけ聞いて死のうと思って、カシスは立ち止まって眺めた。

 ・・・我々に悔いはありません。あと一時間で滅びるかもしれないこの世界を、一分一秒を、平穏に、無事に、ただ今までと何も変わることなく過ごせばいいのです。・・・もしかしたら滅びないかもしれない。もしかしたら完膚なきまでに苦しみもがいて死に行かねばならないかもしれない。それでも何もなかったかのごとく、ただ平然としていなさい。私たちは消え行くのではありません。死に行くのです。その存在は、粒子となり、この地球にとどまるのです。元に戻るだけです。何もあせることはありません。今まで何度もそんな世界を経験してきているのです。何も恐れることはありません。オー、ジーザス。・・・

 命短し恋せよ乙女。アタシなんかいいことしたかなあ・・・。ちゃんとした子だったかなあ・・・。多分違うわね。だってあたしは見た感じは十歳そこらなのに、いろんなことを経験したから。経験して人は汚れていくんだもの。・・・ヒト?アタシはヒトじゃない。ただのフィギュア。ただのフィギュアは、死んだり消えたりしないはずよ。あたしは死んだり消えたりしない・・・・。

 真っ暗な世界に、カシスは一人。
 体育座りで、膝に顔埋め、辺りを見回すと
 赤やピンクや黄色や緑、色とりどりのぬいぐるみ。カタカタ動くサンタのおもちゃ。
 そして今もガタコンガタコン動き続ける、おもちゃ製造機。
 それは死んだ人間の粒子を使って
 動かないおもちゃを作り続ける。
 カシスは一人考えた。
 思えなければ良かった。
 感じなければ良かった。
 感じたくなかった。
 今は粒子を感じてる。
粒子を感じてる 紅谷奈ヲ矢

桃色吐息
やす泰

 幹事の岡本が三度目の七面鳥の真似をしている。
「だからさ、わっと驚かすとね。ぐるるるるって逃げていくんだよ」
 初回のインパクトは薄れていたが、アルコールのおかげでまだ一部の女の子から笑い声が上がる。岡本は気をよくしてさらにぐるるるるを繰り返す。

「ねぇ、サオリ、獣医学科の院生たちなんだけど、どう?」
 どういうコネがあったのかは知らないが、ロッカールームで素子に誘われたのは先週のことだった。相手方は五人。獣医だって医者の仲間だ。高学歴、高収入は間違いない。
「いつ?」
「来週の金曜日」
 香港で買ったルイ・ヴィトンの手帳を出して一応予定を確認する。彼なし歴早くも一年。今月は何もあるはずがない。
「いいよ。空いてるみたい」

 サオリは二十四歳で結婚する計画だった。それが今相手が見つかったとしても、式までの準備期間を半年とすると、二十五歳だって危うい。高校からの腐れ縁でキープになっている男もいるが、結婚となるとだいぶ覚束ない。自分でも転職したくなるような会社なので、社内結婚の線は絶対になし。そうなるとあっという間に二十七歳。売り時を逃した惨めなサンプルは目の前にいくらでも転がっている。いやよ。冗談じゃないわ。
 週末、美容院に行って髪の色をわからない程度に一段階明るくした。当日は久々の朝シャンでサラサラに仕上げた。ふわりとコロンの香りがする。使い捨てコンタクトを新しい袋から取り出して眼の中に入れる。くっきりとした二重瞼の眼にはちょっと自信があった。ラウンドカラーのブラウスにピンクのスーツで装備を固めると、コートは迷った末にあえてフェイクファーの物を選んだ。もしかすると自然保護の話に使えるかもしれない。

「ペットドクターになるのは三分の一くらいなんですよ。あと三分の一が県の畜産局とかで公務員。残りは民間の会社に就職してサラリーマンですね」
 山形県出身という田沢は標準語を話しているが、ネにニを混ぜたような音がまじる。今時珍しい黒ぶちの眼鏡をかけて、口元からは金歯がのぞいていた。
「俺たち生き物を相手にしているし、実習先が田舎でしょう。なかなか都会で合コンなんてできる環境にないんですね」
 そのせいか獣医の卵たちは純情そうな青年ばかりだった。イケメンは一人だけ。隣の隣に座っているが、さっきから素子がガッチリとガードしている。自己紹介した時に宮脇と名乗ったはずだ。テーブルの反対側では、岡本が動物農場の真似を全部やるつもりらしい。サオリはしかたなく白ワインを飲みながら田沢の話を聞いていた。
「俺の場合は長男だし、田舎帰って牛や豚を診れたらと思うんだけどね」
 素子がトイレに立ったのを見て、サオリも立ち上がった。いよいよ最後の切り札を使う時が来た。
「ごめん、もう終電なの」
 テーブルの奥から抜け出す時、サオリは宮脇の前に立ち止まると、相手の目を覗き込みながら小さな声でいった。
「宮脇君、そこまで送ってくれない」
「…ああ、いいですよ」
 宮脇は店の玄関までついて来た。やった。あと一押し。素子ごしに何度か視線を感じたので脈ありと思っていたのだ。
「他の人には悪いけどちょっと雰囲気変えたかったの。外に出ない」
「…うん、いいかもね」
 作戦成功。コートを羽織って宮脇が付いてきた。よく見ると藤木直人に似ている。こいつはかなりの当たりだ。素子には悪いけど、仁義はあとで切らせていただきます。

 新宿西口に廻って高層ホテルのバーに入った。
「何にする」
「ベリーニ」
「じゃ、僕もそれ」
 ピーチジュースをシャンペンで割ったカクテルは、少し歩いて上気した身体に心地よかった。
「家は横浜で病院やっているんですよ。でも二浪しても医学部に入れなかったし、どうせ兄貴が継ぐのわかっていたから…」
 思わずよだれがこぼれ落ちそうになるのをグラスを口に含んで誤魔化す。おかげで中身を飲み干してしまった。
「お代わり?」
「うん、でもあまり飲めない方なの」
 本当はベリーニが大好きでいつか五杯くらい飲んでみたいと思っていた。しかし、高いのでホテルのバーで試す訳にはいかない。この手の家柄の男に強引なのは禁物。ふと感じた酔いにサオリはそう思って気を引き締めていた。
「今、何時かな」
 とっくに自分の時計は外してある。さりげなく相手の左手に触れて腕時計を眺めた。おっ、ブルガリだ。時間は十二時を少し過ぎている。横浜に帰るとするとぎりぎりの時間だ。ここからが神経戦。先に動いた方が負けになる。気のせいか宮脇も落ちつかなくなっていた。
 
「ちょっとトイレにいってくる」
 置き去りにされたかと思うほどの時間がたって宮脇は戻ってきた。
「出ようか」
 エレベーター前に立つ。
「あの、これ」
 宮脇がおずおずと何かを差し出した。ホテルのキードロップのついた鍵が揺れている。
「ふーん、宮脇君ってそういうことするんだ」
 誘ったのはそっちよと駄目押しをする。返事の代わりに相手の胸もとに頭を寄せる。ほのかにコロンの香りがするはずだった。
 
 部屋で二人きりになると、コートも脱がないうちに抱きついてきた。
「ちょっと待ってよ。もう少し大切にお付き合いしたいの」
 付きまとうぞの宣言である。
「もう、強引なんだから…」
 ベッドに押し倒されて身体がバウンドした。腕がはずれてペンダントライトに照らし出され、お互いの顔が見えた。
「あれ、どうしたの」
「えっ」
 宮脇が不思議そうに顔を覗きこんでいる。
「眼が真っ赤だ。充血してる」
「ええっ」
 あわててバスルームにかけ込んで鏡の前で調べた。真っ赤だ。毛細血管が膨らんで両眼とも充血している。
「細菌感染ではないと思うけどな」
 後ろで宮脇がいう。バカね。サオリは胸の中で毒づいた。お酒とコンタクトと深夜の合併症よ。そういえば一次会でもけっこうワインを飲んでいたっけ。最初は抑えていたけれど、途中からピッチが上がって…。急に酔いが襲ってきたような気がした。
「初めてウサギの解剖をした時のこと思いだしたよ。死ぬ時すーっと眼から血の色が消えていくんだ」
 こんなところでそーゆーこというかな、こいつは。ハンドバッグを掻き回してコンタクトのケースをさがす。だめだ。完全に潮が引いていった。
「僕、悪いけど先に帰るね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ…」
 策士、策に溺れる。いや、酒に溺れた。

 ロッカールームで素子が寄ってきた。あれからしばらく、お互いになんとなく敬遠していたのだ。
「今度、結婚することになったの」
「おめでとう。よかったわね。相手はどんな人」
「サオリの知っている人よ。宮脇君」
「嘘…」
「獣医の卵って卒業まで本当に忙しいらしいの。彼ったらすれてなくってね。私が初めての女だったのよ…」
 素子の声が耳元からどんどん遠ざかっていった。なぜ見抜けなかったのか、サオリ。なぜ喰わなかったのか、サオリ…。代わりにどこからか湧き上がるような声が聞こえてくる。

 半年後、宮脇と素子の結婚披露宴が横浜の中華街で開かれた。二汁八菜の豪華な広東料理の後に桃の形をした饅頭が出てきた。寿桃包子とメニューには書かれている。桃って本当は幸福のシンボルだったんだ。サオリはつまみ上げてつくづくと眺める。
「今度山形に来てくれませんか」
 田沢が唐突にいい出す。
「うん、いいよ」
 自分でも意外な答えが返っていた。でも、こいつの金歯だけはなんとかしなくては。
 サオリは桃の菓子を一口頬張った。
桃色吐息 やす泰

煩わしい恋
坂口与四郎

ジー
「なんか、いつもと違うな」
ベッドでタバコを吸いながら、雅孝は私の頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「新しい部屋だからじゃない?」
わざと、冷めた風に言ってみる。本当は別の理由があるけど、それは教えられない。
「いつもよりさ、あの、声が大きかったような気がする」
雅孝は、持っていたタバコを灰皿の中で丸めながらポツリと言った。
へえ、気がついたの。どうでもいいことばかり気がつくのね。

ジー
そんなこと自分じゃわからないよ、と言って、(ねえ、もっかいしようよ)と視線を送ってみる。雅孝は目を細めて、鎖骨にキスをしてきた。本当に、どうでもいいことばかり気がつくのね。

ジー
 このマンションに引っ越してきてから一週間ほど経つ。始めは少し寂しかったけど、今は平気。だって、あなたがずっと一緒にいるもの。雅孝は、こんなことしてくれない。あなただけよ。



ジー
 やっぱり、雅孝は、今日は来られないって。でも、私にはあなたがいる。引っ越してきて、すぐみつけた。きっと、運命だわ。

ジー
 あなたが好きよ。ここまで人を好きになったのは、あなたが初めてかも。
ねえ、盗聴だけで満足できる? それとも盗撮?  雅孝は忙しいみたいだから、毎日は来られないわ。
 知ってる? 雅孝は、サトコとも逢っているの。今ごろは、二人で、私のことを考えているのかしら。昨日は気に入ってくれた?  あなたによく聞こえるようにかんばってみました。

ジー
またがんばるから、いつか、絶対に会いに来て。これだけじゃつまらないでしょ。盗聴に気がつかない振りをするのも大変なのよ。

ジー 
 あのね、私の耳が人より敏感でよかった。可聴域が多分他の人より広いのよ。
それでね、あなたに会えてよかった。ほんと、そう素直に思っているのよ。
 


ジー
ジィー
ある日会社から帰ると、音が増えていた。
「きゃっ」
思わず声が出て、慌てて口を押さえた。ごまかすために、殺虫剤を撒く。これで、あなたはゴキブリか何かだとおもったわね。危なかった。あなたが迎えにくるまで気がつかない振りをしなくちゃいけないのに。あなたは、何も知らない私を、素の私を知りたくて、盗聴器をつけているのでしょ。そして、それを楽しんでいる。だから、私は何も知らない振りをしている。ふふ、どっちがどっちを観察しているのかしら。今、生育中の関係ね。

ジー
ジィー
今度は何かしら。それより、どうやって部屋に入ったのかしら。

それはともかく、これって、あなたも私に興味があるってことよね。私のことがすごく気になっているのね。うれしい。この気持ちをどうやってあなたに伝えたらいいかしら。
「明日模様替えしよう!」
急いで、雅孝に電話する。手伝ってもらうの。明日が日曜日で良かった。この音の方向にベッドを移動するの。そうすれば、あなたは喜んでくれるわね。私が、よく見えるわね。それとも、よく聞こえるのかしら。

ジー
ジィー
あなたに会いたい。お願い、早く迎えに来て。


ジー
ジィー
 やっぱりカメラだった。業者に頼んだらすぐ判った。料金はイタかったけど。「相手に気づかれないように」と、お願いしたら、変な顔をしていたが要望どおりにしてくれた。せっかく理由まで考えていたのに。ちょっと残念だな。ああ、結構あることなのね。きっと。

あなたにちょっとだけ近づいた。
ジー
ジィー


 一人きりになれる場所は、今のところお風呂とトイレだけ。普通はそういうところにつけるんじゃないかと思うけど、あなたは変わっているわね。まあ、一人でいられる場所も必要よね。

 本当は、あなたに言いたいことがたくさんあるけど、黙っている。あなたがそう望んでいるから。私を見守るのがあなたのお仕事よ。私に気づかれないように。こういうのも、愛の形よね。少しでも気持ちが伝わるように、ラブソングでも歌いますか。



ジー
ジィー
ツー
 最近雅孝が部屋に来てくれない。もしかしたら、あなたも、他の女の子を見つけて、私なんか忘れているのじゃないかしら。そんなこと許さない。だって、あなたは私のすべてを観ているのよ。それに、あなたに会いたいのに、私はずっと我慢しているのよ。

ジー
ジィー
ツー
どうして、盗聴だけで我慢できるの。私はその程度の女なの? 私のこと、嫌いになったの?

私は、隠しカメラに向かって言った。
「明日、駅前の『Rapunzel』って喫茶店で2時に待っています。来てくれるまで待っています。あなたに会いたい。来てくれないなら、こっちから行くわ」
あの、小さな音しか聞こえなかった。


次の日、 あなたは来なかった。
盗聴機も隠しカメラも、いつもどおり。



 その次の日、前に業者に頼んで調べてもらった住所にいってみた。あの部屋の合鍵を持っているだろうという人物を中心に探したら、すぐ見つかったらしい。彼の住所には、もう誰もいなかった。隣の人に彼のことを聴いてみた。
「ああ、坂口さんね。背が高い人だったよ。しょっちゅう、荷物が着ていたよ。なんか、コンピュータをいつも買い換えていたみたい。若いのに金持ちだなって思っていたよ。でもね、そんなに暗い雰囲気もなくてなかなか感じがいい青年だったよ。急な引っ越しでねぇ。引越し先は聞いていないんだ。」
お礼をいって、お隣さんとは別れた。
帰り、道端のごみ置き場に、業者の持っていたような器械が置いてあった。




「あ、ユキ、どうした? こんな夜中に」
私は雅孝の家に来ていた。玄関先で泣きだした。
「あたしね、本当は、他に好きな人がいたの。でもね、その人はね、あたしの前からいなくなっちゃったの。あたしのこと、あんなに好きだって言ってくれていたのに。」
私は、泣きながら言った。雅孝は黙って家の中に入れてくれた。雅孝は、私が落ち着いたころキスをして、そのままベッドに運んでくれた。あの音の無いところでするのは、久しぶりだった。
でも、さびしかった。



 よくわからないけど、雅孝はサトコと別れたらしい。彼女とずっと連絡がつかない。サトコとはもともと親しいわけではないから、気にしないけど。

 私は、あのマンションから出て、雅孝といっしょに住むことにした。私がこの部屋にいる理由はもうない。あの人は消えてしまった。探す気にもなれない。100円ショップでドライバーを買って来て、コンセントのネジを回してみた。
「これがあなたの正体なのね。」
あと2つあるけど、もう、どうでも良かった。
この部屋で、声をあげて泣くのは最初で最後だろう。せめて、この泣き声だけでも、あなたに聞かせたい。


 雅孝とはうまくいっている、と、思う。付き合い始めのような甘い空気はないし、あの人へ向けたような感情もないけど。でも、前よりは互いのことを考えている。特に大きな変化もなく、もしかしたらこのまま結婚するかも。


 最近思うの。あなたは今も誰かの部屋で愛を囁いているのかもって。もしかしたら、まだあの部屋かも。そうしたら、私は、もったいないことをしたわ。

でも、抱き合えなかったら愛されても意味がない。プラトニックなんてもう嫌よ。そんな歳じゃない。あなたは知っているはずよ。私のすべてを見ていたもの。


いえ、本当はもう、嫌だったの。
あなたの囁きが、だんだん自分の中で変化していく。
どんどん無機質なものに変わっていく。

あの音に、煩わしさを感じてしまった。
そんな自分が嫌だった。
あなたが迎えにくるまで、待てなかった。ごめんなさい。

それから、怖がらないで。あなたが好きなの。
煩わしい恋 坂口与四郎

ドラゴンフィッシュの夏
Ame

 ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕達は、肌と布の間を金色の風がすり抜ける、白く薄いシャツを着ていた。

「ベトナム戦争って知ってる?」
「聞いた事はあるけど」
「アメリカとベトナムが戦争したの。それで、戦争に行ったアメリカ人達は、精神を病んで帰って来た人も多かったんだって」
 田山は学校で一番成績のいい女の子だった。対する僕と来たら進学校のこの高校できっちり落ちこぼれて、毎日汽車に乗る夢を見ていた。
「戦争ってどっちが勝ったの」
「ベトナムって事になってるけどアメリカは認めていない」
「へえ」
「戦争とか行ってみたくない?」
 僕はぎょっとして身を起こした(僕達はいつもの夏の河原に寝転がっていたのだけれど)。田山はタカ派とか国威発揚とかいう言葉とは縁遠い、日々朝日新聞読んでる「(せいぜい学生特有の範囲内でやや左寄りの)良き市民」だ。僕の知る限り最もその手の発言をしそうにないのが彼女だったのである。
「なんで」
「あ、条件はあるわよ」
「どんなよ」
「警戒しないでよ。
 あのね、どんなイデオロギーも国家も全然関係ない戦争が何処かの砂漠で行なわれて居て、そこで私はシンプルに獣の様に殺しあえるなら、そこに行って死ぬのもいいなって思うのよ」
 僕と来たら増々唖然とした。それは無法状態と言うやつで、近代国家のアンチテーゼとして中学生の教科書にでも出てきそうな情景じゃないか。この大きな目と細い首で田山と来たら一体どんな火を体の中に抱えて居るのだろう。
「田山さん」
「何ですか?」
「何でまたそんな」
「私、思想とかそういうものに、うんざりする事があるの」
 木陰の一つも無い石だらけの河原は、午前二時の光を弾く川の水の所為で、何処も彼処も冗談みたいに眩しかった。そこに肩迄の髪と学校指定のブラウスを着て、彼女はぼんやり、ビニール袋と石と水で出来た川を見ている。

 僕がここに来る様になった理由は分かって居るが、来続けている理由は正直分からない。前者はつまり、ついて行けない授業と挫折感からの逃避の為に授業をサボって手近な逃げ場所を探したと言う経緯に基づくが、後者の方はまた複雑なのだ。だってそうやって見付けた場所には全国模試百番以内常連の彼女が寝転がっていたのだから。
 二年生になったばかりの五月だったと思う。彼女はデリダなんざを捲っており、僕に気付くと口の端を上げて声に出さず「こんにちは」と言った。
 何だか自分でも上手く言えないし、因果関係の正確な説明になって居ないと言う気がひしひしとするのだが、ともかくそれで彼女とこの河原で授業を抜け出す日々が始まった。僕らには他に友人が居た。学校に戻るとそれぞれの輪の中に戻り、会っても手を振り合う程度の関係だった。別に成績云々の話ではなく、僕らは日常空間での友人では確かになかったのだ。不思議に思った僕は一度訊ねた事がある。「何故僕達はここにいるんだろう?」彼女は答えた。「それは私達が何かに飢えた野良犬だからよ」
 思えば不思議な問に不思議な答えだ。僕は良く分からなかったが、それでも自分が「飢えている」事は当たっていると思った。そうでもなければ、陽射しのまともに照りつける、制服と髪とを砂だらけにするような場所に、わざわざ好き好んで居ようとは思わないんじゃないだろうか?そう考えてから、僕はいつも少し寂しく付け加える。
 だけど多分僕と彼女との欠落の種類は違って、僕はそれが何かを知らない。

「あ、ドラゴンフィッシュ」
 不意に彼女は呟いた。目線の先にはとんぼが居て、余り綺麗とは言えない川に卵を産みつけようとして居る。僕は訝しんで訊ねた。
「ドラゴンフィッシュ?そんなもん飛んでる?」
「え?とんぼじゃなかった」
「タツノオトシゴとかだったと思う」
「…とんぼってじゃ、何だっけ」
「何だっけ」
 水面を弾く光に縁取られて夏が流れて居た。肩迄の髪が揺れる彼女と、痩せっぽちの僕とはその前で完全に無力で、世界が流れる様を見ていた、ただ、突っ立って。
 僕らに手の届かない場所に行ってしまう迄。

 三年生になると、彼女は殆ど河原に来なくなった。そうなると僕も足が遠退き、授業中には前より頻繁にまだ見ぬ汽車でシベリアに行く事ばかり考えた。それでどう言う訳か成績が上がってしまい、外語大受験なんかを考え始めた。
 シベリアは何もない静かでばさばさした風の吹く土地だ。砂漠で死にたいという彼女はこういう所が好きなんじゃないだろうか。廊下で擦れ違うだけの彼女にいつか見せたいと、僕はシベリア鉄道のパンフレットを持ち歩く癖がついた。そして日々、バインダーの奥にそれを持ちながら、僕は「おうよ!」とか一言だけ言って彼女と只擦れ違い続けた。
 夏が過ぎ冬が来た。国立大学前期の発表の前にとっとと卒業式を終わらしてしまおうという些か責任逃れ的なうちの高校の伝統により、僕達の多くはひと月後の自分の行く先を知らないまま胸に花をつけた。そして冷たい講堂への渡り廊下を通る僕は彼女を探した。
 見つからなくても気にはしなかった。だって彼女は卒業生総代で、式の間には彼女を見られるに決まっていたのだから。

 だけど、卒業生総代を呼ばれても、誰も壇上には登らなかった。

 時は過ぎる。そしてドラゴンフィッシュの夏は遠くなる。
 
 大学二年生の夏、僕はシベリア鉄道に向けて出発する。けれど多分何かからひたすらに逃げ続けていた高校生の時とはまた違う事情で僕は乗るのだ。逃げるのではなく僕は、何かを探しに行って来る。その為に、僕は彼女の河原にやって来た。
 ここは昔と変わらない。所々にごみがあり、悪臭こそしないけれど、傷付いている子供でもなければわざわざ居ようなんて思わない場所だ。

 あの卒業式の日、僕は先生達が見当違いの所で喚いているのを後目に、真直ぐ河原に行った。そこに彼女は居て、晴れがましい制服姿のまま、空を見ていた。
「田山、みんな探してるよ」
 彼女は僕の方を見ようともしなかった。右手にくしゃくしゃになった手紙の様なものを握りしめ、そしてその時僕は漸く気付いたのだけれど、顔には涙の跡があった。
「田山」
「石」
「は?」
「探して、石。マジックで書いておいたからきっと消えない。ここ河川工事とかされてる川だから、きっとこの辺の石も流されたりなんかしないはずよ」
 思えば彼女に触れたのはそれが初めてだった。だのに彼女の低い体温はあっと云う間に僕の右手を滑り抜け、喚き続ける僕を置いて、彼女は走って行ってしまったのだ。
 彼女のお父さんが左翼だったかなんだかの過激派の大物だったのを知ったのは少し後だ。叔父さんの家に養女になっていたのだけれど、両親を結局捨て切れなかったらしい。
 彼女の行方を卒業式以降誰も知らない。もしかしたら一生このまま、誰も知らないで終わるのかも知れない。

 寝転がった僕はごろりと寝返りをうった。その先には、黒い染みの様なものがある石が転がっていた。僕は何の気なしに手を伸ばし、そこに書いてある文字列を読む。
「『Dragonfly』」
 とんぼ?
 ああ

 記憶の彼方、幾重にも流れ溢れる夏の光の中、白いシャツを着た少女が笑う。

「負けず嫌い」
 僕は笑いながら呟いた。
 あの夏が蝉の鳴き声より高く辺りを埋めている。

 ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕達は、1200フィートの上空を流れる風を見た。

 ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕は、一つの恋をした。
ドラゴンフィッシュの夏 Ame

ニセ珈琲
海坂他人

 毎朝起きると、洋はまず庭に出て、気象観測をする。
――天候、晴。雲量は2。気温8℃。東からの風、二メートルというところか。
 つまり、おだやかな春の朝ということである。
 それから洗面をすませ、孝子と二人で朝食をとる。献立はご飯に味噌汁、納豆、海苔なぞである。
 食べおわると、緑茶を喫しながら三十分ほどかけて新聞を読み、関心のある事柄について語る。全体の八割ちかくを洋が喋り、孝子はそれをもっぱら聞いている。年を追うごとに、その比率はしだいに洋の側に傾きつつある。彼はもちろん自覚していない。
 食やすみの後、二人は分担して家事をする。世間一般に比べても、家事に協力的な夫の部類だろうと、洋は勤めているころから自負している。休みには必ず家中に掃除機を掛けていたが、毎日家にいるようになってからは、さすがに一日おきにした。
 夫婦二人だけになったので、洗濯も三日にいっぺんで足りる。全自動の機械にしたのでだいぶ楽になった。四年前は、広海が毎朝、風呂の湯をバケツで汲み上げていたのであった。
 一片付きすると、洋は陽当たりのいい茶の間のこたつの上に分厚い書物とコピー用箋を広げた。太いペンの字で何やらせっせと書き写している。時どき細かい図に天眼鏡をかざして覗き込む。
 数年前から、洋は気象予報士の資格を取ろうとくわだて、独学をつづけているのである。
 退職後、何かたつきの支えにもなろうかと目論んだのだが、なかなか取れない。もともと机に向かっての勉強は性に合っているから案外かんたんに取れるかと思ったのだが。
 仕事を辞めて暇になったのを機に一つ気合いを入れてみようと、気象観測も実はその一環であった。
 洗い物を干し終わったらしい孝子が、台所から、一服しましょうか、と声をかけた。
「ニセ珈琲でいい?」
「うん、いいね」
 豆を挽いていれるのは週末だけである。年金と、孝子が実家から相続した貸家の上がりで暮らしている夫婦の生計では、毎日ほんものの珈琲を愉しむ余裕は無いらしい。といって、そう侘びしくもない。世の中で景気が悪い悪いと言われるようになってもう十年以上になるが、平凡な一公務員だった洋の家は、昔から景気循環とは無縁である。
 そんなことより今の問題は、洋の記憶によると、
「それ、最初は広海が言っていたんじゃなかったっけ? そのニセ珈琲って言い方」
「そうだったかしらね……そうかも知れない」
「インスタントって言えばいいのに、他にもちょっと不思議な詞を使ってたな、色々」
「そうね……」
「ほら、スプーンを、『匙』とか言ったり」
「何だか知らないけど英語と片仮名が嫌いだったから……。変なところで頑固なのはお父さんに似たんですよ」
「そうかね……爺ちゃんの真似だったんじゃないの」
「何ですか」
 孝子は笑って話を打ち切った。それから強い眼鏡に替えると絨毯の上に新聞を広げ、洋は再び天気図に戻り、茶の間はまたしばらく静かになった。
「ちょっと、これ見て……面白いことが書いてあるから」
 急に、くすくす笑いながら孝子が声をかけてきた。いつの間にか、飾り棚の上の広海の手帳を取って読んでいたらしい。

一月二十七日(日)
 大あらしの中、父が気象予報士の試験を受けに出かけた。
 毎晩帰ってくると必ず、休みになると一日中、熱心に参考書にかじりついているが、もう三四回も落ちているらしい。
 密かに思えらく、あのままでは受かる見込みはあるまい。どこか公認のスクールに所属しない限り無駄である。学力そのものの問題ではなく、ちゃんとした組織に入って何がしかの束修を収めることが必要なのだ。
 お上と裏でつながっている学校があって、生徒を合格させるために賄賂を使う、まではしていないかも知れないが、しかしそういう所で、何か合格には不可欠の「秘密の合言葉」のようなものが伝授されていて、それの書いてない答案は片端から落とされる位は、いかにもありそうなことである。

「私も前からそう思ってたけど、やっぱりお兄さんはよく見ていたわねえ」
 孝子は感心するが、生意気言いやがって、と洋はかるい反発をおぼえるのだった。俺が気象予報士の試験に通らないのは年のせいである。新しい事がなかなか記憶できず、憶えた事もすぐ忘れてしまうせいだ。
 しかし孝子にしみじみと、
「教採のせいよね、きっと」
 広海がそんな事を考えたのは、と言われて、なるほどと思う。あれは確か、広海が初めて公立高校の教員採用試験を受けてすべった、次の年であったか。
 文教学院なる予備校から勧誘が来た。とつぜん郵便を送りつけるだけならまだしも、
――こんなの付き合ってられないと思って放って置いたら、わざわざ電話まで寄越して。○○センセイはいいんですか、なんて嫌みに念を押すのよ。
と、広海が憤っていたのは。
 市民会館のホールを借りて十回ばかりの講義をするだけで、三十数万円もの代価を取ること。またその講師たちが皆、県立高校を退職した校長らであったことから、彼らが金と顔を使って教育委員会に口利きをするものと、広海は信じ込んでいるようであった。
 そういうことも確かにあるのかも知れないが、
――そんな手段を使って手に入れた教壇に立って、一体生徒たちに何を教えられるかと思うんだ。
 こう言っていた広海には、いわば意地を張る自分に酔っていたところが、確かにあったようだ。
 勿論そんな観察は口にしなかったが、自力で採用を獲るつもりで、不安も感じていたに違いない。
――断っちゃったけど、いいでしょう?
とも洋は同意を求められたが、いいんじゃないか、と流したのみで、はっきりした事は答えられなかった。
「うちは昔っから、子供たちの進路を真剣に考えるって事が無さすぎたのよね」
 今になって孝子はこう言って嘆くが、自身、就職に苦労した覚えのない洋には、子供の就職など考えが及ばなかったのである。
 四十年前、公務員としての採用にそのままつながる国家資格をとって、特殊な技術職に就いた自らの経験から、洋は何となく、大学で教職を取りさえすれば、教員にも自動的になれるものと思い込んでいた。運悪く一二度は撥ねられても、そのうち空きが出来れば間違いなく入れるはずだ。
 しかしそれは余りにも楽観的に過ぎた。世の中の景気がこれまでになく悪くなり、毎年の倍率は数十倍にも達していたようだった。そうなって来ると、試験の成績に加えて何らかの押しがものを言うことも、大いにあっただろう。
 あのとき洋は決然として、申し込みなさい、と言ってやるべきではなかったか? 世の中には、そういうものが存在すること。「事を成す」ためには、手段を選んではいられないこともあるという現実を訓えること。かつ、進んでその共犯に加わることによって、倫理的負担を分かつことが、子に与えうる親の庇護というものではなかっただろうか? たとえその結果がやはり不合格であったとしても……。
 文教学院が祟ったのかどうか、それから広海は採用試験を毎年受け続けねばならなかった。傍ら、あちこちの学校で穴埋め仕事に使われながら、何一つ確かなものの残らない年々が、次第に彼の中に苛立ちを積もらせて行ったのだろうか。
「まあ、仕方がなかったんじゃない……こうと決めたら人の言う事なんか聞きゃしないんだから」
 よいしょ、と立ち上がって魔法瓶を取りに行く孝子の後ろ姿に、ふと洋はかるい憎しみのようなものを感じた。
ニセ珈琲 海坂他人

僕らの海
党一郎

「ねえ、海に行かない?」陽子はそう囁くとくすっと笑って見せた。
いつもそうだ、このいたずらっぽい笑顔にいつもやられてしまう。
「ああ・・・じゃあ行こうか」気のない返事を装ったが、陽子にはバレバレだった。
事実僕はウキウキしていたし、準備するのも早かった。
そんな僕を見ながら陽子は優しげに微笑んでいた。
海といっても僕らの海は一つだった。そう・・・思い出の地、陽子とであったあの海だ
そしてそれは、僕たちの親父やたかしを飲み込んだ海でもある。
僕たちは漁師町で生まれ育った。陽子は隣町に住んでいた。
同じように親父は漁師で、同じような家に住んでいた。
たかしは僕の親友で、隣に住んでいた。ここら一体はみんな漁師で、貧富の差はほとんどないから、みんな同じような家に住み、同じようなものを食べて暮らしていた。
のどかで、暖かい、ちょっとおせっかいなとこもあるけど、優しい町だ。
小学校の時だ、隣町との合同遠足で僕らは陽子とであった。
そのころの僕らと来たら、真っ黒に日焼けした悪ガキで、いつもいたずらをしては
どっちかの親父やお袋に殴られていた。漁師の家は気が荒いのだ。
毎度のことのように怒られていた僕たちはもう慣れっこになっていて、それでもいっつも仲良しでつるんでいた。そんな時に陽子に出会ったんだ。
この時から僕たちはライバルになった。
どっちが「陽子ちゃん」をモノにするかってことで他愛ないことで張り合った。
給食の早食いやテストの点数、スポーツテストや登校時間、ありとあらゆることで勝負した。陽子は僕らのアイドルだった。陽子は漁師町の子には珍しく色白で華奢だった。
髪は栗色で大きな目がくりくりしていて僕たちは同時に一目ボレしたんだ。
出会った日はもうドキドキしちゃって旨く話せなくって、それでもなんだかそばにいたくって、なんやかやと僕らの宝物を陽子にささげた。いま思えばガラクタばっかりだが、
そのころの僕らにとっては大切な宝物だったのだ。
陽子は僕らのささげものの一つ一つを見ては、ビックリしたり、不思議そうな顔をしたり、綺麗な声で笑ったりした。そしていつも最後には優しく微笑んで、「ありがとう」と言うのだった。それがなんとも嬉しくって、僕らは争ってプレゼントしたものだった。
そうして合同遠足から半年後のことだ、何と陽子が転校してきた。
しかも僕らのクラスにだ!俄然僕らの闘志は燃え上がった。
そんな僕らを陽子はいつもくすくすと笑ってみていた。
体が弱くいつも体育を見学している陽子に見えるように、僕らはいつも派手なパフォーマンスをしては先生のゲンコをもらっていた。
陽子はその後も僕らと一緒の中学・高校に進んだ。といってもこのあたりには一校ずつしかないから自然とそうなるんだけど。
でも僕らはもう運命の糸でつながれてるみたいに思って、闘いつづけた。
やっぱり早食いや登校時間で・・・

勝負の幕切れはあっけなかった。僕の2450勝2450敗100引き分けで
お互い勝負がつかないままあいつは逝ってしまった。
5001回目の勝負を目前に控えた、というか5000回目の勝負のすぐ後のことだった
海が荒れていた。親父たちは不漁続きで時化でも漁に出ざるを得なかった。
そんな時のことだった。たかしの親父さんは用事が会って出かけていたから
かわりにたかしが漁に出ることになった。
「おう、たかちゃんの初陣だなぁ、こりゃあ大漁にしなきゃなぁ」
「わはは、そうだそうだ」
陽気な漁師たちの声に包まれながらたかしは出港していった。
「おまえ抜け駆けすんじゃねえぞぉ」たかしが船の上から僕に言った。
「しねえよバーカおまえこそ海におちんじゃねえぞぉ」僕は岸から言い返した。
この言葉を僕はいまでも後悔している。言わなければたかしが無事に帰ってこれたんじゃないか。そんな気がしてならなかったのだ。
陽子と二人っきりになりドキドキしながら、でもやっぱり何にもないまま家に送り届け、
僕は次第に暗くなっていく雲行きを心配していた。
「大時化だぁー船がやばいぞー早く繋げー流されっぞー」誰かの大声で目が覚めた
どうやらうとうとしていたらしい。外は大粒の雨がたたきつけるように降っていた。
親父たちの船は一番最後だった。港には何隻かの船が命からがらといった感じで
港に疲れ果てていた。気がつくと陽子がそばに立ち、僕の手を強く握りキッと海をにらんでいた。僕も海を見つめつづけた。
親父たちの船が見えた。僕は少し安心したが、陽子はまだ海をにらんでいた。
気がつけば陽子は雨具を身につけていない。自分のを脱いで陽子に着せようとした時、陽子がしがみついていた、どうじに「あああ~っ!」と叫び声があがった。
反射的に振り向くと船が沈んでいくのが見えた。
と、その時海に飛び込む後姿が見えた。たかしの親父さんだった。
親父の船に乗っていた人たちは全滅だった。翌日港のそばの浜に死体が上がった。
たかしは親父さんが何とか連れてきたが、途中で親父さんは沈んでしまい
たかしもすぐに息を引き取った。陽子と僕を交互に見比べて、「幸せになれよ」
それがたかしの最後の言葉になった。
数日後全員の合同葬儀が営まれた。村中ほとんどの人間が参列した。
僕ら遺族には特別みんなは暖かかった。特に僕たちのクラスメートたちは・・・
僕と陽子はその時から公認のカップルとなり今にいたる。
でも出かける先は海が多い。たかしに会いに行くためだ。
なにかにつけ僕らはたかしに報告に行った。高校卒業や大学受験や就職など
それにファーストキスや初体験なんかも一つ残らず。
今回は結婚の報告になりそうだ。僕たちはもうそう言う歳になってしまった。
「たかし君、あたしたち結婚するわ、あなたの分まで長生きするからね」
陽子はそう言うといつものようにたかしの好きだった花を海に投げた。
「ああ、頼むぜ」たかしの声が聞こえたような気がした。
海はいつまでも凪いでいた。あの夜のことがまるで嘘みたいに・・・


僕らの海 党一郎

蝿薬
林徳鎬

男が話を始めてもう7時間が経過しようとしている。
話は時間的な連続性に欠けていた。
彼の口調はあやふやで、同じ話を言葉を変えて繰り返したり、予想される展開を飛び越え、テレビのチャンネルを変えるみたいに別の話を始めたりした。
そこでは突然僕の知らない人物が事件の重要な局面にし、どうやらそれがさっきの話に出てきた人物と同一であると想定し、想像を巡らせ、何とか彼の話についていこうとすると、またさっきの話に戻ったりした。話が急に整合性を持って進むこともあれば、またとりとめのない思い出話に陥る。
不思議なことに、そうやって話を聞いているうちに、僕には男の体験が自分のもののように感じられ、その日見た夢を反復するような不思議な視覚的感覚を覚えた。
男が正確に話せないのは、彼が一枚の絵を口頭で説明するような、そんなやり方でしか話せないからだろう。悪意はなく、嘘をつく気もないだろうと僕は考えていた。
話は一人の博士を巡るものだった。正確にはこの日六つ目の話だ。五つは終わっている。
概要は既に読んで知っていたが、彼の口からはまだ大事なところを聞き出せていない。
ときおり質問をしたり、同じところで滞ると促したりした。
これが自分の仕事なのだと覚悟して気を引き締める。
更に一時間が経過した。
そして今、やっと話がその晩のことにさしかかった。
「7階でエレベーターをおりると、暗い廊下の奥で博士が手招きしていました。
研究室の窓から、僕が大学の門をくぐるのを見ていたんでしょう」
そんな遅い時間に門は開いているのだろうか?
研究室は8階ではなかったか?
聞くべきことではあったが後でいいだろう。
男の口調が確信的なものに変わり、話が一方向に進みだしたので、邪魔をしないことにした。
「僕がエレベーターの前で会釈すると、彼は何も言わずに研究室の中に入って、ドアを閉めてしまいました。途端にあたりは真っ暗になりました。
エレベーターから廊下が一本伸びて、両脇にドアが並んでいるだけなので、突き当たりの小さな窓からほんのり明かりを感じるだけで、それを目指して歩かなければなりません。いえ、普段は滅多に来ません。実験はいつも本館にある大きな実験室を使いますし、博士もこっちの部屋にいることはあまりないからです。
突き当たりの窓に向かって右側が博士の研究室です。
一応ノックをしてみたんですが、返事がないのでそのまま入りました。
ドアを開けるとすぐに、強い薬品の匂いが鼻を刺し、動物用ケージとかキムペーパーが積まれた博士の机が目に入りました。
博士がいないことを理解するのに少し時間がかかりました。狭い部屋だし、隠れているなんて思いもしません。向かいの部屋と見間違えたのかな、と思ってそれですぐに廊下に出てみたんです。でもそれもおかしい。突き当たりのもう一つの部屋は使われていないんです。鍵を確かめましたが、やはり開きませんでした。
それでもう一度研究室のドアを開けました。
そしたら博士が机の横に立ってるんです。
ええ。そりゃ驚きましたよ。もの凄く驚きましたね。不思議に思って研究室の隅に何か穴でもあるのかと目をやりました。
博士は笑って、こう言いました。
「研究室から廊下に出てドアを閉めなさい。それからもう一度入ってくるんだ」
何が何だかわからないまま、僕は言われた通りにしました。もう一度廊下に出て、それからドアを開けると、博士は消えていました。今度は驚きませんでした。
それよりもこんな夜中に呼ばれて冗談に付き合わされるなんて、と怒っていたかな。騙されていると思って。その晩電話があって呼ばれたんです、新薬の実験がしたいと。
蝿薬が出来たと言っていました。
一瞬帰ろうかとも思ったけど、博士が消えたのは不思議です。
探すまでもなく部屋の中に彼はいないのです。窓がひとつと、隅にゴミ箱。床に哺乳動物用の、多分血清用のウサギか何かを飼うための設備が一式置いてありました。あとはそこら中に資料やら何やらが積んであるだけです。壁の穴をまた考えましたが、バカらしくて調べることはしませんでした。
それでも物音か何か聞こえないか耳をすましていると、白熱灯の上を蝿が飛んでいることに気づきました。天井の明かりとは別に、博士の机に置いてあるやつです。
はい?ええ、確かに僕は薬の名前を知っていたから、もしかしたら、とは思いましたよ。
でも誰がそんなことを本気で考えますか?そもそも僕は髪の毛の「生え薬」だと思っていたんです。
普通そっちを想像するでしょう?
とにかく、蝿はただの蝿でした。
意図的な動きをするでもなく、ただ明かりのまわりをウロウロ飛んでいたのです。
僕は部屋の窓から蝿を外に出して、それからまた閉めました。
静かな部屋だったんで、羽音がするような気がして。神経質だと思いますか?僕はそういうのが気になるんです。
僕はもう一度部屋を眺めて、廊下に出ました。帰るつもりでした。
けど、ドアを閉めると廊下はまた真っ暗で、この中でエレベーターを待つのも気味が悪いし、明かりの点け方だけでも聞こうかと思い直しました。
それに本当に帰ってしまうのも失礼だし。
だからまた研究室に戻ったんです。
博士はいませんでした。
軽く部屋を見回して、それから何気なく窓の外の闇に目をやりました。
その時、初めてイヤな予感がしたんです。ぞっとしました。
もちろんです。
これは事故です」
語り終えると、焦点の定まらない目で、机の上に組まれた自分の手をぼんやりと見つめていた。
真には、事故なのか殺人なのか。
それを彼の口から知ることが、この仕事の成否を決める分岐点になるだろう。それに彼の運命も。弁護士を欺くことは、決していい結果を生まないものだ。
彼は嘘をついている。
僕はため息をついた。
しかし彼の物語は、最後の瞬間を語らないままに、僕の頭の中で完全な形で収束していた。
蝿になった博士は、彼がドアを開けたときに元の姿に戻ったのだ。暗い空の上で。
彼はそのように示唆したし、僕のイメージの中でもそれはごく自然に理解できた。
七階から落ちる理由としてそれ以上に相応しいものなんてないような気さえするのだ。
もちろん理性では、そんなことはありえないと知っていた。
彼が再び語りだした。長い指をくっつけたり離したりしながら、皺のよった口元を僅かに動かす。顔に比べて手はそんなに老いていない。それともそれが普通なのだろうか。
また、長い物語を予感させる話し方で、死体になって発見された大学博士の事件の日から三日飛んだ、次の事件の現場について言葉をつなげていく。
十分程聞いていると、次の博士が登場した。今度は医者だ。彼の役は患者になっていた。
これで六つの物語に6人の博士が登場したことになる。そのうちの何人かは同じ人物かもしれないが。
彼は事実を正確に思い出そうと、ゆっくりと視線を彷徨わせ、言葉を探す。
弁護士としてこれまで多くの容疑者から話を聞いてきたが、その経験に照らせば彼が確信しているのがわかった。
自分は悲劇に居合わせただけの不運な男であり、事実を語れば身の潔白を示すことができると。
僕はもうひとつ彼がわからないように、ゆっくりと、大きなため息をついた。
結局彼は、彼が「博士」と呼ぶ人間を何人殺したのだろう?
蝿薬 林徳鎬

年輪

寒風吹きすさぶ夕方の田舎道を、俺は赤バイクで疾走していた。
耳元を駆け抜ける風は痛いほど冷たい。春は名ばかりとはよく言ったものだ。
俺は最近この地区に配属されたばかりだ。今配達が終わり、局に帰る途中である。配達のノルマはやっとこなせるようになったが、今度は局に帰ったら雑用が待ちかまえている。今の時代、配達が済んだからと言ってそれでおしまいではないのだ。

先を焦るバイクの前に、突然塀の角から何かが出てきた。老人のふたり連れだった。
じいさんとばあさん。夫婦か?
思わず急ブレーキ。バイクは前につんのめって止まり、あわや衝突は免れた。
「おい、ばあさん・・・」
俺は思わず声をあげそうになった。・・・いやいや、転属間無しのこの時期に揉め事をおこしちゃまずい。
「ああ、よかった、気をつけてくださいよ。」
俺は善人ぶってにこにこ笑顔を作り、穏やかにそう言った。
「ああすみません。家内がこんな風だから勘弁してやってください。」
いかにも好々爺然とした恰幅のいいじいさんが、頭に手をあてて謝っている。年は65才位か?若いころはさぞ端正だったに違いない面長の顔立ち。背もこの年代の男性にしてはすらっと高い。
そのじいさんに家内と呼ばれたばあさんは、あわやバイクに轢かれかけたというのに、ただじいさんの後ろでにこにこ笑っている。同じく60代半ばか。じいさんに比べて背も顔もちんまりして上品である。ふたり揃いのパーカーを着、同じく揃いのスウェットスーツ。ウエストポーチが色違いなのが何かほほえましい。
今はやりの歩け歩け健康法か?いいなあ暇な年金暮らしは。
俺は深々と頭を下げるじいさんを尻目に再びバイクを飛ばした。

次の日からこの夫婦とすれ違うのが俺の日課になった。
普通に配達を済ませた日には必ず同じこの場所ですれ違う。
俺が少し遅れた日には、もう少し手前ですれ違う。
お互い顔見知りとなり、すれ違う時にはどちらからともなく頭を下げるようになった。
時計としてお互いはお互いの生活になじんでいった。

いつも見ていて思ったのは、この2人はとても仲がいいと言うことである。
いつ見ても2人はしっかりと手をつないでいるのだ。
俺はまだまだ若者と呼べる年代だが、かつて彼女と人前で手をつないだことなど無い。男がちゃらちゃらそんなことができるものか。と彼女には言っているが、そのことでかなり喧嘩したものだ。本当は照れくさく、恥ずかしいからだが、彼女になんと言われようとも、俺は手をつないで歩く気はない。
その点この夫婦はすごいと思う。むしろ旦那の方が先に手を取り歩いているような感じさえ受ける。
妻は少しうつむき、手を引かれるままに半歩遅れて旦那の後をついていく。
俺達はこんな夫婦になれるんだろうか。ふと彼女との行く末を考えてみたりする。

ある日俺は大きな小包をバイクの後ろに付けて走っていた。
この住所に小包を持っていくのは初めてだ。いつもDMやハガキは配達しているが、小包となると印鑑をもらわなくてはならない。誰かが家にいるのならいいが、不在となるといろいろ手数を踏まなければならないのだ。初めての家に小包や書留を持っていく時には、いつも誰かいてくれと祈るような気持ちである。
その家の庭先には丹精込めた盆栽が並び、松の木が頭上に深々と生い茂っていた。俺は玄関に立ち、チャイムを鳴らした。出てきたのは、いつもすれ違うあの老夫婦の妻だった。
「あ、こんにちは、お世話になります、郵便局です。印鑑お願いします」
俺は小包を差し出しながら笑顔でそういった。
「はあ・・・、どちらさまで?」ばあさんは笑顔でそう返した。
「あの・・・だから、郵便局・・・」
営業スマイルを貼り付けたまま俺の顔はこわばった。このばあさん、見た目は普通だが目がどこかちがう。俺の顔を見ているようでみていない。目線は俺の顔にあるのだが、実際に見ているのはどこか遙か遠くの虚空である。
このばあさん、本当は・・・・

俺とばあさんが玄関で対峙していると、家の奥からじいさんがとんできた。
「ああ、ああ、すみません。おい、おまえは出てこなくてもいいっていったじゃないか」
じいさんはあわてて受領書に印鑑を押し、小包を受け取った。
「すみませんなあ。家内はすっかり見ての通りなんですよ」
当のばあさんは、庭に出てなにやら草花の手入れをしている。
「息子が独立してからは、たちまちこんな風になってしまって。まだ呆ける年じゃないんだが。人間張り合いがなくなっちゃいけません」
じいさんも遠くを見る目になってそう1人ごちた。
「あんたはいつもすれ違う郵便局の人だね。前の人から変わったんだねえ」
「は、はい、よろしくお願いします。先日はどうも失礼しました」
じいさんはにっこり笑ってかぶりをふった。
「いやいや、あの時はばあさんが言うことをきかなくって、道に飛び出したんです。こっちこそすまないことで」
俺はじいさんの謝罪の言葉をうち消すようにあとを引き取った。
「で、でも、いいですねえ。いつも2人揃って散歩ですか。仲がいいなあって毎日見てたんですよ」

俺がそういい終わらないうちに、庭先で盆栽を眺めていたばあさんがこちらに向き直った。
「長居をいたしましたようで、そろそろ失礼します」
そういって深々と頭を下げる。
戸惑う俺に目線をやりながら、じいさんは慣れた調子でばあさんに話しかける。
「おお、昭子さんもう帰りなさるか、そこまで送りましょう。ちょっと待ってくださいな」
そしてじいさんは素早く戸締まりをし、身支度を整えた。
「・・・分かりますかな?家内にとってはここはあくまで訪問先なんですよ。毎日この時間になったら家に帰らなきゃならないと思うらしいんです。最初の頃はここが帰る家だって説得してたんですが、さっぱりきかなくってね。結局家内につきあって毎日この時間散歩しているんですよ。しばらく歩き回ったら納得するみたいで、素直にこの家に帰ってきます」
ふと時計を見たらいつもの時間になっていた。

門先で待っているばあさんの手をじいさんが取る。
その瞬間ばあさんは恥じらうように下を向き、顔を赤く染めた。
「雄一さん・・・・」確かにばあさんはじいさんにそう話しかけた。
「来てくださったのですね」
その表情を見て俺は悟った。
ああ、ばあさんはなんて幸せなんだろう。毎日こうやって恋をし直すことができるなんて。
じいさんはにっこりばあさんを見つめ、手をしっかり握った。
「ああ、行こうか」

しかし俺は何か拭いきれない不自然さを感じた。
手の中にある受領書には、福島大介、と受取人の名が記してある。
俺の表情に気づいたじいさんは、口許をほころばせた。
「名前が違いますわなあ。確かにわしゃ雄一じゃない。雄一とは、わしがこいつを奪った前の旦那の名前です。あの時は互いに惚れて惚れ抜いて、不倫の末に駆け落ちしたんだが結局こんな形で意趣返しをうけるとはな・・・」

俺はじいさんの笑い声でようやく我に返った。
「ははは、何もかもばらしてしまいましたなあ。じゃ、行ってきますので・・・」
じいさんは少し乱れたばあさんの髪をいとおしそうになでつけ、幅広の帽子をその頭に載せてやった。ばあさんは上目遣いにじいさんの顔をただ見つめ、そして老夫婦は仲睦まじく手を取り合って歩きだした。
あとには、受領証を取り落としたままただ立ちつくす俺と、2人を長い間見守ってきたであろう盆栽達だけが夕日に照らされて残されていた。

Re:記憶
さとう啓介

 頬に生暖かい何かが流れている。
押し付けられたもう一方の頬は冷たくざらついた感じだ。暗闇の中、自分がどうなっているのかさえも分からない。頭の痛みでまた気付く。微かに誰かの声がする。頭の痛みがひどくなり髪の毛の一本々が針にでもなってしまった様な痛みにまた意識を失っていく。

――真っ白い中で誰かが佇んでいる。何か懐かしい香りがするだけ。顔も見えない。その人がどんどん遠ざかっていく。白がグレーに、グレーが黒に変わる。自分の意識が遠ざかっていく――

「痛みますか?包帯を取り換えますからね」
女の軽やかな声が、頭の痛さに目覚めた自分を安らかにしていくのを感じた。
「田崎さん意識が戻って良かったわ、二日間うなされ続けていたんですもの」
自分はその言葉を聞いて驚いた。
(田崎って……自分はいったい?)
自分が誰なのか、いったい何があったのか。確かにここは病院の様だが、田崎……分からない。自分の記憶が完全に失われている。頭が痛い。割れてしまう様なひどい痛みがまた走る。
「ううっ」
「頭をひどく打ったらしいの、救急車で運ばれて来たときには顔中が血だらけだったんですよ」
うっすらと開けた目の前にキラキラと輝きながら若い看護婦が自分の包帯を取り換えている。
「今日は、ゆっくり休んでくださいね。明日、検査をしますから」
そう言って、白い衣が揺れたかと思うと静かに部屋を出ていった。
 不安が急に襲ってきた。自分の記憶が無くなってる事に今はっきりと気付いたからだ。
田崎と看護婦は言った。自分は田崎と言うのか? 何をしているのか? 仕事は?
全てが一気に疑問へと変わり、その記憶の糸口を探しだそうと必死にもがくが頭を締めつけられる様な痛みに遮られ、雲を掴む様なもどかしさに苛立ちを感じた。

――明るい光の中で誰かが泣いている。逆光を受けてその顔を見る事は出来ない。急に辺りが暗くなり泣き声から汚い男達の笑い声に変わっていく。黒く光る物から赤い火花が放たれる――

 翌日、検査が行われた。結果が出るまで自分はここから出られないと医者が言った。
自分は軽い記憶喪失らしい。自分が身に付けていた物を確認して思いだす様にと、看護婦が持ってきた。財布、免許証、衣類の入った袋、タバコと小銭が少し。たったこれだけだった。これが自分の物である事を今の自分は判断する事も出来ない。免許証には田崎和也と名前があり、写真の顔は歪んで見えた。本籍と住所はこことは全く関係のない所だ。ここは千葉の館山だと看護婦は言っていた。財布の中身はお札がぎっしりと入っていた。しかし、それ以外は何の手掛かりも無く、それらを見ただけでは何も思い浮かばなかった。
「田崎さん、お見舞いの方がいらしたみたいですよ。受付で聞いたんですが、救急車を呼んだ方らしいです。一時的な記憶喪失になっている事は伝えてありますがご面会されますか?」
今の自分を知る何かのきっかけにでもなればと思い、その人を呼んでもらった。
看護婦は、あまり長くならない様にと言って、その人と入れ替わりに部屋を出た。

 色白の中年の女性だった。
伏し目がちに入ってくると「気分はいかがですか」と、か細い声で自分の顔を見つめた。
手には鮮やかな黄色の菜の花を持っていた。多分50歳は越えているだろうと思った。自分は助けて頂いた事を感謝し、お礼を言った。そしてどういう状況だったのかを聞いたが、見つけた時には既に自分は倒れていて、神社の境内の階段から落ちた様だったと言った。その時のその人の瞳は何故か悲しい色をしていた。
その人は簡単に挨拶を済ますと「また来ます」そう言って軽く頭を下げ部屋を出ていった。
 その夜、夢を見た。

――白い煙の中で男達が騒いでいる。女が乱れて男に絡む。白く鋭い光がゆらゆらと煌めくと赤い光りで全てが覆われた。床に鏤められた無数の輝きの中を歩いている。足の裏には鋭い痛みが走りほとばしる汗が炎と涙に変わる。やがて黒い空間となり小さな光りのトンネルが見えてそこに向かって走り出す。その光りを抜けると静かな砂浜が広がり大きなエメラルドの輝きを放つ海が目の前にあった。振り返ると自分を静かに見つめる日傘をさした白い服の女の人が立っている。その人に近付いて行くと自分がどんどん小さくなり、懐かしい香りが辺り一面に広がった。思わずその人の腰に顔をうずめた。甘い香りがした。涙がこぼれた――

 菜の花の柔らかな香りが朝陽に乗って部屋の全てを浄化させていく。
夢を思い出しては過去の自分を見つける。はっきりとはしないが昨夜とは確実に違っている自分を感じた。傷の手当てを終えて、自分の持ち物をもう一度取出した。上着には黒い染みが残っていてゴワゴワとしている。そのポケットから何か小さな物が落ちた。ライターだった。どこかのスナックの物らしくそこに電話番号が書いてある。何かの手掛かりになるだろうと思い、受付横の公衆電話に行った。
 受話器を上げて番号を押した。無言のコールが続いた。(こんな昼間じゃ無理か)そう思い受話器を置こうとした時だった。
「はい、もしもし誰?」
女の擦れた声がした。気持ちが高ぶるのを感じた。
「あっ、あのー田崎と言うんですが……」
「和也?和也でしょ!」女の声は慌てた様に急に変わり、今度は早口で小さな声で話しだした。
「和也、何処にいるの。やばいよあんた。組の人が何度もここにやって来たわ。あんた松阪を殺ったんだって?どうしてそんなこと――」
途中で受話器を置いた。一気に頭が割れる様に音を立て、その場に踞りながら痛みを堪えた。

女、男、拳銃、赤、赤、赤。刃、炎、光り、流れる赤、血。割れる、叫ぶ。飛び散る赤――
白い手、光り、海、花、花、花。遠ざかる、どんどんどんどん遠ざかる。白い手。懐かしい香り――

 叫びたい気持ちだった。
自分がどんな人間で、今まで何をやって来て、何を壊し、破壊し、裏切って、何を失って行ったか。
全てが蘇った。残酷すぎるほどはっきりと自分が誰なのかを知った。思わず嗚咽を上げた。全てが一つの線になって繋がった。

 ふらふらと歩きながらベッドへ戻ると、窓辺の花瓶に黄色い菜の花が揺れていた。
(母さんが来るなんて)

――自分の為にだけ奴を殺した。
兄貴ぶる傲慢な態度、俺の邪魔、奴隷。彼奴を殺してやった。面白い様に流れた赤い血。テーブルの金を鷲掴みにして逃げた。そしてここに来た。俺を捨てた母親がここに居たからだ。俺は金を脅し取ろうと、近くの神社に呼びだした。自分の息子がヤクザで人殺しだって事を世間にぶちまけてやる。そう言って脅した。あの女はやって来た。俺は言った。「あんたの捨てた息子の姿はどうだい」そう鼻で笑って後ろを向いた。海が綺麗に輝いていた。白い手が一瞬見えて、そこから自分の記憶が消えていった――

 ベッドにもたれて窓辺の花を見ていると、母の切ない気持ちが感じられた。
自分の弱さが見えてきて、情けなくなり腹が立ち、拳を握りしめた。
その時、ドアをノックする音がした。
ゆっくり振り返ると、ドアの横に伏し目がちに佇むあの人がいた。懐かしい香りが広がった。自分の汚れた心を浄化してくれる様な香りの中で、その人は軽く微笑みながら立っていた。自分は思った。
(このまま他人でいよう。今迄の自分はあの時に死んだんだ)

「具合……どうですか」
弱々しい響きだった。

自分は言葉が声にならず、ただ微笑んで頷く事しか出来なかった。
Re:記憶 さとう啓介

キャラ
羽那沖権八

 また、料金表示機の数字が増えた。
「急いで下さい!」
 緑川桃佳は、堪えきれなくなって叫ぶ。
「急げって言われてもね」
 運転手はハンドルに肘をつき、バックミラー越しに桃佳を見る。
 目の前の車のブレーキランプは点いたまま。一向に動く気配はない。
「一時半までに着かないと、収録に遅れちゃうんです!」
「収録って――あれ? あんたテレビの人?」
 運転手が上半身を曲げて桃佳の方を向く。
「……エンティカの桃佳ですけど」
「あはは、そっかそっか。全然気付かなかった」
「は、ははは……スッピンですからね」
「でも芸能人って、マネージャーの車とかで行くもんじゃないの? 特にあんたみたいな売れっ子グループじゃ」
「それが事務所で食中毒が出てみんな倒れて――って、世間話してる場合じゃなくて!」
「でも、実際のとこ進まないよ?」
 彼は、米国風『お手上げ』のジェスチャーをして見せる。
「相当ハデな事故渋滞だからね、かなり経たないと動かないと思うね」
 貧乏揺すりでもしているのか、運転手のシートがゆさゆさ揺れる。
 これ以上何か言うと、逆に怒鳴られそうな気配がして、桃佳は一つ呼吸を落ち着けた。
「なんかないんですか? 抜け道とか?」
「かなり遠回りになるしなぁ――そうだ、その収録って何時だったっけか?」
「一時半!」
「よし、ならどうにかなる」
 ふいにタクシーのドアが開いた。
「え?」
「新道まで走れば、そこで車を拾える筈だ。そこからならいい抜け道がある!」
「ありがとうございます!」
 桃佳は一万円札を運転手に手渡すや、走り去った。
「あ、お釣り――やあ、あんなに若いのに売れっ子は違うな、釣りも受け取らないとは」
 運転手は笑ってドアを閉めようとする。
「――お釣り忘れた!!」
「なんだ、やっぱりいるのか」

「お早うございます!」
 息を切らせながら、桃佳は楽屋に入る。
 他の二人のメンバーは既にいない。
「遅れて申し訳ありません!」
「事情は知ってるから、鏡の前、早く座って!」
「はいっ」
 スタイリストが手早く桃佳のメイクを済ませ、衣装を合わせる。
「はい、出て出て!」
 せき立てられるままに、桃佳はスタジオに入った。
 他のメンバーたちも、ずいぶん慌ててスタジオ入りしたらしく、どことなく衣装もぎこちない。
「出番三十秒前です!」
 ADの声に慌てつつも、彼女は音を極力殺して息を整えた。
 心臓もロクに収まらないところで、入りのキューが出る。
「では、ゲストのエンティカの登場でーす!」
(あれ?)
 ふと、何か違和感を感じつつ、桃佳はステージに出た。

 半分口パクの歌が終わり、司会者とのトークコーナーに移る。
「――それで、朝起きた時に電話掛かって来ちゃいまして、自分でタクシー拾って行けって。死ぬ間際みたいな声で言うんですよ」
「そうそう」
「いや、あれマジ死んでるんじゃないかな?」
「リーダー!」
 観客と笑い屋の笑い声が入る。
「今度の曲は作詞やったんやて?」
 元芸人の司会者、夢屋縁之皮が尋ねる。
「誰が書いたん?」
「えっと、みんなで書きました」
 リーダーの久世珠恵が答える。
「そうなんです。こうやってみんなで十円玉を指で押さえて――」
 一番背の小さい御堂美鈴が付け加える。
「そうそう、次の文字はどれがいいか教えて下さい――って、それじゃこっくりさんでしょ!」
 生真面目な桃佳が締める。
(ここで軽く笑い――あれ?)
 観客たちは全く無反応だった。
(あれれ、すべった? だとして、司会者のフォローは?)
 だが、司会者も何も言わない。というよりも、聞きの体勢に入ったままで固まっている。
 何とも気まずい間が空いた。
「そういえば!」
 慌ててリーダーの珠恵が台本通りに話題を変える。
「この新曲なんですけど」
「あ、ああ、モチーフがスポーツやて?」
「はい!」
「ほなら、身体は鍛えとる思うてええな!」
「はいっ」
「チャレンジしてもらいましょ、ワタクシ、夢屋縁之皮とのガチンコ懸垂対決! 来いや三人娘――っていつの時代やっちゅーねん!」
 笑い声にかぶって音楽が流れ、CMに入る。
「――困るわ、エンティカはん」
 司会者が真面目な顔をして、小声で言う。
「は?」
「きちんとまとめてもらわんと困るわ。次持って行き辛いわ。ずぶの役者や素人やったらこっちもそう振るけど、一応トークも出来る言うてたやろ。司会におんぶに抱っこやと困るで」
「は、はい」
「おんぶに抱っこはプライベートにしといてや、なんてな、あははは!」
(少なくとも、今のこいつのセクハラ発言よりは充分まとめたつもりだけど、なんで? 嫌われてる?)
 桃佳は珠恵と美鈴を見たが、同様に釈然としない顔をしていた。

「さぁぁぁぁぁぁん! しぃぃぃぃぃい!」
 リーダーの珠恵が斜め懸垂、司会者が普通の懸垂を続ける。
「……しぃぃぃちぃぃいい!」
 珠恵の頬が上気し、顎から汗が滴り落ちる。
「頑張れ、リーダー!」
 ジャージ姿の桃佳が声援を送る。
「負けるな、夢屋さん」
 背の低い美鈴は、司会者の方を応援している。
「こら! 味方の応援しなさいって!」
「いや、次の仕事に影響あると困るし」
「芸能界はそこまで汚い世界かい!」
 ――やはり、観客の反応はない。
(そりゃ、寒いギャグかも知れないけど、仮にもルックスで売ってるアイドルグループの小ネタに何の反応もないって一体?)
 桃佳の頭は混乱し、熱くなっていく一方。
(ええと、えと、何とかしなきゃ、あたしたちのせいで番組が盛り下がったなんて事になれば、本当に次の仕事に影響が出る!)
「じゅうぅぅぅはち!」
 拍手が起こる。
 桃佳がふと気付けば、鉄棒から手を離した珠恵がうずくまって息を切らせていた。
「わはははは、オレの勝ちや! それじゃ、第二回戦!」
 司会者が桃佳に目配せした。
(え?)
 彼女は振り向いて美鈴に視線を向ける。
(次に出るのは美鈴の筈……あ!!)
 桃佳の頭の中で、違和感がくっきりと像を結ぶ。
 桃佳は、美鈴に近付くと、耳元で囁いた。
『あたしとあんた、立ち位置逆』

『つまり、あたしたちは右左真ん中としか認識されてなかったわけですよ』
『あはは、まさかぁ』
『笑い事じゃありません。これは、画面の向こうにいる者が、記号に過ぎなくなっているという事です。視聴者が現実の人間である芸能人をも、記号化された漫画の登場人物の様に認識しているって事なんです!』
 どん、と机を叩く。
『極度に記号化されたものしか認識できないというのは、現代人の理解力そのものが失われている証拠で、学習能力はたまた他人への思いやりと言った社会的スキル自体が――』

 ぴ。

『――調べによりますと、元巡査長は――』

 ぴ。

『――これは、潮汐現象を上手く利用していますね』
『専門家によると、潮汐現象とは――』
「あら、ももちゃん、チャンネル変えちゃったの?」
 姉がピーナッツ煎餅を丸のままかじる。
「だって、あの人が出る回って、ああいう話ばっかりになってつまんないんだもん」
 リモコンのボタンを押しながら、妹が応える。
「ふうん。私は割と好きねぇ、ああいう話。名前はなんて言うの?」
「え? 知らないの?」
「名前は知らないわねぇ」
「有名だよ。えーと、その……あれ? なんだっけ、えーとええと」
 考えつつチャンネルを変えていた妹は、ようやく面白そうな番組を探り当てたらしく、リモコンを置いてから応えた。
「名前は知らないけど、ともかくいつも南野監督の右っかわにいる人だよ」
キャラ 羽那沖権八

ファミレスデイト
恋糸 いと

「別れよう」
 予想内の台詞。私ごしに二人で交し合う視線に気付かないわけがない。エリカ、あんたって本当に厭な女。飽きっぽくて人の物をすぐ欲しがって。可愛らしく無邪気そうな笑顔に私は敵わない。
「そうね」
 あからさまにほっとした顔をする。ナオキはバカな男。自分が傷つく事には敏感で、それ以外には鈍感。
 なるべく摩擦が少ないように分かれてね。アタシを幸せにしてくれるのはナオキだけなのよ。
 エリカお得意の誘い文句をちらつかせて。こんな世間知らずな坊ちゃん篭絡するのなんて楽勝だったろうね。
「エリカのこと、知ってるわ」
 酷く間の悪そうな顔をした。その話には触れてくれるな、とでも言いたげに。
「会計、払っとく」
 振ったのは自分なのにね。
 敗北者のように肩を落とした彼の後姿。早く忘れたい。覚えていたって良いことはない。未練がましい女にはなりたくない。

 暫らく経つと青年ウェイターが、彼の紅茶を片付けた。もう私の周りにナオキの坐る場所はないと思ったら、ちょっと清清した。
 また暫らく経つとコーヒーのポットを持ってやってきた。する事がないんだけど堂々とサボる事はしたくない。そんな気持ちなんだろうな。
「コーヒーのお替りは如何ですか?」
 マニュアル通りの受け答え。ネームプレートには仲原と書いてある。仲原君ね。
「ね、お替りしたら私の話し相手になってくれる? 手持無沙汰なんでしょ?」
 彼は困ったように客の入りを見た。何か下手なナンパみたい。それとも格好悪い酔っ払いに見える? 酒飲みたい気分なのは事実だけど。
 静かに有線が流れる店内。眠りこけるサラリーマン。漫画を片手に携帯でメールを打つ女。店員は他にいない。仲原君は少々お待ち下さいと言い、足早に調理場に消えた。私は待機の姿勢でじっと彼が消えた場所を見ていた。皿が重なり合う音がする。洗い物? アブナそうな女の相手より仕事のほうがまし? 被害妄想に没頭していたら、彼は急いで戻って来た。片手には平行に保たれたお盆。
「これ、奢りです。甘いモン、嫌いですか?」
 お盆ごとテーブルの上に置く。ベイクドチーズケーキ。う、美味しそう。
「スキよ、好物。アリガトウ」
 素直に礼を言うなんて実に久しぶりだけど、結構気持ちの良いものだわね。しかし仲原君、良い人だ。って何してるんだ私、これじゃエリカよりタチ悪い。少なくともあの子は身上がハッキリしない男は引っ掛けない。
「でも、どうして?」
 惨めだから? と聞きたい衝動を抑えた。今の私ってどこをどう見てもフラレ女がやさぐれてる図だし、わざわざ他人に見っとも無いと言わせるのも癪だし。
「ここのバイト飯付きなんですよ。空いてるならどこでとってもいいし。どうせ食うなら調理場で淋しく食べるより奇麗なお姉さんと喋りながらの方が楽しいです」
 確かにお盆の中にはケーキが二皿とベーグルサンドとコーヒー。何か気を使わせない人だね、仲原君。しかし最近の若い子はお世辞慣れしてる。
「それじゃ、お言葉に甘えて奢って貰う」
 大袈裟に合掌して経を読むように低く戴きます、と呟きケーキを食べた。そんな様子がウケたのか、仲原君も反復して食べ始めた。

 そして私はエリカの話をした。エリカがどんなに可愛いくて、酷くて、悪い女なのかを語った。仲原君は中々聞き上手で、話をしている私も気持ちが良かった。高校時代の彼氏、大学に入ったばかりの頃付き合っていた男、合コンで盛り上がった人には必ずエリカが先に告白して、私は良き相談相手で終わるお約束。私は苦笑し、それなのに私たちまだ友達なの不思議よね、と末尾につけた。
「何でですか?」
「恋愛が絡まなきゃあのコ普通なの」
 気侭で己こそ正義と胸を張る、小さくて可憐なエリカ。花言葉は孤独。
 気がつけば十二時を回っていた。その頃にはナオキは私の中で『エリカが取ってった過去の男のうちの一人』として消化されていた。
「仲原君いつもこの時間シフト入れてるの?」
「土日以外は毎日」
「じゃ、また来たら話し相手になってくれる?」
「暇な時は」
 正直な男は嫌いじゃないよ。好青年。

 それから私たちの、濃厚で淡白なファミレスデートは始まった。

 それから私は週に二回、このファミレスに来た。仲原君は三年近くここでバイトをしていて、店長から信頼を得ているようだ。夜は一人で店番をしていることが多かった。
 乾いた冬に春の色合いが増して来ても、私達の週に二、三時間のデートは続いた。私は彼が受験生である事を知り、彼は私が毎年この時期は留年のピンチに立つことを知った。
 この珍妙なデートをするようになって二ヶ月になった。家を出たらコンビニがあって住宅街があって池があって。十字路を曲がって階段を上がる。可愛い椅子に店の名前が書いた立て札。二十四時間営業のファミレスには見えない。ドアを開けると暇そうな仲原君の顔。
 ん? 何だか今日はちょっと違うようだ。ドアを開けたら、話し声が耳についた。弾むような声。衣擦れの音に良く合う甘い声、まさか。
「――エリカ?」
 二人は揃えたように私の顔を見る。やめて。みないで。

 私は顔を見られたくなくて走った。仲原君は追いかける。でも地理は私のほうが良く知ってる。直ぐにまく。彼が追いついてしまったら本当に泣き出してしまう。思いに取り返しのつくうちに、逃げたい。
 なのに後悔とか失望とかばかり頭の中を回ってる。もしかしてもう取り返しのつかないところまで来てる? 厭だ。エリカには勝てない。ナオキみたいに離れていくのを見てることはできない。のめり込んだら失ったときの反動が怖い。本気になるのは怖い。彼と会って離れたくないと思うことが、怖い。
 
 ファミレス通いは途絶えた。大学は単位を落としたくないから行く。エリカに会ってもかまわない。
 そして会った。学生食堂でである。

「何でそんなに逃げるの? アタシに彼取られると思ってる?」
 エリカは直球だった。言いたい事だけ捲し立てた。
 結婚するの、それを言うために会いに行ったの。けして彼が目当てじゃない。ナオキのことは悪いと思ってる、本気だったの。
 そう言った。
 指輪に彫ってあるイニシャルはN。ナオキのN。ゴツイ程大きい紫水晶は細い指に映えていた。エリカ色の石。ジャノメエリカの花の色。淡く紅い紫。
「彼のところへ行かないの? 待ってるわよ」
「何でよ」
「友達からファミレスであんたよく見かけるって聞いて、何回か行ったのよ。あの日で三回目くらい。今日は来る日だからってあのこアホみたいにあんたの話ばっかで」
 私はエリカの行動力とストーカーの如き執拗さに呆れた。
 本気だの怖いだの悩んで、損した。コイツは結婚して幸せ。ならそれでいいじゃない。私は彼が好きなんだ。行かなきゃ、彼に逢いたい。こんな女ほっとこ。
 アホはあんた、そう言って私は席を立つ。エリカがひどぉいとか何ヨそれェとか言っているが無視。
 仲原君が私を待ってる。ファミレスに行こう。
 
 彼はテーブルを拭いていた。
「仲原君」
 振り向く。拗ねた子供みたいな顔してる。
「遅かったですね」
 予想外の台詞に笑う。
「埋め合わするから土日空けといて」 
 彼の手に指を重ねる。
「いいんですか?」
 私の手首を少し強く掴む。私は玩ぶように彼の手から逃げ、指を絡める。
「いい加減ファミレスにも飽きたわ」
 指先より強く絡んだ視線は、月の光に妖しく抱え込まれた。
ファミレスデイト 恋糸 いと

現実
太郎丸

「クサイ」
 いくらおじさんの年齢だからといって、面と向かって知らない女性から言われるとショックだ。
 まだ幼さが残っている可愛い感じの女性だったので、電車の手すりに掴まりながらちょっと見つめてしまったが、座席に腰掛けた彼女は隣の女性とイヤな顔をして私を睨んでいる。
 居たたまれなくなった私は混んでいる車内をドア側へ移動した。

 老人臭。原因はノネナールという物質が引き起こす。しかも分子構造はなんと炭素がひとつ多くなるだけで、レモン臭になるというシロモノだ。
 日頃から清潔にして汗もかかなけば問題はないが、風呂は好きでも汗っかきの私には難しい。どうにかして体質を変え、この炭素を増やしたかった。そうすれば私は、爽やかなレモンの香りのするおじさんになれる。
 でも注意は必要だ。水素原子を減らすとキュウリ臭くなる。

 私は身体を動かすのは嫌いではないが、走るというような短調な運動は嫌いだ。そこで体質改善の為に独学で食事療法を始めた。偏食だがこれが独身の強み。でも水分だけは多めにとろう。

 半年程した時自転車で転んで頭を打ち、病院で気が付いた。脳波に異常はないらしい。念の為という事でめったにない事だったが、久しぶりに会社を休んでしまった。
 翌日会社に出社すると、廻りの女性の反応が違っていた。私を見る目が妙に優しいし、よく声をかけられる。
 食事の所為か事故の所為かは判らないが、体質が変わったのかも知れない。自分で自分のニオイは判らない。久しぶりに歌舞伎町のヘルスへ行ってみた。
「臭くなぁい?」
 私は白痴美じみた娘に尋ねると、彼女は「いい匂いよ」といって本番が始まってしまった。こんな所で出来るとは思っても見なかったが、やっぱり嬉しい。
 食事を元に戻してみたが、廻りの反応は到って好印象だ。

 それから3日ほど経った時、私は始めて女性からナンパされた。もちろん援助交際ではない。歴とした女性である。しかも何だかどこかの結婚したての若奥さんという感じだ。でも私は始めての所為もあって、少し恐くなり逃げ帰ってしまった。
 後から考えれば美人だったなぁ。なんて思う自分が少し情けない。
 しかし女性から近づいてくるとなると、フェロモンでも出す体質に変わったようだ。

 ドアをノックする音で目が覚めた。誰も来る予定は無いが…。恐る恐るドアを開けると、美人で明るいと評判の隣の奥さんだった。
「これ作りすぎちゃたんで、良かったらどうぞ。うちのったらゴルフでいないの」
 手にはローストビーフが山盛りになった皿とワインがあった。
 スゲェ。一般家庭ではローストビーフを作るのかぁ。私は感心しながら、有難く礼を言って皿を受け取ろうとすると、彼女は部屋に上がり込んで来た。
 私は慌てて辺りを片付けると、コップを出した。ワイングラスなんてある訳が無い。そういえばチーズがあったかも…。
「ちょっと暑くなぁい?」
 彼女はそういうと、私をじっとりと見ながらゆっくりと服を脱ぎ出した。
「あ、あのぉ…」
 彼女の顔が近づいてくる。段々大きくなる目。肩に流れる髪。メロンの様な胸。ゆっくりと開く唇から出てきた舌がうごめいて彼女は、私の腕に倒れ込んできた。彼女の柔かな感触を両腕で受けとめると、血液が下半身に集中し出した私は、言葉を失って肉欲に支配されていった。フェロモンはいい。


 私が加代子とやっと座れた電車で世間話をしてたら、オナラの匂いがして来た。思わず「クサ~イ」と声を出したら、手すりに掴まってたおじさんと目があって、扉の方へ行っちゃった。おじさんに言った訳じゃないんだけどなぁ。
 だって隣の男が座り直した時、プッって音がしたもん。絶対隣の男がしたんだわ。私は隣の男を思いっきり睨んでやった。

 最近、佐藤さんが痩せてきたと評判だ。そういえば昼は変わったものばかり食べている。ダイエットしてるんだろうか? すっごく興味がある。
 昨日休んだんで理由を聞いたら、自転車で転んで病院にいたらしい。おじさんらしくって、とっても可笑しい。
 でもあの人って結構話し易かった。知らなかったぁ。結構いい人なのかも知んない。

 あぁ、身体が持たない。風邪気味の所為かなぁ。やっぱり今日は休むんだった。でも次の客があんまりひどくなかったら、内緒でしちゃおうかなぁ…。ちょっとはこっちも楽しめば、風邪なんか吹っ飛んじゃうわよきっと。
「いらっしゃいませ」あっ、この人ならいいや、しちゃえ。
「えっ、匂いですか、お客さんいい匂いですよ」
 鼻詰まってるから解かんないよ。なんでもいいからしよ。

 あぁ、どうやったらいいのぉ。アンケートったって、私こんな事したことないわぁ。せっかく若い子に声をかけられると思ったのに、対象がうちの旦那と同じ位じゃ面白くもなんとも無い。
 アンケートの項目も多いし、これじゃ喫茶店にでも入らなきゃ、とてもじゃないけど聞けないわよ。
 そうだ。ちょっと不倫でもするつもりになればいいのよ。そうね。そうだわ。あっ、あの人優しそうだから、あの人にしよっと。
「あのぉ、少しお話しても宜しいですか?」
「えっ、私ですか?」
「えぇ。ちょっとお茶でも飲みながらお話をしたいんですけど…」
「あっ、あの、私…。ちょっと。あのぉ、スイマセン」
 えっ。何よ、そんな。私って魅力あるはずよ。失礼しちゃうわ。もうホントに悔しい。も~うイヤ。いったいどうやったらいいのよ。

 結婚記念日に主人はゴルフ。どうせ遅くならないと帰らない。記念日なんて忘れてるに決まってるわ。去年もそうだったもん。今年は10年目だから、スィートテンダイヤモンドなのよ。あぁダイヤじゃなくてもいいから、可愛い指輪が欲しいわぁ。プレゼントもないようなら、浮気しちゃうぞぉ。
 あっそうだ。隣の佐藤さんって確か今日誕生日だって言ってたっけ。せっかく買ったローストビーフだから勿体無いけど、お隣さんに少し分けてあげようかしら。どうせ主人は帰ってきても食べないし。これも人助けよ。隣の部屋も見てみたいわ。ウン。そうしよう。
「ごめん下さい。隣の高橋ですが…」
「ふぁーい。…あっこりゃお隣の…。あっどうも。どうも」
「うっふっふふ。これ、ちょっと作り過ぎちゃったんで一緒に食べませんか。主人ゴルフに出かけちゃって…」
 私はニコっと特上の愛想笑いを振り撒いて、買ったローストビーフとワインを差し出すと、彼の脇を通過して部屋に上がり込んだ。
 おぉ、隣の間取りはこうなってるのかぁ。私はちゃっかり居間らしき部屋の椅子に座りこんだ。
 コンタクトをし忘れていた所為もあって、部屋の中を見ようと思っていたが結局ぼんやりしていてよく判らない。でも男の独り暮しにしては綺麗だわ。
「佐藤さんのお誕生日って…」
「あぁ来月の28日ですけど」
 あらっ、違ったのね。
「結構片付いてるのね。でもなんだかこの部屋暑くなぁい」
「そうですか?」
 彼はコップを置くと、台所に戻った。
 私は少し汗ばむので、羽織っていた上着を脱いだ。
「栓抜きありますぅ?」ワインオープナー…はないでしょ。でも返答はなかった。
 仕方なく私は台所へ向かった。彼はこちらを向いているようだ。じっと見たがよく判らない。
 私は台所と居間の間の敷居に躓いて、彼に抱き着いてしまった。
 抱きかかえられた私は、少しドキっとした。

【評判の良かった42才独身男性。隣の主婦強姦】
翌日の社会面に記事が載った。
現実 太郎丸

友達の言葉

電話したら、愛子はすぐにいい返事をしてくれた。
来週の土曜日、私の36歳の誕生日を祝ってもらうのだ。愛子の他に2人の友達も呼んでいることを愛子は知らないが・・

私は独身で一緒に誕生日を祝ってくれる家族がいないのを知っているからか、2つ返事だった。
人に気を使われるのは好きではないが、愛子は特別だった。素直に受け入れることが出来る。

仕事は山岳に咲く小さな花の研究をしている。
そのため、生活はほとんどは山を目指していることが多いため、ひとつの場所にいる事が少なく、特定の人以外あまり付き合いがない。その上人と話すのが苦手で特に自分についての話はほとんど出来ない。
子供の頃は、素直で活発だった。元々話すのが好きなタイプで積極的だったのに36歳の今、こんな自分になってからの時間のほうが長い。

誕生日を祝ってもらうなんて、何時ぶりだろう・・久しぶりに心が躍った。
最近は特に生きることの意味や価値等を探すようになっていた。人は何故生きるのか、なんのために生まれてきたのか、私の価値って?自分が人に聞かれたら、笑ってしまうよな疑問だと解かってはいるつもりだが・・

仕事は小さな花の生活を観察してるようなものだ。短い一生で単純な繰り返し。確かに、私はそれに興味をもって観察しているが私が見つけなかったらこの花の存在理由は一体なんだろう。花の写真を撮るたび、レポートを書くたび、生活の流れのなかで何となくだが頭に浮かんでいた。
多分歳のせいだろう。きっと答えなど見つからないし、疲れているんだ。

今にして見れば、タイミングがいい誕生日に託けて、寂しさや空しさを誤魔化したかったのだと思う。自分から誰かを誘ったのは生まれて初めてだったのかも知れない。


約束の日・・・
予約したその店は唯一私が通う居心地の良い、いわば隠れ家的な店。乾いた砂漠のようなイメージの店内に真っ白なテーブルがすごく気に入っていた。まだメニューすら置いていない席で私は子供の頃を思い出しながら、他の3人を待っていた。

小学生だった私は初めてのドレスを着て、両親を今の様に待っていた。演劇部だった私の演技が上手くいったお祝いの外食だった。誉められることを期待していた私は先にレストランに。きっと、母親は大好きな花を私にプレゼントしてくれるだろう・・・
しかしいくら待っても、その席には2人とも来る事はなかった。私はあの頃から、楽しむことを忘れてしまったのかも知れない。

寂しさが、またこんな機会を与えてくれたのか、大人になって少しあきらめが芽生えたのか、それでも少し楽な気持ちで3人を待っている自分がここにいることがよく解かった。

少しして、愛子以外の2人の友達が先に私の前に現れた。
大きな花束を持ってきてくれた。両手いっぱいの花束は映画で見るときは大したことないと思っていたが、素直に感動した。
2人の仲は学生時代の友達だが、2人を取り巻く環境は全く違う。一人は代々資産家の息子で、一人は高校の教師だ。
彼らとは、山で出会った。
足を滑らせ怪我をした私を小馬鹿にしながら、応急手当をしてくれた。更に仕事まで手伝ってくれた。それから3年の付き合いになる。

5歳年下で初めての男友達だった。お酒が好きな彼らのために、この店選んだ私も少しは女心があるのか。
10分位して、愛子が息を切らせながら小さなプレゼントを持って現れた。
ひとまず乾杯!おめでとう36歳・・・

愛子に彼らを紹介し各々の近況や笑い話に花が咲いた。
愛子は少しびっくりしていた様子だった。私が友達とはいえ男の人を連れて来て、楽しげなそぶりや会話。
あえて口にはしていなかったが安心したような感じだった。
愛子は私と出会ってから、きっと今までこんな表情をした私を見たことがないだろう・・
それでも私を支えてきてくれた。私は不器用に愛子に甘えて生きてきたことを再確認した。


楽しい時間だった。久々に笑った気がした。友達はいい・・病気や怪我にも似た不安と共存している毎日を少し忘れていた。

資産家の息子は数々の成功の話を夢物語のように話してくれた。
事業の成功や有名人との出会い・・教師は私の知らない苦労話、子供の成長と可愛さ・・愛子は主婦の不満を男達や独身の私に、まるで旦那に訴えるように熱く語った。
私は1人一人の話に純粋に夢中になった。知らずに過ぎた時間を映画で見ているようだった。もっと早く日常にこんな機会を繰り返してればよかったと思いながらみんなの話に釘付けだった。

しかし、不満のある人も成功した人もきっと私と同じ疑問を抱いてるはず・・
苦労や喜びの中に潜む空しさや不安・・何が出来れば生きる目的を達成できるのか、満足できるのか・・
またそこに、気持ちは引き釣り戻された・・
酔ったせいでもあったが聞いてみようと(あのさ、不安に感じな・・)
かぶせるように愛子が、(これ、プレゼント!)

愛子は私ですら忘れていたプレゼントをテーブルの上に出した。
小さな木箱に赤いリボンがかかってあり、興味がそれに移った・・みんなが開けろと急かす・・


中身は薄い茶色にしおれた四葉のクローバーだった。今にも消えてなくなりそうで、儚さが伝わってきた。
周りにはそれを壊すまいと和紙がひかれてあり長い時間守れてきた印象だった。

淡々と愛子は話し始めた。酔っている様子はまるでなく少し真剣な面持ちで。
これは、あの時母親が私に渡そうとしていた物の一部だと言う。四葉のクローバーの束を私に渡すつもりだったと・・

愛子は私と2歳違いで、偶然両親の事故に居合わせ、救急車を呼んでくれた人だった。愛子もまだ子供だったにもかかわらず、落ち着いて対処してくれたらしい・・両親は亡き人になったが今でも感謝している。

愛子は、私が大人になったらこれを渡してほしいと病院のベットで眠り逝く母に言われ今まで渡す機会を待っていたと言う。
私は愛子に詰め寄った。もっと早く渡してくれればいいのに、何故?(私は随分前から大人よ!?)

そうだ、事故直後に渡してくれたら、こんな人生では無かったかも知れない。少し愛子のせいにしたがる自分の弱さが店の窓に写っていた。今にも暴れだしそうで、泣き出しそうで・・それをもう抑えることを理性の自分もしないだろうと知っているかの顔つきだった。


みんなは、私に成功の話を苦労を、不満を話してくれた・・今度は私の話を聞いてほしい・・
積極的な自分を久々に感じた。私はみんなに自分の苦悩や、疑問を訴えた。恥や体裁など考えず気持ちのままを伝え泣き、感情を剥き出しにして真実を求めた。
長引く風邪をひいた体が熱を吐き出し、正常な状態を取り戻すような感じに似ていた。

一通り最後まで黙って話しを聞いてくれた3人は、知っていると言いたげな優しくも厳しい顔つきで私を見つめてくれた。何故か心地がよくきっと懺悔ってこんな感じなんだろうと、人に神に甘えることを理解した。
私の涙が薄れ行くの見計らって、資産家も教師も主婦もいい慣れた口調で声をそろえ口癖のようにいった・・

人生はすべて暇つぶしなんだと・・・
友達の言葉 桐

階段。
月季花

 三年が卒業していき、三階に人影も見られなくなった校舎。今の時期、どこの学校でも主役となるのは中途半端に浮かれた雰囲気を漂わせる二年生で、もちろんこの高校でも例外ではなかった。
 征司もそんな「高校二年生」の一人である。今は、放課後行われている二年生を対象とした三者面談のために学校に来ていた自分の母親を、靴箱まで送っているところだった。
「じゃあね征司。あんまり帰り遅くならないでね」
「部室に顔出していくだけだから」
「そ。じゃあね。あんまり寄り道しないのよ」
「解ってる。じゃーな」
 母親を見送り踵をかえすと、一番に階段の陰に隠れて大胆にも校則違反の携帯電話を手にしている女生徒の姿が目に入った。

 戸塚凪沙だ。

 征司は思わず足をとめて様子をうかがった。
 戸塚凪沙と言えば征司の同級生、あえて解りやすく言うならこの学校のアイドルだ。美人で、征司とは違う特進クラスに属し、運動もそつなくこなす。人気者というよりは、どの男子生徒ともあまり話すことは無く、きどっているわけではないがおとなしく無口なタイプである。
 征司も何とはなしに戸塚凪沙には一目置いていたほうで、それでなくとも学校のアイドルが校内で所持禁止の携帯電話をかけていることにただならぬ気配を感じ、そっと様子をうかがった。
 戸塚凪沙は普段は真面目な生徒で、校則も今のように派手に違反しているところなど征司は見たこともなかった。ゆえにどうしても戸塚凪沙の電話の内容が気になった。きっとよほどの理由があるのだ。どうしても電話しなければならない急用が。
 征司は階段下に隠れている戸塚凪沙に見つからないように、そっと階段を上り、踊り場で足をとめた。
 まるで何気なく待ち人でも待っているかのようなそぶりで。
 ここで階段下に向けて耳をすませば、すぐ下にいる戸塚凪沙の声が聞こえてくる。
「……だから! 前から言ってた話じゃない、何でそんな冷静に仕方ないとか言えるのよ!」
 その声は全くイメージにないほどヒステリックだった。征司は思わず息を呑む。
「……そんなことは昔から知ってることだわ。だから三ヶ月も前からこの時期には三者面談があるからって。学校のカレンダーを部屋に貼ってたじゃない」
 三者面談。電話の相手は親か……。
「そんなこと解ってるって言ってるの。言い訳は聞きたくないの……」
 荒げていた声は段々弱くなっていった。
 少しの沈黙があった。次の瞬間、戸塚凪沙は今までよりひときわ大きな叫ぶような声で言った。
「忘れてたなら忘れてたって言えばいいじゃない!」
 戸塚凪沙が携帯電話を切る気配があった。小さな、かすれたような声が征司の耳にわずかに聞こえた。
「なんで、うちにはお母さんがいないのよ……」
 征司はまた息を呑んだ。戸塚凪沙の家は父子家庭か。
 戸塚凪沙が階段のほうへ来る気配がした。征司はあわてて体制を取り繕い、今はじめて階段を降りてきたという姿勢をとる。
 戸塚凪沙。
 夕方で陽の光が余計に差したせいだろう。その眼の下あたりが征司には光って見えた。
 肩と肩が少しだけ触れて、戸塚凪沙は征司の横をかすめていった。
 征司の家は母子家庭だったが、同じ学校の、自分の知る誰かが自分と同じ境遇にあるなどということは考えたことがなかった。少なくとも自分の周りでは家庭にこれといった事情がある者はいなかった。まして戸塚凪沙のような一点の曇りもない優等生の家には、両親をはじめとした家族が揃い、楽しく食卓を囲んでいるのが普通であると、それが標準であると、疑いもなく思っていた。
 征司には見てはいけないものを見てしまったという思いがあったが、引き換えに戸塚凪沙という人物を知るうえで大事なものを同時に得たような気がしていた。
 征司は階段の一番下まで降りてきて、振り返りまた一気に駆け上った。今、戸塚凪沙が上ったばかりであるはずの階段。
 二階の廊下に出ると、戸塚凪沙の後姿があった。早足だった。これから三者面談のために、教師の待つ自分の教室に行くのに違いなかった。
 戸塚凪沙の腰まである髪が、風に引かれていた。征司はその長くて黒い髪を、自分の指が引いているような錯覚を覚えた。
階段。 月季花

Metamorphosis Code:WW
朝市九楽

静かな夜だった。
風の音と、草木の囁く音だけが、冷たい空気に染みわたる…
…そんな静かな夜の話。

 ドクン…

雨が降っていた。
この辺りでは良くある、霧状の通り雨だ。
高地特有の湿った空気。手が届きそうなくらいに低く下りた雨雲が、風に乗ってゆっくりと流されていく。そして雨雲の切れ間から、月の明かりが光のカーテンとなって地上に降り注いでいた。
雨と月明かり…そして背の低い草に覆われた緑の大地と、草花を揺らしながら吹き抜ける風。自然が織りなす協奏曲はとても美しく、繊細で、それでいて力強いしらべを奏でていた。

 ドクン…

3階建てのコンクリート製の建物が、そんな美しい自然に囲まれてひっそりと建っていた。
場所は北穂高連峰の中腹。だが、そこは地図にも載ってなく、所在地も記されてない。
当然周りには民家もない。それどころか文明を記す物は何一つ見つからなかった。
大自然の山の中、世間から忘れられたように、ぽつんと建っている。
記録では、山岳の気候や生態系を調べる研究所の跡地となっていた。だがもともと地味な研究が行われていた施設だ。昭和46年に廃棄されたのを最後に、人々の記憶からもすぐに消え去り、いつしかこの建物の存在は、環境庁の膨大な資料の一ページの中に埋もれてしまっていた。
それは外壁の風化が立証していた。正門はシャッターが下ろされ、窓という窓はすべて漆喰で塗り固められている。
人の気配など微塵も感じられない…今日も静かな夜だった。

 ドクン…

最上階の隅にある用具室。無人である筈の研究所の中に、一人の少年がたたずんでいた。
少年は暗闇の中、天井に取り付けられた小さな換気用の窓から空を眺めている。
この建物で、外に繋がる窓はそこしかない。少年はそこから流れゆく雨雲を見つめていた。
雲が切れて満月が顔を出すのを待っているのだ。
大きく緩やかに響く鼓動を意識しつつ、少年は空を見つめ続けた。

 ドクン…

研究所の地下。そこは外見の寂れとは打って変わって近代設備が揃っていた。
廊下の内壁も白くに塗装され、煌々と輝く蛍光灯の光を反射して冷たい清潔感を漂わせている。
そんな中、濃緑色の制服を着た1人の武装警備兵が倒れていた。
男の首は鋭利な刃物で一文字に切断され、天井まで飛び散った鮮血が、重力に引かれてポタリ、ポタリと滴り落ちていた。
それ以外に動く物はない。微かな電子音が唸るだけの、静かな…静かな廊下。
警備兵の死体の横には、厳重なセキュリティーロックが施された個室があった。
だが、中の囚人を閉じこめておくための電子キーは開け放たれていた。中には誰も居ない。
この部屋の主は、警備兵を犠牲にして逃亡した後だった。
 「METAMORPHOSIS CODE:WW」
部屋のプレートに刻まれている文字。それは、あの少年に付けられた名前だった。

 ドクン…

少年はまだ窓越しの夜空を見ていた。
月の光を遮っている雨雲は、強い風にさらされて、千切れながら流されている。
今にも雲が切れて、美しい月が顔を出しそうだ。
今夜の月は、綺麗な真円を描いているだろう。
少年は祈るような気持ちで夜空を見続けていた。
やがて…
流れ流れて来た月光のカーテンが、建物の上に差し込んだ。
ついに満月が顔を出したのだ。
まるで劇場のスポットライトのようだ。少年の体は月明かりを浴びて輝いた。


少年の瞳が月明かりを反射した。動悸がスゥっと治まり体の力が抜けていく。

 …ドン…ドン…ドン…ドン…

と、今度は何かに急き立てられるように、しだいに細かく、早くなっていった。
血液の流れがスピードを増し、体中が燃えるように熱くなる。
…少年の体に変化が起きた。
茶褐色だった瞳の色が急速に薄くなり、輝きを増して金色へと変わっていく。
骨格や筋肉組織も、軋んだ音をさせながらその形状を変化させた。
しだいに尖っていく耳、鋭く輝く牙、なびく尻尾、体中を覆う毛…。
月に照らされて出来た少年の影法師は、二本足の霊長類から四つ足の獣へと姿を変えていき…。その姿は狼そのものになっていた。
伝説の生物、人狼…。それが少年の本当の姿。
「ウウゥ…」
少年は鋭い目つきで天井を見上げた。もはや自分と外の世界を隔てているのは、あの窓一枚のみだ。
金色の目を光らせて、少年は飛んだ。
「パリーン…!」
窓ガラスの砕ける音が静寂を打ち破った。


…数分後、耳を突け抜けるような警報サイレンと共に、夜の闇を切り裂く強烈な光が建物の周囲を照らしていた。屋上から、地上から、幾筋ものスポットライトが強烈な光を発しながら宙をさまよう。さらにどこから湧いて出たのか10台ほどの軍用ジープやヘリコプター、50人ほどの武装警備兵が、夜の静寂を完全に吹き飛ばしていた。
 「緊急事態発生。緊急事態発生。研究資材が逃亡した。警備兵各員は厳戒態勢の発令に従い、各自の役割をもって追跡に全力を注げ。逃走した研究資材は非常に貴重、かつ危険である。発見次第、再確保を試み、それが不可能と判断した場合は射殺せよ。逃亡した研究資材のコードはWerewolf。通称、人狼である。その存在を下界に知られてはならない。」

 鳴り響くサイレンと共に発せられた緊急放送が、警備兵達を緊張させた。
 「繰り返す。研究資材は人狼である。下界に下りる前に対処せよ…」
 
獣の姿に変わった人狼の少年は、建物を離れて草原の中を駆け抜けていた。時折、湿った草に足を絡められながらも、少年は走り続けた。草の先端がピタピタと頬を叩く。雫玉が瞳に入らぬように目を細めて走った。
いつの間にか雨は止んでいた。黒い雨雲はすべて遠い空に移動を完了させて、夜空には瞬く星々と、物を言わない満月が、少年のなびく毛皮を浮き上がらせていた。
少年は走った。走って走って小高い丘の頂上まで走ると、全身を振るわせて吠えた。
 「…自由だ!僕は自由だ!!」
初めて味わう解放感。運動場の塀を気にせず走り回れる心地よさ。少年は初めて自由を感じていた。後から聞こえるバタバタと耳障りな機械音と、モーター音、人間の怒号、そして強烈なスポットライトが追ってくるのは解っていたが、別に気にはならなかった。「自由」の陶酔感に、ずっと酔っていたい気分だった。
満月と星々が見守る夜の世界を、人狼は力の限り走り続けていた。
走って走って走って走って…

パパパパパパパ… 乾いた連続音が背後で聞こえた。
次の瞬間、少年は自分の背中に熱く唸るものを感じた。何が起こったのかを理解する前に、少年の体は大きく跳ね、もんどり打って草の上に倒れていた。見ると自分の体に大きな穴が二つ穿たれている。穴からドクドクと流れ出る赤い液体を他人事のように眺めると同時に、内蔵を引き裂かれた痛みが、鋭く体を突き抜けた。
ビクッ。ビクッ。と体が痙攣した。
荒い息で空を見上げると、満月が見つめている。
しかし、それはすぐにスポットライトの光の中に溶けて見えなくなった。
目も眩むほどの光…。空から舞い降りるヘリ…。武器を構えて近づいてくる人間達…。


…とても静かだった。すでに体を切り裂く痛みも、耳障りな音も感じなくなっていた。
…自由だった。たった数分間の自由だったが、少年は今までの人生が無駄ではなかったような気がしていた。この自由のために自分は生きていたのだ…と。

 やがて金色の瞳が光を失った。静かな、とても静かな夜だった。
 どこも欠ける処のない綺麗な月が、その亡き骸を照らしていた。
Metamorphosis Code:WW 朝市九楽

霞桜
伊勢 湊

「いったいなにやってるのよ、あのくそガキどもは!」
 まだ若くて、いつも優しかった美由紀先生は卒業式直前、待っても待っても来ない僕たちに怒りで拳を震わせていたという。無理もない。初めて卒業生の担任を任されたというのに肝心の卒業式で生徒が二人もいなくなったら怒鳴りたくもなるというものだろう。あれは小学六年生最後の日、僕たちはほんの少し早くいろんなものから卒業した気がする。

「涼介、どうだ新しい学校?」
 その冬、学校が終わると僕と武雄は町はずれの原っぱの脇にある古ぼけた空家の縁側に三学期から隣町の学校に引っ越してしまった親友の涼介に毎日会いにきていた。小学校に入ってからずっと五年と九ヶ月も放課後に一緒に遊んできたのに、涼介は家の都合で中途半端な時期に中途半端な距離だけ引っ越してしまった。なんとなく『正しい』結末みたいなものを奪われてしまったようで、釈然としないやるせなさが拭い去れなかった。
「つまらないよ。こんな時期に転校しても友達なんていないしさ」
 引越しは涼介の父親の仕事の関係とかで、なんかいろいろ事情があるらしかったけど僕たちにはそんなこと分からない。大人も教えてくれもしない。それがなんだかバカにされているみたいで気に入らない。
「もうすぐ卒業式だけど、すげーやだよ。ほとんど知らない学校の卒業式なんて。友達もいないしさ」
愚痴っぽいセリフが冷たい風に弄ばれ寂しさばかりが強く響いた。不安な気持ちは痛いほど分かる。涼介には言えないけど本当は僕たちもだ。三人組みが急に二人組みになって肩身が狭い。
「一緒に卒業式出たかったよなぁ」
 武雄がさらりと言った。
 卒業式。それまであんまり気にしてなかった。三人で迎える当たり前の行事だと思っていた。卒業まで二週間。毎日繰り返されるこんな会話。もういいかげん飽き飽きで、なんだか自分のことも二人のことも嫌いになっちゃいそうで、それが恐くて、僕は冷たい風を思いっきり吸い込むと、全部吹き飛ばしてしまいそうな大声で言い放った。
「それでいこう、それで!」
「なんだよ、それって?」
 武雄が聞いてくる。
「だからさ、涼介がうちの学校の卒業式に出ればいいんだよ。きっとみんな驚くし盛り上がるぜ」
「できるのそんなこと?」
 涼介の表情は明るい。それを見て武雄も身を乗り出す。決まりだ。
「まかせとけって。絶対上手くいくから」
 こうして涼介を僕たちの学校の卒業式に出席させる計画が始まった。

「あんたたち何やってたの。早くしなさい」
 僕たちが卒業式寸前に講堂に入ったときには美由紀先生は驚きと怒りで顔を真っ赤にしていた。僕たちは努めて神妙な顔をして「ごめんなさい」と言って列に入った。本当は声に出して大笑いしたい気分だった。あの日言ったあの言葉が、僕たちを小さな冒険に導いた。いま講堂の一番後ろの倉庫には涼介が隠れている。準備は万端だった。卒業式が始まり、先生の挨拶や、在校生の歌が披露されたりする。去年まではただの退屈な行事だったけど、自分の番は確かに少し感慨深い。やっと校長先生による一人一人への卒業証書授与。僕も武雄も自分の分を受け取り最後の渡辺美知代の番を待つ。そして渡辺美知代が卒業証書を受け取り壇を下り始めた。予定では壇を下り終わるのと同時に始まる『仰げば尊し』。その一瞬前に僕は大きな声で涼介の名前を呼んだ。涼介が列の一番後ろに現れた。
「はい」
 大きな返事と共に涼介が背筋をのばして歩き壇上を目指してゆっくり歩く。武雄が小走りに壇の下まで走り手作りの卒業証書を校長先生に手渡す。「涼介だ、涼介が来た」クラスメートから声が上がる。いままで見たことのない盛り上がりの卒業式。突然のことで驚いている校長先生が、涼介に僕たちの手作りの卒業証書を渡したときクラスメートのどこかから自然に拍手が沸き起こった。

 最高の気分だった。僕たちは良いことをしたんだと疑わなかった。涼介の突然の登場に少し浮き足立った卒業式もどうにかきちんと進行し、最後に在校生の拍手に見送られ講堂の外に出ると、校庭の桜が風に吹かれ舞っていた。その下で僕たちは三人で肩を組んで見せる。クラスメートの驚きと喜びの歓声が沸き起こった。みんなが集まり一緒に写真を撮ったり、声を掛け合ったりした。その中でも僕たちは主役だった。自分達で最高の卒業式を作ったんだなんて思って嬉しくてたまらなかった。
 そんなお祭り気分を切り裂いたのは美由紀先生の怒った声だった。
「あなた達、いったいなに考えてるの!」
 先生は小刻みに震えている。最初はどうしてそんなに怒るのか分からなかった。こんなに良い卒業式だったのに。
「どうしてこんなことしたの!」
 先生は悲しい声を出して言った。何を分かれと言うのだろう?
「でも先生。涼介は転校したばっかで向こうの卒業式に出てもつまらないよ」
 僕は当然のようにそう言った。
「そんなことは分かってるの。先生だって、涼介君の御両親だって急な引っ越しで涼介君が寂しい思いをするのは分かってるの。それでもそうしなきゃいけない理由があったはずなの」
「分かってんならなんで引っ越すのさ。理由ってなんなの?誰も教えてくれないじゃん」
 納得のいかない気分だった。
「理由が何かなんて問題じゃないの。確かにね、これは少し難しいこと。悔しいけど先生には上手く説明できないかもしれない。でもね、それでも分かってあげなくちゃいけないことってあるの」
「なに言ってるか分からないよ」
 武雄が少し怒って言った。みんながおとなしくなっていて、僕たちはそれに怒っていた。でも涼介は違った。僕たちから腕を放して校門のほうをぼんやり見ていた。風に舞う桜の向こうに人影が一つ、ゆっくりとこっちに歩いてきた。それは涼介の父さんだった。
「ここにいたのか、心配したぞ。学校から卒業式なのにおまえがいないって連絡があってな」
 怒っている様子は全然なかった。でもそれは本当に悲しい声だった。
「あっちの学校、転校したばかりで、友達もいなくて、それで…」
 涼介は上手く言葉を出せずにいた。僕たちも何も言えずにいた。向こうの学校で騒ぎになるなんて考えてもみなかった。でも、だったらいっそ怒鳴って叱りつけてくれればらくなのに、涼介の父さんは静かに言った。
「そうか。急な引っ越しだったからな。そうだよな、ごめんな」
 風の音が聞こえていた。美由紀先生が「お父さんに謝りなさい」と言いかけて口をつぐんだ。涼介は涙を流して小さく「ごめんなさい」と何度も繰り返していた。本当に分かっていたんだ、僕たちの気持ち。大人の事情は分からない。それでも分からなきゃいけない気持ちもあるのかもしれない。理屈じゃなくて、そういうものがあるんだってことが涼介の父さんを見ていて、なぜだかそのとき分かった気がした。
 
「涼介のためにありがとうな」
 涼介の父さんはそう言って涼介とふたり僕たちに手を振りながら校門を出ていった。美由紀先生がそっと僕たちの肩に手を置いた。僕の目には涙がたまっていて、桜の花びらがぼんやり霞んで見えていた。はっきり見えない桜は悲し気で、でも綺麗だった。僕たちが見たことのなかったもの、これから見ていかなければいけないもの。まだちゃんとした大人にはなれないかもしれないけど、そんな桜の下で、いろんな「ごめんなさい」や「これからもよろしく」をそっと唇から風にのせた。
霞桜 伊勢 湊

夜の散歩道
るるるぶ☆どっぐちゃん

 どうにか仕事のメドがつくとなんとなく外の空気が吸いたくなり、散歩にでも行こうと部屋を出たのは、12時を少し回った所だった。
 パソコンの電源を落とし玄関へ向かう。居間にいた妻が書き物から顔を上げ、「気をつけてよもう遅いのだから」と言うのに「解ってる。すぐ帰るよ」とだけ答え、私は玄関を出た。

 ごお。

 12月の夜風は容赦無く冷たかった。
 薄着で来てしまったのを少し後悔する。まあでもせっかくだからとりあえず公園にでも行こうかと、煙草に火を付けて歩き始めるに少し覚悟が要る寒さだった。
 夜の散歩は久しぶりだった。最近は仕事も忙しくなってきてたし、それ以前に、歩くのがなんとなく億劫になってきてもいる。
(昔は夜にうろうろ歩き回ったものだが)
 思い返してみればもう年単位で、夜に散歩に出たことは無かった。
 冷気を頬に受けながら歩く。
 細く暗い道に、幻のように街灯が灯っていた。
 歩いている内に、足裏にこつこつとしたアスファルトの堅さを感じているその内に、昔の感覚が少しずつ蘇ってくる。
(本当に久しぶりだな)
 懐かしさに、少しずつ寒さが気にならなくなっていった。

 小さい頃から散歩は好きだったが、夜に散歩をするようになったのは東京に出てきてからだった。
 それなりに期待に胸を躍らせて東京の大学に入ったのだが、私は二週間程でそこに幻滅してしまい、段々と学校へ行かなくなっていった。
 日に日に危うくなっていく進級に、明日こそは明日こそは、と思うのだが、いざその明日が来るとどうしても行く気が起こらず、布団をかぶって寝てしまう。そうするといつの間にか明日は夜になってしまい、そして昨日になってしまうのだ。
 一体何故あそこまで行く気にならなかったのかは解らない。軽薄そうな同級生。汚いキャンパス。つまらぬ授業。それは確かに期待と違ったものだったのかもしれないが、しかしそのようなことであろうとは解っていたはずなのだ。そこにどうしても溶け込もうとしなかったのは、それが、どんなに威勢が良かろうと結局は田舎の坊ちゃんでしか無かった私に、遅れてやってきた思春期だったのかもしれない。
 ともかく私は学校に行かなくなった。そうすると夕方にアルバイトを入れていたせいもあり、必然的に、起きてる時間は夜が多くなる。趣味は本と音楽と散歩くらいしかなかった私は、読書に飽きるとよく散歩に出た。
 そして夜の散歩の楽しさを知ったのだった。


 大通りに出ると既に車の流れは絶えていた。店の多くはシャッターを閉め、まばらに並んだ街灯と、コンビニエンスストアだけが煌々と明かりを灯している。
 通りかかったそのコンビニエンスストアの前には原付に腰掛け、髪を茶、金、赤など思い思いに染めた少年達がスナック菓子を片手にたむろしていた。その中の一人が攻撃的な視線を送ってくるのをやりすごして、私はそこを通り過ぎる。
(思春期なのだろうな彼らも)
 彼らもきっと夜に眠ることが出来ず、こうやって寝床から這い出て夜を彷徨っているのだろう。何処かへ行きたくて、何かを持て余して、眠ることなど出来ないのだろう。
(だが)
 だが甘いな、と私は思った。
 せっかく夜に散歩に出たのだからそんな明るい所に居ては勿体ない。
 夜の散歩が楽しいのは、要するに、昼間には行けない所に行けたり、昼間には見えないものが見えたりするからだ。
 人の絶えた歩道橋の階段、真っ暗な線路、灯りの消えたガソリンスタンド、それらにこっそり入り込み寝転がると、普段見えないアングルで物事が見えるようになる。そこで色々な、出口の無い色々なことを考えてると、普段聞こえない色々な音が聞こえてくるようになる。
 そして、昼間は見えないものが見えるてくるようになる。
(こんばんは。はじめまして。今夜は随分涼しいですね)
 初めてそれを見たのは大きなスーパーの駐車場で寝転がって星を見ていた夏だった。
 声をかけてきたのはゾウの頭を持つ男だった。真夏なのにタキシードに蝶ネクタイという格好で、その上にゾウの頭が載っていた。
(あなた、最近良くみかけますね。失礼ですが、おいくつですか?)
(……18)
(ほおっ、そりゃお若い)
 仕方なく答えた私に男はそう言って、パオンと笑った。
 話してみるとその男は、夏にタキシードを涼しく着こなすだけあって、教養に満ち、紳士的で優雅な男だった。最初は気味悪く思った私も話しているうちに男がなかなか魅力的な人物だということに気づき、外見で判断してしまった自分を恥じた。
(だからそれは……)
(いやいや私の考えでは……)
 その男とは幾度も会い、文学論を戦わせるなど、私の人格形成に大きな影響を与えた。
 夜に出会ったのはその男だけでは無かった。
 常に三人組で行動している異様に声の高い小人。羽の生えたウサギ。いつも何かものをもそもそと不味そうに食べてて、あたしものが不味そうにしか食べれなくて、それで良く虐められるんだ、と寂しそうに笑うひどく痩せた女の子には何か贈り物をした気がする。
 猫会議にもたびたび出席するようになった。猫の言葉は良く聞くと人間でも聞き分けが出来、コツを掴めば動詞の変化が日本語に近い分、英語よりも簡単なのだ。
(おまえさんは人の言葉も解るし便利だ)
 リーダーの、白毛の猫はそう誉めてくれた。私は会議の書記長補佐を務めたことさえある。


 公園にたどり着いた頃には身体はすっかり冷え切っていた。自販機でコーヒーを買い、ちびちびと飲みながら砂場に寝転がり、空を見上げ、そのまま待つ。
 星が、綺麗だった。
 久しぶりの星空だった。
 10分。20分。星を見ながら私は待った。そして。
 そして、そのまま2時間待っても、ついに私に声をかけるものは誰も現れなかった。
 立ち上がり、背中の砂を払う。
(こうなることは解っていた気がする)
 もう彼らには会えない、それは解っていた気がする。だが、何故なのだろう。
 私は何かを失ったのだろうか。仕事も充実し、愛する妻を得て、あの薄暗い4畳半のアパートから飛び出し、今はその何倍の広さの仕事場と自宅を持ち。
(要するに、それが「失う」ってことさ)
 突然声が聞こえた。
(それが解らないお前じゃないだろう?)
 振り返った先には白猫がいた。大きな目を夜に光らせた、白猫がいた。
 しかしそれは私の錯覚だった。それは只の白いビニール袋だった。
 ごう。
 風が吹くとそれは、夜空に吸い込まれて消えていった。


「お帰り。遅かったじゃないの」
 妻は寝ないで待っていてくれた。
「もう、心配したんだからね」
「好きだよ」
「え?」
「好きだ。愛してる」
「ち、ちょっと何よ急にもうっ」
 私は妻の身体を抱きしめた。いつか必ず失われるであろうその身体を、その愛を抱きしめた。
「愛してる」
 言葉が宙に浮かび、消える。
 人はそうやって失い続けていくのだろうか。人には決して永遠など解る事は無いのだろうか。
(だが。だがな。だがそれでもゾウの紳士よ、羽根ウサギよ、小人よ、もう二度と会えぬ夜の住人達よ。それでも俺は、人は、失うことなんか恐れてなんかいないぜ。それくらいの若さは、俺達にだってあるんだぜ)
「あら」
「なんだ」
「あなた、白髪増えたわねえ」
「うるさい」
 私は妻を抱き上げた。
「きゃあ、もう、無理しないでよ? いい加減年なんだから」
「うるさい」
 そのまま寝室へ向かう。
 腰が少し痛むが、気にはしない。