ドラゴンフィッシュの夏
Ame
ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕達は、肌と布の間を金色の風がすり抜ける、白く薄いシャツを着ていた。
「ベトナム戦争って知ってる?」
「聞いた事はあるけど」
「アメリカとベトナムが戦争したの。それで、戦争に行ったアメリカ人達は、精神を病んで帰って来た人も多かったんだって」
田山は学校で一番成績のいい女の子だった。対する僕と来たら進学校のこの高校できっちり落ちこぼれて、毎日汽車に乗る夢を見ていた。
「戦争ってどっちが勝ったの」
「ベトナムって事になってるけどアメリカは認めていない」
「へえ」
「戦争とか行ってみたくない?」
僕はぎょっとして身を起こした(僕達はいつもの夏の河原に寝転がっていたのだけれど)。田山はタカ派とか国威発揚とかいう言葉とは縁遠い、日々朝日新聞読んでる「(せいぜい学生特有の範囲内でやや左寄りの)良き市民」だ。僕の知る限り最もその手の発言をしそうにないのが彼女だったのである。
「なんで」
「あ、条件はあるわよ」
「どんなよ」
「警戒しないでよ。
あのね、どんなイデオロギーも国家も全然関係ない戦争が何処かの砂漠で行なわれて居て、そこで私はシンプルに獣の様に殺しあえるなら、そこに行って死ぬのもいいなって思うのよ」
僕と来たら増々唖然とした。それは無法状態と言うやつで、近代国家のアンチテーゼとして中学生の教科書にでも出てきそうな情景じゃないか。この大きな目と細い首で田山と来たら一体どんな火を体の中に抱えて居るのだろう。
「田山さん」
「何ですか?」
「何でまたそんな」
「私、思想とかそういうものに、うんざりする事があるの」
木陰の一つも無い石だらけの河原は、午前二時の光を弾く川の水の所為で、何処も彼処も冗談みたいに眩しかった。そこに肩迄の髪と学校指定のブラウスを着て、彼女はぼんやり、ビニール袋と石と水で出来た川を見ている。
僕がここに来る様になった理由は分かって居るが、来続けている理由は正直分からない。前者はつまり、ついて行けない授業と挫折感からの逃避の為に授業をサボって手近な逃げ場所を探したと言う経緯に基づくが、後者の方はまた複雑なのだ。だってそうやって見付けた場所には全国模試百番以内常連の彼女が寝転がっていたのだから。
二年生になったばかりの五月だったと思う。彼女はデリダなんざを捲っており、僕に気付くと口の端を上げて声に出さず「こんにちは」と言った。
何だか自分でも上手く言えないし、因果関係の正確な説明になって居ないと言う気がひしひしとするのだが、ともかくそれで彼女とこの河原で授業を抜け出す日々が始まった。僕らには他に友人が居た。学校に戻るとそれぞれの輪の中に戻り、会っても手を振り合う程度の関係だった。別に成績云々の話ではなく、僕らは日常空間での友人では確かになかったのだ。不思議に思った僕は一度訊ねた事がある。「何故僕達はここにいるんだろう?」彼女は答えた。「それは私達が何かに飢えた野良犬だからよ」
思えば不思議な問に不思議な答えだ。僕は良く分からなかったが、それでも自分が「飢えている」事は当たっていると思った。そうでもなければ、陽射しのまともに照りつける、制服と髪とを砂だらけにするような場所に、わざわざ好き好んで居ようとは思わないんじゃないだろうか?そう考えてから、僕はいつも少し寂しく付け加える。
だけど多分僕と彼女との欠落の種類は違って、僕はそれが何かを知らない。
「あ、ドラゴンフィッシュ」
不意に彼女は呟いた。目線の先にはとんぼが居て、余り綺麗とは言えない川に卵を産みつけようとして居る。僕は訝しんで訊ねた。
「ドラゴンフィッシュ?そんなもん飛んでる?」
「え?とんぼじゃなかった」
「タツノオトシゴとかだったと思う」
「…とんぼってじゃ、何だっけ」
「何だっけ」
水面を弾く光に縁取られて夏が流れて居た。肩迄の髪が揺れる彼女と、痩せっぽちの僕とはその前で完全に無力で、世界が流れる様を見ていた、ただ、突っ立って。
僕らに手の届かない場所に行ってしまう迄。
三年生になると、彼女は殆ど河原に来なくなった。そうなると僕も足が遠退き、授業中には前より頻繁にまだ見ぬ汽車でシベリアに行く事ばかり考えた。それでどう言う訳か成績が上がってしまい、外語大受験なんかを考え始めた。
シベリアは何もない静かでばさばさした風の吹く土地だ。砂漠で死にたいという彼女はこういう所が好きなんじゃないだろうか。廊下で擦れ違うだけの彼女にいつか見せたいと、僕はシベリア鉄道のパンフレットを持ち歩く癖がついた。そして日々、バインダーの奥にそれを持ちながら、僕は「おうよ!」とか一言だけ言って彼女と只擦れ違い続けた。
夏が過ぎ冬が来た。国立大学前期の発表の前にとっとと卒業式を終わらしてしまおうという些か責任逃れ的なうちの高校の伝統により、僕達の多くはひと月後の自分の行く先を知らないまま胸に花をつけた。そして冷たい講堂への渡り廊下を通る僕は彼女を探した。
見つからなくても気にはしなかった。だって彼女は卒業生総代で、式の間には彼女を見られるに決まっていたのだから。
だけど、卒業生総代を呼ばれても、誰も壇上には登らなかった。
時は過ぎる。そしてドラゴンフィッシュの夏は遠くなる。
大学二年生の夏、僕はシベリア鉄道に向けて出発する。けれど多分何かからひたすらに逃げ続けていた高校生の時とはまた違う事情で僕は乗るのだ。逃げるのではなく僕は、何かを探しに行って来る。その為に、僕は彼女の河原にやって来た。
ここは昔と変わらない。所々にごみがあり、悪臭こそしないけれど、傷付いている子供でもなければわざわざ居ようなんて思わない場所だ。
あの卒業式の日、僕は先生達が見当違いの所で喚いているのを後目に、真直ぐ河原に行った。そこに彼女は居て、晴れがましい制服姿のまま、空を見ていた。
「田山、みんな探してるよ」
彼女は僕の方を見ようともしなかった。右手にくしゃくしゃになった手紙の様なものを握りしめ、そしてその時僕は漸く気付いたのだけれど、顔には涙の跡があった。
「田山」
「石」
「は?」
「探して、石。マジックで書いておいたからきっと消えない。ここ河川工事とかされてる川だから、きっとこの辺の石も流されたりなんかしないはずよ」
思えば彼女に触れたのはそれが初めてだった。だのに彼女の低い体温はあっと云う間に僕の右手を滑り抜け、喚き続ける僕を置いて、彼女は走って行ってしまったのだ。
彼女のお父さんが左翼だったかなんだかの過激派の大物だったのを知ったのは少し後だ。叔父さんの家に養女になっていたのだけれど、両親を結局捨て切れなかったらしい。
彼女の行方を卒業式以降誰も知らない。もしかしたら一生このまま、誰も知らないで終わるのかも知れない。
寝転がった僕はごろりと寝返りをうった。その先には、黒い染みの様なものがある石が転がっていた。僕は何の気なしに手を伸ばし、そこに書いてある文字列を読む。
「『Dragonfly』」
とんぼ?
ああ
記憶の彼方、幾重にも流れ溢れる夏の光の中、白いシャツを着た少女が笑う。
「負けず嫌い」
僕は笑いながら呟いた。
あの夏が蝉の鳴き声より高く辺りを埋めている。
ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕達は、1200フィートの上空を流れる風を見た。
ドラゴンフィッシュの飛ぶ夏、僕は、一つの恋をした。