My rib hurts me
やす泰
センター街を左に入った所で、オヤジを見つけた。
「あ、やべー」
わたしはあわててキョーコとヒトミの間に隠れた。オヤジは人を連れていた。みんなワイシャツ姿で上着を脱いでいるのに、オヤジだけはきちんと背広を着ていた。やたらとペコペコしてそのたびにハゲが見える。
「いこう…」
こっちには気づかなかったと思う。そういえばオヤジが渋谷で飲んでいるって話は聞いたことがあった。いつ会っても不思議じゃなかった。そう思いながら、わたしはロフトの方に曲がった。
「なによシンちゃん、また自分でやってるの」
わたしは部屋中に漂うガンジャの臭いを嗅ぎながらいった。こんな甘いバニラみたいな臭いがしたら、マンションの人にすぐバレてしまう。
「ああ、スピードが切れちまってよぉ」
わたしは少し安心した。スピードをやった時は必ずセックスをさせられる。いまはその気分ではなかった。
「はい、きのうまでの上がり渡すね。だけどやばいよ。マンゾーが捕まったんだってさ。イラン人たち急にいなくなってる」
「わかったよぉ。でも…マキもこれ、いっしょにやろうぜ」
この日、シンちゃんは完全にイカレていた。
シンちゃんのことは死ぬほど好きだった。話が面白くって聞いているだけでいい気分になれた。学校とかいやなことを全部忘れさせてくれた。両親がすっごいお金持ちだから、少しくらい悪いことしても捕まらないらしい。学校なんかとっくに退学したそうだ。こないだはオレのダチだよって超有名な映画女優の息子を連れてきた。本当にそうなのって聞いたら、はいそうですって本人がいうのだからまちがいない。結局、みんなでスピード吸ってセックスしたけど、わたしはシンちゃんにしかやらせなかった。
「わるかったなぁ、マキ。オレもあと少しでこんな生活やめて、まともな仕事すっからよぉ。絶対、絶対だからよぉ…」
シンちゃんはガンジャでラリッた時、必ず同じことをいう。オーストラリアいってスキューバのインストラクターやる。その時はマキもいっしょだからなって。部屋にはなんとかリーフのポスターが貼ってあった。だけど親が金持ちなら、セコくガキに薬なんか売ってないで、さっさとオーストラリアに行けばいいのに。わたしだって自分の旅費ぐらい自分で稼ぐから。わたしはいつもそう思っていた。でも、なんとかリーフでシンちゃんと二人きりになれるなら、悪くないなと思う。
朝、洗面所で歯を磨いていると、ドアが開いてオヤジが入ってきた。
「なによ」
わたしがそういうと、オヤジはおおとかなんとかいって出ていった。
内心、オヤジも気の毒だなと思う。アニキとわたしが小さかったころは、やたらと厳しい父親だった。電車に乗っても絶対に席に座らせてくれなかった。音を立ててスープを飲んだら、静かに飲めって怒鳴られた。ところがアニキが受験に失敗してその腹いせにタテつくようになってから、急に大人しくなって私にも何もいわなくなってしまった。あとは毎朝会社に行く時と、たまに休みに顔を合わせるだけ。何年か前に転職したら、だいぶ痩せてオジンくさくなった。諦めて半分だけ残った養毛剤がヘアトニックといっしょに棚の上に置いてあった。
学校が終わっていつものように電車の中で化粧を済ませると、わたしはシンちゃんのところへ行った。シンちゃんはやたらと元気だった。
「きょうは、ちがうやつをやったんだ。これでよぉ」
シンちゃんは注射を打つまねをした。
「そしたら効くんだよなぁ、これが。見ろよぉ、ビンビンだぜ」
いきなりパンツを脱がされて後ろから入ってきた。わたしはちっともよくないのに、シンちゃんは何度もそれをくり返した。痛いだけのセックスだった。
「きょうは街に出るぜ」
シンちゃんはどこか様子がおかしかった。服を着て帽子を被るまではよかったけど、玄関で靴の紐を結ぼうとしたらうまく結べなかった。どうしたのと聞いたら、ウルセェと怒鳴られてしまった。目が怖いくらいに光っている。腰の後ろに特殊警棒をつけた。丸い頭のついた伸び縮みするやつで、アメリカの警察が使っているという。シンちゃんは私のことを振り向きもしないで、暗くなりかけた道玄坂を下っていった。
大きなベンツが止まって、人が降りるところだった。窓ガラスが全部黒塗りになっている。シンちゃんは構わずそこを通り抜けようとした。
「シンちゃん、待って。この人たち…」
止めようとしたが、間に合わなかった。
「おっと。なんだてめぇは」
ヤクザの一人がシンちゃんの前に立ちふさがった。
「そっちこそなんだ」
シンちゃんが負けずに裏返ったような声でいい返すと、ばらばらと車から人が降りてきた。
「なんだ。こいつ、飛んじまってるぜ」
中の一人がいった。
「なにおぅ」
シンちゃんは目の前の一人に組み付いた。
「おもしれぇ…」
一方的なケンカだった。シンちゃんは自慢の警棒を抜く暇もなく、あっという間にボコボコにされてしまった。
「ちょっと事務所まで顔貸してもらおうか。そこの可愛い子ちゃんもいっしょに来て欲しいな」
顔中血だらけのシンちゃんを二人が引っ立てて、もう一人がわたしにいった。
「やめて…」
わたしは近づく男から逃れようと後ろに下がった。のどが締めつけられたようになって声がでない。
その時、黒い影が飛び出してきた。影は背広の裾をひるがえし、身を投げ出すようにして地面に屈みこむと、ヤクザに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。許して下さい」
声で、それはオヤジだとわかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
わたしが聞いたこともない大きな声だった。ヤクザが動揺するのがわかった。そのうちに人が集まり始めた。
「ケッ…」
ヤクザはシンちゃんを放り出して、車に乗って去っていった。オヤジは膝をついたまま、わたしに向かって微笑んだ。初めて見るオヤジの嬉しそうな顔だった。
「この野郎ぉ」
驚いて顔を上げると、シンちゃんが立っていた。手には特殊警棒が握られている。
「シンちゃん、待って…」
警棒は打ち下ろされていた。眼鏡がふっ飛び、頭をかばってうつぶせになったオヤジの脇を、シンちゃんの軍用靴が何度も襲う。肋骨の折れるいやな音がした。止めようがなかった。シンちゃんは完全にコワレていた。
「マキ、来い。バカにしやがって」
怖い顔がこっちを見た。
するとオヤジはいきなり立ちあがってシンちゃんに抱きついた。二人は倒れてみっともなく地面をごろごろと転がった。だめよ、オヤジにケンカなんかできるはずない。私はそう思った。だけどオヤジはしがみついたまま、警察が来てもまだ手を離そうとしなかった。
「麻紀子、よかった。よかったな…」
サイレンの音がした。オヤジにはまだ意識があった。
「あたしを尾行したの」
オヤジは頷いた。
「麻紀子、よかったな…」
オヤジはくり返した。オヤジの口からは、ぜろぜろといういやな音が聞こえた。
「オヤジ、バカだよ…」
救急車の中に縛り付けられ、オヤジは透明な酸素マスクをしている。眼鏡がないので知らない人のように見える。
「お嬢さん、もうすぐだからね」
白衣を着た救急車の人が振り向いていった。とたんにオヤジはぶっと音を立てて血を吐き出す。
「山本さん、山本さん、聞こえますか」
救急車の人は急いでマスクを外すと、オヤジの頬を叩きながら話しかけた。
「オヤジ、バカだよ。バカだよ…ホントに…」