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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第16回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 4月)
文字数
1
弥栄 工
1925
2
オキャーマ君
3000
3
佐賀 優子
1403
4
岡野義高
2790
5
toc
2764
6
香山かちた
1970
7
とし
1918
8
蒼井 空
2771
9
やす泰
3000
10
2552
11
Ame
2998
12
海坂他人
2950
13
羽那沖権八
3000
14
伊勢 湊
3000
15
太郎丸
3000
16
有馬次郎
3000
17
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000

結果発表

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風の祠
弥栄 工

 半屋はぼーっと空を眺めていた。
 ゴールデンウィークが過ぎ去って1ヶ月になろうとしている。もうすぐ梅雨入りだろうか。葉の揺れる音と同時に、微かだが湿った匂いを感じる。

 大学の講義をサボって一人大学を抜け出した。車を走らせること30分。小さな山の入り口で車を止める。中は相変わらず鬱蒼としている。それを掻き分けて行くと一つの小さな祠に辿り着く。
 地元の人は「別名神隠しの祠」と言っている。
 半屋は神隠しなどに興味があったわけではなかった。以前にただなんとなく、惹かれるようにしてこの場に来ただけだった。それ以来何度か、ぼーっと時を過ごすためにこの祠に来るようになっていた。

 これで何度目だろうか、この祠に来るのは。
 ──ここは不思議と落ち着く。
 初めて来たときから半屋は感じていた。別段、特別なものが祀られているわけではない。質素な石造りの祠以外には何もない。祠の周りには樹が真っ直ぐそびえ立っている。ただそれだけ。
 近くには腰掛けるためなのか判らないが、大きな平べったい岩が一つだけ鎮座している。半屋はここに来ると決まってこの岩に寝っ転がる。そうすると僅かながらに空を眺めることができる。そして木々のざわめきに耳を傾ける。
 葉と葉のこすれ合う音が心地いい──。

 ここに来るときはいつもそうだ。何か鬱積したものがあって、でもそれをどう晴らしたらいいのか解らないときに訪れる。
 友人とカラオケ──それで晴れるときはある。ただいつもそれで解決するわけではない。他の方法を色々と試す。それでも駄目な時、そんな時にばかり来ているのを思い出す。そういう時は、何に対して鬱屈しているのかすらわかっていないことが大半だった。

 ここに来ると、自分ってなんだろうと問いかけてみたりもすることもある。そんなことを考えるのはここでしかしないのだが──どんなに考えたって答えがあるわけじゃない。そんなことは解っている。頭で解っていても、止められない。それは心が問おうとしているんだろうと勝手に結論づけてしまう。でも、どうしてなんだろうか──。
 時々自分が風になりたいと思う時があることを半屋は思い出した。でもどうして風なのかはわからない。

 風──

  目に見えないもの
  形のないもの
  何者にも囚われていないもの……

 次から次へとイメージが膨らむ。

 いつもこうしてぼーっとしていられるのは小一時間程度。その後はなんかかんかの予定が入っている。だからこの祠を後にしなければならない。
 だが、今日は違う。この後予定は何もない。もう少しだけ今までの思考の続きをする。

  どうすれば風になれるのだろうか
  なったらあらゆる柵がなくなってしまうのだろうか
  絆(きずな)と絆(ほだし)
  悩まされることもないのだろうか

 半屋は最近自分が、他人に対して妙に距離を置いていることに薄々感じていた。それも無意識のうちに……
 人間不信かもしれない──そう思ったこともあった。でも別に一緒にいることに取り立てて不快感を味わっているわけではない。

 思考がネガティブになっていることに気付き、寝返りを打って一眠りすることにした。

 夢に出てきたのは過去の辛いことばかりだった。最悪の目覚め──。

 喉が少し渇いていた。鞄なんか持ってきてはいない。いつも何も持たずにここに来るからだ。携帯の電源だってもちろん切ってある。

  人付き合いが嫌いなわけではない
  だからといって好きなわけでもない
  ただ怖いからだろうか……
  信じなければ──期待しなければ
  裏切られることも失望することもないから 

 内容が風についてではなくなってきていることに気づきつつも、半屋は思考を止めることができなかった。

  自分がいてもいなくても同じだから
  変わりなんていくらでもいるから
  別にどうだっていいから……

 頭の中に勝手に浮かんでは消えて逝く──。
 落ち着こうと思い、岩から立ち上がる。そして深呼吸をして、目を瞑る。周囲の音に耳を傾けた。いつものざわめきを聴いて、止めどなく流れる思いを沈めようと思ったからである──が、そこに風の音はなかった。葉と葉がこすれ合う音もない。

 音そのものがなくなっていた。

 今までこんなことはなかった。風の祠──勝手に自分で名前を付けた。それはいつも風が吹いているからだ。そのざわめきに耳を傾けているからだ。しかし今、その風が止んでいるのだ。

  風が止むとき
  それは出発のとき
  一緒に旅立つ──すべての絆を捨てて

 どこからともなく声が聞こえたような気がした。

  そうか
  オレはやはりこれを望んでいたのか
  風になることを……

 祠に一陣の風が吹き抜けた。
 その場に半屋の姿はなかった。
風の祠 弥栄 工

消滅トリック
オキャーマ君

 あるマジシャンの控室に、もう一人のマジシャンが訪れた。
 訪問客のほうは、世界的にも有名な魔術師、ミスターMである。だが、控室で待っているマジシャンの名前を知る者は、このイベントの中には一人もいなかった。
「先ほどの君のマジックだが……簡単そうに見えて奥が深い。何というか、その……」
「光栄です、ミスターM。私のマジックに興味を持っていただけましたか?」
 無名のマジシャンはうれしそうに目を輝かせた。
 そのマジックは、箱の中に入った物を瞬時に消してしまうという、実にシンプルなものだった。中に入れるものは大きなものでも小さなものでもなんでもいい。しかも、その箱は透明のガラスだった。マジシャンが箱を両手で抱えるようにすると、透けた中の物が衆目の中でするすると消えていくのである。
 誰もそのトリックを見破る事は出来なかった。もっとも、そんなに簡単にタネが割れるようでは、マジックをオーディションにかける値打ちがない。なにしろ会場の客は一般人ではない、世界中から集まった有名マジシャンたちなのである。
 超マジックのトリックを考える天才は、世の中にそんなにたくさんはいない。このイベントは、それら一握りの卓越したマジシャンが、同じマジックのプロを相手にして奇跡のような新規トリックを高額で取引する、トリックオーディションだった。
 ちなみに、かつて一世を風靡したイギリスの超能力者が、スプーン曲げのトリックを仕入れたのもこの会場である。その後、そのトリックは一定の独占期間を経て世界中に伝播した。今ではスプーン曲げは、誰でもやるマジックの一つになっている。
 が、この不思議なマジシャンが先ほど見せたトリックは、ひょっとしたらスプーン曲げ以上にマジック界、魔術界を涌かせる可能性がある。ミスターMは長年の経験でそう感じていた。
「私もこの世界は長いが、君はあまり見かけない顔だね」
「私は、マジシャンではありません。出鱈目博士……空間物理を専門としている科学者です」
「ほう」
 と、ミスターMは感心したような声を出した。実をいうと、マジックの新規トリックを考える人間には科学者が少なくないのである。
 ミスターMは、マジックは物理学や工学などと同じ、独立した科学だと考えている。その証拠に、例えば「ミステリーサークル」の謎は、どんなにたくさんの科学者が解明にチャレンジしても、合理的な解答を見つけることは出来ない。しかし、ミスターMや世界中のマジシャンたちは「ミステリーサークル」は手品にすぎないと、すでに皮膚感覚で見破っているのである。数学者に言語学がわからないのと同じで、マジックも科学であり、学問の分野が違うだけのことだ。
 ともあれ、ミスターMはこのトリックを誰よりも先に手に入れたいと考えている。マジシャンとしての長年の勘には抗えない。
「出鱈目博士……」
 ミスターMは急にひそひそ声になった。
「そのトリック、私にだけ教えてくれないだろうか。君のような部外者がここで私に声をかけられることだけでも、大変な名誉だと思ったほうがいい。その意味がわかるかね」
「わかりますが、私はこの世界で出世しようなどと考えてはいないのです。ただ、この消滅ネタだけを売りにこちらに参加しただけのことです。もちろん、少しでも高く買っていただければ、それに越した事はありません」
 出鱈目博士は、相手よりもさらに声を潜めた。
「実はこの手品は厳密に言うとトリックがあるわけではないのです」
 そういいながら、出鱈目博士は近くにあったテレビを両手で挟んだ。瞬く間の出来事だった。
 どうぞといわれて、今度はミスターMがそのテレビを持ち上げると風船のように軽い。なんとテレビは薄い外枠だけ残して、中身が空っぽになっているのである。床に落とすと、たまごが潰れるようにぺっちゃんこになった。
 ミスターMの目が輝いた。
「私はこのように両手に指輪をしています。この指輪が二極になっていまして、それを挟む空間の中身が瞬間的に消滅してしまうというわけです。トリックといわれればそれがトリックなのですが、後は純粋に科学的な問題なのです。その秘密は私の頭の中にあって、誰にもお渡しすることは出来ません」
「それは画期的な発明じゃないか!」
「ははは、しかしまだまだ実用化には程遠いものですよ。可能性の段階にしかすぎません。完全なものにするにはお金もかかります」
 出鱈目博士はすでにミスターMの意図がわかっている。トリックがオーデションにかけられる前に、自分のものにしようとしているのだ。だが、この中途半端な研究をマジックのネタとして高く売りつけて、次の研究費に当てようとする目論見が崩れてしまっても困るのである。
 しかし、ミスターMの勢いは大変なものだった。
「では、それを私に売ってくれないか。金に糸目はつけない」
 ミスターMは足元においていたトランクを指差した。
「十万ドル入っている」
「そ、それはすごい!」
 さすがに世界でも有数のマジシャンである。出鱈目博士は、思ってもいない大金の提示に驚いた。その喜々とした表情に安堵して、ミスターMが握手の手を差し出した。
「契約成立だな」
 ――しかし博士は我を失っていた。
 その手を両手で受け入れてしまったのである。
 刹那、ミスターMは、ぎょえ、という奇妙な声を出した。すぐに手を引っ込めたが遅かった。脱ぎ捨てた手袋のように、袖口から手の皮だけがぶらんと垂れ下がっている。
 凍りついたような沈黙が流れた。何が起こったかを理解するまで、お互いにある程度の時間が必要だったのである。
 が、それも一瞬のことだった。ミスターMが半狂乱になって、出鱈目博士に突っかかってきた。
「な、なんてことだ。これじゃ、もうマジックが出来ないじゃないか!」
「すみません、不注意でした」
 出鱈目博士は心からわびた。内心は、それ以上にあたふたしている。
「不注意で済むことか!」
「まあまあ、興奮しないで…」
 といいながら、組み付いてきたミスターMを引き離そうとして腰を掴んだ。
 すると、見る見るうちにその腰がしぼんでいき、まるで砂時計のように真ん中がくびれた。
 驚く暇もなかっただろう。はうああ、と断末魔の悲鳴を上げたまま、ミスターMは腰から二つ折りに重なって床に倒れた。内蔵が瞬時に消滅してしまったのである。
 出鱈目博士は、自分の発明品の威力に舌を巻いていた。
「こ、これはすごい…しかし、まさか殺してしまうとは……」
 確かに落ち着いて今の状況を分析してみると、あらためて動揺せざるをえないではないか。とにかく、すぐここを逃げ出さなければ、警察に捕まってしまう。事故とはいえ、裁判になれば研究は頓挫するし、現在の研究の秘密も公になってしまうだろう。
 と、突然、ドアの向こうから人の声が聞こえた。
「エントリーナンバー42番、出鱈目さん。オークションの出番です」
 もし、人がこの部屋に入ってきて現場を見たら万事休すである。
 次の瞬間、出鱈目博士はミスターMのトランクに飛びついていた。トンズラする前に、金だけはもらっておいて損はないからである。
 しかし、慌てていた。
 なんと、トランクを両手で持ち上げていたのだ。あっと思ってトランクを開いたが、すでに中身は空っぽになっていた。
「し、しまった!これでは、何もかも水の泡じゃないか」

 ――出鱈目博士は、思わず頭を抱えた。
消滅トリック オキャーマ君

恋しいという言葉
佐賀 優子

『一度愛し合えた人と、
    分かり合えなくなることほど辛い事はないだろう』


いつしか呪文のように心の中でつぶやいた言葉。
こんなふうにふと脳裏に現れる事は別に珍しい事ではないけれど、もうそろそろ自由になりたい。
でも、実はもう自由なんじゃないかとも思う。もう、アノヒトは思い出なんじゃないかと思う。イマノヒトはアノヒトの代わりなんかじゃないと思う。アレ以外は、私をだんだん許してくれている気がする。


こびりついて離れない<小さな魂の残骸>は、ときどき私のからだのなかでうなる。そのとき私は痛くて痛くて耐えられなくて、少しだけアノヒトの面影に頼る。分かり合えた頃の…。でも必ず最後のあの罵声も思い出すから、またアノヒトのために泣いてしまうの。


最近なにかと忙しい。でも、悪くはない。階段を少し軽快に上るだけで、凛と背中を伸ばして歩くだけで、頑張る気持ちになれる私がいる。こんな私はとうの昔に死んでしまったと思っていた。でも、まだ私の中にいた。私は元気だった。

今日はイマノヒトと一緒。しょうこりもなく新しい恋に飛びこ
んで、もう二年になる。この胸が今は恋しい。貴方のとなりに私
は横たわるけれど、いつも左腕のやりばにこまるの。貴方の背中に
両手をまわして、もっともっとぎゅっとするのもいいけれど、それにしても地面が邪魔で、どうせなら左腕を切り落として右手だけで貴方の胸板にくっつきたいの。
自分の愛の表現が無意識に、どこか残酷で、感傷ぶってしまうから、私はすごくすごくやるせなくなる。そんな時は貴方の胸元に顔をうずめて息を止める。やがて口からしづかにこぼれる吐息が貴方と私の間によどんで、熱を発する。私はその熱で今貴方といる事を強く強く感じるから、照れ隠しにふざけたキスをするの。
「ん?」
どうしたのかと私にたずねる。私は何でもないというふうに、すこし女の子らしく甘える。生きていて良かったと、あたりまえのようなことが胸に染みて、そうなると、これからどうなるんだろうとか、同じ繰り返しはしたくないとか、今何時なんだろうとか、自分が考える事を制御できなくなって、そう、からだに悪寒がはしって、そのあとすごくすごく泣きたい衝動に駆られる。シーツの冷たいあたりで気持ちを紛らわせようとしていたら、貴方が私の髪をかきなでた。すごく私がおとなしくなる。
「…一緒に…いるか…てか、暮らすか」
久々の愛の告白だった。あまりそういうこと口にしない貴方だから。
だから貴方のその一言は、幾千の言葉になって私の喉らへんを突く。
「同居するってこと?」
「あ~…それでもいいよ」
お互いが照れ隠しの言葉をつむぎながら、それはありったけの心の声だった。時間の流れに背中を押されて、私は作りかけの返事を発した。
「…やったね」
ちっちゃく鼻で笑うと貴方は私の額に唇をあてた。
「でも、結婚したら…大学続けられないんじゃない?」
「よくわかんねぇ」
大学辞めるのは私なんだから、ってつっこもうとも思ったけれど言葉の刺を気にして今は閉じ込めておく事にした。

遠い遠い昔、貴方ではない人とそんな約束を交わした。また約束がちぎれるのが怖くて、貴方と少し距離をおいてとなりを歩んできたけれど、いつのまにかこんなに近くにいたのですね。

うつろいやすい世の中で、少し押しが弱い貴方だから、たまには言葉で伝えてみよう。

「すきよ」

くちごもった語尾のぶんだけ、
私はまた照れ隠しに、貴方の胸に顔を隠す。
恋しいという言葉 佐賀 優子

春には桜も咲くというのに
岡野義高

 桜並木で人をはねたことがある。

 花は盛りをすぎたころだった。
 通勤コースにわりと大きな公園があって、そのまわりの道路が桜並木になっているのだ。 なかなか立派な桜並木だ。
 ぜんぶで200メートルぐらいになるだろうか。
 桜の季節になると、花見客でいっぱいになった。
 道路は渋滞し、とてもクルマで通りぬけられたものではなかった。
 ただ、この公園は駅から遠くて、おまけに駐車場がせまかった。
 しかも、この公園にとって不幸なことは、すぐ近くにライバルができたことだ。二つ隣の駅は、ちょうど運河が流れていて、川沿いに桜並木があった。
 あたらしく親水公園もつくられた。
 駐車場も広かった。
 そんなこともあって、通勤コースの桜並木は、わりとさびれかけていた。
 年々、屋台が少しずつ減っていった。
 不況の影響もあって、「ぼんぼり」のような妙な飾りのついた電球によるライトアップも、数が少なくなった。
 ライトアップも早めに消すようになっていた。
 こうなると悪循環になる。
 夜桜を見にくる人もだんだん少なくなった。
 だから、花見のシーズンでも、ぼくはふつうにクルマで通っていた。
 べつに渋滞することもなかった。
 
 だれも見ていない桜並木を、一人で通りぬけるというのはなかなか迫力があった。
 そんなとき、ぼくは海に雪がふり続けている光景を思いだした。
 雪はただ降りつづけて、海にとけていく。
 意味もなく、ただ降りつづいている。
 そして、意味もなく消えていく。
 ぼくは、そういう風景を見ていると、なんだか怖くなることが多かった。
 そのまま、いつまでもいつまでも見続けてしまいそうになってしまう。
 見続けているに、何もかもがどうでもよくなって、あっちの世界に行ってしまいそうだった。
 気がついたら、どこかの精神病院にいる。
 そんな自分を想像することがあった。
 
 桜並木の下を通るときは、いつもクルマの窓を開けた。
 ときどき花びらがクルマのなかに入ってくることもあった。
 強い風が吹くと、たくさんの花びらが地面に散った。
 クルマがスリップしないだろうか、と不安になることもあった。
 それでも通勤コースを変えることはなかった。
 
 ある日、残業で遅くなった。
 大きな仕事がようやく一段落して、達成感と疲労とで、ぼくは少しぼうっとしていた。
 桜並木にさしかかったとき、もうライトアップは消えていた。
 だからブラインド・カーブを曲がりきったとき、道路の真ん中に座っているのは犬かと思った。
 びっくりするほど大きな衝撃があって、ぼは無意識のうちにクルマをとめた。
 犬だと思っていた陰は、すぐに人だったとわかった。
 ぼくはその人にかけよった。
 ぴくりとも動かなかった。
 心臓が確かにとまっているし、息も確かにしていない、と納得するまで、ずいぶん時間がかかったような気がする。
 ぼくはその作業を道路の真ん中でやっていたけれど、その間、クルマは一台も通らなかった。
 もちろん人も歩いてこなかったし、自転車も来なかった。
 
 時間がたって、ぼくは、ほんの少しだけ冷静になった。
 死体を歩道のほうへ引きずっていき、クルマの陰に置いた。
 もし、クルマが通りかかっても、なんだかわからないはずだ。
 ぼくはクルマのフロントを見て、手でなぞってみた。
 4WDのゴツイ外観にふさわしく、傷ひとつついていないようだった。
 少し勇気がいったけれど、ぼくはクルマをぽつんと一つだけあった街灯の下へ移動した。
 そのあと、死体もひきずっていった。
 クルマのフロントには、ほんとうに傷ひとつなかった。
 死体は五十くらいの初老の男だとわかった。
 驚いたことに、血が一滴も出ていなかった。
 
 あれから一年がたって、また桜の季節になった。
 クルマで桜並木を通りすぎる間、ぼくはわずかな時間の花見を楽しんだ。
 春さきは、どうもカラダがだるい。
 そのくせ、異動や環境の変化などがあってあわただしい。
 ぼくは春が苦手だった。
 そんな春のせめてもの楽しみが、この桜並木だった。
 桜が咲きはじめると、ぼくは、寒くなって気温が下がるように、と祈った。
 できるだけ長い間、桜が咲いているように、と。
 しかし、それも花が盛りをすぎるまでだった。
 花びらが散りはじめて、花吹雪が吹いたりするようになると、ぼくは胸騒ぎがしているような気がしていつも落ちつかなかった。
 
 ある日、桜並木にさしかかると、どうしたことかクルマが渋滞していた。
 なにが原因かは、道路脇の看板を見て思いだした。
 聞いたこともない芸能人をよんできて、なにやらイベントをやっているのだ。
 なんとか花見客をとりもどそうと、公園側もいろいろ考えたんだろう。
 この日だけは、客はくる。
 でも、明日になっら、みんなはまたいつもの運河沿いの桜並木のほうへ行ってしまうだろう。
 さいごの力をふりしぼってあがいているようで、ぼくはなんだかもの哀しい気分になった。
 
 ちょうどカーブを曲がりきったあたりで、クルマはしばらく動かなくなった。
 あけた窓にヒジをかけて、しばらくぼんやりしていた。
 そのとき、あの男をはねたのは、ちょうどこのあたりだったことを思いだした。
 ぼくは、あの日、死体を近くの埋め立て地へ持っていって、なるべく深そうな穴へ放りこんできた。
 次の日の朝、早めに家を出て、事故のあった場所へ行き、地面に血が流れていないことを確認した。
 死体をひきずった跡というのも特に見あたらなかった。
 ちょうど風が強い日で、花びらは散りつづけていた。
 ぼくは海に降る雪をながめているときの、あの気分になってしまって、しばらくの間立ちすくんでいた。
  事故が新聞に掲載されることはなかったようだ。
 ぼくもまじめにチェックしていたわけでもない。
 クルマは、そのあと車検に出したが、とくになにも言われなかった。
 ときどき、あれは夢でも見たんだろうか、と思うこともあった。
 人は血を一滴も流さずに死んでいくんだろうか。
 そして、だれにも気づかれずにこの世からいなくなってしまうんだろうか。
 埋め立て地はどんどん変貌していった。
 ぼくは、死体をどこに放りこんだのかもわからなくなってしまっていた。
  
 とつぜんクラクションの音がした。
 我にかえってみると、前のクルマは10メートルばかり進んでいた。
 ぼくは、ブレーキから足を離した。
 クルマはのろのろと前へ進んでいく。
 今夜は風がない。
 それなのに花びらは時々落ちてきて、フロント・ガラスに貼りついた。
 ぼくは手が届くとろこについている花びらを一枚だけとった。
 口のなかに入れてかんでみる。
 少しだけ苦いような気がした。
 それはほんの一瞬のことで、すぐに味も口のなかに花びらがあることも、ぼんやりとしてきてわからなくなっていった。
 
 今年の桜も、もう終わりだ。
 ぼくは、またひとつ年をとった。
春には桜も咲くというのに 岡野義高

STAY
toc

 今日もワタシはここで電車を待つ。
 モウ……イヤダ……。
 ほんの一瞬の事だった。ふっと、気が抜けた様に自然に前へと倒れ込んでいた。
 私は線路の上で迫る電車を見ていた。ホームに目をやると、誰も私を助けようともせず、ただ呆然と眺めるだけの他人がいた。
「助け……」
 声を出しかけ、手を伸ばし……。





 軽い眩暈と切り傷に似た痛み。次第に意識は薄れていく。

「何? 人身事故? ヤダ、遅刻するじゃん」
「ったく、メーワクだよな、時間考えて死ねって」
 誰も私を慰めてくれない。死んでまで私はヒトにけなされている。
「バカじゃない? 自殺なんて」
 そうだよ……。バカだよ自殺なんて。こんなカタチでしか私は逃げようがなかったんだ。

 気が付くと私は、いつもの席で揺れる吊り革を眺めていた。
 ただ呆然としていた。周りの人も、私がそこいるとわかってくれているのだろうか。その席が空いている、ただそれだけの事にしか見えないのだろうか。立ち上がろうと腕を動かそうとすると、金縛りに遭ったような感じで、腕が上がらない。また声を出しても皆、聞こえない振りをしているらしく、私に向ける視線はなかった。おそらく私の存在はそこに無いのだろう。自分が幽霊とか霊魂などと思うつもりは無いが、そう言う状態が今なのだろう。死んだという実感はない。生きていたという自信が元々無かったから、違和感は無いが。それでもこうしている限り、私はどちらとも言い難い。憂鬱に苛まれながら環状線は回り続ける。

 私のことを見ている。向かいの席から、人の影を縫うように。両手で頬杖を突きながら、前屈みに除き込む様に、その視線は動かない。私の事が見えるのだろうか、だとすれば、私が生きていると言う実感を得る事ができる。だが彼はこちらをじっと見る他、動かない。昨日は自分の事で頭がいっぱいだったため、周りを眺めると言う事が無かったから気にもしなかったが、いつも前の席には彼がいた。多分、誰一人として気付かない存在なんだろうな、と一瞬思った。
 そして私も。
 いつまで続くのだろうか。ふと考えて見た。答えはまだ、見つからない。そして終電が停止した時、彼は消えていた。私の記憶がそこでポツリと途絶えた。

 朝、私は車内で居眠りをしていたかのように目を覚ます。決まって、いつもの満員電車の中でだ。新聞を読む中年男性。だらしなく口を開けて眠る隣の女性。大音量で音楽を聞く学生。そして向かいには彼がいる。気味が悪い……。池袋から二駅ほどすぎると、車内は一旦静まる。その頃になると車内は、時には誰もいなくなる。その車内には二人だけ。 気まずいな……。
 昨日は誰かしら居たから、気をそっちに逸らしていたが、否が応にも彼と目を合わせてしまう。中学生くらい? 詰め襟の学生服を着ている。目を伏せて、ただうつむいた。
「……え…か? わか……」
 受信の悪い電話で話しているように声が耳に入ってきた。ふっと顔を上げると彼が口を動かしている。その後だった、言葉が後を追って聞こえた。
「いつまでそうしてるつもり?」
 その言葉は、文字として私の頭には入り込んできた。驚いた表情で、その彼を見つめた。
「朝のラッシュ時、山手線に飛び込み即死。新聞で見たよ。都内四千人の足を止めたとかね。今頃両親大変だねぇ……。知ってる? 電車止めると損害金高いんだよ……」
「……いい気味。お金だけは持っていたから……丁度よかった」
 冷たい視線の先に、何も映そうとしないのは少しでも私に罪悪感があったのだろうか。
「計算の内ってこと? 死んでまで親に苦労させる気?」
「もちろん、親に反感持ってたら人身事故の方が高いしね。それにその日、学校で大事な試験があってね、三十分も遅刻させておけば受けられないでしょ……」
 微笑混じりに、止まらない悪意に必死でブレーキを掛けようとしていた。
「ホント自殺するようなヤツなんてメーワクだよね」
 決定的な一言だった。
「……もう、ほっといて……よ」
 泣きそうな、それでも涙の流れない悲しみを静かに抱えていた。俯いたまま、無言が続いた。何週回り続けたのだろう。学生が見受けられるようになった。同じ学校の制服が目に付く。多分彼女達は、私が自殺した事は知っているかもしれない、けれど私の事を彼女達は知らない。その内、クラスの子にも忘れられるのだろう。昔の友達にも。付き合ってた彼にも。もしかしたら、親にも……。存在感が薄れていく。肌身をもって感じ始めた。
 そんな時、彼と再び目が合った。微笑んだ、彼の表情。
「もう少し話していい?」
 どうやら私は彼と話すというのが、唯一の存在を示すようだ。
「何で死んだの?」
「……気付いたらもう飛び下りてた。でも、死にたくて望んだのはホントの事。必要ないみたいなんだから、ワタシ」
「必要な人間なんているの?」
「いるでしょ……」
「でもそういう人達って自分から必要とされて、生きているんじゃないの」
「知った風な口、利かないで」
 どうしてだろう、私の方が年上のはずなのに、見透かされたような、そんな感じがしてならない。さっきから眼を合わせようとしないのは、そのためだった。普通の会話のように彼と話している。なのに周囲の人は気にもしていない様子。以前、私が携帯電話で話しているだけで、怪訝な表情を浮かべていたのに。大きな声で笑ったり、座席を占領して寝そべったり。嬉しい反面、……いやもう寂しいだけだ。憎まれ口をたたく彼に、文句を言ったり、無視をしたり。それでも私はそこから一歩も動けない。

 あれから一週間。今日も私はいつもの定席に落ち着き、揺れる吊り革を眺めている。車内は私と向かいの席に座る彼だけとなった。丁度、一周回った時。駅のホームが見えた頃。けたたましいブレーキ音が窓の外に響いた。急停止、のようだ。それにしても駅で?
 そして、数秒して小さな衝撃がこの車両まで伝わってきた。
「……? なにか撥ねた……」
 直観的にそう思った。
 彼は窓の外を眺める。
 アナウンスが入る。
 人身事故のようだ。
「また自殺かな? それとも事故か……」
 そしてドアが開いた。乗車していた人々が次々に降りていく、一様に不快な溜め息を付いて。そうワタシの時と同じように。全員が降りた車内、閑散として寂しい。駅員が車内を確認に回る。当然、私たちには気付かない。ドアが閉まる。
 そんな時、足早に入ってきた少女が一人。運良く中に入る事ができ、向かいのドアの前に駆け寄り手摺に掴まると、一息。そしてドアは閉じられた。
 疑問に感じた。だが理解はすぐだった。彼女の頬に伝うのは涙。そしてYシャツに着いたその赤いシミは、ずっと取れないんだ。私のもそうだから。
 取り返しはつかない。
「どちらにしても、電車が遅れるようだ……」

ケンタの墓
香山かちた

 ウサギのケンタが自殺した。
よく、ウサギは淋しいと死んじゃうってパパが言ってたけれど、ぼく的には、ちゃんと世話したつもりだった。朝起きて、いつものオリにケンタがいなくて、そこら中を探しまわったあとに、ようやくベランダの下に落ちてるケンタを見つけた。
 すぐに外にでて、じっと観察したけれど、ケンタの毛皮はとっても白くてふさふさで、血も出ていない。鼻を寄せればいつものケンタのニオイがしたし、抱き上げればやっぱり温かくって、死体が冷たいっていうのは、やっぱりテレビのついたウソだったのかな?

 ケンタをひざにかかえてしゃがんでいたら、パパの手がボクの肩のっかった。
「ケンタを土にかえしてやろう」と言うパパの背中について、ボクは裏庭に行った。
 お墓をつくってそこにケンタを埋めるんだよとパパが言うので、ボクはスコップで小さなケンタのお墓を掘った。
 その時ピンと来たボクは、「これってマイソウでしょう?」と言ってみた。
 パパはいつもよりも細くてやさしい眼で、そうだよと笑ってくれた。

 その夜、パパとママはいつもより大きな声でケンカした。
 ボクはらくがき帳にケンタのお墓の絵を描くのをやめて、そっと下の階へと冒険に出た。
 ボクは、リビングの入口の陰から中をのぞいた。
 今夜のケンカはどこかいつもと違って、チュウガクジュケンとか、カテイサービスとかの単語は聞こえてこなくて代わりにウワキだの、フリンだのオンナだのの言葉がいっぱい飛び交っていた。
――ピシャッ!。
 何かが裂けるような音がして、パパの手がママのほっぺに飛んだ。
 ママは一瞬ピタリと固まってから、デメキンみたいにでっぱった眼で、そこらじゅうのものをパパに向かって投げつけはじめた。
――ナニヨアナタガワルインジャナイワルイノハアナタノホウジャナイ!
 そう叫ぶママの顔は、少しもキレイじゃない。
 ボクをリモコンでなぐるときのあの顔と、まるきりおんなじだ。怒ったママはすごくしわくちゃで、みにくくて、ブサイクだった。
 その時、ママの投げた灰皿が、パパのおでこの辺りに命中した。ゴツとすごく痛そうな音がした。
 ボクは、ゾクっと震えた。
 なぜならば、その瞬間にパパの顔が、青ざめたお面みたいに無表情に変化したから。
 鈍なママはそれには少しも気づかず、今度はビールのビンをパパに向かって投げつけたけれど、今度パパには当たらず床でガシャンと派手な音をたてて割れてしまった。パパはその破片の中から一番大きいのを選ぶと、ゆっくりとママの方に近寄った。ママは突然ガタガタと震え、後ずさりをはじめた。
 ママは転んだ。カッコワルかった。
 パパとママの距離がどんどんちぢんで、欠片をにぎったパパの手がすばやくママに降り下ろされた。
 ボクのおでこに生ぬるい何かが飛んできた。
おでこを拭うと手の甲がべっとりと赤くなった。飛んだ、ママの血だった。
 ママを見た。ママの首から上はだらりとしていて、ママはひとつも動かなかった。
 ボクはパパを見た。パパはしばらくボクには気づかないでいたのだけれど、「パパ」と声をかけると、スーパーの魚の眼をしてボクを見た。パパの顔右半分は、ママの血でキラキラぬれて、赤かった。
「パパ、ママは、ケンタとおんなじだよね?」と、ボクが言うと、
「え?」
 と、パパはふと我に返って、首をかしげた。
「自殺だよ。ママだって、きっと淋しかったんだよ。そうでしょう? パパ?」
 パパは眼を見開いて、驚いたように青い顔でぼんやりとボクを見た。
パパはその場にうずくまり、じっと長いこと黙りこんでいたけれど、やがて今度はボクの目を見て、
「ケンイチ、おまえ、中学校は公立に行きたいか?」
 ときいてきた。
「気がはやいよ、パパ。ボクまだ小学2年生だよ?」
 とボクが答えると、パパはすっごく嬉しそうな顔をして、
「そうだったよな。受験なんて考える歳じゃないよな」
 とほころんで、そう言った。
 そのパパの顔があんまり嬉しそうだったので、ボクは、コウリツチュウガッコーコウリツチュウガッコーと適当なメロディーで歌いながら、大きくパパにうなずいた。
 パパは、ママの名前でソウサクネガイを出そうと言った。それから物置にむかうパパの後についてボクも外に出た。
 今日、二度目のマイソウだった。

 それからあっという間に三ヶ月がすぎて、夏がきた。
そしてその季節と一緒に、“新しいママ”だという、すごくキレイな女の人も家にやってきた。ボクは今度の“新しいママ”が、前のママみたいにボクをこっぴどくはたいたり、押し入れに閉じ込めたりしなければいいなぁと思ってパパに言ったら、なんでか頭をポンと小づかれた。
 その三日後、ボクは新しいウサギを買って、それに“ケンタ”と名づけた。ふさふさの白い毛皮がボクのお気に入りだった。
ケンタの墓 香山かちた

アロマテラピー
とし

その奇病は、突然、僕の体に発病した。
最初に気付いたのは、母親だった。
「おまえの部屋、最近いい匂いがするわね。香水でも買ったの」と尋ねたのがその始まり。
僕もその匂いには気付いていたが、母親が掃除のときに何かしているんだろうと思っていたのだ。
そのうちに、僕の行くところ、そこここにいい匂いが香るようになった。
自分の部屋、キッチン、リビング、トイレ、そして家中。
その頃から、酒癖の悪かった親父が酒を控え、やけに優しくなってきたようだった。
母親も、自分の気ままな感情だけで怒ることがなくなり、穏やかになった。
僕も両親の気持ちを考えるようになり、少しは大人になったようだった。
家中にいい香りが漂うようになってから、家庭内でのもめごとがなくなった。
数日が過ぎて、その香りは教室にも漂うようになった。
それがきっかけか、クラスの問題児といわれる連中が、ぐんと優しくおとなしくなった。
授業中に出ていく生徒も、平気で携帯電話をかける生徒もいなくなった。
教師は久しぶりのやる気に目覚め、生徒とのコミュニケーションに励み始めた。
廊下を歩く僕と擦れ違う誰もが振り返り、穏やかな顔を向けた。
まるで、僕の体から発散される香りに心から癒されたように。
「僕の体から発散される香りに心から癒されたように?」僕は考えた。
そう言えば、近所のおばちゃんも挨拶したときにそんな顔をしてたっけ。
いつもうるさく吠える犬も、最近はやけに馴れ馴れしく尻尾を振っていたような。
それから数日。その香りは学校中に漂うようになった。
学校の雰囲気は、見違えるように変化した。
「これって僕の、発散してるかもしれない体臭のせいなのか」
僕は一抹の不安と疑問を胸に、医者であり科学者であり世捨て人であり変人であるおじさんを訪ねた。
「ひょっとして、体臭拡散症かもしれないな」おじは言った。
「それって何」と僕。
おじの話によれば、「体臭拡散症」というのは幻の病気で、その症状は体臭がとめどもなく広がり、やがては世界を包みこんでしまうというものだった。
なぜ広がるのか、香りの菌が長い時間をかけて蔓延するのか、その理由は定かではないということだ。なにせ、研究するにも症例がなさすぎて研究できないらしい。
ただ、おじは近代ではあのヒトラーがその病にかかっていたらしいと考えているらしい。ただし、彼の香りは世界へ広まる前に死んでしまったので世界崩壊が防げたという。
「おまえの発散する香りは、どうやら人の心を癒すものらしい。本人の命がどうこうという病気ではないから、ま、これからどうなるか一緒に楽しもうや」と言われた。
そしてまた数日。僕の香りは地域一帯に広まった。
と同時に、ゴミ出しの問題や違法駐車、犬の糞の処理など小さなもめごとから、役所のぶっきらぼうな対応や私利私欲にまみれた議会など大きな問題まで一切がなくなった。
夜に密かにゴミをだしていた奥さんは泣いて詫び、汚職をしていた議員は自ら告白し職を辞した。
それから数年。香りは日本全国に広がり、政治家の悪だくみも不良債権処理も構造改革もすんなりと進み、責任者はすべて自分の罪を告白し、許しを請うことなく社会的制裁を受けた。そのあまりのいさぎよさに国民の拍手を誘ったものだった。
ムーディーズの日本の格付けが上昇した。
やがて、僕の香りは世界に蔓延し、地球を包みこむまでになった。
おじさんの予想が当たったのだ。
世界からあらゆる紛争が消え、宗教問題も領土問題も経済問題もテロもなにもかもがなくなってしまった。
世界の人々は、僕の体臭によるアロマテラピー効果により、すっかりと穏やかになってしまったようだ。
ただ、世界がこんなに平和になったしまったことを、世界の人々は誰一人としてたった一人の日本人の普通の男の子の仕業だとは思ってもみないだろう。
僕はといえば、おじさんが変人であったおかげ(そんな特異な奇病の持ち主であることを誰にも言わなかったので)で、普通の学生生活を送れたというわけである。
そんなある日、僕はほろ酔い気分でキッチンでもう一杯水割をつくるために1階へ降りようと階段に足を掛けた。右手にグラス、左手につまみをいれるための器を持って。
足を踏み外した。
最上段から下まで落ちた僕は、あっけなく命を落としてしまった。
深夜の大きな物音に驚いた家族は、頭から血を流す僕を見て死を知った。
世界の人々は、いきなり消えた香りにその理由さえわからなかった。
おじさんだけが、突然に消えた香りによって僕の死を知った。
お葬式の日。
親類と話すのが苦手なおじさんが、一人で煙草を吸っている。
懐かしい香りを思い出すように、僕が消えていった空を眺めながら
「これから世界は大変なことになるな」とつぶやいた。
アロマテラピー とし

アザ
蒼井 空

いつもと変わらない朝だった。2度目のアラームで何とか起き上がり、重い足を引きずる様にして洗面所へ向かう。生ぬるい水で汗ばんだ顔を洗う。丁寧に洗っていると腰がだるくなってきて、体を起こし鏡を覗いた。
「なに、これ。」
眉間のちょうど真ん中に小豆くらいの大きさのアザの様な物ができている。不思議なのはそのアザの色だ。青みがかった美しい紫色、淡く光っているようにすら見える。綺麗だが少し気味が悪い。化粧でごまかせるだろうか。ふと、時計に目をやって慌てて身支度にとりかかった。

通勤電車の中では誰にも見られなかった。とは言っても、満員電車だったから至近距離の人の顔なんてお互い見たりはしないものだ。
「おはよう、京ちゃん。」
後ろから馴染みのある声が聞こえた。
「咲~、おはよう。今日は早いんだね。」
「うん。どうしたの、そんな顔して。何かあったの?」
「大した事じゃないのよ。眉間にシミみたいなのができちゃって。」
「どれ、どこどこ?この小さなほくろの事?前からあったよ。」
「え、ちがうよ。眉間の真ん中。」
「えぇ?何もないよ。気にしすぎじゃない?」
彼女の大きな目は、見当らないものを探す為により大きく開いている。消えたのだろうか。それとも寝ぼけていたのだろうか。会社に着き、一度席に着いたものの、やはり気になる。
パソコンをオンにする。立ち上がるまでにトイレの鏡で見てみる事にした。
それはくっきりと眉間にあった。あの美しい不思議な色のままに濃くなっている。これが見えない訳がない。一日中気になって、社内の人間の視線に注意してみたが、誰一人気にする様子もない。本当に見えていないのだ。一体、私はどうなってしまったのだろう。

「この間の、あのメーカーさんの話どうなったんだっけ?」
彼は他社を定年退職後、採用された人で平社員なのに重役口調が抜けない人だった。いつもよれよれで汗臭いブレザーを着て来社するので、女性社員の間でネタされる事も多かった。自分の用件があれば、誰がどんな状況でもおかまいなしで、指示語ばかり使って依頼する。しかも、今日ももう退社時間を過ぎている。残業手当だってでないのに、と私は心の中でこぼした。
「あ、金田さん。あの件は価格と若干の条件変更を依頼して、再度検討して頂く事になったじゃないですか。明日いらっしゃいますよ。大丈夫ですか?」
考え事が沢山あって、少し私は苛立っていた。彼は首を軽く、うんうんと言うように肯き、思いついたように言った。
「きみ、何どしだっけ?」
「干支ですか?寅ですけど。」
「うちの嫁さんも寅なんだよ。寅は気が強くて苦手だねぇ、ぼくは。」
「そんな事おっしゃってたら、金田さんいつか熟年離婚されちゃいますよ。」
「ほら、やはり気が強いねぇ。」
ははは、と彼は笑いながら去って行った。私とあまりに歳が離れていて、本当に祖父の様で甘えもあり、彼には口調がきつくなる。今日は特にこの不思議なアザのせいで、常に興奮と苛立ちが入り交じったような感情もあった。

帰り道、何気なく歩道の街路樹の根元に目を落とした。そこにもそれはあった。不思議な色。それは見慣れたはずの雑草の花だった。花の中心部に濃く、そして外へ向かって淡くグラデーションになっていた。あ、私の目だ。私の目がおかしくなったのだ。
「そうだ、今日金田さんにまたひどい事言ってたね。駄目だよ、あんまり苛めちゃ。」
隣りを歩いていた咲が言った。
「え?」
私はいつもと変わりのない世界に引き戻された。
「金田さん、離婚するかもしれないらしいよ。奥さんが出ていってしまって、別居中なんだって。」
「そうなの?」
「そうだよ。でも、金田さんは離婚したくないみたいよ。まだ大学生の娘さんもいるんだってさ。遅くにできた娘さんだから可愛くて仕方がないんだって。今は奥さんの方に行っちゃってるらしいし。」
「嘘、そうなんだぁ。ちょっと言い過ぎたかな。」

同僚と別れて電車に乗った。電車が次の駅に停まる為にスピードを徐々に落とした。景色の流れが緩やかになる。
「あ!」
思わず声をあげた。私は慌てて電車の扉へ向かった。
「すみません、降ります。」
急いで改札を抜け、さっき見えた場所の方角へ知らない道を走った。
「やっぱり。」
小さな工場の倉庫か何かの様だった。昔は白かっただろうその壁にあの美しい不思議な色があったのだ。あの不思議な色で大きな文字が書かれている。
“この文字が見える人がいたらここに来てください。”
日付も入っていた。昭和30年4月4日、更に上に×印で訂正し、5月5日、6月6日、7月7日、一番新しいと思われたのは昭和33年9月9日の日付だった。私はかなりがっかりした。

「これは私が書いたんですよ。」
驚いて振り返ると上品な70歳位の男性が笑顔で立っていた。私は聞きたい事がありすぎて、何から言えばいいのか分からなくなった。
「最近ですか、見えるようになったのは。」
「はい、今朝です。」
「そうですか。驚いたでしょう。でも、何も変わりませんよ。その色が増えるだけです。それから、目に見える物の不確かさを学ぶだけですよ。」
「はぁ、不確かさですか。」
「蝶だって、犬だって、人間とは違った色が見えるんですよ。ご存知ですか。」
「あ、犬は知っています。」
「人だってどうか分からない。あなたの見ている景色の色と他人の色が同じだとは分からないでしょ。」
「色弱や色盲といった事ですか?」
男性は笑った。
「いや、違いますよ。例えば青という色、空や海の色と覚える。しかし、空や海の色を青と呼ぶ事に便宜上しただけで、その色自体が皆に同じ様に見えているとは分かりません。この色と同じというだけでは、その人自身の目に本当にどう映っているのかなんて分からないし、実際の色などはもっと分からない。人間の目を通した色が真実だとは言えんとは思いませんか。」
「そうかもしれません。」
「百聞は一見にしかずと言いますが、私は心をつかって感じる事は目で見る事以上に大切だと思うのです。私はこの色が見える様になってそれを学んだ。」
彼は続けた。
「亡くなった妻とはここで出会ったんですが、彼女はそんな事はとうの昔知っていた。初めてこの文字を偶然見掛けた時は、ここにさえ来てくれなかったですよ。何度も書き直されたこの日付を次に見た時に、驚いてここへ来てくれたのです。まだこの人は悩んでいるのだと。実はこの話は、初めて会った時に妻が私にしてくれたものなんですよ。」
恥ずかしそうに男性は言った。

次第に日が暮れてきていた。その色は夕暮れの中でも他の物よりは光って見えた。私はその男性に礼を述べ、もと来た道を帰った。電車の窓にうつる新しいアザを見ながら、私はいつも朝早く出社し、遅くに退社する金田さんの笑顔を思い出した。そして、すっかり夕闇につつまれた窓の外の街をぼんやりと眺めた。
アザ 蒼井 空

My rib hurts me
やす泰

 センター街を左に入った所で、オヤジを見つけた。
「あ、やべー」
 わたしはあわててキョーコとヒトミの間に隠れた。オヤジは人を連れていた。みんなワイシャツ姿で上着を脱いでいるのに、オヤジだけはきちんと背広を着ていた。やたらとペコペコしてそのたびにハゲが見える。
「いこう…」
 こっちには気づかなかったと思う。そういえばオヤジが渋谷で飲んでいるって話は聞いたことがあった。いつ会っても不思議じゃなかった。そう思いながら、わたしはロフトの方に曲がった。

「なによシンちゃん、また自分でやってるの」
 わたしは部屋中に漂うガンジャの臭いを嗅ぎながらいった。こんな甘いバニラみたいな臭いがしたら、マンションの人にすぐバレてしまう。
「ああ、スピードが切れちまってよぉ」
 わたしは少し安心した。スピードをやった時は必ずセックスをさせられる。いまはその気分ではなかった。
「はい、きのうまでの上がり渡すね。だけどやばいよ。マンゾーが捕まったんだってさ。イラン人たち急にいなくなってる」
「わかったよぉ。でも…マキもこれ、いっしょにやろうぜ」
 この日、シンちゃんは完全にイカレていた。

 シンちゃんのことは死ぬほど好きだった。話が面白くって聞いているだけでいい気分になれた。学校とかいやなことを全部忘れさせてくれた。両親がすっごいお金持ちだから、少しくらい悪いことしても捕まらないらしい。学校なんかとっくに退学したそうだ。こないだはオレのダチだよって超有名な映画女優の息子を連れてきた。本当にそうなのって聞いたら、はいそうですって本人がいうのだからまちがいない。結局、みんなでスピード吸ってセックスしたけど、わたしはシンちゃんにしかやらせなかった。
「わるかったなぁ、マキ。オレもあと少しでこんな生活やめて、まともな仕事すっからよぉ。絶対、絶対だからよぉ…」
 シンちゃんはガンジャでラリッた時、必ず同じことをいう。オーストラリアいってスキューバのインストラクターやる。その時はマキもいっしょだからなって。部屋にはなんとかリーフのポスターが貼ってあった。だけど親が金持ちなら、セコくガキに薬なんか売ってないで、さっさとオーストラリアに行けばいいのに。わたしだって自分の旅費ぐらい自分で稼ぐから。わたしはいつもそう思っていた。でも、なんとかリーフでシンちゃんと二人きりになれるなら、悪くないなと思う。

 朝、洗面所で歯を磨いていると、ドアが開いてオヤジが入ってきた。
「なによ」
 わたしがそういうと、オヤジはおおとかなんとかいって出ていった。
 内心、オヤジも気の毒だなと思う。アニキとわたしが小さかったころは、やたらと厳しい父親だった。電車に乗っても絶対に席に座らせてくれなかった。音を立ててスープを飲んだら、静かに飲めって怒鳴られた。ところがアニキが受験に失敗してその腹いせにタテつくようになってから、急に大人しくなって私にも何もいわなくなってしまった。あとは毎朝会社に行く時と、たまに休みに顔を合わせるだけ。何年か前に転職したら、だいぶ痩せてオジンくさくなった。諦めて半分だけ残った養毛剤がヘアトニックといっしょに棚の上に置いてあった。
 
 学校が終わっていつものように電車の中で化粧を済ませると、わたしはシンちゃんのところへ行った。シンちゃんはやたらと元気だった。
「きょうは、ちがうやつをやったんだ。これでよぉ」 
 シンちゃんは注射を打つまねをした。
「そしたら効くんだよなぁ、これが。見ろよぉ、ビンビンだぜ」
 いきなりパンツを脱がされて後ろから入ってきた。わたしはちっともよくないのに、シンちゃんは何度もそれをくり返した。痛いだけのセックスだった。

「きょうは街に出るぜ」 
 シンちゃんはどこか様子がおかしかった。服を着て帽子を被るまではよかったけど、玄関で靴の紐を結ぼうとしたらうまく結べなかった。どうしたのと聞いたら、ウルセェと怒鳴られてしまった。目が怖いくらいに光っている。腰の後ろに特殊警棒をつけた。丸い頭のついた伸び縮みするやつで、アメリカの警察が使っているという。シンちゃんは私のことを振り向きもしないで、暗くなりかけた道玄坂を下っていった。

 大きなベンツが止まって、人が降りるところだった。窓ガラスが全部黒塗りになっている。シンちゃんは構わずそこを通り抜けようとした。
「シンちゃん、待って。この人たち…」
 止めようとしたが、間に合わなかった。
「おっと。なんだてめぇは」
 ヤクザの一人がシンちゃんの前に立ちふさがった。
「そっちこそなんだ」
 シンちゃんが負けずに裏返ったような声でいい返すと、ばらばらと車から人が降りてきた。
「なんだ。こいつ、飛んじまってるぜ」
 中の一人がいった。
「なにおぅ」
 シンちゃんは目の前の一人に組み付いた。
「おもしれぇ…」
 一方的なケンカだった。シンちゃんは自慢の警棒を抜く暇もなく、あっという間にボコボコにされてしまった。
「ちょっと事務所まで顔貸してもらおうか。そこの可愛い子ちゃんもいっしょに来て欲しいな」
 顔中血だらけのシンちゃんを二人が引っ立てて、もう一人がわたしにいった。
「やめて…」
 わたしは近づく男から逃れようと後ろに下がった。のどが締めつけられたようになって声がでない。
 その時、黒い影が飛び出してきた。影は背広の裾をひるがえし、身を投げ出すようにして地面に屈みこむと、ヤクザに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。許して下さい」
 声で、それはオヤジだとわかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 わたしが聞いたこともない大きな声だった。ヤクザが動揺するのがわかった。そのうちに人が集まり始めた。
「ケッ…」 
 ヤクザはシンちゃんを放り出して、車に乗って去っていった。オヤジは膝をついたまま、わたしに向かって微笑んだ。初めて見るオヤジの嬉しそうな顔だった。

「この野郎ぉ」
 驚いて顔を上げると、シンちゃんが立っていた。手には特殊警棒が握られている。
「シンちゃん、待って…」
 警棒は打ち下ろされていた。眼鏡がふっ飛び、頭をかばってうつぶせになったオヤジの脇を、シンちゃんの軍用靴が何度も襲う。肋骨の折れるいやな音がした。止めようがなかった。シンちゃんは完全にコワレていた。
「マキ、来い。バカにしやがって」
 怖い顔がこっちを見た。
 するとオヤジはいきなり立ちあがってシンちゃんに抱きついた。二人は倒れてみっともなく地面をごろごろと転がった。だめよ、オヤジにケンカなんかできるはずない。私はそう思った。だけどオヤジはしがみついたまま、警察が来てもまだ手を離そうとしなかった。

「麻紀子、よかった。よかったな…」
 サイレンの音がした。オヤジにはまだ意識があった。
「あたしを尾行したの」
 オヤジは頷いた。
「麻紀子、よかったな…」
 オヤジはくり返した。オヤジの口からは、ぜろぜろといういやな音が聞こえた。

「オヤジ、バカだよ…」
 救急車の中に縛り付けられ、オヤジは透明な酸素マスクをしている。眼鏡がないので知らない人のように見える。
「お嬢さん、もうすぐだからね」
 白衣を着た救急車の人が振り向いていった。とたんにオヤジはぶっと音を立てて血を吐き出す。
「山本さん、山本さん、聞こえますか」
 救急車の人は急いでマスクを外すと、オヤジの頬を叩きながら話しかけた。
「オヤジ、バカだよ。バカだよ…ホントに…」
My rib hurts me やす泰

忘れ者

橋の下のガレキに横たわると、子供の頃に何度も見た祖父の顔が浮かんだ・・
祖父はよく、私が子供の頃(人は忘れて行く生き物だ・・)と口癖のように言っていた。
162歳の彼は少し痴呆の気があり、多少は自覚があるのかと子供ながらに何となく気を使って同じ話を何度も頷いて聞いていた。
最近では、未来にも過去にも自由に行ける。ただひとつのルールさえ守れば・・
ルールとは、行き来できるのは自分が生きている期間だけだということ。生まれる前や死んだ後の時代には行くことは出来ない。
もし、間違えて行ってしまったら、その時点で死亡するように出来ている。これは、2435年以来施行されている法律で、モラルのない現代だがこれだけは厳重に守られてきている・・過去へ行く場合は簡単。
自分の生年月日より前に行かなければ問題なしだ。好きに過去へいって初恋の彼女を見たり、アルバムを見る感覚で出かけていく。
問題は未来だ。
何時自分が死ぬ事になっているかはほとんどの人が知らない・・中には偶然自分が死ぬシーンを目撃して帰って来た人がいるらしいが噂でしかない。仮に一年後に偶然行けたとして、未来一年間は自由に行き来できる事になるが半年後に死ぬ事になっていたら、当然その時点で死ぬことになる。
だが安全に、未来へ行くことが出来るチャンスが巡ってきた。知人が死ぬのを覚悟で100年後へ行った時、偶然街で私を見かけたと言うのだ。私は132歳までは生きていることが証明された。
100年後私はどんな身なりで町並みは変わっているのか好奇心に刈られた。不景気のせいだけではないがろくな生活も出来ない私が後100年生きるなんて、これから先にどんなことがあるのか?
住居がある人はほんの一握りの人間で対外の人は地下の街で道や公園ですさんだ生活している。仕事は月に一、二度あるかという感じで内容も犯罪に近い・・
実は私は住居があるのだが、随分前にそこを飛び出してこの生活を続けている。
100年先の未来に興味はあるが、未来へ行くには過去と違いお金がかかる。
住居を持つ金持ちが安全を確認した上で行くか、知人の様に危ない仕事の依頼で行くかの2択しか未来への道はない。
・・・そして、100年後の自分の話を聞いてからしばらくたった頃・・・
その話をしてくれた知人が依頼を持ちかけてきた。
あの後彼は、住居を持ち見事金持ちの仲間入りをしたのだった。今度は依頼する側の立場の人間。
私はあいかわらず食べる物もままならないすさんだ生活にうんざりしていた頃で、内容もろくに聞かずすぐに仕事の依頼を受けることにした。
依頼の内容は100年後に行って、老人を殺害することだった。詳細は知らされることなく勿論犯罪だが、すでになりふりかまっていられない今の生活状況がそれを拒否できなかった・・
知人が私を見かけてから、大分月日は経っている、いけるかどうかも解からないが、依頼を実行することに決め未来へ向かった。
気持ちではいけなくても別にいいと思っていた。少し長生きすることにこだわり過ぎている気がしていたし、自分のルールをついに生活の苦しさを言い分けにして、破る自分が情けなく思えて仕方なかったからだ。
気持ちとは裏腹に無事に100年後に着き廻りを見渡すと、別段現代と変わった様子もなかった。本当に未来なのかと疑う程見たことのある風景ばかりだった。
ひとまず、写真の老人を探さなくてはいけない・・
費用は莫大な金額を用意して貰っている、結果さえ達成すれば費用については何も文句はいわないとのことだ。気にせず高級ホテルや車を用意した。
調査を開始して1ヶ月、こんな生活をこのまま続けられたらいいと感じはじめた頃だった、ついに写真の老人を確認した。
次のスッテップは彼を殺害することだと頭に浮かんだ瞬間、迷いが生じた・・
今さら心に正義があるというのか、今まで経験のない贅沢な生活が正常な感情を取り戻したのか、迷っていることに違いはなかった。
何日も老人を観察し続けた。生活のサイクルや癖、よく通る道、好きな食べ物・・・観察するうちに共感すら覚えた。
私も本当の金持ちなら、こんなライフスタイルを選びたい。少し老人が好きになる自分と現代に帰った時のもとの生活を天秤にかけながら、しばらく老人と時を共有した。迷いながらも天秤は現代の生活に針を傾けるしかなかった。強盗やビルの破壊、殺人以外はほとんどの依頼を受けてきた。いまさら、ためらうことは不自然ともいえる。心は決まり、ホテルの近くの店で銀製の長い刀を買った。他に依頼遂行の手段はたくさんあったはずだが、何故か頭には銀製の刀しか浮かばなかった。
その刀は初めて見る筈なのに何故か見覚えのある感じで、しっくり手になじんだ。<
決行の日・・・
冷たい雨の中、気づかれないように間隔を開けながら尾行する私は確実に震えていた。今さらだが、殺す理由が知りたい・・優しそうな紳士でトラブルとは無縁に見える。
老人は散歩のように、2,3軒よく立ち寄る店を廻りその後街を抜け、いつも通るお決まりの帰宅コースで私も見慣れた長い橋に差し掛かった。そこで私はためらいを払いのけるように、一挙に距離を縮め老人の丸く小さな背中を用意していた刀で貫いた・・・鈍い音が耳に残った。(人は忘れて行く生き物・・)祖父の言葉の響きと似た音だった。
気づくと自分の背中から胸へと銀の刀が貫かれ、血が噴出していた・・
痛みと鈍い音が私の遠い記憶を呼び覚ました。
私の現在は今で、私は過去へ戻った所から忘れたまま生活し続けてここに戻ることを忘れていたんだ・・
本当の自分は老人で、刺した私は過去へ戻った私が作り出した自分で・・
正気を取り戻した私はすでに老人になっていた。過去へ戻る前と違うのは多分、体に刀が刺さっている事だけだろう。そう、死を恐れて刀が体を貫いた瞬間、私は過去へ逃げてきたのだろう。おそらく何度も・・
衰弱した体をひきずり橋の下へ行きガレキに横たわり薄れ行く意識の中、祖父の繰り返される口癖を思い出していた・・人は忘れ行く生き物・・
あれは私の口癖だ。私は結果的には誰も殺さずに済んだ・・もう戻るのはやめることにした。私は薄笑いで自分らしさを確認した後、今度こそは死を受け入れ体が朽ち果てるのを静かに待つことにした・・

旅人よ、慈悲あらば能う限りの呪詛と祝福を
Ame

 運命が三センチばかり横にずれる夜があるとしたら、それは「僕はグ-ルだけれど構いませんか」という涼やかな声で始まる夜以外には考えられない。
 雨が降っていた。低い気温の闇と水でできている様な人里離れた暗い旧道に、馬鹿でかいトラックと青年が一人立ち尽くして居る。僕はその端正な姿をした細身の青年と目が合い、御辞儀をした。相手も返して助手席を指差す。そして件の台詞を言った訳だ。僕は了承する。「助かります」。乗り、トラックは道を走り出す。
 そして夜は始まった。
 彼のCDはポーリュシカ・ポーレを繰り返し歌い続けていた。

 僕が誰も居ないこの道を歩き続けていたのは自殺したかった為だが、彼がトラックの運転手、しかもグ-ルをして居る理由は分からなかった。僕と多分同い年位のうら若い横顔、多少雨に濡れても崩れないきちっとアイロンを掛けられた白いシャツ、育ちの良さそうな物腰。真面目だけれど世間知らずな学生と言った風体の彼は、いかにもこの状況に不似合いだった。
「どうしてグ-ルなんかしているんですか」
 訊ねたのは、多分長い間の道行きと物思いとで多少頭がどうにかしていた所為だと思う。
「はい」
「だからグール」
「…」
「僕はもう直自殺するんです」
 我乍ら悪趣味な話の運び方だと思うが、何しろ僕は苛立ってすら居た。何をどんな根拠でそう思ったのか最早謎だが死のうとする人間には敬意を表してしかるべきだとかなんとか、自分で言うには如何にも説得力の薄い理屈をぐるぐるこね回していた様な気がする。
「だからどんな人が僕の屍骸を運んでくれるか知りたくて」
 彼はちらっとこちらを見た。そして急にトラックを止めたから、僕の背骨には重力が掛かって一瞬息が出来なかった。僕がそれに文句を言うより早く彼はぽつりと投げ出す様に呟いた。
「これは自殺者用運搬車両ではありません」
「え?」
「これは空気感染する伝染病による死亡者一人だけを運んで居る車両で、屍骸は菌が漏れるのを防ぐ為何重にも厳重なガードが為されているんです」
 窓硝子を雨と沈黙が叩いて居た。車内の蛍光灯が軋む様に明滅し、僕は恐怖とは違う感情で少しばかり黙る事にした。

 「グ-ル」というのはどうも趣味の良く無い通称だ。しかし「死体運搬車両」という些か素っ気無い本名とは懸け離れた実体をこの車両は持って居るのだから仕方ない気もする。つまり周知の通り、グ-ルとは、死体を解剖の為設備の整った病院に運ぶ為の輸送車両及びその運転手につけられた俗称なのだが、その死体と言うのは変死体に限られている訳である。

 「飲みますか?」
 物思いは彼の声で中断した。いつの間にかトラックは道の傍に止まっている。水をたたえた様な静かな目をこちらに向けて、運転席の彼は紙パックのジュースを僕に差し出した。
「いえ、いいです」
「死ぬから?」
 僕は吃驚して彼を見た。何となく、そんな風に無遠慮に誰かの領域をおかす様な事を言わない男だと漠然と思っていたのだ。そんな僕を見て、彼は少し笑った。
「死ぬにしたって体にオレンジが入って居てもいいでしょう。あなたはどんな宗教を信じておいでなのか知りませんが、キリストもブッダも、そんな事くらいじゃきっと怒りませんよ」
「無宗教です」
「じゃあ尚更構わない訳だ」
 おかしな理屈だと思ったが納得してしまった僕も僕だ。口をつけた僕を見てからトラックはまた走り出した。細い腕の割には筋肉はきっちりついているらしいハンドルさばきだと何となく思った。
 夜は終わる気配を見せず雨も同様だった。劣化したアスファルトの上を水の跳ねる音がし、灯一つない道をトラックは走り続ける。
「告白しましょうか」
 窓硝子に額をつけていると、彼はぽつんと言った。僕はそのままの姿勢で答える。
「何をです」
「あなたが知りたがった事を」
 僕は身を起こして彼を見る。彼は乱反射するフロントガラスに少し目を眇め乍ら真直ぐな背骨をしてハンドルに向き合っている。
 僕が躊躇ったのは、もう少し早く会えていれば友達になれたかも知れないな、なぞと考えて居た所為だと思う。友人と言うのは思いやりの対象であればこそ好奇心のそれではない。けれど僕らはもう友人にはなれなかった。ここらで、それをはっきりさせておいた方が気が楽だと言う気も同時にした。
 頷いた僕を彼は横目で見た。
 「大した話じゃありません、短い、妄想みたいな話ですよ。
  
 僕はお察しの通りほんの一年前迄学生でした。そうでなくなったのは父の会社が倒産したからです。それで僕の家族はばらばらになってしまった。父も母も妹すらも、僕の視界から行方をくらましました。
 僕は彼等を探そうと思いました。けれど、大学を止めてなりふり構わず探し始めた僕に叩き付けられた幾つもの手がかりは、彼等が死んだ事を如実に示していたんです。でも僕は探すのを止める事を出来なかった。いつか後ろに家族を積めるかも知れないと思い、資格をとってグ-ルになったんです。
 馬鹿な話です。
 だけど僕は夢を見ます。空気感染する致死のウイルスを積んだトラックをいつか、都市の真ん中で開けてみたい。そして皆に復讐したい。父や母や妹が破滅し死に行くのを黙って見過ごし、自分達の平和な日常の糧とする、そんな『善良な』人たちに僕達の見た哀しみを見せてやりたい。
 知っています。馬鹿な上に八つ当たりも甚だしい妄想です。けれどこれは僕の背骨で、僕が生きて行く只一つの理由なんです。
 そして大概のグ-ル達は僕と同じ様な欲求を持って、この仕事をしているんですよ。僕達は確かに、屍骸だけを希望とし、骸を喰って生き延びるに等しい屍鬼なんです」

 僕の村にグ-ルのトラックが突っ込んで来たのは半年前の深夜だった。横転して「厳重にガード」された筈のその屍骸は村の唯一の給水源である井戸に入った。但しその事実が知れたのは村の大概の人間がその水を使った朝御飯を食べた後だった。
 体内に潜伏する期間は人によって違うそのウイルスで、過疎化の進んだ村の大半を占めていた老人達は、僕の祖父母を含め、一月以内に死んでしまった。騒動を怖れた政府は事態を隠蔽した。そして偶々大学から帰省していた僕は只一人の生き残りとなり、隔離される事を怖れ、体内にあるいつ発病するかも知れないウイルスを怖れ、病院を抜け出して走り出した。
 そして彼に出会った。
 グ-ルを名乗る、静かな物語を持つ彼に出会ったのだ。

 「朝ですね」
 呟く彼に目を上げた。いつの間にか眠ってしまって居たらしい。外は雨が降り続け、朝にも関わらず薄暗かった。けれど朝は朝だ。
「ありがとうございました、ここで降ります」
 僕は紙パックを慎重に持ち、道に降りた。そして思い付いて顔を上げた。
「僕が今日死ななかったら、あなたがいつかするというその計画に入れて下さい」
 彼は訝しげに僕を見た。それから哀しそうな目をして頷いた。僕は笑って、ドアを閉める為に身を乗り出す彼を見ていた。
 トラックは灰色の世界を灰色に染まり乍ら走り出し、僕は踵を返して雨と霧の中に分け入った。

 運命の三センチ程ずれる夜がある。どちらにずれたのか僕には判然としない、つまり、僕は孤独から少しだけ脱して死ぬのか、より深まっただけなのか。けれど僕は夢を見る事が出来る。
 変死体の僕を使って、あの哀しい青年が都市を壊滅させる哀しい夢を、死ぬ間際迄見る事ができるのだ。
旅人よ、慈悲あらば能う限りの呪詛と祝福を Ame

親知ラズ
海坂他人

 珈琲を喫し終えると、勉強にもいい加減倦きたらしい洋は、コタツを這い出て部屋の隅の本棚の前に胡座をかいた。
 もうずいぶん前から、新しい書物を購っていないなと思う。
 元来、洋は本好きのはずだった。世の中の小説というものがつまらなくなったのか、自分が年をとったのか、多分その両方であろう。
 並んでいる書物には統一がないが、歴史ものが多い。中でも司馬遼太郎は随筆も含めてほとんど揃っているはずだ。
 文庫本や新書の群が、単行本の前の方に崩れ落ちそうにひしめいて、奥のメンバーはすっかり隠れている。いい加減に見当をつけて一山取り下ろしてみると、薄暗い中に『草原の記』の背が見え、その隣に何やら封筒らしきものが挟まれてある。

 二月十一日(月)
 しばらく「遺書」を放ったらかしにしていた。何となく気が向かず、いい工夫が思いつかなかったからである。
 以前にも何度か遺書を書く気になったことはあったが、決まって何を記すべきか判らなくなるのだった。
 死というものはまるで十円玉のように、いつの間にか私のポケットの中に紛れ込んでいた。ある日本当に取り出してみたらすっかり錆びついているかも知れないけれど、いざ使おうとすれば、この十円玉は一体どこから来たのだろうかと考えざるを得なくて、けれど遡っていくと本当の由来は何なのか、判らなくなってしまうのだった。
 それを何とか確かな形にしたくて書き始めた「遺書」だったはずなのだが、やはり父の視点からでは間遠すぎ、日記の文章ではナマすぎる事もある。
 それが今晩、風呂の中で名案を思いついた。エウレーカー、である。
 即ち何のことはない、エッセーを一つ書いて挿入してみようと思う。それを父に見つけてもらって、読んでもらう設定にすれば良い。場所はどこが自然で印象的だろうか……茶の間の本棚で良いだろう。父が好きな司馬さんの本の隣に。

(手の込んだ細工をする奴だな)
 広海が書き遺していた通りの場所に、それらしいものがすぐに見つかった事を、しかし洋は不思議にも思ってはいなかった。広海の手帳はポイントを記した宝の地図であり、それは更に大きな、自分には決して読むことのできない物語の中に織り込まれている。
 今はもう居ない息子に操られて、彼の仕掛けたゲームに付き合ってやる日が、一日くらいあってもいい。
 何の変もないクラフト紙の長封筒は、表書きも封もしてなく、四つに畳まれた何枚かの料紙の折り目を伸してみると、
――歯が生えた話である。
 プリンター打ち出しの文章は、こう書き出されていた。

 歯が生えた話である。
 大部分が恨みという元素から成る広海の、残りは更に大半が見栄で占められており、即ち、自分に左様な恨み・怨恨などという下等なる要素は含まれていないかのように思いたがる。
 そこで、この秋から冬にかけて歯が一本生えて来た話をまず書こうというのは、結局は恨み言に他ならない事柄を出来るだけ先に引き延ばそうとする無駄な抵抗なのである。
 そもそも歯というものは、いかなる時にいかなる要因によって人のアゴに生じて来るものか、考えてみるとよくは判らぬけれども、今回の広海の左下奥歯に限って云えば、継続的に与えられた咬筋の緊張が歯根への刺激として働き、歯を伸ばす誘因となったに相違ない。
 簡単に云えば二六時中歯を食いしばっていたせいで奥歯が生えてきたのだろうという事になるのだが、この説そのものの当否はさておいて、ここに於いてかいよいよ何がそんな力を与えたかを思い起こさねばならぬ順になる。
 広海のエピソード記憶は恨みという触媒によって定着するものであるらしく、十月十一日という日付と、冷たい雨が降っていた当日の気候までハッキリと刻み込まれている。
 この日の昼下がり、昼飯も食わずに傘を差して灰色の街をふらつく、やせ形中背の若い男が見られた。この男は未だ不良講師であるにもかかわらず、自負心はいっぱしの教員に劣るものでなく、しかし確かに、
「授業になってない」
などという科白は、仮にも一個の教師に対して投げつけられた時は恐らく戦争が起こるであろう。
(3000字から足が出そうなので以下略)

 驚いて二枚目以下を繰ると、重ねてあった紙の上からは文字が拭い去られたように消え、何も書いていない白紙になっていた。
 突然出て来た3000字という数字は何なのか、洋には見当がつきかねたが、とにかく何か先輩教師に剣突を食った話を書こうとしていたに違いない。
 未完の、戯文めかした調子の中に、しかし広海の口惜しさはいっそう痛々しく剥き出されているかのようであった。事件それ自体はごく些細なものなのであろう。しかしそのたびにこれほどの文章を書かずにいられなかったのでは、神経が保つまい。
 自分が勤めはじめた頃も、彼のような悔しさを味わう事があったのだろうか。どうも思い出せない。思い出はいつも浄化されると云うが、四十年の歳月は、勝手な波の浸食である。愉しかった出来事のみを、島のように残して行くようだ。
 それは空港関係施設の技術職という、洋の選んだ職場の特殊性によるのかも知れなかった。戦後「日本の空」が復興するのに伴って動き出した役所は、組織そのものがまだまだ若かった。同年代の同僚が多くを占め、先輩というものは殆ど居なかった。若ものの方が大手を振っていて、年寄りは大きな顔は出来なかった。
 この頃ではだいぶ地肌が透けて見えるようになったが、洋は昔から長髪を通している。肩まで届くほど伸ばしていた時もあった。大学にも行かなかったから、アングラやらフォークやら、そういう活動そのものとは全く縁がなかったが、長髪・ヒゲ・黒眼鏡の三点セットは当時の若者のトレード・マークであったのだ。
 実際の身分はすでに公務員で、時には所長なんかに嫌みを云われた事も、あったかも知れない。それでも大方、机を並べていた同僚に話して一緒に嗤って、次の瞬間には忘れてしまったのだろう。
 日本各地の施設を保守・管理する、仕事そのものは転勤も頻繁だったし、職場は兎・狸・狐・フクロウの出る山奥で夜勤が続いたりして、決して楽ではなかったのだろうが、つらいと思ったことは一ぺんもなかった。機械相手の仕事は、ネクタイを締めることも上司の顔色を測ることも無用である。仲間と自炊して、酒を飲んだり、川で釣りをしたり、時には夏の宵、窓から飛び込んできたカブト虫を捕まえて、相撲を取らせて遊んだりしながら、伸び伸びと働いていた。
 その合間には小説もよく読んだ。要するにあの頃は、洋たちも、そして日本という国そのものが、若わかしく弾んでいたのだ。
 広海の周りに、そういう、何の底意もなく打明け話が出来る「同期」は居たろうか? 職場での先輩の説教や剣突というものは、相手と自分のどちらが正しいかは問題ではない。自分に本当に役に立つことなら、自然に身についていく。
 講師として、あちこちの学校で陣借り浪人のように働かざるを得なかった広海には、最後までそんな存在は無かったようにおもう。それは彼の人づきあいの悪さにのみ帰せられるべき事だろうか? 洋の眼に、じっと一点を見つめて自分の机に凝固している広海の姿が見えて来た。それは親にはうかがい知れない、親の手は決して届かない姿であった。
親知ラズ 海坂他人

冬と机と角瓶と
羽那沖権八

 茶碗に、四角い瓶から琥珀色のウイスキーが注がれる。
「留年とは、豪気やなぁ」
 しみじみ呟いて、宇野道貴はストーブの火力を調整する。
「ま、気を落とさないで下さいよ」
 坂田芳信は箸でポテトチップを食べる。
「計画留年みたいなもんだから気にすんなよ」
 ウイスキーをぐっと飲み干し、谷崎順次は苦笑いを浮かべる。
「お前らこそ大変じゃねえか? 就職決まってねえんだろ?」
「オレは劇団続ける予定やから、就職もなんもな」
「坂田は?」
「僕は貯金が尽きるまでインドで放浪するんですよ」
「……おめーら、人生舐めてるだろ」
「分かるか?」
「分かります?」
 ポテトチップのカケラを、宇野はまとめて口に流し込む。
「定職に就いてねえと、イザって時に困るんじゃねえか」
「困るからイザって時なんやろ」
「詭弁家野郎だな――ん?」
 谷崎がウイスキーの瓶に手を伸ばしたが、もうすっかり空だった。
「切れ、ましたね」
「しゃあないなぁ」
「――えーと、まだ十二時半か」
 三人は当たり前の様に、各々の財布の中身をじゃらじゃらとテーブルの上に出す。
「まあ膳か角瓶なら買えるな」

「あちゃー、降っとるとは思うとったけど」
 路上には膝まで雪が積もっていた。
「これでこそ北海道の大学に来た甲斐があったってもんですよ」
「それにしたって、降り過ぎじゃねえか?」
 谷崎は足元――膝元の雪を掴み投げる。
 水気の少ない粉雪が、固まりもせずに舞い散った。
「どこに買いに行こか?」
「って、この時間酒売ってるとこなんて、ローソンかポイントショップぐらいしかねーだろ」
「あ、少し遠出をすれば、量販店ありますよ」
 一番先頭を歩く坂田が、雪の軋む音を立てて新雪に足跡を付ける。
「あったかそないな店?」
「どこの話、してる?」
「北の二十四条」
「却下だ却下!」
 ――それからしばらく歩いた谷崎は、いくつ目かの交差点に差し掛かった所で足を止めた。
「なんや?」
「どうしました?」
 谷崎はごみ捨て場に置いてある、雪に埋もれかけの机に駆け寄った。
「ああ、引越シーズンやしな」
 スチール製の事務机だった。
「お前の部屋机あらへんかったか?」
「何年見てんだ、ちゃぶ台しかねえよ」
「腐れた大学生ですねぇ」
 肩をすくめて坂田は首を横に振る。
「そーゆーお前ぇの部屋なんか、本棚もねえだろ」
「カラーボックスがあるじゃないですか」
「だからそれで足りるなよ――て、と」
 谷崎は机に手をかける。金属の重みに、僅かに持ち上げる事しかできない。
「何やってるんですか、水臭い」
「餞別代わりや、手伝うたる」
「お前ら……」
 じっと谷崎は二人の目を見た。
「餞別ぐらい金掛けたもんにしてくれよ」

「ち、ちょっと、ストップ、ストップ!」
 谷崎は手を降ろす。
 ずぶ。
 机の脚が、雪にめり込んだ。
「お、重いな」
 肩で息をしながら、宇野は机に寄り掛かる。
「引きずるのも無理ですしねー」
「言いつつ割と元気やな、坂田」
「九州男児ですから」
「――あー、冷てえ」
 谷崎は自分の両手の指をくわえて温める。
「も少し効率のいい方法ねえかな?」
「武藤先輩の車は?」
「そらダメや。武藤さん、実家に召喚されてはる」
「使えませんね、七年も大学にいるくせに」
「うーん、少しでも軽く……」
 机の引き出しを谷崎は外す。
「ま、気休めにはなるやろな」
「ですね」
 二つ目の引き出しを外した時、谷崎は手を止めた。
 引き出しの内側に、文字が書かれていた。
『東京でメジャーデビューしたら、また札幌に戻って豪邸建ててやる』
 誰にも見せられない場所に夢と決意を書くこと。あるいは滑稽かも知れない。
「――行きましょう」
「せやな」
「……なあ」
「なんです?」
「引き出し出しても、机の上に載せて運んでるんじゃ、同じじゃねえか?」

 また雪が降り始めた。
「受験で来た時も、雪が降ってたな」
 乾いた粉雪は、つるつるしたコートの表面で跳ね返って落ちて行く。
「そうでしたね。あの日は暖かくて、やけにでっかいボタ雪が」
「――なあ、お前ら、なしてここ来よう思うた?」
 思い出したように宇野が尋ねる。
「受験は、スキー旅行の口実だったんですけど、リラックスできたせいか受かってしまって」
「お前らしい不純な動機やな」
「そういう宇野君はどうなんですか?」
「オレは地元から離れとうてな。石投げれば知り合いにぶつかる有様やったし」
「知らない人にぶつかったら気まずいですからね」
「って、そーゆー話じゃねーだろ」
 雪が机の上にうっすら積もっていた。
「谷崎はどないや?」
「俺は」
 谷崎は空を見上げようとしたが、バランスが崩れそうなのでやめた。
「俺は、冬を見たかったから、かな」
 冷えた指を僅かに動かす。
 氷点を遥かに下回る身を切り裂く様な風が、雪を散らして吹き抜けていった。
「大学なんて人生の盲腸みたいなもんだが、この冬を見られただけで、充分価値があるって気がするな」
 谷崎が軽く頭を振ると、髪に積もっていた雪がさらさら落ちた。
「冬か……」
「実際、全くの別世界ですね」
 程なく、彼らはアパートに到着した。
「――んで」
 谷崎たちは、アパートを見上げる。
「どないしょ?」
 古い建築基準で建てられた三階建てのアパートに、エレベーターなどなかった。

 がりっ!
 机が金属の階段の支柱に削られる。
「重いー!」
「次の踊り場まで気張りや谷崎!」
 ぎ、ぎ、ぎりぎりぎり。
「ここを抜ければ!」
 幅の広い事務机は、階段を上手く通らない。
 がりがりがりががっ。
「ええい、鬱陶しいですね!」
 がぎっ!
 痺れを切らした坂田が、机を思い切り押し上げる。すると、机の端が欠けてつかえが取れた。
「昇りますよ!」
「どわわっ」
「うわああっ」
 谷崎と宇野は、坂田に押されるようにして階段を昇り切った。
『うるせーぞ、何時だと思ってんだ!』
 がりばきがばりきがり!!
 階段をもう一つ昇り、ようやく谷崎の部屋の前に到着した。
「あー、重かった。指の感覚ねえぞ、もう」
「これでドアを通らなかったなんてことになったら、泣くに泣けませんよね」
「ははは、まさかそないなこと――」
 笑いながら、谷崎はカギを外しドアを開ける。
 ぎっ、がっ、ががっ。
「ど、どうにか、なる、かな?」
「ほとんどぴったりやな」
「何とか通りそうですけど、こういう状況だと……」
 がっきいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
 机の端と、金属のドア枠のこすれ合う音が、辺りに響き渡った。
『止めろって言ってんべ!』
『殺すぞワレ!』
『我慢にも限界があるぞなもし!』
 他の部屋から怒鳴り声が聞こえる。
「ものぐさな野郎だな。部屋から出もしねぇ」
「どないする? 流石にこの時間にこの音はな」
「ですよね」
 通路にはみ出ている机は約八十センチ。通行の邪魔だが、妨げにはならない。
「よし」
 谷崎は机を乗り越え部屋に入る。そして、水道の水抜きをしたあと、通帳と印鑑とスペアキーをバッグに放り込んだ。
「昼までほっとこう」
「ええっ!?」
「無茶苦茶やな……」
 宇野は頭を掻いていたが、どんと自分の胸を叩いた。
「分かった。ほなら、うちで呑み直そ」
「こうなればとことん付き合いますよ」
「助かる」
 宇野と坂田が階段を降りて行く。
 と、谷崎はふと振り返り、机の引き出しを引っ張り出した。
『東京でメジャーデビューしたら、また札幌に戻って豪邸建ててやる』
「……あと一年、か」
 引き出しを戻し、谷崎は階段を駆け下りて行く。
 うっすら白み始めた空から、また雪が降り始めた。
冬と机と角瓶と 羽那沖権八

遠く耳の奥から
伊勢 湊

「あっ、もしもし」
 受付の女の人が出た。
「つかぬ事をお伺いしますが、そちらの局で夜の十一時からニュースやってるキャスターさんの名前はツクシですか、チクシですか」
「チクシです」
 僕は携帯電話を切った。
「あーあ、チクシだってよ」
「だから言ったろ」
 バイト先の雑誌の編集局で暇を持て余して仲間達とどうでもいい話題で盛り上がる。人生の執行猶予期間。大学時代のことを誰かがそう言っていた。そうかもしれない。一日の大半を過ごすこのバイト先で「バイトの学生は気楽でいいよな」と小さく漏らすネクタイの締めた多分ほんの少し年上の人達の声を聞きながら、それをただ受け入れて緩やかな時間を漂う。待ち受けている社会での生活への不安を見据えながら霞んで消えそうになった夢を語り日々を過ごす。
 お金も自分で稼げるようになった。大学を出てしまえばそれなりの学歴はついてくる。それにつまんないことでも緊張せずに電話で問い合わせができるようにもなった。良いとか悪いとかじゃなくてあの頃とは随分変わってしまった気がする。単純にそれが悲しい。問い合わせの電話ひとつするのも緊張で声が上手く出せなかったあの頃を思い出す。

「なんでそんなこと言うんだよ」
 初めて彼女ができたのは高校一年の夏だった。遅いほうだと思う。だけどそれだけ本気だった。あいては小さい頃から近くにすんでいた幼馴染みで年は三つ上だった。良くある話なのかもしれない。ただもし一つ違うとすれば、それは僕が彼女と本気で結婚する気でいたということだ。だから一年と半年後、僕が高校入学を決めたとき唐突に切り出された別れ話には納得いかなかった。
「東京へ行くの。就職が決まっていて。だから、もう会えない」
 愕然とした。ずっとこの街にいると思っていた。
「おじちゃんはどうすんだよ。それに純也は」
 彼女の家は僕が小学校の時から父親と弟との三人家族だった。四人家族だった最後の週末を僕は覚えている。僕は他の友達と一緒に遊びにいっていて彼女とおばちゃんがクッキーを作ってくれた。おばちゃんのはデパートにあるやつみたいに綺麗だったけど彼女のは卵の黄身が浮いていてみんなで笑った。何気ない楽しい日曜日だった。次の週におばちゃんが死んでしまわなければアルバムの中の一枚の暖かい一場面になっていただろう。癌が進行してもう手後れだったおばちゃんが家族と一緒に過ごしたいからと無理矢理退院していたのを知っていたのはおじちゃんだけだったらしい。葬式の日に中には入らずに庭の隅から僕が見たのは、まだ幼くて何が起きたのか分からず人の多さにはしゃぐ純也と、遠目にも分かるほど強く奥歯を噛んで俯き涙を流す彼女の姿だった。

 二人で並んで長細い商店街を歩いた。何度も笑いながら歩いた道。商店街を抜けると桜並木の続く川沿いの道に出る。
「だから、やっぱり行かなきゃ」
 彼女の言うことが分からなかった。何がだからなのか分からなかった。
 それが同情だとは自分でも思いたくはない。でも高校二年になるまで恋人を作らなかったのは彼女のことを守らなければならないと思っていたからだった。好きになったのが先なのか守らなければならないと思ったのが先なのかは分からない。
 僕が気持ちを伝えたのは夏祭りの夜だった。もしかしたらそれは彼女にとってはもう慣れていた小さな出来事だったのかもしれない。彼女や純也、それと何人かの友達と一緒に夏祭りに縁日の来ていた。ぼんぼりの灯りが柔らかく闇を照らす人込みを歩いていると彼女のクラスメートの男が歩いてきた。最初は何気ない会話を二人で交わしていただけだったけど、そのクラスメートの母親が現れて、帰るから早く来なさい、と言った次の瞬間空気が止まり光が写真のそれみたいに空間に焼き付いた。「たく、うるせえな。お前はうるさい母親がいなくていいよな」。僕は一回り体の大きいそいつに殴りかかっていた。僕たちを引き離す大人達の声や「やめて」と叫ぶ彼女の声が遠くから耳の奥に響いていた。
 どうやってそこから抜け出したかは忘れたけど、そのあと川の側で二人きり腰を下ろして星空を眺めた。言葉がなくて、僕はなんて言おうか考えていた。そのとき彼女が言った。「ありがとう」。その言葉に僕はなにか急に力が抜けて、そして気持ちを伝えた。中学生らしい言葉じゃなかったと思う。「好きです」でも「つきあって」でもない。「ずっと二人で一緒にいよう」。そう言った。

「もう決めたことなの」
 彼女は俯いたまま言う。僕には言うべき言葉が残っていた。それが不似合いだとは分かっていたけど。
「結婚しよう。ずっと一緒にいよう」
 彼女は微笑んだ。でもそれは悲し気な微笑みで僕には彼女の答が分かった。
「やっぱりね。言うと思った…さよなら」
 そこは商店街の端でレコード店のラジオからは英語のなんとなく悲しい歌がかかっていた。そして彼女は桜の花びらが雪のように振る川沿いの道を走って消えた。僕は追い掛けられなかった。不自然にそこに突っ立ったまま彼女の消えゆく後ろ姿を眺めていた。

 家に帰ってからの僕は何もする気がしなくて、でも何かしていないといられない気分だった。ただずっとあのラジオから流れていた歌が耳の奥で響いていて、それで思い付いてラジオ局になんていう歌なのか問い合わせてみることにした。電話帳で番号を調べダイアルに手をかける。でも何故かそこで指が止まった。曲名を聞く、ただそれだけのことなのに緊張して動けなくなった。なんか情けなくて、それが許せなくて、なんとか電話をかけた。
「もしもし」
「あっ、ええと、あの…」
 電話口の人は親切で丁寧に受け答えしてくれたというのに、僕がしどろもどろに問い合わせてなんとか教えてもらったのは『ウェイト・フォー・ミ-』という曲名だけだった。歌っている人の名前は上手く聞き取れなくて、なのに電話を切ってしまった。そして電話を切ってから妙に安心してため息をついた。しばらくたって僕は初めて悲しくて涙を流した。去りゆく彼女と、どうしようもない自分に。

 あれから何年たっただろう。バイトを終えいつもと同じ家路につく。
「んじゃ、お先」
「あれ、おまえ飲み会来ないの?」
 後ろ髪を引かれるその言葉を振り切るように言う。
「ゼミのレポート書かなきゃいけないからな」
「いつからそんなに真面目になったの?」
 いつだって真面目だ。街という大きな無人島でしたたかに生きていく。一緒に打ち上げられた仲間達と集落を作り、生きる術を学び、割り当てられたすべきことをする。
「おまえだって先週まで大焦りでレポートやってたじゃん」
 僕は笑って言う。

 暖かい、そして暗いなんて言葉を忘れてしまったような夜の街を駅まで歩く。名前も知らない人達が背景のように過ぎていくけれど、きっと誰もがこの街という無人島に流されてきた仲間だ。
 電車を下りて駅前のコンビニに寄る。晩ご飯の弁当を選んでレジに並び、ちょうど今日貰ったバイト代を封筒から出していると店内のラジオから、あの日のあの歌が流れてきた。冷めた弁当を持った右手が震えた。もうそんなことはないと思ったのに涙が出てきそうになった。「温めますか」という問いに僕は押し殺した声で「いいです」と答えると受け取ったおつりをポケットに突っ込んで店を出た。そして人並みの中を、そうしないといられなくて、景色を歪めるスピードで走り抜けた。
遠く耳の奥から 伊勢 湊

ALUCARD
太郎丸

 この話を創作だと思う人もいるだろう。私だって自分で体験していなければ信じられない。
 もし運良く彼に会えたら伝えて欲しい。又会って話をしたがっていたと…。

 それは私が高校生の時だった。
 買ったばかりのバイクで一人で遠出をした時だった。少しの緊張と期待で私は舞い上がっていたのかも知れない。山道だったが少しオーバースピードで突っ込んだ下りカーブで、思いもかけず人が前を横切り、慌てた私はバイクから放り出された。バイクだけはガードレールで止まったが、私は谷底へ落下した。
 本当なら即死だったのだろうが、気がつくとまるで死神の様な老人が私を見下ろしていた。カーブでバイクの前を横切った老人だった。私はその時、恨みも何もそんな感情はわかなかった。痛みも無かった。きっとショック状態で、身体が痛みを取ってくれていたのだろうが、その老人の瞳の色の深さも手伝っていたのかも知れない。
「いきたいか?」
 老人が何を言っているのか、理解出来なかった。
「このままでは死んでしまうよ」
 そうか、私は死ぬのか…。その時はなんとなくそれもいいのかも知れないと思った。
「この事故は私にも責任があるから聞くけれど、生きていたいか?」
 まるで死にゆくものへの気休めの様に老人は再び聞いてきた。
 妙な形に曲がった足から突き出た白い色が恐怖を呼び起こし、生への執着は痛みと共に突然現れた。嫌な事だってあるけど、やっぱり色んな事がしてみたい。まだ死ぬには早い。私は痛みを堪え老人に言った。
「死にたくない。救急車を呼ん…」
 言葉は込み上げてきた吐瀉物で、途中で消えた。血ではないようだが、気持ちが悪い。腹には途中引っ掛けたらしい枝が突き出て、小さな花が血に染まっていた。
 老人は急に立ち上がると、ポケットからナイフを取り出し自分の手首に傷を付け、私の口元へ持ってきた。
「死にたくなければ飲め」
 流れ落ちる思いのほか大量の血は、否応無く私の口中へ落ち、私はそれを飲み込んだ。甘いそれは私の乾きを呼び覚まし、私は老人の手首に口を当て彼の血を貪っていた。
 老人は私の腹に刺さっていた枝を抜き取ったが、不思議に血は噴出さなかったし、曲がっていた足がむずむずしたと思ったら私の脚は元通りの形になっていた。
 ズボンは裂け血がこびりついていたが、白い骨は見えなかった。
 老人の傷も深かったはずなのに既に血は止まっていた。私が手首を離すと、老人は30代位の鼻筋の通った日本人離れした男に変わっていた。
 手を握っていたから間違いない。しかし、こんな馬鹿な事はあり得ない。考えたくもなかった。これじゃ、これじゃまるで…。
「驚いたろうが、このことは忘れてくれ」
 若くなった男は、また死ねなくなった等とブツブツ言いながら、崖を登りだした。
 私はというと唖然としながらも、衣服以外は大怪我の痕跡もなくバイクを押しながら近くのスタンドへと向かった。
 名前も聞かなかった。後でそんなことを思ったが、もうあの男はいない。
 それから私はあんなに憧れていたバイクをあっさり止めた。
 あれ以来怪我らしい怪我や病気にはならなかったが、5年後に久しぶりにひいた風邪に『効果が切れた』そう思った。まるで死にそうだった老人の言葉や若返った男の顔が鮮明に浮かんだ。
 よし探し出してやる。その時から私は仕事の傍ら、彼を探し始めた。あまり売れはしなかったが旅行ガイド作家の肩書きは、好都合だった。

 私はもう50になろうかという年齢だが、まだ30代にしか見られなかった。あの所為かも知れない。そして私はまだ彼の居所を探していた。

 それは本当に偶然で、私がたばこを買いに家を出、近くのコンビニでビールでも買おうと立ち寄った時だった。
 彼を見つけた。
 見た途端に解った。そして彼も気が付いたようだ。しかしこんなに近くにいたなんて…。
 私は早速彼に面会を求めた。私が記事を書きたいというと、予想に反してOKが貰えた。私は狂喜した。

 指定された場所は、都内のとあるマンションだったが、2LDKという広さの割には荷物が少なく、テレビさえ無かった。
 私は録音しても良いかと尋ねながらテレコを出したが、それはあっさりと断られた。仕方なくメモ帳を広げたがそれも駄目だという。
 ここは記憶力に頼るしかない。
 彼はワインを私に勧めながら、ゆったりと椅子に腰掛け暫く私を見ていた。
 何から話したら良いか考えているようだったが、彼は話始めた。
「世間でいうバンパイア。ドラキュラは、生きたまま埋葬された人が生還した時に、死んでいるはずだという死というものへの恐怖から来とる。勿論血を吸ったり吸われたりという事で、伝染するなどというのは、単なる創作じゃよ。十字架が怖いとか紫外線にあたると死ぬなどという事は無論戯言だしね。ブラド候が小説のドラキュラのモデルだと言われてとるが、そういう言伝えは昔からあったんじゃよ。でも本来バンパイアちゅうのは、わしら種族の様な者が殆どなんじゃ。宗教上の理由なんかで誤解され、怪物みたいになっとるがね」
 老人はワインで口を潤したので、口を開くのを待った。
「わしら一族は人を助けるという事を極力避けて来ましてなぁ。あんたも経験済みだから解るじゃろぅが、わしらの血を与えた人間は怪我や病気が直ぐ治ってしまう。しかもそれを与えたわしらは、人間としての最盛期の健康体に戻るという体質なんじゃ。死ねない身体なんですよ。こんなわしでも既に500歳は超えとる。死にたくて戦争にも行ったが、頭と身体が離れない限りわしぁ死ねん。人が死ぬのを羨ましく思ったもんじゃ。だからわしは結婚もしなかったし、子供も作らなかった。こんな人生を今の世の中で子供達に受け継ぎたくはない。人魚の血を飲むと長生き出来るというのを聞いた事がありますじゃろ? わしら一族もあれと同じです。もっとも彼らは見つかり難いがね」
 彼は微笑むと口を閉ざしてしまったので、私は質問を始めた。
「あの時助けてくれたのは、何故ですか?」
「あぁ。君には悪いとは思うけれど、あれは間違いだった。あの時はつい情が出てしまってねぇ。あのまま放っておけばわしも死ねたろうに、本当に残念です」
「先ほど一族と言われましたが、あなた方はどこから来たんですか?」
「それはわしにも判りませんなぁ。日本じゃわしが最後の生き残りだとは思いますがね」
「ということは外国ではまだあなたの仲間がいるという事ですか?」
「何人かは残っとるだろうが、わしには判りません」

 私は夜が明けるまで彼の話を聞いた。彼の話が本当なら歴史は随分違っている。

「あなたの力を、世間の為に役立てようとは思われないのですか?」
 老人は私の最後の質問に、あきれたような顔をした。
「あんたぁまだ若い。その年になっても世間が見えていないようじゃ。わしの様な人間。と一応いっとくが、そういう人間がこの世で受け入れられると、本気で思っとるのかね」
 今の世の中を考えると、私には反論出来なかった。しかし死に瀕した人間は何人もいる。そういう人達を助ける事は出来るし、研究すれば、人間はいつまでも長生き出来るじゃないか。そう思った時、この目の前の老人が研究材料として切り刻まれるのかと思うと、それはどうしても間違っていると思えてくるのだった。

 彼の半生を纏め上げた私は、マンションへ行って見た。しかしそこに彼の痕跡はなかった。
ALUCARD 太郎丸

マイ・フレンド(昨日からの手紙)
有馬次郎

 おそらく、僕にとってかけがえのないものは、君の涙だろう。その涙の意味示すものや、訳などは緩い河の流れにも似ていつの間にか忘れ去られ気付く頃には、深くて蒼い悲しみに囚われてしまうことになる。
 30年の歳月が行き交っても、君に出会えたあの季節は網膜に残る夕暮れの光ほどに淡く、僕自身を静かに照らし続ける。そして、この事だけは今でも口に出して話せるような気がする。ショパンのピアノの旋律に魂が止めどなく鼓舞されてしまう様なことが、今後もあり続けるだろうと。

 静かに微笑していた君の瞳が、ほんの一瞬で淡い水色のセロファンがかかったように煌めいて見えたのを忘れない。両の頬を一筋の涙が伝い落ちて、僕と君は木の香りのする教室の森の奥に深く閉じ込められた。君の口が大きく開いて「もう、泣かないから、大丈夫」と言ったのはその後だ。
 先程まで、窓越しの陽光と蝉の声が響くようにシンクロして、6年3組の教室中に降り注いでいた。顔を覆いたくなる程の笑い声が両隣りのクラスから聞こえる錯覚に陥り苦しかった。古ぼけた黒板には『正』の文字がこれから書き込まれていくのだろう。
 不意に折れた黄色いチョークを拾い上げながら振り返った時に女の先生は、こう言った。
「他に候補者はいないのかな?」
「いるはずないよな」という皆のため息が辺り一面に潜んでいたように思う。
 クラス委員長の満原君が僕を推薦してくれたので、黒板には僕の名前と彼の名前が離れるように並んでいた。僕は、何故推薦してくれたのかわからないまま、投票の済んだ後に彼と黒板前に立って開票結果を静かに見守ることになった。『満原君一票』はい『満原君一票』はい『満原君一票』はい『また一票』............。
 永遠に時間が進まないのではないかと本気で思った。僕は、耳を塞いで、その場から、教室から、皆から、そして君を含むすべてから逃げ出したくなった。床のフシ目が滲んで見えた時だ。『白木君に1票』深いため息と共に弧絶感に苛まれてどうしょうもなかった。(満原君の一票なんていらないよ)
 君の顔を天井を見上げる振りをして、そっと見た。さりげなく、涙がこれ以上溢れないように。先程の君の顔はもっと複雑に震えているようにも見えて、とても悲しくなった。6年間で一番長く感じるホームルームの時間が後5分で終わるかと思った時、先生が怪訝そうに言った。
「2票足らない。おかしいわね。最後に投票した委員長と副委員長の三田さんは間違いないよね」
「僕は入れました」
「はい、入れました」副委員長の君が涙目のまま、つられる様に答えた。
「はい、わかりました。ただ、この2票が白木君に入ってもこの差は歴然ですから、三学期もこのままで委員長、副委員長をお願いします。女子は三田さん一人の推薦なので、投票は必要なし。いいですかぁ」
 皆の拍手の中、僕は蹲って泣きたかったが、ゴリラの真似をしながら頭をかいて自分の席に戻って行った。初めての経験をした。一生忘れないな、と思った。隣の席の君に戯けて質問したことも忘れていない。そうすることしか僕には残っていなかったように思う。
「僕に入れなかったんだ?」
「ごめんね。だれにも入れなかったの」
「ふ~ん、そうか」(僕も誰にも入れてないよ。2票の秘密の共犯者だ)
 僕は、その時とても傷付いていたけど、仲の良いカップルだと思っていた彼に入れなかったんだと、窓の景色を眺めて呟いてみた。
 その季節は、大人になる前の大切な経験を幾つかしたように思える。バレンタインの日の下駄箱に、作者不明の宛名不明の手作りのハート型のチョコレートが、アルミに包まれたまま在った。それは目を凝らすくらいひっそりと隠す様に置かれていた。

 それから何年の月日が過ぎたのだろう。厄開けの歳の誕生日に、僕の会社にある一通の封筒が届けられた。少し大きめの茶封筒を開けると、一本のTDKカセットテープと半年前の消印の白い封筒があった。よく見ると住所不明で送り返されたもので、今はない実家宛だった。それを開けると手紙と黄ばんだ封筒が出て来た。その宛名は滲んでいたが見覚えのある文字で白木君へと書かれていた。手紙には満原ですと書かれていて、一年前に『6ー3タイムカプセル』を地元の同級生で開けた事、君が短大生の時、白血病で急逝した事、僕より先にカセットテープを聞いた事に対するお詫びなどが丁寧な筆跡で書かれていた。そして最後にこう書かれていた。
 今でも詫びきれない事が一つあります。あの小学6年の3学期の投票の日の事です。
 貴殿を推薦しておきながら、自分は誰にも投票しなかった。
 あの時、三田さんは投票用紙に貴殿の名前を書いていました。三田さんの涙を見て
 はっきり確信したのです。たぶん貴殿に嫉妬していたと思います。
 私の片思いに気付くまでそう時間は要りませんでした。
 あんな演出までして、子供心にも貴殿に恥をかかせ、恥をかかせてしまって.........
 貴殿を深く傷つけたと、今でも思っています。私は恥ずかしい。申し訳ない。
 
 ブルーブラックのインクが滲んでいた。僕も傷付いたが、彼も未だに引きずっていたのだ。長いお互いの人生を想った。君の事は大学の頃に遠く人づてに聞いて知っていたけど、今さらながら君の深い涙が蘇ってきて、その黄ばんだ封筒が僕を尚さら切ない気分にさせた。あの日の教室の森の奥に君と居たことを思い出してしまったから。
 
 その日、地下鉄のホームを歩きながら先程のテープの事を想った。タイムカプセルの中にビニールに包まれて君の封筒と一緒に入っていた想い出。文字をなぞると君の香りまでがするような気がした。
 自宅に着くと、真っ先にテープを聴くことにした。
 懐かしい君の声が部屋中に響いている。
「ずっとなかなか弾けなかったショパンの練習曲第3番『別れの曲』を途中まで弾きます。上手く行けば
 チョコレートといっしょに贈るつもりです」
 薄明かりの中、7分くらいで中断するたどたどしくも美しい曲を何度も聴きかえした。聴きながら君の手紙を読んでみた。それは、あの頃の君の文字そのもので溢れていた。
 
 先生が想い出を残すのが『タイムカプセル』と言ったので、
 私の6年間の中で一番大切な想い出を書きます。
 
 いつも、私の牛乳を半分飲んでくれて、ありがとう。
 いつも、鉛筆をといでくれてありがとう。
 いつも、足が悪いので、かばってくれてありがとう。
 いつも、笑って、元気をくれる白木君の顔があの日
 かわいそうで、とても悲しかった。どうすることも
 出来なくて、涙が止まらなくて。
 私は、白木君に入れました。ほんとうに。
 満原君が入れてなかったのが、本当にショックでした。
 中学が一緒でうれしいです。
 高校生も一緒がいいな。
 大人になっても白木君と呼んでいいですか。
 そして、30年後も。 

 私の大切な友達。
 私のマイ・ダディ・ロングレッグスへ
 
 その晩、僕はオートリバースで聴き続けた。君のショパンを。君の息づかいまで聞こえそうなその演奏を。今思えば、君にもっと優しくしてあげれれば良かったと哀しくなる。
 天井を見ながら、薄暗闇の中に僕はいて、君はいないんだと噛み締めるように思う。そして君を想う。
 
 7分間の曲が終わると、途轍もない静寂が訪れる。30年前のテープのヒスノイズが永遠に続くように流れ、また静かなピアノのか細い旋律が始る。
マイ・フレンド(昨日からの手紙) 有馬次郎

うつりにけりな いたづらに
るるるぶ☆どっぐちゃん

 あたしの家の近くには花畑がある。春になると花々は一斉に咲き始め、周りのマンションだとか駐車場だとかラッシュアワーだとかそういう風景を、その色彩で圧倒する。


「これでどうにか」
 女は待ち合わせの十分前にやって来た。椅子に座り、ウェイトレスが水を置いて去ると、女はうつむいたままあたしに紙封筒を手渡した。
 あたしは中身を取り出し、数える。やけに厚く重く感じられた。千円札が随分混ざっている。
「足りないですね」
 数え終え、あたしは言った。
 女は応えない。うつむいたままだ。
 あたしは窓の外に目をやった。雨だった。予報では晴れだったから殆どの人が傘を挿さずに歩いている。そのせいで傘を挿して歩いている人が何処かおかしく見えた。滑稽というかお洒落というか。役に立たないファッションショーのようなというか。
 店の中にはジャズが流れていた。モダンなフリージャズ。数年前ちょっとしたジャズブームを引き起こしたきっかけになったグループの曲だ。グループはブームが終わった後もそれなりに活躍していたが、急に(でも無かったのだろうけれど)メンバーの一人が新興宗教の信者になって音楽活動を辞めてしまい、それでグループは解散した。その後彼らが何処でどうしているのかは誰も知らない。
「これでどうにかお願いします」
 女がようやく口を開いた。
「今はこれでどうにか」
 女はうつむいたままぼそぼそと続ける。
「近い内に必ずお支払い致しますから」
「お支払い頂ける当てはあるのですか?」
「はい! もちろん」
 女は顔を上げた。
 随分痩せたな、と思った。ちょっと前まではつやつやとしたお嬢様だったのだけれど。都会の移ろいやすさにあたしは少し可笑しくなる。
 それにしてもこんな調子で誰かにバレたりしないのだろうか。親とか上司とか友達とか恋人とか。それとももう皆解っているのだろうか。解っていてもどうしようもないのだろうか。そういう事もあるのだろうか。(もちろんそんな事はあたしにだってどうしようも無い)
「必ずお支払い致しますから」
「解りました」
 あたしは封筒をバッグにしまい、代わりのものを取り出して、テーブルの上に置いた。
「今回はこれで結構です。でも良いですか。近い内に必ず、ですよ?」
「はい、解ってます。有り難う御座います」
 そう言って女は急いで自分のバッグにそれをしまった。
 女の左手首にはこの前は見なかった、細長い傷があった。
 あたしの手首にも傷がある。何年か前に切ってみた時のものだ。軽く切ったはずなのに意外と勢い良く血が出た。
 安いマニキュアの赤にそっくりだと思った事を覚えている。



 家の玄関を開けるとミイ太が出迎えてくれた。ちょっと前に拾ってきた子猫だ。
 抱き上げて撫でている所に電話が鳴った。
「もしもし」
「もしもし。あたし」
「あ、志津子さんですか。お久しぶりです」
「うん久しぶり。どう? 元気してた?」
「はい、お陰様で。そちらは?」
「こっちも元気よ相変わらず。ところでさ」
「はい」
「良、死んだんだって?」
「はい、死にました」
「何でまた」
「何か色々あったみたいです」
「そう。まあ、あの子もきっと早死にするとは思ってたけど」
「でも意外と長生きしましたよね」
「はは。そうね。確かにもっと早くに死んでもおかしくなかった」
「あの人がやれることはもうこの世には残ってなかったかもしれないし」
「そうかもね。あの子は17くらいで全て使い切ってしまったようなものだからね」
「ええ」
「まあ使い切ったからって死ねるとは限らないけれど」
「そうですね」
「最近会ってたの?」
「いえ、ここ数年は全然」
「この前ウチに手紙来てた」
「あたしの所にも来ました」
「写真見たら随分元気そうだったけど」
「ええ」
「お葬式行った?」
「行こうとは思ってたんですけど」
「けど?」
「寝坊しちゃって」
「そっか」
「はい」
「仕方の無い子ね」
「自分でもそう思います」
「でもまあみんなどうしようも無いわね。あの子は早くに死んでしまうし、あの年で全部解った気になって死んでしまうし、あたしはこの年になっても何も解らないし」
「あたしの寝坊は治らないし」
「全くあなたは昔からなんていうか。鈍いというか度胸があるというか」
「すいません」
「ふふ、まあそれだからあたしだとか良だとかと付き合ってられたのかも知れないけど」
「そうかもしれないですね」
「まあとにかく今度遊びに来てよ。待ってるからさ。ねえねえ聞いて。あたし料理出来るようになってのよ」
「嘘。志津子さんが?」
「本当よ。スクランブルエッグでしょ。チャーハンでしょ。ナポリタンでしょ。カレーでしょ。料理って結構簡単なのね。あたし知らなかった」
「今度食べに行きますよ」
「本当よ、絶対来てよ」
「ええ、行きます」
「絶対よ。絶対だからね」
「ええ。解りました」
「待ってるからね」
「はい」
「じゃあそういう訳で。そろそろ旦那が帰ってくるから」
「志津子さん」
「何?」
「あの頃、楽しかったですね」
「そうね」
「なんだか本当に楽しかった」
「そうね。でもまああたしは今も楽しいけど」
「そうですか。さすが新婚さんですね」
「うふふ、まあとにかく来てね。久しぶりに会いたいわ」
「あたしも久しぶりに会いたいです」
「本当に来てよ。待ってるからね」
「はい。必ず」
「じゃあまたね。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」



 受話器を置いて、カーテンを開けた。
 今夜は満月だった。ミイ太を抱き上げベッドに入り、共に月を見上げた。
 月は何処かへ突き抜けるように輝いていて、それが強く夜を思わせた。
 あたしはサイドボードの引き出しを開け、写真を手に取った。
 良の写真。
 月明かりの下で見る良の写真。
 彼はとても元気そうだった。とても元気そうで健康そうで、「この人の為なら死ねる」とか「この人をあたしはいつか殺してしまうかも知れない」とか「ライ麦畑で捕まえて」とかそんな風に思っていたなんてことを思い出せないくらい、彼は元気そうで。
(元気にしてますか。もう一度会いたい)
 写真の裏には、そんな文字があった。
 それを見ながらあたしは、きっと街で良にすれ違ったとしても解らないのだろうな、と思った。



 女は待ち合わせの時間を十分過ぎても二十分過ぎても現れなかった。
(逃げたかな)
 そう思って腕時計を覗き込んだその時、背中に何か衝撃が走った。熱いというか重いというか。
 振り返ると、そこには女が立っていた。女の手には安いマニキュアのような赤がべっとりと張り付いたナイフが握られていた。その赤を見てあたしは、何故か家の近くにある花畑を思い出した。


 あたしの家の近くには花畑がある。春になると花々は一斉に咲き始め、周りのマンションだとか駐車場だとかラッシュアワーだとかそういう風景を、その色彩で圧倒する。
 あたしは一度その花畑に入ってみたことがある。
 柵を乗り越えしばらく進み、振り返るとそこには、あたしが踏みつぶした花々が、地面に静かに倒れ伏していた。
 月明かりの下、舞い散る花びらの中、潰された花々は、なお花で。誇らしいほど花で。あたしはあたしで。どうしようも無くあたしで。
 地面に座り、煙草に火を付ける。
 そのたなびく煙の中であたしは、小さい頃、お花屋さんになりたいななんて思っていたことを不意に思い出した。
 だけれどなんで花屋になんてなりたかったのか。
 そのことについてはいくら頑張ってみても思い出せないのだった。