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第17回3000字小説バトル Entry7

トイ・ソルジャーズ

 顔を上げると青空だった。
 雲雀だろうか、染のようなものが上方はるかを遊弋している。他には何もない。雲すらない。だから目隠しをされていた瞳に陽光はまぶしく、私は顔をしかめた。
「煙草は?」
 糊の効いた制服の少尉が促す。私は首を横に振った。動くと柱に縛られた手首が痛い。たばこを勧めてくれた士官の目はしごく冷徹だった。職務に忠実な、若い軍人。整った顔から、かすかにオーデコロンの香り。
 この期に及んでそんな些細な事に気がつく神経が怖かった。そんな自分は、痛みすら鮮明に感じるのではあるまいか。そんな気掛かりだった。
 目の前に現実がある。
 十二人の兵隊が、私の前に居並んでいる。無骨な銃を握り締め、無機質な面持ちで。
 誰が決めたのか、指揮官の少尉を含めて十三名。少尉を除くと、一ダースの兵隊が、私に死を与えるために準備していた。
 まるでおもちゃだ。私は思う。
 ここから見ると、まるでおもちゃの兵隊が、子供の軍隊ごっこのように並べさせられているようだった。最右端の兵士の鉄兜が、かなり傾いていたのもそう思えた理由かもしれない。刑場の雰囲気は、時に滑稽ですらある。この私は悄然と死を待っているというのに。
 私は知っている。彼らのうち、実弾を込めた小銃を渡されているのは只の一人に過ぎない事を。残りの十一丁は空砲だ。良心の呵責を抑えるための、そんな伝統が軍隊にはある。殺すのは個人ではなく、組織である。そう確信させるための小細工だった。
 ほんの数ヶ月前までは、私はまったく逆の立場で、今の私とおなじ境遇の人々を死に追いやってきていた。柱に括り付けられた人間の眉間を打ち抜くという仕事。私はこの少尉と同じく、銃殺隊の指揮官だった。もちろん、今とは違う体制の時代に。
 任務は単純極まりなかった。
 時計を見る。三つの針が重なった瞬間、右手を軽く掲げる。そして、下ろす。それだけで事は足りた。私が上腕部をわずかに運動させるだけで、一人の人間の命がこの地上から消えうせるのだった。私の力ではない。私は命令を下すだけだ。そしてその命令は、私のはるか上から降りてくる。
 多くの死を見届けてきた。
 ほとんどの者は、ただ沈黙だけを残して逝った。だが、泣き叫ぶ者、笑い出す者、そして、誰かの名を呼ぶ者もいた。死に様は多様だった。しかし、いずれも、自らの不条理な死に抗う事はかなわなかった。柱に束縛されたまま、全身の力がすっ、と抜け落ちると、それが死だった。
 その任務を誇りに思った事は一度とてない。誇りどころか、痛みも、悲しみも。そう、なんの感情もなかった。もし私に何がしかの気持ちがあるとすれば、それはただ、ひたすら国家に忠実であろうとした、その事だけだ。
 目の前の少尉もそうなのだろうか。この青年も、寸毫も揺るがぬ感情でここに立っているのだろうか。氷土の如く心を凍らせて、この任務に及んでいるのだろうか。かつて私がそうであったように。
 本当にまだ若い。私よりふたまわりは違ってみえる。もし私の息子が生きていたならば、おそらくこのような青年になっていたのだろう。
 いつの間に、私は少尉を見つめていた。気がつくと、彼も私を見ていた。私たちの視線が交錯した。
 その瞬間だった、彼が口を開いたのは。思いがけない事だった。
「これはごく個人的な事で、ここであなたにお話するには適切ではないかもしれませんが・・・」
 少尉の表情がほんのわずか揺らいだ。
「三年前の四月一日、小官の妻はこの場所で銃殺されました。罪状は国家反逆罪及び騒乱罪。軍事法廷で即時極刑の判決が下されると、二日の収監後、ここに連行され、正午、刑は執行されました。銃殺隊の指揮官は憲兵本部付特務大尉、君島六郎。つまり、あなたです」
 私の記憶が瞬時に蘇った。その女の事はよく憶えている。私の任務中、只一度きりの女性受刑者だったからだ。
「けれども小官は、ここであなたの死を見届けることを喜んではいない。自分でも不思議なのですが、あなたに対する感情は何もないのです。小官が革命に身を投じたのも、動機はそれだったはずなのですが・・・」
 つまり、あなた方への復讐。
 彼の言葉にはそのような意味が含まれていた。しかし少尉の表情は努めて冷静に見えさえした。
「指令書の中にあなたの名前を発見したときは、さすがに高揚したものです。ようやく妻の仇を討てる、と。しかし幾分かすると、そんな気持ちは全く消え失せているのが分りました。小官はここに立つ事によって初めて理解したのです。妻を殺したのはあなたではない事を」
 私はすべての語句を明瞭に解する事が出来た。少尉は言葉を続けた。
「いまではかわりに、もっと別な感情が湧きあがっています。うまく説明できないのですが、あえて言うならば、恐怖です。そう、怖いのです。妻の復讐を果たす、という以上に、あなたの存在を消し去るという事実に恐怖しているのです。もちろんこの任務が初めてではありません。小官は充分に訓練されている筈なのです。このような気持ちは初めてです。もし許されるのなら、今すぐあなたの拘束を解き、解放したい」
 少尉の表情が眼に見えて変貌した。今までよほど堪えていたのだろう。
 涙こそみせなかったが、彼は泣いていた。
「でも、もう、時間です」
 私は少尉の言葉になにも答えられなかった。



 刑場に砂塵が舞い上がった。

 もうじき私が存在しなくなる。
 これは罰なのだろうか。いや、それは違う。殺したのは私の意思ではない。それを罪というならば、一体幾人が、それを犯していることだろう。私だけが裁かれる理由はない。
 私はいわば、銃殺隊の持つ銃の部品、その一部に過ぎないのだ。
 意思すらもなく、ただ、誰かの力がかかるのを待っている引き金のようなものだった。
 私は殺すために生まれたのではない。歴史の必然と、運命の偶然が、私をこのような任務に追いやったというだけだ。言い訳がましいが、私が直接に人を殺した事はない。
 私はこれまで、ある一種の諦念、即ち、これを運命として受け入れる事で、自分の死すらも受け入れるつもりだった。ここまで自分でも驚くほど冷静でいられたのも、多くの死を見てきたという以上に、その諦念こそが私を冷静たらしめていたからだ。
 しかし、今に至って、私は生への執着が、急速に湧き起こるのを感じてきた。少尉の言葉を聞くうちに、これが罪ではない、という確信が完全に揺らいでいたからだった。
 そう。やはり私は、罪を犯していたのだ。
 銃は、存在自体が、罪なのだ。
「なにか、言い置く事は」
 少尉は元の冷厳な士官に戻っていた。
 私は叫びたかった「助けてくれ!殺さないでくれ!」
 けれども声が出なかった。戦慄く唇に、舌は縺れ、空しく空気が漏れるだけだった。これほどまでに、私は自分自身を惨めに思った事はなかった。
 代わりに少尉が、私の耳元に唇を寄せた。
「あちらで妻に伝えてください、『私を許して欲しい』と」
 少尉はさっと私から離れ、一分の隙のない動作で私に敬礼をした。礼典どおりの、完璧な敬礼だった。そして、直線的に踵を返すと、一歩、二歩、私から遠ざかった。
 少尉の後姿が見える。
 思いがけず小さな背中、それを向けたまま、少尉が右手を掲げた。
 そして、下ろした。
 私の視界に、おもちゃの兵隊が並んでいる。
 これが、私の死か。
 私の最後の意識が、中空に拡散した瞬間だった。

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