←前 次→

第18回3000字小説バトル Entry19

ぽんぽ子

 新緑の瑞々しい光りの中を、白透の冷たい空気がゆっくりと横に移動する。
 足元の枯れ葉で覆われた道には、新芽を着ける雑草達の息吹が、朝露に輝いている。
 ゆっくりと流れる時間。柔らかな光り。
 僕は両腕を広げ、その生命達の空間に降りそそぐ自然の力を全身に浴びる。沈んだ心には活力が生まれ、頬をつたった雫の跡がゆっくりと癒されていった。そして大きく深呼吸をした後、僕は最後の別れに両手を合わせた。

――子供ができたと言われた時の事を思い出した。
 妻の嬉しそうな顔と先生の笑った白い歯が印象的だった。僕は心から喜びそして妻を尊敬した。――

 僕は、笑顔を作り後ろを振り向くと、無言の妻が大事そうに小さな花を持って俯きぎみに立っている。その姿を見た瞬間、僕の笑顔は消えていたに違いない。もう一度、気を取直し笑顔を作って妻の肩に手をかけた。
「さあ、今度はお前の番だよ」
 小さく頷く妻がとても愛おしく思えた。妻はゆっくりと進んで、盛り土の上に持っていた花を添えると、静かに両手を合わせた。小刻みに身体が震えている。僕には妻の気持ちが手に取る様に分かった。
 妻は、彼を自分の子供の様に育てていた。それには深い想いがあったからだ。

――「流産」先生は続けた。「もう妊娠する事は出来ないかもしれません」
 どうしようもない悔しさに僕は怒りを感じ、妻へのいたわりの言葉さえかけられず全てを恨んだ。そんな僕が妻を傷つけてしまった。
 あれ以来妻はショックのあまり、話す事が出来なくなった。――

 朝靄の中、車に戻ると静かに山を下った。
 彼の居た場所がルームミラーに淋しげに映る。カーラジオのスイッチを入れると、懐かしいメロディが開け放した窓から風にのって二人を包み込んだ。そのメロディは彼と出会った頃に流行っていた歌だった。彼との想い出が蘇る。

――初めて彼と出会ったのが、この森だった。
 夕暮の林道は、オレンジ色の夕空に木々の影が集まり、薄暗くそれでいて神秘的な光りの粒が降りそそぐ空間だった。
 車のヘッドライトに映されたモノクロの砂利道に突然、虚ろに輝く光りが見えた。車を止めてその光りに近付いて行くと、悲しい声をあげながら、黒く横たわる母親の影に隠れて小さく震える彼がいた。その丸い瞳はとても綺麗だった。
 どこかの車に跳ねられたのだろう。使い捨てられたぬいぐるみの様なその姿は、既に彼の母親ではなかった。僕は小さな穴を掘りそこに彼の母親を埋めた。小さな彼はその場を離れたくなさそうに鼻を何度も盛り上げられた土に付けては小さく鳴いていた。母親が死んだ事に気付きもせず、ただ居なくなってしまった事が悲しかったのだろう。
 不意に妻が彼を抱きかかえた。子供をあやす様に優しい表情を彼に向け、静かに無言の言葉をかけていた。彼の奇麗な丸い瞳が不安から安らぎに変わって行く。僕にはそう見えた。――

 カーラジオからは、続けて懐かしい歌が流れている。
 妻はサンルーフの向こうの空を見上げたままだった。その瞳には、うっすらと光りを集めた雫が風に流されまいと、揺れ輝いていた。

――彼が僕等の家族になった。
 小さなほ乳瓶を買ったり、おしっこを取ってあげるガーゼを買ったり、時には紙おむつも買ってきた。お風呂にも一緒に入っては、乳幼児用の石鹸で彼を優しく洗ってあげた。眠る時は妻の枕元に小さな毛布を敷いて三人で一緒に寝た。
 彼は妻と同じく話しこそ出来なかったが、僕たちにその奇麗な瞳や鳴き声、手足の動かし方で会話をしていた。それが何を言っているのか、どうしたいのか、僕には妻と同じ様によく分かった。
 時折、彼は悪戯もした。妻が使っている口紅を見つけては、ペロペロと舐めたり鼻で匂いを嗅いだりして悪戯の証拠を顔中に残し、僕や妻を驚かせたり、笑わせたりしてくれた。
 少し大きくなってからは、子犬の様に首輪を買ってあげ、一緒に散歩にも出かけた。彼の得意技は、冬の寒い中を元気に走り回り、雪の積もった小山に穴を掘る事だった。前脚でモグラの様にガシガシと掘り進んでは小さなカマクラを上手に作った。その時の彼の表情といったら、小憎らしいほど自慢気な顔つきをしていた。
 苦手は雨だった。ある曇りの日に、彼は妻と近くのスーパーへ買い物に行った。彼は店の脇の柵に繋がれ、買い物の間静かに待っていた。いくら待っても妻が現れない。やがて雨が降りだしてきて、妻は洗濯物を干した事を思い出し慌てて家に戻った。そして洗濯物を取り込んでソファーにかけた時にやっと彼の事を思い出した。迎えに行ったが既に遅かった様で、ずぶ濡れになって少しむくれた態度の彼がいたそうだ。
 妻は噴き出しそうにしながら手話で器用にその様子を話してくれた。”彼のむくれっ面”想像しただけでも可笑しくて、その日は彼を見ると思わず笑ってしまった。それ以来彼は雨が嫌いになって、絶対に雨の日は家から出なくなった。――
 そう、全てが本当に昨日の事の様に感じられる。
 あの時もそうだった。運命とは突然やってくるものなんだ。

 アスファルトの道路に出た。
 太陽が真南を通過する時間になっていた。皐月の新鮮な光りが降りそそぎ、車内を通過する微風が心地よかった。
「朝も早かったし、飯でも食って帰ろうか」
 僕は妻の横顔を覗いて言った。やっと元気が出てきたのか、妻は笑顔で頷くと手話でお蕎麦が食べたいと言った。僕は何度か通ったこの道に、地蔵尊の隣のお蕎麦屋さんを思い出した。

 駐車場に車を止めると、地蔵尊の鳥居がひっそりと見えた。
 二人で大笊のおろし蕎麦を注文した。暖かい玄米茶をすすると、妻がホッとした表情を見せて「大丈夫よ」と胸に手を当て、笑顔を見せた。
 女中さんが大きな笊を持ってきた。竹で編み上げられたそれには、笹の葉の上に艶やかな蕎麦が、川の流れを感じさせる様に盛られていた。薬味は大根の降しに葱とワサビ。二人で箸を合わせるように蕎麦を食べる。ワサビを入れ過ぎたのか、妻は時折目頭を押さえていた。
 僕はそば湯を飲み干すとタバコに火を点けた。蒼い煙が目に滲みて、全ては想い出になっていくんだと、天井を見上げた。

 蕎麦屋を出ると、妻が僕の腕をとり駐車場の向こうを指差した。
 その白い指先には小さな地蔵尊が、柔らかい光りの中にひっそりと佇んで見えた。
 小さな鳥居をくぐり、妻と歩調を合わせながら石段を上る。上がりきった所にまた鳥居があり、その先には小さなお地蔵さん達が、赤い涎かけをかけて並んでいた。
 沢山のお菓子や玩具が供えられ、線香の煙が風車に舞っていた。僕は息を飲む様に妻の顔を見た。妻はそんな僕に微笑みながら財布から少しのお金を取りだして僕の手に渡した。
 静かな時が流れた。
 二人してお賽銭箱に入れると手を合わせ、静かにお祈りをした。多分、二人とも同じ事をお祈りしたのだろうと思った。風に回る風車が小さくカタカタと音を立て、もう二度と逢う事の出来ないあの子達の姿が重なって見えた様で僕は思わず胸に熱いものを感じた。

 車は光りと微風の中を滑る様に静かに走る。妻の髪が揺れるたびに、その窓の向こうの景色が鮮やかに色付く様だった。
 カーラジオからは懐かしい歌が流れている。僕は妻に聞いてみた。
「なあ、この歌、覚えてるかい?」
 妻は僕の方を向いて微笑む。そして静かに窓の外を流れる景色に目を向けると、いつの間にかその歌を口ずさんでいた。

←前 次→

QBOOKS