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第19回3000字小説バトル Entry16

琴線

「あー、もうどういうことなの?こんなんでパーティー行けなかったら十万円も出して買ったドレス意味ないじゃないの」
 デパートのエレベーター。動かない密室で妙にオシャレな格好をした女性が叫ぶ。
「ちょっと静かにして下さい。そんなこと言っている場合ではないんですよ」
 賢明に非常ボタンを押し続ける若いサラリーマン風の男は一見頼りになりそうだが、しかし彼もまた参っているのだろう。もう三分近くボタンを連打して呼び掛けている。
 止まってしまったエレベータの中には全部で四人。僕と、あとは小学校に上がるか上がらないかくらいの小さな女の子。別れた妻の元にいる、いまでは取り決めで一ヶ月に一度しか会えない娘と同じくらいの歳だ。さっきから「おかあさん」とつぶやきながら泣いている。母親もどこかで泣いているかもしれない。

「みなさま、火災に巻き込まれぬよう係員の指示に従い落ち着いて避難して下さい」
 エレベーターの中からの非常電話は何故か繋がらないがスピーカーからアナウンスが聞こえる。被害状況は説明されない。余計な混乱を起こさないためだろう。
「なあ、あんた。何かいい考えはないか?」
 表情にいらつきが見える。声も大きい。のんびりしている僕に怒っているのかもしれないが僕にだってどうしようもない。
「さっき携帯電話を試したけど電波が入らない。非常電話は壊れているようだし、火災の状況は分らない」
「だからどうしようか聞いてるんだよ。手後れにならないとも限らないだろう」
 男が叫んだ。それを聞いて女がまたヒスを起こす。
「ちょっと、それ、どういうことよ?」
 この二人もドラマなんかでこういうシーンを見るときは落ち着いているのだろう。そういうものだ。僕だってさっきから僕の足にしがみついて泣き続けている女の子がいなかったら同じようなものなのかもしれない。幸か不幸か娘に良く似た女の子の存在が僕を複雑な心境にさせパニックを防いでいた。
「天井のファンが動いていないんだ」
 僕は静かに、でも強く言った。
「煙は入ってきていない。アナウンスもできる状況のようだ。たぶん火災自体はいまのところたいしたことはない。でもこのエレベーターの機能は完全に停止してるし、火災騒ぎで発見は少し遅くなるかもしれない」
「つまり?」
 静かになった密室の中で、小さな声で男が聞いた。
「密室じゃあ酸素を大切にしなきゃいけないってことさ。ドラマで見たんだけど」
 でもドラマで見たようなドラマティックな解決策は見出せなかった。

「本当に大丈夫なのか?」
 男が僕に聞いた。正直分らないが、たいして出来ることもない。
「火事のこと?」
「そうだよ。大火事だったら手後れになる」
 男はまだ少し気が動転していた。あるいは心のどこかでいつもこういうハプニングを望んでいた種類の人間なのかもしれない。そのときは自分が上手く解決する姿を夢見ながら。そういう人ほど現実に直面するとパニックになるものだ。
「ねえ、このエレベーター落ちたりしないわよね」
 今度は女性の方だ。どうしようもないときに他人に頼るのは女性の可愛いところだと思っていた。泣きつかれてただ不安そうにしている傍らの女の子を見ているといまでもそう思うこともある。
「たぶんね。正直言って詳しいことは分らないけど」
 ふいに手がポケットの中の何かに触れた。カギ束だ。そのなかに小さなビクトリノックスのキーホルダーがあるのを思い出した。
「あんまりたいしたことは出来そうにないけど、出来ることをしっかりやろう」
 僕はドアのゴムの部分をその小さなナイフで切り裂いて引き剥がした。ドアの隙間から少しだけど冷たい新鮮な空気が感じられた。酸素の問題はどうにかなりそうだったが、あとは待つことくらいしか思い付かなかった。

「私っていくつに見える?」
 僕たちはみんな床に座り込んでいた。女の子は疲れ果てて僕の膝を枕にして寝息を立てていた。
「さあ…」
 いまでは落ち着いた女性の言葉に男が答える。
「実は二十九。、もうすぐ三十路」
 自分で実はと言うだけあってそうは見えない。
「高いドレス買ってパーティーなんてきっとあなた達から見たらバカみたいなんだろうけど、結構切実なの。最近疲れちゃって」
 言葉が出てこない。男も、そんな場合じゃないとはもう言わない。どんな事情だろうが不運な事故に巻き込まれたもの同士だ。
「オレは、ちょっと本屋に寄っただけなんだ。土曜だっていうのにスーツ着てお得意さまに挨拶さ。地下で手土産を買ってね。でもさ、読むかは分らないけど、電車の中で手にする本くらい持ってたいと思ったんだ。それだけさ。でも、やっぱり避けられることじゃなかったのかもな」
 分る気がした。何度同じ時間をやりなおせるとしても彼は本屋へ寄るだろうし、そうすべき気もした。
「あんたは?」
 男が聞いた。僕は女の子を見ながら答えた。
「娘の…」
 二人が笑顔で僕たちを見ていた。親子と勘違いしているのだろう。
「誕生日プレゼントを買いに来たんだ」
 若くして立ち上げた会社を潰してしまい、債権者に追い立てられる日々の中での苦渋の決断。離婚。それが正解だったかは分らない。それでも妻は娘を育てられるだけの十分なデザイナーとしての腕を持っている。逃げ続ける生活よりいいはずだと信じた。良く話し合いもした。現実が覆いかぶさり愛情が入り込む余地がなかったというのは言い訳になるだろう。
「八歳になるんだ」
 そう、八歳になる。会いたくてたまらない、愛する一人娘。
「ひどい誕生日になっちゃったわね」
「なあに、あとからいい思い出になるよ。きっと」
 二人が励ましてくれた。
 
 ガタン。そのとき急に密室が揺れた。女の子がびっくりして目を覚ました。いまにも泣き出しそうなその顔を見て、僕は思わず強く抱き締め、言った。
「大丈夫、大丈夫だ」
 守り抜く。そう思っていた。

 揺れは長くは続かなかった。すぐに小さな揺れになり、しばらく降下して、そして止まった。扉が開いた。そこは一階のフロアだった。火事があったなんて信じられない、何も変わらないデパートの風景だった。
 僕は女の子を抱き抱えてぼんやりと立ち上がった。みんなでエレベーターを出ていく。消防署員が「大丈夫ですか」と聞いてきていたけど、あまり耳に入らなかった。人込みの最前列。両手を伸ばし女の子の名前を呼ぶ母親のその声ばかりが耳の奥に響いていた。
 僕は小さく泣いている女の子を抱いたまま母親のところまで歩いて行った。
「ありがとうございます、ありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか」
「そんな、たいしたことはしてませんよ」
「いいえ、本当にありがとうございます」
 実際たいしたことはしていなかった。救われたのは僕の方だった。お礼なんてとんでもない。でも、僕は思いきって一つお願いしてみることにした。
「変なこと言って申し訳ないんですけど、人込みの向こうまで一緒に歩いてもらえません?」
 母親はきょとんとしていた。その意味が分らなかったのだろう。僕にだって、良く分かっていない。
「さあ泣くのは止めて。あの二人に手を振ってやろう」
 女の子が頷くのを確かめてから僕たちは振り返って手を振った。女性が手を振り返していた。男は親指を立てていた。
 そして僕たちは人込みを抜けた。その先には、また一人歩かなければならない雑踏があったけど、なんとかやっていけそうな気がしていた。

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