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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第21回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 9月)
文字数
1
羽那沖権八
3000
2
紺詠志
3000
3
太郎丸
3000
4
橘内 潤
2989
5
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
6
青野 岬
3000
7
林徳鎬
3000
8
斎藤あや
2729
9
桜林美野
2956
10
卯木はる
3000
11
坂口与四郎
3000
12
ラディッシュ・大森
2883
13
佐藤ゆーき
2972
14
Ame
2998

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妖刀十丸
羽那沖権八

 粗末な鞘に収まった刀を見て、藤岡政国は渋面をする。
「戦場の掃除をしていた者達が見つけた様ですよ」
 弟の正竹は興味がありそうだった。
「ふん、奴らどんなガラクタでも持って来る」
「いや兄上――」
「二分も取らせておけ。それが嫌なら持ち帰らせろ」
「ま、待って下さい兄上! 一揆勢の豪傑の噂、知っているでしょう?」
「十人斬りの叉吉のものか。だとしても、別に――」
「ではもしも、その十人が、同じ刀で斬られていたとしたら?」
 二人の視線が刀に注がれる。
 長い沈黙の後。
「あははは、わはは、わはっはは!」
 政国は大声で笑った。
「正竹、冗談が過ぎるぞ。講談や芝居でもあるまいし、刀で十人も人が斬れるものか」
「私もそう思います、が」
 正竹が刀を取り、弛めてあった目釘を外す。と、柄が抜け、銘が現れた。
 そこには、一文字『十』とだけ彫られていた。

 行燈の明かりが揺れる薄暗い寝室に、政国は妻のしづと座っていた。
「噂に名高い『十丸』が、何故百姓の持ち物になっていたのか」
 柄と鞘を取り替えた十丸を、彼は鞘から抜き払う。
 研ぎ直された刀身は、冷たい炎の様な輝きを見せる。
「戦国の世に作られた名刀。願う相手十人を確実に斬り、果たされるまでは持ち主から決して離れず守り続けるという」
 自然と笑みがこぼれる。
「まさか俺のものになるとはな」
「はい。本当に美しいこと」
 しづは、十丸を見て微笑む。
「これを美しいと思うか?」
「はい」
「ふふ、そうだな。美しいかも知れん」
 政国は十丸を鞘に戻し――また、抜いた。
「気になって仕方ない様でございますね」
 くすっとしづは笑い、まだ大きくなってはいない腹を優しく撫でた。
「これではこの子には『十兵衛』か『十姫』とでも名付けなければいけませんね」

「やああっ!」
 気合いと共に、藁を巻いた竹が両断される。
 それから静かに政国は十丸を鞘に戻した。
「どれどれ」
 傍らで見物していた正竹が、斬られた竹を拾い上げる。
「お見事、藁一本潰れていない綺麗な切り口ですね」
「うむ」
 心から楽しそうに政国は笑う。
「重さがいい」
「重さですか?」
「ああ。重すぎず軽すぎず、振り回すのがこんなに楽な刀は初めてだ」
「へえ。ああそうだ、この前刀に関する書物をお城で見せて頂いたんですよ。十丸について何か面白い事が分かったら兄上にもお教えしますね」
「うむ」
 正竹が離れた後、政国は素振りをする。鋭い太刀筋は空気を切り裂く。
「楽しそうですね、良かったらちょっと持たせて――」
「駄目だ!」
 怒鳴ってしまってから、政国は軽く首を横に振った。
「あ、いや、すまん。だが、やはり駄目だ。刀は武士の魂、特に俺の様な他に取り柄のない者にとっては命も同然だからな」

 燃え盛る民家にいたのは、僧侶だった。
「――貴様が一揆を煽っていたわけか」
 鎧姿の政国は太刀に仕立てた十丸を構える。
「す、全ては仏の教えのままに行われた事だ」
 僧侶は両手で短銃を構えていたが、銃口は震えていた。
「俺は十丸に一揆の大将を斬るように願掛けした。仏が偉いなら、十丸の妖力ぐらい破れるよなぁ!」
 その時。
「倶尊様!」
 天井から男たち三人が政国の上に飛び下りて来た。
「離せ、この!」
 政国が無理な体勢で振ろうとした十丸は、梁に食い込み抜けなくなった。武器を失った政国は押さえ込まれる。
 僧侶はにっと笑って、政国に銃口を向ける。
「往生なさい!!」
 銃声が響き渡った。
 しかし。
「うわああっ」
 悲鳴を上げたのは、政国の右腕を抑えていた男だった。
 政国の目の前に十丸があった。
 政国は十丸を掴むや、左の男の顔面を突き刺し、後ろの男を僧侶めがけて背負い投げる。
「仏罰が――」
 言葉も終わらぬうちに、十丸が僧侶の喉を貫いた。
 ――一瞬前、梁に食い込んでいた十丸が外れた。落下する十丸は、銃弾を政国の右腕を抑えていた男に弾き飛ばしたのだった。
 偶然かも知れない。だが。
「十丸が俺を守っているのか」
 政国は、僧侶の袈裟で十丸の血を拭った。
「十人を斬らせるために」

 数カ月が過ぎた。
 冷え冷えとした月明かりが照らす縁側に、政国は十丸を抱いて座っている。
(これで願を掛けて斬った相手が九人)
 溜息が洩れた。
(もっとも八人までが百姓の打ち首か)
 池に映る月に雲がかかっていく。
 政国は十丸を抜き払った。
 九人もの人を斬ったというのに、曇りも歪みもなく、研ぐごとに鋭さを増す。
 月明かりを反射する刀身は、青白く輝く。
 噂の通りなら、十人目を斬れば多分、政国の手を離れる。
「血が欲しければいくらでも吸わせてやるのに、美しい柄や鞘が欲しければいくらでも着飾らせてやるのに」
 刃先に軽く指を触れる。
 たちまち血が珠となって指先から流れる。
「……!」
 はっと政国は顔を上げた。
「十丸、お前は十人を斬るまでは、俺を守るんだったな」
 十丸を月に掲げる。
「ならば、俺を斬ってみろ」
 にやりと彼は笑った。
「十人目は、俺だ」

「お美しい男の子でございますよ」
 産婆が大声で泣く赤ん坊を差し出す。
「おお、おお」
 赤ん坊を抱きかかえ、政国は軽く揺らす。
「こんなに小さくても、やはり処々しづに似ているな」
「はい。でも耳の形などは政国様似でございますね」
 満面の笑みで、産婆は赤ん坊の耳を指さす。
「そうか?」
「はい、後ろから見た形がほら」
「――俺は自分の耳をそっち側から見たことはないぞ」
「そうでしたね、ご自分の後ろ姿は見られませんね、はははは」
「わはははは。それでしづは大丈夫か?」
「はい。お腹が空いたと仰っていますよ」
「……大した奴だ」
 笑って、政国は赤ん坊の顔を見る。
「ふむ。やはり俺になかなか似ているな」
 とくん。
 僅かに政国の脈が早まる。
(――?)
 とく、とくとくとくどくどくどくどっどっどっど……。
 気が付くと、政国の手は腰の十丸に伸びていた。
「な!」
(赤子……俺に、最も近いもの!)
「どうなさいました?」
「わあああっ!」
 政国はおもむろに障子を開け放つと、庭に降り、十丸を抜き払った。
 刀身が、太陽の光を浴びて輝く。
「十丸、お前は!」
 振り上げた十丸を、庭石に叩き付けようとする。
 だが、政国の腕はそれ以上動かない。
 食いしばった歯が、軋む。
 このまま振り下ろせば、いくら十丸でも折れ、砕ける。そうすれば。
 そうすれば――。

「兄上!」
 地面から突き出た竹筒に、正竹が怒鳴る。
「即身仏にでもなるつもりですか!?」
 夜空に月はなかった。
『――あのままでは、俺は我が子を斬っていた』
 以前からは考えられないほどか細い政国の声が、筒から聞こえて来る。
『自分の腹を切る事もできん。怖ろしきは、十丸の執念』
「兄上、聞いて下さい」
『なんだ』
「……十丸の事、詳しく分かりました!」
『今さら何も……』
「お聞き下さい! 噂の十丸は、秀吉公の刀狩で発見され、既に折られていました!」
『なに?』
「兄上の刀は、その後に作られた贋作の中の一振りに過ぎなかったのです!」
『そうか』
「だから無意味なんです、こんな事は! 妖力なんて、ないんです!」
『お前の言うこと、本当かも知れん』
「間違いなく本当です! 今すぐ文献をお見せ出来ます!」
『だがな、正竹。俺は本当に』
 風が吹き抜ける。
『本当に我が子を斬りたくなったのだ』
 雲が切れ、月が現れた。
 月光が筒の中に射し込む。
『……おお、美しい』
 筒の中に青白い輝きを見た気がして、正竹は思わず目を逸らした。
妖刀十丸 羽那沖権八

夏の残骸
紺詠志

 うっかり発見してしまった! 夏の残骸を。
 こんな秋晴れの空の下、うつむいて歩いていた私がいけないのだ。私がうかつだったのだ。歩道の路傍で午前の微風にそよぐそれは、まちがいない、ミンミンゼミの遺体だ。かつてそれは昆虫綱セミ目セミ科ミンミンゼミ属に分類されるべき生物の一個体であったが、今やアリどもの解体を待つばかりのうつろな外骨格の構造体にすぎない。あわれなり夏の残骸!
 しかし、同情するには一考を要する。彼ないし彼女は、はたして本懐をとげたのであろうか? すなわち、彼ないし彼女は、大望を秘めながらも長年を土中生活についやし、ついに地上へ這いあがり、木かなにか、それにたぐいする垂直面を登り、サナギの段階を割愛する不完全変態によって早急に成虫へと化身し、いずれ少年たちのブローチとなるヌケガラをあとに残して飛びあがり、随所で大いに例の鳴き声をあげるか、それに誘惑されるかして、異性との交合をもって彼ないし彼女の子孫たるタマゴを、この世のどこかに残しえたのだろうか……。
 九月も終わろうとしている。セミの声など絶えて久しい今日このごろである。彼ないし彼女は、いかなる事情があってか、だいぶ仲間に遅れをとって地上に現われ出たうっかり者であろう。ゆえに、成虫となることはできても、生殖の相手を得ることはかなわなかったにちがいない。すなわち、まちがいない、あわれなり彼ないし彼女よ!
 私は、路傍に身をかがめ、きみのぶんまで生きようと決意した。きみのむくろに、これからはセミとして生きようと誓ったのである。

 だがしかしである。口で言うのは簡単だが、いざセミになろうとすれば、その方法はまったく見当もつかない。私の学生時代の友人のうちにセミへと就職した者はないし、先月のはじめにともにリストラされた元同僚のうち、木に登った者はあっても、ただ首を吊るばかりで、セミに転職しようとのこころざしを見せた者はなかった――ひょっとしたら、彼はミノ虫への転職を志望したのかもしれない。
 ともあれ、セミのむくろに別れを告げたのち、私は当初の予定どおりハローワークに向かうことにした。これまでのように、給料だのなんだのと、くだらぬ迷いはなく、ただただ私はセミへの就職を希望して、求人票をあさった。窓口にも並んだが、係の男は言った。
「はあ。セミとは、なんの略でしょうか」
 おろかにもホドがあろう。セミすら知らぬぶんざいで、よくもまあ他人の人生に助言を与えられるものだ。私はあきれてモノも言えず、無知無能なハローワークをあとにした。
 残された道は、独学だ。独自にセミへの道を開拓するほかない。思索にふけりながら家路をたどり、ふと見あげると、大きなケヤキの木があった。

 私はセミである。だれがなんと言おうとセミなのだ。それが証拠に、謹聴せられよ諸君! わが鳴き声を。
  ミーンミンミンミンミンミーン……
 余韻に注目してほしい。じっとりと空気に溶け込むような余韻だ。残念ながら声帯で鳴いてはいるが、その声たるや、まさにセミだ。私は、地上四メートルほどの樹皮に舞台を得たセミなのだ。
 秋空に鳴く、うっかり者のセミは、木もれ日のなかで、さかんに求愛の歌をうたっていたが、やがて疲労して黙ってしまった。かわりに腹がグウグウと鳴り出した。太陽は真上にあり、樹液を吸う時間になったのだろうが、いかんせん私は、まだセミになって数時間の初心者だから、あのストローのような口吻をもたない。
  グーウグウグウグウグウグーウ……
「ちょっと、あなた。あぶないから降りなさい」
 私はセミであるけれども、かつて人間だったころの経験から、人語を解した。ちらりと下を見ると、警官――制服なるもので自己の権威をディスプレイする人間の一種が、外骨格のわれわれでは想像だにしえない顔面の器用な筋肉をもちいて、眉をハの字に寄せていた。
「降りなさい。すぐ降りなさい」
 このままでは、私はセミでなくなってしまう! 腹の鳴るのをおさえて、声帯をふるわせた。
  ミーンミンミンミンミンミーン……
「なんだ、セミか。まだいたのか」
 まだいたのだ。私は場ちがいな秋のセミだ。遠ざかる警官の背中を見おろしながら、私はあやうく、ないはずの顔面の筋肉をゆるませそうになった。いけない、いけない。セミはただ、鳴かねばならぬ。
  ミーンミンミンミンミンミーン……

 私がまだ、おさない人間だったころ、木登りは得意なほうだった。しかし、さすがに、これほど長い時間、木の幹にしがみついていた経験はない。さいわい、腕がセミとしては異様に長いので、幹にまわして両手を組むことができているが、なかなかセミも肉体労働である。しかも、なによりも空腹が耐えがたかった。
 だが、私は死力をふりしぼってでも鳴かねばならない。セミだから。
  ミーンミンミンミンミンミーン……
「あ、セミだ」
「でっけえなあ」
 小学生がふたり、私を見あげていた。われわれセミにとって、おそるべき敵である。彼らは、ランドセルをゴトゴトと鳴らしながら、駆けていった。またくるぞ、と私は人間であったころの経験から推測した。
  ミーンミンミンミンミンミーン……
 はたして、ランドセルを捨てて身軽になった彼らが、捕虫網をたずさえて戻ってきた。ひそひそ言い合いながら、わが樹木の下に忍び寄り、目をギラギラさせて私を狙っている。網が迫ってくる。それを察知して、セミである私はなにをすべきか。しょんべんをひっかけてジグザグに飛びあがるべきであろうが、悲しいかな、私はまだ羽根をもたない。また、下半身は、人間だったときの名残で、パンツとズボンにおおわれているし、わが身をささえている腕力に、ファスナーをおろすほどの余裕もない。
 尻を捕虫網がつついた。私は、さらに数十センチよじ登った。舌打ちが聞こえた。
「チェ、ダメだ。届かないや」
「じゃあ帰ろうぜ。ゲームやろう」
 帰れ帰れ。ついでにセミから一言、忠告しよう。テレビ・ゲームなんかやってるヒ
マがあったら、牛乳を飲むといい。来年、背が伸びたらまたおいで!
  ミーンミンミンミンミンミーン……

 圧倒的な秋の夕暮れが、いつしか私の背中におおいかぶさっていた。季節に相応しい虫たちの鳴き声が聞こえる。いくら鳴いても、わが仲間のメスはやってこない。この世にセミなのは、ただ私ひとりだ。
  グーウグウグウグウグウグーウ……

「ねえアナタ。お仕事、見つかったの?」
 あたたかい飯をむさぼる私に、妻がたずねた。
「ああ。でも、向いてなかったみたいで。ヤメたんだ」
 ハシをもつ手が、まだシビレていた。きっと大きなアザができているのであろう尻が、イスに圧迫されて、いっそう痛む。
 力尽きて木から落ちたセミは、しかし生きていたのだ。そして私は、セミとして死ねないことを知った。今や私は、空腹を満たすだけの、ただの人間に復帰していた。
「早く見つけてね」
「うん。それより、今夜ひさしぶりにセックスでもしないか。子どもをつくろう」
 ひどく疲れているし、尻は痛いが、交尾ぐらいはできると思った。しかし妻は、顔面の筋肉をひきつらせて首を横に振る。

 秋の夜長。ベッドのなかで私は、かたわらの妻の背中に向かって静かに鳴く。
  ミーンミンミンミンミンミーン……
 あわれなり私よ! 鳴くべき季節に鳴きそこねたうっかり者は、やがて眠りに落ちて夏の残骸となる。
夏の残骸 紺詠志

変化
太郎丸

「チャンチャラチャラチャカ、ッチャッチャッ」
 お笑い番組の主題曲が聞こえて、乗客は笑顔になり、携帯を握っていた若者は、画面に見入った。
 携帯電話禁止というのを、携帯で話すのを禁止というふうに理解しているらしいが、禁止の理由がペースメーカー等への影響だという事を考えれば、携帯メールだって禁止だと思うのだが、最近はメールでの遣り取りが多くなって、誰も文句を言わなくなってしまった。それも最近は若者に限らず、おじさんおばさんどころか、おじいさんもおばあさんも、子供だって携帯メールは必須のようである。
 しかし私は携帯メールが打てない。打とうとも思わない。第一携帯電話が嫌いなのだ。仕事の都合上持たされているというのも要因だろうが、メールが来ないように、誰にもアドレスを教えていないから、メールが来ていてもどうせ迷惑メールだと思って見ないで消してしまう。

 ある日私は出勤途中、営業の佐藤課長にあったので、朝の挨拶をした。すると佐藤課長は真っ青な顔をして、そそくさと私から遠ざかってしまった。お早うの一言も返せないとはなんたる恥知らず。しかも私の周りにいた人間さえもが、蜘蛛の子を散らすように離れてしまった。そして彼らは持っている携帯で素早く親指体操を始めた。まったく、携帯メールが流行るのは結構だが、みんながみんな携帯でメールを打っているというのは異様な風景である。
 パトカーのサイレンが聞こえてきたと思ったが、そういえば何だか今日は静かだと気がついた。そういえば駅に近いというのに、話声が全然聞こえない。車の音も何だか静かな気がするし、どうやら今日は車自体が減っているようだ。
 どこへ行くのかとパトカーを眺めると、なんと私の直ぐ脇に止まり、警官が3人降りてきて、紙を掲げた。

『会話はメールでしましょう』
『緊急時以外の屋外での発声は禁止されています』
『逮捕します』
『これ以上発声すると、罪が重くなります』

 私はあれよあれよという間に、パトカーの中に連れ込まれた。
「この中なら話しても罪に問われる事はありません」
 助手席の警官が声をかけてきた。
「一体どうしたっていうんですか?」
「ひょっとしたら、あなた携帯電話を持っていないんですか?」
「いえ、持ってますけど」
 私は鞄の中から会社支給の携帯電話を取り出した。
「ちょっと拝見」
 左隣の警官が、携帯を取り上げると、なにやら操作しだした。
「ちゃんとメールが来てますねぇ。これじゃ言い逃れしようがない」
「言い逃れって、一体何なんですか?」
 狭い車内で、がっちりした体格の警官に両脇から挟まれているからどうしようもないが、訳を説明しろと私は興奮していた。
「もうすぐ署に着きますから、そこでご説明しますよ。それまでこれは預からせて貰います」
 警官達は態度を軟化させていた。

「貴方は、今度出来た法律をご存知ですよね。メールもちゃんと来ていますし…」
「メールなんか私は見ません。大体メールアドレスなんか誰にも教えてないんですから、メールが来たって迷惑メールばかりですよ」
「あぁ、そういう事ですか」
 第三取調室と書かれた部屋に通された私は、ニヤついた村田と名乗った刑事の何とも奇妙な質問に辟易していた。村田刑事は調書らしい物を書いていたもう一人の男に、顎をしゃくった。
「最近テレビや新聞はご覧になっていませんか?」
「会社は遅くまで残業ですし、まだ独身ですから給料も少ないんで、もったいないから新聞は取ってません」
「しかも携帯のメールも見ていない、と」
「えぇ、そうです」
「困りましたなぁ。今度できた法律は結構厳しいんですよ。貴方はこれから携帯メールの4級試験に受かるまで拘束されます」
「えぇ、どういう事ですか?」

 結局私は何だか判らないまま拘束された。屋外で声を出したら逮捕され、禁固刑になるという法律が施行されたのだという。どうしても話したい場合には、携帯メールを使わなければならないらしい。私は査問委員会とでもいうのだろうか、そこで初犯だという事と資格がないという事から、教育センターに入れられた。どうやら4級の試験に合格すれば出られるらしいが、教育センターとは名ばかりで、そこは刑務所だった。

 食事の時間は決まっていたし、部屋の掃除から体操に講義と、一日のスケジュールは分刻みだった。講義などは、机に向かってただ一心不乱に携帯のメール打ちの練習だから、たかが親指を動かすだけなのに、翌日には腕が肩より上に上がらなかったし、箸を持つ手が震えて、満足に食事も出来なかった。訓練の為という事で話も禁止されたが、携帯メールは自由だった。
 税金で運営されていると思っていた刑務所だが、ここは1日辺り2千円が徴収される。貯金なんか殆ど無かった私は、時給700円の作業所の手伝いを希望し、自由時間を使って、一日分の支払いを確保した。

 入所して3週間程過ぎた頃、毎月行なわれるという4級の試験が実施された。
 試験は、書かれた文章が配布され、それをそのまま携帯電話でメールを打つという単純なものだが、用紙の半分程文章を入力した時点で、試験は終わってしまった。会場には200名程いたようだが、スピードと正確さが要求されるこの試験では、時間内に誤りなく送信した者だけが合格となる。私はもちろん不合格である。
 これではとてもではないが出られない。それからの私はなんとか親指が文字を覚えられるようになるまで、一生懸命訓練した。
 朝になれば、11111688811122222(おはよう)と暗唱し、食事の前に
は、114……40000227333(いただきます)言葉の代わりに数字が想い浮かぶようになってきた。後はこれを親指が自然に動くようにすれば良いのだが、やはり右手の親指だけではブラインドタッチが出来ず、必然的に入力も遅くなる。携帯電話を固定する為もあって、私は両手打ちを修得すべく、必死に訓練した。4級試験が、ひらがなだけというのが救いだ。
 そして次の試験で私は合格し、携帯を渡された。生きていく為の道具だから、今では国からの支給だが、これは電話では無かった。メールのみ可能な携帯機器だ。それから常時胸につけていなければならないとバッチを10個ほど渡された。バッチとメール機はセットになっていて、メール機を向けスイッチを押すと、バッチのデータを読みこみ、アドレスが自動入力されるらしい。
 そういえば捕まる前に、役所から郵便物が届いていたが、これが入っていたのかも知れない。

 私は出所して、すぐ職安へ向かった。最近では屋内でも口を利く者は殆どいない。許されるのは小さな子供か障害者くらいの者だった。
 さっそく申請書を書き、係の人との面接が始まった。もちろんそれはメール機での遣り取りだった。

《漢字やアルファベット、絵文字などは使えないのですか?》
《じかんはかかりますが、何とかなります》
《携帯メール4級ですか…。せめて2級を取らないと難しいですよ。まず職業訓練所で2級を取って下さい。その為の費用はこちらの申請書に記入して下さい。1週間程で結果が出ます》
《わかりました》

 私はなんとか新しい職場を見つけ、働き始めた。
 社会はどんどん変わっている。ラジオ局が廃止になり、テレビも字幕ばかりだし、音楽番組も無くなるそうだ。どんどん音無しの世界に近づいている。
 しかし、銀行強盗でさえメールで金を要求するご時世というのも不思議なものだ。
変化 太郎丸

『わたしが“彼ら”を救う』
橘内 潤

 わたし、清水美里が初めて“彼ら”を見たのは、小学2年生の夏休みだった。
 近所に小さな公園があって、わたしは夏休みのほとんどをその公園ですごした。

 その日、公園にいくと、いつもわたしが独占していた砂場には先客があった。誰だろう――そう思って近づくと、相手もわたしに気がついて顔を上げた。
 わたしは、その顔に見覚えがあった。
 高宮勇喜――同じクラスの男子だった。いつも馬鹿騒ぎしていた他の男子たちとは違い、良くいえば大人びている、悪くいえば内向的な性格の男子だった。
 彼に友達がいたのかは知らないが、そのときの彼は一人で砂遊びをしていた。
「高宮くん」
 声をかけたわたしに、彼は驚いた表情を返す。実のところ、わたしも自分の行為に驚いていた。
 彼のことは、同じクラスだから顔と名前は知っていたが、それまで話したことはただの一度もなかったし、まして自分から声をかけようとは思ってもいなかった。
「……なあに?」
 彼は驚きから警戒へと表情を変えて、慎重に答えた。
 わたしも、なぜか緊張しながら話しかけた。
「え、ええと……砂場」
「え?」
「砂場、わたしも遊んでいい?」
「……うん」
 彼はしばしキョトンとした顔をして、それからゆっくりと頷いた。

 その日から、わたしとユーキは一緒に遊ぶようになった。二人で砂場にお城をつくったり、ブランコをどちらが高く漕げるか競争したりして、夏休み中を過ごした。わたしはいつの間にか、彼のことを「高宮くん」ではなく「ユーキ」と呼び捨てるようになっていた――彼は相変わらず、わたしのことを「ミサトちゃん」と呼んでいたが。

「え~、皆さんに悲しいお知らせがあります」
 退屈な始業式が終わって教室に戻ると、教壇に立った先生が悲しそうな表情を作ってみせた。
「皆さんの大切なお友達、高宮勇喜くんが休み中に事故に遭って……亡くなりました」
 一瞬静まりかえった教室が、にわかに騒ぎだした。
「静かに! 静かに!」
 再び静まった教室を満足そうに見回して、先生は先をつづけた。
「勇喜くんは夏休みになってすぐ、近所の公園から帰る途中で交通事故に遭って亡くなりました。日頃から先生がいっているように、道路を渡るときは左右をよく確認して、手を上げて渡らなくてはいけません。先生のいうことをちゃんと聞かない子は、勇喜くんのようになってしまいますよ」
 ――今にして思えば、随分な教師だった。事故に遭った生徒を自分の権威付けに利用しようとは!
 だがあの当時、わたしにそんなことを考える余裕はなかった。なぜなら、わたしは確かに、砂場で会ったあの日からずっと、毎日彼と遊んでいたのだから。夏休みの最後の日、つまり彼の死を知る前日も、わたしは彼と砂場で遊んでいたのだ。「また明日ね」――そういって別れたのだ。

 混乱と恐怖に頭を撹拌されたわたしが家に帰ると、母が待っていて、わたしをこっぴどく叱った。わたしが夕飯の席でよく、ユーキと遊んだことを話題に出していたからだった。その日、町内会の集まりだかなんだかでユーキがずっと前に亡くなっていたことを知った母は、わたしがなぜユーキと遊んでいたなんて嘘を吐いたのかと、わたしを問い詰めた。その顔は子供心に、昔話に出てくる鬼か継母のように見えた。
 結局、その時のわたしは泣くことしかできなかった。それでも母は私を許さず、本当のことを話すまではご飯をあげませんといった。当然、わたしはその夜、夕飯抜きで泣き寝入ることになった。

 夜、空腹を訴える音が眠気を邪魔するなか、わたしは不意にあることを思い出していた。
 昨日、夏休みの最後の日――ユーキと最後に会った日、わたしはユーキに「また明日ね」、そういって手を振った。だけどユーキは寂しそうに笑って、「バイバイ」と手を振っただけだった。
 ユーキが寂しそうだったのは、夏休みが今日で終わるからだろうと思っていた。だけど、それはわたしの勘違いで、もう二度と一緒に遊べないことがわかっていたから寂しかったのではないか?
 わたしはユーキが友達と遊んでいる姿を見たことがあっただろうか? 誰かと遊んでいるところは一、二度見かけたことはあったが、そのとき、ユーキは本当に楽しんでいたのだろうか?
 ――もしかしたら、わたしがユーキの初めての友達だったのではないか?
 交通事故に遭って死んでしまったユーキは、初めてできた友達と、せめて夏休みの間だけでも一緒に遊びたかったのではないか?
 ユーキはわたしと一緒にいたくて、死んでしまった後も公園にやってきていたのだ。そうに違いない。
 ……もしかしたら、ユーキにとってわたしは友達以上の存在だったのかもしれない。当時、小学二年生だったとはいえ、ユーキは他の男子たちと違って、どこか大人びた雰囲気のある子だったから、ありえない話ではない。
 初めてにして最後の恋の相手に会うため、死んでからもわたしに会いにきてくれたのだ――ユーキはわたしと一緒にいたかったのだ。

 ユーキはわたしに恋していたのだ。

 ユーキにとって幸いだったのは、わたしが他の人間とは違う、特異な能力の持ち主だったことだ。わたしは“彼ら”を――死んだ人間を見ることができる特別な人間なのだ。
 もし私がただの人間だったら、ユーキは未練を残したままで成仏できなかっただろう。
 わたしと一緒に遊びたいというユーキの願いを、わたしは叶えてあげることができたのだ。わたしのおかげでユーキは救われたのだ。

 わたしがユーキを救ってあげたのだ。

 ――だけど、わたしはその日以来、この能力のせいで随分と苦しんできた。
 “彼ら”はわたしの事情などおかまいなく現れては、成仏させてほしいといってくるものだから、わたしの生活は“彼ら”を中心に回っているといっても過言ではない。そのうえ、“彼ら”の姿は普通の人間には見えないものだから、わたしは独り言ばっかりいう変人といわれて、露骨な虐めにもあった。
 “彼ら”が見えるようになってすぐの頃は、そのことで悩んだりもしたけれど、いまはそれもしょうがないことだと受け入れている。
 これはいわば、わたしの宿命なのだ。“彼ら”を救えることの喜びに比べたら、普通の人間に疎まれることぐらい、大したことではない。わたしが存在する意味は“彼ら”を救うためであり、それはわたしにしか理解できない喜びなのだ。
 ――こんなことをいっても、普通の人間には解かってもらえないでしょうけれど。

 でも、これだけは信じてほしい。
 ユーキはわたしに恋していたのだ。これだけは――たとえ私の能力を信じないとしても、これだけは信じてほしい。
 高宮勇喜は清水美里に恋をしていた。
 高宮勇喜は清水美里のために死んでも会いにきてくれた。高宮勇喜は清水美里のために家までスコップを取りにいったりしていない。高宮勇喜は清水美里のために急いで家までスコップを取りにいったりしていない。高宮勇喜は清水美里に虐められないために急いで家までスコップを取りにいったりしていない。
 高宮勇喜は清水美里に恋をしていた。
 ユーキはわたしが好きだった。だからユーキはわたしを喜ばそうとして急いでスコップを取りにいった。そして死んでしまったユーキをわたしが救ってあげたのだ。
 これだけは信じてほしい。
 どうかお願いです。わたしを信じてください。

 わたしがユーキを救ったんです。
『わたしが“彼ら”を救う』 橘内 潤

猫のことで
るるるぶ☆どっぐちゃん

 猫を殺そうと思った。
 こう言うとひどく才能が無いように感じるが、しかしそう思ったのだから仕方が無い。
 猫を殺そうと思った。
 僕は眠れずにベランダから隣の屋根を眺めていた。
 午前三時の薄闇の空にアルミのような光沢の月が在る。月は容赦無く輝き、街中に白い線を突き立てている。
 見上げる空は薄闇と黒雲のまだら。その下に横たわる街は灯を落とし、家も森も暗く、区別が無い。それらをチョークで引いたような直線で、月の白い光が放射状に分割している。
 その放射状の一つ、直線が闇と瓦を大きめに分割した向かいの屋根に、何かが動くのを僕は感じた。
 黒猫だった。
 黒猫はするりと闇を行き、瓦から降りた。
 家屋の陰。月の真下。僕の斜向かい。
 その闇の中から黒猫は、僕を見た。
 月の光一つ背負わない、闇の中の黒猫。
 見てはいけないものを見た気がした。
 そして同時に、綺麗に輝くその眼に見られながら、遂に、と思った。
 遂に見たいものを僕は見た。
 そう思った。
 猫は僕から、くん、と視線を外し、通りへと歩き出した。
 猫を殺そうと思った。
 僕は積み上げた膨大な白紙の山から鉛筆を抜き出して、玄関を飛び出した。
 猫を殺そうと思った。
 この時の感覚を僕はうまく伝えられない。僕は窓の外ばかりを見ていて何も知らないから、うまく例えることが出来ない。
 外に出ると月はもう雲の中に隠されていた。アスファルトが冷たい。裸足で来ていた事にやっと気づいた。
 猫を殺そうと思った。
 既に姿の無い黒猫を探そうと通りの真ん中に立ちすくみ、僕はそう考えていた。
 向かい風が吹いている。しかし、その考えに満足していた僕は、まばたきを必要としなかった。闇の中に目を開き、ぐるぐると巡らせ、猫を探す。
 猫を殺そうと思った。
 その考えは、あの白紙の山に書き付けた妄想空想の何倍も有用に思えた。
 遠くで、黒猫が闇を行くのが見えた。
 猫を殺そうと思った。
 僕はやっと思いつく事が出来たその考えに満足しながら、先をひどく平らにしてしまった鉛筆を握り、駆けだした。

「またシケた顔してるね」
 京子さんが言った。
「また眠れなくて」
 僕は答えた。
 結局、黒猫を捕まえる事は出来なかった。一晩中街を歩き回り、そのまま出社した。
「仕方の無い子ね」
 京子さんが言った。
 京子さんは有能で明るくて、そして厳しくて、でも優しくて、皆に人気が有る。僕も京子さんが好きだ。
 だがそれは上記のような理由では無く、明るさの裏に見え隠れする、言いようの無い何かを京子さんに感じていたからだった。
 京子さんも僕に何かを、もしかしたら感じていたのかも知れない。色々とかまってくれた。誘われて寝たりもした。
 予感は多分的中した。京子さんの体にはアザや傷が古いものから新しいものまで、無数に有った。
 伏せられた写真立てが一つ、目の端に入る。京子さんの部屋は明るかった。違う所ですれば良かったと思った。京子さんの身体は冷たかった。僕は暖めようとした。京子さんは僕を優しく撫でながら、君の身体は冷たいね、と言った。
 その声に何も答えないまま、僕は動き続けた。

 猫は見つからない。
 最初に猫を見た日には満月だった月は、既に半月へと変わっていた。
 僕は今日も猫を探しに行く。
 半月のオレンジ色した光が、世界をオレンジと闇に分断していた。
 その闇の中に、黒猫は確かに居る。
 僕は歩き続けた。
 猫を捕まえるのは思っていたよりも難しい。近くに居ると思ってもそれは月光の成す錯覚で遠くに居るし、遠くに居る、と思ったらいつの間にか猫は僕の側を歩いている。
 僕は歩き続けた。猫は見つからない。僕は歩き続けた。
 何時間歩いただろう。
 僕はいつの間にか知っている風景の中に居た。
 モダンなマンション。四階に、一戸だけ明かりがついている部屋が見えた。
 京子さんの部屋だった。
 その京子さんの部屋の前に、猫が居た。
 僕はマンションの中へ入っていった。エレベータを何となく使わず、階段を昇った。
 部屋に辿り着いた時には猫は既に居なかった。
 僕は部屋の前に立って、街を見下ろした。暗闇。オレンジ。
 猫は何処にも見つからない。
 帰ろうと思った。その時。部屋から、がたん、という大きな物音が聞こえた。
 僕は反射的にドアノブを掴んだ。鍵は掛かってなかった。僕は部屋に入った。
 部屋の中に、やはり猫は居なかった。
 部屋の中には京子さんが居た。
 そして、男が居た。
 男の足下で、京子さんは片目を押さえ、鼻血を出したまま、僕を見ていた。
 僕は部屋の中へ入っていった。男が振り向くより、僕の鉛筆を握った拳の方が速かった。
 男の頬は思っていたより冷たかった。もっと暖かいと思っていた。多分僕の体温と、0.1度も違わなかった。そしてそれにも関わらず、男と僕は違っていた。決定的に、相手を可哀想に思ってしまう程、男と僕は違っていた。
 猫は居なかった。鉛筆がぽきりと折れた。僕は二発ほど殴った。三発目の前に、男が僕を蹴り飛ばした。
 倒れた僕を、男は蹴り続けた。
 京子さんは片目を押さえたまま、僕をその暗い瞳で見ていた。

 気が付いた時、男は居なかった。
 めちゃめちゃになった部屋に、僕と京子さんだけが居た。
「馬鹿ね、あんた」
 京子さんが言った。
「馬鹿です」
 僕は答えた。
 体中が痛かった。立ち上がるのに苦労した。猫は何処にも居ない。
 京子さんはステレオの再生ボタンを押した。ジャズが流れ出した。スローなピアノ。それに絡む速いベース。
 良い曲だった。
「これ、あいつとあたし」
 京子さんは呟いた。
「CDとか出した時もあったんだけどね」
 そう言って京子さんは僕を抱いた。
 隙間を埋めて、ぴったりと重なる体。不幸と呼べる程に、ぴったりと重なる体。
 抱き合う僕達に何処からか猫が這い寄ってきた。
 猫は京子さんの喉や瞼を通り過ぎ、僕の心臓を越え、そして左手首から全身へと散った。
 そうやって猫は僕達いっぱいに広がり、僕達を見た。
 遂に来たな、と思った。
 僕はガラスの欠片を拾った。
 京子さんが僕を見上げている。
 猫を殺そうと思った。
 僕は、ガラスの欠片を、猫へ、向けた。
 その時。
「ねえ」
 京子さんは僕を見上げたまま言った。
「何ですか」
 僕は答えた。
 京子さんはそのまま僕を見上げ続けた。猫が、一つ欠伸をした。
 京子さんは目を閉じた。
「ちょっと待ってて」
 京子さんは体を離し奥の部屋へ入っていった。そして何かを持って戻ってきた。
「これ、あげる」
 京子さんは僕にそれを差し出した。
 それは、にゃあ、と鳴いた。
 子猫だった。
「大事に育ててね」
 京子さんは言った。
「大事に育ててね。絶対殺したりしちゃ駄目よ。大事に育てて。お願いよ」
「京子さん」
 いつの間にかあの黒猫は居なくなっていた。
「大事に育てて。お願い」
 京子さんは笑った。
「はい」
 僕はそう言って、子猫を抱いた。

 その十日後、京子さんは姿を消した。何処へ行ったのか。何が起こったのか。僕は何も知らない。

 僕は今あの子猫と暮らしている。
 不眠は解消しない。しかし京子さんの影響で音楽をやるようになった。ピアノが弾けないので歌を歌う。下手ながらも少しずつ解ってくれる人が出てきた。
 僕は猫を殺そうとは思わなくなった。
 だけど眠れない夜の散歩道で、あの奇跡のように残酷な日を、思い出す事がある。
 その度に、僕は泣きそうになる。
猫のことで るるるぶ☆どっぐちゃん

人を呪わば……
青野 岬

「人を呪わば、穴ふたつ……」
 
 子供の頃、一緒に住んでいたばあちゃんが私を寝かしつけながら、よく話してくれた言葉だ。
「いいか、朋子。人に簡単に呪いをかけたりしちゃあ、いかんぞ」
「なして?ばあちゃん」
「呪い返しと言ってな、それは必ず自分の身にも降り掛かって来るんじゃ。恐ろしい事だで、お前も気いつけにゃいかん」
「うん、わかった。朋子、そんなことしないよ」
「よしよし、ええ子じゃ」
 
 私が生まれ育ったのは、都会から遠く離れた古い因習が根強く残っている山あいの小さな村だった。誰かが風邪をひけばあっという間に村中の人に知れ渡ってしまうような、ひどく閉鎖的で陰鬱とした集落。あまりにも狭い世界。誰もが皆、顔見知りのこの陰気臭い土地が私は大嫌いだった。早く大人になってこの村を出て行く事が幼い私のかすかな希望であり、そして一番の願いであった。
 村にある古い神社には、たくさんの木や草が鬱蒼と生い茂っていて昼間でも薄暗い。大人には、その神社の境内で遊ぶ事は禁じられていた。でも、そこは子供達には絶好の肝試しスポットとなっており、大人の言うことを無視して夕暮れ時まで遊び呆けるのもよくある事だった。祠の裏には樹齢三百年を超える大きな杉の木がその圧倒的な存在感を以て、まるで神社全体を守るように包み込んでいた。
 ある日、その杉の木の幹に奇妙なモノが打ち付けられていた事があった。藁で作られた人形が、得体の知れない呪文の書かれた紙と共に何本もの五寸釘で全身を貫かれていたのだ。私はその無気味な人形に見入られてしまったかのように、その場から動けなくなった。何かとてつもなく大きな負のエネルギーを感じながら、それを上手く言葉にする事が出来ないもどかしさを抱えたまま。
 それを見つけた日、家に帰ってから母にその事を話すとひどく叱られた。「もう二度と、あの神社には行ってはいけない」と頭ごなしに言われ、結局あの無気味な人形の正体はわからなかった。
 ばあちゃんの話しと、あの藁人形の意味が頭の中で繋がったのは、私が中学校に上がってからの事だった。その頃には、すっかりばあちゃんは痴呆が進み寝たきりになってしまって、直接確認する事はできなかったけれど。
 どうもこの村は、昔からこのような儀式が人知れず盛んに行われていたようなのだ。それを聞いて、ただでさえ陰湿なこの村がますます嫌いになった。
 ばあちゃんは私が高校生の頃、死んだ。私は短大を卒業するのを待って、両親の反対を振り切ってそのまま逃げるように都会へ出た。生まれ育った村の事は、心の奥底に封印して。

 都会での生活は、村での生活とは比べ物にならない程、色鮮やかで楽しいものだった。私はそれまでの地味で味気ない田舎での生活の中で、こんな素晴らしい世界を知らないで生きて来た事を心から悔やんだ。
 眠らない街は人々のあくなき欲望をどん欲にむさぼり食う。気のきいたお店で美味しい料理に舌鼓を打ち、お洒落な会話を楽しむ。私は髪を染め、服を流行りのものに着替えて自分が生まれ変わったような気がしていた。
(もう、あの村には帰りたくない。私はもう、昔の私じゃない)
 最初の頃、いつも自分に言い聞かせていた言葉。でもやがて、それさえも忘れてしまう程、私は都会の暮らしに馴染んでいった。 
 そんな中、私は同じ職場のふたつ年上の先輩に恋をした。
 商品の発注ミスを上司に叱られ、泣きそうになっていた所をかばってくれたのが始りだった。その晩、彼と一緒に食事をしバーで飲んだ後ホテルに誘われた。そしてそのまま、私達は深い関係になった。
 こんなに人を好きになったのは、初めての事だった。毎日、出勤するのが楽しくて、彼の事でいつも頭の中はいっぱいになっていた。幸せだった。思えば、この頃が私の人生にとって一番輝いていた頃だったのかもしれない。
 でも、そんな浮き足立つような幸せな日々も長くは続かなかった。彼から別れ話しを切り出されたのは、付き合い始めてから半年後の事だった。
「君の事は今でも好きだ。でも、子供が出来てしまって……」
 私は二股をかけられていたのだ。しかも、もうひとりの相手とは同じ社内で働く、重役の娘だった。ほんの遊びのつもりだったが子供が出来てしまった以上、結婚しない訳にはいかなくなった……と申し訳無さそうに彼は言った。
 その女に近付いて、友好関係を築く事は簡単だった。世間知らずのお嬢様。彼女は私の小芝居を全く疑う事もなく、自分のデータを私に差し出した。私は彼を心から愛している。彼もまだ、私の事を好きだと言ってくれている。別れられない。あの女さえいなくなれば、彼は私だけのモノになる……。
 私の頭の中に、封印を解かれたあの神社での儀式が思い浮かんだ。女さえ……あの女さえいなくなれば、彼と私は今まで通り幸せな日々を送る事ができる。
(彼は、誰にも渡さない……!)
 私は休暇を取って、都会に出て来てから初めてあの村へ帰った。

 丑の刻参りは「丑の刻」と言われる午前一時から三時くらいの間に、漆黒の闇の中でひっそりと行われる。
 私は家族が寝静まったのを確認すると、顔に白粉をはたき唇に紅を塗って櫛をそっとくわえた。本来ならば白い着物を着るのが正式なやり方だけれど、手に入らなかったので白い手持ちのワンピースで代用し、儀式に必要な道具を持って家を出た。暗闇の中を風となって走ると、鬼クルミの殻で作られた儀式用の首飾りがカチカチと音をたて、私をさらに奮い立たせた。生暖かい風に乗って、湿った土の臭いが鼻孔を刺激する。都会には存在しない臭いだ。
 私は人気の無い神社の鳥居をくぐると、誰もいない事を確認してあの杉の木に藁人形を打ち付けた。私の幸せの邪魔をする、あの憎い女がいなくなる事を頭の中で思い描きながら。後れ毛が、汗で濡れた私の顔や首筋に貼り付く。呪詛の言葉を口にしながら金槌を振り下ろすたびに、コーンコーン……と乾いた音が夜の闇に吸い込まれて行った。

 あの女は死んだ。交通事故にあって美しかった顔に修復不能の致命的な傷を負い、
それを悲観しての自殺だった。もう私達の幸せを邪魔する者はいない。私は勝ったのだ。
 それから二年後、私は彼と結婚し都内に瀟洒なマンションを買った。幼い頃からの夢がやっと叶ったのだ。やがて彼の子供を宿した私は、この幸せな生活を守り抜く為に必死になった。幸せな家庭を築き上げる為に。そしてあの儀式の夜の事は、再び私の胸の奥底に封印された。
 出産の時を迎えた私はまる二日かかった難産の末、ついに彼の子供を産み落とした。なのに、看護婦は赤ん坊を産湯に浸からせに行ったまま戻って来ない。私は分娩台の上にひとり置き去りにされて、だんだん不安な気持ちになる。
 早く、早く赤ちゃんの顔を見せて……元気な子なの?男の子?女の子?誰に似ているの……どうしてみんな黙っているの?あなた……一体何をそんなにおびえているの?ねぇ、私の赤ちゃんは!?

 生まれた赤ん坊は女の子で、顔には思わず目をそむけたくなるような大きな傷があった。そして赤ん坊は、母親である私の顔を見てニヤリと笑ってこう言った。
「友達だと思ってたのに、裏切るなんてひどいわ。これからはずっと一緒よ」

 朋子……人を簡単に呪ったりしちゃいかんぞ……。
 それは必ず、自分の身にも降り掛かって来るもんだからな……
 わかったな……朋子……。
人を呪わば…… 青野 岬

手紙
林徳鎬

三行ちょっとで書くことはなくなった。大切な人に送る手紙だ。でもそれ以上書くことは思いつかないし、読み返してみても足りないところはとくにない。でもこれでいいのかと言われれば困ってしまうことも確かだ。
広い公園だけれど、向こう側にある時計の文字盤ははっきりと見えた。目に映るすべてがくっきりしている、ただ頭の中だけがまとまらなかった。さっきから離れない、とりとめのない想像の続きが、静かにやってくる。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
ここらでは、雪なんて珍しくない。一度降り出せば積もった雪が冬の間に消えることはまずないし、それまで僕は首が縮まったような気分で、数ヶ月を過ごすことになる。
「雪解けを待つ」とはまさに僕のための言葉だ。
僕にはちょっと変わった癖があって、最初の雪が降ったときから数ヶ月間を毎日のように、外とはちょうど反対、つまり冬の始まりの12月なら夏の始まりの6月、寒さが最高の2月なら8月って具合に頭の中で想像していく。放っておけばエントロピーは高まっていくらしいが、外の景色が静まっていき、動くものが少なくなっていくと、僕の頭の中は活発なエネルギーを作り出し、事物が様々に動き回る世界を映していく。
でも隣りの家の屋根に積もった雪が、窓の四角に切り取られているのを暖かい部屋の中から見ていると、かつてここに夏があったこととか、そこで自分が生活していたという実感がほとんど残っていない。だから想像の中の夏は、少しもありありとしたものではなく、旅行のパンフレットを切り取ってただ貼り付けたような、魅力的だけどうそっぽい感じがするのだった。
ただ、雪解けの季節は違った。春の風が吹くようになると、僕の頭の中では、ちょうど暑さがすっと幕を引いたように消えて、みんな袖があって生地の軽い服を着ている、過ごしやすい日々が始まる。4月とかそのあたりになると、乏しい想像力で描かれた正反対の秋の街には、紅葉も高い空もなく、ただ夏の暑さに解放された人達の涼しい顔ばかりが様々に映されているのだ。想像の世界で10月は秋でなく、窓から流れ込んでくる現実の世界の匂い、光、期待感によって、整合していき、みるみるうちに春の街と変わらなくなっていく。想像の世界が外に向かって開かれ溶け出していくそのかんじは、とても気持ちのいいもので、亀が甲羅から顔を出すように、僕は現実の世界に再び触れることが出来る。
僕は誰も訪ねて来ることのない部屋の窓からいつも外を眺める。悪い魔女に両足を切断されてからはずっとそうだ。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
風で顔をあげることも出来ない。
右手で何か突起のようなものを掴みながら、腹這いで両足を大きく開くと幾分安定した。残った左手が暗闇の中を探るが、屋根の油っぽい埃がべったり手についただけで、僅かに動かした腕の脇から、束になった風に持ち上げられそうになる。
電車がトンネルに入ってもう一分経った。地下鉄だから、このまましばらく地上に出ないかもしれない。屋根には10センチ四方程度の明かり窓がついていた。そこに顔の半分を押し当てて、完全にうつ伏せになると、背中を押し付けられるように圧力がかかり、吹き飛ばされる心配はなくなった。
ほぼ真上から見下ろすかたちで車内の向こう側の列が見渡せた。ドア付近に中年のサラリーマン風の男が二人立ち、互いに相手の顔を見ずに、なにやら慎重に話をしている。その脇に、若い男の四人組み、それから少し間を開けてやはりサラリーマン風の男が一人、並んで座っている。
轟音で自分の声すら全く聞こえそうもないが、窓に口をあてて叫び、それから額を三回、軽く打ち付ける。思ったとおり誰も気づかない、まあ気づいたとしてもすぐにどうなる訳でもない。駅に停まるのを待つしかないだろう。
視界の右側から、つまり電車の進行方向の側から女が歩いてくる。背丈は多分そんなに高くない、高校生くらいの年齢かもしれない。彼女はこんなところに小さな窓があることを知っているだろうか?あるいは、走る地下鉄の屋根に人間が貼り付いている可能性とか、そうなる事情がこの世にあるってことに思いを巡らし、上を見ることは。
と、そのとき、背中に押し付けられる風の力が、変化しているのをはっきりと感じる。徐々に、一定の間隔を置いて、背中に感じられる圧迫が強くなっているのだ。トンネルの天井が低くなってきているのだろう。もうあと少しで服が岩肌にこすれるかもしれない。その前になにか尖ったものに身体を引き裂かれることも考えられる、突然に。
恐怖がどうしようもなく高まり、予感というにはあまりにもはっきりと、身体が終わりの近づいてくるのを感じていた。女はちょうど真下に来て立ち止まった。彼女に助けを求めようと、もう一度窓に頭を-
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
簡単な絵をそえてみようかと思ったけど、何だか女の子のやりそうなことだと思い直してやめた。でも文章だけにするにはあまりにも字が汚いし、三行ちょっとでは余白がどうも寂しげに見えてくる。
一度手紙から目を離して時計塔の上らへん、空が白みがかったあたりをしばらく見つめ、それから時計の文字盤が動くのをじっと待つことにする。間もなく針が小さな時間が流れたことを知らせるためにカタリと動く。もう一度手紙を読み返す。それからため息をついて今度は公園の隅にあるゴミ箱に目を据え、中の空き缶の数を数えてみることにした。
ここから見えるぶんは全部数えてしまった後も、どうせもう一度手紙を見てもいまいちなことがわかったので、先にため息をついておいた。
ひとつの言葉が疑いようもなく、否定されることもなく伝わるには、この世の中には選択肢が多すぎる。例えば、これが一番素晴らしいものです、と本気で言ったところで、それを完全に信じさせることが出来るだろうか。物理学者が他の条件を完全に排除して閉ざされた空間で問題を追及するのと同じように、複雑な可能性に入り組んだ世界では、ひとつの気持ちが本物であることを証明するためにあらゆる要素を単純化し、取り除いていかなければいけない。だから、現実の世界で大事なものを大事だと宣言し、大切な人にそれを伝えるのは容易ではない。こんな平和に晴れた日に公園で大切な手紙を書くのはきっと間違っている。ここではあらゆる可能性が与えられていて、どんな発言も等価に意味を持ち、それゆえにひとつの言葉に真実味を与えることが難しい。
帰りの地下鉄のホームで電車が目の前を走っていき、人が大量に降りてくるのを感じながら、屋根に目をやった。例えばここで手紙を書くことの条件を作り出せるだろうか?この狭い空間であるひとつの言葉に切実さと、真実を与えることが。乗客の波に身をまかせ電車の中に入ると地下鉄の屋根には明かり窓があるだろうかと思い、天井をよく眺めてみた。もちろん地下を走る電車にはそんなものはついていないのだが、宇宙物理学者達はそれを聞いてどう思うだろう?彼らの論文にはきっと、「ただし、天井には小さな窓がついているものとする」なんて書いてあるだろう。
そして、うまく制御された状況下で、彼らは感謝の言葉を口にし、あるいは愛する人たちに愛を伝え、おそらくそれは成功するに違いない。
手紙 林徳鎬

天気予報。
斎藤あや

 テレビの天気予報では、見慣れたニュースキャスターのおじさんが、今日も降水確立80%だと言っている。そこまで聞いてあたしは電源を切った。いってきまーす、と心の中でつぶやき、履きなれたスニーカーに足をつっかけてあたしは玄関を出る。もちろん傘は持っていない。面倒くさいのだ。傘を、持つことが。

駅までの道のりは徒歩で10分くらいかかる。無表情でせかせか歩くサラリーマンやOLたちが、みんな片手に傘を持っているのをちらりと横目で見て、あたしは少し歩みを早める。いつもと同じ電車のいつもと同じ車両に乗り込むと、あたしはドアに寄りかかって、ひとつ、深呼吸をした。大学に入って初めての電車通学にも慣れた頃、だいたい電車に乗る顔ぶれも同じになってくる。ななめ前の席には、今日も大学生風の男の子がヘッドフォンをしてねむたそうに座っていた。そういえば最近髪型を変えたな、とぼんやり眺める。前のやつも似合ってたけど、今回のもそんなに悪くない。同じ年くらい、かな。いっつも音楽を聴いてて、雨の日には青いビニール傘を持っている彼は、香水臭いおばさんたちやおじさん特有のにおいのするサラリーマンたちに混じって、ひとり爽やかな雰囲気を醸し出している。だから電車の中で、彼は貴重な存在だ。目の保養、とゆうか退屈な電車通学の中の心のオアシスみたいなものだ。・・・オアシスね。
 そこまで考えて自嘲気味に笑った。

 20分も乗っていると自分の降りる駅がアナウンスされて、あたしはドアから少し体を離す。男の子に視線を移すと、あくびをかみ殺しているところだった。

’バイバイ、爽やかくん。’

 ・・・我ながら、心の中でのネーミングはぴったりだと思う。

 改札を出ると、あたしはCDのボリュームを少しだけ上げる。駅から学校まではゆっくり歩いて20分くらいかかる。ゆるやかな坂が続いていて、まわりは住宅街が続いている。友達は田舎くさくてやだって言ってたけど、あたしはこのあたりの雰囲気が嫌いじゃない。庭先にある小さな花壇には季節ごとの小さな花が咲くし、そこらじゅうにノラネコがねそべっている。人間に慣れているのか、あたしが近づいても動こうともしない。(ひどい時はあたしの方が猫をよけて歩くくらいなのだ!)小さいけれどちゃんとぶらんこも滑り台もある公園も好きだし、大きな桜の木が春には満開になる。
 ポケットに手をつっこんで、あたしはゆっくり息を吐き出す。どんよりした曇り空は今にも雨が降り出しそうだ。しばらくしないうちに空が明るく光って一瞬間があったあと、雷が鼓膜をやぶりそうな勢いで鳴り響き、あたしは思わずウォークマンを止める。くたくたのスニーカーに大きな水溜まりが出来はじめ、歩みを早めてはみたものの、走る気にはなれなかった。

 ここのところ、心に得体の知れない小さな棘が刺さるのを感じる。いや、本当は分かっているのに気づかないふりをしているだけなのかもしれない。無数の小さな、でも確かに鋭い棘たち。棘たちはあたしをちくちく責める。

 ・・・面倒臭いことは好きじゃないのに。

 塀からはみ出してこぼれそうに咲いている紫陽花は薄い青色が寒そうで、椿の葉は雨に濡れてますます色を濃くしている。と、ふいに目の前が赤く染まった。

 ・・・まったく、何であたしはこうも簡単に動揺してしまうんだろう。どうしてこの人はこうもあたしを動揺させてしまうんだろう。

 おはよ、と言って今日も赤い傘をさす夏木は、どうしたって格好良い。傘、持ってこなかったの?と聞かれても、今日、天気予報見てこなかったから、と言うだけであたしは精一杯だった。

 夏木こと夏木清司に最初に会ったのも雨の日だった。大学の入学式、慣れないスーツとヒールと雨とにうんざりしていたあたしの目に、黒や紺の傘が並ぶ中、ぽつんとひとつ、赤い傘が咲いた。不機嫌だったあたしは、その赤い傘の人に三流小説並みに一目惚れしてしまったのだった。そして、赤い傘の人と話すようになってから何ヶ月か経ち、その人の口から俺の彼女、という言葉が出てきたのはそう最近のことではない。

 夏木はあたしの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれている。傘を持つ手や、頭ひとつぶん上にある横顔はすごく近くて、あたしは水溜まりにうつる雲を見ているふりをする。予告なく大きなくしゃみをした夏木は、風邪ひいたかな、とつぶやいて、それから、ちょっとためらってから、最近元気ないけど、と言った。

 最近元気ないけど大丈夫?

 まただ。また微かな棘がちくり、と刺さる。

 あたしはそれに答える代わりに、その傘、彼女が赤が好きなんだよね、と言った。ちくちくの棘は、更に深い場所に刺さってくる。はは、と照れて笑う夏木は、どうしたってやっぱり格好良い。あたしはひとつ、大きな深呼吸をした。

 あたしは面倒臭いことが好きじゃない。誰かのことで泣いたり喜んだり怒ったり心配したりなんて疲れるだけなのだ。

 でも。

 それでも。

 小さな棘の正体は最初から分かっていた。滲む赤い棘に、自分で目隠しをしていた。雨が降る日はいつだって探していた。最初から無理だったのかもしれない。そばにいるのに触ることが出来ないなんて、笑って相づちをうつなんて。

 でも、とあたしは心の中でつぶやく。

 でも。

 たまには面倒くさいことも良いのかもしれない。
 ・・・ぬるま湯は自分を甘やかすだけだから。

 深呼吸をしてから、あのね、と言う。ゆっくり、言葉を選びながら。

 あのね・・・。



 今日も天気予報では降水確立80%。おじさんは相変わらずにこにこしながら全国各地の天気を予想している。テレビの電源を切ってから、あたしは行ってきまーす、と大きな声で玄関を出た。もちろん、傘は持っていない。

 一段飛ばしで勢いよく駅の階段を登りながら、今日は学校帰りに靴を買おう、と思った。このスニーカーもそろそろくたびれてきたし、今度は明るい色のを買おう。うんと元気が出るような靴。
 階段をのぼりきるとあたしは肩で息をしながらまっすぐ歩く。目の前にはホームの売店。そこにはいろんな色のビニール傘たちがばらばらとぶらさがっている。ちょっと迷ってから、あたしは青いのを選んで500円玉をおばちゃんに渡した。

 いつもと同じ電車。いつもと同じ車両。いつもと同じ顔ぶれ。今日も爽やかくんは眠たげにあくびをかみ殺している。ドアが閉まると、あたしは思い切ってその隣に腰をおろし、その勢いで爽やかくんに話し掛ける。

 ’・・・いっつも何聴いてるんですか?’

 あ、しまった。名前聞く方が先だったかな。一瞬驚いた顔をした爽やかくんは、ヘッドフォンをはずしたあと、イメージ通りの爽やかな笑顔で、今日は傘持ってるんですね、と笑った。
天気予報。 斎藤あや

雨音
桜林美野

 柔らかなオレンジ色のライトが、艶やかなグランドピアノを照らしている。
 革張りのソファに座りレッスンを待っていた少女が一人、また一人と帰ってゆく。再び先生と二人になった柚子は全神経を集中させてピアノを弾いている。肩や目の疲労、空腹感と闘い、「今は何時なのだろう」と柚子は思った。隣の部屋から振り子時計の音がする。慎重に指を動かしながら数える。「六、七、八、八時か……」
 かれこれもう三時間もここにいることになる。
 「そう、静かに、じっくりと、そう、いい? 音をしっかり掴んで。」
 先生の指示のもと、柚子は言われるがままにひたすら複雑な和音を追う。
 「もう譜面は見ないで。暗譜は済んでるでしょう」
 「……はい」
 パタンと閉じられたショパンの『雨だれの前奏曲』を柚子は未練がましく見つめた。
 今回の発表会の曲を告げられ、CDを聴いた時、柚子は正直つかみ所のない曲だと感じた。中盤のクレッシェンド以外は、特に印象深いところも感じられない。まあ、なんとかなるだろうと譜面を開き、いざ弾き始めた時から柚子の苦悩は続いている。とにかく指使いが複雑で、半音上げ下げのシャープ、フラットが多すぎる。とても両手で弾けない。とにかく曲の流れを頭に入れるように言われ、柚子は通学電車での朝夕一時間『雨だれの前奏曲』を聴き、赤鉛筆の注意書きで埋め尽くされた譜面を追った。頭の中は常に『雨だれの前奏曲』が流れ、自分の靴音すらも音を追っている。歩けば歩くほどに、走ればそれだけの速さで柚子を折って来る。「ワーーッ」と叫びたい衝動を押さえ、柚子はひたすらピアノを引き続けた。
 「はい、ここからクレッシェンド、そう、もっと力を出して。いい? 焦らないで」
 親指から小指をめいっぱい伸ばし、しっかりと音を掴む。上半身の力を込め、前のめりになり、柚子は精一杯のクレッシェンドを出す。耳にかけていた前髪がこぼれ、目の前で揺れる。
 ここで躓くわけにはいかない、と柚子は懸命にピアノを弾く。とにかく今日は一度通しで弾ければ、終わりだ。
 曲は終盤を迎える。
 「そう、最後は虹のように。ペダルを何度も踏んで。音を濁らせないで。そう、きれいに。静かに。……はい、いいでしょう」
 最後の和音が静かに消えてゆくと柚子はそっと鍵盤から手を離した。
 目の下に真っ黒なクマを作り、柚子は先生の家を出た。夏といえども八月を半ば過ぎると、夜には冷たい風が吹く。柚子は風に乱された髪をかき上げ、そっと先生の家の明かりの消えた一室を見やる。あの窓から響士が柚子に声をかけた日からもう十年も経つ。柚子が小学校に入った年、先生の一人息子の響士は中学生だった。
 窓際に積んでいたCDを落とし、道路の真ん中に放り出された一枚を丁度やってきた柚子に「拾って」と響士が頼んだのだ。手提げ袋を持った小さな柚子が拾ったCDは、骸骨の絵が入ったヘビメタルで、ひどく驚いたのを覚えている。
 その日から響士は柚子を見かけると、声をかけ、時々からかったりした。背の高い派手でちょっと素敵なお兄さんの響士が、ランドセルをしょった柚子や、中学生になり紺の制服を着た柚子に声をかけるたび、一緒にいる友達は羨ましがった。
 「響ちゃん、今ごろどうしてるかな」
 軽音楽の傍ら、洋服のデザインに目覚めた響士は今、フランスにいる。出発の前日、響士は柚子にさよならを言うため、外でレッスンが終わるのを待っていてくれた。ずっと響士を想い続けていた柚子はこれが最後のチャンスかもしれないと思ったが、結局何もいえなかった。
 いつのまにかタバコの匂いがして、車のキーをジーンズのポケットに突っ込んだりしている響士は、近くにいても、柚子には遠い存在に思えた。
 響士はノースリーブの仕立ての良さそうな白いシャツを着ていた。そしてさらりとした長い前髪の奥で目を細めて微笑んだ。
 「元気で、ピアノ、頑張ってね」
 「うん、元気で……」
 それが一年前の夏に響士と交わした最後の言葉だった。
 柚子はため息をつき、歩いて二分の自宅へ戻った。玄関を開けると明るく冷房の効いた我が家が柚子を包み込む。食堂とつながっている広い居間のテレビはつけっぱなしになっていた。母親が二階から降りてきて、柚子のために鍋を火にかけたり、冷蔵庫を開けたりしている。
 テレビは「名曲アルバム」が点けられていて、あろうことかさっき弾いたばかりの『雨だれの前奏曲』が流れていた。画面は雨にかすんだどこか外国の島だ。
 柚子はテーブルにつき、解説の白い文字を追った。
 『1836年、秋、作家で六歳年上のジョルジョ・サンドと出会ったショパンは、地中海のマジョルカ島へ静養と、スキャンダルから逃れるために行く。雨の続く静かな島で、ショパンが目覚めると、ジョルジョの姿はない。故郷から離れた地での孤独と不安の中で、ショパンは『雨だれ』を書いた』
 ここで解説は終わり、柚子は『雨だれの前奏曲』に耳を傾ける。次第に目頭が熱くなる。テレビから届く一音一音が心に響く。時を越え、ショパンの心を伝える音色が沁みた。
 柚子はピアノの蓋を開け、深呼吸する。自分はまだ愛の深さを知らない。激しさも、悲しみも、孤独も。それなのに不思議だ。音が心に眠る情熱を引き出していく。知らないのではなく気づかなかった情感を、導き、震わせ、熱くする。
 柚子はゆっくりピアノを弾き始めた。
 ―ここは孤島。目覚めると雨音だけが聞こえる。愛しいあの人はどこへ行ったのか。心に渦巻く想いはただ、心の中でうごめき、その声を聞くべき人はいない。雨音だけが、聞こえる。
 ふいに柚子は心の中の自分の声を聞いた。
 すぐにかき消されてしまうような声。
 「響ちゃん、会いたい」
 温かく祈るような想いは髪の毛一本一本から指先まで伝わる。響いてゆく雨音と和音。自分の心が、体温を移すように音になればいいと柚子は思った。
 「ちょっと、柚子、ご近所の迷惑だから明日にして! 」
 母親の怒声が柚子の感動を一気に吹き飛ばしてしまった。
 「もう、今、いいところなのに」
 柚子がピアノの手を止めて、振り返る。
 「ああ、柚子に小包届いてるわよ。部屋にあるから」
 柚子はふくれたままさっさと食事を済ませ、自分の部屋に入った。電気を点け、ショパンのCDをかけて、譜面を開く。
崇く、深く、譜面に息づく想いを舞い上がらせる。涙のような雨音をつぶさぬように。
 曲が終わり、柚子はほっと息を吐いた。そして、机に置かれた包みを手にとった。デパートの紙袋サイズのそれはとても軽い。柚子は宛名に目をやり、手を震わせた。擦れて薄くなったローマ字。
 「響ちゃん、」
 包みを破くと中からオフホワイトの可愛らしいドレスが姿を現した。
 『元気? ピアノは続けてますか? 服のサイズは外人向けでなく、柚子ちゃんに合わせて作ってあります。響士』
 メモのような走り書きの文字を柚子は何度も繰り返し追った。
 「ぷ、何よ、外人向けでなくって。失礼な……。響ちゃん、ありがとう」
 静かに雨が降り出した。雨が降るたびに涼しくなり、季節は秋へと向かう。八月最後の日曜はピアノの発表会だ。そして秋になれば響ちゃんが帰ってくる。
 網戸から入ってくる風を受けながら、柚子はただ静かに雨音を聞いていた。
雨音 桜林美野

帰郷
卯木はる

 でっぷり太った明太子の縦半分にすうっとナイフを入れて、観音開きに開くと、粒々した中身がはちきれるように溢れ出た。
「立派なたらこじゃないの」
 台所で大鍋に湯を沸かしている母に向かって声を掛けると、上等よ、と返事があった。セキヤの高級品なんだから。
 薄桃色のほぐし身をガラスのボウルに移すと開け放った勝手口から、黒い絽の暖簾を揺らして、涼やかな風が肌をなでた。少し時期はずれの夏期休暇。久しぶりに戻った故郷は送り火を済ませて、つくつくぼうしが鳴いていた。
「オリーブオイルあるかな」
 曖昧な返事しか返ってこなかったので、ないものと判断して、冷蔵庫を調べに行った。チルド室のバターを手にとる。どこか高原の牧場のブランド名。ちょっと考えてから、マーガリンの方を取り出して、食卓に戻った。
 着色料がついていないから、毒々しい色じゃあないでしょ、真っ赤に染められた明太子なんて口にする気にもなれないけれども。湯が沸く間、朝食の洗い物をしながら、母はとりとめのない話を続けている。そういえば、同級生のヨウコちゃん二人目生まれたって。女の子ですってよ。そっりゃあ、色白でかわいいらしいわよ、お母さん似ね。うちも、孫でもいればねえって。
 マーガリンは古いのか、断面が少し白く変色している。バターナイフで削いでティッシュで刃先を拭いてから、黄色い塊の一角を切り取ってボウルに投げ込んだ。カレースプーンで練り合わせると、二色はやがて淡く色づき均一となった。浅葱の小口切りが冷凍庫にあったと思う。しょうゆで風味をつけて、それから。
 それから、何を入れようか。

 金曜日だから、彼はまっすぐ私の部屋に帰る。一人暮らしのキッチンで二人分の夕食を作るのは日常になっていた。
 今日はおからのサラダにする。レンジで水分をとばしたあと、口当たりをよくするヨーグルトをなじませた。彼のお気に入りの一品。マヨネーズで和えるとしっとり白くなめらかで、ポテトサラダと言っても通る食感だ。
 もうすぐ午後9時。いつもの笑顔で、口いっぱいに頬張りながら首を傾げて言うだろう。
「ポテトにしか思えないよなあ」
 何度食べさせても不思議がりながら口に運ぶのが、このサラダを食べるときの作法のようになっていた。
 水にさらした玉葱を固く絞ってざっとおからに合わせる。さて、それから。
 玉葱以外の具材を考えていなかった。
 キッチンには熱がこもっていて、火を通したトマトとコンソメの匂いが漂っている。サラダの前に、中華鍋いっぱいのラタトゥイユと、レタスのスープを作った。換気扇の回る低い音が沈み込むように響いていた。からだが重い。昼間、冷房の効いた室内に座りっぱなしだから、冷房病かもしれない。手足が鉛に変わったようだった。
 手軽に仕上げるならミックスベジタブルという手がある。
 グリンピースと角切り人参、スイートコーン。お子様ランチのピラフの具材がこんな風だった。加えるだけで彩りがよくなって懐かしい雰囲気になる。冷凍庫にあるはずだ。ミックスベジタブルでさっさと済ませよう。
 そう思ったところで彼の言葉が浮かんだ。いつだかコロッケをひとかじりした後、緑とオレンジと黄色の中身を目にしてつぶやいたのだ。
「今日の手抜きだな」
 ラタトゥイユを作ったときにズッキーニ代わりに使ったキュウリが余っていた。実家の父が今年できたと送ってくれたものだ。家庭菜園で太陽をいっぱいに浴びて育ちすぎたのか、スーパーで見かけるのよりバカでかくて下膨れ、大きくくねった形をしていた。
 縦に割って舌触りの悪そうな種をスプーンで除くと、白い身に含まれた水分が滴った。薄切りにして粗塩をふり、よく揉みこむ。沁み出た水分をぎゅっと絞って捨てると、おからに加えた。
 ボウルを冷蔵庫に放り込み、換気扇を切ると手を拭きながらエプロンを投げた。座布団に倒れこむ。
 床の冷たさが快い。
 背の低い円卓は既にセッティングされている。柿渋で染められたマットを向かい合わせに置いた。ナイフとフォークと箸を順に並べてある。ビールとグラスは冷えている。あとはサラダをマヨネーズで和えて、ハーブオイルに浸けてあるチキンを網焼きするだけ。
 午後9時20分。もう帰るだろう。時間を刻む音がまぶたも重くしていた。少しだけ。眠気に身を任せることにした。

 立て続けに鳴るチャイムで目が覚めたら、午前0時をまわっていた。
「悪いな、先輩につきあわされちゃってさ。晩飯済ませたんだ。」
 鍵を開けて招き入れると、彼はネクタイと上着を床に投げ出して、座布団にあぐらをかいた。私は服を拾い上げ、少し朦朧とした頭でハンガーに掛けた。
「おまえ、まだだったのか」
 しつらえられたテーブルを前にして、ばつが悪そうに、ビールくらいつきあうと言う。眠っちゃったからと、冷えきったビールとグラスを差し出すと、彼はひとりでやり始めた。箸休めのサラダをマヨネーズで和えて胡椒をたっぷりふった。もう遅いし、食欲もないから今日はこれでいい。
 蛸唐草の小皿にサラダを盛って出すと、彼はちらりと目をやって、わたしのグラスにビールを注いだ。
「一杯もらうね。」
 冷えた液体が食道を通過して胃に注がれるのが気持ちよかった。飲み干してグラスを置くと、彼がサラダに箸をつけたところだった。
「飽きたな、これも。」

 大鍋の湯が沸いた。ばらばらっと音がして、パスタが放り込まれた。母の話はまだ続いている。
 そうだ、それから。
 ちりめんじゃこが冷凍庫にあった。海のものだから明太子には合うだろう。風はあるけれど、日が高くなって気温が上がり始めたようだし、生姜ですっきりさせるのもいいかな。チューブの生姜があったから、ちょっと絞ろう。
 扇風機のスイッチを入れた。傘はゆっくりと首を振るとテレビにひっかかり、カタカタと音を立てた。
 あのとき、規則正しい秒針の音だけが響いていた気がする。
 彼の帰った部屋で私はボウルにいっぱいのサラダを平らげた。おからはマッシュポテトのようにしっとりして胡椒が効いていた。水気をよく絞ったキュウリは風味が損なわれていない。生の玉葱の歯ざわりがしゃりしゃりと心地よかった。
 竹ざるにパスタがざあっと上げられて、湯気の中から母が号令を発した。
「できたよ」
 ボウルに茹でたてのパスタがあけられた。手早く和える。明太子がマーガリンと溶けてパスタに絡み、ほどよく照りを出した。冷凍浅葱をたっぷりと加えると瑞々しい色が蘇った。
 おいしそうだとつぶやく。
「食欲あるなら、心配することないね」
 はっとして顔をあげると、パスタを大皿に分けながら母が微笑んだ。
 そういえば、帰郷してからまともに口を聞いていない。食事を作れと言ったのは何かあったと見て取ったからか。
「おいしいねえ。あんたのたらこスパゲティは、ほんとにおいしい」
 フォークで麺を大雑把に絡め取りながら、母はやはり同級生の近況を話し始めた。私は母の声を遠くに感じながら黙々と口を動かした。唇はマーガリンと明太子の粒つぶとでベタベタする。食欲はないと思っていたが、茹でたてのパスタはいくらでも胃袋に納まる感じだ。
 空腹だった。こころもからだもお腹がすいてたまらなかった。
 食卓には、油脂で汚れたボウルと二枚の大皿が残った。
「母さん、わたし、お見合いしようかな」
 麦茶をすする母が顔をあげた。グラスの氷がからんと音を立てた。
帰郷 卯木はる

眠りの空
坂口与四郎

 むかし、むかし。

 あるところに、奇病を持つ女の子がいました。この星の医学では回復不可能との結論に達し、惑星一つを挙げての大プロジェクトとして、もっともっと医学の発達した星の力を借りる事になりました。病気の進行を遅らせるために、女の子はコールドスリープ状態で宇宙船に乗り込むことになりました。おかあさんは女の子のために桃色のコールドスリープ用のベッドをあつらえました。おとうさんは、黙って泣いていました。

 女の子が旅立つ日がやってきました。女の子はすでにコールドスリープ状態なので、お別れを言うことも出来ません。
 宇宙の優れた医学を勉強するために、田野坂教授率いる研究班も同行することになりました。宇宙船が発射しました。力強い轟音に、誰もが女の子が健康体になって帰ってくることを期待しました。

 宇宙船が銀河系をぬけました。まだ自星との交信は可能です。しかし、通信機が反応していません。船は宇宙海賊によりスペースジャックされていたのです。宇宙についてよく知らない医学班が先頭に立って計画したので、なんだかんだいっても突発的なアクシデントには弱かったのです。

 宇宙海賊は、まず事件を通報されることを防ぐために操縦士を殺し、船内の医療機器を売り払い、田野坂教授率いる研究班の医学的知識を根こそぎ吸い取り、残りかすを奴隷として僻星に売っぱらってしまいました。ロケット自体もなかなかの良い製品でしたが、盗品のロケットは足がつきやすいので解体して部品のばら売りをします。
「がははは。なんてバカな船だ!」
 さて、問題です。宇宙海賊たちは悩みました。まだ幼い可愛らしい女の子なので、奴隷にしろ食料にしろにしろ星によっては高額な取引が期待できるのですが大きな問題があります。女の子のベッドには、宇宙共通語で、
「症例X」
と書かれていたのです。女の子は病気なのです。もし、伝染病ならば一家の危機です。冷凍のまま売ろうという案もでましたが、結局コールドスリープベッドごと外に捨てることが決定しました。宇宙海賊は、考えるのが面倒になってきたのです。女の子は宇宙に捨てられました。コールドスリープベッドは簡易宇宙船にもなる当時の最新型でしたので、女の子を眠らせたままプカプカ宇宙を漂い始めました。

 「宇宙の恵まれない子供達に愛の手を」事業団の船が女の子を拾い上げました。
「なんと恵まれない子だ!」
 事業団は、女の子の保護育成に手を貸そうかどうか悩みました。しかし、女の子は事業団の「恵まれない子供リスト」には名前が載っておらず、事業団としては症例不明の病気もちは厄介だと船内決定し、
「見なかった。」
 ということで、宇宙に返されました。女の子は、またもや宇宙を漂います。

 宇宙旅行中の子供のいない老夫婦が、女の子を拾いました。
「なんて可愛い子だろう。」
 妻は女の子を家に連れ帰ろうとしましたが、夫は妻を諌めました。
「待て、ここに『症例X』と書いてあるだろう。この子は病気なのじゃ。食あたりを起こしても、知らんぞ!」
 食べられないとわかると、老夫婦はあっさり女の子を宇宙に捨てました。  

 宇宙学会で嫌われ者の少々マッドな科学者が女の子を拾いました。
「すばらしい! エクセレント!!」
マッドな学者は、宇宙一のデータベースを誇る宇宙図書館へアクセスしました。しかし、女の子の名前は意外なところから発見されました。
『あの子を返して! 宇宙で病気の女の子が行方不明に』
宇宙歴から見ると、どうやらこの事件はまだ時効が切れていないようです。マッドとはいえ小心者の学者先生は犯人とみなされるのを恐れ、何もなかったかのように、女の子を宇宙に戻しました。

 あれから。

女の子はまだプカプカ宇宙を漂っていました。幾度か、他の宇宙船に拾われましたが、結局捨てられてしまいます。やがて、コールドスリープベッドの桃色も宇宙線やさまざまな衝突により色を失ってます。もう、「症例X」の文字も読み取ることが出来ません。ベッドはプカプカ宇宙空間を漂っています。燃料も残りわずかになってきました。

 突然、小さなチリがベッドに衝突し、女の子のベッドは方向を変えました。そしてそのまま小さな星に吸い込まれるように落ちていったのです。

どーん!
ばらばらばらばら

 ベッドは予備燃料により、ジェット噴射で木々をなぎ倒すのみで、比較的静かに不時着しました。

 二足歩行の動物が近づいてきました。好奇心旺盛であるようです。動物が手を伸ばしました。火傷をしました。落下時の摩擦により、熱を持っています。動物は、熱がひくのを待つことにしたようです。座り込んで黙って見ています。

 しばらくのち、火傷をしない程度の温度を確認すると、動物は動き始めました。匂いを嗅ぎ、隅々まで撫でまわしていると、おや、小さな窪みを発見したようです。動物が窪みに爪をかけ、そして引き上げました。中には赤いボタンがみえます。動物がそのボタンを押しました。

うぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん

 なにやら怪しげに唸り始めました。動物が数歩後ろに下がりました。しかし、これ以上大きな動きは無いようです。動物は安心して座り込みました。
 夕暮れになりました。唸り声はまだ止まりません。動物はそのまま一晩中離れませんでした。

 朝になり、物体の中で何かが動き始めました。どうやら解凍作業が終わったようです。燃料はもうすっからかんです。

 目を覚まし、女の子は驚いてしまいました。目の前には半裸のひげもじゃでけむくじゃらの男がいるのです。しかし、その目は優しげです。遠い昔の誰かを思い出させます。悪い人ではなさそうです。
「あなた、おなまえは?」
男は、あーとかうーしか言いません。女の子は自分が先に自己紹介をしようと思いました。
「あら?」
なんと、女の子はあまりに長い間眠っていたために、自分の名前を忘れていたのです。これでは自己紹介できません。自分が乗っていた箱に、なにか手がかりはないかと探しました。箱の中には何もありませんでしたが、スイッチのふたに、小さく何かが書いてあります。
「eve、Eve……」
女の子は名前どころか、文字すらも忘れていました。
「えば!」
男は叫び、女の子を抱えぐるぐる回りました。女の子は楽しくなってきました。
「そう、エバよ!」
女の子は大きな声で叫びました。

 女の子は、不時着から一万と五千二百三十七回目の朝、洞窟の中で男と子供達に見守られながら静かに息をひきとりました。女の子の病は、けして治ることはなかったのです。女の子はたくさんの子を作りましたが、健康体の子供は一人も出来ませんでした。女の子は、ある時期が来ると死んでしまうという奇病の持ち主だったのです。

 女の子は何も思い出さず、たくさんの同じ病を持つ子供を作りました。そして、幸せに人生を終えたのです。

 男は、女の子を土に埋めました。

 その後、男は自分しか知らない秘密の抜け穴から、子供達に内緒で洞窟の奥のほうに隠していた女の子が乗ってきた箱を運びだし、川に捨てました。
 そして、そのままどこかへ行ってしまいました。

 女の子のベッドがどんどん流されていきます。田野坂教授率いる研究班の誰かが書いたであろうあの文字も、読めなくなるでしょう。

Every Doctor Gave Her Up.

女の子は宇宙一の幸せ者でした。
眠りの空 坂口与四郎

Sアダプター
ラディッシュ・大森

みんなさぁ~、よくよく考えてみて!おっかしいよね。

おっかしすぎよ。

世の中おかしいこと多々あるけど、こんなおかしいことないよ。

よりによって、あんなとこに、ものあんなものを突っ込んで、回転運動した

り、上下運動したりするなんて。

変だと思わない?

えぇ、万物の霊長たる人類が、そんなかっこわるい事していて良い訳がない

と思わない?

おっかしいよね。

しょんべんしたり、うんこひねり出したりするところに、大事なものつける

なんて、創造主ってお人は、たちの悪い冗談が好きだったんでしょうねぇ~。

今、巷でセックスレスが流行ってるけど、わかるね。

なんたってさ、ぶざまだもん。

なにが悲しくってあんな妙な体位、動きをせにゃならんのか。

こんなよ、こんなだったり、こうだったり。

そこの年期の入ったお姉さん、笑いすぎ。

箸が転んでも笑っちゃうお年は、もう一世紀前に終わっちゃってるだろ、う

んもう、皺中にあせためちゃって、大口あけて、のどちんこ丸見えよ。

お巡りさんが、逮捕しに来るよ。

叔母ちゃん達も少しは粉はたいて、青のりつけてないで、口紅つけて恋をしましょうよ。

叔母ちゃん達が、恋を一斉に始めてごらん、経済効果はワールドカップ異常

だっちゅうの。

アレ帰っちゃうの、これからいい話しようと思ったのに。

今帰った人は、愛とか恋に見放された人ね。

はい、はい、そこの道行くお兄さん、おねぇーさん、ちょっと聞いておくんなまし。

恋をしてロマンチックな気持ちで、もりあがって、その行き着くところが、

なんでしょう。

なんでしょう。

大きな声で言えないような事ですね。

なさけないかぎりだよね。

そんで良いのか。

そんでよ。

ええ。

いいわきゃないよ。

はい、みんなここから心して聞いてよ。

こちらが、あの有名なノーベル賞を取ったマラQ先生が発明したSアダプターです。

このSアダプターは、万物の霊長たる人類が、その尊厳を失わないで、生殖活動もしくはそれに類似する行動を

とれるようにした活気的な発明品であります。

その昔日本家屋のふすまの隙間から、あの母ちゃんが、あの父ちゃんとあろ

う事か素っ裸で、レスリングしているのをのぞき見た子ども達は度肝を抜い

たものでした。

シカクマ?じゃなかったトラウマになっちゃうよね。

可哀相に、純真な子ども達の心にどれだけショックを与えたか、はかりしれません。

でも、もう大丈夫です。

ご覧下さい。

これです。

このSアダプターさえあれば、子ども達に痴態を盗みみられる心配は、あーりません。

画期的な新製品です。

今文部省の推薦の認可が下りる手続き中です。

認可が下りたら、こんな値段では買えません。

今だけ、三十台のみ、大森のおきゃくさんにだけ、こうゆうお値段でおわけしています。

はーいはい、そこの道行くおねぇーさん。

そうそうあなたよ、あなた。

三十年まえはおねぇーさんだった、あ な た。

息子が思春期でしょ。

受験勉強のさなか、彼女のこと思ってむらむらしてもらっちゃ困るよね。

勉強出来ないもんね。

そうゆう時、それをお使いになれば良いんです。

このアダプターさえあれば、近親相姦のタブーをかなりの確率で緩和出来ます。

こっちのコンセントは、オスだから昔のお嬢様、そうあなたが装着します。

こっちのコンセントは、メスなので、おぼっちゃまが装着完了、発射!ってなもんです。

おぼっちゃまはすっきりさわやか、お勉強に励まれ、めでたく大学受験に合格する。

かたや奥様は、御亭主の浮気にいらいらせずににこやかに対応して、

かぶを上げ、ダンナが見直して、愛人を振って奥様に返りさく。

あったんですよ!本当に!富士見商店街のTKさんの奥様ってかたですけどね。

あ、お買いになる?

お買いあげありがとうございます。

使用後の感想をこちらまでメールいただければ、子機をもう一台サービスします。

ぜひメール下さい。

あぁ、そこ行く学生さん。

どう、あんた達も、今時、これ使わないと、遅れるよ。

たこ足コードレスをつかうとね、一挙に十人までオッケーよ。

もう今時学生さんの援交なんかはやんないけど、メカに弱いメカコンプ親父は大喜びしますよ。

十分の一の手間で済むんだから。

アダプターつけとけば、マジ彼も納得してくれるんじゃないかな。

しかもよ、ここんとこよ~く聞いてね。

病気や妊娠の心配から解放されるわけよ。

君、君、可愛いから特別にこれもつけちゃおう。

このオプションつけると、マイナスイオンが出る。

マイナスイオンは身体に良いのよ、お肌にも良いし。

はいはいお買い上げですね。

若いのにこのSアダプターの良さが分かるとは、えらい。

お父さんにも、お母さんにも宣伝しておいてね。

コードレスだからお父さんもお母さんも浮気の時、ご使用いただければ、抵抗なく、罪悪感なく、人にばれなく、

良いとこだらけ。

ほんと!こんな良いもの、そこ行くお父さん、なぜ買わない。

今買わないと一生後悔するよ。

家庭円満はSアダプターなしでは、考えられないってね。

あぁ、そこのカップル、このSアダプターつければ、どこででもオッケーですよ。

彼の汚い暑苦しいアパートでやんなくていいわけ。

ラブホ代も浮くって。

これを装着するでしょ、お互いに。

それでコードレスだからどこででも良いわけ。

プロバイダー代込みで、一ヶ月八千五百円。

どう安いでしょう。

なんならソケット埋め込み初期料金は負けとくよ。

この後のワンボックスカーで、家の奥さんがやります。

ちょちょいのちょいで、終わる。

献血並みに、ヤクルト、サービスしますよ。

ピアスの穴あけより簡単。

そうやってく。

おし、良い度胸だ。

それでこそこんな可愛い女の子ゲット出来たんだよね。

今日は天気がいいから外苑並木のオープンカフェで出来ちゃうわけ。

お台場の海浜公園でも真っ昼間からできちゃう。

互いに目と目を見合わせて、手を握りあい、性のエネルギーを存分に、ロマンチックに、美しく昇華するんです。

これが新しいセックスです。

これこそ恋の成就。

愛こそすべて。

これが、文部省推薦、二十二世紀の男女の交接です。

美しくあくまでも美しく、

清らかに思いを遂げるのです。

デニズーの「眠れる森の美女」知ってる?

美女と王子が美しい音楽でダンス踊るでしょ、あの後二人は、ギタンバッコン、ズッコン、バッコンすると思う?

いろいろ気を揉ませて、そんな事のためにかい?

あほじゃないか。

勝手にしろ!

デニズーが、聞いてあきれるよ。

あんなちんけなとこと、醜悪なとこをこすりあわせて汗みどろ、汁まみれなんて、今時流行らないよ。

皆さん知ってる?

セックスって脳でやるんだって。

あすこでやるんじゃないんだって。

やっぱ、そうでなきゃね。

人間が犬畜生と同じような事してていいわけないよ。

スマートにいこうよ、スマートにさ。

ハーイ、ハーイそちらさんは二台お買いあげですね。

ありがとうございます。

やー、よく売れるわ。

この商売始めて良かったね、かーちゃん。

おかしらに頼んで、もう三十台仕入れちゃおう。ヒヒヒヒィ

ねね、かーちゃん、今晩あたり子ども寝かせて、一発やろうか?

やゃっ、かーちゃーん、それはないよぉぉ~。

アダプターなしで生でやってよぉ~

ね、ね、かーちゃーん、おれっちメチャがんばるからさぁ、ね、ね。

いつにも増してヤスは、ばかだねぇ~おわり。
Sアダプター ラディッシュ・大森

インドネシアのバー
佐藤ゆーき

 「シンチャン、いらっしゃい」
 そのインドネシア人のマスターは僕のことをシンチャンと呼ぶ。でも、僕はシンチャンでも何でもない。
 はじめてこのバーに来た時に、カウンターに一人で座ってマスターと世間話をした。自分のプログラマーという仕事のこと、毎晩のように一人で飲み歩いているということ、自分の名前はサトウタカシだということ、など。それから一週間経って、二度目にこのバーを訪れた時に、「シンチャン、いらっしゃい」と言われた。最初は誰かと間違えているのかと思い訂正しようとしたが、続いて「プログラマーのシンチャンだよね」と言われたので、全く間違いでもないなと、訂正することをためらってしまった。結局、訂正のタイミングを逸してしまい、このバーにいる時はシンチャンでいることを受け入れた。
 「何飲む?シンチャン」
 マスターの無邪気な笑顔を見ていると自分がシンチャンではないのにシンチャンと呼ばれることなどどうでもよくなる。むしろ自分の名前で呼ばれるよりも親しみを感じて、最近ではシンチャンと呼ばれることをうれしく思うようにさえなっていた。
「アラックのロックにライムを絞って下さい」
 いつも僕はそのアラックというインドネシアの焼酎を飲む。特別うまいというわけではないし、日本の焼酎よりさらにくせのきついドリンクだが、はじめてこのバーに来た時にマスターに薦められて以来、自分の中でこのバーの名物になっていた。
「シンチャンにアラックのロックを。ライムを絞って」
 マスターがアルバイトの男の子に指示を出す。その大学生の男の子は僕がこの店に来る時はいつもシフトに入っていて、いつも僕のドリンクをつくってくれる。髪の毛にはチリチリのパーマがかかっていて、ギャルソン風のエプロンをした姿はとてもこのバーの雰囲気に合っている。
 その男の子はいつも、僕とマスターの会話を横で聞きながら優しい微笑みを浮かべ、マスターが他の客の相手をしているときには、僕を退屈させないように、控えめに会話を投げかけてきてくれて、僕はとても彼に好感を抱いていた。
「はい、どうぞ。アラックです。今日は何軒目ですか?」
 彼はグラスまわりを拭いて、僕の目の前のエキゾチックなコースターの上にそれを置いた。
「ありがとう。今日はここが四軒目」
 その言葉に彼は、いつもの優しい微笑みを返す。
 僕は本当は酒がそんなに好きなわけではなかった。家にいるときは一滴も飲まないし、喉が乾いた時にビールかコーラかどちらが欲しいと言われれば、コーラと答えるだろう。でも僕は毎晩のように繁華街に出掛けた。
 そんな僕に友人は、「お前は寂しがりなんだよ」と言うが、自分では寂しがりではないと思う。一人の時間が欲しくて恋人との同棲もやめたし、映画やサッカー観戦もほとんど一人で出かける。だから僕はさみしくて外に飲みに行くわけではないと思うが、自分でもよく分からない。
 ある時僕は、珍しく女友達と食事をすることになって、その後にそのバーに彼女を連れていった。
「シンチャン、いらっしゃい」
 その言葉に笑顔で答える僕を見て、彼女は怪訝な顔をした。
「シンチャンって何?」
 いつものカウンターではなくて、奥のインドネシア風のクッションのある座敷のテーブルにつきながら僕は、僕がシンチャンであるわけを説明した。ふと横を見ると、いつものアルバイトの男の子が、隣のテーブルの客が帰った後の片付けをしながら、僕の方を見て笑っている。一瞬僕は、せっかく僕のことをシンチャンだと思ってくれているマスターとアルバイトの男の子に余計なことを知らせることになるのではないかと恐れたが、その後も「シンチャン」と僕に話し掛けるマスターの横で彼がいつものように微笑んでいるのを見て安心した。
 でも、帰り際に女友達が僕に言った一言が僕の心に一片の曇りを投げかけた。
「でも、あなたが中途半端に誰かに間違えられているとしたら、本物のシンチャンはこの店で何と呼ばれているのかしら」
 その言葉とは全く関係ないけれども、それから僕は転職することになって、毎日慌ただしくなり、そのバーをしばらく訪れることはなかった。

 それから僕がそのバーを訪れたのはようやく新しい職場に慣れた三ヵ月後だった。
 店に入ってカウンターに座ったが、その日はマスターもいつもの男の子もいなかった。かわりに落ち着いた感じの女の子と、短髪で眼鏡をかけた男の子がいて、女の子の方が僕に注文を聞いてきた。
「アラックをロックで」
 女の子は意外な顔をして聞き返してきた。
「こちらは何度目かいらしているのですか?」
「最近ご無沙汰だけど、ちょっと前まではしょっちゅう来てた。マスターは?」
「最近、インドネシア料理のレストランをオープンしたのでこちらにはめったに来ません。今日はお久し振りのお客様が二人もいらっしゃいますね」
 そう言って、僕からカウンターのスツールを二つはさんで座る、浴衣姿の女の子の方に微笑みかけた。そういえば今日は隣の市で花火大会があったはずだ。その帰りらしい。その子も僕に向かって微笑みかけてきた。それがきっかけで僕達は話しはじめた。
 彼女は、まだあどけない大学生のような顔に似合わず、経営コンサルタントという職業に就いていた。この街には月に一度出張で来るらしく、この近隣では有名な今日の花火大会のために浴衣を持参して、仕事の後に着替えて見に行ったらしい。それから僕達の話は弾み、酒も進んだ。ふたりとも酔ってきて、次の店に行こうということになった。スタッフの女の子にチェックをしてもらった時に、僕はふと、あのアルバイトの男の子のことを思い出した。
「チリチリのパーマをかけた大学生の男の子、まだアルバイト続けてる?」
 女の子は顔を上げずに伝票を書きながら答えた。僕はその仕種に不自然さを感じた。
「あの子は2ヵ月前に中国で列車事故に巻き込まれて亡くなりました」
 僕は自分の耳を疑った。そして料金を払いながら思った。今、この店で誰も僕のことを「シンチャン」だと認識する者はいない。僕の姿形をした「シンチャン」と呼ばれる人間の存在は急速に薄れていった。
 その後、コンサルタントの女の子と別の店に行ったが、僕の酔いは醒めてしまって、話ももう弾まなかった。僕は彼女に謝って、その店をそこそこにして、家に帰った。
 その晩は全然眠れなかった。僕は悲しんだというより混乱していた。何が起きたのか頭の中で整理しようとしたができなかった。僕は未熟だった。
 次の日は寝不足のまま会社に行って、仕事をなんとかこなして、帰りはまた飲みに行こうと繁華街の方に向かったが、途中で引き返して家の近所の洋食屋に入った。冷たい生ビールを飲んでる時に、目の前に海老フライとハンバーグの定食が運ばれてきて、その時、唐突に僕は気付いた。
 僕が毎晩のように繁華街に出掛けていたのは、異性を求めてのことだった。意識してもしなくても、僕はどこかに潜むエロスから伸びる細い糸を手繰り寄せようとしていた。それに気付いた途端、僕の日常のほとんどが空虚なものに思えてきた。
 僕には満足のいく恋人がいるし、今まで十分女の子とも遊んできた。僕は何をしていたんだろう。今の僕には、一杯の生ビールとおいしい定食があればそれで十分じゃないか。他に何が必要だ?
 そして僕はあつあつの海老フライにかぶりついた。
インドネシアのバー 佐藤ゆーき

アルゴスガーデン
Ame

 昔此の庭には孔雀が居たのだと祖母は言った。
 黒い土の上に幾本も立ち並ぶ大きな木々は其の濃い緑の葉を揺らして空から降って来る光を彼女の遥か上の空気に散らして居た。其の他には花一本無いまるでヨーロッパの古い教会にも似た、荘厳な場所だったのだと言う。
「真夏でもひっそりとして、冷たいの。」
 彼女は銀の糸が震えるような声でゆっくり話す。
「廻り中が、其れこそ空気迄漆細工で出来ているみたいだったと言ってあなたに分かるかしら?朱鷺子が押し入れのうんと奥の何枚も重ねた薄紙と真っ白い箱の中に大事にしまって居るしっとりした黒と赤色の器があるでしょう?息を吐きかけたら曇りやしないか、触ったら指紋が付きやしないか、兎に角私は其所を汚したりしないように背筋を伸ばして恐る恐る息も殺して歩いたわ。」
 そして彼女は孔雀に出会う。
 葉の間を蜜の様に伝い降りて来た光の溜って居る場所で、急に現れた少女をまるで待って居た様に其の鳥は見つめた。

 つまるところ私は孔雀の居る漆細工の森を、あの過去を理解する為に今を生きて居るのではないだろうか。
 正確に言うと其の「過去」とは、森について語る低く細い祖母の声であり、彼女の横顔を見上げる私の目線であり、移ろう世界の一つ一つが五感に刺さる様だった子供の頃の私の周りのあやふやでありながら色彩と光に溢れて居た真夏である。其れが私にとって大切なのは多分、子供の頃から漠然と此の記憶だけが世界に於ける私の居場所を提示して呉れるものだと分かって居たからではないだろうか。私には両親は居ない。彼等の話を育ての親である叔父夫妻から何度か聞いた事はあったが、しかし私の中に流れる血が確かに其所にもかよって居ると思うのは上にあげた記憶だけなのだ。
 此の記憶は私の中で様々に姿を変えた。言う迄もなく記憶其のものではなく私が変化したのだ。某かの客観的な判断が出来る、と自分で思い込める年齢になった時私は一旦此の記憶に殊更特別なものを感ずるのは両親を良く思いたい私の願望に過ぎない、と思った。事実私が所有する両親の比較的美しい記憶と言うのは其れだけだったのだ。叔父夫妻は悪い人ではなかったが、私の両親である姉夫妻の醜聞を水に流す程の度量がある人ではなかった。
 明らかに時代に外れて広大であったという其の庭は疾うに私達家族の手を離れたし、祖母も他界して久しい。だから私は叔父夫妻の出払った日曜日の真昼、暗い廊下をひたひた歩いて母と祖母の遺品が納められている部屋へ行った。正座して一度呼吸した後、目を閉じて不在の色をした漆器皿を頬と耳から少しだけ離れた所へ持ち上げる。皿は私の呼吸音をを其の彎曲で反射させ、くう、くう、とごく小さなものが頻りに砕ける様な音がした。
 彼女達の見た沈黙はこんな柔らかなものであったのだ。此の黒色は夜の闇ではなく、真昼森の一番深い場所に現れる影の色なのだと祖母は言った。私は目を閉じる。
 瞼の裏に浮かぶのは、誰も知らない私だけの静かな場所だった。

 「アルゴス?」
 やがて大学に入った私は其処で一気に様々な知識を吸収した。其れまで進学に必要な知識にしか興味の無かった私に、一寸吃驚した顔で其の少年はギリシャ神話を差し出した。
「ヘルメスとアルゴスの神話だよ、知らないの?」
 其の夜私は借りて来た其の本を白熱灯の下で開いた。絵の多い綺麗な装丁の此の本は、右下から左上へとまるで誰かの血の痕の様に点々と文字が垂れている。辿る様に指で触れ乍ら、私は物語を読み進んだ。
 昔、アルゴスと言う百の目を持つ化け物が居た。
 彼は女神の見張り番で、誰も彼の目から逃れる事は出来なかった。けれど或る日ヘルメスがやって来る。言葉を自在に操る彼によってアルゴスは眠らされ殺される。女神は其れを憐れみ、羽に百の目を持つ孔雀にした。
 ギュスタブ・モローの様に煙った色彩で描かれた孔雀を、私は暫く見つめていた。得心していたのだ。物語は血へと戻りページの間から頻りに滴っていたけれど、其の流れる先に何があるか予想は付いていたから私は追うつもりはなかった。其処には多分、葉擦れの音が針の様に降り積む森があり、一番深い場所には心臓に幾度も刺された傷のある美しい女と一羽の孔雀が居る。
 次の日私は彼に本を返した。
「どうだった」
 私は笑って「とっても面白かったわ」と言った。
 つまり「自分の運命が判った」と言うよりは当たり障りない返答だと思ったのだ。

 数年後、フェルメールの絵を見ようとでも言う様に、彼は私に結婚を申し込んだ。私の両親の事を告げても頓着しなかった訳だから、例え欲望と言う観点において酷く温度の低い申し込みだったとしても、其れは彼の所為ではない。

 式が終わり二人の部屋で一緒に眠った初めての夜、私は甲高い鳥の声で目を覚ました。茫洋とした意識で辺りを見回すと、床に血が落ちているのが目に付いた。ベッドを下りてあらためると、其れはアルゴスの物語を綴る文言だった。
 私は目を眇める。一度だけ彼を振り返り、それから素足で血を踏み付けて物語を追い歩き出す。最初は絨緞と木の床に書いてあった物語はやがて土の上に移り、時折遥か上方から枝を伝って下りて来る木漏れ日の光が其れを照らした。
 私は森の中を歩いていた。
 祖母の言った通りの場所だ。肺の中に入る空気は目の詰んだ織物の様に冷たく、其れを吐き出す音でさえ此の隅々迄反響してしまいそうな、不在と沈黙の為の場所だった。
「そして私は孔雀に出会ったの」
 遠い過去の中から祖母の声がする。其の銀の声に織り成された世界の中目を上げると、一羽の孔雀が私を見ていた。
 百の目を持つ鳥が千年の森の中で私だけを待って居た。

 「そして私は孔雀に出会ったの。
 其所にあった真っ白なひかりはお砂糖でも入れた牛乳みたいに緩やかだったから、急に目の前に現れた孔雀に私は最初酷く驚いて怯えたわ。だって孔雀はとても綺麗な色をしていたし、そんな風に沢山の色を持つ事は、時間の流れを速くしてしまうでしょう。
 けれど孔雀はとてもゆっくり私に近寄って来てくれた。玻璃細工の静寂の化身みたいに綺麗だったから、見ている内に私は怖さなんか直ぐに忘れてしまった。
 そして私は、朱鷺子を産んだのよ。
 そうなの。私のお母さまもお祖母様も其のお祖母様もずっと、私達はそうして来たのよ。だから朱鷺子も森へ行き、あなたを産んだ。私と違う所は朱鷺子は人間と結婚していた事で、其れが少し不幸だったわね。でももう大丈夫よ。朱鷺子はもうあの森に居るし、あなたの父親になれなかった事を怒って朱鷺子を殺した男はずうっと遠くに居る。
 だからきっとあなたもそうするでしょう。もう森は無くなるけれど、孔雀はきっとあなたを見つける。
 そして沈黙の森へあなたを導いて呉れるのよ」

 沈黙の森。
 伝令の神ヘルメスは言葉でアルゴスを眠らせた。けれどきっと失敗したのだ。化け物の力を残す孔雀が飛び去り、此の森へと下り立った。此処には言葉が無い。ヘルメスの力は届かない。アルゴスはもう眠らずに百の目を開き続ける事が出来る。

 祖母の銀と母の血が成す物語の先で極彩色の羽を付けた私の運命がこちらを見ている。

 何処か遠くで孤独な子供が焦がれた漆の皿が静かに毀れる。私は探し続けた自分の運命を受け入れる為に、降る蜜色のひかりの中、ロゴスから一番遠いアルゴスの森で目を閉じた。