三行ちょっとで書くことはなくなった。大切な人に送る手紙だ。でもそれ以上書くことは思いつかないし、読み返してみても足りないところはとくにない。でもこれでいいのかと言われれば困ってしまうことも確かだ。
広い公園だけれど、向こう側にある時計の文字盤ははっきりと見えた。目に映るすべてがくっきりしている、ただ頭の中だけがまとまらなかった。さっきから離れない、とりとめのない想像の続きが、静かにやってくる。
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ここらでは、雪なんて珍しくない。一度降り出せば積もった雪が冬の間に消えることはまずないし、それまで僕は首が縮まったような気分で、数ヶ月を過ごすことになる。
「雪解けを待つ」とはまさに僕のための言葉だ。
僕にはちょっと変わった癖があって、最初の雪が降ったときから数ヶ月間を毎日のように、外とはちょうど反対、つまり冬の始まりの12月なら夏の始まりの6月、寒さが最高の2月なら8月って具合に頭の中で想像していく。放っておけばエントロピーは高まっていくらしいが、外の景色が静まっていき、動くものが少なくなっていくと、僕の頭の中は活発なエネルギーを作り出し、事物が様々に動き回る世界を映していく。
でも隣りの家の屋根に積もった雪が、窓の四角に切り取られているのを暖かい部屋の中から見ていると、かつてここに夏があったこととか、そこで自分が生活していたという実感がほとんど残っていない。だから想像の中の夏は、少しもありありとしたものではなく、旅行のパンフレットを切り取ってただ貼り付けたような、魅力的だけどうそっぽい感じがするのだった。
ただ、雪解けの季節は違った。春の風が吹くようになると、僕の頭の中では、ちょうど暑さがすっと幕を引いたように消えて、みんな袖があって生地の軽い服を着ている、過ごしやすい日々が始まる。4月とかそのあたりになると、乏しい想像力で描かれた正反対の秋の街には、紅葉も高い空もなく、ただ夏の暑さに解放された人達の涼しい顔ばかりが様々に映されているのだ。想像の世界で10月は秋でなく、窓から流れ込んでくる現実の世界の匂い、光、期待感によって、整合していき、みるみるうちに春の街と変わらなくなっていく。想像の世界が外に向かって開かれ溶け出していくそのかんじは、とても気持ちのいいもので、亀が甲羅から顔を出すように、僕は現実の世界に再び触れることが出来る。
僕は誰も訪ねて来ることのない部屋の窓からいつも外を眺める。悪い魔女に両足を切断されてからはずっとそうだ。
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風で顔をあげることも出来ない。
右手で何か突起のようなものを掴みながら、腹這いで両足を大きく開くと幾分安定した。残った左手が暗闇の中を探るが、屋根の油っぽい埃がべったり手についただけで、僅かに動かした腕の脇から、束になった風に持ち上げられそうになる。
電車がトンネルに入ってもう一分経った。地下鉄だから、このまましばらく地上に出ないかもしれない。屋根には10センチ四方程度の明かり窓がついていた。そこに顔の半分を押し当てて、完全にうつ伏せになると、背中を押し付けられるように圧力がかかり、吹き飛ばされる心配はなくなった。
ほぼ真上から見下ろすかたちで車内の向こう側の列が見渡せた。ドア付近に中年のサラリーマン風の男が二人立ち、互いに相手の顔を見ずに、なにやら慎重に話をしている。その脇に、若い男の四人組み、それから少し間を開けてやはりサラリーマン風の男が一人、並んで座っている。
轟音で自分の声すら全く聞こえそうもないが、窓に口をあてて叫び、それから額を三回、軽く打ち付ける。思ったとおり誰も気づかない、まあ気づいたとしてもすぐにどうなる訳でもない。駅に停まるのを待つしかないだろう。
視界の右側から、つまり電車の進行方向の側から女が歩いてくる。背丈は多分そんなに高くない、高校生くらいの年齢かもしれない。彼女はこんなところに小さな窓があることを知っているだろうか?あるいは、走る地下鉄の屋根に人間が貼り付いている可能性とか、そうなる事情がこの世にあるってことに思いを巡らし、上を見ることは。
と、そのとき、背中に押し付けられる風の力が、変化しているのをはっきりと感じる。徐々に、一定の間隔を置いて、背中に感じられる圧迫が強くなっているのだ。トンネルの天井が低くなってきているのだろう。もうあと少しで服が岩肌にこすれるかもしれない。その前になにか尖ったものに身体を引き裂かれることも考えられる、突然に。
恐怖がどうしようもなく高まり、予感というにはあまりにもはっきりと、身体が終わりの近づいてくるのを感じていた。女はちょうど真下に来て立ち止まった。彼女に助けを求めようと、もう一度窓に頭を-
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簡単な絵をそえてみようかと思ったけど、何だか女の子のやりそうなことだと思い直してやめた。でも文章だけにするにはあまりにも字が汚いし、三行ちょっとでは余白がどうも寂しげに見えてくる。
一度手紙から目を離して時計塔の上らへん、空が白みがかったあたりをしばらく見つめ、それから時計の文字盤が動くのをじっと待つことにする。間もなく針が小さな時間が流れたことを知らせるためにカタリと動く。もう一度手紙を読み返す。それからため息をついて今度は公園の隅にあるゴミ箱に目を据え、中の空き缶の数を数えてみることにした。
ここから見えるぶんは全部数えてしまった後も、どうせもう一度手紙を見てもいまいちなことがわかったので、先にため息をついておいた。
ひとつの言葉が疑いようもなく、否定されることもなく伝わるには、この世の中には選択肢が多すぎる。例えば、これが一番素晴らしいものです、と本気で言ったところで、それを完全に信じさせることが出来るだろうか。物理学者が他の条件を完全に排除して閉ざされた空間で問題を追及するのと同じように、複雑な可能性に入り組んだ世界では、ひとつの気持ちが本物であることを証明するためにあらゆる要素を単純化し、取り除いていかなければいけない。だから、現実の世界で大事なものを大事だと宣言し、大切な人にそれを伝えるのは容易ではない。こんな平和に晴れた日に公園で大切な手紙を書くのはきっと間違っている。ここではあらゆる可能性が与えられていて、どんな発言も等価に意味を持ち、それゆえにひとつの言葉に真実味を与えることが難しい。
帰りの地下鉄のホームで電車が目の前を走っていき、人が大量に降りてくるのを感じながら、屋根に目をやった。例えばここで手紙を書くことの条件を作り出せるだろうか?この狭い空間であるひとつの言葉に切実さと、真実を与えることが。乗客の波に身をまかせ電車の中に入ると地下鉄の屋根には明かり窓があるだろうかと思い、天井をよく眺めてみた。もちろん地下を走る電車にはそんなものはついていないのだが、宇宙物理学者達はそれを聞いてどう思うだろう?彼らの論文にはきっと、「ただし、天井には小さな窓がついているものとする」なんて書いてあるだろう。
そして、うまく制御された状況下で、彼らは感謝の言葉を口にし、あるいは愛する人たちに愛を伝え、おそらくそれは成功するに違いない。