「じゃあ行ってくる」
台所からは皿に硬いものが当たる音が聞こえる。
妻はこちらから何か聞かないと答えないようになった。質問なり答えを求めるような問いかけをしなければいけない。だから「じゃあ行ってくる」なんて一人言みたいなものだ。
「ちゃんとできてないものなんですよ」
医者は作りものの口蓋を膝に寝かせ、柄が少し短い歯ブラシでプラスチックの前歯を磨いて見せた。
「円を描くようにね、力はそんなにいらない。ゴミを払うつもりでしっかりと狙いを定めて。あとはリズミカルに」
これまで何度も繰り返してきた事柄について、彼はとても熱心に、順序立てて説明してくれた。
それに彼は膝に乗せた口蓋を、母親が子供の歯を磨く時のように、愛情を持って扱った。
「ここをよく見て」
私の目の真ん前に口蓋をずいと寄せて、彼が指差したところは二本の前歯の僅かな隙間だった。そこになんだか薄い赤い糸みたいなものが絡まりあうように浮き上がっていた。見ているうちに、それは空気の束が渦を巻いて中心に向かうのに引っ張られていき、赤い物体に変わっていった。
「なんですか?」
「これはあなた、学名でしか呼ばれないものだからね。一般に知られるような名前なんて必要ないと判断されたわけ」
それから医者はこちらの目をじっと覗き、なにか待っていたが、口を開いた。
「あなた、口の中をしっかりと観察しているかな?」
「どうでしょう。それなりには」
医者は自分の手の平に乗せた頭蓋を鼻の上に持っていき、それを寄り目でじっと睨むと、「同じようにしてください」と言った。私は言われた通りにした。
「とくに歯を見るときには、これくらい近くなければいけません。当然鏡では見えませんね」
じゃあどうやって見ればいいんだ。
医者は歯を見るための道具と、電動歯ブラシを取り出して、その有用性と手で満足のいく歯磨きをすることの難しさを説明してくれた。長くなりそうだったので、私は礼を言って診療所を出た。
その週末は休日出勤で潰したが、日曜は昼過ぎに帰れたので駅構内を少しぶらついた。
ディスプレイに電動歯ブラシを見つけ、当然医者に言われたことを思いだしたので、商売気のなさそうな店員を捕まえて聞いてみることにした。
「つまり、電動歯ブラシの有効性と、手では満足のいく歯磨きができないのかってことなんですけども」
「それはね、お客さん。生クリーム作るのに電動のを使ったほうが楽なのと同じですよ。プロだって使うわけだからね」
店員は使い捨て歯ブラシのケースを破って自分の歯を磨いて見せた。私は反射的に彼の前歯のあたりをよく見ると、昨日見たものと同じような赤い物体が現れた。店員は磨きつづけ、私は前のめりになって目を凝らした。赤い物体は人間の形をしていた。ナイトキャップみたいなものをかぶって、くるくると回っている。大きさは塩粒ほどだろうか。
「驚いたな、なんだこれは」
店員は答えずにさらに磨いた。頬の裏が陰になっていて気付かなかったが、なにやら小さな黒いものが動いているのがわかる。大きさはゴマ粒ほどだ。それが十も二十も、いや、もっと動いている。
「なんだこれは」
塩粒ほどの赤い人間は、両手をぴんと横に伸ばし、くるくる、くるくる、と回転している。
と、そこにゴマ粒が暗がりから現れ、赤と黒は手を取り合うと踊りを始めた。
「ねえ、きみ。なんだこれは」
店員はやっと歯ブラシを置いたが、質問には答えず、今度は電動歯ブラシで歯を磨きはじめた。すると口の中には、さっきの赤い渦が次々と現れ、赤い人間が二十も三十も出来上がった。そしてやはり黒いゴマ粒達と手を取り合うと、それぞれが踊りだした。
店員は口を閉じると、少し心配そうな顔をしてまたすぐに口を開いた。
「お客さん、知らないんですか?」
男の口の中ではまだダンスが続いている。
私は頷く。
「口の中ってよく観察したことないですかね?自分のでも他人のでも」
「いや、ないことはないけど。でも自信を持って言えるほどじゃないなあ」
「まあ知らないからどうってんでもないですけどね。これが歯磨きの作用ですよ、ってだけのことなんで。黒いのと赤いのが合わさって口のなかがキレイになるわけです」
「へえー。でも赤いのは人間の形してたけどね、あれはなんでなの?」
「どうしてでしょうね?わたしも詳しくはないんで…」
医者はこの前とは別の口蓋を持ってきた。というより頭蓋が付いている、頭部の模型だった。
「まあ新聞に小さく載る程度の話ですから。仕事が忙しくてゆっくり新聞も読めないんでしょう」
医者は模型を膝に載せた。
「でも可笑しなものですね、分子生物学の研究者なんでしょう?そんな発見、耳にしたっていいものなのに」
「いや、私たちみたいな研究者は現象にはあまり興味がないんです。どちらかというと」
「奥さんは?」
「妻ですか?」
「そういう話はあまりしないんですかね」
「ああ、そうですね。新聞とか読まないんじゃないかな、多分」
診療所から研究所に戻り、結局その日も家に着いたのは0時を回っていた。
妻の寝室の明かりが漏れていたので、帰ってきたのを告げようかと思ったが、どうせわかってるだろうし、そんなことで迷うのが馬鹿らしくてやめることにした。
歯を磨きながら、医者に赤い物体がなんで人間の形をしているのか、聞き忘れたことを思い出した。それから妻の寝室の前を通った時、彼女がそのことを知っているかもしれないと思って、ドアを開けた。彼女はスタンドの灯りで本を読んでいた。
私は慎重に言葉を選んだ。
「ねえ、歯の間に赤いものと黒いのが出るの、知ってるかな?」
妻は詳しかった。なんでそんなに詳しいのか驚いたし、彼女が珍しくよく話すのでさらに驚いた。
彼女はとても熱心に語った。なぜ人間のかたちをしているのか、帽子がナイトキャップじゃなきゃいけないわけ、踊ることの意味。正直、私は聞いてるそばから難しいことはほとんど忘れてしまった。それでも聞き入った。そのうちに、彼女の言葉に非難が込められている気がしてきた。多分そんなことはないんだろうけど、でも聞いてるのが辛くなり、明日仕事早いから、と言って彼女の寝室を抜け出した。
資料やら本やらで散らかった部屋に入り、ベットにうつ伏せになると、すぐに目を閉じた。
私の口の中でも、あの赤いのと黒いのが踊っているのか。しかしなんだって踊らなきゃいけないんだ?彼女はそのことについてもう一度教えてくれるだろうか。
どうせ眠れないと思ったので、のそのそと起きだして床に落ちている資料を集め、缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てる。足の裏がざらつくので雑巾を持ってきて丁寧に拭いた。
それでも部屋はあまり綺麗にはならなかった。
それから私は、そこだけ妙にがらんとした床の上に立ち、腕をぴんと伸ばすと、片足でくるくるっと回ってみた。でも、もちろん部屋の隅からは黒いものなんて出てこなかった。
私が踊る相手は壁を隔てて隣りの部屋で眠っている。忙しい忙しいと言ってるあいだに、私は世の中のいろんなことと関係を持つことがなくなり、また、知らないようになった。自分の妻のことだってよくわからなくなっている。
踊れなくなったらどうなるんだろう?そのことについて妻はなにも言ってなかった。
なにか呟いてみようとしたが、なにも思いつかなかった。
その代わりに、その場でもう一度、くるっと回ってみせた。