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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第22回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 10月)
文字数
1
黒男
2948
2
雨野雫
2696
3
ラディッシュ・おおもり
3000
4
風早瑞樹
2536
5
羽那沖権八
3000
6
林徳鎬
2998
7
紺詠志
3000
8
卯木はる
3000
9
さとう啓介
3000
10
ヒムロ・ケイ
2999
11
橘内 閏
2998
12
ゆうか
2369
13
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
14
青野 岬
3000
15
泉和総
2700

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熊掌
黒男

 楚の成王は中国春秋時代の英傑である。その在位は四十六年の長きにわたり、南は長江流域を征服し、北は斉の桓公・晋の文公といった群雄たちと天下の覇権を賭けて争った。
 英雄色を好む。成王には多くの愛妾がおり、十数人の子供がいた。王の長男を商臣という。幼い頃から才知に優れ、父である成王の愛を独占していた。 
 ある日、成王は宰相の子上を呼び、後継者について意見を求めた。
「余は長子商臣を太子に立てようと思うが、如何に」
 子上は黙っている。重ねて問うと、人払いをした上で、王に近づき、低い声で言った。
「王はまだお若く、今から太子を決める必要はございません。もし、太子を立てた後で廃嫡するような事態になれば、それこそ国の乱れるもとです。そもそも我が楚国では、王位継承権は末子に与えられるのが普通です。それに商臣様の蜂のような眼、豺狼のような声は残忍な人柄を表しており、到底太子の器ではありません」
 成王は不快そうな表情を浮かべた。
「もうよい、余の心は決まっているのだ」
 成王は子上の諫言を斥け、商臣を太子に立てた。
 その部屋のどこかに密偵が潜んでいたらしい。慎重に人払いした上でのこの密談が、そのまま商臣の耳に入った。商臣は自分の擁立に反対した子上を憎んだ。
 十年後、商臣は宰相の収賄罪を捏造し、父に讒言する。怒った成王は、子上を斬首の刑に処した。
 しばらくして、商臣の侍臣某が罪を得て成敗されそうになり、成王の許へ逃げ込んだ。王はこの男の口から、子上の潔白と太子の策謀を知り、大きな衝撃を受ける。
 その日から、成王は悪夢に悩まされるようになった。
 夢の中で、首のない子上が我が首を返せと成王に迫る。王は悲鳴をあげ、荒涼たる曠野を逃げ惑う。瓜畑の中に隠れ、ほっと一息吐いたのもつかの間、周囲の瓜がすべて子上の顔になって一斉に叫ぶ。我が躰は何処ぞ、と。
 成王は、びっしょりと汗をかいて眼を覚ます。
 当然のことながら、王の怒りは中傷者である商臣に向けられた。――子上は正しかったのだ。あの男は人の皮を被った獣である。奸計を用いて父を欺き、私怨によって忠臣を死に追いやるような輩にこの国を譲る訳にはいかぬ。
 成王は商臣を追放し、末子職を太子に立てようと決心した。

 太子商臣は苛立っていた。後宮の噂では、父は子上の一件で自分を憎み、廃嫡を考えているらしい。が、確たる証拠が掴めない。
 商臣は守り役の潘崇に相談した。
「父上の本心が知りたい」
「江姫様を宴席に招待し、わざと無礼を働いてごらんなさい」
 潘崇は策を授けた。江姫というのは成王の妹である。兄の成王と仲が好いから、何か知っているに違いないと睨んだのだ。
 翌日、商臣は叔母の江姫を酒宴に招き、潘崇の計を実行に移す。果たして彼女は挑発に乗ってきた。
「この下司下郎めが、兄上がお前を殺して職殿を太子に立てようというのも道理だわ」
 江姫は憤然と席を立つ。
 隣室に控えていた潘崇が姿をあらわした。
「やはり、あの噂は本当だったよ」
 商臣が、血走った眼で潘崇を顧みる。
「あなたは職様に家臣としてお仕えする事が出来ますか」
 潘崇が言った。
「出来ぬ」
「では、他国に亡命しますか」
「出来ぬ」
「ならば大事を行われるよりほかありませぬが」
「それなら出来る」 
 商臣がニヤリと笑う。大事とは、もちろん叛逆である。 
「よくぞご決心なさいました。先ずれば人を制し、後るれば人に制せられると申します」
「その通りだ。叔母が口を滑らせた事を王に告げてからではまずい」
 二人は直ちに東宮の兵を率いて、王宮を急襲する。クーデターは成功し、成王は逃げる間もなく虜になった。
 
 すでに太陽は西に傾き、王宮の広間の隅から闇が壁を這い上り始めていた。
 成王は、大勢の武装兵を従えた商臣の前に引き据えられた。
 目の前の商臣の顔を睨み付ける。かつて愛らしかった我が子はもういない。自分を冷然と見下すこの男は、異常である事が勇気や知謀として賞賛される乱世の梟雄である。己を殺さんとする悪意の塊である。 
 二人を囲む兵士達は、彫像のように身動き一つしない。これから何が起きようと、自分とは関係のない、任務外の事だ、とでも言いたげな表情である。
「覚悟は出来ている」 
 成王が言った。
「だが、父の最後の頼みを聞いてくれぬか」
「頼みとは?」 
 商臣の細い双眼が、冷たい光を放つ。
「死ぬ前に、好物の熊掌を食いたい」 
 それは、成王最後の命を賭けた計略であった。 

 熊掌とは文字の通り熊の掌の煮物である。中国三大名菜の一つで、古来よりその美味を賞せられるが、作るのに時間がかかることで知られている。
 まず、材料の熊の掌を泥で包み、火で焼く。こうすることによって、毛が泥と一緒に綺麗に取れる。次に漢方薬を加えて煮る。それから湯を交換しながら何度も何度も煮る。注文から完成までに三日はかかるだろう。
 つまり、成王は熊掌を所望することで三日の時を稼ごうとしたのである。その間に援軍の到着を待つか、脱出の機会を窺う。あるいは、宮廷で反クーデターの動きが起こるかも知れぬ。
 殺意を持っている相手に対し、命乞いをしたところで無駄である。抵抗しても、多勢に無勢で勝ち目はない。そこで、成王は相手がそれと気づかずに時間を稼がせてくれるよう、咄嗟にこの計略を思いついたのである。
 
 成王は床に這いつくばり、商臣の靴の先を嘗めんばかりにして懇願する。
「頼む、熊掌を食わせてくれ」  
 この屈辱が何であろう。乱世を生きる男は、悲壮感に酔わず、滅亡を美とせず、生き残るために最善を尽くすのみ。
 生きる。何としても生きる。その執念が成王を支えていた。
 ――永遠とも思える沈黙の後、商臣は首を振った。
「なりませぬ」
 成王は天を仰いだ。敵もさる者、こちらの意図を看破したのだ。
「陳腐な策でしたな」
 商臣が嘲るように言った。
 もはや是非もなし。覚悟を決めた成王は、冷たい笑みを浮かべて商臣を見つめた。
 ――陳腐な策。確かにそうだ。成王、熊掌ヲ食イテ死セン事ヲ願ウ。許サズ。遂ニ自殺ス。史書にはそう記録され、何も知らない後世の者は、食い意地の張った未練がましい王の末路を嗤うだろう。嗤いたくば嗤え。俺だって自分の愚かさを嗤いたいくらいだ。忠臣の諫めを聞かず、貴様のような不徳義漢を太子に立て、自らこの禍を招いたのだから。
 俺はお前に負けた。だが、若僧。この程度の勝利でいい気になるな。
 事ヲ謀ルハ人ニアリ、事ヲ為スハ天ニアリ。我々は皆、運命という傀儡師に操られる人形に過ぎぬ。どう足掻いたところで、その残酷な魔手から逃れることは出来んのだ。
 お前にだって、いつか必ず敗北の日がやって来る。己の運命の前にひれ伏す時が来るのだ。
「さらばでござる」
 商臣は自分の帯を解いて、成王に渡した。これで自害せよ、という意味である。
 
 紀元前626年10月、楚の名君、成王は首を吊って果てた。 
 
 成王の死後、太子商臣は即位し、楚の穆王となった。
 穆王は天下の覇者となることを志し、何度も中原への進出を試みる。しかし、その計画はことごとく晋によって阻まれた。
 夢破れた穆王は、十二年の在位を経て失意のうちに死んだ。後に残されたのは「父親殺しの簒奪者」という汚名だけであった。

時間追われ
雨野雫

「今日の天気は朝から曇りそうですが、雨の降る心配はございませんので安心してください。ただいまの時刻は7時36分54です。今日も元気にいってらっしゃい」
 女子アナウンサーの笑顔が強張っている。その気持ちは男にもよく分かる。このあとから始まるスポーツニュースに0.01でも遅れれば、このアナウンサーは言い訳の余地もなく『首』になる。人口増加をたどる現在において、これ以上人を働かせる場所などない。ましてや『首』にされた、時間も守れないような者の再就職はありえない。
もうそろそろ家を出なくては『首』になる時間だ。
男は目玉焼きとパンを牛乳で無理やり流し込む。ほんの10秒ほど乱暴に歯を磨き、スーツのしわを伸ばし、適当に髪の毛をセットすると左手で鞄を掴んだ。少し大きめの革靴は靴べらを使わなくてもするっと入る。ここで男はいつも「このままドアがなくて外に出ることができればいいのに」と思う。そう思っているあいだにも右手はドアノブを回して、男の身体を外へ導いてくれる。条件反射的な行動だ。目の前にドアがあれば、何を考えていても手はドアを開けることができるだろう。男はそのまま階段に向けて走る。外に出たあとはドアがオートロックで閉まるようになっている。家賃は高いが、鍵を閉めている時間のことを考えれば支払う価値がある。
男は靴にカポカポと言わせながら(大きめの靴の欠点がこれだ。踵がすれて、足が靴から抜けそうになる)、螺旋状の階段を駆け下りる。覗き防止用に作られた三メートルもあるレンガの塀がまず目の前に飛び込んだ。このアパートの一階は太陽の光が当たらないのか、一年中かび臭いような、物が腐ったような淀んだ空気をしている。まだ春だからいいのだが、特に夏になるともう最悪だ。蒸し暑く、イライラを後押しするように、吐き気を催すような匂いが二階に昇ってくる。おざなりに吹く風も、男の怒りを増やすだけだった。
男は塀から目をそらすと、自転車置き場に向かって走る。男に考えている時間は必要ない。自分の自転車を見つけ、三重にも掛けた鍵をはずして、自転車に飛び乗って会社に向かうことが必要だ。男はその通りのことを実行すると、塀と塀のあいだにある門から歩道を見た。歩道では自転車、スケートボード、ローラーブレードに乗って走る人でごった返している。男は自転車についている大音量の電子ベルを鳴らしながら門に突き進んでいく。人の道が途切れたときに、男は門を出てすぐ右に曲った。男は加速してカーブを曲ったせいで、歩道を突き抜け、車道の真ん中あたりまで飛び出す。急に飛び出てきた男と自転車に、車が慌ててクラクションを鳴らす。しかし、止まろうとはしない。たとえ轢き殺したとしても、あとで警察が片付けておしまい。最初の頃は警察も轢き殺した犯人をちゃんと取調べていたが、毎日のように人が轢き殺されるので、取調べとは名ばかりの後片付けをするだけだ。
男はサイドミラーに肩をぶつけつつも、車との衝突を避けた。ローラーブレードに乗っている茶髪の高校生の肩をぐいぐいと押してスペースを空けると、そこに自分の自転車を入れた。肩を押された高校生は不満そうに男を睨み付けていたが、やがてあきらめたような顔をしてローラーブレードのスピードを上げた。高校生だけでなく、小学生までが汗びっしょりになりながらも、大人の作った人の波に乗っている。学生も遅刻などで偏差値を落として、たいした稼ぎにならない会社に就職したくないのだ。
男と少年は平行に走り、十字路の横断歩道までやってきた。今は左側にある歩行者用信号が青点滅しているときだ。我も我もと横断歩道を渡るので、歩道の時より高密度で、さらに倍のスピードで走り抜けている。男は左側に渡らなくていいので、優越感に浸りながら渡る人々を見つめた。
横断歩道が赤になった。人の波がぴたりと止まる。右側に曲がる予定だった車は嬉しそうにエンジンをふかして曲がっていった。その後ろに続いていた車たちも、排気ガスを撒き散らし、前の車にぶつかるくらいのスピードで疾走している。
信号は黄色から赤へ。十字路のどこの信号も赤の、一瞬の沈黙。
 男は自分の状況を理解していないような、ぽかんとした顔をして自転車とともに左側の車道へ倒れこんだ。今まで自分がいた方を見ると、ローラーブレードに乗った高校生が両手を前に突き出して、こちらもぽかんとした顔をしていた。男は目玉を飛び出さんばかりに目を見開いて、発作を起こしたように暴れだした。
「う、わあああっあ、あっああ、あああ! 」
 信号は赤から青へ。
 車は派手なホイールスピンで観客にアピールしたあと、男と自転車に猛然と突進していく。自転車を歩道へ押し返し、男だけを車道の真ん中に撥ね飛ばした。
 最初の車が男を撥ね飛ばすと左側の対向車が男のわき腹をえぐり、よろめいたところを右側の対向車が男のわき腹をえぐる。何度も何度も踊らされ、ダンスに疲れた男がぐらりと傾く。そこに向かってきたトラックに頭を持っていかれ、首から盛大な花を咲かせた。
 弾丸のように飛んだ頭は女の胸にぶつかった。鼻がつぶされて血だらけの男の顔を二、三秒見たあと、顔を真っ青にして、
「きゃああああ!! 」
 と、叫んだ。悲鳴を上げ続けているのに、それでもしっかりと頭を抱きかかえている。女の目はどこに焦点を合わせているのかわからない。狂い始めた女から、周りにいた人たちは後ずさり始めた。
 まっすぐ進む人たちは、事故など見ていないかのようにいつも通り汗を流して通学、通勤路を急いだ。
 誰も何もしない。通報もしない。涙を流してやることもしない。
 交差点に設置された監視カメラで事件発生を認識し、警察に連絡するからだ。あとは警察がすべてやってくれる。死体の後片付けも、道路の掃除も、犯人探しも(いったい何人いるだろう)。だから、誰も何もしない。する必要がない。
 横断歩道を渡る途中にローラーブレードに乗った茶髪の高校生は、首なし男の方をちらりと見ると、中指を突き立てて走り去っていった。
 その間も首なし男は踊り続け、今では左腕しかない。首なし男の右腕は車たちが楽しそうにパスをしていた。車が右折のみ通行になると、踊り疲れた首なし男は左手で自分の身体をかばうように巻きつけると、道路の交差点で仰向けに倒れた。あたりは血だらけで、顔に血をべったりつけている女子高生もいる。
 遠くからサイレンが聞こえてくる。横断歩道を待っている人たちはいっせいにため息をついた。また警察のせいで足止めを食らう。
 事故から7分45秒55。日本警察のレスポンスタイムは世界一だ。
時間追われ 雨野雫

頼子(毛の生えた亀)
ラディッシュ・おおもり

父は、岸に近づく船の上から、見たと言う。

出迎えの人たちから、遙か離れて、一人たたずむ妻を。

見る影もなく、痩せた妻を。

そして妻のそばに、当然いるはずの二人の我が子が、いないのを。

何度か瞬きをし、目を凝らしても、妻の両手は、繋ぐ手もないまま、力無く下垂しているばかりだった。

父は全てを悟ったという。

復員船から降りた父は、その足で母を連れ、故郷を捨てた。

以後父は、二度と故郷には帰らなかった。

私は、父と母の郷里が、九州であるとしか知らない。

それからの二人には、長く子どもが出来なかった。

母は、やっと出来た私を寿命を絞るように産んで、十二まで育て、なくなった。

母は、いつも大儀そうにしていて、父が洗濯から掃除、家事全般をこなした。

母が済まながると、父は「出来るものがやってるだけだ。」と怒ったように言った。

小学校の時、魚屋が配達したタタキ用の鰺を、私は真っ茶色に煮た。

ぐずぐずに煮くずれた鰺を食べながら、母と父はこんなにうまいもの始めて食べたと、言って笑った。

父は母のことを、「義理堅いヤツだった」と言う。

どうゆう風に義理堅かったかは、聞いていない。

故郷を二人して捨てた男と女の密な関係の匂いがして、聞くのをはばかれ

た。

父はたたき上げから警察署長になり、あちこちの署長を歴任した。

定年後、警備会社の顧問になり、それも五年前に引退した。

父は、わたしのすることなす事、反対した試しがなかった。

お前の人生だから、好きなようになさいとだけ言った。

それで父の目の届かないところで、私は羽を伸ばし放題した。

その男が好きだと思ったら、闇雲に好きになった。

私は、男と入籍した事を父に話した。

男は父と一回りしか年が離れておらず、妻子持ちだった。

父は、「頼子をよろしくお願いします。」

とだけ言ったきり、後は一言も喋らなかった。

後ずさりするように、私達は父を置いて家を出た。

それから二年、私達は慰謝料と養育費のためだけに働いているような有様だった。

砂山での棒倒しのように、稼いでも稼いでも、全てを根こそぎ持っていかれた。

要するに私は、あまちゃんだった。

深いどん底が、どれほどのものかを知らずに、知りたいなどと、思っていた。

食べ物に事欠くと言うことの惨めさ、つらさ。

飢えで、子どもを死なせてしまった父と母の絶望と悔恨の淵はどれほどのものだったのだろう。

真っ暗なアパートの一室で、私は、母と父の名を呼んで泣いていた。

どこをどう調べたのか、父からの手紙が来た。

庭にお前達の家を建てるからと書いてあった。

クレーンが一階を置いて、2時間後に二階が乗っかる家だった。

父は「地震に強いんだ」と言った。

地震が起きても、一階の隣に二階が落ちるだけなんだろう。

父の身勝手な強引さは、渡りに船だった。

父の申し出がなかったら、私はどうなっていたか、いまだにあの頃のことは思い出したくもない。

私の名前を「頼子」にしたのは父だ。

ヨリコと呼ぶ。

父が私の名に、「頼る」っと言う字に「子」を付けた。

こんな強い父が、私に頼るはずがない。

故郷を捨て、頼るものなどなかった父が、私の名を「頼子」とした。

それとも父は、何かにすがりつきたい気持ちを何処かに押しつくねていたのだろうか。

お前は、死んだ兄弟の分も、存分に頼っていいよという、意味が込められているのだろうか。

我ながら、身勝手な解釈だ。

夫は帰りが遅い。

私は朝食を夫と食べ、夕飯を父と食べる。

父は新聞を読み、ビールを飲み、夕食を取りながら私に言う。

「頼子、作文はどうした。」

私は小学校四年の時に作文で総理大臣賞を貰った。

開けるとき間が抜けた音がする筒に、賞状が入っていて、それは、この家の何処かに保管されている。

いま、私はつたない小説を書いて、オンライン投稿している。

父はアルコールが回ると、私をからかう。

「作文見せてごらん。」

私は十回に一回は、大きな文字でプリントした小説を父に見せる。

父はその場で読む。

父は、このあたりをもっと書き込んだ方が良いなどと言う。

頼子は、大きくなったら小説家になるんだよな、などと言って高らかに笑う。

すでにすっかり大きくなっている私は、それにつられて笑う。

孫を産んでくれなんて言われない。

仕事をやめろとも言わない。

でも、「頼子、作文を見せなさい」って言われ続けたい。

友達に、なぜ官能を書かないかと言われている。

女が書く官能小説は、まだ未開で、草刈り場なんだそうだ。

実際女が書くと、女なのにこんなにエロを書く、っと評判になるらしい。

女による女のための官能小説文学賞なんかが出来たくらいだと言う。

父が私の書いたものを読むので、そうゆうのは書けないと友人に言った。

友人はメールで控えめに言ってきた。

あなたの書く小説、男の人が書く小説みたいだった。

しかも年輩の男の人が、書く小説。

ハンドルネームがモモンガだったので、あなたのことずっと男の方だと思っていました。

性をこれ見よがしに披瀝することが、求められていると言う。

今までふんだんにあった物がなくなりかけてきて、大慌てで飢えているようにも思える。

山を上り始めて、自動販売機がなくなると思っただけで、のどが渇くような。

私達夫婦の場合は、まばゆく、目のくらむような官能なんて、ひとかけらもないように思えた。

あの人達の書く官能って、本物なのだろうか。

あんなに、これ見よがしにさらけ出して。

条件が合意をみて、別れる際に、もと妻は、顎を上げ、胸を突きだし言った。

「お幸せに。」

彼女は勝って、私達は二人して寄り添い頼らねばならないほど、疲弊していた。

子ども達は、男に一瞥することなく、しずしずと母親に従った。

私と男は葬儀の列席者のようにうなだれていた。

官能の全てを、あの女に吸い取られた男を、私は、大枚払って押し頂いたのだろうか。

なんてひどい事を考えてるんだろう、私。

そういえば、最近していない。

「この間書いたのを、プリントして明日持ってくるから読んでね。

毛が生えている亀の話なんだ。」

父がなすの味噌炒めを箸でつまんでいる。

それが中空で、止まった。

味噌だれが、テーブルに垂れる。

「毛が生えている亀の話」

私は、繰り返した。

「あああ毛じゃなくって、コケが、じゃなく緑の藻が甲羅に生えている亀の話なの。

やだぁ、なに言ってるのかしら私。

毛じゃなくって、コケじゃなくって藻。

藻ががはえている亀の話。

それって、縁起がいいんだって、藻の生えている亀よ。

長生きの象徴なんだって・・結構うまく書けて、気に入ってるんだ・・・」

私は食器を片づけ始めた。

「頼子、毛の生えた亀は・・・・・お父さんの担当じゃない、竹井の担当だ。

毛の生えた亀は、小説に書けないよな~。頼子。」

父は、いかにも楽しげに、カカッと笑った。

私と父がこの手の話をしたのは、これがはじめてで、多分最後だろう。

竹井は、もちろん私の夫だ。

自分の家に戻り、思い出し笑いをしながら風呂に湯を張る。

簡単な食事の用意をする。

夫が帰ってきた。

夫は、さざ波のような笑いが止まらない私に気づいて、問いかけるが、取り合わない。

夫は、首を傾げながら風呂に入ろうと服を脱ぐ。

私も直ぐ後で服を脱ぐ。

振り返ろうとする夫を、身体で押す。

母屋の父に知られないように静かに狭い浴室に入る。

狭い浴槽に二人が沈むと、お湯の大部分が流れ出た。

密着していない場所にだけ、お湯は残った。

「お父さんと大笑いしちゃった。」

私は、夫に、毛の生えた亀の話をしてあげた。
頼子(毛の生えた亀) ラディッシュ・おおもり

再会
風早瑞樹

 行方をくらましたい…… 誰も私を知らない所へ行きたい そしてそのまま死んでしまえたら…… ずっと そんなことを思っていた

 そんなある日のこと。私はふと家出をした。たいしたことじゃない。一応生きて帰るつもりでいたから。手持ちの金額は二千円。たぶん一晩でなくなってしまうだろう。見知らぬ町まで電車に乗る。夜八時までは書店で過ごし、書店が閉まると、コンビニにときおり立ち寄りながら夜の町を彷徨い歩いた。からだはだんだん冷えて行く。でもなぜだかとても心地よかった。家族にわずらわされることもなく、ひとりだけでいられる解放感がいのちをささえていたのだろう。
 気がつくと夜は明けていた。学校へ行く気なんか、もちろんおこらない。もう帰りの交通費しか残っていないが、どうしようか。方針もさだまらぬままにまた書店などでひまをつぶす。
 むなしい。やっぱり死んでしまおう。私はそこで、プラットホームに立ってみた。
 だがいざとなると勇気が出ないものだ。私は途方にくれて、ベンチにすわったまま人の流れをみつめていた。
 「松浦君……?」とつぜん、うしろから声をかけられた。振りむくと、「やっぱりそうだ☆ お久しぶりね、松浦君」
 笑顔で私をみつめる、しかしどこか淋しそうな、見おぼえのある顔がそこにあった。「由佳……」
 私は言葉がつづかなかった。まさかこんなときに、昔の恋人と再会しようとは。彼女もなにも言いださず、みつめ合ったまま時が流れた。
 気まずくなって、私のほうから沈黙をやぶった。笑顔をとりつくろって、可能なかぎり明るい声で言う。「こんなところで、いったい何をしているんだい? 学校はどうしたの?」
 彼女はちょっと考えこむと、すぐに笑顔にもどってこう言った。
「さぼっちゃったわ。でもいーの。私、自殺しちゃおうかな、って思ってるんだから」
 私は心底おどろいた。「冗談でしょう」しかしこころの中では、彼女が本気であることを知っていた。一見のーてんきに笑っているが、よく見れば目の色がふつうではない。彼女の言葉がそれをうらづけた。
「いいえ、冗談だと思って? でも今日は取りやめたわ。松浦君に会えたんですもの。また、前みたいに町を歩かない?」
「ああ。行こうか」
 そして私たちは、駅をあとにした。新緑の並木道が、目に映える。彼女はまるで子供のようにはしゃぎながら、しきりに周囲を指さしては、私に話しかけた。とりとめもない話題。それでもそばにいて一緒にいられるだけで幸福(しあわせ)だった。
 なぜ私は、こんなすてきな女性(ひと)とわかれてしまったんだろう。思いは一年前にさかのぼった。

 「なぜ私じゃいけないの?」
 悲痛な彼女の叫びにも、私は耳をかさなかった。
「何度も言わせないでくれ。もうこれ以上君とは会えない。進学する学校もちがうし、なにより君はぼくの信仰を認めてくれないじゃないか。信仰がちがう者と結婚するわけにはいかないし、結婚を前提としない男女交際なんて、認められるものか。ぼくはそんな不純な魂にはなりたくないんだ! それはもちろん、ぼくだって君を愛している。だが、神の不興を買うようなことはしたくない。わかってくれ。本当にぼくを愛しているのなら……」
「うそつき!」
「なんだって……?」
「私を愛しているなんて、嘘っぱち! あなたが愛しているのは、そのたいそうな神様だけじゃないのよ! なによ、あんな邪教。私の松浦君のこころを盗むなんて、許せない!」
「おい、侮辱するのもたいがいにしろよ。それ以上そのへらず口をたたくのをやめないと……」
「何度でも言ってやるわ。あなたの信じる宗教は邪教です。私はそんな邪教に帰依する気は全くありません、ってね」
「言ったな……。もうお前なんか顔も見たくない。二度とぼくの前に姿を現すな!」
「そんな……」彼女は泣き出しかけたが、気丈に声を張って、最後の一言を口にした。「ええ。望むところですわ。私もあなたなんか……、大っ嫌い、なんだから!」
 走り去る彼女の背中をみつめながら、私はなにを思っていたのだろうか。今となっては遠いむかしのようで、記憶はかすんだままだ。

 「で……、松浦君は、どうしてこんなところにいるの?」
 とりあえず小さな公園のベンチにおちつくと、彼女はこう言いだした。
「どうしてって……。君と同じだよ。ちょっと、自殺したくなっただけ、さ」
「へぇ……。松浦君が? 前に私の自殺をとめたくせに?」
「ああ。もう信仰は捨てた。あんな息ぐるしい倫理観と、世界の終末思想には、うんざりしたんだ。君の言ったことは、正しかったよ。あれは邪教だ、たぶん。まあ、いい人もおおいんだけどね」
「ふーん。なにがあったのか知らないけれど、それはよかったわ。でも、なんで自殺なんか……」
「いやになったのさ。なにもかもが。神も。家族も。学校も。でもなによりいやだったのは、自分自身。俺って、なんて嫌な奴なんだろう。なんでちょっとした困難からすぐ逃げてしまうんだろう。そして、なんであのとき君を傷つけてしまったんだろう、ってね。本当にあのときはごめん」
「いえ、べつに私のことを気にする必要はないわ。あのときの松浦君に言ってはならないことを私、言ってしまったんですもの」
「そうか……。君はそう言ってくれるのか……ありがとう」
「いいえ。ほんとにいいのよ」
 私はふと視線をはずすと、話題をかえた。
「でもなさけないよね。世界にはもっと深刻な問題をかかえて苦しんでいる人たちがたくさんいるのに、こんなささいな問題で自殺しかけているなんて」
 彼女はしばらく私の方をみつめていたが、やがて決然とこう言った。
「そんなことはないわ。ほかの人とくらべて自分の問題が深刻でないからって、悩みは悩みよ。主観的な深刻さは、客観的に測れるものじゃない。そのことでなさけながる必要なんか、これっぽっちもないんだから。いい、悩みがあるんなら、この私になにもかも打ち明けてしまいなさい。命令よ、これは」
 私は笑いだしてしまった。
「なんだよ、君だって自殺したい、って言ってたくせに。そっちの方はいいのか?」
 彼女も笑いながら抱きついてきた。「ええ。松浦君に会ったら、ぜんぜん悩みなんかなくなっちゃったもの。大好きよ、あなた」
再会 風早瑞樹

朽ちる時を迎えて
羽那沖権八

 白い粉が入った透明な瓶を眺め、大橋佳子はふっと肩の力を抜く。
「砒素、か……」
 声に出して呟いてみる。
「偽物、だろうな」
 テーブルの上に置かれた、売薬の風邪薬の小さな透明な瓶。人伝に聞いた、インターネットのサイトで買った薬物。もう、アクセスしてもページはない。
 瓶を握る自分の手。つやのない肌、節ばった指。最後にマニキュアを塗ったのは四十代――十年も前の事になる。
 ――ピンポーン。
 ふいに玄関のチャイムが鳴った。
『ポプラケアセンターです!』
(帰って来た、か)
 佳子は瓶をエプロンのポケットにしまい、椅子から立ち上がった。

「お帰りなさい、お義母さん」
 玄関に最も近いリビングには、今はベッドが置かれ、姑の大橋さとゑが仰向けに横たわっている。
 さとゑはほとんど動かず、痩せ細り萎縮した身体は三十キロもない。
「これ、毒薬よ。ほら」
 佳子は瓶をさとゑに手渡す。
 枯れ枝のような手が瓶を握り、ほとんど反射的に口へ持って行こうとする。
「毒だって言ってるでしょう」
 佳子はのんびりと瓶を取り上げ、エプロンのポケットに戻す。
「デイサービスはどうだった?」
 さとゑの表情は明るい。家にいる時と比べてずっと明るい。
 それから佳子は老眼鏡を掛け、通所介護施設の連絡帳を開く。
「あら」
 特記事項欄に、記入があった。
『背部に赤み有り、オイラックス軟膏塗布』
「痒かったの? お義母さん」
(今さら皮膚の一ヶ所が痒いってだけで)
 佳子は皮肉っぽく笑う。
(特別なんて、もう)
「ご飯にしましょうか、お義母さん」

 佳子はミキサーで砕いた食事を載せた盆を、さとゑの部屋に持って来た。
「はい、ご飯よ」
 盆を傍らのテーブルに置き、佳子はベッドの電動リクライニングを作動させる。
 さとゑの上半身が起き上がり、俯く。
 佳子はさとゑの襟元に防水エプロンを掛けた後、椀の中の糊状になった飯をスプーンですくう。
「ほら、ご飯」
 さとゑの頭を起こし、口元にスプーンを寄せる。
 さとゑは口を開き、そこに佳子はスプーンを突っ込む。
 不味いとも旨いとも言わない表情で、さとゑは次々に差し出されるスプーンの中身を黙々と食べ続ける。
「よく食べるわね」
 佳子は呟く。
「何のために食べてるの? 仕事するため? 遊ぶため?」
 さとゑが突然むせた。
 吐き出された食べ物が、防水エプロンと佳子の手を汚す。
「それとも、治るのかしらね。老いが」
 佳子はふっと笑って、濡れ布巾でさとゑの口元を拭った。
 ――三十分ほど掛けてさとゑの食事を済ませた佳子は、ようやく自分の食事を始める。
「ただいま」
 丁度、夫の俊文が帰って来た。
 二人は食卓を囲む。
「――お仕事どうでした?」
「この歳になって、あんな雑用をやらされるとはな」
 俊文は苦々しい顔をする。
「パートですものね」
 佳子はそれ以上何も言わなかった。

「よっ」
 目を開けて虚空を見つめていたさとゑを、俊文が持ち上げる。
「行くよ、母さん」
 俊文はさとゑを軽々とトイレまで運ぶ。それから彼女を便座に座らせた後、自分の務めは果たしたとばかりにトイレから出た。
 佳子は独りトイレに入る。
「お義母さん、寝る前に出しちゃってね」
 狭いトイレの中で、佳子はさとゑのズボンと紙パンツを下ろす。
 強烈な臭気が立ち昇る。
 紙パンツも中敷きパットも、茶色く汚れていた。ズボン下にもズボンにも汚れが付着している。
 佳子はさとゑが倒れない事を確認した後、手慣れた様子で紙パンツを破って引き抜き、ズボンとズボン下を脱がせる。
 そして新しい紙パンツとパットを取り出し、膝まで穿かせる。狭いトイレの棚は、さとゑ用の紙おむつやパットで埋まっていた。
「まだ出そう?」
 佳子はさとゑの下腹部をマッサージする。
 痩せこけた両の腿は佳子の腕よりも細く、僅かに出っ張った下腹部だけが、人体である事を主張している。
(子供を育ててた時もこんなだったわね)
 ふと数十年前の子育ての記憶が蘇る。
 だが、目の前のさとゑは、再び喋り始める事はない。血の繋がりもない。
「もう出ない? じゃあ、拭きましょか」
 拭く。
 拭く。
「……止まってないわね」
 それから何度か拭いてみたが、やはり止まらなかった。
 佳子は適当な処で諦め、そのまま紙パンツを穿かせた。

 深夜。
(――?)
 物音に、佳子は目を覚ました。
 寝ぼけたままで枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。
 午前三時前。
「はぁ……また?」
 佳子は起き上がり、俊文を見る。
 何事もないかのように彼は眠っていた。
「あなたのお母さんでしょう」
 佳子は部屋から出ると、明かりを点けずに廊下を歩く。
 ふと、何かに躓きかけ、廊下に付けた手すりに掴まった。
(お義母さんのために付けたんだったわね、これ)
 佳子の歳では、一回の転倒がそのまま重大な歩行障害になる。
 彼女はしっかり手すりを掴み、ゆっくりと歩く。
 さとゑの部屋の前に来た佳子は、静かにドアを開けた。
「――!」
 思わず叫び声を上げかけて、佳子は口を押さえた。
 さとゑが、ベッドから落ちかけていた。ベッドと柵の間に挟まって宙ぶらりんになっていた。
 さとゑに駆け寄ろうとして、佳子はふと足を止めた。
(……私はどうして叫び声を上げなかったの?)
 叫び声を上げれば良かった。叫び声を上げ、俊文の手助けを求めるべき状況だった。
 佳子は首を横に振る。
(私は、解ってる)
 叫び声を上げてはいけない。物音を立ててはいけない。明かりをつけてもいけない。
 さとゑの首と肩の部分はベッドの柵の間から外に出ている。そして手は、電動リクライニング用リモコンを掴んでいた。
 寝返り一つ自分で打てないさとゑが、ここまで動く事は珍しい。
(奇跡――そう、奇跡だ)
 さとゑの指がほんの少しリモコンのボタンを押せば、ベッドと柵との間にある首は。
 まだ間に合う。
(良心? どうして?)
 じっと佳子はさとゑを見つめる。
(私が何かいけない事をしている? 何もしてないだけ。この人の子供たちと同じ様に、残り六十億の他人と同様に、何もしていないだけ)
 まだ間に合う。
 さとゑの指が、僅かに動いた。
 モーター音と共にベッドが、ゆっくりと起き上がる。そして、さとゑの首と肩がはまりこんだ柵との隙間が次第に狭まっていく。
 その様子は断頭台の様。
(じゃあお義母さんは罪人なんだろうか)
 何の罪もない人を見殺しにしようとしている。
(いえ、私の時間を奪ったのは罪)
 まだ間に合う。
(殺人が懲役で償われるなら、私はもう充分償ってる)
 まだ間に合う。
(こんな状態で生きてる方が辛いんじゃない?)
 ちょっと手を伸ばして、さとゑの手からリモコンを引ったくれば。
(……ううん、それはみんな言い訳)
 ベッドに繋がっているコンセントに、佳子は手を伸ばした。
(言い訳)
 だがその手は、しっかりと小瓶を握り締めていた。
「ふふ。そうね、下らない言い訳ね」
 笑いが洩れる。
「私は楽になりたいの。理由はそれだけ」
 部屋の中に硬いものが砕ける音が響き渡った。

 手入れの行き届いた墓石の前で、佳子は独り手を合わせる。
 以前とまるで別人の様に表情は明るく、美しくさえあった。
「もう一年ね」
 線香の煙が辺りに漂う。
「これ、どうしようかな」
 黒いハンドバッグを開け、中から小さな瓶を出す。
「――まだ要るかも知れないわね」
 佳子は再び瓶をバッグに戻し、空を見上げる。
 秋の空は高く、どこまでも澄み切っていた。
朽ちる時を迎えて 羽那沖権八

踊り
林徳鎬

「じゃあ行ってくる」
台所からは皿に硬いものが当たる音が聞こえる。
妻はこちらから何か聞かないと答えないようになった。質問なり答えを求めるような問いかけをしなければいけない。だから「じゃあ行ってくる」なんて一人言みたいなものだ。

「ちゃんとできてないものなんですよ」
医者は作りものの口蓋を膝に寝かせ、柄が少し短い歯ブラシでプラスチックの前歯を磨いて見せた。
「円を描くようにね、力はそんなにいらない。ゴミを払うつもりでしっかりと狙いを定めて。あとはリズミカルに」
これまで何度も繰り返してきた事柄について、彼はとても熱心に、順序立てて説明してくれた。
それに彼は膝に乗せた口蓋を、母親が子供の歯を磨く時のように、愛情を持って扱った。
「ここをよく見て」
私の目の真ん前に口蓋をずいと寄せて、彼が指差したところは二本の前歯の僅かな隙間だった。そこになんだか薄い赤い糸みたいなものが絡まりあうように浮き上がっていた。見ているうちに、それは空気の束が渦を巻いて中心に向かうのに引っ張られていき、赤い物体に変わっていった。
「なんですか?」
「これはあなた、学名でしか呼ばれないものだからね。一般に知られるような名前なんて必要ないと判断されたわけ」
それから医者はこちらの目をじっと覗き、なにか待っていたが、口を開いた。
「あなた、口の中をしっかりと観察しているかな?」
「どうでしょう。それなりには」
医者は自分の手の平に乗せた頭蓋を鼻の上に持っていき、それを寄り目でじっと睨むと、「同じようにしてください」と言った。私は言われた通りにした。
「とくに歯を見るときには、これくらい近くなければいけません。当然鏡では見えませんね」
じゃあどうやって見ればいいんだ。
医者は歯を見るための道具と、電動歯ブラシを取り出して、その有用性と手で満足のいく歯磨きをすることの難しさを説明してくれた。長くなりそうだったので、私は礼を言って診療所を出た。

その週末は休日出勤で潰したが、日曜は昼過ぎに帰れたので駅構内を少しぶらついた。
ディスプレイに電動歯ブラシを見つけ、当然医者に言われたことを思いだしたので、商売気のなさそうな店員を捕まえて聞いてみることにした。
「つまり、電動歯ブラシの有効性と、手では満足のいく歯磨きができないのかってことなんですけども」
「それはね、お客さん。生クリーム作るのに電動のを使ったほうが楽なのと同じですよ。プロだって使うわけだからね」
店員は使い捨て歯ブラシのケースを破って自分の歯を磨いて見せた。私は反射的に彼の前歯のあたりをよく見ると、昨日見たものと同じような赤い物体が現れた。店員は磨きつづけ、私は前のめりになって目を凝らした。赤い物体は人間の形をしていた。ナイトキャップみたいなものをかぶって、くるくると回っている。大きさは塩粒ほどだろうか。
「驚いたな、なんだこれは」
店員は答えずにさらに磨いた。頬の裏が陰になっていて気付かなかったが、なにやら小さな黒いものが動いているのがわかる。大きさはゴマ粒ほどだ。それが十も二十も、いや、もっと動いている。
「なんだこれは」
塩粒ほどの赤い人間は、両手をぴんと横に伸ばし、くるくる、くるくる、と回転している。
と、そこにゴマ粒が暗がりから現れ、赤と黒は手を取り合うと踊りを始めた。
「ねえ、きみ。なんだこれは」
店員はやっと歯ブラシを置いたが、質問には答えず、今度は電動歯ブラシで歯を磨きはじめた。すると口の中には、さっきの赤い渦が次々と現れ、赤い人間が二十も三十も出来上がった。そしてやはり黒いゴマ粒達と手を取り合うと、それぞれが踊りだした。
店員は口を閉じると、少し心配そうな顔をしてまたすぐに口を開いた。
「お客さん、知らないんですか?」
男の口の中ではまだダンスが続いている。
私は頷く。
「口の中ってよく観察したことないですかね?自分のでも他人のでも」
「いや、ないことはないけど。でも自信を持って言えるほどじゃないなあ」
「まあ知らないからどうってんでもないですけどね。これが歯磨きの作用ですよ、ってだけのことなんで。黒いのと赤いのが合わさって口のなかがキレイになるわけです」
「へえー。でも赤いのは人間の形してたけどね、あれはなんでなの?」
「どうしてでしょうね?わたしも詳しくはないんで…」

医者はこの前とは別の口蓋を持ってきた。というより頭蓋が付いている、頭部の模型だった。
「まあ新聞に小さく載る程度の話ですから。仕事が忙しくてゆっくり新聞も読めないんでしょう」
医者は模型を膝に載せた。
「でも可笑しなものですね、分子生物学の研究者なんでしょう?そんな発見、耳にしたっていいものなのに」
「いや、私たちみたいな研究者は現象にはあまり興味がないんです。どちらかというと」
「奥さんは?」
「妻ですか?」
「そういう話はあまりしないんですかね」
「ああ、そうですね。新聞とか読まないんじゃないかな、多分」

診療所から研究所に戻り、結局その日も家に着いたのは0時を回っていた。
妻の寝室の明かりが漏れていたので、帰ってきたのを告げようかと思ったが、どうせわかってるだろうし、そんなことで迷うのが馬鹿らしくてやめることにした。
歯を磨きながら、医者に赤い物体がなんで人間の形をしているのか、聞き忘れたことを思い出した。それから妻の寝室の前を通った時、彼女がそのことを知っているかもしれないと思って、ドアを開けた。彼女はスタンドの灯りで本を読んでいた。
私は慎重に言葉を選んだ。
「ねえ、歯の間に赤いものと黒いのが出るの、知ってるかな?」
妻は詳しかった。なんでそんなに詳しいのか驚いたし、彼女が珍しくよく話すのでさらに驚いた。
彼女はとても熱心に語った。なぜ人間のかたちをしているのか、帽子がナイトキャップじゃなきゃいけないわけ、踊ることの意味。正直、私は聞いてるそばから難しいことはほとんど忘れてしまった。それでも聞き入った。そのうちに、彼女の言葉に非難が込められている気がしてきた。多分そんなことはないんだろうけど、でも聞いてるのが辛くなり、明日仕事早いから、と言って彼女の寝室を抜け出した。
資料やら本やらで散らかった部屋に入り、ベットにうつ伏せになると、すぐに目を閉じた。
私の口の中でも、あの赤いのと黒いのが踊っているのか。しかしなんだって踊らなきゃいけないんだ?彼女はそのことについてもう一度教えてくれるだろうか。
どうせ眠れないと思ったので、のそのそと起きだして床に落ちている資料を集め、缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てる。足の裏がざらつくので雑巾を持ってきて丁寧に拭いた。
それでも部屋はあまり綺麗にはならなかった。
それから私は、そこだけ妙にがらんとした床の上に立ち、腕をぴんと伸ばすと、片足でくるくるっと回ってみた。でも、もちろん部屋の隅からは黒いものなんて出てこなかった。
私が踊る相手は壁を隔てて隣りの部屋で眠っている。忙しい忙しいと言ってるあいだに、私は世の中のいろんなことと関係を持つことがなくなり、また、知らないようになった。自分の妻のことだってよくわからなくなっている。
踊れなくなったらどうなるんだろう?そのことについて妻はなにも言ってなかった。
なにか呟いてみようとしたが、なにも思いつかなかった。
その代わりに、その場でもう一度、くるっと回ってみせた。
踊り 林徳鎬

すくらっぷ
紺詠志

 ゴ主人サマのおっしゃルニは、ワタシももウだいブ古くなりましタノで、新しクテ新しイろぼっとをゴ購入すルの決断に達せらレタとのことデシた。したがッテゆえに古いワタシは新シクて新シいノと入れカエに、ワタシのでーたべーすニは存在シナい顔画像と音声紋ヲモつ男のカタに上腕しゃふとヲヒっぱラれ、とらっくニ搭載されてしマッタことニナったのでシた。
「ヤア、きみも捨てられたね」
 とらっくの荷台ニは、汚ラシいろぼっとガいくつかタクさんオりましテ存在しましタガ、そのうチノなかでモトくに汚ラシいノがワタシにそう言っタノです。
 イエイエ、僭越ながらワタシは捨てられたノではありません。
 するト、汚ラシいノは、ぎたぎたと音ヲタてて笑いを表現シタあとののチ、
「よっぽどポンコツだ! こいつ、じぶんが捨てられたのわかってないでやんの!」
 イエイエ、僭越ながらワタシは入れカエになっただけです。
「それを捨てられたっていうんだよ! バカめバカめ」
 そレカら、汚ラシいノは、わるつヲ歌いナガら踊りまワリまわりマシた。どうヤラ汚ラシいためニワかりませんデシたが、汚ラシいノは道化のろぼっとノヨウらしいノデす。油でシミだらケになッタ水玉もヨうの洋服デす。
 さんザンにワタシの悪口ヲウタいあげテ、道化はトナりの大きナろぼっとに話を話シカけまシた。
「おまえもバカだと思うだろ? さあ笑え」
「私語厳禁。組合不要。ただ働くのみ。掘るのみ掘るのみ」
 そウ言って、大きなノは両腕のヒン曲がッタどりるヲ回転させるコトをするノデした。さびダラけのぼでぃーニは黄色トいえろーと黒の塗装がすコシ残されタ大きなノで、溶解しタそふとくりーむノヨうだとタトえルことが可能のどりるヲグるくルグるくルト回していル。頭部のらいとガトきどき光りマシた。
 道化がサモあたカモ不満げに、まタ意味のわかラナい文句をぷツぷツとつブヤきをつぶヤイテいると、むかイニすわっテいた細くテすれんだーナろぼっとが道化にやさシク言っタノです。
「ぼうや、しずかになさいな。ほら、ガラガラですよ」
 モゲた手首ヲフって鳴らしマシたが、ムしろガチャガチャと表音したほウガよいヨうだト考えラレる音デした。
「もうじきパパもママも帰ってきますからね。しんぼうなさいな」
 しカシ、しカシながラ道化はしんぼうヲシないで、またナにかシラさわぎをハジめてすたーとシマした。細いノは、あラあラ、アらアら、と言ッテ、こまっテイるようなフルまいをフルまうのデす。

  *

 猛獣のうなり声がする天幕の下で、団長が言った。
「あれはあれで、なかなか人気者だったんですがね。客を蹴飛ばしちゃあ、おしまいだ」
「そうですか」と男は、きょうみのない話に相応の返事をした。「で、一台だけですか?」
「わざわざすいませんね。うちも景気がわるくっていけない」
 トラックはサーカスを離れる。大天幕から子どもたちの歓声が聞こえた。

 ゆれる地面の上で、監督が言った。
「うちの技師は、直せばまだ使えるって言うんですが。あれでは直してもすぐ壊れてしまうでしょう」
「そうですか。で、一台だけですか?」
「ええ、ここの工事が終わったら、たくさんあずけますよ」
 トラックは工事現場を離れる。政治家を乗せたリムジンとすれちがった。

 青々と芝生がしげる庭で、母親が言った。
「これもついでに処分してもらえませんかね。ガラガラなんですけど」
「それはちょっと。で、ほんとうにいいんですね?」
「はい。あの子には前々から、いつかこういう日が来ると言い聞かせてありますから」
 トラックは質素な住宅を離れる。バックミラーに父親の腕のなかでもがく少年の顔がうつった。

 チャイムのひびく通用門で、用務員が言った。
「生徒の乱暴にも困ったものですがね、これはちょっときらわれすぎた」
「そうですか。首が取れただけですが、いいんですね?」
「けっこうです。これからは生徒に好かれる教師でなくてはつとまりません」
 トラックは学校を離れる。荷台を指さす女子生徒たちに笑われながら。

 何番目かのゲートで、警備の隊員が言った。
「よく知りませんが、思想がヤバいって。機械に思想なんてあるんですかね」
「そうですか。ソフトのエラーだと思いますが、だいじょうぶでしょうか?」
「装備はいっさい外してあるそうです。上の言うことですからアテになりませんが」
 トラックは基地を離れる。最後のゲートを通るまでに一時間かかった。

 門からはるか遠くの玄関で、わざわざ出向いた主人が言った。
「まだ買ったばかりですぞ。どうも最近の機械はいかん。ちょっとたたいただけで、言葉がおかしくなった」
「そうですか。私に言われても困りますが……」
「ああ、失礼した。まあ、とっととこのいまいましいのを持って行ってくだされ」
 トラックは豪邸を離れる。今日の回収はこれでおしまいだ。

 荷台が騒々しい。しかし男は、それらの電源を切る方法を知らない。それは工場で待っている専門家たちがやることだ。男はハンドルのにぎりかただけを知っていればよかった。

  *

 道化のサワぎに一ツか一ツの段落がツイたとキ、とらっくガ大きクユれましタので、また道化はさワグことをハジめるこトをしマシた。
「ヘタクソ! 運転手のヘタクソめ」
 そんナヨうなソのことヲ、運転席の小窓をタタきなガら叫んでマッたく運転手のカタは迷惑なこトデあるデしョウ。そのカタは運転席のカタはフリカえらずニ窓のむこウノかーてんをシメてシマってシマった。
 あノ運転手のカタはゼンたいイッタいワタシたちヲどこに運送ノ途中で運送でショうか。道化がウルさイのでソロそろ降ろしテいただキタい。
 とらっくノゆれにツラれテ、サキほどカら、ころゴロころゴロと転ガっていタ頭だけノが、カン高い音声の音ヲ発して道化をシカッてくれまシた。
「そこ、静粛に! みなが授業に集中できないだろ」
「うるさいのはおまえだ!」
 ト、道化は頭だけノの頭ヲ蹴飛バシたので、頭だけノの頭はあチラこチラそチラどチラに転がリマわりなガら大声をあゲマした。
「暴力! 校内暴力だ! 学年とクラスと出席番号を言え!」
「実力行使不可不可! ストライキも不可!」
「あらあら、ぼうや、乱暴はいけませんよ、いい子だから」
 またモまたマタ荷台はうるサイ状態になりツツあるヨうになリマして、ワタシは耳をオオいたいト願いマシたが願いを聞いテクださるゴ主人サマはここニはいラッシゃらなイ。ワタシはオろオろとおロおロするバカりだけデす。
 スルと突然、さっキノさきほどカらずっトダまりコンでいタ迷彩がらノ背筋のピンとしたノが、突然、立チ上がッテ、しかモ突然に言ったノデす。
「うるさい! きさまらそれでも軍人か。かくも敵の捕虜となったからには諸君、覚悟はよろしいな?」
 返事も待タず、迷彩がらノは、胸ノはっちを開ケテ太陽のよウな色のヨうな真ッ赤ナぼたんを押シまシた。一瞬ノ沈黙。さいれんす。
「自決失敗!」
 迷彩がらノはウナだれてシまった。
「あら、ぼうや、かわいそうなぼうや」
「休憩無駄! ノルマ不問! 掘るのみ掘るのみ」
「おまえたち、そんな成績では卒業させてやらん!」
「無念! お国のために散華できぬとは……」
「なんてこった、みんなバカだ! さあ笑え歌え踊れ!」
 こんナニうるサいワタシたチやワタシたチは、いッソすくらっぷニでもナッたほうがヨイかもしレナイかもシレません。
すくらっぷ 紺詠志

鄙の家
卯木はる

 どうしてもルームミラーに男が映るので、祖母の家を訪ねることにした。
 母方の祖母で、隣村のさらに奥まった集落に畑仕事をしながら独居している。3年前に倒れたときは寝つくのを覚悟して伯父が引き取ると言い出したが、入院している間に病院食の味付けから点滴の時間まで口出しして看護婦をこき使い、信心が足りないと言って担当医を診察の度にたしなめ、驚異的な回復力で退院するに至り、養われるなんてまっぴらと、迎えの車も待たずにタクシーを拾って住み慣れた集落へ戻っていった。
 見舞いに行って以来会っていない。
 集落の狭い人間関係の中で小さな大事件が日々あるらしく、隣家の息子がろくに挨拶もしないとか、坂の上の家が海外旅行にいったが土産がないとか、時折、三女である母の許にも電話がかかってきているから、元気でいるのだろう。
 川のほとりの車の行き違えない道をどんどん上がっていく。ここいらは畑仕事や山仕事を営んでいる家ばかりだから軽トラックが都合よく、このくらいの道幅で十分間に合っているのだろうが、4ドアセダンには少し窮屈だった。最近舗装を新しくしたようで、凹凸の少ないのがせめてもの救いだ。
 夏の盛りには涼やかに聞こえたであろうせせらぎが、絶えず耳に届いている。向こう岸は少し色褪せた萱野原で、ススキが穂を伸ばしゆらゆらと頭を垂れている。古びた緑に埋もれるようにして、住む人を失った家が土に還ろうとしていた。
 実は自分ひとりで来るのは初めてだ。
 幼い頃はお盆に家族でよく泊まりに来た。祖母は必ずぼた餅を作って待っていてくれた。ぼた餅は大人のこぶしほどもあって、口の周りを餡子だらけにしながらかぶりついた。おじおば一家と一緒になると、いとこ達と川遊びに暮れた。夜は、広間の襖をすべて取り払って一部屋に使い、潔癖な祖母がぴっちりと糊付けした真白なシーツの上で雑魚寝した。
 大人達はよく魚を釣った。祖母は川魚が好物だ。特にナマズには目がなくて、釣れるとすぐに捌いて味噌汁にした。こくのある良いだしが出る。川遊びで体温を奪われたからだにじんわりと沁みわたった。
 でも、川の幸を喜ぶのは子供達の中では私一人だった。都市部の生活に慣れたいとこ達は少し泥臭い弾力ある白い身を認めようとしなかった。
 ナマズが釣り上げられるとすぐに、水の滴る魚篭を一目散に台所に持っていった。祖母は笑顔でくしゃくしゃになりながら鈍く光る塊を掴み取った。力強い尾鰭がまな板を打つ。
 きゅうっ。きゅうっ。
 ナマズが鳴くということを初めて知った。おいしいものにありつける嬉しさが驚きで萎えていくのがわかった。大きな出刃包丁で頭がざっくりと落とされた。
 きゅうっ。きゅうっ。
 聞こえた気がした瞬間、出し抜けに軽トラと鉢合わせしてブレーキを踏み込んだ。70代と思われる運転手は農機具メーカーのマークのキャップをちょっと下げたが、特に申し訳ないと思っているふうではない。のんびりと微笑んでいる。確か15メートルほど後ろに待避場所があった。ギアをリアに入れて、ルームミラーを見た。
 男が静かに見つめている。
 どきんとして思わず目を逸らしたが仕方がない。ともかく後戻りしなければ。
 軽トラを遣り過ごして、祖母の家へ急いだ。この世の者ではない者がどうして私の、あるいは私の車に憑いてるのか祖母に相談しなければならない。
 空家の敷地に車を置いて、石造りの階段を上がると、茅葺の屋根をトタンで覆った大きな三角屋根が目の前に現れた。お盆にも仕事が忙しくて随分来ていなかった。記憶していたのより小さな玄関の引き戸は磨き上げられてツヤを帯びている。昔、泥だらけの手で触れて怒られたのを思い出した。手がかりに指を掛けて滑らせると、がらがらっと気持ちのよい音が響いた。
「おばあちゃん、サトミです」
「あーい」
 玄関正面の居間の向こうから声がした。土間になっている台所で何かしているようだ。少し間があった。
 たんたんたん。快調な足取りで豆絞りの頬かむりをした祖母が顔を出した。久しぶりの対面に驚いた様子もなく手放しで喜ぶふうでもない。ふと祖母の指先が餡子で汚れているのに気づいた。
「やっぱり、わかってたの」
 祖母はにいまりした。
「ああ、久しぶりに来る気がしたがお連れがいらっしゃるようじゃなあ」

 居間は以前のままで、独居に不釣合いなほど大きなテレビと、対照的にこじんまりした水屋が壁際に並んでいる。出来たての黒々した塊はちゃぶ台の上で客人を待っていた。よう来た、よう来た。祖母は、まず一つを小皿に取って私の左側の空間に差し出した。
「たんとお上がり」
 それから私にも取り分けてくれた。
 甘い甘い小豆ともち米のずっしり胃にもたれる美味しさを堪能した後、話をもちかけた。
「どうすればいいのかしら」
 左側の小皿をちらりと見る。ぼた餅が一つ取り分けられたままだ。
「サトミ、おまえ石を拾ったね」
 石、が鼓膜に届くのと同時に私はこの事態を理解した。どこか遠くで小鳥が囀っている。祖母はむしゃむしゃと口を動かしている。
 ああ、そうか、そうだったのか。
 最近、ドライブ中、山道で石を手に入れた。赤ん坊の頭ほどの大きさで特にどうという特徴はない。なんの変哲もないただの石だと思っていた。
 高速道路の高架下で運転疲れを癒していたら、少し先に林道への入口があって舗装が切れている。車外へ出て確かめると砂利の上り坂が山の奥へ続いている。見ているうちにふと、杉の木の根元に鎮座している石が目に留まったのだ。そういえば母が手ごろな庭石を探していた。日々湿らせて苔むさせたら、枯れた趣になり感じよいかもしれない。
 石はまだ車のトランクに入っていた。
「元の場所に戻しておいで。お酒をかけて清めてあげるんだよ」
 番茶を啜りながら、祖母はゆっくり諭すように言った。
 どういうわけだか知らないが石に憑いている人らしい。墓石の代わりに使われていたものもあるから、むやみに石を拾ってきてはいけないよ。
 そういえば、この野山を駆け回っていた頃、子供の両手にあまる大きさの石を拾って帰ったことがあった。同じことを祖母に言われた気がする。お墓かもしれないよ、大事に扱って元の場所に帰しておいで。
「ごめん、私ったら進歩ないみたい」
 にいまり。祖母が番茶を啜った。山鳥が鋭い声をあげた。
「さてと、うちの仏様も拝んでお帰り」
 湯飲みを置くと台所に消えた。下駄で土間を歩く音がして畑の方へ出て行ったようだ。

 ぼた餅と採れたてのナスを袋一杯、土産にと持たされた。またお寄り、と手を振って祖母は玄関に消えた。もう日は高くなっている。
 石はトランクに無造作に転がっていた。ルームミラーに映る男に敬意を示すために、もってきていたタオルで包んだ。
 車窓の景色は清新な風に吹かれていく。
 祖母はここで死んでいくつもりなのだ。亡き祖父とともに移り住み、二男三女をもうけ各々を巣立たせた。10人の孫にも恵まれた。山も水も風も、季節とともに流れ去りその行方は知れない。流れのただなかに置き去りにされたあの家は、やはりこれからもそのまま在り続け、祖母もまたその流れの中に身を置き続けるのだろう。しなやかで大らかな覚悟だと思った。
 緩やかなカーブでハンドルを切ると、トランクの死がごろんと転んだようだ。現場にはこのまま行こう。お清め用の日本酒を仕入れなければと思った。
鄙の家 卯木はる

時の雨
さとう啓介

「……あれから三十年の年月が過ぎたのか。」

 私は雨に濡れた空軍機のタラップをゆっくりと降りながら、思わず声にした。
 軍服の胸には真新しい勲章が耀いている。
(今更……、この三十年は何だったのか)
 空軍基地に戦友を迎えにきた人々が、顔を輝かせ立竦んでいる。しかし、その顔に刻まれた皺が時の重さを表していた。
 思い出したくもない長い捕虜の生活。もうこのまま私の人生は終わるのではないかと諦めかけた時、永い戦争が終結を迎えた。生きている自分が妙に虚しく感じた。

 基地から都心へ向うバスの窓。あまりの時の流れに、自分自身どこの国へやって来たのだろうかと戸惑った。
(これが、東京?)
 三十年前に住んでいた東京は無くなっていた。巨大なビル群は姿を消し、代りにガラスに覆われた大きな街が荒野に点在して、その隙間にスクラップや瓦礫で出来た小さな街が広がっている。まさに裏と表の様だ。

(まだ、あの人は生きてここに居るのだろうか?)

 私はCVSで国民検索が出来る事を教えられ、まずそこへ向った。
 そこには幾つものモニターがあり、その前に人々が並んでいた。私はその一つの列の最後に並んだ。廻りの目線が明らかに私を差別している。壁に映り込む自分の姿はまるで他所者と言った感じで、現代の人々とは大きな溝がある事を感じた。
(私は忘れられた人間なのかもしれない)

 自分の番が来ると、私はまず自分の家族を確認した。どうやら両親は亡くなって、兄弟二人だけになったようだ。弟へ還って来た事をメッセージで残すと、次にあの人の事を調べた。画面が変わり文字が流れ始める。そこに映る文字を見て私は愕然とした。
 そこにはあの人がこの世を去ってしまった事が克明に記載されていた。
(あの人は、死んだのか……)
 声が出なかった。時の重さが静かに私の肩へ重くのしかかった。
(三十年か……)

 あの人の娘が居る事が分かり、とりあえずそこを尋ねようと、ナビカード発行のボタンを押した。

 CVSを出て雨の中を歩いた。私には何故か灰色の空が暖かく感じられた。
 舗装された道が切れ、瓦礫の街の入口が見えた。低所得者の住む地域にはゲートがあった。ゲートにナビカードを差込むと赤錆た壁が開いた。冷たい瓦礫の道が続く。なぜか私だけが傘を差していた。他はみな耐候性スーツを着用していて、私の知っている時代はそこには無かった。
 ナビカードが指定場所に近付いた事を知らせた。昔の面影はまったく無い。大きな銀杏が在ったはずだが今ではそれも無く、ただモノクロームのブロックで作られた建物が冷たく雨に濡れ、黒ずんでいる。
 入口の鉄扉をノックする。すると歪な音を出しながら扉が開き、あの人の娘と一人の少女が現れた。
 あの人の事を話すと中に案内された。奥の壁に付けられた小さな棚の上に三つの位牌が並んでいる。その一つにあの人の名前が寂しく刻まれていた。私はその位牌に向って静かに敬礼をした。淋しさが爪先から染まり身体が震えだす。悲しみに堪えて振り返る私に、少女が微笑んだ。その純粋な茶色の瞳があの人に似ていた。
 優しい瞳で笑った少女は、私をゲートまで送ってくれると言った。

 雨の中を歩きながら、遠くの雨粒を目を凝らして見つめる。
 帽子のつば先には雫が大きくなっては力無く落ちていく。その雫の中を透かして、また遠くの雨をじっと見つめる。
「あぁ、目が疲れた」
 そうぽつりと呟くと、セラと云うその少女が不思議そうに呟いた。

「何を見てるんですか?」
「雨粒を。いや、雨宿り出来そうな店を探していたんですよ。今日は歩き疲れました」
「だったら、そこでお茶でもどうですか?」
 少女が小さく指し示した指先に、見窄らしいcafeの看板があった。
「あ、いや、こんな所でいいんですか? せっかくだから」
「いいんじゃない。ここの紅茶は美味しいんです。ちょっと休んで行きましょ」
 少女の暖かい手が私の手を引いて、風が流れ込むように扉の中へと入って行った。

 注文をしてテーブルにトレーを持ってきた少女は、私の傘を見て不思議そうに言った。
「何ですか? それは」
「傘と言うんです。ここを開いて、ほらこんな雨の日に濡れないように差すんですよ。これは私の大事な人からの贈り物なんです。セラちゃんの良く知っている人から貰ったんですよ」
 最後に会った二人の想い出だった。

「智子さんのこと?」
 ティーカップを口元で止めて尋ねる。紅茶の香りが私の方へほんのりと流れてくる。
「そう。あなたのお婆ちゃんからもらったんですよ」
 私はコーヒーを一口飲んで、目を閉じた。雨の中にあの人が現れる。白いコートが眩しく、雨の中で輝いていた。

「智子さんと、どんな関係?」

 私はまだ目をつぶったまま、その声に両手を上げて答えた。
 眩しい光の中で、あの人の顔が見えてくるのを待つ。だんだん霧が晴れていく様にあの人の顔があらわれ、私に悲しく微笑んだ。

「智子さんの事、好きだったとか?」

 あの人の髪が潮風に揺れ、雨の降る海岸線を歩いたあの最後の日が蘇る。あの人の香りが蘇る。
 私はその想い出をしっかりと胸に仕舞い、ゆっくりと目を開けて少女を見た。
 あの人にそっくりだと思い、頬が緩むのを感じた。

「セラちゃんはお婆ちゃんに似て、綺麗ですね」
 コーヒーをすすると、懐かしい想い出が広がってくるようだ。
「智子さんと御爺さんは、なぜ結婚しなかったの?」
「ああ、色々とありましたからね。お婆ちゃんが私と結婚していたら、セラちゃんはこの世に生まれてこなかっただろうね。でもセラちゃんに逢えて、本当に良かったと思います。本当に」
 少女の複雑な表情が愛おしかった。
「セラちゃんは、お婆ちゃんに似てこんなに美人だから神様が大事にしたかったんですよ、きっとね」
 そう言うと、少女はニッコリと笑って「ありがとう」と短く言った。

 あの人が私に最後に言った言葉と同じだった。
『……ありがとう。』

 濡れたコートの雫を払いながら言った、最後の言葉がそうだった。
『この傘を彼方に渡します。私は……この雨になりたい。そうして彼方の傍に何時までも居たい。ずっと彼方と一緒に居たかった。……ありがとう』
 戦線へ出撃する前夜だった。そう、あれ以来ずっとあの人とは逢えなかった。ずっと。

「御爺さんは今、何をやってる人なんですか?」
「そうか、セラちゃんはこの姿を見ても分からないんだね」
 少女は、首を傾げながら不思議そうに私の軍服を見回した。
「これからの事でもいいですか?」
 少女は私の目を見て大きく頷いた。
「そうだな、こんな店でも始めますかね」
 そう言って笑った。
 その私の胸には、国からの勲章が鈍く黄金色に輝いていた。紅い血に染められた悲しい黄金色だった。でももうこれは必要が無い。やっと普通の人になれるんだ。
「いいかもしれないね。あたしもお母さんと一緒にその店に必ず行くよ。だから美味しい紅茶をサービスしてね!」

 少女の微笑みは金色に眩しく光っている。まるであの人が笑っている様だった。きっとこの子はあの人の勲章なのだろうと思った。嘘の無い本物の勲章。

 外はまだ雨が降っている。暖かく少し切ない雨。
 私はそっと窓を開けた。降り続くこの雨を指先で感じたかった。

(時の運命を受け入れるさ)

 暗闇ガラスの向こうで銀色の雨が耀き、そこに映る二人の姿が静かに優しく包まれていく。
 静かに降り続く、あの人の雨の中に。
時の雨 さとう啓介

メビウスの夢
ヒムロ・ケイ

 バナナとチーズが目と耳にしっかりと焼きついている。くちゃくちゃくちゃという音のままで。 
 昨晩のことを反芻しながら、チキンライスを咀嚼していると、はっきり思い出せる気がしてきた。 
 
 一日のピリオドが打たれる前の最終電車には、淡いブルーの薄暗い空間がひとしきり似合っていた。
 夜の闇の扉が開きかける時間に、その老婆は古ぼけた手提げからスライスチーズを1パックを取り出した。
皺のひろがる両手でラップを素早くはがし、暗い洞窟のような歯茎だけの口にゆっくりと運んで食べている。くちゃくちゃという音がいまにも聞こえそうだった。それは自分の降りるべき駅をもっていないような食べ方で、投げ遺りな瞬きを繰り返していた。涙すらも渇いたような瞬きに見えた。
「私しゃ、これ以上生きたくなかとです。何の楽しみもなか」最後の一枚まで食べ終わると、うとうとしながら夜の闇に吸い込まれていく。そして各駅に止まる度、発車のベルで目を覚ます。
 うとうと、グーグー。
 死んだら、そんなにたくさんのチーズも食べられませんよ。お婆さん。
 電車を降りようとした時、僕の目にはもう2パックめを開きかけている老婆の姿が映っていた。12枚のチーズを食べることにきっとなる筈だ。たぶん、このお婆さんには最後という言葉は似合わない。終着駅に向いながら駅に着いた頃には18枚目のチーズを食べていて、駅員さんの度胆をきっと抜くに違いない。
「もう一度言うよ。死んだらチーズも食べられない。わかった」最終電車を降りながら僕は独り言ちた。
 市営バスも無くなった深夜の鋪道で、僕も歳をとって、朽ち果てるんだなぁと唾を吐いた。

 やっとの思いでアパートに辿り着き、シャワーを浴びた。疲弊した魂が湯気といっしょに抜け散ったように感じた。リビングの万年床つまりソファーベッドに腰をおろし、缶ビールのプルタブを抜いてテレビをつけた。目に入ったのは深夜ドキュメント番組で老人介護保険問題がテーマだった。青白い顔をした老婆のインタビューのボイスがフェードインされて、その顔が同時にズームアップされる。顔を見て驚いた。さっきの婆さんだ。台詞もさっきの独り言を繰り返していた。おそらく録画なのだろうけど、洞窟のような口に今度はバナナを運んでいた。大体一日平均25本くらい食べます~ぅぅと答えている。オラウータンでもそんなに食べないよと微笑ましくなった。薄す目の老婆のカメラ目線が玄人筋を連想させる。パクパクパク。うとうとうと。いつの間にかグーグーいびきをかいて眠り始めている。アナウンサーに肩を揺すられて起きざまに「私しゃ、これ以上生きたくなかとです。何の楽しみもなか」と言いながらまたさっきのチーズの要領でぱくぱく食べ始めた。本当に、さっきの婆さんだった。食べ方から何もかもが婆さんだった。
 僕は画面に向って「もう一度言うよ。死んだらバナナも食べられない。わかった」と独り言ちてみた。
 画面の中で婆さんは話している。電車が好きで、始発から乗り、日永一日車内で過す。気分が良いと読書をしたり車窓の風景を堪能したり脈拍を計ったりして、尿意もしくは便意をもよおしてくると駅で下車して用足しをし、お腹が空けばタイ焼を買ったりして、また乗車を繰り返すそうだ。最終電車ではよく暇つぶしにスライスチーズを食べ、終着駅に着く頃は3パックほど食べているらしい。
 僕は、したり顔をつくりながら、ほくそ笑んだ。すげぇ婆さんもいるもんだ。
「い~つも、駅員しゃんが起こしてくれて、い~つも『ええ~つ、3パック!!』と両手を広げてオーバーに驚いてくれるので、止められましぇ~ん」とほざいている。スライスチーズは唯一の趣味であり、長生きの健康法らしい。後は、改札口に息子さんが迎えに来ていて、息子に肩を抱かれて車に乗り込んで『おつかれしゃま~』と手を振るらしい。
 見送る駅員は苦虫を噛み潰したような微笑で、涙を頬に伝わせながら青春ドラマのラグビー部監督みたいに毎回大袈裟に手を振るんだそうだ。「長生きしてくださいね~!」と大きな声で。
 僕は、「ほほほ、そっか」とだけソファーベッドで呟いた。  
 久しぶりに、ピンクレディの『UFO♪』の振り付けみたいな格好をした哲学者の顔つきの僕が、レースを開け放った闇夜のガラスに映っていた。それは別れた彼女のオニキスの指輪を連想させた。
 
  テレビ画面はモノクロのクラッシュを一定のノイズとともに繰り返していた。
 気が付くと土曜日の朝になっていて、寝覚めが悪いんでもう一度呟いてみた。
「死んだら、なにも残らない」
 僕はパーコレーターからコーヒーを注ぎ、あと20年も経てば死んでいるかもなと思った瞬間に、何故かチキンライスが食べたくなりレンジで温めた。
 四分の三ほど食べて流し台に突っ込み、窓越しに曇り空を確認するとニューバランスに履き替え、僕はいつものジョギングコースへ走り出していた。

 OAKLEY 04 のサングラス越しに見える町の風景は、新緑が雨露に映えて太宰府の杜の香りにひっそりと覆われているようにさえ見えた。
 登りと下りしかないこのコースはいつも心拍数を上下させ、アドレナリンに支配されるサイボーグランナーの走りをイメージさせる。
  肉体が研澄まされて、筋肉細胞は新陳代謝を加速度的に繰り返す。胸に装着したハートレートモニターのパルスが右手のリストウオッチに送られる。
「死んでしまったら バナナもチーズも食べられないよ、お婆さん」
 その思いを振り切るくらいにストライドを加速させ、一気に町を一望できる高台へと駆け上がる。心拍数175。まだ死ねない。ろれつが回らないくらい肩で息をしている僕がこの一瞬を生きている。
 下りコースを左に折れると石穴神社の大鳥居が目に入る。この場所は人とすれ違った記憶が全くない。
 いつも不思議な気分で参道を登って行くと苔むしたお稲荷さんが待っている。耳が片方かけたお稲荷さんが両側に鎮座し笑っているように僕を睨んでいる。
 朽ち果てた朱色の鳥居がすり減った石段と共に 不連続に山の奥にむかって何層にも並び立っている。鬱蒼と樹木が生い茂り、辺り一面の岩肌は深緑の苔で覆われ山路は途中で確認できなくなる。
 木漏れ日をたよりに見上げると鳥の啼き声すらも強い湿気と深い靄に阻まれてしまい、僕は幻想的な森林の魔法にかかりそうになる。 恐ろしいくらいの静寂に立ち止まる。自分の呼吸音しか聞こえない幽玄の杜の神社で今日も僕は生かされている。
 いつものように、お稲荷さんに合掌してハイペースで石段を駈け降りた。真拍数は160。左手のNIKEのディスプレイは80minを示している。 4分/キロのペース・スピード。
 一番きつい上り坂を上りきり、町並みが目に入ってくる最後の下りで曇り空を見上げながら走った。 
 耳の中で ”G線上のアリア”が何度もリフレインするような走りだった。
 
  昨夜の地下鉄車輌の風景と深夜のドキュメント番組が蘇って重なり合っている。
 そうだ、シャワーを浴びなくては。あれだけの距離を4分/キロのスピードで走って来たんだから、疲れるのも当然だよ。さあ、チキンライスをもう一度食べよう。
 流し台には、食べ残しのチキンライスが皿に四分の一ほど残っていた。ケチャップの付け足しが端にはベットリと着いたままで。
 
 目覚めが悪いのは熱帯夜だったからなのだろう。
メビウスの夢 ヒムロ・ケイ

『近未来備忘録 ~Life is good too good to be true.』
橘内 閏

 日本から元号が消えて十五年。
 昭和天皇の死亡を契機に、国際社会における地位だとか意識だとかの論議が起こった。その結果、日本も先進諸国に倣い、一九八九年一月八日をもって独自の元号を廃止した。

 一九九九年六月に、アメリカはカリフォルニア州でランチョ・セコ原発事故が起き、衆愚やカルトによる世紀末騒動がマスメディアを賑わしたが、それでもアメリカは変わることなく軍事大国でありつづけている。
 日本では同年、圧倒的票数で当選した新都知事がさっそく、公約の東京タワー大改築計画を実行に移した。
 それは、一九九二年に日本の研究チームが発表した衛星軌道建築理論――いわゆるBSB(Basic Study for Babylon)を基礎とした、東京タワーを高さ千メートル超に増築する計画である。
 二〇〇一年に着工された工事は、今年二〇〇四年の五月一日、つまり丁度一ヵ月後に落成予定である。
 失われゆく環境を前に人類が提示した第三の選択――宇宙進出への道。新東京タワー、通称「スパイラル・ラダー」はその記念碑となるはずだ。
 落成式当日は、着工式のとき以上に、世界中の注目が東京に集まることだろう。

 航空宇宙技術と大陸間弾道兵器の発展は、全世紀末には既に、宇宙開発を現実の課題としていた。
 国連による月面基地計画は、各国の思惑が入り混じり、遅々として進んでいない。
 「作業開始はまだ先の話」という知識人連中の見解が、だがしかし、逆説的に宇宙開発が可能性ではなく現実として話し合われていることを示唆している。

 一方で、中東石油パイプラインを巡るイランとトルコの戦争は、各々の背後に控えたOPECと米ロ石油連合による、世界の石油支配権を巡っての代理戦争と化している。
 元をただせば、国境を侵犯した不審車両について、イランがトルコを問責しただけだったのにも関らずだ。
 事ここに至って、国連の調停が無力なことは、湾岸戦争とアフガニスタン戦争で衆目の認めるところだ。

 日本国内に目をやれば、バブル崩壊以降、雇用対策としての公共事業の限界。企業再建の名を借りた首切りの嵐と、失業率に比例して増加する三十~四十代労働者自殺率の増加。神戸小学生殺害事件に代表される少年事件の急増と問われる法整備の遅れ……。
 このような状況にあって、宇宙開発はもはや浪漫ではない。国際社会における日本の今後を懸けた、国家百年の計であるといっても過言ではあるまい。

 国家百年の計といえば、「日朝協調は国家百年の計だ」と公言した国会議員が、運転中にガードレールを乗り越えて転落死した事件がワイドショーを騒がせている。
 警察が事故死と公表した直後、道路にブレーキ痕がなかったことから、転落時に既に意識がなかった可能性がある事実を隠蔽していたことが発覚。それによって、議員の死に関する陰謀説が信憑性を強めたのだ。
 実際、あり得そうな話である。
 ETCが主要高速道路の4割弱に導入されている今現在でも、右翼の街宣車は相変わらず堂々とただ乗りをしている。
 今日付けで御目見えした新紙幣も、征韓論を唱えてた福沢諭吉が変わらずに最高額紙幣である――そんな国だ。
 親朝鮮を明言した政治家が謀殺されたとしても、誰も驚くまい(征韓論に評価に関して、当時の国際情勢と対外認識を考慮に入れるべきであるとしても)。
 真相は、拉致問題のときと同じく、今後も闇の中だろう。

 閑話休題、人類の進歩は甚だしい。
 地球上、数多ある生命の中でも、人類ほど多種多様な表現・伝達手段を生み出したものはない(それが、人間同士が真に解かり合えないことの証明であるのかもしれないが)。
 アポロ十一号が月に着いた頃、日本ではやっとプッシュホンが発売されたばかりだった。当時の人々は、まさか宇宙旅行の実現よりも早く、電話を持ち歩ける日が来るとは思いもしなかっただろう。
 まして、携帯電話でハイビジョン並みの動画をやり取りできるようになり、それを使った盗撮の現行犯で有名タレントが逮捕される日が来ようとは、夢にも思うまい。
 高度情報化社会の今日、ハッキングの技能があれば、片思いの相手の朝食の献立から、アメリカ大統領と女性秘書の不適切な関係まで、簡単に知ることができてしまう(前者はともかく、後者に関しては異論あるまい)。
 月面基地建設に先立って、月面に月―地球間を電波圏に収めるアンテナを設置する計画を、先だって国連が発表した。基地建設作業における連絡は全て携帯電話で行い、視聴料金を払った人にリアルタイムで作業の動画を配信するのだという。
 宇宙開発熱を煽ることで、地上の戦争調停で立て続けた失敗から目を逸らさせようという国連の客寄せパンダ計画というところだ。
 いや、今ならば客寄せイルカというべきか?

 そう。先月、鶴見川に突如現れたあのイルカだ。近隣の住民にとっては微笑ましい出来事だろうが、環境省には国内外の保護団体から、抗議や恫喝が連日殺到しているのだそうだ。
 鳥獣保護法や水産資源保護法にはイルカに関する規定がなく、また不用意に手を出して怪我をさせるわけにもいかず、「さっさと出て行ってくれ」というのが関係者の本音だろう。
 中には、「これがイルカじゃなくてアザラシだったらよかったのに……」との声もあるという。

 「人類の宇宙進出は、女性の社会進出の結果である」とは、アメリカの女性政府高官の名言だ。
 全世紀末から飛躍的に進歩した人工授精技術は、我々に母性の所在についてを問いかけるという、思わぬ副産物を生み出した。
 もともと不妊治療技術として開発された体外着床技術(SFでいうところの試験管ベイビー技術)は、二〇〇〇年後半に崩壊したネットバブルに替わって、新たなビジネスモデルを生み出した。
 母体での自然妊娠よりも安全かつ胎教等に適した胎児育成施設を提供する事業――エデン・ビジネスである。
 エデン・ビジネスは倫理観との対立を繰り返しながらも、ジェンダー撤廃論を背景にして、急速に国際社会へと浸透していった。
 「体外妊娠で子供を得た母親に母性は生まれるのか?」――というテーマで昨年末、アメリカの社会団体が行った研究発表の要旨をまとめると、「妊娠・母性とは女性の意義と能力を生物的・社会的に家庭内に限定してきたものであり、この両者を排除した場合、社会的能力における性差は認められない」だそうだ。
 いまだ、現場レベルでは諸説紛糾あるが、「これは男の仕事だ」などという台詞が時代遅れなものとなったことは確かである。
 月面基地計画においても、宇宙船外作業員の四割が女性から抜擢されている。
 まさか、高度な能力が要求される船外作業員を、女性の社会進出アピールのためだけで選考したりはするまい。

 スペースシャトルが成層圏を突き抜ける隣で、気象衛星兼軍事衛星が明日の降水確率とミサイル攻撃確率をメーリングリストに配信している。その下では、戦闘機と爆撃機と対空砲火が艶やかな軌跡を描き、命と金とを華やかに燃やし尽くす。
 環境を憂える人間たちが石油を求めて殺し合い、地球脱出を計画する。その足元で一秒毎に森が消え、貧しい国の乳飲み子が餓死し、富める国の労働者が自殺し、少年と老人が殺しあっている。
 東京都心に聳えたバベルの塔は、宇宙への希望か、はたまた地球への絶望か?

 訪れることのなかった、元号のない西暦二〇〇四年。
 世界は変わらず素晴らしい。
『近未来備忘録 ~Life is good too good to be true.』 橘内 閏

『ジェィド・ハミルトンの日記』
ゆうか

 こんな夜には思い出している。宙にいる君を思っている。
天空に駆け上がった君のことを。
 颯太。

「じゃあ、ふたりとも元気で」
「あぁ。君も気をつけて」
「忘れちゃダメよ、颯太。困った時は、おまじないよ」
 いつもと同じ別れだった。なにひとつ特別なことはせず、僕はその家を後にした。
無事に。
 角を曲がり立ち止まり、塀にもたれて息をついた。空を見上げた。
月なし夜。輝く星。
 夢を掴む旅に出る。あの銀河を超えて、僕は遥かな時間の旅をする。
 ジェイ。舞。
もう会えなくなるかも知れないのに、僕はあの星空を選んだんだ。

 君になにを言えばいいのか、僕たちにはわからなかったんだ。ただ、いつもと同じようにすることしかできなかった。大したことではないように。
 君の今回の旅の話を聞いてからというもの、僕はただひとつの言葉さえ、選び出すことができなかった。
僕はそうすることで、いつもと同じなのだと、自分に言い聞かせていたのかも知れないね。
 たかが三十年。あっと言う間だわ、きっと。私たち、忙しいのよ。結婚して、子供を育てて。ほら、大変じゃない。颯太を迎えるときには、なによ、もう戻ったの、ぐらいに感じるに決まっているわよ。
 いつでも僕を支えてくれる、舞の言葉。
 君を待っている、颯太。長い話をしよう。
だから僕はいつものように、君のミッションの成功を、空を見上げて祈っている。

 特別な旅だ。
人類の未来をかけて、僕たちは地球を後にしたんだ。地球時間で三十年のミッション。
 新しいエデンには実験が必要だった。生きていくことができる星なのか。未来を委ねることが可能なのか。そこにゼウスはいるのだろうか。
 迷わないわけじゃなかった。与えられた拒否権は、あまりにも魅力的すぎた。大切な家族。そして友人。僕を取り巻くすべての人達を、こんなにも愛しく感じたことはない。
 三十年。いままで生きてきた時間よりも長い時間を理解することは、僕にはとても難しい。
頭にあるのは、このすべての愛しいものに、会えない可能性のこと。
 ―――空の彼方のあの星に、神話は存在するだろうか―――
僕は、・・・・・・だけど、自分のために、河を超えてみたかった・・・・・・。

 娘が生まれたよ。

 変わってしまったんだ。
頭に浮かんだ当然の感想が、僕の心を締めつけた。
幾度も思い浮かべた故郷の風景は、まるでそれ自体、記憶ミスだとでも言うように、なにもかもが消え去っていた。
 たった三十年の間に、様々な重大事件が続いたそうだ。
 ただの時間経過以上のものを、確かに僕は目の当たりにしていた。あるはずのない坂道が、町の中心部だと教えられた地点から延びている。この広場も、こんな風ではなかった。僕たちが歩いた町並みは、消滅してしまったのだろう。
 時の流れは容赦ないものだ。襲い掛かる現実には抗えず。
 僕は未知の坂に足を進める。あの丘に出るようにと、半ば祈り、怯えるように、一歩ずつ。
 まさかそれだけは失われるはずはない。
君たちと時間を忘れて長め続けた、あの悠久。
太陽の光に輝き、星の光に照り映えながら、深いところではなにひとつ変えることのない、すべての生命の源である水。
 だんだんと足は速く運ばれ、ついには走るように。
 ・・・・・あぁ。良かった。
 丘から世界が広がる。―――海だ。

「変わっていないでしょう?」
 いつの間に横に来ていたのだろう。強い風に髪を押さえながら、少女はどうしてだろう、心配そうにそう言った。
陽に眩しいくらいの白い服を着て、真っ直ぐに海に目を向けている。
 郷愁。なにに対して? 変な気分。こんなことが前にもあった。揺らぐことのない記憶の中に、今の一瞬と同じ瞬間が。
「そう言ってた。パパとママが。ずっと変わっていないって。どう? ほんとう? 
あなたの知っているあなたの記憶と同じ、あなたの海?」
「あぁ・・・・・・」
「良かった。心配していたの、ふたりとも。毎日見ているとわからないことってあるでしょ、だから。あなたの目に映る海は、あの時と同じものなのか、ずっと心配してた」
「ふたり」
―――君は。
「これを」
 それまで背中に隠していたふるいノートを僕に差し出し、少女は初めて、僕に顔を見せた。
舞。
 あの頃の舞。ジェイと出会った頃の僕たち。イタリアの海、イタリアの空。夢を語り、未来を覗いたあの季節が、まるで帰ってきたようだった。
 その白い服もおぼえている。
星が揺れる海に、浮かび上がるように映える白。
舞の白いドレス。
「パパが、・・・・・・ジェイが毎日つけていたものなの。あなたへの手紙みたい。あなたがいない間のすべてが、ここにあるわ」
 ノートを受け取ると、風がページを繰る。懐かしいジェイの筆跡。
あぁ・・・・・・。君からの手紙。僕はどんなにこれに出会いたかっただろう。どんなに君の言葉を聞きたかっただろう。
片時も、望まなかった時などない。いつも心にあった。語りかけて欲しかった。君に。ジェイ。
 セピアに色の変わったノートを僕は抱きしめ、この丘で僕の隣でペンを握っていた、幻の君を見る。波の音がする。星が輝いている。
 二度と会えないことを、考えなかったわけじゃない。
僕の帰りたかったこの星にはもう、僕の会いたかったふたりはいない。
だけど僕は期待していた。君たちふたりの変わらない笑顔を。
―――「私、ずっと待っていたの」
・・・・・・笑顔を。
「パパとママの話をして、颯太。あなたの知っていることを全部、私に教えて。ジェイと舞の話よ」
 ずっと。長い時間。
「君の名前は?」
「アドリアナ」
鮮やかな、海。

 約束を覚えているかな。名前を決めたよ。
 世界一美しい、僕たちの海と同じ名を。帰ってきた君を抱きとめる、世界でいちばん優しい神秘。
 波間に星を煌かせる夜の国。
ここに座ってこの光景を見ていると、錯覚にとらわれる。
 満天の星空と、それを映す闇色の海。
まるで宇宙に飛び出したみたいだ。君のいる空の向こうに。

 そうだ、ジェイ。君の理想を、僕は覚えている。
世界一美しい、僕たちが出会ったこの海の名を。
星空の海。世界を包む海。風を育て、雲を生む、命の。
「アドリアナ・・・・・・」
まるで応えるように、波が踊る。

 変わってしまうものはたくさんあるけれど、変わらないものも中にはあるはずだ。
僕たち三人が憧れ続けたあの海は、変わらずに君を待っていると、僕たちは信じている。海と、渡る風と、そして見上げる星空が

「宙では星は瞬かないって、パパが言ってた。輝く星と、どっちがきれい? 颯太」
「あの世界では、この星がいちばんきれいに思える。僕には輝いて見えていたよ」

―――きっと君を、変わらず迎えてくれるだろう。

 君たちの生きる、この水の星。
「お帰りなさい。颯太」
『ジェィド・ハミルトンの日記』 ゆうか

絵本を抱えて森の隅へ
るるるぶ☆どっぐちゃん

 イボルネは結局飛べないようだった。繋がった骨がどうやら致命的な角度で結合してしまったらしい。二カ月経っても彼女は飛ぼうとせず、おかしな軌道で羽根をばたつかせるだけだった。
 だがイボルネはそんな事に頓着した姿は見せず、イリが驚く程元気だった。イボルネの体は大きかった。他の鳥の倍はあった。イリとイボルネが出会って二日程経ち、イボルネは群に入れられたが、その時は、彼女がその緑の羽根を大きく広げただけで、他の鳥は彼女に近寄ることさえ出来無かった。そうやって彼女は威嚇するように、威嚇というより、何だかファッションショーのように羽根を広げたまま、囲いの中をゆっくりと歩いて、そしてそのまま最も日当たりのいい場所、それは今までのリーダーの定位置であったのだが、そこに腰を降ろし、一声、とても低いが綺麗な声で鳴いた。他の鳥は、それに従うように羽根を下げるだけだった。
 イリが囲いを放つと他の鳥達はばさばさと、惨めに羽根を動かして、空へ逃げていった。
 イボルネだけがその光景を、我関せず、といった様子で眺めていた。イボルネには囲いなど意味は無かった。イボルネがその気になれば囲いを破る事など簡単だった。
 イリはイボルネが好きだったから、ついてきて欲しかった。が、イリの身支度を見ても、イボルネはいつもの場所を動かなかったから、イリは無理について来てもらおうとはしなかった。彼女は彼女で、私は私なのだから、それを尊重するべきだ、と思った。
 イボルネは自由だ。飛べはしないが、綺麗な羽根も持っている。村の連中がイボルネをどうにか出来るとは思えない。彼女はきっとその脚で何処まで歩いて行けるだろう。
 イリは最後にイボルネの頭を撫でた。イボルネは一声だけ鳴いた。それを餞別と受け取り、イリは鳥小屋を後にした。
 外に出ると、飛んでいった鳥達の羽根がまだふわふわと漂っていた。イリはそれを蹴散らして先を急いだ。近道する為に、畑を突っ切っていった。そこはユンゲの麦畑だった。ユンゲは自分が一代で成した、その広大な麦畑を自慢していた。努力することが一番大事だ、そういう事を、何回も語っていた。皆は尊敬していたがイリは、つまらぬ男だ、と思っていた。
 月明かりの下、イリは麦を踏み潰していく。
(つまらない。踏み潰せてしまう麦なんてつまらないわ)
 麦穂の遙か高みに月が見える。冷たく輝くそれを追うように、イリは走る。

「遅いぞ。何してたんだよ」
 ガナは非難の声をあげた。
「ごめんね。色々あってさ」
「何だよ色々って」
「色々よ。イボルネとか」
「イボルネ? ああ、お前が拾った鳥か」
「拾ったんじゃないよ。友達になったんだよ」
「どっちでも良いよ。ほら、行くぞ」
 ガナはイリの手を引いて歩き始めた。
「ねえ。そんなに威張らないでよ。私達、同い年なのよ」
「でもお前は俺がいないと何も出来んじゃないか」
「まあそうだけどさ」
 イリは視線を下げた。
「確かに何も出来ないけどさ」
「な。だから俺についてくれば良いんだよ。そしたらちゃんと俺が守ってやるから」
 視線を下げたイリを気遣うように、ガナは言った。
「解ってるよな」
「うん」
 イリは答えた。
 二人は歩き始めた。少し寒かったから、二人は手を繋いだ。温もりが嬉しくて、イリは他愛も無く笑った。
 秋の夜道は、虫達の声に溢れていた。何時までも鳴りやまぬその鳴き声は、うるさくて、美しかった。

 暫く歩くと、道は細くなり始めた。下生えの種類が変わる。
 道が森へ入るのだ。
 イリはガナの腕を掴んだ。ガナはイリの手をしっかりと握った。
「ありがとね」
 イリが囁いた。
「いつまでも一緒だからな」
 ガナは答えた。
 二人は森を、手を繋いで歩いた。森はひどく暗かった。だがイリは恐くなかった。ガナの手が思ってた以上に暖かくて、それが頼もしかった。
 崩れた大木を潜り、棘のある茂みを抜け。
 そして、二人はそこに辿り着いた。
「ふう。疲れてないか? 大丈夫か?」
「大丈夫よこれくらい」
 イリはそう答えた。
 二人の前には、突然樹木がまばらになる、妙に開けた空間があった。
 そこは闇が、変に濃かった。
 二人の考えが正しければ、ここが森の終わりだった。ここを抜ければ森の外へ出られる。森の外へ出れば、外の世界へ行ける。
(外の世界!)
 二人は今までに何度もここへ来ていた。くだらない村から逃げようと、つまらない世界から逃げようと、外の世界で自分を試そうと、何度もここから外へ出ようとした。しかし駄目だった。何度試しても森の外には出られず、村の裏側に出てしまうだけだった。
「あれ、ちゃんと持ってきたか?」
「うん、大丈夫よ。はいお弁当」
「馬鹿、メシじゃないよ。あれだよ」
「ああ、ごめん」
 イリは袋から大きなランプを取り出した。
「よし、じゃあ始めるぞ」
「うん」
 ガナはそれの取っ手を外し、中の燃料を辺りへ撒いた。
 月の光は、それを鈍く照らし出す。夢のようだな、そう思いながらイリはガナの様子を眺めた。
「準備は良いか?」
「良いよ。やって」
「よし」
 ガナはマッチを擦り、地面へ投げた。
 途端に、凄い勢いで炎が上がった。
「これで外に行けるかな」
「行ける。きっと行けるよ」
 二人は手を取り合って、それを見守った。
 炎は妨げられることなく、辺りを燃やしていった。熱。光。揺らめき。闇は瞬く間にその領土を炎に明け渡していく。
 森の中に、蛇のように炎が舞っていた。
「綺麗ね」
 イリは呟いた。
「危ない!」
 炎に見とれていたイリを、ガナに突き飛ばした。

ずずん。

 起きあがったイリは、火のついた樹に押し倒されたガナの姿を見た。
「ガナ!」
「馬鹿、俺に構うな。早く行け」
 ガナは叫んだ。
「無理よ。私、ガナがいないと何も出来ないもの」
「頼む、早く行け。今なら間に合う」
 ガナがそう言ってる間にも、炎の勢いはどんどん増していった。
 気が付くと二人は、炎に囲まれていた。
「ごめんな」
 ガナは頭を垂れ、言った。
「ごめんなこんなことになっちまって。
 くそ。今度こそ行けると思ったのに。やっと外へ出られると思ったのに。今度こそ村の馬鹿共を見返してやれるはずだったのに」
「ううん、良いの。謝らないで」
 イリは血に濡れたガナの頬を撫でた。
「私、ガナが一緒で嬉しかったわ。ガナと一緒にここまで来れて嬉しかったわ」
「ごめんな」
「良いの。私、本当に後悔してない。ねえ見て。炎、綺麗よ。あなたが産み出した炎、綺麗よ。麦畑の百倍素敵。私幸せ。こんなに素敵なものが見れて。死ぬまで麦畑しか見られない人生の何倍も何倍も素敵よ」
「ごめんな」
「良いの。本当に良いの」
 二人は話し続けた。炎が二人を包んでも、その小さな声は途切れることは無かった。

 ある村の裏の森で火事が起こった。村人はすぐにそれをみつけた。火はすぐに消えた。被害は無かった。子供が二人消えていたが、親無し子だったので特に誰も悲しまなかった。ただその子供が拾った鳥だけが、うるさく鳴いていた。

 灰の下から、その二本の樹は生まれた。
 樹は育ち、やがて二本は、互いに寄り添うように伸びていった。
(初めまして。あなた、名前は何て言うの?)
(僕? 僕は……)
(そう、素敵な名前ね。私はね……)
 二本の樹はいつしか絡み合い、一つになった。

 その樹はどこまでも伸びていった。

 そして、あの二人が森へ消えてから百年後。

 樹は森の遙か遠くに輝く、青い海を見る。
絵本を抱えて森の隅へ るるるぶ☆どっぐちゃん

遠雷
青野 岬

 僕には父ちゃんがいない。僕が生まれるちょっと前にリコンしたと母ちゃんが教えてくれた。だから僕は、父ちゃんを写真でしか見た事が無い。父ちゃんはお酒が好きで、酔っ払うとよく母ちゃんを殴ったりしてたそうだ。母ちゃんは僕を守る為にリコンしたんだ、と言うけど母ちゃんもよく酔っ払って暴れたりするので、本当のところ実はよくわからない。

「健一、今日は山根のお稲荷さんとこの祭りの日だろ?お母ちゃんと一緒に行こうか」
 隣で寝ているとばかり思ってた母ちゃんに突然話し掛けられて、僕はビックリして漫画本から顔を上げた。今日は母ちゃんの昼間の仕事の定休日だ。母ちゃんは昼間は駅前の大きなスーパーの掃除婦、夜は近所のスナックってとこで働いている。スーパーが定休日の毎週木曜日は、いつもなら「疲れた」と言って寝てばかりいるのに、今日は一体、どういう風の吹き回しだろう。
「夏休みも、もうすぐ終わりだろ?今年もどっこにも連れてってやれなかったからさ。せめてもの罪ほろぼしって訳」
 母ちゃんはそう言うと、軽く伸びをして布団から起き上がった。それを見て、僕もあわてて起き上がる。枕元の目覚まし時計を見ると午前八時を少し過ぎたところだった。いつもの定休日なら、昼近くまでまず起きない。僕は仕事で疲れている母ちゃんを起こさないように、朝御飯を作ってひとりで食べるのも、すっかり慣れっこになっていた。
「今、朝めし作るから待ってな」
 花柄のストンとしたワンピース(母ちゃんはアッパッパーと呼んでいる)に着替えた母ちゃんは、鼻歌を唄いながら台所に行ってトーストを焼いたり目玉焼きを作ったりしている。なんだか機嫌がいいみたいだ。僕もTシャツと短パンに着替えて、お皿を出したりするのを手伝った。流し台の上にある小窓から差し込む朝の日射しが、今日も暑い一日になる事を僕に教えてくれていた。

「俺よぅ、このあいだオヤジとオフクロが夜中に裸で抱き合ってんの、見ちゃったよ」
 親友の裕太が、ニヤニヤしながら僕に話し掛けて来た。お祭りは夕方からなので、前から約束していた『マッカチ』を捕まえに裕太とふたりでお不動池に遊びに来ていた。割り箸の先にタコ糸を結び付け、その先にエサとなる煮干しをつけて水の中にたらす。そうすると、もうほとんど入れ食い状態であっという間にバケツの中は赤黒いザリガニで一杯になった。
「え!?で、どうだった?どうだった?」
 僕も、あわてて聞き返す。
「もー凄かったよ。オフクロなんか、泣いてるみたいでさ。俺、なんかそれ見てたらチンチンが固くなっちゃってよぉ」
「そうなんだ……」
 この頃、僕は女の人の裸の事ばかり考えている。でも想像し始めるとチンチンが反応して大きくなってくるので、なるべく人前では考えないようにしている。この間も、エロい夢を見て朝起きたらパンツが濡れていて僕はあわててバレないように風呂場でパンツを洗った。
 だから最近は、母ちゃんと一緒に風呂に入るのもやめた。少しずつ、子供ではなくなっていく自分の体の変化を母ちゃんに見られるのは、何よりも恥ずかしかった。
(僕の母ちゃんも泣くのかな……)
 母ちゃんの乱れた姿を想像した途端、腹の底から何か熱い塊が湧き上がって来るのを感じた。たまらなくなって僕は水面めがけて手当たり次第に石を投げた。投げられた石は池の表面にいくつもの同心円を描いて、濁った水の中に消えた。

「ただいま」
 家に戻ると、母ちゃんが浴衣の着付けの真っ最中だった。
「ああ健一、いい所に帰って来たよ。ちょっと帯のここんとこ、持っててくれない?」
 僕は黙って母ちゃんの後ろに回り込み、言われた通りにした。母ちゃんの真っ白いうなじから、ほのかな石鹸の匂いが漂って来る。僕の身長はもうすぐ母ちゃんに追い付きそうだ。洗った髪をそのままに化粧前の素顔の母ちゃんは、まるで可憐な少女のように見えた。
 まだ陽も高いうちから太鼓の音が鳴り響き、お祭りムードは否応なく盛り上がっていく。僕は軽くシャワーを浴びて、母ちゃんとふたり家を出た。蝉時雨れが降り注ぐ道を歩きながら、母ちゃんがいつになくお喋りな事がほんの少し嬉しくもあり、また気掛かりでもあった。
 祭りの会場となっている山根のお稲荷さんは、既にすごい人出だった。参道の脇には露店がずらりと軒を並べ、金魚すくいや射撃の露店からは子供達の大きな歓声が上がっている。つい興味本意に歓声のあがる店を覗いて回っているうちに、気が付くと母ちゃんとはぐれてしまっていた。
 あわてて母ちゃんの、紺地に菖蒲の花の描かれた浴衣を探す。母ちゃんは盆踊りのやぐらの片隅の薄暗い蔭に、半ば放心状態でひとり佇んでいた。いきなり声を掛けるのもはばかられて母ちゃんの視線の先をたどってみると、そこにはひと目で堅気の人間では無いとわかる風貌の若い男が、若いだけがとりえのような厚化粧の女とイチャついているのが見えた。
「母ちゃん……」
 おそるおそる声を掛けると、母ちゃんは目に涙をいっぱい浮かべて僕を振り返った。そしていきなり僕の腕を掴むと無言のまま、家まで歩き出した。母ちゃんに何があったのかわからないまま、僕は黙って母ちゃんの後ろをついて歩いた。
 家に帰るやいなや母ちゃんは浴衣を脱ぎ捨てて、冷蔵庫の中から冷えたビールを取り出して浴びる程、飲み始めた。母ちゃんの耳たぶが、みるみる淡いピンク色に染まっていくのを見て僕は胸が少し苦しくなった。
「……ったく何だよ。祭りに来るって言うから夜の仕事も休んでめかし込んで行ったのに。女連れでイチャついちゃってさぁ……なんだい、あんな女」
 やっぱり母ちゃんは、あの男の事で泣いてたみたいだった。
「母ちゃんはやっぱり健一だけだよ。可愛いあたしの息子だもんねぇ」
 そう言うと母ちゃんは、酔っ払って僕に抱き着いて来た。酒臭い息が僕の鼻先にかかる。
「……やめろよ」
 母ちゃんの胸の膨らみを感じて、思わず両手で母ちゃんを押し退けた。
「……あら、健ちゃん冷たいじゃない~。母ちゃんのおっぱい飲んで育ったくせにさ。ホラ、母ちゃんのおっぱい、また飲むか?」
 母ちゃんは、左手でキャミソールの裾を捲り上げながら右手で僕の頭を引き寄せて自分の胸に押し付けた。目の前に、山で食べた赤紫色に熟した桑の実のような母ちゃんの乳首があった。僕はまるで吸い寄せられるように、母ちゃんの桑の実をそっと口に含んだ。
「あっ……」
 思わず漏らした母ちゃんの切ない喘ぎ声を聞いて、僕はハッと我に帰った。
「健一!どこ行くんだい!?健一ったら!」
 僕は母ちゃんを突き飛ばして立ち上がると、逃げるように家を飛び出した。心臓が、今にも破裂しそうなくらい高鳴っている。遠雷が、遠くの空を時折青白く光らせていた。
「バカヤロウ……母ちゃんのバカヤロウ……」
 あの時、母ちゃんのおっぱいを舐めた時、どうしようもなく気持ちが昂ってチンチンが固くなった。いくら酔っていたとはいえ、そんな事をさせる母ちゃんを許せなかったし、それに反応してしまった自分も汚らしく思えた。
「バカヤロウ……バカヤロウ……」
 僕は泣きながら走った。遠くから聞こえる祭り囃子に合わせて稲光りがだんだん近付いて来る。蒸し暑い空気に雷雨を予感させる冷たい風が混ざり、走る僕の背中を粟立たせていた。
「バカヤロウ……」
 口の中に、柔らかな桑の実の感触がいつまでも残っていた。
遠雷 青野 岬

赤鼻のトナカイ
泉和総

 今年も、クリスマスの祝歌が聞こえる。年老いた今でも、耳にするたびに私の胸にはひとつの思いがよみがえる。幾十年もの歳月をそこから歩んできた、幼い日の記憶。
 私は、アカハナと呼ばれていた。いくぶん体が弱く、常に鼻をぐずらせていた当時、ハンカチなどという洒落たものは子供の誰も持っておらず袖口で拭うのがいつものこと。虚弱ゆえの肌の青白さも手伝って、こすられ続けた鼻はいつも赤くなっていたからだ。むろん活発さを何よりの価値基準とする当時の子供社会のことで、そんな私は除け者、現代であればいじめとも言われかねないような扱いに甘んじていなければならなかった。
 だが、その年の冬。私の気持ちは、常にはなく軽いものとなっていた。西洋や、最近ではこの国の都会でも祝われると聞いた、年の暮れ二十五日の祭り。そのときに子供たちに贈り物を与えるらしい、さんたくろうすという老人の話が、私の心の中を跳ね回っていたからだ。
――サンタクロースというお人はね、トナカイの牽く橇に乗っているそうだよ。そしてトナカイたちの先頭を走るのは、赤い鼻をした一頭だそうだ。
 話をしてくれた人の顔さえころりと忘れて、私はその言葉だけを幾度も反芻した。赤い鼻のトナカイも、はじめはほかの仲間から笑いものにされていたという。それが、さんたくろうすに見出されることで、彼らの先に立つような立場になれたのだ。それなら
「――やーい、アカハナー!」
 笑いの混じった歓声をあげてかたわらを駆け抜けていった一団も、さして気にならなくなっていた。ふわふわと心の底を持ち上げられるような気分を感じて、いつもの顔を伏せた、のろくさい歩みさえどこか浮ついた。――そんな私がふと視線を持ち上げたとき、そこにひとりの少年がいた。
 私は、反射的にびくりと身を縮めた。さんたくろうすの話を聞いても拭いきれない、身体に染みついた反応だ。だが目の前の彼は、違った。見知った、つまりは私を攻撃する顔ではない。埃っぽい緑のセーターに、治るはしから打たれ続けてしまいには居着いてしまったような、いくつもの痣の残る顔。それでいながら挑戦的に腕組みをして、彼は私の顔を下からぐいとねめあげた。
「馬鹿にされてるわりにご機嫌だね、赤鼻」
 正直、私はむっとした。出会ったばかりの、見ず知らずの相手にいきなりそんなことを言われる筋合いはない。腹を立てても反論などできたためしはなかったのだが、知らない顔であるという安心感と、さんたくろうすの話でいくらか気が大きくなっていたためもあってか、そのとき私は珍しく言葉を返した。
「ば、馬鹿なのはあいつらのほうだからさ。赤鼻のトナカイの話も知らずにさ。さん……たくろうすっていう人に声をかけてもらえるのは、赤い鼻のほうだったんだ」
 そう言うと。弾けるように、少年は笑い出した。それも、どちらかといえば好意よりもからかいの響きを濃くうかがわせるふうで。
「なんだ……それで、赤鼻って呼ばれて喜んでたのか。サンタクロースに、目をかけてもらいたいってわけだ」
 壁に寄りかかって、彼は私を横目で見た。唐突な反応に呆然として、私は重力に引かれるようにかたんとうなずいた。また、少年の笑みが深くなった。
「サンタクロースってのは、悪魔だぞ? おまえにも分かるように言えば、鬼の仲間ってことだ。プレゼントを入れた袋を持っているって聞いただろうけどな、本当はそれに子供を詰めて叩くのさ。煙突から煤まみれで入ってきてな」
「う、ウソ言って」
 あわてる私に一瞥も与えず、彼はかぶっていた帽子のつばをぐっと引き下ろした。
「嘘なんかじゃないさ。おまえ、その話を聞いたときにプレゼントに棒飴をもらわなかったか? それが、サンタが人を叩く棒のことなんだよ」
 確かに、金太郎飴のような棒飴を貰った記憶はあった。喜んでなめたそれが不意に胃袋の中で泥に変わったような、薄気味悪い感覚が私をどろりと埋めた。何より少年の自信に満ちた口調が、ただの出任せを言っているのではないと雄弁に保証していた。
「そんな……」
「ま、これで本当のことが分かっただろ。知るのはいいことだからな――よっと」
 あっけなくしおれた表情を見てか、少年は壁から背を離し――踵を鳴らして私に歩み寄ると、でもな、と口調を変えて言った。
「でもな、悪魔だからいいんだよ。プレゼントなんかくそくらえだ。信じるものを神は救っちゃくれない、その点悪魔は……信じるも信じないもなく引っかき回して、利用しようとする奴には甘いこと言って魂までふんだくってやるのさ。最高だろ?」
 ぐい、と少年の腕が私の首筋に回された。体に染みついてしまった反射で、私は顔を出したところを不意につつかれた蓑虫のように身をすくめた。が、彼の腕は私を痛めつけるいつもの子供たちのものではなかった。新しい言葉が、巻きつけられた腕から私の体に染み入ってくる。埃が毛をこわばらせて幾分ちくちくするセーターさえ、どこか心地よく感じられた。
「オレがサンタクロースだ、おまえが赤鼻だっていうならな。望み通りサンタに声をかけられたってわけだ、ただし――悪魔、だったわけだけど。だからおまえも、オレが言ったみたいな悪魔になれよ」
 そう言って、彼はぱっと私の首を解放した。そしてまさに子鬼、彼の言葉を信じるなら悪魔というそれのように、引き止める間もなく走り去っていく。ゆうに十数歩は離れたところで、不意に振り返り、
「おまえが赤鼻でおれがサンタだ、忘れんなよ!」
 透き通った声が、私の耳を打った。私は、少年が走っていくのをただ見送り、その姿が背伸びをしてさえ見ることができなくなってから、ようやく歩き出した。そして――彼から染みこんだなにかに突き動かされるようにして、道端の畑の肥溜めに落ち葉と泥をかぶせた。鼻だけでなく目や喉さえ刺激するような堆肥の強い臭いも、そのときはなぜか意識にのぼっていなかった。
 肥溜めには、翌日私を痛めつけていた相手のひとりが落ちた。私に近寄ってくる途中、地面と間違えて歩こうとしたからだ。それを皮切りに、私は悪戯小僧になった。――彼の言葉を使うなら、悪魔に。そしていつの間にか、攻撃されなくなった。
 あの日以来、少年には二度と出会ってはいない。それにもかかわらず、彼の言葉は今でも鮮明な輪郭をもって思い出される。私自身のあのときの反応でさえ、時にはぼやけてくることもあるというのに。
 もちろん、彼の言葉が私を変えたからでもあるだろう。だが、それだけでは――、そのとき、誰かが玄関に訪れた気配を感じて、私の思いは中断された。ちりん、と鈴の音がかすかに聞こえた気がした。