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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第23回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 11月)
文字数
1
hanako
3279
2
ナカマリコ
2811
3
ラディッシュ・おおもり
3000
4
竹野井 雪
2000
5
沙汰
3000
6
卯木はる
3000
7
黒男
2985
8
青野 岬
3000
9
Ame
3000
10
ねぎ
3000
11
やす泰
3000
12
しほなんてぺっ!
2992
13
林徳鎬
2991
14
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
15
羽那沖権八
3000
16
伊勢 湊
3000
17
岸村しほ
3000

結果発表

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三本松の鹿
hanako

 ササのお父さんとお母さんは働き者でした。それが証拠に、ササは学校から帰るとすぐに、自分のうちへは帰らず、もう一キロ山よりにある、おばあさんの家へと帰ります。一人でお留守番するには少し背が小さすぎました。
 おじいさんは去年病気で逝ってしまったので、おばあさんの家はおばあさんの他には誰もおりません。いえいえ、違いました。チャロという犬が一匹おりました。土間より、僕を忘れるなよ、と、こちらに睨みをきかせております。これは失礼致しました。チャロは茶色い柴犬でございます。今年で六つになりましょうか。人間の年に換算すると、七をかけて四十二になるのだそうです。
 ササはおばあさんとチャロと大変仲良しだったので、両親の帰りが夜になろうとも、ちっとも寂しいことありませんでした。おばあさんとテレビをみたり、歌をうたったり、畑へ行ったり、墓へ参ったりするのです。
 さてさて、これはササの冒険のお話です。物語はこのように始まります。今、まさに始まろうとしております。

 ※※
 
 お昼寝から起きるとおばあさんの姿はありませんでした。チャロもおりません。納屋に猫車がないことから、きっとおばあさんはチャロを連れて畑へ行ったのだな、とササは思いました。時計をみるとまだ三時半。学校から帰ると、ついウトウトとして眠ってしまったのですが、案外眠りが浅かったのでありましょう。ほんの三十分ほどで目が覚めてしまいました。おばあさんは、ササは夕方まで起きないものと思ったのでしょうね。いつもなら突付いてもひっぱっても、ちょっとやそっとじゃ目を覚まさないササなのですから。
 季節は秋でした。中庭の紅葉がほんのり頬紅をつけて、風に揺れてササササッと鳴いております。空は秋晴れと申しましょうか、一人で家にこもっているのはもったいないような気持ちの良いお天気でしたので、いつもならそうはしませんが、導かれるかのようにお散歩へ、いえいえ、探検に出かけることにしました。
    

 ※※※

 玄関を出ると、道が南北に伸びております。南へ行くとおばあさんとチャロのいる畑があります。北へ出ると、はて、北へはあまり行った事がありません。学校もおじいさんのお墓も、畑と同じ方角にあるのですから。あんまり良いお天気なので、気持ちが大きくなったのでしょうか。それに今日はただのお散歩ではありません。いいですか、これは冒険の物語なのですよ。ササは家の前の通りを左へ曲がりました。左は北の方角ですよ。

 少し行くと小川が流れておりました。しばらく小川を眺めておりますと、藻の間からカメが頭を持ち上げているのがわかりました。
 「こんにちは、カメさん、なんか用ですか。水は冷たくないかしら。」
 学校で、担任のケイコ先生が「あ・い・さ・つ」について教えてくれました。あ・は、相手の目をみて、い・は、いつもさわやかに、さ・は、相手よりさきに、つ・は、つばが出るくらい大きな声で、だったでしょうか?さっそくこれを実践したわけですが、カメはササの大きな声にびっくりして、頭を隠してしまいました。 ササは、しかし、そんな事ではくじけません。どんどん前へ進んで行きます。

 しばらくすると、右手に教会がみえました。右手といいましたが、これは東の方角ですよ。
 ササのような日本の田舎娘の目には、キリストの教会はどのように映ったのでしょうね。ササのお父さんもお母さんも、おばあさんも、おそらくチャロだって、キリスト教徒ではありません。ササの方では、もしそうだったらどんなに素敵かしら、と思っていました。アーメン、といってクロスを斬るすがたは、なんともいえずかっこよいではありませんか。教会のステンドグラスや屋根のてっぺんの十字架をごらんなさい。ひどく美しいではありませんか。ササはその十字架に向かってシャシャとクロスを斬る真似をして祈りました。おばあさんと、ずっと一緒にいられますように。

 ここで一つ、皆さんに言っておきたい事があります。それは、ササがそうであるように、「美しいものを見た時、大いに感動して下さい」ということです。それは、人生において必ず必要なものではないかもしれません。が、しかし、人生において多くの喜びとなりうるでしょう。

 さてさて、冒険はまだまだ続きます。大きな道を渡ると、辺り一面稲穂の波がザザザと音をたてております。そろそろ私を刈って下さいな。首がたいそう重とうございますよ。と言っているようです。この辺りは、今週の日曜が地区の運動会の予定です。運動会がすむと、皆で一斉に稲刈りをするのだそうです。
 「稲穂さん、ごきげんよう。首は痛くないかしら。来週までお待ち下さいね。」
稲穂は、相変わらず、ザザザと揺れるだけでした。
ササは、揺れる稲穂のあぜ道を、いつしか歌をうたいながら歩いておりました。 

どこか虹の彼方の、空高く
子守唄でかつて聞いた国がある
どこか虹の彼方は空あおく
思いもよらぬあなたの夢も
本当にかなう

 はてさて、どのくらい歩いたでしょう。山のすぐふもとまでやってきました。山はこれから秋が始まる、といったところでしょうか。おばあさんの家の中庭の紅葉のように、薄く化粧をつけはじめた木があちらこちらに見えました。
 こんなに遠くまで来てしまった、と誇らしげに来た道ををしみじみ眺めておりますと、後方に何か気配を感じました。振り向くと、わずか七十メートル先の三本松の下に、一匹の鹿がいるではありませんか。鹿だ。あれは牡鹿だ。以前、何かの本にあるのをおばあさんが読んで聞かせてくれました。秋の牡鹿は盛んに鳴いて雌を呼び、他の牡鹿と角を突き合わせて闘うのだそうです。なんて雄々しい姿でしょう。両手で四角い窓をつくると、まるで学校の昇降口に飾ってある絵画のように見えました。春の写生大会の時、高学年の男子がこれをやっていて大変サマになっていたので、機会があれば一度真似をしてやろうとねらっていたのです。今がまさにその時でした。ササは長い間、その窓をのぞいておりました。今度は挨拶をしませんでした。だって、一言でも声を発したら、鹿はどこかへ去っていってしまうでしょう。ササは、もうちょっと鹿の絵を見ていたかったのです。
 心がけて静かにしておりましたが、やはり別れの時がきました。鹿は畑を越えて、あぜ道を超えて、山の中に姿をけしました。もう一度鹿がやってきはしないかしらと、長らくまっていましたが、二度とあの美しい絵をみることはありませんでした。

 夕方になり、夕焼けが冒険の終わりをつげます。鹿のことを思いながら来た道をひきかえすササでしたが、その目には、稲穂も、教会も、カメも、すべて色あせてみえました。

 ※※※※

 おばあさんの家へ帰ると、納屋に猫車がありました。チャロが腹減った腹減ったと吠えています。ササは勝手口から台所へ入ると、おばあさんの背中に抱きついて言いました。
「ばあちゃん、ばあちゃん、鹿がおったよ。三本松の下に、鹿がおったよ。」
おばあさんは、流し台でサツマイモを洗いながら、
「三本松までね。一人でね。ほうか、ほうか。鹿がね。ありゃあ、大きな道路ができたけんね、迷って山からおりてきちゃるということだよ。」
「道路が?ああ、教会の先の道路だね。」
「あの道路は山までずっとつながっとるけんね。鹿が間違えておりてきたもんだよ。」
「ふうん。そうかあ。鹿はねえ、綺麗だったよ。こうしてね、手で窓をつくるとね、額縁にはいった絵みたいだったよ。私、きっと大人になっても忘れんわ。それぐらいに綺麗だったよ。」
 おばあさんは、ひどくおかしいのに、それを無理してこらえたような顔をしながら(だって、笑ったらササに失礼にあたりますでしょ。)、サツマイモをふかしてくれました。そうそうチャロのも忘れずにね。ササが鹿の話をしている間、ずっと土間で睨みをきかせておりましたからね。

 こうして、ササの冒険のお話は終わります。いえいえ、もしかすると、まだ始まったばかりなのかもしれませんね。それはまた別のお話。またいつかお目にかかりましょう。
三本松の鹿 hanako

特例的産卵記
ナカマリコ

 ねえねえ、ちょっと起きなさいよ、と寝台に埋れた体を揺すられて目覚めるとヒナコの顔とその後に白んだ空が広がる窓が見え、まだ朝も幾分早いのではないかと枕元の時計を見ると五時半辺りを指していて、再びヒナコの顔をみると昨夜は私と同じく二時過ぎに寝た割に頬を紅潮させているのでこの子は低血圧ではなかったか知らん、とぼんやり考えながらその頬を擦ってやるとやはり普段とは違えて温かいので風邪を引いたのかという旨をくちの中でぐにゃぐにゃと云ったところ今度は頬を叩かれ、何云ってるのよ風邪じゃないわよ風邪どころじゃないのよ、と唇の端をしたたかに抓られた。乾いた表皮が細く裂ける。
 ねえわたし卵産んだの、とヒナコが見せるのは何枚かの塵紙に包まれた、鶉の卵と鶏卵の中間ほどの大きさで形の卵だった。鶏姦、と呟いたら頬をはたかれた。あんた鶏姦てそういうことじゃないでしょ。
 だって私卵産まれるようなことしてないもの、と云うとヒナコはまた私の頬をはたいてあんたに精巣が幾つあったってわたしは卵産んだりしない、これはねきっと昨日あの卵を食べた所為だわ、と云うのであった。
 昨日ヒナコは海の卵売りなる男から海の卵なるものを言い値で買った。言い値とは千円ということだった。ベニヤ板でできた箱の中に綿が敷かれそこに卵が載っていたのだがそれはどうみても青色に塗られた鶏卵であった。私は何故こんなものに千円も出したのか、第一訪問販売員に対して門扉を開くとは何事か、などと叱ったのだが、当人はぼんやりと避妊具を訪問販売するって云うのを聞いたことがあるけれどそんなの本当かしら、とか、コンドームに殻ごと卵を入れて膣に挿入するっていうのをどこかで読んだけど何だっただろう、などと云うばかりであまり聞いていない様子だった。
 仕方がないので私はそれを料理することにした、ヒナコが卵の味がきちんとわかるように食べたいというのでオムレツを作ろうとすると、別の卵やハムとかチーズを混ぜたらだめ、と云い、牛乳は、と聞くと牛乳はいいと云うので卵一個と牛乳と砂糖を混ぜて小さな卵焼きを食べさせたのだった。私もひとくち相伴したが普通の卵焼きの味がして勿論色も黄色過ぎるほどだった。やっぱりハムとチーズを入れればよかった、とヒナコは云った。
 そのような経緯でヒナコは殻だけが青い鶏卵を食べ、その為に自分は卵を産んだなどというのである。私は改めてヒナコの掌にある卵を眺めた。
 ヒナコの産んだ卵はヒナコが食べた卵と様子を異にしていた。殻は半透明の乳白色で中に満ちる青色が透けたような薄青である。また質感は鶏卵と異なって湿り気を帯び、触ると何やら柔らかい。触りながら聞いた。
 ねえこんなの何処から産んだの。膣でしょ。痛くなかった、痛くなかったんじゃないかしら、覚えてないもの。これをどうするのまた食べるの、食べないわよわたしが産んだものを。じゃあ育てるの、卵だから温めればいいのかしら。だけど温めたところで何が孵るのよ。海でしょう、海!海の卵って単独では海を産むことができなかったんだわ。
 そう云ってヒナコは掌中の卵を撫でている、まるで仔猫を舐めるように。それは母性によるのだろうかと私はぼんやりヒナコを眺めた。ああヒナコは母親になってしまった。ヒナコは何と目合って卵なぞ産むのだろう。
 私はヒナコの性器が卵を排出する様を想像し、それは私を昂奮させたのでヒナコに抱きついて胸でも掴んでやろうとしたが振り払われた。母になりしものへの欲情は禁忌なのか。この娘は母に成った気でいて最早性欲など無いとでも云うのだろうか。ヒナコの掌中で卵は温まり私はそれを握り潰したかった。
 どうやって温めたらよいかしら、ヒナコは私と違い卵を握り潰す気などないのだった。海が孵るのだから水槽の中で温めるのかしらね。それとも金魚鉢かしら。ヒナコは勝手に喋っていて私は三時間ほどしか眠っていないと思い出し眠たくなった。或いはこれは夢かも知れないではないか。
 ねえ私まだだいぶ眠いから寝るよ、君もあと少し寝なさいよ。しかしヒナコは卵を撫でているばかりで唇には笑みらしき動きさえある。私はタオルケットを引き上げて目をつぶった。そうして見た夢の中ではヒナコが孕んでいた。わたしが産んだ卵を食べたらお腹が大きくなったの。そう云って裸で硬く突き出た腹を撫でているのだった。私はその腹を蹴り上げればいいのだろうかと思い、生白い腹は中に青いものを透けさせていた。私の脚に蹴られたら腹は破れるだろうか、或いは脚の方が折れるだろうか。
 目が覚めると正午近くでヒナコは私の体にしがみついて眠っていた。腹を撫でたけれどもそれは突き出てもいなければ硬くも無かった。卵、と思って部屋の中を探すと卓袱台の上の、元々は海の卵というあれが入っていた粗末な箱の中で綿に埋もれている。私はヒナコを起こさぬよう寝台を抜け出し卵を掴んだ。弾力のある触感は殻というより皮膚に近く、何より綿の中に置かれていただけなのに生温かった。
 私はそれを壊す為に流し台の前に立った。ステンレスの鈍く光る平面に卵を手で掴んだまま叩きつけた。大げさな音はしたけれど卵には鈍いひびが入るのみだった。私はひび割れた卵を掴んでサンダルを穿き、寝て起きたままの格好も厭わず部屋の外に出た。階段を下り舗道にしゃがんで先程と同様掌ごと黒く堅い地面に叩きつけた。殻は崩れ、流れ出したのは青いぬるぬるした何かで潮のような匂いがし、それが人の体臭のように感じられて私は指に付いた殻の欠片を青い液体を、舗道の面に撫でつけた。舗道は白昼の中で灼かれ空を仰ぐと明け方のあのときと同じく白かった。立ち上がると血の気が引き、足がふらついてサンダルの裏が壊れた卵を踏みにじった。部屋に戻って手を石鹸で洗浄し、石鹸臭くなった手を暫く人肌ほどの温度の水に晒した。手を拭って寝台に戻り、眠るヒナコの顔を撫で、シャツを引き上げて柔らかくて白い下腹を撫でた。そのうち人心地がついて私は夢も見ずに眠った。
 次に目を覚ますとヒナコはベニヤの箱に敷いてあった綿をむしってはくちに入れているようだったが私が起きたのに気がつくと私の頬に唾ごと埃のかたまりのようなそれを吐きかけ瞼の裏を引っ掻くような目で私を覗き込んだ。私は頬に吐き出されたかたまりを自分のくちに含んでヒナコの唾液だけを嚥下し綿の滓は寝台から離れたところにある屑入れへ投げた。ヒナコが箱を手にして私を凝視するのでそれを投げつけて私の目を潰すといいと思ったけれども叶わず箱はただ床に叩きつけられ跳ね上がった。それからヒナコは台所で冷蔵庫の中に幾つかあった鶏卵を総て床に叩きつけ黄身と白身の混じり合う中に寝転がって顔をなすりつけながら泣き始めた。私はヒナコを起き上がらせて一緒に風呂に入らなければと思った。白身が凝固しない程度のぬるい湯でヒナコの体を流さなければと思った。
特例的産卵記 ナカマリコ

優子
ラディッシュ・おおもり

当惑した優子は、産毛の生えた頬に手を当てている。

貴子は、優子を観察する。

昔から私は当て馬にされていた。

みんな優子がお目当てだった。

中学の先輩から声をかけられ、ドキドキもので近づくと、優子宛の手紙を渡された。

君の事が好きです。バスケの試合を見に来てください。返事を必ず下さい。

陳腐なラブレターだった。

優子に渡さずに、中身を読んで捨てた。

高山のヤツ、優子が目的なのは見え見えだった。

いつまでも、黙っている優子に貴子は言う。

「いつまで考えてるの、ただ一杯飲もうっていってるだけなのよ。もうあたし、高山に、いいよって言っちゃったからね。」

優子はゴージャスなまつげを、緞帳のようにゆっくりあげて、貴子に笑いかけた。

(そう、あなたはそうやって、私に押し切られたんだからしょうがないって、思うのね。)

老いさえもパウダーをはたいたように優子を彩っている。

今更驚かない。

優子はきれいな人。

私はきれいじゃないので、いろいろ手練手管が必要。

高山と三人で飲む日、貴子は優子のなりを見て驚いた。

二十年もタンスの奥に押しつくねてあった勝負服を着てきたって感じ?

高山は立って、優子にソファーを譲る。

優子は、はにかみながら席につく。

高山は快活に優子に、話しかけていた。

優子は酒場の雰囲気に落ち着かない。

ぎこちないそぶりで、貴子の助けを求めている。

貴子は無視した。

どうせ高山の奢りだろうと、酒のピッチを早めた。

離婚して以来こうゆう場所に来ていなかった。

ここは新しく出来た飲み屋だった。

なかなかつまみもおいしかった。

高山が熱心に優子に話しかけて笑わせている。

優子は、セットしなくても形のいい髪型をしていた。

最近髪の毛が痩せてきた貴子はうらやましい。

中学から同じ、いや小学校から同じ髪型。

眉だって書き足す必要が全くなく、きれいにカーブしている。

あ!大発見!優子が眉を整えている。

いや、整えていると言うより、剃っている。

貴子は容赦なく見ている。

眉の一番上がったところを剃っているため、そこにあおいそり跡がある。

正面から見ると眉が泣きべそを書いたようになっている。

今までやったこともない眉の手入れ、しかも安全カミソリで不器用に剃っている。

どろんと大きな目が、悲しそうな八の字眉に似合っている。

高山との事が本気になり出しているとゆうより、かなりのめり込んでいる?

彼女の恋は、実際よりかなり先行している?

むっつりスケベ。

可愛い顔して、ようやるわい

こうゆう手合いは、加減知らずで怖いかもしれない。

なんで私が飲み屋で、優子の心理研究をしなきゃならないんだ。

貴子は自分の注文したカラオケを歌うために、準備した。

そうそうなんかすっごく大事なことを、忘れている気がするけど・・・

まぁ、いいか。

川の流れのように~

貴子が歌っている後で、高山と優子がぎこちなく踊り出した。

演技でもあんな仕草出来ないわ、同じ女で、同じく二回分娩台に上っているのに・・・・

ま、このダブル不倫劇をゆっくり拝見させていただこう。

貴子は一曲歌い終わると、席に戻り、二人が踊っている方に背を向けて鰹のたたきを食べて飲んだ。

戻ってきた高山は、貴子にも一応踊らないかと誘った。

「えっ~良いわよ、」

高山は貴子の腰に手を回した。

「ほら彼女が焼いてるわよ。」

八の字眉のおかげで、ほとんど泣き顔に見える優子が、こちらに笑いかけている。

「貴子だって、いい線行ってるよ。このくびれ。」

「さっき、優子と次のデートの約束したんでしょ。私抜きでどこに行くの。動物園?」

「まさか、あんなねんねと動物園?」

「嘘いわない。男って、みんな同じ、金太郎飴。」

「おたく、男と最近動物園に行ったの?」

「ううん、ちかいけど、違う。優子の初体験は、動物園のデートの後に・・うふふふ。今の亭主よ。初な子。あんたがうまくやれば、二人目よ。まだ夫以外に、男を知らない。」

ここで高山は、離れた席の優子に手を振る。

「ね、今日どう?あの子送ったあとにさ」

「大胆ね、アハハッハハ」

「どうしたの」

「思い出したの、アハハハハ」

「何を?」

「さっきからなんか大事な事を忘れていたみたいで、気持ちが悪かったんだけど、思い出したの」

「もったいぶらないで言えよ。」

「あなたのご執心の優子の事。」

「彼女、結構毛深いの。あはははは」

「どこの毛?」

「さぁ~どこかしら、うふふふ。うずいちゃった?」

「ばかな」

貴子は高山の脇腹を軽くつねった。

「彼女、初そうに見えて、情が深いのかな。底なし沼みたいに。フフフ」

一ヶ月後に優子から電話があった。

相談したいことがあるという。

貴子には、なんの相談か察しがついていた。

「ごめーん、実家の母が具合悪くってー最近ちょくちょく呼ばれて・・」

優子はたいした事ない相談なので、と自分から電話を切った。

たいしたことないわけがなかった。

高山と優子の不倫関係は会社の誰もが知っていた。

高山は、会社に来ても、以前と違って直ぐ帰った。

事務机に座った優子は、こわばった顔をしている。

やることなす事不器用で、見え見え。

ドアーホンが連続して鳴らされた。

凹レンズの奥に高山がいる。

「どうしたの」

高山は口の端を持ち上て少しだけ笑った。

顔色が悪い。

「悪いけど、ちょっと良いかな。」

ま、良いわ。今日は子ども達、サッカーの合宿で、出払っているから、とまっていっても良いわよ。

ありがたい終電車に間に合わなかったんで、家には仕事で帰れないと電話したんだ。

「優子の事でもめてるんでしょ。」

口を封じるように口が迫った。

茶箪笥の陶器類が一斉に非難がましく細かく甲高くなった。

テーブルの上の缶ビールがなだれ落ちた。

良かった缶ビールの口が開いてなくって。

やっと誘導して部屋のベットになだれ込んだ。

貴子は、高山が自分と優子と比べていると思った。

柔らかいさなぎのような優子の身体は、高山が進めば進むほど抵抗しているように見せかけて、何もかも手応え一つなく吸収していったに違いない。

それは従順に見せかけた終わりのない希求よ。

優子のやり口は、全部知っているの。

優子のみっしりと茂った下腹部の毛が、肌の白さと対照して夜目にも鮮やかだったに違いない。

優子にはまけられない。

貴子は褐色の肌は、贅肉がほとんどなく、弓のようにしなって高山を翻弄する。

「だめだ。」

高山は、貴子から離れた。

「悪い。」

貴子は惨めな思いで、服を引き寄せきる。

「悪い、さっき、優子に呼び出されたんだ。」

「優子と喧嘩して、私のところにきたわけ。なによ。私は当て馬?」

「悪い、優子に呼び出されて、さんざん迷って、家に行った。約束の時間を三時間も過ぎていた。」

「え!家に呼び出されたの?」

「家に行ったら、家が燃えていた。拡声器で、優子の名前が、何度も何度も呼ばれていたんだ。

本当に火をつけたんだ!電話で、俺が来ないと、家に火をつけるって・・・・」

そういえば、さっき消防自動車がけたたましく鐘を鳴らしながら、通った。

「嘘でしょ。」

「ほんとさ。」

高山は、大声で泣き出した。

貴子は、自転車に乗って、優子の家に駆けつけた。

優子の家が真っ黒なすみになって、崩れ落ちていた。

パトカーに乗り込もうとしている優子の亭主に出くわした。

「貴子さん、優子は、自分から火の中に入っていったんです。高山祐介って、知っていますか。高山祐介て、名前を呼んで、火の中に入って行ったんです。」

翌日の朝刊に、優子の焼死遺体が、焼け跡から見つかったと、書いてあった。
優子 ラディッシュ・おおもり

安息
竹野井 雪

 その日は戦後最大級の台風が本州に襲いかかった。大学の講義は午後から休講になり、直ちに学生は帰宅せよという構内放送が流れた。周囲には期待にも似たざわめきが起きたけれど、連れのいない私はそれに同調する気も起きず、指示に従って早めに帰宅することにした。今なら雨もそんなに強くない・・・と思ったのは大間違いで、バケツなど通り越してドラム缶をひっくり返したような大雨と体ごと飛ばされそうな暴風が好き放題暴れてまわっていた。お気に入りの傘が変形したところまではまだ許せるが、車に泥水をはねられたのと全身濡れねずみであることの寒さには勝てそうにない。あわてて近くにあったアパートの玄関に飛び込むと、そこには先客がすでに何人かいた。
 ここにいればとりあえずこれ以上はぬれなくてすみそうだが、暴風雨はいっこうにやみそうにない。いつまでもここにいては風邪をひく。数秒間迷った挙句、私はバッグからケータイを取り出した。幸い濡れている気配はなく、無事なようだ。私はメモリから見慣れた名前を探し出すと、電話をかけた。
「ごめん、本当に急なんだけど、雨宿りさせてくれない?」
あまり使いたくはなかった手段なのだが、近くに住む人を一人しか知らないのだからやむをえない。今電話をかけたのは、サークル仲間の敦だ。今のところ私の親友であり、恋のキューピッドでもある。今付き合っている彼氏は敦の紹介だった。そんな感じだから信頼できる相手であることは間違いないが、一応彼も男である。彼氏がいる手前、あまり感心できる行動ではない。全身ずぶぬれであり、雨の勢いが強すぎて前が何も見えないことを告げると彼は迎えに行くと言った。
「そっから動くなよ!」
数分後、私に負けないくらい濡れねずみになった敦がやってきた。私は思わずカサもささずに駆け出してしまった。後ろから「いいよね、彼氏が迎えにきてくれる人は」という声が聞こえた。
 意外にも、敦のアパートはすぐそばにあった。視界がせばまっていたために見落としたのだ。
「まぁちょっと散らかってはいるけど…とにかく入れよ」
ここに入るのは二度目だが、ずっと前から通いつめている場所のような気がする。前来た時からほとんど物は増えていない様子だった。一人暮らしだからそんなに増やす必要もないのだろうが。彼の髪の毛からはポタポタと水滴が落ちていた。今さら言うことでもないが、強い雨だと思う。
「ごめんね」
そんな言葉が口を突いて出た。
「いいよ別に」
借りたタオルで一通り体を拭くと、いくらか気分が落ち着いた。そして彼氏・・・和哉・・・のことが頭に浮かんだ。今彼はどうしているだろう。やっぱりこうして友達の家に避難しているのだろうか。
「どうしたの?」
黙り込んだ私を変に思ったらしく、敦は言った。
「何でもない」
「和哉だったらきっと上手く逃げてるよ」
どうしてこの人はいとも簡単に私の心を読むのだろう。いつもそうだ。だからついつい頼ってしまう・・・
「これでも着てな」
敦はぶっきらぼうに言うと、私のほうに向かってパーカーを投げた。そのパーカーは腕をピンと伸ばしてもまだ袖が5センチくらい余った。
「意外と大きいんだね」
「当たり前だろ?俺にだって大きいんだから」
何やってるんだろう、と思う。いくら近くにこの人の家しかなかったからといって、ずぶぬれの体で上がりこんで、しかも服まで借りたとなれば「仕方ない」ではすまないのではないか。付き合い始めて1ヶ月、和哉はまだ私に指一本触れたことはない。どうしても恥ずかしくて素直に甘えることができないのだ。相手が敦なら受け入れられることは、和哉だと大体できない。友達の方が気楽だから、とかそういうことではないような気がする。和哉は優しい、でも一番そばにいて欲しい時にはいない。
腕を曲げてうらめしや、と幽霊の真似をしたら額を小突かれた。外は一体何度くらいあるのだろう。部屋の中なのに、フリースのそのパーカーがちっとも暑く感じない。私が床に座りこんでボーとしている間に彼はさっさとぬれた服をハンガーにつるし、窓をしめた。
「これで雨は入らないだろ…」
一瞬にして部屋の中がシーンとなった。そうだね、と頷こうとすると、後ろから何かが私をしめつけた。何かだなんてまどろっこしい言い方はやめよう。部屋にいる生き物といったら、私と彼だけなのだから。
「ここには和哉は来ないよ」
いつもより敦の声が低かった。
「いい加減気づけよ」
予想できた展開だった。
「こんなにそばにいるのに」
さっきタオルで拭いたばかりなのに、今度は涙で顔が濡れた。窓の方からかすかに雨の音が聞える。
「好きだ・・・」
その瞬間、私の心に二つの文字が浮かびあがった。

「安息」

ずっと欲しかったのは、本当に欲しかったのはこれだ。その言葉に自分が頷いたかどうかはわからない。ただ息苦しいほどの力がこもったその束縛が、なぜか生温かく甘美なものに包まれていたことは確かだ。
安息 竹野井 雪

羽根~lay down my arms~ 改訂版
沙汰

「じゃあ、仕事がんばれよ」
「ああ、お前もあんまりハメはずすんじゃねぇぞ」
「わかってるって」

 久しぶりの下界だ。
 死神のヴァルがこっちに用があるというので、くっついてきた。
 風が気持ちいい。むこうでは吹かないからというのもあるんだろうが。

 夕日が傾き、飛び回るのにも飽きてある家のベランダに降り立った。
 割と広い庭が見える。

「ねえ、何をしているの?」
 ぼうっと、座っていると突然後ろから呼びかけれた。
「うわあ!」
 思わず腰掛けていた手すりから落ちそうになる。
「きゃあ!」
 声をかけた主が叫び声をあげる。
 振り向くと、八歳ぐらいの少女がいた。
「お前、俺が視えるのか?」
 そう問いかけると、
「うん、どうして?」
 なんてことのないように答えられて、少し拍子抜けする。
「ねえ、こっちに来てよ。私は咲子。あなたは?」
「カムエル」
「カムエル……。いい名前ね」

 そのときの咲子の笑顔に、俺は捕らわれてしまったのかもしれない。

 それからというもの、暇があれば咲子のところに行っていた。
 彼女はいつも笑顔で迎えてくれた。

「ねえ、カムエル」
「ん?」
「カムエルの羽って、すごいきれいね」
 咲子が俺の羽をなでながら云った。
「ありがとう」
「カムエルって空が飛べるんだよね。私も一緒に空が飛べたらいのになぁ」

「おい、カムエル」
 ある時、突然ヴァルに呼び止められた。
「どうしたんだ?」
「お前、この頃人間の元に出入りしているそうだな」
 ヴァルが厳つい表情で問う。
「ああ、それがどうしたんだ?」
「やめろ」
「何故?」
「どうしてもだ」
「だから、何でなんだよ。おれは、咲子から離れる気はないからな」
 俺には、ヴァルがなんでそこまで云うのかわからなかった。

「ねえ、カムエル」
「ん?」
「なんで、カムエルには触われないの?」
「何でといわれても……」
 そういうもんだから、仕方がない。
 なんとも、云いようがなくて言葉を探していると、咲子が云った。
「まるで、お化けみたいね」
「お化け……」
 俺が、ちょっと落ち込んでいると、咲子があわてて言葉をつないだ。
「ごめん、気を悪くした?」
「そんなことないよ」
 その時、玄関の方からガチャリとドアが開く音がした。
「あ、パパとママが帰って来ちゃった。隠れて」
 咲子が慌てて云う。
「大丈夫。俺は普通の人には見えないし、声も聞こえないんだ」
 その言葉に、そういって微笑んで見せた。
「あ、そうだ。これをやるよ」
 俺は、深緑色をした球状のいしを取り出したて云った。
「何かあったら、これに向かって強く念じるんだ。そしたら、俺に届くからな」
 深入りするなと云ったヴァルの言葉を思い出しながらも、これを渡さずにはいられなかった。

 そんなある時、咲子からその石を通じて呼びかけられた。
 咲子の痣だらけの泣き顔が映る。
「おい、何があったんだ?」
 声が狼狽してかすれているのが、わかる。
「わからない、しらないお兄ちゃんにね……」
 咲子はすすり泣きながらつっかえつっかえ答えた。

 よく話を聞いて、咲子はその『お兄ちゃん』に監禁されているようだとわかった。
「わかった、待ってろ! すぐ行くからな」
 すぐさま咲子の元に向かおうとしたとき、突然目の前の空間からヴァルが現われた。
「カムエル!」
「ヴァル、緊急事態なんだ。後に、」
 してくれと続けようとした言葉を遮り、ヴァルが俺の手をつかむ。
「やめろといったはずだろ!」
「放せよ!」
「行かせるわけにはいかないんだ」
 ヴァルの手に力がこもる。
「あの子は、今日死ぬ運命なんだ。それを変えさせるわけには行かない!」
 思考が、一瞬停止した。
 それじゃあ、彼女を助けることはできないのか?
「だから、君に深入りしてほしくなかったんだ。こうなることはわかっていたから」
 俺は、呆然とヴァルを見つめた。
「もう、どうすることもで出来ないんだ! 本当にもうやめてくれ! じゃないと、すべてを奪われ君は人になってしまう!!」
 なんだ……。
 その言葉に、俺はわらった。
「だったら、それこそ俺の望むところだ! 人になれたら、あのこを、咲子を抱きしめることが出来るんだからな」
 力を、一気に解放しヴァルを突き飛ばす。
「カマエル! 行くんじゃない!!」
 ヴァルの叫び声を聞きながら、俺は咲子の元へ急いだ。

 咲子の監禁されている部屋のベランダに降り立つ。
「咲子! 大丈夫か!?」
「カムエル!」
 声に気づいた咲子が部屋の隅から走り寄ってくる。
「おい、誰かいるのか?」
 異変に気づくいたのか、男がやってきた。
「お兄ちゃん! 誰もいないわ」
 咲子が必死に繕う。
「嘘つくんじゃねぇよ」
「嘘なんかじゃ……」
「言い訳するな!」
 男は手を振り上げ、容赦なく咲子を打った。
「痛い! お兄ちゃん、やめて!」
「お袋がいれたのか? あんなに、誰も入れるなって云っておいたのによ」
 男が床に転がった咲子を蹴り上げる。

「やめろ!」
 思わず叫んだ。が、男には聞こえるはずもない。

「痛い! 助けて! カムエル、助けて!!」
 咲子が叫ぶ。
「やっぱり、誰かいるんじゃねぇか」

 男に触われない。
 物に触わることすら出来ない。
 俺には、何も出来ないのか?

 咲子のもがく手のあたりに、灰皿があるのが見えた。
「咲子! その灰皿をつかめ! 男の頭をそれで殴るんだ!」
 俺の声に男にわからぬようそっと頷いて、咲子はふるえる手で灰皿をつかみ、男の頭に振り下ろした。
 鈍い音がして、男が倒れる。

「大丈夫か? 今のうちに玄関から逃げろ!」
「だめ、玄関から出ると死んじゃうんだよ」
 咲子は、窓を割ってベランダに出る。
「カムエル、きっと私も飛べるわ」
 咲子が身を乗り出す。
「危ない!」
 咲子が飛び降りた瞬間、とっさにその体をつかんで抱きしめた。

 強い衝撃とともに、どこかからか鈍い音が聞こえたような気がした。
 合わさる胸から、咲子の鼓動を感じる。
 良かった……。
 真っ赤に染まった思考の片隅で、そう呟いた。

「おい、大丈夫か?」
「男のほうはもうだめみたいだ」
「見ろよ! 女の子は生きてるぞ」
「早く! 誰か救急車を!」

 少女が退院してから、主治医は経過を見るためにその家を訪問する。
「まあ、先生お待ちしておりました」
 婦人に案内され、彼は庭に面した一室に通された。
「本当に、こんなところまで……」
「いいえ。それで、経過はどうですか?」
「ええ、痛みは感じていないようですが。ただ……」
 桐生氏はお茶を濁す。
「ただ?」
「あの子、何も覚えてないっていうんです。誘拐のことも、あの亡くなった方のことも」
 彼が問い返すと、そう婦人は答えた。
「そのほうが、いいんですよ」
 少女を命をかけて救ったあの男の存在は、幼い彼女にはつらすぎる。
「ああ、そういえば、咲子ちゃんにと思って……」
 彼が、それを取り出すと、
「あら、すいません」
 それをみた婦人が、少女を呼びに云った。
 その間に、彼が持ってきたものを興味深げに眺めていた桐生氏が問いかけた。
「それは、なんですかな?」
「宝石の原石です。たいした価値もありませんが……」
 深緑色をした球体で、彼が幾日か前になんとなく露天商で買ったものだった。
「ほう、きれいですな」
 そんなやりとりをしていると、少女が駆けてきた。
 少女は彼の手からそれを受け取り、愛おしそうに眺めて云った。 

「ありがとう! こんな大事なもの何処に忘れちゃってたのかな。私、ずっと探してたんだ」
羽根~lay down my arms~ 改訂版 沙汰

産声
卯木はる

 愛していたけれども、もう愛されていなくて、バカみたいだった。
 お風呂場でオイルマッサージを続けたのが効果絶大で、お尻のかたちがきれいになったとき、彼はすぐに気づいて、きれいになったねって誉めてくれたけれども、嬉しかったなあって思い出しながら、涙が溢れた。
 悲しいのだか、苦しいのだか、自分の感情を占めているのが、どういう色を帯びているのか自覚はあまりなかったのだけれども、ともかく涙が止まらなくて、瞼が熱くて熱くて涙で火傷をしたように、腫れあがって開かなくなった。
 もう何年もいっしょにいたから、前に失恋したのは、ずっとずうっと前のことで、そのときにも空っぽになって、五時間も姿見を見て、自分がどんなに惨めで悲しくてぼろぼろで醜いかを確かめ確かめしていたのだけれど、彼が傍にいて慰めてくれたから元気になった気がした。
 親友だった彼が彼氏に昇格して、それから夢中で彼だけ見てきたから、親友作る暇がなくて、今度の失恋は誰も慰めてくれない。
 何も食べられなくて、食べたら吐いてしまって、吐いてしまっても吐きたくて、何を吐きたいのだかわからなくなって、トイレに閉じこもって、ともかく手を突っ込んで、吐いたけれども何も出てこなかった。
 お風呂に入るのも化粧をするのも億劫だ。デートの予定もないのだし、ファンデーションののりが良くてもきれいだって言ってくれる人もいないのだし、一人で体臭を気にするのもバカみたいだ。
 ストックしてあったビールは飲み尽くしたし、酎ハイもとっくになかったし、ウイスキーの瓶もあと二センチくらい残っているだけだし、ともかくお酒は仕入れなければ。
 こんなとき、お酒に強いのはお金がかかると気づいて、いつもウーロン茶飲んでいる亜里沙とか、すぐ酔って男の子に送ってもらう美里とか思い浮かべたら、損な気分になった。
 強い私でも、もうたくさんというくらい飲んでいるけれども、酔えないのだし、酔いたいのだし、ともかく頑張ってきれいにしてきた自分の身体を苛めたい気分だった。もっともっと汚く醜く二目と見られないようになって、吐瀉物に埋もれながら死ぬのなら壮絶でかっこいいかもしれない。
 なんとか、クローゼットからコートを取り出して着て、それでも寒いからマフラーを二重に巻いて厚手の靴下にスニーカーを引っ掛けてからドアを開けたら、ちょうど目の前の線路を電車が通過した。
 速度を緩めているから、準急だなと思ったら、涙で電車の明かりが曇った。
 駅の屋根はここからも見えて、準急で来る彼の姿をよくここで待った。電車がお客を吐き出してしばらくしたら、目の前の道が帰宅客でごった返して、その中に彼がゆさゆさ身体を揺らしながらやってくるのが見えた。彼は私が見下ろしているのを知っていて、微笑みながら手を振ると、やあって唇を動かした。
 泣きながら、マンションのエレベーターを降りたら、さっきの電車で帰ってきた大学生とすれ違って、私の顔をじろじろ見るから、またひどく落ち込んだ。
 近くの酒屋の自販機で五百ミリリットル入りの缶ビールを三本買って、最近銀行に行っていないお財布が心細くなったから、それで打ち止めにした。
 部屋に帰るまでに間に合わなくて、一本開けて飲みながら帰ったら、買い物帰りのおばちゃんが胡散臭そうに目を細めながら離れていって、あの目の細さは瞼の腫れた私と張り合えるくらいだと考えて振り向いたら、おばちゃんと目が合って、慌てたおばちゃんが早足で逃げた。
 部屋に帰ると小さな台所は汚れた鍋とおたまがシンクで水に浸かっていて、生ゴミの臭いがする。構わずに進むと脱ぎ捨てられたパジャマを踏まなければならず、少しつんのめりながら蛍光灯の紐を引っ張った。
 明るさに順応できずに目を細めたら、姿見に醜く背を屈めたおばさんが立っている。
 私だと気づいたら、また泣けてきた。
 どんなときにも私はきれいなのだと思ってきた。成績で誰かに負けても、一人のときに彼氏と腕組みした友達に会っても、私はきれいなのだからって胸を張ってきた。頬の肉を落とすために毎朝水で二百回パッティングしたし、シミをつくらないために洗濯物を干すときにも日焼け止めを全身につけてベランダに出た。足首を細くするために部屋ではつま先立ちだし、テレビを見るときにはストレッチした。大学の講義のときには背筋を伸ばして体が緩まないようにしたし、電車は一駅手前で降りて歩いて帰った。帰宅したら化粧は真っ先に落としてパックし、お風呂場ではオイルマッサージ。寝る前にはビタミン剤とコラーゲンのサプリメントを飲んだ。
 全部ぜんぶ、きれいになったねって言ってもらうためだったのに。
 なのに、なのに、愛されなくなって一週間でこの有様。
 絶対離れないって言っていたのに、他の人がよくなったってはっきりと告げてくれもしなくて、だんだん電話がまばらになって、もう電話しても出てくれなくなって、電話して電話して留守電に入れて、会いたいって何度も何度も入れて、来る日も来る日も電話して、留守電がなくなって、それでもずっとずうっとコールして、何百回したかわからなくなったら、いきなりぷつんと切れて、受話器が置きなおされたんだとわかって、居留守だとわかって、ずうっとずうっとコールし続けたら、ある日、NTTのおばさんの声が、この電話はおつなぎできませんって着信を拒否した。
 なんてざまだろう。
 死んでしまいたかった。
 ぜんぜん、きれいじゃない。
 どうしよう。あのこはブスだから彼氏がいないって言われる。お酒のみで片付けもできないから男に振られたって言われる。クリスマスは彼氏といるのじゃなかったのって馬鹿にされる。
 飲みたかった。ともかく飲まなければ、苛めなければ、こんな汚くて醜い女、価値もない。ぼろぼろで頭の切れない女、取り柄もないのだから。
 缶の残りを飲み干して、新しくもう二本を流し込んで、テレビもつけっぱなしで蛍光灯もあかあかついていて、まわってまわって、何もわからなくなった。
 翌朝、吐瀉物の悪臭で目が覚めて、締め切った部屋は酸素がないかもしれないくらい臭いが充満していて、つけっぱなしの蛍光灯の下を透かして見たら、アルコールと胃液と血液の蒸発した粒つぶが見えるのじゃないかと思うほどだった。
 なぜだか真っ裸で、暖房は止まっていて、おそろしく寒くて鼻水を啜ったら、喉に何か塊が下りてきて飲み下した。口のまわりは乾いてぱりぱりと剥がれるものが付着していて、絨毯には赤黒い大きなシミと半分消化された形の崩れたものがべたべたと拡がっていた。
 起き上がろうとすると、あちこちが痛くて見ると青い痣が手足に無数にある。髪も絡まって、切れたり飛び出したりしていて、やはりところどころ、ハードタイプの整髪料をつけたみたいに固まっている。
 姿見に映った自分は、汚物にまみれて呆然としていた。
 ともかく起き上がってみる。
 蛍光灯を消すと仄かに明るい。カーテンの外は夜明けだった。
 白く煙る重い空気の向こうで必死に太陽が赤くなっている。
 それでも、二日酔いじゃないのだと気づいたら、笑いがこみ上げた。すっかりアルコールは吐いてしまって、お腹が空っぽの音を立てた。
 胃袋が産声をあげている。
 血と汚物にまみれて産まれなおした赤ん坊が空腹で泣いている。
 お腹がすいた。
 土鍋でおかゆを炊こうと思った。
産声 卯木はる

阿呆の辞典
黒男

     ア行

あいじょう〔愛情〕
 砂糖をまぶしたエゴイズム。昔の中国では飢饉の際、他人と「子供を交換して食べた」という。自分の子供は食べるに忍びないが、他人の子供なら大丈夫というわけ。

あかご〔赤子〕
 生まれて間もない子供。時々その化石が、駅のコインロッカーの中から発掘されることがある。 

あくじ〔悪事〕
 発覚すれば「罪」。ばれなければ「知恵」。 

あわれみ〔憐れみ〕
 不幸な人間を前にして、己の幸せを噛みしめ、優越感にひたること。

いさん〔遺産〕
 死者が家族のために残す財産。もっとも、その分配をめぐって家族が崩壊する事も多いのだが。

いしゃ〔医者〕
 病気や怪我をした時、それをタネに財布の中から大金を抜き取る奇術師。その見事な技は、カルテの改竄や医療ミスの隠蔽工作の際にも発揮される。

いんたーねっと〔インターネット〕
「引きこもり」をする若者の必需品。その無臭性から、どんな臆病者でも勇者になれる魔法のアイテム。

うわさ〔噂〕 
 (1)暇を持て余している奥様方が、吟遊詩人となってご近所に語り歩く叙事詩。
 (2)暗殺用の武器。手を汚さず相手を葬り去る事が出来るので、政治家やマスコミが愛用している。

うんめい〔運命〕
 愚か者が、失敗の度に用いる免罪符。

えがお〔笑顔〕
 嫌いな相手に会う時、自分の本心を悟られないように被る仮面。

えんせいしゅぎしゃ〔厭世主義者〕
 自分だけが世の中の不幸を背負っていると信じる、幼稚なナルシスト。

おっと〔夫〕
 給料を家へ運ぶために存在する妻子の奴隷。

おんな〔女〕
 諸悪の根源。

     カ行

かいかく〔改革〕
 現状を否定し、全てを改め、前よりもっと悪い状態にしてしまうこと。

かがみ〔鏡〕
 若者にとってはファッションのための必需品。しかし、歳月とともに、はげ頭・顔の皺・歯の抜けた口など、己の老醜を映し出す悪魔の道具へと変貌する。

がっこう〔学校〕
 世間知らずの教師達が、およそ実生活では役に立たない事を子供たちに押しつける場所。ちなみに、必須科目は「暗記力」と「権威に対する従順」であり、「創造力」や「教養」ではない。

きょういく〔教育〕
「私には何の取り柄もない」という事を悟らせること。

きょうし〔教師〕
 無知な子供・愚劣な親たちを食い物にする詐欺師。

きらわれもの〔嫌われ者〕
 真実を語る人。

くのう〔苦悩〕
 当人にとっては深刻でも、第三者にとっては笑止千万な事柄。

けいたいでんわ〔携帯電話〕
 他人を切り捨て、他人から切り捨てられた現代人の心のオアシス。

けっこん 〔結婚〕
 人生のゴールイン(墓場行き)。

こうかい〔後悔〕
 自分の配偶者の顔を見つめているうちにこみ上げてくる感情のこと。

     サ行

さいばん〔裁判〕
 検察官・弁護人・裁判官といった大根役者たちが、一般人には訳のわからない「専門用語」で書かれた「判例」「法律」という台本を片手に三文芝居を演じること。その上演時間は非常に長いので、観客は退屈してしまうだろう。

さけ〔酒〕
 現実逃避のための妙薬。つまらない人間関係の潤滑油。

じさつ〔自殺〕
「人生は無意味である」と悟った人が選ぶ、最も安易な解決法。

じょうし〔上司〕
 功績はすべて独り占めにし、失敗の責任はすべて部下に転嫁する人。

しょうせつ〔小説〕
 ありきたりな人生の、どうでもいい事柄を、作者苦心のレトリックによって表現した作文。しかし読了してしまえば、脳裏に残るものは何もない。

しんこう〔信仰〕
 存在しない神の存在を信じ、救いのない人生に救いを求めること。

しんじつ〔真実〕
 畢竟、何ものも莫迦げているということ。

じんせい〔人生〕
 退屈・欺瞞・幻滅・悲嘆に満ちた、地獄よりも地獄的な場所。

すとれす〔ストレス〕
 胃に穴をあけるドリル。脱毛剤の代用品にもなる。

せいぎ〔正義〕
 強者の屁理屈。弱者の幻想。

せんきょ〔選挙〕
 無知な民衆が、無能な代表者を選出し、国家を破滅に導くこと。

せんそう〔戦争〕
 指で解けない結び目を歯で噛み切ること。毛沢東とチャーチルは、「戦争は血を流す政治であり、政治は血を流さない戦争である」と述べている。

ぞうお〔憎悪〕
 人間の心を強くし、生きる力を(或いは死をも恐れぬ勇気を)を与える最も崇高な感情。戦争やテロの起爆剤として、常に人類の歴史を動かしている。

そうしき〔葬式〕
 ビアス曰わく、「葬儀屋を金持ちにする事で死者への敬意を払い、金を払った事によってますます涙を流す儀式」。故人の家族や友人はともかく、義理で出席した者にとって、結婚式同様に退屈極まりないイベント。

     タ行

たいまん〔怠慢〕
 集団に依存し、変革を忌み嫌う日本人の気性のうち、最も賞賛されるもの。

たんじょう〔誕生〕
 人生の悲劇のはじまり。

ちゅうこく〔忠告〕
 金のかからない慈善行為。

てつがく〔哲学〕
 もっともらしい事を、もっともらしい言葉で、もっともらしく語る学問。

てんごく〔天国〕
 永遠の退屈が待っている場所。古今東西、地獄を描いた絵画は多いが、天国を描いた作品は少ない。それは「描くものが何もない」からである。

てんさい〔天才〕
 成功すれば歴史に残る偉人となり、失敗すれば「天災」となって周囲に害毒をまき散らす迷惑な人。

どくぜつか〔毒舌家〕
 何事も良しとはせず、好んで告発し、激しく非難し、物事をぶち壊すことに喜びを感じる人。その舌鋒は必ず「他人の仕事」に対して向けられるので、自分は傷つくことも危険を冒すこともない。

ともだち〔友達〕
 貧乏な時は一顧もせず、金がある時は呼びもしないのにやって来る人達。

     ナ行

ながいき〔長生き〕
 家族からは厄介者にされ、親しい友人を失い、死の恐怖に怯え、孤独に苛まれること。

なみだ〔涙〕
 錬金術。若い女性が恋人から金をせびる時に用いる。

にんげん〔人間〕
 毛の少ない猿。

     ハ行

はつこい〔初恋〕
 生まれて初めて恋をして、異性に対する幻滅と嫌悪を学ぶこと。

はなよめ〔花嫁〕
 黒い過去を純白のウェディングドレスで包んだ女性。

びじん〔美人〕
 「美人薄命」という言葉の通り、若くして死ねば皆から惜しまれるが、長生きすれば老醜をさらし、皆の嗤い者になる女性のこと。――あの小野小町の様に。

ふこう〔不幸〕
 友人の成功を見せつけられること。

ぷらいど〔プライド〕
 自分が持っていないものを誇る心の働き。

へいわ〔平和〕
 戦争と戦争の間の、つかの間の休息。

     マ行

まじょ〔魔女〕
 女に捨てられた男が、相手を罵っていう言葉。

みらい〔未来〕
 今日と同じ事の繰り返し。

     ヤ行

やくざいし〔薬剤師〕
 医者と葬儀屋の友人。

ゆめ〔夢〕
 蒲団の中で見るもの。

     ラ行

りすとら〔リストラ〕
 経営者達が自分の責任を棚に上げて、合理化の名の下に弱者を排除すること。芥川龍之介氏によれば、河童の国では解雇された者はすぐに殺され、肉は食料に使うそうである。こうすることによって、自殺したり餓死したりする手間を国家的に省略してやるのだ。――河童は人間より慈悲深い。

れいしょうか〔冷笑家〕
 この辞典を読んでニヤニヤしているあなた。

れんあい〔恋愛〕
 誇大妄想病の一つ。ある異性を特別な存在であると勘違いした時に発病する。

     ワ行

わらい〔笑い〕
 他人の失敗を目撃した時、顔面におこる痙攣のこと。
阿呆の辞典 黒男

沈下橋
青野 岬

 今朝も起きるなり、妻は不機嫌だった。私の「おはよう」の言葉を無視して朝食の支度に忙しそうな「フリ」をしている。
 そんな妻の態度も、ゆうべのうちからだいたい予想がついていた。また、私の母とモメたのだ。どうして女ってのはこう執念深い生き物なんだろう。同じような諍いを何度も何度も繰り返す。ここで私がどちらかをかばうような発言をしたならば、それがまた新たな憎悪を生み出す芽になる。それはこの十五年間の結婚生活で嫌と言う程経験し、学んで来た事だった。
「あーんもう、遅刻しちゃう。お母さん、なんで起こしてくれなかったの」
 中二になるひとり娘の千香が、制服姿でダイニングに入って来た。
「何言ってるの、何度も起こしたわよ。いつまでも夜更かししてるから朝、起きられないのよ」
 妻が娘にだけは顔を上げて目を見て話すのを、私は不思議な気持ちで眺めていた。難しい年頃を迎えて何かと反抗的になりながらも、少女らしい煌めきを纏って成長してゆく娘の姿が眩しかった。
「もう間に合わないから、朝御飯はいらない。いってきます」
 娘はそう言うと、下着が見えそうなくらい短いスカートをひるがえして、あわただしく出て行った。再び部屋は、私と妻だけの重苦しい空気に包まれる。
 私はこのあたり一帯の地主の長男として、生まれ育った。
 そのせいか、私は不自由な思いというものをした事が無かった。けれども妻と結婚して実家を二世帯住宅に改築し、私の両親と同居するようになったあたりから、人生の歯車が少しずつ噛み合わなくなってゆくのを感じるようになった。特に三年前に私の父が亡くなってからは、妻と母の確執はますます顕著になり、溝は深まるばかりだった。
 ふたりの諍いが始まると、私は心の中で沈下橋の事を思った。沈下橋とは台風などで水量が増え洪水になると、流されないようにそのまま川の中に水没するように設計されている橋の事だ。またの名を「潜水橋」、「もぐり橋」とも呼ばれ、欄干は無くシンプルかつ頑丈な構造になっている。残念な事に、現在ではもうこの形式の橋は架設が出来なくなっているらしい。      
 沈下橋の事を初めて知ったのは、いつの事だったのだろう。私はテレビの台風情報で四万十川に架かる沈下橋を見た。同じ橋でも、瀬戸大橋やベイブリッジなどの大型で美しいシルエットを持った橋とは対照的に、ただ生活の為だけにある地味な橋。でも、無くてはならない大事な橋。それが沈下橋だった。
「それじゃ、行って来るよ。今日は飲み会で遅くなるから」
「……いってらっしゃい」
 いってらっしゃい、の言葉の後に続くであろう妻の愚痴の気配を振払って、私は玄関のドアを開けた。外は陰気臭い家の中とは別世界のように明るく、金木犀の甘やかな香りが風に乗って私の鼻孔をくすぐった。
 
 今日は、女と逢う約束をしていた。
 女の名前は亜希子といい、会社の近くのいきつけのスナックで働いている。店の定休日の毎週火曜日は、私の仕事が終わってからふたりで逢う事になっていた。亜希子とは親子だと言ってもおかしくない程、歳が離れていた。小さい頃に父親を亡くした亜希子は、私の中に今は亡き父親の面影を重ねているのかもしれない。
 私は仕事を終えると、いつものホテルに亜希子を呼び出した。食事をしていても、体が亜希子を欲しがって熱くなる。食事を終えて部屋に入るなり私は亜希子の体を抱きしめて、その白桃のような頬に唇を這わせた。
「そんなにあせらなくても、大丈夫なのに」
 亜希子は性急な私の行動を笑いながらも、されるがままになっている。私は亜希子をベッドに押し倒すと、着ているものを脱がす時間さえももどかしく交わろうとした。
 若さの塊のような亜希子の肉体は、それだけで魅力的だった。ブランド品を買い漁る事で日頃の鬱憤を発散させている妻とは違い、質素な服を着て私の言うこと全てに従順な態度を見せる。そんな亜希子は私の家庭での疲れを癒してくれる、貴重で便利な存在であった。
 シャワーを浴びてバスルームから出ると、既に服を着て化粧を済ませた亜希子がちょこんとベッドの端に座り、私を待っていた。
「あのね、私、話があるの」
「話……?あらたまって、悪い話じゃないだろうねぇ」
 何気ない風を装いながらも、心の中には暗雲がたちこめてゆく。嫌な予感がした。
「……こっちを引き払って、田舎に帰ろうと思うの。母も一人で心配だし」
「帰るって、どうして。こっちにお母さんを呼べばいいじゃないか」
「母ももう歳だし、今から新しい環境で暮らすのは難しいわよ」
「だからって、そんな急に……」
 あせっていた。亜希子が自分の意志だけでこんな大事な決断を下すなんて、夢にも思わなかった。私は心の中で、亜希子はいつも自分の思い通りになる安牌の女だとたかをくくっていたのだ。必要無くなれば、捨てればいい。それが、まさか私の方が捨てられる事になろうとは。
「私ね、田舎に帰ってお見合いする事にしたの。いつまでもこんな関係を続ける訳にもいかないでしょ」
「こんな関係……」
 亜希子はそれまで見せた事の無い冷ややかな表情で、静かに言い放った。

 それからどうやって家まで帰ったのか、よく覚えていない。
 ポケットから家の鍵を取り出し玄関のドアを開けると、家の中が騒がしい事に気付いた。またいつもの嫁姑喧嘩だと思い、そのまま書斎に向かおうとすると、リビングのドアが勢いよく開いて千香が泣きながら飛び出して来た。
「おい千香、どうしたんだ?お母さんは?」
 娘は一瞬動きを止めて振り返り、泣きはらした赤い目で私の顔を見た。娘は何も言わずそのまま階段を駆け上がり、二階の自分の部屋に入って行った。
 リビングからは、妻と母が何か大声で言い争っている声が聞こえて来る。いつもの喧嘩よりも明らかに激しいその声に憂鬱になりながらも、私はリビングのドアを開けた。
「ただいま」
 私の目に飛び込んで来たのは大きなスーツケースを持って、今にも家を出ようとしている妻の姿だった。その妻を老いた母が必死に説得している。
「あらあなた、待ってたのよ。私、今日限りでこの家を出させて頂きます」
 思いがけない妻の言葉に、私の体は一瞬凍り付いた。
「な、何バカな事を言ってるんだよ……だいたい、この家を出てどこに行くつもりなんだ?」
「私、恋人が出来たの。その人と一緒に暮らすつもりよ。もちろん千香は一緒に連れて行きますから」
「恋人と暮らすって、そんな不貞が許される訳無いだろう!」
「……バカなひと。あなたにずっと前から女がいた事、私が知らないとでも思ってたの?」
 硬直する私の姿を嘲笑うかのように、妻は勝ち誇った表情で私に言った。その横ではすっかり狼狽した母が、ただおろおろするばかりだった。
「そんな……そんな勝手な事を、お前は……」
「離婚届けはテーブルの上よ。後は裁判で争う事になりそうね」

 妻も愛人も時代遅れの沈下橋の事なんて見向きもせずに、いつの間にか強くて機能的な永久橋を外の世界に架けていた。妻の軽蔑の眼差しが、母の小さな背中が、ひとり娘の泣き顔が、大きな濁流となって私を飲み込んでゆく。そして心の拠り所だった亜希子までもが、水没する私に見向きもせずにその場から立ち去ろうとしている。
 私は濁った水の中で息をひそめ、激流がおさまるのを静かに待つ。やがて水が引き、汚れた姿を再び水上にさらす沈下橋のように。
沈下橋 青野 岬

何処かでピアノの音がする
Ame

 何処かでピアノの音がする。
 ビルばかりのオフィス街で随分優雅な話だが、実際そうなのだから仕方ない。硝子と僕の知らない合成物で出来上がった都市は、不在と沈黙を、まるで誰かが千切った手紙のように、びゅうびゅうと吹き荒れる風の中に散らして居る。
 何処かでピアノの音がする。
 僕の足下のアスファルトは捲れ上がり、心臓の方向にあるボルボがドアを開いたまま、運転席へ乗る誰かを永遠に待って居る。

 僕はかつて神の代わりに探偵小説を選んだ。
 フィリップ=マーロウを、ジョン=ジョゼフ=マローンを、そして彼等に類するあらゆる探偵達の清明な世界を選んだ。僕がそれを決意したのは十七歳の時で、この決意が死と世界に対する一つの態度表明だという事も判って居た。判って居た上で僕はそうしたのだ。母から貰って居た聖書を野原に忘れて振りで置いて来て、その足で図書館へ行くと、持てる限りの推理小説を借りた。あの聖書はもしかしたら今も、たんぽぽとアザミの中で神の言葉を語って居るのかも知れない。
 だけどそれらはもう永遠に僕には届かない。ただ風の強い秋の午後、切れ切れにそれらの文言を聞く事はあるけれど、それはノスタルジーの引き起こす一時限りの耳鳴りだ。そして冷たい十一月の向こうへと消えて行く救済の物語を、時に僕は足を止めて確認し、それから何も無かったように歩き出す。
 もしかしたら、と僕は異なる可能性を考える。もしかしたらあの聖書を誰かが拾ったかも知れない。それは孤独な少女であったかも知れない。そして罪の意識に心臓を高鳴らせながら、家に帰り、箪笥の奥深くに隠し、少しずつ読んで行ったかも知れない。思うにあの神が救えるのは、そして救うべきなのはそういった人間だ。野原で罪と共に出会うべき神なのであり、僕のような人間が逃げるように信仰を棄て行くものなのだ。
 いや、どちらにせよ僕の持って居たのは信仰と呼べるものでは無かった。そう思うと少し気が楽だ。

 雨が降って居る。
 動かない路面電車の中で僕はひとりごちる。電車で雨宿りをした事は、そう言えば僕はないが、都市における雨宿りのアイデアとしてはこれは出色のアイデアじゃあないだろうか、まあ、休みの日なんかには。
 電車の外へ出ると空虚な街が広がって居た。
 運転席は空っぽだった。途切れ途切れのラジオが、聞きなれた電子音声を吐き続ける。
 「…国の誤爆ミサイルはこれから、じゅう、時間、よんじゅうさん、分後に日本に落ちます。まだ国内にいらっしゃる皆さんは近郊の自衛隊の指示を仰ぎ、速やかに国外へと避難をして下さい。受け入れを表明して居る国家は次の十四カ国です……」
 僕は肩に掛かる雨を払うと、ポケットに手を入れて、ぶらぶら道路を歩き出した。そして小声で歌う。
 たんたんたんたん。
 たんたーた、たん。たんたーた、たん。たたたた、たん。
 何処かでピアノの音がする。
 僕はちっぽけな子供に戻り、ブロック塀と木漏れ日の間を縫う様に存在する狭い道を、躯中の筋肉を使って走って居る。

 走る先には常に海があった。
 僕の知る海は、もしかしたら大多数の人が想像するであろう美しい海水浴の出来る海ではなく、またその果てに彼方への予感を含む場所でもない、工場からの排水で汚れた誰も居ない灰色の静かな海だった。
 僕が子供の躯を持っていた頃、僕はそれでもって海へと走った。
 背中には母の弾く、常に同じピアノの音楽が聞こえて居た。
 母はその曲の名を僕に告げたと思うのだけれど、僕は覚えていない。僕は母の事を大概覚えて居ない。多分母が死んだ時、母を酷く憎んだ所為だと思う。
 僕は薄いシャツと破れたジーンズとで海を見ている孤独な子供だった。ある朝僕を連れてこの町にやって来た母は、何処から来たのか何処へ行くのか語る事もなく、町の片隅でピアノを教えて居た。だから僕の躯には母が弾いていたその音楽が常に緩く渦を巻いて歌っていたのだ。真冬にそんな格好で海を見ている時ですら、僕はその旋律を繰り返し歌っていた。
 たんたんたん、たん。

 大分前からエンジン音がして居た。世界には僕のあやふやなハミングしか存在しないから、どんな音も酷く響くのだ。高速道路の果てからやって来たその自動車は、アスファルトの上をのんびり歩いて居る僕の傍で止まった。ジーンズのポケットに両手を突っ込み首を傾げて待って居ると窓が開き、三十半ばと思われる男が顔を出すと、ヒステリックに怒鳴った。
「あんた、今頃こんなとこで何やってるんだ、そっちには空港なんかないぞ」
 僕は肩を竦める。今更何処へ行ったって一緒だ、と言おうとした瞬間、後部座席に二人の兄妹が乗って居るのに気付いた。十になるやならずやの二人はしっかり互いに手を握って、蒼白な唇で俯いて居る。
「帰ろうと思うんです」
「乗せてやるから俺達と来い、死んじまうぞ」
「いえ。僕は僕の死を売っちまったんです。だから買い戻しに行かないと」
 僕は男から目を逸らした。そして兄妹を見、何ヶ月ぶりかに笑うと、静かに「その手を離しちゃいけないよ」と、囁いた。
 三人とも、ちょっと唖然とした顔をした。僕は手を振ると、うたいながら、彼等の自動車から遠ざかった。
 たん、たーた、たん。
 海のにおいがする。
 たたた、たん。

 ある朝母のピアノの蓋は永遠に下ろされた。「捨てちまって下さい」それだけ言うと僕は、母の葬儀を抜け出し、聖書を捨てた。そして図書館へと走ったのだ。 
 全ての死には理由がある。
 全ての探偵はそう言うのだ。ああ、なんて美しく有り得ない言葉だろう。緻密に構成された彼等の世界ではだが、確かにそうなのだ。全てがそうである理由があり、誰かを失う事の悲嘆は「何故失ったのか」という問いには、答えが与えられる。
 僕は彼等の世界を選んで聖書を捨てた。母を、母の音楽を捨てた。
 そして親戚に手を引かれて町を出、多分世界が終わる今日迄、僕はあの町と海と旋律の事を、何よりもつまらない記憶として忘れていた。

 「ねえ」
 振り返るとさっきの自動車の窓から女の子が顔を出して居た。
「あなたが歌っているそれ、ショパンの別れの曲だと思うわ」

 たんたんたんたんたんたんたんたん、たん。

「そう?」
「そう」
「ありがとう」
 何事かの声と一緒に彼女の頭は引っ込み再び自動車は走り出した。僕は彼等が消える迄、その姿を見続ける。
 あの子はきっと僕が乗った事もない長時間飛ぶ、飛行機に乗る。そして僕の知る唯一つのメロディーを持って、僕の知らない場所へ行くのだ。

 そう、日暮れ前にもしずっと帰らなかったあの町へ帰れたなら、僕はあの角を曲がるだろう。そこには、たんぽぽとアザミの中に、昔僕が置き去りにした男の子が聖書を抱えて、母親の死をずっと泣叫んで居る。
 僕は彼の手をとろう。そして世界が終わる迄、彼と手を繋ぎ、聖書を抱いて花の中で目を閉じよう。
 そうする事で僕は僕の死を取り戻せる。
 訳も判らず失う事を開始するこの世界を受け入れ、僕は僕を取り戻す。

 「たん、たたーたー、たん。たーたーたーたん」

 何処かでピアノの音がする。

 海面は正午のひかりによって眩しく沸騰し、その上をショパンのメロディーが滑って行く、果てへと、誰も知らない場所へと。
 僕はそこを目指して、アスファルトの上を歩いている、歌いながら、あのピアノしか聞こえない世界を。

 誰かがピアノを、弾いている。
何処かでピアノの音がする Ame

なみつゆだくこだわり
ねぎ

 土曜日の早朝の事である。私は徹夜明けの眠い目をこすりながら家路につく途中、たまに立ち寄る牛丼屋のドアを押した。早朝からやっているこの店に入ったのはまだ時計が7時半を指す少し前だった。客は私一人である。この時間、客の来るのがまれである為なのか、中年の店員が一人と、もう一人若い女の店員が暇そうにしている。有線からは古い歌謡曲が流れている。

 牛丼とは不思議なものであり、時々無性に食べたくなるものなのである。いや理屈では無くて。
 ビールを喉に流し込み、ようやく一息ついた時、一人の少年がうつむきながらトコトコと入ってきた。まだ8歳か9歳か、せいぜいそんなところだろう。半ズボンのポケットに右手を突っ込んでいる。目深に被った野球帽の下、なんだか怒っているような表情を顔に浮かべ、口の中でごにょごにょ言いながらドアに一番近いところに座った。
「いらっしゃいませ!」
 若い女の店員が湯のみ茶碗に冷たいお茶をそそいで彼に声をかける。
「お決まりでしたらどうぞ。」
 彼は帽子の下から店員の顔を一瞬チラと見るとまた下を向き、小さな声で何やらごにょごにょ言った。
「すみませんがもういちどお願いします。」
 笑顔の店員が少年に近づいた。牛丼を口に運ぶ手を止めてついつい私も少年を見てしまう。やせぎすの少年はおもむろに顔を上げて、今度ははっきりと「なみつゆだくこだわり!」と早口で一気に言い放った。「言い放つ」という表現がぴったりの言い方だった。彼は言ってしまってから何故かほっとした様子を見せ、私と目が合うと慌てて目をそらした。

 そのぎこちなさから、私はふと、先ほどまでこの少年が「なみつゆだくこだわり」を練習していたのでは、とそんな事を思った。もしかしたら彼は道々「なみつゆだくこだわりなみつゆだくこだわり」と繰り返して来たのでは、と。ちなみに「なみ」は並盛りを、「つ
ゆだく」はつゆを多めにかける事を、「こだわり」は「こだわりの上質卵」を付ける事を意味している。私の目の前にも「並つゆだくこだわり」が置かれている。さらに私は通常、七味唐辛子、紅しょうがを大量にかけて食べる事にしている。おっと、話が逸れた。
 私は勝手に想像を膨らませていた。おそらくあの少年は今日初めて一人で牛丼屋に足を踏み入れたのではないか。いつも彼を連れてきている大人が「なみつゆだくこだわり」と言っているのを聞いて、今日こそは!と決意して、道々「なみつゆだくこだわり」と繰り返してきたのではないか。私は徹夜明けのぼんやりした頭でそんな事を考えていた。そうして、ぎこちない手つきで卵をぐしぐしと掻き回している少年の真剣な顔付きを見ながら、私はなんだか立ち去りがたくなり、もう一本缶ビールを注文した。少年は注意深く溶いた卵をどんぶりに注いだ。壊れ物を扱うような手つきで。

 被っていた帽子を脱ぎ、テーブルに置く。どんぶりに顔を突っ込むようにして、少年はもしゃもしゃと牛丼をかき込み始めた。その食べっぷりは見事というしかなかった。時々顔を上げてお茶を飲む。斜め上を向き天井のあたりを睨みながら、口の中で渾然一体となった米と肉とたまねぎを喉の奥に流し込む。飲みこむ瞬間ぎゅっと目をきつく閉じ、眉間にしわを寄せる。ふーっと息を吐く。と、再びもしゃもしゃ始める。まるでコマーシャルの映像を見せられているようだった。二人の店員も手を休め、そんな少年の仕草に見入っている。この世の中にこんな美味いものがあるのかというような食べ方だった。とても私の目の前に置かれているのと同じものを食べているとは思えない。
 
 牛丼を食べ終えた少年はゆっくりと箸を置いた。箸は注意深くどんぶりの中央に並べられた。こちら側からは見えないが、どんぶりの内側におそらく米粒一つ残っていないであろう事は想像に難くなかった。彼は紙ナプキンで丁寧に口の周りを拭くと、もう一つふーっと息を吐く。何か厳かな儀式をやり終えたように、少年の顔は満足げであった。その一挙一動を見ていた私は、不思議と愉快な気持ちになりながら缶ビールから最後の一滴をコップに注いだ。その時である。
「あっ。」
 小さな声が店内に響く。立ちあがった彼が手のひらの上の小銭を数えている。一瞬、時間が止まったような感覚があった。事態は容易に想像できた。お金が足りないのである。ジャラリと小銭をテーブルの上に叩きつけるように置くと、少年は何度も何度も小銭を数えなおした。若い女の店員が覗きこむように一緒になって数えている。なんだかこっちまで緊張してきた。少年は小銭入れを逆さにして振ってみたりしたが、事態は好転の兆しを見せない。彼は立ち尽くしたまま下を向いた。店員が少年に何か耳打ちする。おそらく足りなくてもいいのよ、とか、もし家が近いのなら後で持ってきてくれればいいのよ、とか、恐らくそんな事をささやいたのだろう。私と中年の店員は何もする事ができず、ただぽかんとして事の成り行きを見ていた。

 直立不動の彼の目から涙が流れ出すのにさして時間はかからなかった。有線からは相変らず呑気な昔の歌謡曲が流れている。しばらく彼は下を向いて涙を流していたが、2分ほどしてようやく泣き終わると、店員に向かって小さな声で、しかしきっぱりと言った。
「すみません。10円足りません。僕、今から家に取りに行って来ます。代わりにこの財布と帽子を置いて行きます。すぐに戻ります。」

 涙の跡を頬に残した少年はぺこりと頭を下げると物凄い勢いで店を飛び出した。途端に店の中の緊張が解けた。少年の姿はあっという間に見えなくなる。徹夜明けだった私だったが、なんだか元気になったような気がした。恐らく二人の店員も同じように感じたに違いない。中年の店員は妙にニヤニヤし始め、「まいったね。」などと鼻を鳴らす。彼にも同じ年頃の子供がいるのかもしれない。若い女の店員は少年の残していった野球帽を何度かクルクルと回した後、ひさしに付いていた埃を払った。
 私は事の顛末が気になったが良い気分のまま店を出る事にした。先ほどまであんなに疲れていたのに、このまま何キロでも走り出せそうな、そんな不思議な気分だった。
なみつゆだくこだわり ねぎ

ポンチャイさんの話
やす泰

 スコールが上がっても、低開発国特有の渋滞は続いていた。
 横に並んだトラックの荷台からは、薄汚れた黄色のTシャツを着た子供達が手を振っている。何度か振り返したが、それも続かなくなっていた。子供達は尚も木の枠の間から顔を突き出して、じっと私を見つめている。車はまったく走る様子を見せない。途中のフルスピードが嘘のようだった。私はため息をついてネクタイを少し緩める。
 道路のすぐ隣を汽車とも電車ともつかない列車が音を立てて通り過ぎていった。線路脇のバラックの庇と列車の間には、ほとんど隙間が無いことがわかった。勝手に鉄道の敷地内に家を建ててしまったのだろう。列車が通り過ぎると真っ暗な穴のような戸口から、これもまた黄色のTシャツを着た子供達が出てきて、暮れかけた線路の水溜りで遊んでいる。
 前の助手席からポンチャイさんが振り返ると、思い出したように話し出した。指差す向こうには異様な高さの高層ビルが夕陽を浴びて光っていた。それは、麓に並ぶ真っ黒な民家と不思議なコントラストを見せていた。あのビルの中でも私達の会社の製品が使われているという。

 商談は沈んだ雰囲気で終わった。
 外部投資が一巡して陰りを見せているタイ経済に起因するものだろうが、販売不振の理由はよくわからなかった。
「最近の入札でY社はこの金額をクォートしている。これでは売れない」
 担当のセーアンさんが白板に誰にも読めないような数字を書いて説明する。一番低い方の競合価格に合わせて利益が出るように価格体系全体を変えろといういつものロジックだった。
「だから、全部の入札がその価格になっているのかって訊いているんですよ。そんな訳ないでしょう。それに民需もある。平均売価はどうなっているんですか」
 現地駐在員の稲垣が突っ込む。セーアンさんは、上司のポンチャイさんと二言三言タイ語で話す。
「データがない」
 セーアンさんは黙ってしまう。
「まったく何考えているんだか」
 稲垣が日本語で呟く。
 押せば、そのまま押されるだけで議論が終わってしまう。セーアンさんは、この国で珍しい大学出ということで期待されていたのだが、プレゼンの中身はお寒い限りだった。
 もっとも、セールスマン五人のうち二人が月に一台づつ売っていれば、人件費などは吸収できてしまう。さらに相手は、化粧品から重機械まで扱う総合商社だ。自然に売れる物だけを売っていても、困る事はないのだろう。
「わかった。早急にデータを集めるようにする。それと、見込み客のリストをもう一度見なおす」
 ポンチャイさんが取り繕うようにいった。
「お願いします。このままでは新製品の話ができません」
 もともと月販は二十台に満たないはずだった。机の上にあるパソコンも玩具ではないだろう。
「管理データについては以前から話しているでしょう。貴方達は真面目にマーケティングをする気があるのですか」
 稲垣はまだ納得していない様子だった。確かにこれでは埒があかない。しかし、毎度この様にふわふわと流れていくのがタイ式の商談だった。ハングリーなものは何も感じられない。
「まったく何もかもおんぶに抱っこだ。国中が場所を貸すから利益だけ落とせっていうのでしょうかね」
 私がいるのを意識したせいか、慣れているはずの稲垣も今日は妙に苛ついていた。
「つづきは明日ということにしますか」
 この言葉に先方の二人はほっとした表情を浮かべた。
「それではホテルに送る途中で一緒に夕食を」
 売りがこのまま続けば、代理店の変更を考えざるを得ない。その見極めが今回の出張の目的で、私はそれを稲垣にも内緒にしていた。

 車を降りると、重く湿った暑さが身体に纏わりつく。稲垣はさっさと上着を脱いで、太った首筋をハンカチで拭った。
 ようやく着いたレストランには電灯が無かった。あちこちにある鉄のスタンドで、さかんにかがり火が燃えている。丘の斜面に突き出したようなテラスの席に案内されるが、その向こうに見えるのはただの闇だった。テーブルの蝋燭の明りに照らされて、どうにか皿とお互いの顔が見える。従業員の大半は、まだあどけなさの残る少年だった。テーブルと客の数に対して、異様なほど人数が多い。
 ぬるいビールで乾杯すると、ポンチャイさんは驚くほど多弁になった。稲垣と早くも女の話で盛り上がっている。眼鏡をかけ大学の教授然とした風貌のポンチャイさんが、セックスの話に興奮するのが意外だった。セーアンさんもつられて笑っている。
「こいつら好きなんですよ。たぶんこのあと女郎屋に行こうっていいますからね。覚悟しておいてください」
 稲垣が耳打ちする。
 料理は日本にあるタイ料理とは違って、見た目は中華料理に近いものだった。
 ぶつ切りの蝦蛄が殻付きのまま黒豆のソースで炒めてある。丸ごと口に入れて殻を吐き出すようにして食べるのだが、蝦蛄がこんなに美味であるとは知らなかった。皿の上はすぐに蝦蛄の殻が山のようになった。その代わり、何にでも緑色の唐辛子が入っていて、強烈に辛い。前菜だけで口の中が痛くなった。それをビールでなだめながら、次々に運ばれてくる料理を味わう。
 大きな鱸が白い腹を見せて運ばれてきた。ウエイターの一人がスプーンとフォークで器用に骨をはずして取り分けてくれる。パクチーが添えられただけなので、白湯で煮てあるのかと思ったが、食べるとやはり辛かった。
「まったく、こいつらの味覚はどうなっているんでしょうね」
 稲垣が皿を向こうに押しやりながらいった。大粒の汗を額に浮かべている。
 私がトム・ヤムクンが好きだというと、ポンチャイさんは妙に喜んでさっそく注文してくれた。店では英語がまったく通じなかった。大鍋に入ったスープがすぐに運ばれてくる。ウエイターの少年が鍋をテーブルに置こうとした時、どういうはずみか中にあった杓子が宙に跳んだ。
「熱いっ、熱いじゃないかこのバカヤロ」
 稲垣が大きな声で怒鳴る。スープの飛沫が稲垣の顔にかかったようだ。
 ばらばらと人が駆け寄ってきてた。稲垣は三人のウエイターに傅かれ、身体のあちこちを拭かれている。ポンチャイさんとセーアンさんを見ると、気の毒なくらいに恐縮していた。
「トム・ヤムクンで顔を洗ったから、これで彼もタイ人になれますか」
 私がそういうと、二人はやや間をおいて笑った。
「ミスター……は、タイ料理が好きですか」
 ポンチャイさんが訊く。私の名前を覚えていない事がわかった。
「はい、好きです。辛いものは大好きです」
 私は無謀な返事をする。
「そうですか」
 ポンチャイさんはまた嬉しそうな顔をして、手を叩くと何かを注文した。
「これを食べて見てください」
 蛤のような貝の剥き身がパクチーと合えてあった。ひとつ口に入れて咀嚼すると、一瞬遅れて辛さが染み出してくる。茹でた貝を酢と唐辛子のエキスでマリネしているようだった。すでにかなり麻痺している口の中にあっても、それとわかるほど激烈な辛さだった。
「私の知る限りこの料理が一番辛いです」
 ポンチャイさんが微笑みながらいう。ポンチャイさんの目の中で何かが光ったような気がした。
「全部食べたら二百台買ってくれますか」
 そういうと私は返事を待たず、蛤を次々に口に運んだ。
「よしなさいよ。身体壊しますよ」
 稲垣が慌てて止めようとしたが、私は食べ続けた。
 
 その晩、ポンチャイさんは私を女郎屋には誘わなかった。
ポンチャイさんの話 やす泰

幸恵
しほなんてぺっ!

カーテンからさす朝の光りは、柔らかい。
あの男の精液を自分の体を限りなく器にして、受けとめた。
それを、温存している。

男は、タクシーを田んぼ道の真中で停止させた。
気持ち悪いからって、タクシーを降りる。
タクシーのテールランプが遠ざかる。
「大丈夫。」
かがんでいる男を、のぞき込む。

幸恵は抱きしめられた。
自分の子供とたいして年が違わない男が、自分に抱きついている。
自体を飲み込めない。
「いやだぁー何してるのよ。酔ってるの。気持ち悪いんじゃないのぉ~。」
「幸恵さんのことが好きだ。好きで好きでしょうがない。」
抗っているうちに両腕の力が抜けた。
カラオケボックスで飲んだ甘い酒のせいだろうか。
男の顔がまじかにせまり、丸い大きな穴ぼこが、男の両目が一つになったものだと気づく。
男の唇が、唇をこじ開ける。

舌が歯茎をなぞり、上あごをなぞる。
思わず男にしがみついた。
熱い体温がどちらのものかわからない。
男は、コートの上から、胸を触る。
ずいぶんと長いことそうしていた様な気がする。

自転車のライトがかなり遠くから、よろよろ近づいて来るのが、判って、二人は離れた。
自転車をやり過ごすまでの時間のながかったこと。
「ね、怒ったの?」
「別にぃ」
「ね、今度いつ会えるの。来年まで会えないのかな」
二十分も歩いて家まで帰る。
その間、男は幸恵の手を強く握って、離さない。
二人だけで、会いたい。
ダメ。
どうしても,ダメ?。
どうしても。
なんであたしなのよ。
どうしても幸恵じゃないとだめなんだ。
うそ。
うそじゃない。
若くて可愛い子たくさんいるじゃない。
僕さ、ぜんぜん興味沸かないの、そうゆう手合い。
あったまおかしいじゃないの。
多分変態だと思う。

一月七日、始めてかかってきた電話に出る。
「あのね、私なんか構っていないで、いい人見つけて。」
電話を切ってから、その場にへたり込んだ。
おずおずと三面鏡の前ににじり寄る。
逆光で、顔のシミ、皺が目立たない。
まじまじ自分の顔を見る。
愛嬌がある顔だけど、美人って言われたことない。
立って見てみる。
福々しいって、言われても、嬉しくもない。
ウエストは、埋没して久しい。
「私、なに考えてるんだろう。あんなに若い男から言い寄られて、その気になり出してるなんて、ばかばかしい。」

いつしか男からのメールや電話を待っている幸恵がいる。
誰にも気づかれてはならない。
こんな田舎では、たちどころに噂になってしまう。

意を決して、自分から男に電話した。
「他の人に、見つかると困るので、あなたの家に伺いたいんです。」

「あなたには、あなたにふさわしい人がいるから、どうかもう私に構わないで、惑わさないで。電話もメールも、もう一切しないでください。」
それだけ言って、部屋を出た。
川沿いの土手を、バス停を目指して、歩いた。
バスが来て乗ろうとすると、手が伸びてそれを押しとどめた。
バスは、発車していった。
「どうしても、聞きたいことがある。」
男は、かけてきたのか息が弾んで、うまくしゃべれない。
「僕のことが・・嫌いなら嫌いだと言ってほしい。このままじゃ生殺しされてるみたいで・・・苦しすぎる。」
「こんな私なんかじゃ、ダメよ。あんたには、もっと・・」
男が幸恵に抱きつこうとするのを幸恵は、あらがう。
幸恵は足を踏み外す。
ああ・・もう季節は、春真っ盛りなんだわと、悠長な考えを巡らすのと、相反して幸恵は土手を転がり落ちていた。
ヨモギのかすかな匂いがした。
ゆっくり頭を巡らす。
男がすぐ近くの草むらにいた。
大の字になったまま動かない。
にじり寄って、大丈夫と揺する。
男の閉じた瞼から、コンコンと涙がわくのを見る。
幸恵は、口移しに水でも飲ませるように、男の唇に唇を重ねた。

男の部屋に、二人は戻った。
すりむいた互いの腕や足を、オキシフルで消毒した。
「このくらいの傷だったら、こうしたほうが良いわ。」
幸恵は、男の手の甲を暖かな舌でなめた。

十年近く、夫とはしていなかった。
セカンドバージン?
かなり痛かった。

あの男の体液を温存する。
まるで妊娠を望んでるかの様だ。
広い家の中に、一人でぬくぬくと布団に潜り込んでいる。
昼ちかくに、電話があった。
「大丈夫」
「ウン、大丈夫だけど、今まで寝てた。」
クスッと受話器の向こうで笑う気配。
「ね、今度、いつ会える。」
今度は、幸恵が笑う。
「土曜日の例会さぼって、大宮で飲もうよ。」
答える前に、男の体液が暖かく降りてきた。

飲み屋の席で男は満面の笑みを浮かべている。
屈託なさ過ぎの笑顔を見ていると、こちらにもうつる。
ゆで卵みたいな顔だ。
多分私の顔は、皺だらけになって笑っているんだろう。
どうしてこんなに年上の女が好きになるんだろうか。
でも、自分が男だったら、自分のどの世代と出会い恋愛したいかと問われれば、五十代の自分を選ぶような気がしてきた。
いろんなものがそぎ取られて、性が起立してあらわになるような気がしている。

ビールを飲み、おでんを食べて、男は立ち上がる。
店を出ると当然のように、肩に手を回し手を掴んで、路地をまがる。

顔の丸い童顔の男が、幸恵の乳首を口に含む。
思わず、男の子に母乳を与えている気分になる。
小さな赤ん坊が乳首をいたいほど吸うと、子宮が、産後空っぽになった子宮が収縮した。
乳首って子宮に直結しているんだろうか。

夫は、結婚前に出来た子どもをおろしてくれと言った。
田舎町だから、世間体を気にしていると言った。
幸恵一人で、子どもをこねくり回して作ったかの様な言いぐさだった。
その後結婚して三人産んだ。

幸恵は、子育てと、舅の世話に明け暮れる
避妊を面倒がる夫を疎ましく思う。
よそに女の一人や二人作ってくれれば良いのにと、思った。
子ども達は東京にでてゆき、舅を見送り、夫婦は広くなった家の端と端に住む。

若い男の手が、幸恵の身体をはい回る。
幸恵は、「変態」と言う。
一回やっただけで、こんなに打ち解けてしまう。
そうゆうおかしな行為を、また始める。
五十才以上の女性しか興味がないと言う。
しかも体重が平均よりずっと重い方が良い。
しかも顔がへちゃの方が良い。
「幸恵が好きで好きでしょうがない。」
「失礼ね。」

妊娠の心配がない。
もう生理を半年見ていない。
男の樹液を、思う存分に受け止める。
後顧の憂いなく全て受け入れる。
ああ~なんか、伸びやかにうれしい。

夫は、幸恵が拒むと気が荒くなった。
子どもも舅もいないから、おおっぴらに好き放題に、やらせろと迫った。
結婚前に泣く泣くおろした子どものことを、夫に訴えた。
夫は狐につままれたような顔をしていた
すっかり忘れていた。
そんなことあったかなと言う夫を、幸恵は憎み抜いた。
「自分がやりたいだけなんだから、お父さんは!」
幸恵は夫を断固として、受け入れなかった。
子どもも舅もいないから、なおさらだった。
だだっ広い部屋を、駆けめぐって、夫から逃げた。
幸恵の鬼気迫る拒絶に、メンツをつぶされた格好で、夫は挑まなくなった。

一寝入りした男が、お風呂に入ろうよとささやく。
「いや,一人で入れば良いでしょ。」
「なんでぇ、一緒に入ろうよ。」
「だって、アレが、流れちゃうの、もったいなくって。」
「あれって。」
「さっき、あんたが、私の中に沢山だしたアレ。」
男は笑った。
「明日くらいに、ひょんな時、出てくるのが良いんだ。思い出しちゃって、ジーンと感じちゃう。」
「変態だな。」
「あんたほどじゃないけどね。」
二人はくすくすと笑い続けた。
幸恵 しほなんてぺっ!

狙撃手
林徳鎬

強い日差しが小さなベランダをふたつにわけていた。
奥の深い闇から蝶が現れ、探し物をするようにテーブルの上を舞うが、また奥に戻っていく。あまりにも暑いのだろう。
ベランダのこちら側には椅子とテーブルが置いてある。
ベランダに付いた屋根が一部欠けていて、そこから漏れてくる大量の光の中で初老の男が椅子に座っている。
日焼けで赤くなった顎を縁取るように、白く短い毛が覆っていた。
男は煙草に火をつけようとしたがやめた。煙草を吸うには暑すぎるからだ。
狙撃手はそう思う。

太陽はあまりにも熱く、陰は深い。すべてが熱せられた空気に押さえ込まれたように、息苦しく、静かだった。
狙撃手は男のいるベランダの向かいの建物から窓を開けて見ている。
建物が少しだけずれて向き合っているため、男は見られていることに気づかない。
男は煙草を諦めてから、固まったように動かない。
狙撃手もまた動きを止める。
自分のまばたきを意識し、男を世界の中心に縛りつける。
数分が過ぎた。
そのあいだにも、男は動かないし、世界には風ひとつ吹かなかった。

男は汗をかいていないように見える。
そのうちに、狙撃手は男がどこかに行ってしまったのではないかと思い、そんなはずはない、自分がいま目を離さないでいる、あれが男だと言い聞かせるのだが、それにしてもおかしいではないかと思う。男はまったく動かないし、そうするには暑すぎるからだ。
狙撃手の俊敏でよく発達した二つの眼は、これ以上じっと見ていることに耐えられなくなり、狭いベランダを一瞬に駆けた。
そしてふたたび男を捕らえたとき、男がなにかを待っているのではないかと考える。
まもなく蝶が向こうの闇から現れる。

蝶は細かい空気の流れに煽られ揺さぶられるように、ひらひらと舞い、さっきと同じようにテーブルの中心まで来ると、来たほうに戻ろうとした。
男はあいかわらず動かない。蝶は男の座っている位置から数十センチのあたりで、旋毛に巻かれたように危うい飛びかたをひとつすると、またひらひらと闇の中に消えていった。

狙撃手は部屋の奥から酒を持ってくると、窓のへりにコップを置いて氷は入れずにそこに琥珀色の液体をたっぷり注いだ。
コップはただのコップだったが、ブランデーの品格でどっしりとした重みを与えられたようにみえる。
アンバー、シェンナ、イエロー・オーカー。狙撃手は液体を別の色で表現しようと試みる。だがどれもしっくりこない。
狙撃手は狙撃手という名がとても気に入っていた。それはさっき窓から外を眺めていて思いついたものだ。
コップ越しに窓の外を見る。

さて、彼はなにをしているのだろう。目的は?あれは仕事なのか。それとも罰なのか。
男はやはりまったく動かない。
コップの中身を通して眺める景色は、セピア色の写真のようで、初老の男は古い時代の遺物だった。石の建物も、男の前のテーブルも、狙撃手の眉も同じように、汗で濡れている。
息をひそめていると、まず最初に耳がなにかを捉え、それが浅いところに埋まっていた記憶を掘り起こす。時計の音だ。妻は三時に起きると言っていた。
時計を見ると二時五十分だった。妻は目覚ましをかけているだろう。
どこに出かけるわけでもないのだから、休日の昼に目覚ましは必要ない。
だが彼女は、自由になる時間がどれだけあったとしても、料理に慣れた人間が冷蔵庫の中身を計算するのと同じように、それを慎重に切り分けて使う。
狭い部屋にはいろいろな食べ物の匂いが混じって沈殿している。
薄闇のなかにはゴミ箱の中身を大事に並べたような、意味のないものが並んでいる。
すべてが生活に必要な活動から生まれたものだが、生まれたものには何の必要性もない。
狙撃手は酒をわきにどけた。酒を飲むにも暑すぎる。

体を窓から半分乗り出す格好になると、汚いアパートの一室から解放された気分になる。
空から陽が降り、街中に均等に、隙間なく、継続的に、熱を浴びせる。
自分の黒い頭にもそれは注がれている。
しかし、男のいるベランダの陰だけは、信じられないほどに深く、濃いものに見える。
ベランダに付いている傾斜のある屋根が一部分だけ欠けている。そこから漏れてくる光の中に初老の男が座り、奥には闇が広がっていた。
あそこから蝶が出てきたのを思い出した。やはり男はあの蝶を待っているのではないか。
そう考えるのに十分なほど、闇は象徴的に深い。

蝶が現れた。
やはりさっきと同じようにテーブルの上を不安定に飛ぶ。
男との距離は数十センチ、腕を伸ばせば届く距離ではあるが、男がそれほど素早く動けるとは思えない。狙撃手は自分の数十センチ先の宙を睨み、蝶が飛んでいる様を想像してみた。十分に近い距離であったし、手を伸ばすくらいなら試してもよいように思えなくもない。しかし、失敗する可能性が高いのは確かだ。もしあの蝶がどうしても逃してはいけないものであるなら、やはりまだ手を伸ばすべきではないだろう。

蝶はさっきと同じだけの時間を陽の下で過ごすと、もうこれで十分とでも言うように陰のほうに飛んでいってしまった。
蝶が去ったあとのベランダに一人残された男は、ようやく体を動かすと、煙草をくわえて火をつけた。

男は蝶を諦めたのだろうか?そうは思えない。狙撃手は煙草に火をつけた。
男はとても忍耐強いに違いないし、待つことには慣れているはずだ。
ここで諦める手はない。
狙撃手は男の顔からそうした情報を得ることが出来た。
男は忍耐強く、待つことに慣れている。
この辺りに住んでいる者の例に漏れず、生活は豊かではないし、日々は単調に過ぎ去っていく。疲れた体を休める時を、なによりも価値のあるものとして生きていることだろう。
彼に妻はいるだろうか?もしかしたら、彼の妻も奥で寝ているかもしれない。
そして誰もいない時間に、蝶を捕まえるのだ。
男は煙草を消すと、また動かなくなった。
狙撃手もそれに倣い、身を固める。
そして世界の中心に象徴的な闇と、蝶を待つ男を捉える。

蝶が現れた。
今度はさっきよりも時間をかけずに、まっすぐにテーブルのほうに飛んできた。
一瞬男の頭のわきをかするように近づいたが男は動かない。
そう、あの位置では捕まえられない。
狙撃手は視線の向こうに男と蝶を置いたまま、目の前の宙を睨む。
とまるまで待たなくてはいけない。
焦ることはない。待つことには慣れている。
蝶はなにか決めかねたように、同じところをゆらりゆらり、飛んでいる。
そしてテーブルの淵に羽を休めた。
狙撃手は目の前の宙にすべてを描く。
一見してわかるのだが、蝶はここでしばらく体を休めるつもりであるらしい。
目の前に蝶はいた。焦ることはない。動かない物に手を伸ばすだけのことだ。
これを捕まえることがどうしても必要だ。はっきりしている。
それ以上は考えずに手をすっと伸ばした。
手の中に収まったように見えたが、蝶は閉じた手の外にいた。
まだ十分に届くと、狙撃手は顔色を変えずに身を起こして手を伸ばし、窓のへりから転げ落ちた。
狙撃手は落ちていった。
瞬きするほどの時間ではあったが、落ちているあいだにも、陽は継続的に、隙間なく男に熱を浴びせ、到着地点である硬いコンクリートの上にも均等に降り注いでいた。

大きな音に男は驚き、下を見て小さく声をあげた。
男は妻を呼び、電話をかけるように言った。
それから数分のうちに救急車がやってきて、数十秒のうちに去り、向かいの建物では目覚まし時計が大きな音をたてる。
そのあいだ、テーブルの上で蝶は羽を休めていた。
狙撃手 林徳鎬

パレードの日、影男を秘かに消せ
るるるぶ☆どっぐちゃん

 男が窓を開けると、広くは無いこの部屋は、外の歓声にあっという間に占領された。
「窓、閉めてよ」
 あたしは男に声を掛ける。返事は無い。
 男の背中の向こう、開け放たれた窓いっぱいに青空が煌めいていた。その青空から、紙片がひらひらと舞い込んでくる。
 シーツの上に落ちたそれを、指先に摘んだ。
 金。銀。赤。白。1センチ角に裁断されたそれらには、ポップな字体で「独立記念日万歳」と印刷されている。
 今日は独立記念日だった。
「窓、閉めてよ」
 あたしはもう一度男に声を掛けた。
 歓声はまた一段と大きくなる。
 今年の独立記念日は連休の続きで、人出が例年よりもずっと多い。あたしも休みたかった。しかし仕事だった。去年も確かそうだった。あたしは何でも、人並みにはしようと思っているのだが、うまくいった試しが無い。
 テレビはパレードの模様を、この晴れの日に首都に来ることが出来ない国民の為、中継車を10台、ヘリコプターを5台も出して中継している。チャンネルを回しても無駄だ。どの局もパレードの中継をしている。独立記念日の中継は毎年高い視聴率で安定しているのだそうだ。それにあぐらをかいているのか、最近は各局、アングルまで似てきた気がする。
「ねえ」
 もう一度あたしは男に声を掛けようとした。そして、あたしは気付いた。
 男はいつの間にかライフルを持っていた。
 青空からの光を受けて輝く細い銃身を、男はパレードに向け、構えた。
「頼まれたんだ」
 紙吹雪はいつの間にか終わっていた。しかし歓声は収まる気配を見せず、窓の外に渦巻いている。
「今日は歓声が凄いね」
 男は窓の外に身を乗り出した。
「無理よ」
「何が?」
「無理よそんなの。だって凄い警備だし、それに」
「それに?」
「あなたは」
 目が見えないのでしょう?
 あたしはそう言いかけて口をつぐんだ。
 男は振り返った。
 青く、細い光を放つ目をしていた。しかしその目は何も見てはいないことを、少しも動くことが無いことを、さっき抱かれていた時にあたしは知っていた。
 青く綺麗な、しかし動くことのないその瞳を間近に見て、この目では綺麗過ぎて何も見ることは出来ないだろうな、と思い、そして同時に、その事を少し惜しんだ。この瞳が何かを見ることが出来たなら、きっと素晴らしいものが見えるだろうな、そう惜しんだのだった。
「これ、だろ?」
 男は目を指差した。
 頷いたあたしに、男は微笑みを返した。
「僕は産まれた時から、何も見たことが無い」
 男はそう続け、そしてあたしに背を向ける。細い背中だった。女のあたしより痩せている。痩せている、というより、芸術家に削ぎ落とされ続け、削ぎ落とされ続け、そして遂に芸術家が「失敗だ」と放棄してしまった岩塊のような、そんな細さだった。
「何も見たことが無い。だからかな、全て愛していたんだ」
 男はまるで長年の友達と語っているように、あたしに向かって話している。コンピューターみたいな声で、あたしに向かって、愛について話している。
「全て愛していた。だからどうしても見たくてね。どうしても見たかった」
 歓声がまたも高まった。誰か有名人の乗ったパレードカーが登場したのだろう。一斉に舞った紙吹雪が、空が覆い尽くしていく。
「色々な方法を試したよ。実に色々な方法をね。本も読んだし音楽も聴いた。多分僕の知らないアーティストは居ないんじゃないかな。旅もしたし恋もしたし、もちろん手術もしたし他にも色々と、実に色々とね。随分失敗もしたな。大抵が失敗だったと言って良いかもしれない。それでも僕は諦めなかった。その頃は思春期だったしね。僕は諦めなかったんだ。そして、僕は遂にこいつと出会った」
 男は手に持ったライフルを、かしん、と叩いた。
「不思議だね。どんな原理なのか、全く解らない。この細長い鉄の塊だけが、医者も親も恋人も見放した、僕の長年の望みを叶えてくれたなんて」
 男は静かに、歓声が高まっていくパレードに向けて構えた。ご丁寧にスコープの所に目を合わせ、引き金に手を掛ける。あたしはそれを、何も言うことが出来ないまま眺めている。
「これを握り、そして使うときだけ、僕は見ることが出来るんだ。それが皆が見ている世界なのかどうか、僕は知らない。全く違うものなのかも知れない。それでも、僕は見ることが出来るんだ。やっと見ることが出来る」
「どんなものが見えるの?」
 あたしは聞いた。切実な興味と、何故か生じた胸の奥の痛みに駆られて、あたしは聞いた。
「綺麗なものが見えるよ」
 男は答えた。
「色々なものが一瞬の内に合わさって一つになって、そして」
「そして?」
「その先は知らない。残念。いつもそこまでなんだ。でも綺麗なものだよ。きっと神様というのはあんな感じなんじゃないかな」
 パレードの熱狂はさらに高まる。点けたままのテレビが、主賓が全員登場し、パレードは遂に最高潮を迎えたと報じている。その熱狂の中、あたしはこの狭い部屋の中で、殆ど動かないままだった。
「僕はこれが何なのか、本当の所は良く解らない」
 ライフルの銃口を、すう、と動かしながら男は言う。
「何が起こっているのか、僕は解っていないかもしれない。だけどこれならうまくいくんだ。やっと見つけた。やっと見えた。遠くに霞み、触れられなかった世界を、僕はやっと祝福する事が出来る。僕はやっと辿り着けた。辿り着けたんだ」
 青空の中に、ぱん、と乾いた音が響いた。
 それは、教会の鐘の音に、幼い頃の誕生日パーティのクラッカーの音に確かに、哀れな程確かに似ていた。

「どうしたの? こんな時間に」
 アランはいつもの人懐こい笑顔であたしを迎えてくれた。
「ちょっと会いたくなって」
 あたしは言った。
「そっか。じゃあ入りなよ」
「うん、どうも」
 アランはあたしを招き入れた。あたしは部屋に入り、ドアを閉める。
 アランはあたしに背を向け、奥の部屋へ入っていく。あたしはその背中へ、銃を構えた。
 幼い日のクラッカーの思い出が、頭に浮かび、消えた。

どん。どん。どん。

 クラッカーと呼ぶには大き過ぎる音が、三発程響いた。

 アランは前のめりに倒れた。そして、その優しく大きな体は、二度と動かなかった。
 あたしは銃を離した。銃は床に落ち、ごとり、と音を立てた。
 あたしはしゃがみ込み、アランの身体に触れた。
 あたしが初めて好きになった相手、アラン。何も愛したことが無く、何にも愛されなかったあたしを、初めて好きになってくれたアラン。
 あたしはどうして良いか、ずっと解らなかった。愛って何なのか、どうすれば伝わるのか、解らなかったのだ。
 アランと出会ってから、あたしはいつも不安で、どう接すれば良いか解らなくて、だからとにかく探していた。
 教会に行った事も無いあたしなんかでも打てる教会の鐘のようなものを、もう何年もパーティへ行って無いあたしなんかでも出来るクラッカーのようなものを、あたしはとにかく探していた。
 どうにかアランに祝福をしてあげたかった。
 あたしはアランに触れながら、今度こそうまくいっただろうか、と考えた。
 床に流れ出したアランの血の鮮やかさが目にちらついて、あたしは少し泣いた。
 奥の部屋から、点け放しのテレビが、パレード暗殺事件の犯人が警察と撃ち合いの末、射殺されたニュースを伝えていた。
 あたしはそれでもまだ、自分が何をどう間違ったのか、解らないままだった。
パレードの日、影男を秘かに消せ るるるぶ☆どっぐちゃん

冷たいままの太陽
羽那沖権八

 その日も、桑名のIDカードは分厚い扉を開いた。
 広大な地下基地の半分を占拠しているのは、無数の漆黒の塔――ミサイルだった。
「班長」
 ツナギの作業着姿の青年が駆け寄って来る。
「お早う、富岡」
 桑名も、壁に引っかけてある古びた作業着に着替える。
「今日、ですね」
「ああ」
 二人はミサイルに目を向ける。
「本当は自分の手で解体したいんじゃないですか?」
「専門チームに任せておけばいい」
「手塩にかけて世話したミサイルですよ?」
「こんな代物に執着するほど、俺は変態じゃないぞ」
「そうですかねぇ?」
「そうだ」
「まあ、これからの時代は、核の恐怖からは解放されるわけですし、喜ぶべき事かも知れませんね」
「かもな」
 桑名はミサイルをじっと見つめる。
「――二〇一〇年製『轟竜』、日本最初の核武装型大陸間弾道弾、か」
「七〇年も前のものなんですね」
「六十七年だ」
「細かいですね」
 桑名は作業着のファスナーをぐっと上げた。
「自分の歳を、忘れるものか」
 その時。
 回転灯が突然点灯し、警報用の低いサイレン音が響き渡った。

 桑名と富岡は、制御室に駆け付けた。
「――はい、了解しました」
 桑名は総司令部直結の電話を切る。
「何があったんです?」
 心配そうな顔で富岡が尋ねる。
「飛行物体の領空侵入が確認された」
「UFOですね、宇宙人だ」
「細菌部隊に、インフルエンザウィルスを用意して貰わないとな」
 二人は、コントロールパネルを操作し、核ミサイルのシステムを今一度確認する。
「天候良好、衛星ナビゲーションシステムに異状なし。第三までの安全装置解除。推進装置!」
 桑名は声に出しながら、自分の脈拍を落ち着けていく。
「リニアカタパルトの磁力発生を開始しました」
 富岡の声に僅かな震えがある。
「射出可能値まで上昇中……カウント始めます」
「カウント始め」
「目標値まで後、八〇〇、六九〇、四四〇、二一〇……固定します」
「固定確認、第二安全装置のパスワードを入力」
「入力確認」
「始動命令を待て」
「始動命令を待ちます」
 後は、最終パスワードを入力し、ボタンを一つ押すだけで、標的に向かってミサイルが飛んでいく。
 桑名は小さく溜息をついた。
 沈黙が流れる。
「――コーヒーでも淹れるか」
「あ、私が淹れて来ます」
「そうか」
 富岡が席を立った後、桑名は端末のキーボードを眺める。
(仮想戦果は六千万人)
「ちょっと……実感湧かないな」
 桑名は呟く。
「何がです?」
 コーヒーを淹れながら富岡が尋ねる。
「何でもないさ」

「ブラックでいいんですよね」
 富岡が、桑名のコントロールパネルの側にマグカップを置く。
「ありがとう」
 桑名はカップを取って熱いコーヒーを口に含む。
 半分香りの抜けかけたインスタントコーヒーが腹を温め、頭に昇った血の熱さを忘れさせる。
「富岡」
 思い出したように、桑名が口を開いた。
「はい?」
「この後、お前はどこの配属になる?」
「似たようなとこですよ」
 曖昧に富岡が応える。
「似たような、か」
 桑名は小さく頷いた。
「班長は、答えられる感じのとこですか?」
「俺は除隊する」
「まだ充分働けるのに?」
「勿論働くさ。恩給の支給まで、まだ十三年もあるからな」
「宇宙船開発でしたよね」
「誰の噂だそれは。俺は何かの代わりにミサイル技師やってたんじゃ――」
 ふいに、周囲のモニタ全てがの色が替わり、先ほどより甲高いサイレン音が鳴り響いた。
 リリリリリリリ!
 総司令部直通電話が鳴り響いた。

「パスワード入力を行う」
 桑名が確かめるように言う。
「パスワード入力を行います!」
「二十秒以内に入力する。いいな?」
「二十秒以内に入力を行います!」
 背中を合わせて反対側に座った富岡が怒鳴る。
「カウントダウン、十、九、八……」
 桑名は画面を見つめ、呼吸を整える。
 指先が震える。
「……三、二、一」
 パスワード入力受け付け画面になる。
 桑名は一文字づつ確認しつつ、パスワードの前半を入力する。
「前半終了」
「後半入力します」
 背中越しにキーを叩く音が聞こえる。
 喉の渇きを覚えた桑名だが、マグカップに視線を向ける事も出来なかった。
「入力終了しました!」
 富岡の声と同時に、画面が切り替わる。
「第一種警戒は、初めてだな」
「第二種も初めてでしたよ」
 コントロールパネルのシャッターが開き、中から樹脂板に覆われた、ちょうど消火栓の非常ボタンのようなスイッチが現れた。
「もしもこれを押す事になれば、人類で初めてって事になるか」
「……敵も含めて四人目ですよ」

 モニタに、新しいレーダー情報が送られて来る。
「命中まであと五分か」
「ミサイルにしてはゆっくりじゃありませんか? 一つだけっていうのも何だか」
「最新の巡航ミサイルは、偽装動作が出来るから速度は当てにならん。ステルス加工している以上、数はもう少し多いかも知れない」
 桑名は頭の中で、ミサイルをイメージする。
 リニアカタパルトで垂直に百メートルまで射出されたミサイルのロケットに火が点く。そして、爆発と紙一重の激しい噴射で、大気圏外まで一気に飛び出す。
 それから、コンピュータの制御で、設定された目標へ、少しづつ進路を変更しながら飛ぶ。そして、目標の都市へ、落下していく。
 迎撃衛星も、戦闘機も、対空砲火も、全長二十メートルの超音速の物体を捉える事は出来ない。
 そして――。
(そこから先は想像が及ばんな)
「ミサイルですかね、それ」
 レーダー情報画面に示される、未確認飛行物体を富岡が指さす。
「さあな」
「全廃前に、射ちたかったんですかね?」
「もう少し人類の賢明を信じたいね」
 桑名は腕を組むと、スイッチから離れようとするかのように、背もたれにもたれ掛かった。
 モニタの隅に表示されている時計が、じらしながら秒を刻む。
「班長」
「あ?」
「もしも、本物の核攻撃だったら、私たちは射っていいんですかね?」
「報復は許可されている」
「いや、人として、やっちゃっていいのかな、と」
「人間を六千万も殺していいわけないだろ」
「じゃ、射たないですか?」
「……射つから、俺たちはここにいる」
 桑名は無言で付け加えた。
(本当に、出来るかどうかは分からんが)

 桑名は咳払いを一つする。
「後一分」
 喉が渇く。
 だが、今腕を伸ばせば、スイッチを押してしまいそうな、そんな錯覚にとらわれる。
「なあ、あれがもしも核ミサイルだとして」
 残り三十秒。
「はい」
 二十五秒。
「相手はどんな顔をして射ったんだろうな」
 十五秒。
「鏡を見るのが一番じゃないですか」
「違いない」
 十、九、八……。
 リリリリリリリリ!!

「――全て異状なし」
 桑名は点検を終え、ミサイルから離れた。
「いつでも射てますね」
 油で汚れた頬を拭いながら富岡が、寂しげに笑う。
「結局、通信用気球の落下ですか」
「どっかの諜報用成層圏気球かもな」
 二人は制御室に戻り、服を着替える。
「今何時だ?」
「十一時五十五分ですね」
「そうか」
 桑名は、置きっぱなしになっていたマグカップを取って、冷め切ったコーヒーを飲み干した。
「どうなるんだろうな、これから?」
「ボーア――選択制分子破壊波動――は、攻撃対象を遺伝子レベルで分別出来るそうですよね」
「分別、か」
「人道的戦争。人類の夢じゃないですか」
 モニタの時計が午前零時を指すと同時に扉が開き、作業員と技官が入って来た。
 桑名は、空のマグカップと失効したIDカードを置いて、立ち上がった。
冷たいままの太陽 羽那沖権八

かきくれし木
伊勢 湊

 比べ方を知らないから、本当は自分が不幸かどうかなんて分からないけど、それでも自分って幸せじゃないんだな、ってことくらいは分かる。周りの人たちの目がそう言ってるから。もう、お父さんとお母さんに会えそうにないことや、卒業を間近に控え中学校のみんなとお別れしなければいけないのは寂しかったけれど、それが不幸という言葉とは上手く結びつかない。ただ、みんなの理由もわからないまま不幸なんだと私に語りかけてくる、その目が、痛かった。
 寒い庭で車に荷物を詰め込んでいると、近所の人が歩いてくるのに気が付いた。私は顔を合わせたくなくて、明日には出て行かなければいけないこの家の二階の自分の部屋の窓に目を向けた。申し訳程度に葉の残った木の枝が木枯らしに吹かれて窓を叩いていた。

 一ヶ月前の雨の夜。電話を取ったのはお兄ちゃんだった。それはお父さんからで「通帳のお金を全部引き出して、すぐに家を出なさい。東京のおじさんのところにでも行きなさい」という内容だった。いったい何があったか分からなかったけど、それが緊迫した状況であることだけはお兄ちゃんの顔から見て取れた。激しい雨と風が窓を叩き、ときおり雷鳴が轟いていた。電話を置いたお兄ちゃんがコタツで小さく背中を丸めて、たぶん不安そうな顔をしていた私を怖い顔で見つめていた。外の風の音だけが聞こえて、何も音がないよりもずっとずっと静かで、私たちは動けなかった。
 結局、私たちはその夜家を出て行かなかった。

 生活は次の日から早速変わり始めた。札幌の進学高校に通っていたお兄ちゃんは学校に行く代わりに相談所や弁護士の事務所を廻った。私は転校を告げられた。家を処分することになったとのことだった。私はお兄ちゃんはどこの学校に転校するのか聞いたけど、何も答えてはくれなかった。
 それから家の片づけが始まった。家具や服や食器などを綺麗にしてからリサイクルショップに持っていったけど、全然たいしたお金にはならなかった。お兄ちゃんはお金の処理に奔走し、私は誰の物になるか分からない家を片付け続けた。私たちが引っ越す噂はどこからともなく広がっていき、学校では私と話す友達は減っていき、近所で声をかけられることもなくなっていった。こんなことならばあの夜ここから逃げ出していたほうがずっと楽だったと思う。でも、それをお兄ちゃんは選ばなかった。きっと全部分かっていてのことだ。
 家を片付けていると、悲しくはないけれど泣きたい気分になることがあった。特に日曜日の午後に残った幾ばくかの荷物の荷造りをしていると、不意に涙が流れてきた。生まれたときからあたりまえのように住んでいた家。お父さんもお母さんもここにはもう戻ってくることはないだろう。それを二人が悲しく思っているかどうかは分からない。私たち兄妹が両親に会ってそれを確かめられるかどうかさえ分からないのだから。
 荷物を積み込むのは一台の白いバン。それが私たちの唯一の翼で唯一の居場所。私たちは行く場所さえまだ決まっていない。でもその日が来れば私たちはここを出て行かなければならない。そんな私たちに残されたわずかな居場所。そこに荷物を押し込んで、どうしてこんなことになったのだろうと泣きたい気分になるときは、馬鹿げた方法だとは思うけれど涙が落ちないように空を見上げる。空気が澄んで、空がキーンと高くて、その視界に見慣れた木の枝が自然に映りこんでいる。この木はいったい何の木なのだろう。いつも私の部屋の窓から見えた木。帰り道、自分の家の目印になっていた大きな木。この先、誰がこの木を見続けるのだろう。そんなことを考えただけでまぶたの表面張力はその力を失った。

 出発の朝、準備は全て終わってしまい、やることがなくて庭に出た。垣根の向うから声がする。私がここにいるなんて思ってもいないのだろう。
「あの兄妹きちんとこの先やっていけるのかしら」
「残念だけど、まあ無理よね。悪い条件がそろいすぎちゃってるもの。借金だって残ってるし、頼る親戚もいないみたいだしね」
 やさしかった近所のおばさんたち。一足先に近所の人たちの心の中から私たちは引っ越してしまった。
「お兄さんのほうが手を尽くしてある程度の資産整理したらしいけど」
「あら、そうなの。学校はどうしたのかしら?」
「やめ…」
 その先が聞きたくなくて私は耳を塞いだ。その物音に気が付いたのか、おばさんたちは足早に立ち去っていった。

「どうしたんだ?」
 耳を塞いだ私の背後に誰かが立っていた。
「えっ?」
 振り向くとお兄ちゃんがいた。
「寒いのか?耳覆っちゃって」
「ううん。大丈夫」
「さあ、準備して出よう。あんまり運転上手くないからゆっくり行かないとな」
「うん」
 答えてはみたけれど行き先はまだ決まっていない。父の弟が住んでいるという東京を目指すということだけ分かっていた。その近くの学校に私の転校手続きは出してくれたみたいだったけど、私たちがおじさんの家に住む事になるかどうかは分らない。お兄ちゃんが廊下の隅の電話で毎晩おじさんと話していた内容を、私は聞く事が出来なかった。それをお兄ちゃんに訪ねる事も出来なかった。そんな私は、か弱い子供なのか、情けない大人なのか、それすらも分らなくてコタツでまるまって吐き気を堪えていた。
「でも免許取っててツイてたよなぁ。親父の会社継ぐつもりなんて本当はあんまりなかったんだけどな」
 お兄ちゃんは笑いながらそう言った。お父さんが自分の工場の仕事を継がせるために今年の夏、受験勉強で忙しい中、無理やり免許を取らせたのだ。もしかしたらお父さんはお兄ちゃんにすぐ仕事をさせるつもりで進学させる気も本当はなかったのかもしれない。でも、その会社も、もう今はない。
 庭で佇む私たちの目の前に枯れた葉っぱが一枚ひらひらと落ちてきた。小さな何かが私の涙腺を壊す。寒いと思って持ってきてくれていたのだろう。お兄ちゃんが何も言わずに手に持ったマフラーを首にかけてくれた。私はひとしきりそれが枯れるまでゆがんだ景色を眺めていた。
「ねえ、この木って何の木なんだろうね」
 やがて私はお兄ちゃんに話し掛ける。
「柿の木だよ」
「柿の木?」
「そうさ」
「でも北海道には柿は育たないって」
 柿の生息限界はもっと南で北海道では育たないと聞いていたのに、こんなに近くにあったなんて。
「偉い先生が言うことが全部正しいって訳じゃないよ。ひどい条件だって立派に育つ柿だってあるさ」
「うん」
 この寒い土地でこの柿はがんばって生きている。生まれたときから見てきた木なのに、今日はじめてそれを知った。
「でも、実はならないね。やっぱり寒すぎるのかな」
「そうかもしれない。でも北海道で柿が育たないなんて誰かが確かめたわけじゃない。知ったふうに言っているだけさ。僕はそんなの信じない。きっといつか、実をつけるよ」
「うん。そう思う」
 それを確かめることは、きっと私たちにはもうできない。それでも、信じてみる。きっと実はなるのだと。小さな実でいい。甘くなくってもいい。私はしゃがんでその柿の木の落ち葉を拾いあげた。
「さあ、いこうか」
 お兄ちゃんについていく。明日がどうなるか分からないけど、きっと何とかなるはずなんだと信じて。
 走り出した車のサイドミラーを覗き込む。ゆっくりと、住み慣れた家と実を付けた事のない柿の木が、小さくなって、消えた。
かきくれし木 伊勢 湊

るすこ
岸村しほ

ドアーを開けると、小さな女の子が立っていた。
包みを差し出し
「隣に越していた山本です。よろしく」
と言う。
小学校三、四年くらいだろうか。
古いマンションの住人は、入れ替わりが激しいが、挨拶に来ることは無かった。
隣同士の付き合いが全く無い。
気楽で良かったのに。
へ~めずらしい。
中身は石鹸だった。
それにしても、小さな子供に挨拶にこさせる大人は、なんなんだろう。

三日後位に又隣の女の子がチャイムを鳴らす。
「これー送ってきたんで、食べてください。」
スーパーの袋に、りんごが3個入っている。
離れた目が、にこにこ笑っている。
「ちょっと待って、」
化粧品のおまけについていた、ポーチを、その子にあげた。

りんごは固くて、歯を当てると果汁がほとばしった。
買ったものと全然違う。
化粧ポーチしかあげなかったけど、良かったんだろうか。

夜遅いコンビニで女の子を見かける。
氷とアイスを買っている。
雑誌を見ている振りをしてやり過ごした。

階段を上がると、女の子がドアーの前でたたずんでいる。
鍵が無いという。
ポケットと言うポケットを探しても、バックを逆さに振っても、鍵は出てこない。
「お父さんは、出張なの。」
半べそをかいている。
とりあえずアイスと氷を、私の部屋の冷蔵庫に入れた。
それから、落ちついて考えて、コンビニに戻ってみた。
コンビニのレジ台の隅に、鍵はあった。

翌日、女の子の父親が、お礼にとケーキを持ってきた。
どこにでもあるモンブランと、イチゴが乗ったケーキが六個も。
こんなに沢山ケーキをもらっても困ってしまう。

少し躊躇して、隣のドアーを軽くたたいてみた。
それに気が付かないようだったら、いいやと思ったが、ドアーは直ぐに開く。
屈託なく明け放れたドアーから、部屋が丸見えだった。
引っ越してきて間もないとはいえ、いまだに雑然としたままの室内だった。

「あ!お隣のお姉さんだ!」
女の子は、言った。
父親は、その後で、会釈している。
「あの~沢山ケーキをいただいたんで・・もしよろしければ、お茶でもいかがでしょうか。」

三人で紅茶を飲んで、ケーキを食べた。
青い色のインコを、かごから出して女の子の肩に止まらせてあげる。
インコは女の子の肩に止まって、さえずる。

父親は、洗いざらしのTシャツと半ズボンで来た。
「荷物をまだほどいていないんですよ。こんななりで来てしまいました。」
と言う。
男が、この部屋でくつろいだ格好でいる。
それだけで、少しどぎまぎしてしまう。
女の子はインコを、手に乗せたり、指をかませたりして遊んでいる。
お姉さん、このインコなんて名前?
るすこよ
るすこ?
そうお留守番ばかりさせているから、るすこっていうの。

小さい雛を買ってきて、大きくした。
夏休みにあわせて、雛を買い、付きっきりで餌をやって育てた。
緑と黄色と青の雛がいた。
一番小さくおとなしい青いのを選んだ。
「青い鳥だもんね。」とまだまばらな羽の雛に言ってみた。
男と別れて、青い鳥を飼う。
あんな男と別れたことは、幸せだったんだと、自分に言い聞かせて、青い鳥を選んだ。
「るすこ、るすこぉ。」
呼ぶと飛んできて寄り添うように肩にとまる。
「あなたは、青い鳥で、私を幸せにするんだからね。」
るすこは、ジブジブつぶやくように、私の頬をくちばしでつつく。

女の子はるすこを見せてと言っては、私の部屋に上がり込むようになった。
るすこに食べさせてと、草をつんでくる。
るすこの絵を描いたと、持ってきてみせる。
スパゲティーでよかったら、食べる?と聞く。
上目づかいに私を見て、恥ずかしそうにうなずく。

父親が、おでんを作りすぎたから食べに来ないかと女の子が言う。
着替えたばかりだし億劫だったが、断るのもなんなので行く。

なべに付きっきりの男の顔が上気している。
おでん作るのに、そんなに気合いを入れるなんて、男の人っておかしい。

「お姉さん、るすこをかごごと連れてきていい。」
良いと言うと、女の子は、私の部屋からるすこを連れてくる。
女の子は、るすこをかごから出して、自分の部屋の机やランドセルにとまらせて遊んでいる。

父親は、ビールをすすめる。
「いつも、娘がおじゃましてすみません。」
「いいえ、どうせ私も一人でヒマしてますから。」

「お姉さん、今日るすこをお部屋に泊めていい?」
「いいわよ。」
女の子は、キャーと歓声を上げる。
女の子は、るすこをかごごと部屋に入れて、風呂にモノの五分くらいしか入らず出てきて、いそいそと自分の部屋に消えた。

父親は、ウイスキーを出してすすめる。
お勤めは、どちらですかっと男が言う。
「中学の事務をやっています。」
「そうですか。私は・・」
男は名刺を差し出す。
薬品メーカーの係長だ。

「お父さん!みてみて!」
ふすまが開いて、女の子はるすこを頭の上に乗せて、見せる。
女の子の髪の毛に、青い色のるすこが乗っている。
るすこは、キーキー甲高くなく。
不吉な鳴き声にも聞こえる。
「お父さんにも乗せてあげる。」
「御飯食べているからあとでね。」
「るすこはリンゴを食べるよ。」
私が言う。
「ほんと!」
女の子は剥いたリンゴの一かけを持って、るすこを頭に乗せたまま、自分の部屋に戻った。

「妻とは、この春正式に離婚しました。一年以上別居状態だったんですよ。」
「・・・」
「あなたは、おいくつですか?女性に年を聞いてはいけないかなぁ~」
私は、両手で顔を覆う。
頬があつい。
「28?」
「まさか~35です。」
「若いな。とても若く見える。」
男の視線が、身体をなぞるのがわかった。

「あ!氷がない。」
男が冷蔵庫を覗いて言う。
「ぁ、うちにありますよ。」
部屋にもどると、続いて男もドアの内側に入ってきた。
予期しない展開に、立ちつくす。
狭い玄関に二人がいる。
男に「あの子が、気づいてしまう。」
小さな声でいう。
「もう寝たよ。」
共犯めいた気分で、抱き合う。
互いの息が熱を帯びている。

始めて見たときから、こうなりたいと思っていたっと、男は言った。
「私も」と言う。
なべの火、消してきたから。
男は、私の部屋のベットに、私を寝かして、言った。
「間取りは、娘から聞いた。」
男は私のはだけた胸に顔を埋めて言う。
「あ!あの子をそんな風に使っていたの!」
薄暗がりに、男がにこりと笑うのが見えた。

子どもを寝かしてからの密会は、毎日のように行われる。
るすこは、女の子のものになった。
女の子は、当然のように、るすこを戻さなかった。
私は、女の子が父親の夜の不在に気が付いているような気がして、ならなかった。
るすこを戻す気配もないから。
それに以前のように、私の部屋に来なくなる。
お友達でも出来たのに違いないと、思った。
思うことにした。

隣の物音に、耳を澄まして男を待つ。
女の子が寝ると、男は静かに部屋を訪れて、私と抱き合った。

「結婚してくれ。」
「ええ、ありがとう」
「承諾ってこと?」
私は、男の腕の中でうなずいた。
「あの子は、母親が育てたいと言ってきてるんだ。」
「そう」

女の子がいなくなった。
男は、母方の叔父の家に女の子を連れて行ったと話す。
男の部屋が広いので、そちらに私が住むことにする。
荷物の整理に女の子の部屋に入る。

女の子の荷物は、なかった。
男が宅急便で送ったと言う。

ベランダに段ボールがあった。
開けた。
鳥かごが入っていた。
私は、自分がるすこのことをすっかり忘れていたことに、驚いた。
るすこ!
るすこぉ!
かごを急いで取り出して見る。
そこには、青かったインコが、小さくひからびて落ちていた。