好きな季節は晩夏だ。朝晩、カーディガンが欲しくなるこの季節、手芸店には新色の毛糸が並ぶ。モスグリーン、パープル、きなり、カナリア色。アルパカ、段染め糸、ブークレ仕様糸。さて何を編もうか。考えるのは至福の時間だ。
亡くなった母は、編物が好きだった。居間でみんなの話を聞きながら、編み棒を動かしていた。解き物もよくしていた。袖口の擦り切れたセーターは傷んだ所は解いて、似た色の毛糸で編み足す。丈の短くなった物も同じだ。ゴム編み部分を長くすると多少のサイズは調整できた。解いた糸は、くるくると枷にして糸繰り機にかけ次の作品に使った。私が学校から帰ると「遊びに行っておいで」と母は言うのだが、何度言われてもすぐに戻って隣に陣取る私を母は、「しょうのない子ねぇ」と笑って見返したものだ。
私は、母の傍らで母の良く動く手元を見ているのが好きだったのだ。一本の糸が、時間の経過と共に自分達のセーターやズボン、コート、帽子、マフラー、手袋、靴下に姿を変えていく不思議。母が手品師に見えて仕方なかった。
そのうちに、自分でも編みたくなった。それは砂漠に水が沁みて行くように自然で当たり前の感情だった。母は私に、もっと別な、男の子らしい遊びをさせたがったが、そのうちに諦めたのか、作り目の仕方、目の増減の仕方など、編物の基礎知識を一通り教えてくれた。社会人になった時には、編物教室に通おうと考えたが、夜の教室は仕事帰りの女性達の溜まり場で、男の私が入り込む隙はどこにも無かったので断念した。有難い事に手編み独習書なるものがあって、微に入り細に入り説明が施されている。私は数年でかなり高度なテクニックを身に付けるに至った。見よう見真似で編み棒を動かしていた少年の頃から、考えてみるともう30年以上も編みつづけていたことになる。
編物の趣味は、普通なら歓迎されるはずだ。実用的だし、家庭的ないいイメージだし、それに毛糸のふんわり感は癒しの要素も多分に含まれていると、近年の研究で明らかになったらしい。
たまに男性タレントで、「僕は、編物が趣味なんですよ」と意外な趣味を暴露している人がいる。そんな時に私は、エスパー同士が密かにめぐり合ったような,嬉しい気持ちになる。でも,次の瞬間,違うと思う。彼らと私は違う。私の場合は、編物をしていることを知られてはならない。知ったが最後変人扱いされてしまうのがオチだ。悲しいけれどそれが今までの常だったのだから。
なぜなら私は、40を過ぎた独身男であり。身長180、見るからにむくつけき体育会系なガタイを持つ男であり。顔、見るからに男臭く、おまけに毛深い。指にはもじゃもじゃの毛が生えている。それはまるで熊手のようだ。この手には、デリケートな細い編み棒はそぐわない。残念だけど、それは確信を持って言える。見た人が薄気味悪く思い、離れて行ってしまうのも無理はない。だから秘密にせざるを得ないのだ。こういう男が編物の市民権を獲得するなんて、気が遠くなるほど難しい。
20代の頃、付き合っている女の子がいた。彼女は、長い髪が綺麗なとてもチャーミングな子だった。デートは専ら映画やドライブで、部屋に連れてきたことはない。しかしある時私は、風邪で寝こんでしまった。会社に電話して欠勤を知った彼女が心配して、一人暮しの私のアパートを訪ねてきた。ドアの向こうに立つ彼女の姿を見た私の驚きと言ったらなかった。しかし覚悟を決め観念し招じ入れた。
部屋に入った彼女は、「具合はどう?」と言った。そのあとおずおずと部屋の様子を眺めて、しばらく押し黙った。まず、視線が窓に行く。そこには、合細でレーシーに編んだパープルのカーテンがかけてあった。ベットカバーは、凝ったパイナップル編みだ。電話機やドアカバー、ダイニングのテーブルクロスも勿論私の作品だし、ソファーに置いたクッションカバーは、何日もかかって編み上げた力作だ。クンスト編みは初めての挑戦だったが、まずまず綺麗に編めたと思う。この作品の編み図は、目が痛くなるほど細かくて大変だった。私はそれを一目一目鉛筆で印をつけながら編み上げたのだ。棒針で編んだなんて信じられないほどまさかのレーシィ柄。編み上げた時の満足感は、何と表現したらいいのだろう。
彼女は視線をテーブルの上にある編みかけの毛糸の玉に移した。そして、そのまま私の顔にゆっくりと移し、低い声で「嘘」と呟いた。
それから脱兎のごとくドアに向かって走った。後ろ手でドアを開け,「さよなら」と言ってドアを閉めた。カチリと冷えた音がした。私は遠ざかる足音を、孤独の中で聞いていた。それ以来、女性と深い付き合いをしたことは一度も、ない。
取り寄せを頼んでいた手芸店から電話が入ったのは、午後のことだった。
終了のベルを聞くのももどかしく、私はお店に急いだ。欲しかった外国製の糸がやっと手に入ったのだ。私はそれを宝物のように大切に胸に抱いて、レジから2、3歩歩き始めた。その時私の肩を「ポン」と叩く人がいる。同じ職場の畠山さんだ。
「お買い物?」
無邪気な笑顔で聞かれたけれど、私は凍り付いてしまった。先ほどの毛糸は、袋に入り切らず、はみ出していた。その毛糸どうしたの?畠山さんの目がそう詰問している気がして私はしどろもどろ口ごもる。
突然、「逃げなきゃ!」と思った。思ったのと同時くらいに私はダッシュした。後ろも見ないで一目散に走った。彼女は間違いなく、会社で言いふらすだろう。毛糸を手にして幸せそうにしている私の事を。走りながら私には、会社中の笑いものになっている自分が見えるようだった。ひそひそ。くすくす。女の子たちの嘲う声がする。このまま遠くに行ってしまいたい。私はひたすら走りつづけた。
走りつかれて壁にもたれていると、畠山女史が走ってくるのが見えた。
「どうして?」彼女は遠くから大きな声で言う。
「どうして逃げるの?」
「知ってます。貴方が編物好きだってこと」
「いいじゃないですか。好きなら堂々としていたって!」
やっと私の位置まで辿りついた彼女は、怒ったようにいい放った。
「人の目ばっかり気にするより、自分の気持に正直になったほうがずっといいと思う」
「私もね。秘密があるんです。バイクが好きで夜中のツーリングが止められなくて。白バイ隊に入りたくて試験を受けたけど落っこったの。ナナハンどうしても欲しくて。絶対買いたいと思ってる。結婚よりも恋人よりもバイクが好き。
そう、もうずーっとずーっと前からね。お付き合いした人も何人かいたけど、みんな嫌がって離れていくの。
でも好きなんだもの。それでいい。こんな私って変ですか?」
「じゃあ、私と同じだね。バイクかぁ。楽しい?」
思わず質問した私に、彼女は歌うように応えた。楽しくなかったら、とっくに止めてますよ~♪そうして、悪戯っぽくくすりと笑った。
私は霧がはれていくように爽やかな気持になった。彼女の真摯な告白に、長い間の胸のつかえが、消えていくような思いがした。
「変じゃない。君も私もちっとも変じゃない」 力を込めてそう言いながら両肩を揺さぶったら、彼女の頬がぽうっとばら色に上気した。
毛糸と同じくらい、いやいや、毛糸よりもずっと綺麗なばら色もあるんだなぁ・・・・・・。私は縮こまっていた自分の心が、ばら色に溶けていく思いがして、ひどく幸福だった。