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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第25回バトル 作品

参加作品一覧

(2003年 1月)
文字数
1
さゆり
3000
2
青野 岬
3000
3
narutihaya
2998
4
ねぎ
3000
5
林徳鎬
3000
6
ごんぱち
3000
7
有馬次郎
3000
8
ぶるぶる☆どっぐちゃん
3000

結果発表

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趣味は編物
さゆり

 好きな季節は晩夏だ。朝晩、カーディガンが欲しくなるこの季節、手芸店には新色の毛糸が並ぶ。モスグリーン、パープル、きなり、カナリア色。アルパカ、段染め糸、ブークレ仕様糸。さて何を編もうか。考えるのは至福の時間だ。

 亡くなった母は、編物が好きだった。居間でみんなの話を聞きながら、編み棒を動かしていた。解き物もよくしていた。袖口の擦り切れたセーターは傷んだ所は解いて、似た色の毛糸で編み足す。丈の短くなった物も同じだ。ゴム編み部分を長くすると多少のサイズは調整できた。解いた糸は、くるくると枷にして糸繰り機にかけ次の作品に使った。私が学校から帰ると「遊びに行っておいで」と母は言うのだが、何度言われてもすぐに戻って隣に陣取る私を母は、「しょうのない子ねぇ」と笑って見返したものだ。

 私は、母の傍らで母の良く動く手元を見ているのが好きだったのだ。一本の糸が、時間の経過と共に自分達のセーターやズボン、コート、帽子、マフラー、手袋、靴下に姿を変えていく不思議。母が手品師に見えて仕方なかった。

 そのうちに、自分でも編みたくなった。それは砂漠に水が沁みて行くように自然で当たり前の感情だった。母は私に、もっと別な、男の子らしい遊びをさせたがったが、そのうちに諦めたのか、作り目の仕方、目の増減の仕方など、編物の基礎知識を一通り教えてくれた。社会人になった時には、編物教室に通おうと考えたが、夜の教室は仕事帰りの女性達の溜まり場で、男の私が入り込む隙はどこにも無かったので断念した。有難い事に手編み独習書なるものがあって、微に入り細に入り説明が施されている。私は数年でかなり高度なテクニックを身に付けるに至った。見よう見真似で編み棒を動かしていた少年の頃から、考えてみるともう30年以上も編みつづけていたことになる。

 編物の趣味は、普通なら歓迎されるはずだ。実用的だし、家庭的ないいイメージだし、それに毛糸のふんわり感は癒しの要素も多分に含まれていると、近年の研究で明らかになったらしい。
 たまに男性タレントで、「僕は、編物が趣味なんですよ」と意外な趣味を暴露している人がいる。そんな時に私は、エスパー同士が密かにめぐり合ったような,嬉しい気持ちになる。でも,次の瞬間,違うと思う。彼らと私は違う。私の場合は、編物をしていることを知られてはならない。知ったが最後変人扱いされてしまうのがオチだ。悲しいけれどそれが今までの常だったのだから。

 なぜなら私は、40を過ぎた独身男であり。身長180、見るからにむくつけき体育会系なガタイを持つ男であり。顔、見るからに男臭く、おまけに毛深い。指にはもじゃもじゃの毛が生えている。それはまるで熊手のようだ。この手には、デリケートな細い編み棒はそぐわない。残念だけど、それは確信を持って言える。見た人が薄気味悪く思い、離れて行ってしまうのも無理はない。だから秘密にせざるを得ないのだ。こういう男が編物の市民権を獲得するなんて、気が遠くなるほど難しい。

 20代の頃、付き合っている女の子がいた。彼女は、長い髪が綺麗なとてもチャーミングな子だった。デートは専ら映画やドライブで、部屋に連れてきたことはない。しかしある時私は、風邪で寝こんでしまった。会社に電話して欠勤を知った彼女が心配して、一人暮しの私のアパートを訪ねてきた。ドアの向こうに立つ彼女の姿を見た私の驚きと言ったらなかった。しかし覚悟を決め観念し招じ入れた。

 部屋に入った彼女は、「具合はどう?」と言った。そのあとおずおずと部屋の様子を眺めて、しばらく押し黙った。まず、視線が窓に行く。そこには、合細でレーシーに編んだパープルのカーテンがかけてあった。ベットカバーは、凝ったパイナップル編みだ。電話機やドアカバー、ダイニングのテーブルクロスも勿論私の作品だし、ソファーに置いたクッションカバーは、何日もかかって編み上げた力作だ。クンスト編みは初めての挑戦だったが、まずまず綺麗に編めたと思う。この作品の編み図は、目が痛くなるほど細かくて大変だった。私はそれを一目一目鉛筆で印をつけながら編み上げたのだ。棒針で編んだなんて信じられないほどまさかのレーシィ柄。編み上げた時の満足感は、何と表現したらいいのだろう。

 彼女は視線をテーブルの上にある編みかけの毛糸の玉に移した。そして、そのまま私の顔にゆっくりと移し、低い声で「嘘」と呟いた。
 それから脱兎のごとくドアに向かって走った。後ろ手でドアを開け,「さよなら」と言ってドアを閉めた。カチリと冷えた音がした。私は遠ざかる足音を、孤独の中で聞いていた。それ以来、女性と深い付き合いをしたことは一度も、ない。
 
 取り寄せを頼んでいた手芸店から電話が入ったのは、午後のことだった。
終了のベルを聞くのももどかしく、私はお店に急いだ。欲しかった外国製の糸がやっと手に入ったのだ。私はそれを宝物のように大切に胸に抱いて、レジから2、3歩歩き始めた。その時私の肩を「ポン」と叩く人がいる。同じ職場の畠山さんだ。
「お買い物?」
無邪気な笑顔で聞かれたけれど、私は凍り付いてしまった。先ほどの毛糸は、袋に入り切らず、はみ出していた。その毛糸どうしたの?畠山さんの目がそう詰問している気がして私はしどろもどろ口ごもる。

 突然、「逃げなきゃ!」と思った。思ったのと同時くらいに私はダッシュした。後ろも見ないで一目散に走った。彼女は間違いなく、会社で言いふらすだろう。毛糸を手にして幸せそうにしている私の事を。走りながら私には、会社中の笑いものになっている自分が見えるようだった。ひそひそ。くすくす。女の子たちの嘲う声がする。このまま遠くに行ってしまいたい。私はひたすら走りつづけた。

 走りつかれて壁にもたれていると、畠山女史が走ってくるのが見えた。
「どうして?」彼女は遠くから大きな声で言う。
「どうして逃げるの?」
「知ってます。貴方が編物好きだってこと」
「いいじゃないですか。好きなら堂々としていたって!」

 やっと私の位置まで辿りついた彼女は、怒ったようにいい放った。
「人の目ばっかり気にするより、自分の気持に正直になったほうがずっといいと思う」

 「私もね。秘密があるんです。バイクが好きで夜中のツーリングが止められなくて。白バイ隊に入りたくて試験を受けたけど落っこったの。ナナハンどうしても欲しくて。絶対買いたいと思ってる。結婚よりも恋人よりもバイクが好き。
そう、もうずーっとずーっと前からね。お付き合いした人も何人かいたけど、みんな嫌がって離れていくの。
でも好きなんだもの。それでいい。こんな私って変ですか?」

「じゃあ、私と同じだね。バイクかぁ。楽しい?」 
思わず質問した私に、彼女は歌うように応えた。楽しくなかったら、とっくに止めてますよ~♪そうして、悪戯っぽくくすりと笑った。

 私は霧がはれていくように爽やかな気持になった。彼女の真摯な告白に、長い間の胸のつかえが、消えていくような思いがした。

「変じゃない。君も私もちっとも変じゃない」 力を込めてそう言いながら両肩を揺さぶったら、彼女の頬がぽうっとばら色に上気した。

 毛糸と同じくらい、いやいや、毛糸よりもずっと綺麗なばら色もあるんだなぁ・・・・・・。私は縮こまっていた自分の心が、ばら色に溶けていく思いがして、ひどく幸福だった。
趣味は編物 さゆり

夜光虫のいる海
青野 岬

 母を背負って海岸までの細い坂を下る。母は何も言わずにただ黙って私に背負われている。私は前を向いているので、母がどんな表情で背負われているのかわからない。波の音が潮の香りを含んだ湿った風に乗って、耳の穴に忍び込んで来る。歩くたびにスカートの裾がめくれる。どうしてこんな時にスカートなんて、と私はしきり後悔している。
 海岸に出ると、満月が煌々と砂浜を照らしていた。砂浜の隅ではハマユウの花が、純白の花弁を夜風に揺らして甘い香りを漂わせている。私のすぐ後ろを歩いていた中年の女の人が、そのままそそくさと波打ち際まで進み、背負っていた老婆を乱暴に降ろした。そして不安そうに遠くを見つめる老婆の背中を、海に向けて黙って押した。
 見回すと、浜辺には思ったよりもたくさんの人がいた。若い女の人は、赤ん坊を海に向かって放り投げている。投げられた赤ん坊は小さな弧を描いて、暗い水の中に消えた。赤ん坊が着ていた白いベビー服が、残像となって私の瞼の裏に焼き付いた。猫背の青年は、海に入って行く初老の男性の姿を、少し悲しそうな表情で見送っている。男性は振り返りもせず進み、老いてしぼんだ小さな体は少しずつ海に飲み込まれる。
 静かだった。取り乱したり泣いたりしている人は誰もいない。母親らしき女性に手を引かれている小さな子供でさえ、何も映らないガラス玉のような瞳で月の光に輝く水面を見つめるだけだ。
 波打ち際では夜光虫が暗い水の中で淡い光を放っている。たとえ海の中が冷たく音も無く心細い世界だったとしても、この夜光虫の美しい光がどんなにか水底に沈んで行く人々の心をなぐさめてくれるのではないか、と私は思う。
 私はこの海に、母親を捨てに来た。
 母はとても我がままな人で、私は子供の頃からずっとその我がままに振り回されて来た。母は自分の身の回りのもの全てを、支配したかったのだ。あの人は、子供にも人格があるなんて、考えてみた事も無いのだろう。無力だった私はその支配下でただ耐えるしかなかった。私が大人になり、結婚して子供を産んでからもその支配は続いた。私はもう、黙って言う事をきくだけの無力な子供ではない。だから私は自分の意志で、母を捨てるのだ。
 私はふうっと深いため息をひとつつくと、背負っている母を浜辺に降ろした。いつの間にか浜辺にはたくさんのウミガメ達が海から這い上がり、産卵の真っ最中だった。私は卵を産んでいるウミガメの前にそっと座って、その様子を静かに見守った。
 ウミガメは泣いていた。その小さな瞳からは大粒の涙がポロポロと流れ落ちて、砂の上に小さな黒いしみを作っていた。どうして泣いているんだろう。卵を産むのが、そんなにも痛くて苦しいんだろうか。それとも、新しい命を生み出す感動の涙なんだろうか。わからない。自分の出産の時、私は泣かなかった。麻酔で頭が朦朧として、涙を流す事さえも忘れていたのだ。
 陣痛が来て入院したものの微弱陣痛で、だんだんと陣痛は遠のいてしまった。連休前のあわただしい時期で、結局は陣痛を待たずに手術をする日程が決まった時、母は「友達と弘前城へ桜の花を見に行く事になってるのよ。生まれたら連絡ちょうだい」と言って、ウキウキと旅行に行ってしまった。夫の両親はそれを聞いて、あきれたように笑っていた。私も笑った。笑うしか、なかった。
 私の隣では母が、私と同じように座り込んで、ウミガメの産卵を食い入るように見つめている。私がこだわってる数々の出来事なんて、母にとっては取るに足らない些細な出来事でしかない。
 カメのしっぽの下のあたりから、ピンポン玉みたいな真っ白い卵がぽとりぽとりと砂の穴の中に落とされる。透明な粘液に包まれた卵は、殻の中に新たな生命を内包して音も無く生み出されてゆく。このうちの何個の卵が孵化し、何匹の赤ちゃんカメが無事に海までたどり着けるのだろう。そして大人になり、再び卵を産む為にこの海岸に戻って来る確率なんて、私には想像もつかない。
 母は卵を見つめたまま、身じろぎもしない。この人は私を含めて、どうして三人もポロポロと子供を産んだんだろう。大変なのは、「子供を産む」事なのではなく、「子供を育てる」事なのに。「あんたのお母さんは産みっぱなしだからね。まったく呑気なもんだよねぇ」と、訳知り顔で眉をひそめ、憐れむように囁かれる子供の気持ちが、あなたにわかるだろうか。「子供を産んだら、責任を持って育てなければいけない」と、教えてくれる人が、たとえ母のまわりには誰もいなかったのだとしても、それが子育てを放棄する理由になどには決してならない。
 ウミガメは卵を産み終えると、前足を使って丁寧に砂をかけて、またゆっくりと海へ戻って行った。私は卵を間違えて踏み付けてしまわないように、近くにあった棒切れを拾って卵が埋まっているあたりに円を描いた。そして目印にする為に、砂で小さな山を作りその棒切れを刺した。手のひらに触れた砂は心無しか、少し温かいような気がした。
 私は立ち上がると、お尻についた砂を手でパンパンと払った。母もつられて立ち上がる。私は母についた砂もはたいてあげた。これが娘として、母にしてあげる最後の仕事なんだと思い、砂が落ちてからもしつこいくらいに母の体をパンパンと叩き続けた。
 海面で魚が跳ねた。跳ねた魚の青白い腹と水飛沫が、月の光を浴びて輝くのを見た。それを合図に、私は母の手を引いて波打ち際までゆっくりと進む。心の中は、この海のように凪いでいる。潮の香りが一段と強くなって、体の隅々までまとわりついて来るような気がした。母のシルエットが、月の光に照らされて広大な海を背景にクッキリと浮かび上がる。いつの間にか母の体がずいぶんと小さくなっている事に気付いて、私はしばし愕然とする。
 ふいに母が私の腕を掴んだ。今さら私に見せるこの執着は、一体どこから湧いて来るのか。あなたは今、自分の娘に捨てられようとしているのよ。もう、遅いのよ。私は母の細い指を一本ずつゆっくりと剥がすと、促すように小さな肩を押した。母は一瞬よろめいたけれど、すぐにバランスをたてなおしてしっかりと立ち、一歩一歩、暗い海へと入って行った。少しずつ、母の体は海とシンクロし、やがて頭の先が見えなくなって母は完全に姿を消した。さよなら、お母さん。
 しばらくの間、ぼんやりと海面を眺めた後、私は何かに追い立てられるようにきびすを返した。柔らかい砂の上を足首まで埋もれながら小走りに進む。ウミガメの姿は、もうどこにも無い。砂浜には誰もいない。暗闇が、その色をさらに増して私の背中にのしかかって来る。振り向いてはいけない。 
 私は少し前に母をおぶって歩いた細い坂道を、たしかめるようにひとりで登る。寄せては返す波の音が心臓の鼓動と重なって、私の中で規則正しいリズムを刻む。
 大丈夫。水の中では無数の夜光虫達が、煌めきながら母を迎えてくれているはずだ。捨てられた人々の体は魚や夜光虫の餌となって、また夜の海を神秘的に輝かせる。そうであって欲しいと心から願う。
 いつか、そう遠くはない未来に、私も娘に背負われてこの海に来るのだろう。その時は、私は喜んで暗い海の藻屑になろう。誰を恨む事なく、静かに冷たい海底にこの身を沈めよう。

 風は止み海は凪いでいる。水面で、またキラリと魚が跳ねた。静かな静かな、夜の海だった。
夜光虫のいる海 青野 岬

山の遍路
narutihaya

 僕は人づきあいが苦手だった。人間関係が苦痛で何度も仕事を辞めるうちに、ついに無職になった。30歳を目前に僕は部屋に閉じこもり、テレビの画面をただ眺めていた。いつの事だったかはもう覚えていないけれど、ある日僕は画面の中に、僕と同じ年恰好の男が黙々と杖をついて歩いているのを見つけた。
 「なにもやる事がなかったんですよ」と彼は言った。それは四国遍路の旅で、彼の姿は僕を旅へと誘った。でもお金のない僕に四国は遠く、そこで僕は山に登る事にした。ひたすらに歩けさえすれば場所はどこでもよかったのだ。ただ、ひとりであるという事だけが僕にとって重要だった。

 山は紅葉のシーズンを迎えていたが、平日の山に人影はまばらだった。数人がロープウェイ乗り場へ向かう中、僕は歩いて登る事にした。
 ひとりの山はとても静かで、歩く度にウインドブレーカーが新品に初めて袖を通した時の様な音をたてた。冷たい空気に指先がかじかむ。でも、その心地よく胸を満たす冷たさに、僕はそこが山である事を実感した。街の空気とは違う。僕は冷たく重い空気に潰されそうだったここ数年の生活を思い返してみた。
 僕はいつも誰とも会話を交わさず、周りの視線を避けこっそりと働いていた。目に見えない厚いカーテンが僕と周囲を常に隔てていて、時折風が吹いても、それは揺れる事さえなかった。
 「僕はひとりだ」
口に出して言ってみると、それは他人の声の様に聞こえた。僕は道の脇にお地蔵さんをみつけ、話しかけてみる。
「僕はひとりなんだよ」
小さな菅笠をかぶり首に鈴をぶら下げたその姿は、僕には遍路の旅装束に見えた。僕は落ちていた小枝を、杖代わりにそのそばに立てかけた。
「これで、ふたり」
僕は再び登り始めた。

 道は徐々に急な登りとなり、僕はふくらはぎの筋肉が強く引っ張られるのを感じた。周りを囲む木々は高く伸び上がり、細切れの空を遠く支えている。明るかった日差しが絶えていくにつれ、僕の気持ちもまた不安に陰った。歩く道がどこへ続いているのか僕には分からず、振り返っても登ってきたはずの道はもう見えなかった。立ち止まると胸の鼓動が山の奥深くまでこだましそうだ。僕は来る途中にあった遭難碑の事を思い出した。「最愛の人、ここに眠る」とそこには刻まれている。僕は自分の名前がそこにあるのを想像して、首を横にふった。僕がこのまま山の中へ消え去ったとしても、探す人はおろか気がつく人さえいないに違いないのだ。
 やがて僕は頂上に辿りついた。そこは広場になっていて、穏やかな日差しの下で老夫婦が仲良く弁当を広げ、中年男女のグループが写真を撮り合っていた。僕はだいぶ疲れていたけれども、そこで一息つく訳にはいかなかった。僕の目指すのは山頂ではなく、歩き続ける先にいるはずの僕自身だったからだ。
 広場の向こう側には、下りの道が暗い木々の奥へと続いていた。半ば枯れた幹が鉄格子の様に立ち並ぶ中を、僕は歩いていく。同じ様な木がずっと奥まで無数に続いていて、そのうちに僕は周りの木々が歩みに合わせて動いている様な錯覚にとらわれた。つかず離れず彼らは僕を取り囲み、どこまでも執拗に追いかけてくる。「逃れることはできない」と彼らは訴えている様だった。そしてその声は、僕にあるテーマを思い出させた。
 それは人間関係をうまく結べない僕の免罪符であり、また僕が僕である為の一つの根拠の様なものだ。人と人との交わりの背後にある法則の様なものを、僕はいつも感じて生きてきた。それは絶対的な法則で、夜空に浮かぶ月と同じ様に、社会や文明のはるか遠くに位置し、どこまでも僕を追いかけてくる。そして、追い立てられた僕はついにこんな山の奥にまでやってきた。
 「逃れることはできない」
彼らの声が再び響いた。我に返った僕が見つめる目の前で、崩れ落ちた土砂が行く手を遮っている。僕は行くべき道を失った事を知った。

 僕はしばらくの間、土の中に埋まった木の根が身悶えるのを見ていた。すると背後でカランと音がする。振り向いた僕は一本の杖を見つけ、身をかがめてそれを手に取った。立ち上がろうとしたその時、視界の端に地下足袋を履いた両足が見えた。慌てた僕は顔を上げる事も出来ずに、その杖を差し出した。
「ど、どうぞ」
杖の持ち主から返事があるまでしばらくの間があった。
「す、すいません」
その高い消え入りそうな声に、僕は思わず相手の顔を見た。大きな丸い菅笠の下からは、小さな瞳が伏し目がちに僕を見ている。それは女の子だった。杖を受け取ったその手が少し震えている。僕は立ち上がり、あらためて彼女を見つめた。小柄な体は白装束に包まれ、腰には鈴をぶら下げていた。
「あ、あの、お、お遍路さんみたいですね」
頭の中の言葉が自然と口をついて出た。僕はすがる様にその返事を待った。彼女は時間が止まったみたいに黙り込む。長い沈黙があって、やがて僕の胸に後悔の塊が落ち込んできた。僕はその場を逃げ出そうとした。三歩目の右足を踏み出した時、彼女のか細い声が耳に届いた。
「は、はい」
振り返る僕を真正面に見つめて、彼女は言った。
「テ、テレビで見て真似したんです」

 僕達は切り株に座り、少しずつお互いの事を話し始めた。彼女もまた人との交わりが苦手な様だった。
「私ね、挨拶ができないの」
彼女は言った。
「会社に行ったらね、おはようって挨拶するでしょ。でもね、私、声が小さいから、みんなに『えっ』って聞き返されるの。大きな声を出そうとしてもね、なんだか私がみんなの邪魔になる様な気がして、出せないの」
「よく分かるよ」
僕は答えた。それは僕も同じだ。
「昼休みにみんなといてもね。何を話したらいいか分からなくって黙ってるの。みんなが話す事に私は興味を持てないし、持てる様になる気もないの」
「なぜだか、分かる?」
僕は聞いてみた。それはこれまでに何度となく僕自身に繰り返した問いと同じだった。彼女は膝の上に置いた手をしばらく見つめた。
「私は人を愛する事ができないの」
それは多分、僕への答えでもなかったのだと思う。
「だから私、お付き合いとかもした事がないし、結婚して子供を生んだりとかもしないの。私はひとりのまま終わるって決めてるの」
 彼女は両手を見つめ続けたままだった。僕は木々の奥に斜めに差し込む光の筋を見ながら、人を愛する事の意味について考えた。光の中を細かい無数の塵が浮いたり沈んだりしていた。でも、その限られた光の中に彼らが留まっていられるのは、ほんのわずかな時間でしかなかった。僕は思った。僕らの限りない愛は、有限の世界で泣いている。そして、僕と彼女は泣く程の力さえ持てないでいるのだ。
 光の中をさまよう塵を見たまま、僕は言った。
「よければ、僕と愛しあってみませんか」
彼女はやはり両手を見つめたまま動かなかった。僕もやはりいつまでも塵を眺め続けた。

 気がついて隣を見た時、既に彼女の姿はなく、一本の杖だけが僕の手に残されていた。時計を見るともう4時を回っている。僕は眠りこんだらしかった。崩れ落ちていたはずの土砂もそこにはなく、下山をうながす西日が僕の目を射った。僕は山を降りる。太陽が沈もうとする頃、僕はお地蔵さんの前にまで戻ってきた。夕日が赤く照らし出したそのお地蔵さんの手には、僕が立てかけたはずの小枝がない。
 「僕らは愛しあえるだろうか」
ひとりの僕はそっとつぶやいてみた。
山の遍路 narutihaya

ホットカルピス
ねぎ

 風が強く、寒さの厳しい夜のこと。
 仕事仲間と酒を飲んだ帰り、電車待ちの間にホームの自販機で缶コーヒーを買おうとしたところ、僕は誤って隣のボタンを押してしまった。酔いのせいだったのかもしれない。取り出し口に姿を見せているのはカルピス。舌打ちをしながら、缶を取り出す。季節柄か、それはホットであった。冷え切ったベンチに腰掛けながら、両手で温かな缶を握る。フタを開けると湯気と共に甘ったるい香りが立ち上った。
 カルピスの温かさと甘さが口の中に充満した時、僕は唐突に何年も前に飲んだホットカルピスのことを思い出した。

 中学2年の冬のある日。友人の家からの帰り道、僕は「少年ジャンプ」を買うためにコンビニに入った。少年ジャンプに手を伸ばした僕を、隣に立っていた女性が見ているのに気づく。
「あれー、大槻君じゃない?」
 僕はそう呼ばれてびっくりし、雑誌を落としそうになった。声をかけた女性には、確かに見覚えがある。
「大槻君でしょ?2年E組のクラス委員の。私のこと忘れちゃったかな?」
 すぐに思い出した。夏の間2週間、僕達のクラスに教育実習生として来ていた椎名先生だった。
「しいな・・・先生ですよね?」
「嬉しい!憶えていてくれたんだ。髪切っちゃったから分らなかったでしょ?」
 笑いながら彼女が僕の肩においた手の感触は、急激に記憶を蘇らせた。

 その手は夏の間の短い期間、確かに僕をドキドキさせたものだった。クラス委員の僕は、教育実習生だった彼女との連絡係を任された。「若くて綺麗な」教育実習生の登場はクラスにとって大事件であり、連絡係に任命された僕はクラス中からダイヒンシュクを買い捲った。女子生徒からは「スケベ委員」と蔑まれ、男子生徒からは「ヌケガケ委員」とののしられた。それでも僕は少しも気にならなかった。用事も無いのに実習生の控え室に行っては「何か手伝いましょうか。」と彼女に声をかけたりした。彼女は笑いながら「大槻君、有難う。」と僕の肩をポンと叩いた。その時のシビレルような感触をクラスの友人に吹聴し、上履きでひっぱたかれたりしたのを思いだす。2週間という短い期間の「大人の女性」への淡きアコガレだったような気がする。

「私の部屋、すぐ近くのアパートなんだ。寄っていかない?」
 椎名先生はそう言うとさっさと買い物を済まし、すたすたと歩き出した。並んで歩く彼女の髪からは良い香りが漂っている。何度も「懐かしいねー。」を連発する彼女の笑顔に、セイショウネンの心は舞い上がってしまった。
 3分間ドアの外で待たされた後、初めて女性の部屋に上がった僕は好奇心の命ずるままにあたりを見回し、「やーねー、大槻君、あんまり見ないでよー。」とたしなめられた。「ビールっていうわけにもいかないしー、あ、ホットカルピスでいいかなー?」と言われ「は、はい!」などと直立不動で答える。座布団を勧められようやく座った僕に手渡されたマグカップからは、甘い湯気が立ち上っていた。
 彼女は自分の分を持ってくると僕のすぐ近くにぺたんと座り、「暖まるわよー、冬はこれに限るね、うん。」と笑った。僕は恥かしさで彼女の顔を正面から見ることができない。グラスに入れたホットカルピスを飲んだ彼女が「あち!」と言って首をすくめた。そうして笑いながらグラスの口紅を指で拭う。一挙一動がセイショウネンを魅了した。彼女はよく笑い、「えー、そうなの?わー、懐かしいなー。」と繰り返した。

 取り留めのない話をしているとドアのチャイムが鳴った。椎名先生と目が合う。会話が急に途切れ、行き場を失う。彼女の顔が確かに一瞬曇った。彼女は僕の顔を見ながら「誰かしら。」と言って立ち上がる。その目はもう笑っていなかった。

「なんだ、誰か来てんの?」
 それは若い男の声だった。いくら鈍い僕でも男がどういう存在か見当はつく。
「だーかーらー、あんな事で怒んなよー。なに、新しい男?」
「違うわよ。教育実習の時のクラスの生徒。」
 彼女の声はこわばっていた。息を潜めていた僕はゆっくりと立ち上がり、振り返って小さな声で「おじゃましています。」と頭を下げる。背の高い長髪の男だった。男は僕のほうをチラリと見ると馬鹿にするような口調で言った。
「子供じゃねーか。」
「子供」という言葉がツキンと僕の胸に刺さる。
「ごめん、お願いだから帰ってよ。」
 男はしばらく僕と椎名先生を交互に睨んでいたが、ドアの向こうに姿を消してしまった。

「ごめんね。大槻君。かっこ悪いトコ見せちゃったね。」
 椎名先生はドアのほうを向いたまま僕に謝った。その後姿は夏の2週間の間、彼女が一度たりとも見せたことのない淋しそうな背中だった。僕達2年E組のヤロー共の心の中に憧れのような淡いアコガレを抱かせた椎名先生ではなく、どこにでもいるような、女性の細い肩がそこにはあった。
 僕は何をどうしてよいか分らず、もう一度座ると黙ってマグカップを両手で持ち上げた。カルピスはすっかり冷めている。やがて彼女も戻ってきて座るとカルピスを口に運び、そしてまたグラスの口紅を指で拭い取った。彼女の顔は心なしか青ざめているようだった。

 ポツリポツリと会話が始まったが、部屋には変な緊張感が漂い、二人とも先ほどのようには盛り上がれなかった。何か取り繕うとした間抜けな僕は「あ、あの、そろそろ僕帰らなきゃ。」と言うのが精一杯だった。彼女は「そう、今日はいやな思いさせてごめんね。」と小さな声でまた謝る。
 玄関で靴を履く僕の背中に、椎名先生は「ねえ、大槻君。一つお願いがあるの。」と声をかけた。僕は振り返る。
「なんでしょうか?」
 彼女は泣いているような、笑っているような、そんな顔で続けた。
「お願いだから、いい男になってね。約束してくれる?女を泣かせるような、いやな男には絶対ならないって。」
 彼女がなにを言おうとしたのか、その時は理解できなかったが、その真剣な眼差しに、僕は思わず「はい。」とだけ答えた。椎名先生が寂しそうに、にこりと笑って頷く。

 アパートを出た僕は暗い空を見上げ、椎名先生の為に、「いい男」になりたいと思った。女性を泣かせるような男にはなるまい、と思った。何をどうすればいい男になるのかは皆目検討がつかなかったが、そんな事はどうでもよかった。

 あれから幾つもの冬が過ぎた。果たして「いい男」になれたのだろうか。ホームに滑り込んで来る電車の音で我に返った僕は、ぼんやりとそんな事を考えながら立ち上がり、温もりを失ったカルピスの缶をゴミ箱に捨てる。ため息と共に吐き出した甘い息は、あっという間に闇の向こう側に飛ばされていった。
ホットカルピス ねぎ

運命の車
林徳鎬

四月に入り冬の厳しさも幾分おさまると、断続的に晴れ日が続くようになった。
二年目になってスーツにもずいぶん慣れた気がしたころだった。

薄い雲一枚の空を見上げ、今日もいい天気だ、と思い、それから暖かいと感じた。
暖かい、と感じたのは随分とひさしぶりで、その感想に自分でもちょっと馴染まないかんじが、なんだか心くすぐるような悪くない気分にしてくれる。

人のいない喫煙コーナーで煙草に火をつけ、線路を照らす陽に目を細め、彼女との問題を考える。問題には小さな入り口があって、中は複雑な迷路のようになっている。迷路の壁を鉛筆で越えることは簡単だった。でも出口がないからそうすることに意味はない。愚直に道をたどって迷うことにも意味はない。でも大抵の人間は道をたどるほうを選ぶ。僕もそうだ。

いま、心の中には迷路と、彼女とのいままでと、これからがある。
それがあわさって不安定な塊になっていた。

 ゴウ、と風を切り、先頭の車両が目の前を走り過ぎていき、十何両目かが忠実な運転手付きの車のように目の前でぴたりと停まると、僕ははその不安定な塊が予感めいたものを帯びたように感じた。
塊は四角でもなければ三角でもなく、かといって丸いわけでもなく。
心の中は覗けないが、そこではいつもなにかが形を変えながら動いている。
ずるずると転げていってしまう危うさと、胸をどきどきさせるなにか。。
そんなことを思いながら、人のまばらな電車に乗った。
腕時計は11時17分を指していた。

午前11時過ぎの電車には空いた座席がちらほら見え、端の席の前に立った女性が座る気配もないのでそこに収まることにした。
電車の中にも春がきたみたいで、後ろの窓ガラスをとおって春の粒子みたいなきらきらしたものが僕の頭にあたり、ひざの上にもこぼれている。
僕はガムを取り出して、顔を少し横に向け、その粒を口のなかで一緒に噛んでみるつもりでもぐもぐと少し大げさに、人にはわからない程度に動かしてみる。 でも本当に誰も気付いてないかと気になって、向かいの席に座っている、まぶたを半分閉じたグレーのスーツ姿の男に目をやり、それからわずかに顔を上げて、目の前に立っているスーツの女性を見た。

それで、それが彼女であることがわかった。
靴はケンカして別れた昨日と同じだったが、ストッキングは履いていない。
僕は中吊り広告に目をやるふりをして彼女の顔を下からのぞいてみたが、彼女は僕の頭上の景色を眺めていて僕の視線に気づきそうもないので、少し観察してみることにした。細いあごと小さな鼻の穴と清潔な服装、声はかけない。
会社に行く彼女に軽い念を送ってみて、それから本当に中吊りを眺めることにした。

彼女とのいままでと、これから。迷路。

池袋を過ぎ、終点の新宿が近づくと彼女はドアの近くに移動して、すばやく腕時計をチェックした。 電車が停まりドアが開くと、彼女はひとり階段のほうに急ぎ歩いていき、僕は車両に残った小さな人ごみが吐き出されるのを座って待っていた。
折り返しに乗り込む人が入る前に僕は電車を降り、階段を上って7番線、中央線快速の乗り場に向かう。
連絡通路で掲示板を見ると、中央線快速は11時37分に発車している。僕の腕時計は11時38分。つぎの電車が5分後に来ることを確認し、ゆっくりホームへの階段を下っていく。電車がドアを開けたまま停まっているのが見える。階段を下ってもまだ開いている。
僕はさっきの電車に乗る前に感じた、あの予感のような、ちょっと変わった感覚の中に自分がまだいることわかった。胸のなかの塊を触ってみたかった。でも触れない。それがどんな形なのか見てみたかった。でも見えない。
しばらく泳いだ後に、脱げてしまっていないか、水泳用のキャップを手でさわって確かめてみるのに少し似ている。とにかくまだあの予感のなかに自分がいることは確認できる。また同じ電車で彼女に会うかな、と思った。
考えることが多くて、いまはケンカもしているし、話をするタイミングではない。
でも、胸の中ではなにかが変わっていた。いままでと、これからが作用して形を変えていく。

事故?
電車は完全に停まっている。
大きな音声にもかかわらず聞きとれないアナウンスがホームに響き、なにかを説明した最後に「・・お急ぎのお客様に大変ご迷惑をおかけしております」と言うのがわかった。
やはり事故が起こったのかもしれないと見当をつけると、胸騒ぎがした。
塊の形はわからない。三角でもなく四角でもなく丸くもなく。でも危うい。
その場で少し立ち止まってみたがアナウンスは繰り返されないので、開いたままのドアから車内に入り、車内アナウンスが流れないかと耳をすましてみる。平日のこの時間でも中央線は混みあい、定刻に発車しないことにいらついている人がいることも表情からわかった。僕は乗客の会話に注意したが、誰も話をしている人間がいなかった。 なんで誰も話をしないのか、そのことに苛立ち、車内が暑く感じた。

辛抱強くアナウンスを待つ。

僕の前に座っていた男が携帯電話を取り出して車外に出ると、しばらくしてドアが閉まり、アナウンスが流れ、神田駅で事故があったことを知らせた。
なんだ別の場所か、と思い、隣りの女性が席に座る気配がないので僕は目の前の席に腰を下ろし、それからふと顔を上げた。

目の前に立っているのは彼女だった。
あらためて胸を撫で下ろすと、僕はあの例の感覚が消えていることに気づいた。
へんに思ってスーツの上から自分の胸元をみた。
スーツの合わせ目から覗いてるのは、三角でもなく四角でもなく丸でもなく。
ハートだった。それがあった。
転がって転がって、塊はハートになっていた。
彼女が僕のほうを見た。

「ハート」
電車に揺られ、運ばれ、塊は転がり、胸にハートを作る。

「こういうのを運命と呼ぶのはどうだろう?」と僕は言った。
運命の意味についてはたいして考えなかった。
ただ日頃ロマンスの欠けた生活を送る僕たちには、こういう言葉がたまには必要だと思ったのだ。彼女はそれに概ね同意してくれた。言葉少なく話しあい、運命とは二人が電車に乗りあわせるようなものだということでお互いに納得した。
一駅乗り越していたので彼女は急いでその運命の電車を降りた。11時47分だった。

彼女とのいままでと、これから。
電車は迷路をたどり、運命的にハートの在処を示してくれた。
それはもちろんゴールではなく、また、以前いた陽のあたる居心地のいいところでもない。もっとずっと複雑で、硬いかんじがした。

僕はこれ以上形が変わらないように(丸になっては困る)ハートをカバンにしまって、彼女に教えてもらった店の電話番号を携帯で調べた。
電車で二十分くらいの所にある。会社から帰ったら二人で祝うつもりだった。
人事にハートのことでなにか言われるかもしれない。ロッカーに預けていこうか。
かばんはハート形に大きく膨らんだ。他のものを捨ててしまおうかと思ったが、そんなことをしたらかばんの中身をほとんど空にしなければいけない。
さんざん悩んだが、やはりハートは駅のロッカーに預けることにした。
そのかわり今日は5時に帰る。5時になったら駅に走る。
電車を降りると、見晴らしのいいホームから、街が春の粒子で溢れているのがはっきり見える。すべてが単純に思えた。
これは四角でもなく三角でもなく、丸でもない。ハートであって、運命なんだ。
みんなにはそう言おう。
運命の車 林徳鎬

PIB
ごんぱち

「PIB?」
 ヘンリー・アンダーソン博士は、コーヒーを混ぜるスプーンを止める。
「なんだい、そりゃ?」
 声が大きかったのか、ウェイターがちらりと彼らの方を向いた。
「プリースト・イン・ブラック――『黒衣の僧侶』です」
 テーブルの向かい側で両肘を突いたまま、ロバート・フォードが頷いた。
「聞いたことないですか?」
「ブッディストの事かい? インクで染めた服を着るとか何とか」
「博識ですね、ヘンリー君」
「サウスカロライナの田舎医者が、宗教に詳しくちゃおかしいかい?」
「いや、ちっとも。ですが、私が言いたいのは、それとは違うんですよ」
 白髪混じりの髪を、ロバートはさっと掻き上げる。
「その、ヘンリー君、君の内臓……ええと?」
「臓器移植だよ」
「そう、臓器移植の研究室に放火したのが、PIBかも知れないってことですよ」
「へえ」
 ヘンリーは笑って紙巻きタバコに火を付ける。
「じゃ、そいつらに、日射病を起こすから夏は白いのを着ろって伝えといてくれ」
「冗談を言ってるわけじゃないんですよ」
 ロバートがヘンリーを見つめる。
「噂ではPIBというのは」
 顔のシワが、ぐっと深くなった。
「キリスト教の権威を保つために活動する、ヴァチカンの実行部隊だとか。キリスト存命中から護衛部隊として存在したとも、十字軍のサポートをしていたとも、錬金術師を抹殺したとも言われています」
 一瞬だけ、沈黙が訪れた。
「ぷ、ふぁははははは、こりゃ傑作だ!」
 笑いながら、ヘンリーはコーヒーカップをテーブルに置く。
「貿易商ってのは、僕が思っていた以上にユーモアのセンスがあるらしい」
「真面目に聞いて下さい」
「二十世紀になろうってこのご時世に、十字軍とはね」
「ですが!」
「いい加減にしないか」
 ヘンリーの顔から笑みが消えた。
「二十年ぶりの友人との会話のきっかけに、話題を振っただけだ」
 二本目のタバコに火を付ける。
「『へえ妨害されてるのかい、自宅で研究しなきゃならないなんて君も大変だね』で済む話だろう?」
「……いえその、すみません」
「おいおい、そんな顔するなよ。僕が悪いみたいじゃないか」
 ヘンリーは灰皿の上で、タバコをもみ消す。
「一杯奢るから、それで仲直りだ」
 にっと笑って、ヘンリーは親指を立てた。
「はい」
 ロバートはホッとした風に笑った。
「そういうことでしたら少し待って貰えますか? お父さんに電話をしたいので」
「ああ、構わないよ」

 数日後の朝。
「これは……」
 書斎中に血の匂いが立ちこめていた。
 ガラスケースの中にいた被験体の猿たちは、殺されひとまとめにされていた。
 皆、鋭い刃物で滅多切りにされ、原形を留めていない。壁には血で「研究を中止しろ」と殴り書かれていた。
「また……またか」
 歯がみしながら、ヘンリーは死体を拾い上げていく。
 頚、腕、脚、眼球、舌、皮膚、心臓、肝臓、膵臓、腎臓――。
 バラバラにされて混ぜられた死体は、どれがどの被験体のものか、まるで区別がつかない。
 震える手でヘンリーは肉片を分類していく。みるみるうちに、彼の服は血に染まっていった。
 ――と、その時。
 彼は心臓に顔を近付けた。
 切り裂かれた分厚い心筋に、血まみれの心膜がへばりついていた。そして、大動脈。
「……ない?」
 大動脈にあるはずの縫合痕――移植手術の傷が、なくなっていた。拒絶反応が起こらずに、同化し始めていた。
「せ、成功だ、成功していたんだ!」
 ヘンリーは心臓を持って、立ち上がり、一度転んでからもう一度立ち上がり、ワルツのステップで一回転して、臓器の山の上に仰向けに倒れ込んだ。
「ははははは、あははっ! やったぞ、これで僕の理論はこれで立証された!」
 寝転がったまま、心臓を高く高く差し上げた。

 ヘンリーの家にロバートが現れたのは、夕暮れ間近になってからだった。
「すまなかったね、突然呼び出した上に、何のもてなしもできなくて」
 ヘンリーの表情は喜びに満ちているが、顔自体は紙の様に白い。
「家族も召使いも出払っていてね」
 ロバートを客間に案内したヘンリーは、バーボンをグラスに注ぐ。
「とにかく呑ってくれ。祝杯だ」
「祝杯?」
 不思議そうにロバートはヘンリーを見る。
「移植した心臓の血管がくっついた。成功したんだよ」
「それは、凄い!」
「ああ。最高の……気分だ」
 言葉とは裏腹に、ヘンリーの顔が暗くなる。
「ひょっとして……また、妨害を?」
 ヘンリーは頷く。
「被験体が、切り刻まれた」
 彼は上着の内ポケットを見せる。大型の軍用拳銃のグリップが見えていた。
「研究成功の嬉しさと、次は僕かも知れないという恐怖で、どうにかなってしまいそうだ」
 すがるような目で、彼はロバートを見る。
「今日中に論文を仕上げて、明日には郵送する。その間だけでもいてくれないか、迷惑でなければ?」
「水臭いですね、古い友人の危機を見過ごせるわけないでしょう」
 ロバートは固い笑顔を浮かべた。
「……すまない、ロバート」

 その夜。
 時計が午前一時を打った。
「完成……した」
 ヘンリーは書き上がった論文を抱え、椅子から立ち上がる。
 死臭がたちこめる書斎から、廊下に出た。
「ロバート?」
 廊下の壁際の椅子には、ロバートの姿はなかった。
 一つ身震いをして、ヘンリーは電灯がつけたままになっている廊下を歩く。
「一体どこだ?」
 寝室のドアを開けた。
 真っ暗な部屋の中に、人の気配はない。
「妙、だな」
 呟いて、窓に目を向ける。
 曇り空に月明かりはなく、外はよく見えない。
 ――と、その時。
 何の影が、窓の外を横切った。
「だ、誰だ!」
 ヘンリーは、慌てて拳銃を引き抜く。
 瞬間。
 家中の明かりが消えた。
 震えを押さえ込みつつ、彼は左手で論文を抱きしめ、右手は拳銃を構える。
 息を詰める。
 心臓の鼓動が、身体中に響き渡る。
 すぐ背後に。
 いや、目の前か。
 震える指先が、引き金にかかる。
 闇に心が押し潰されそうになった。
 その時。
 いかなる奇跡か、雲が途切れ柔らかな月明かりが窓からこぼれ、闇が払われた。
「……おお神よ」
 ヘンリーの感謝に満ちた呟き。
 窓の向こうに、影が舞い降りた。
 影は、古いカトリックの法衣を身に着けていた。本来、白を基調に作られるはずの法衣はしかし、闇の色をしていた。
 雲がゆっくりと月を隠していく。
 悲鳴と銃声の後、闇と静寂が訪れた。

「――異常な研究内容に没頭する余りに精神衰弱を起こした、というのが医者の見立てですな」
 ロバートを迎えた警官は、ざっと説明した。
「そうですか……」
「妻子と召使い、計四人を実験材料として使い、惨殺。まともな神経で出来る事ではありませんからな」
「優しい男だったんですが」
 暗い顔で、ロバートはうつむいていた。
「ヘンリーは、どうなるんですか?」
「まだ取調中ですが、まあ多分病院送りでしょうな」
「そうですか。有り難うございました」
「いえいえ。こちらこそ、お忙しいのに捜査に協力していただきまして」
 警官は一礼した。
「ええと、今日出航でしたな、送らせましょう」
「恐れ入ります――と、その前に、電話を貸して頂けませんか?」
「どうぞ」
 電話を借りたロバートは、小声で話し始める。
「――はい、ええ」
 寂しげな笑みを浮かべていた。
「完了しました――そうですか、分かりました。いえ、平気です」
 ロバートは、話しながらスーツケースの取っ手を握った。
「すぐに戻ります、ファーザー」
PIB ごんぱち

呟くのは、さよなら
有馬次郎

  空の雲は、蒼色に白く浮かび立って、もうすでに初冬の高さにあった。
 
 私は、いつもこの季節になると、哀しい予感とともに競馬場の正面ゲートをくぐる事になる。
 いつも、今日の同伴で最後ねと自分の心に言い聞かせてきた。
 特観席のシートで彼と肩を並べて新聞のオッズ表に目を通していると、そんな時にきまって森の香のするコロンが漂ってくる。頼りがいのある香に私はいつも幸福の苦笑いを浮かべたものだ。
「紅茶あるわよ。ねえ飲む?」アラジンのポットからコップへ注ぎながら私は聞き返してみた。
「飲むよ。ブランディーをヒップフラスコから少し垂らしてみて」
「昼間からだと、酔うんじゃない?」
「もう、酔ってるよ、酒にも君にも。同じようにして君も飲めよ。ほんとに温まるから」
 
 白髪が少し目立つようになっても、この人は少年のままだ。コップにキスをして彼の目尻の皺を見つめながら、いつものように手渡す。口紅がほんのりと彼の中に入り込むようにして。
「子供さん、大きくなったでしょうね」私は、伏目がちに聞いてみた。
「ああ、中2だ。サッカーに夢中だよ」彼は、私の肩を右手で抱きながらぼんやりと応えた。
 彼の左肩に頬をあずけてみると、窓越しに見える芝の蒼の風景とサラブレッドの毛色の見事なコントラストに息を飲みそうになる。

「あれから、10年経つのね・・・」
 私は彼と出逢ったテニスコートのベンチの木漏れ日を思い出していた。
 ペアルックの良く似合う奥さんとダブルスの試合の真っ最中だったと思う。その時にベンチにいた私にボールが飛んで来て、それを手渡しただけの関係だったのに。それから何度かコートで顔をあわせるうちに、私の方から惹かれていったのだ。
 それから、会うようになり私の職さがしまで手伝ってくれたりもした。広告代理店のフォトコーディネーターをやれているのも、彼のおかげだ。
 一度妊娠したことがあって彼に相談した時のことは生涯忘れない。彼の瞳が哀しい程優しかったのが今でも心残りだけれど。
 はっきりしなかった私と、はっきりし過ぎていた彼。
 もし子供が生まれていたら、たぶん、サッカーをやっているだろう。
 今日は、そう言ってみたかった。コンパクトに映る瞳は、まだ彼を彷徨っている。
 
 今年の有馬記念で11回目か。今日ですべてを諦めよう。今日ですべてを忘れてしまおう。最終レースまでにすべてを飲み込んで、明日から独りで生きていこう。だって、最初から独りじゃない?と鏡の自分にもう一度、問いかけてみた。
 私は、3連のプラチナリングを左手の薬指から抜き取りながら、ポケットに突っ込んでみた。
 彼のさり気ない視線の中で、それは一番女性らしくて、女性らしくない仕種だと気づいた。
「おまえ、いくつになった」
「え、なによ急に。来年は年女よ」
「この最終レースの雌の4才馬が人間の年齢では三十代後半くらいなんだよ。君と同じだ」
 私は、その馬の枠に赤のサインペンで二重丸を大きく書きながら、叫ぶように彼に言った。
「私、その馬に賭けてみるわ。ビリでもいいのよ、ビリでも。シムリーローズに賭けてみる」
 ビリになって、最後は捨てられる雌馬は、人生のパドックで、どんな夢を見ていたのだろう。
 私は、思い出せない。

『最終レース、各馬一斉にスタート・・・第1コーナーを回って本命のルッセルドルフが先頭をキープ・・・間隔を一定に保ちながら、大勢のファンの歓声の中、優雅な走りで引き離しにかかっています』
「私の買った馬はビリから2番目ね。やっぱりダメか」
「僕も買ってんだぜ。大穴を。君には内緒だけど」
「あの雌馬みたいに、今まで私に賭けてくれてありがとう」
 彼の笑顔が霞んで見えない。
「あの馬が負けたら、もう終わりにしましょう」
「何をいまさら、馬鹿な事言うんだよ」
「終わりが見えてるギャンブルも、スリルがあるわ。優勝するわけがないと思っていてもね」
『第4コーナーを回って、最後の直線です・・・シムリーローズ、もの凄い健脚で追い込んでいます・・・勝利の女神が嫉妬したのか・・・シムリー・・・残り200メーター・・・ああ追い付いた・・・あ鼻差でゴール!ああ!ルッセルドルフの優勝です。無念、シムリー!観客席からは馬券の紙吹雪きが舞ってます』
 私は目を閉じて、彼の横顔を見ている振りをしている。涙が溢れないようにしながら。
 大歓声が遠くで反響している。数えきれない馬券が大空に舞って風に吹かれているのだろう。
 まるで真空の中に閉じこもっているように、私と 彼は静かになった。
 俯いたまま、ポケットのリングをさがしていると、いつの間にか、彼がそれを持っていた。
「何で、終わりにするんだよ。生涯の友人じやないか」
「キスしてもいいかい?」
「友人同士では、しないものよ」
 彼は、リングを口に入れ、私を抱き寄せた。指で私の涙をすくって、キスで指輪を返してきた。要らないと拒否したくても、それは私の味がして、とても切ない気分になった。
 拒否をする私の舌が、肯定する彼の舌を不思議なくらい自然に受け入れていた。
 
 私は目を開いてみた。彼の顔越しに見える大空がこんなに高くて蒼いとは思わなかった。その一瞬、少しだけれど心の扉が開いたような気がしていた。
「友人だから、離れるな」
 彼はそう言いながら、器用にタバコに火をつけた。
 彼のタバコの煙りが、私の頬を撫でるようにかすめ流れていく。
「あいつ、再婚するって。坊主も新しい父親になる男を慕っているらしい。皮肉なもんだ」
 彼は、照れ笑いを浮かべながら、ぽつりと独白した。
「か、悲しくないの?」指輪が邪魔をして、うまく発音できない。
「嬉しくないのか?」彼は、真顔で聞き返した。
 私は両手を彼の背中にまわして、もう一度だけ真剣に見つめなおした。
 もう一度唇が重なって、私はリングを彼の口へ押しやってみた。
 照れながら、自分の口からリングを取り出して、彼は言った。
「あの文字、読めるだろう?」
 電照掲示板のオレンジ色に輝く文字がTVモニターに映っていた。
「GOOD LUCK!っていい響きだな。幸運か・・・永遠の香がする」
 彼は、13年前のあの時と同じ哀しいほど優しい目をしていた。
 私は、今日の帰り道を心の中で辿りながら、もう一度だけ彼とキスをした。自分が歩いて出て行くのは西ゲートで、彼とは正反対だということを噛みしめながら。
「ねえ、GOOD LUCK!ってさよならの時にも使うのよ。じゃ、がんばってねって。知ってた?」
 私の腰にまわした彼の手の力が抜けるように弛んだ。
「向こうのパドックの方にあるのが、正面ゲートだよね」
 彼は、私を振り返ることをしなかった。もう歩き始めていた。

「もう会わないわ!」私は声を出した。
 
「正面ゲートで待ってる」
 特観席の出入り口扉の前で彼は振り返りざまに手を振りながら白い歯を見せて言った。

 私は、西ゲートを出て正面ゲートへ歩いて行く自分を想っていた。
 どのゲートでもよかった。心の行方は、リングしか知らない。
 本当のさよならの意味を 、彼に会って確かめてみたかった。
 
 赤鉛筆を耳に挟んだ隣のおじさんが、『グッドラック!』と肩を押すように言ってくれたのがいつの間にか涙に変わって、私はやっと席を離れる決心ができた。 
 来年もこの場所にくる予感が、ほんの少しだけ漂っていて、私は今を生きてみようと思い始めていた。

 歩きながら大空を見あげて呟いた。
呟くのは、さよなら 有馬次郎

コールガール
ぶるぶる☆どっぐちゃん

 信号を渡り、扉を開ける。
 カーブの緩い星形で、掴みにくいノブだった。
 スクランブル交差点の先には無数の扉がある。交差点を渡った人々はそれぞれに扉を開ける。赤。青。黄色。緑。白。黒。また赤。今度は灰色。そのように色分けされた扉がずらりと並んでいる。
 最近また扉の数が増えてきた気がする。
 開けた扉の向こうには代わり映えの無い街の景色が広がっていた。
 街の構造というものは何百年と変わりが無いらしい。百年前から街はビルと扉と窓と螺旋階段で構成されているという。百年前と同じ景色を、今あたしは見ている。
 あたしは歩き出した。道は路地裏路だった。路地裏路は複雑だ。横道と横道と横道が迷路のように絡まっている。横道に逸れ、横道に逸れ、横道に逸れている内に、あたしはすっかり迷ってしまった。
 辿り着いたのは行き止まりだった。道を尋ねたあの可愛い顔をした片目の少年は嘘を吐いたのだろうか。
 だがそれでも良かった。路地裏路には行き止まりは無い。行き止まりには扉がある。
 あたしはあの少年の顔を思い出そうとした。思い出せなかった。あたしは扉に手をかけ、押し開いた。
 飛び込んでくる光の強さに目を細めた。飛び込んできたのは光だけではない。歓声。熱気。あたしはやっと野球場に辿り着いた。
 試合は始まっていた。二回の表。2-2。また遅刻をしてしまった。あたしはこそこそとファールグラウンドを歩いた。頭上では、いきなりグラウンドに現れてしまったあたしなどには目もくれずに、観客は選手達に声援を送っている。
「なんて芸術的なスイングなんだー」
「考えるんじゃない、感じるんじゃ無い、ホームランだ。ホームランだよ」
「ゆっくりでいい、ゆっくりでいいから」
 あたしは歩きながら着替えを始めた。といってもブラウスとスカートを違うものに変えるだけだけども。
「やあ、良く来たね」
 ブラウスを着終え、スカートのファスナーを上げている頃に三塁側のベンチにあたしは辿り着いた。チーム1の長打力を誇るランムホーがあたしに声を掛けてくる。
「君はいつも変な所から入ってくるね」
「そうかもしれません」
 あたしは上着を羽織り、ベンチの中へと入った。
「お久しぶりです。調子はどうですか」
「ああ、調子ね」
 ランムホーはあたしの言葉にスプーンを持つ手を止めた。ランムホーはカレーを食べていた。ランムホーはいつもカレーを食べている。
「絶好調といえるな。こんなに自分が打てるなんて、信じられないよ」
「そうですか。とにかく頑張って下さいね」
「ああ」
 ランムホーはそう言うと、またカレーを食べ始めた。
 あたしはベンチを通り抜け、自分の仕事場へと向かった。
 廊下を抜けるとガラス張りの部屋がある。
 そこがあたしの仕事場だ。
 席に着き、深呼吸をする。それからマイクへと向かった。
「4番、センター、ランムホー」
 取り敢えず言ってみた。相手側の攻撃だったけど、取り敢えず言ってみた。
 反応は無い。
 観客達は、ウグイス嬢の事なんてどうでも良いのだ。
「4番、センター、ランムホー」
 もう一度言ってみても、反応は無い。
 観客達はグラウンドで大暴れする選手達を眺めて大騒ぎをしている。
「4番、センター、ランムホー」
 観客達は、ウグイス嬢の事なんてどうでも良いのだ。名前を呼ぶことしかできないウグイス嬢のことなんて、どうでも良いのだ。
 相手チームの攻撃が終わり、試合は暫しの休憩へと入った。

 缶コーヒーを片手に部屋の外のベンチに座る。
 ここに居るととても静かだ。観客達の声援も、ボールがバットにはじき返される音も、ここでは聞こえない。マイクに歪められたかき消されそうな自分の声も、ここでは聞こえはしない。
 コーヒーを啜る。ぬるいコーヒーだった。苦みが鈍く舌に残る。いくら飲んでも、缶の中身はなかなか無くならない。
 突然、静寂が崩れた。
 廊下の壁が突然開いた。扉が開いたのだ。
 扉の向こう側から、ぞろぞろと人が現れてきた。その数ざっと三十人以上。年格好は様々で男もいれば女もいたが、どうやら中心にいる人物の取り巻きのようだ。皆その人物の発言に耳を傾けていた。
「だから言っただろう、あれは二十だ」
「はい」
「馬鹿者め。だからお前はいつまでも貧乏なのだ」
「はい、すいません」
 その中心の人物は随分若く見えた。声も若かった。だが集団が近づいてきて、それで解ったのだが、その男は、怪物のように年を取っていた。
 うちの球団のオーナーだった。
「取り敢えず原木世と四来原と清原を全部獲ってこい。金に糸目はつけん。金で言うことを聞かなければぶん殴ってでも連れてこい」
 オーナーは目をいっぱいに見開き、そう叫んだ。
「勝たなければならんのだ勝たなければ」
「はい」
「はい、なんて言っても、お前達はさっぱり解っていない。勝たなければいけないと言うことがどういうことなのか、お前達はさっぱり解っていない。勝つしかないということがどういうことなのか、お前達はさっぱり解っていない」
「はい」
 取り巻き集団達ははいかにも「さっぱり解っていない」という顔のまま、オーナーに向かって返事をした。
「勝つしかないのだ」
 オーナーはまるで自らに言い聞かせるかのようにぶつぶつと言った。
「勝つしかない。勝つしかない。私にだって勝つしかないというのがどういうことか、良く解らないが、だが私には勝つしかない。勝つしかないのだ」
 オーナーと集団はだかだかと足音を立てながら、あたしの前を通り過ぎていった。
「なあ、勝つしかないだろう?」
 オーナーは最後、まるで懇願するかのように、そうぽつりと言った。

 あたしは部屋へと戻った。
 席に着き、マイクへと向かう。
 あたしはいつものように名を呼ぼうとした。だが眼下のグラウンドでは、乱闘が起こっていた。
 最初は選手二人の小競り合いだった。だがその小競り合いはどんどんと両軍選手を巻き込んでいった。
 飛び交うバット。ボール。グローブ。ホームベース。芝生を染める鮮血。消えていく白線。それらをカクテル光線が、鮮やかに映し出している。
 選手達はどんどん死んでいった。今シーズンここまで44ホーマーのラドクリフ君は、今シーズン防御率9点台のオスメントにボコボコにされ、バックドロップで果てた。そのグラウンドの惨状を見て、観客達も乱闘を始めた。
 球場内は右へ左への大騒ぎとなっていった。ピッチャーの上にキャッチャーが、キャッチャーの上にバッターが、バッターの上に審判が、審判の上に子供が、子供の上に、それを庇ったお父さんが、死体となって積み上がっていく。
 夜空へは、何をどう間違ったのか、七回攻撃時と勝利時にあげる筈の花火がのろのろと、間をおいて上がっていき、死体達を眩しく照らした。

 乱闘はあっという間に終わった。あっという間に、グラウンドには動く者はいなくなってしまった。
 あたしはどうするか、迷った。迷い、考え、結局あたしは名を呼んだ。人々の名を呼んだ。名を呼ぶことの出来るのはあたし一人だったから、あたしは人々の名を呼んだ。
 人々は背中の羽根を羽ばたかせて、実に軽々と、夜空の彼方へと飛び立っていく。
 あたしは名を呼び続けた。自らの背中に手を伸ばし、羽根を引きちぎった。羽根は手の中で幻のように溶けていった。
(オーナーの背には、羽根なんて無かったな)
 そんなことを考えながら、あたしは人々の名を呼び続けた。