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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第27回バトル 作品

参加作品一覧

(2003年 3月)
文字数
1
林徳鎬
3000
2
太郎丸
3000
3
さゆり
3000
4
伊勢 湊
3000
5
さとう啓介
3000
6
ごんぱち
3000
7
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
8
3000
9
橘内 潤
2940
10
Ruima
3000
11
松田めぐみ
3000

結果発表

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壊れたストーリー
林徳鎬

 「『影がない!』って誰かが叫んだ。通勤客からいつもの無関心さがすっと消えてさ。電車がもう入ってくるときなのに、列が乱れだした。そこでまた『影がないぞ!』って叫ぶんだ。すぐ後に金切り声がした。ホームに突き落とされたんだ。」
 その話をしたときから、法川は姿を見せてない。
 彼自身、特別にやさしいところがあるわけではない。ただ、物事に対して誠実であろうとする信念がある。今回の事件はとくにそうした種類の人間を混乱させるようだ。
 自分はどうだろうか?
 理屈は理屈によって曲げることができるし、好きなときに好きなものが選べる。精巧な飴細工みたいなものだ。だから器用にいろんなものを作れてしまう。価値感とか。信念とか。そうやって作ったものを着ているだけで、自分には信念なんてないのかもしれない。
 だから不安なんだ。飴細工なんて簡単に壊れてしまう。

 「おい、聞いてる?」
 ぼんやりしていた。周りがうるさいので聞えなかったふりをする。
 「おれ帰るわ」
 渡部の驚いた顔を背に、店を出た。

 今朝の政府発表は安堵をもって受け止められた。
 世論がひとつに落ち着いたのを確認してからの重大発表だ。それでも多くの人間が当事者となるわけだから大騒ぎだった。
 異常な事態が発生したのはほんの一ヶ月ほど前だったが、それだけの間にたくさんのキャラクターが殺された。誰と会ってもいまはこの話題だ。渡部みたいにはっきり賛成する人間も今では多い。
 携帯を見るとまだ八時前だった。藍子からの着信がある。

 「法川くん来なかったんでしょ?今日」
 うなずいて缶ビールを開ける。そうだ。それでなかったら飲みになんか行かなかった。
 「よかったと思うけど。ケンカになってるよ」
 テレビではピノキオの映像が映し出され、それから今朝の首相の発言が繰り返される。
 「これでいっぺんに増えちゃうのかな?」テレビのほうを見ながら言う。
 「どうだろう。害がなければ積極的にはやらないはずだけどね」
 一度、見たことがある。
 まだ最初の事件が報道されて数日しか経っていない頃だ。自治会が「キャラクター狩り」をやったと聞いて現場になった公園に行ってみた。砂場で倒れているのを見たとき、ワニかと思った。近くで見ると確かにゴジラだった。
 「それに影がないだけで見た目普通の人間と変わんないから。とくにエキストラなんかはね」
 「でもさ、キャラクターが悪さしたなんてほとんど聞かないでしょ?」
 彼女は怒っていた。この事件があってから怒ってばかりだ。
 「腹立つね」
 ぽつり、と言った。
 仕方ないとは思わない。でも、そう言いそうになった。

 翌日はずっと家で寝転がって過ごした。
 テレビから目が離せず、ワイドショーの言葉を頭のなかに迎え入れ、いちいち反発し、それに疲れるとチャンネルを変えて、ただ耳を浸した。話はすべて残念である、仕方がない、という言葉で締めくくられた。ワイドショーのリポーターも、コメンテーターも、どこかの教授も、みんな同じ事実を挙げ、同じ解釈を行い、同じ価値感がそれを支えていた。ただ違うのは、いつその言葉を吐くかだ。仕方ない。するとその場にいる人間はとても安心するようだった。魔法の言葉だ。とにかくたった一ヶ月の間にこうした結論に落ち着いたのは残念だった。
 残念?
 携帯が鳴った。渡部だ。
 「あのさ、昨日ごめんな。言葉が悪かった。今夜また飲もう」
 断る理由を考えようとしたが、それよりも法川がどうしているのか気になった。
 「いいよ。法川にも電話しとく」
 電話を切るとすぐに法川にかけた。長めに鳴らす。テレビでは臨時の留置所をテレビレポーターが訪れていた。拘留された人達は暇そうに、一見何の不自由もない部屋で思い思いに過ごしているが、中には書類の山を広げ机を占領している人もいる。いまのところほぼすべての人が不起訴になっている。しかし、キャラクターの大量出現と同時期から急増した死亡事故や行方不明の事件の数を考えると、どこかで辻褄が合わなければいけないので警察も必死だ。キャラクターと誤って殺された事件が相当数を占めると予想されているが、公式の発表は控えられている。キャラクターに対する殺害が現行法では裁かれないし、新たに法案を作ることもないことが昨日の発表で明らかにされたのに対し、こちらの発表は伸ばし伸ばしになっていた。それが意味するところを読み解こうと各局とも連日報道の構えだ。法川は目の前でキャラクターが殺されるのを見たと言っていた。通勤ラッシュの時間帯にホームから突き落とされたらしい。彼は「良心が死んでいく」と言っていた。たしかに反対する人はほとんどいなくなった。自治会で反対派をまとめていたおじさんも行方がわからない。電話は繋がらなかった。

 その晩飲み屋に現れたのは法川の弟だった。留守電に入れたのを聞いてやってきたらしい。法川が部屋で死んでいるのが見つかったこと、いまは実家に移されていることを教えてくれた。彼はそれだけ告げると席を立ち、何か言おうか迷ったが、誰に向かって何を言えばいいのかわからないように見えた。それはこちらも同じで、渡部は目をそらしたまま一点を見つめていた
 「では、帰ります」
 と言って法川の弟は店を出た。

 「今日も来なかったよ」
 「そうなんだ。本当に心配だね」
 家の前に着いた。
 「ねえ、じゃあさっきのニュース見てない?」
 「見てないよ。いま家の前」
 電話の向こうで沈黙があった。
 「警察の発表があったの。変なの」
 声に戸惑いがある。自分の声もそう聞こえるかもしれない。
 「後で見てみるよ」

 部屋に戻ると、とにかく眠ってしまいたかった。閉じたまぶたに力が入り、気を楽にしようと意識する。体の芯がどうしても暖まらない。
 カーテンが揺れている。布団を出てみるとカーテンの後ろで窓がわずかに開いていた。ふと目を落とすと、すぐ下の床にカエルが張りついている。曇りガラス越しのぼんやりとした月明かりが、消しゴムほどの緑色を照らしていた。
 黒い瞳、体を覆う薄い粘膜が光っている。でも影がなかった。
 動く気配のないカエルをじっと眺めた。
 これは御伽噺に出てくるカエルだろうか。ただのエキストラかもしれないし、悪い魔法でその姿を変えられた王子なのかもしれない。
 怖くなった。灰皿の隣りに置いた携帯を手探りし、藍子にかけてみる。繋がらない。耳元で鳴る軟らかい呼び出し音にじっと注意し、部屋の静けさを忘れようとした。でもカエルから目を離すことができない。
 窓をきっちりと閉めカーテンをひいた。途端に抜け殻になった布団や、本棚や、壁に貼ったポスターが闇に沈んだ。それと一緒に、胸にあった飴細工のような考えも、まとまりのない不安も、溶けて消えた。
 はっきりとわかる。
 ただカエルだけが暗闇のなか、にぶい光を放っていた。
 考えることはなにもなかった。カエルを足で踏みつけた。
 呼び出し音は同じ調子で鳴りつづけた。足に感じるぐにゃりとした感触。なにかを思い出しそうになったが思いだせなかった。法川の言っていたことだ。思い出せないまま、とても整然とした気持ちでいっぱいだった。このことを早く伝えたかった。家にいないのだろうか。さっき電話したときはどこか外を歩いているようだった。潰れたカエルを見た。なぜそうなのかわからない。誰かが死んでしまったように感じた。
壊れたストーリー 林徳鎬

時効
太郎丸

 武三がつい最近まで刑務所に入っていたという事実は誰にも知られていなかったし、老後をのんびり暮らすだけの蓄えは、確保してあった。もちろんそれは正当な稼ぎで得たものでは無かったが、もうすぐ時効、その蓄えは自分のものだという意識が強かった。
 現金輸送車を襲って盗んだ金の隠し場所は武三しか知らないはずだし、風の便りでは、その時の仲間は既に他界していたから、あの事件で見つからなかった使いきれないだろう金は、全て自分の物だ。別件でムショ入りしていたから、警察にも目を付けられていない。 武三も、いくらなんでも出所して直ぐ隠した金を取りに行くというのでは何だか見張られているようでもあって抵抗があった。だからせめて時効になるまでは静かに暮らそうと、唯一の肉親であった息子の手助けで、このアパートに落着いたのだった。
 息子からは親子の縁を切られていたが、やはり肉親という事もあって無碍にも出来なかったのだろう、毎月のアパート代といくばくかの小遣いを貰う事になった。世渡り上手な息子は、結構大きな会社の社長に収まっていて金には不自由しなかったが、世間体もあったのだろう、武三を引取ることはしなかったし、このアパートにやって来る事もなかった。

 呼び鈴の音に続いて「ごめんください」という声が聞こえてきた。太いその声に武三は玄関に向かった。
「どちら様で?」
「川村武三さんですか?」
「そうですが?}
「私、宮田通孝といいまして。宮田通雄の息子です」
「宮田、みちお」
 武三はその名前と妙に人懐っこい目で、その男が通雄の息子だと判った。
「父の事ご存知ですよね。例の件はあと半年ですから、それからの予定なんでしょ」
 通雄は現金輸送車を襲った時の仲間だ。この人の良さそうな男は恐らく奴の息子だとは思うが、用心する必要はある。
「いや誰かと勘違いなさってるんじゃないですか?」
 武三は一応知らぬ振りをする事に決めた。
「おやじが死ぬ前に教えてくれたんですよ。一緒にした仕事の手間賃を貴方に預けてあるってね。それも2億円」
 確かに「死んだら息子に金を渡して欲しい」と言っていたような気もする。だから通雄の息子に分け前を渡すのは問題ない。それどころか奴には借りがあったから、焼香代わりに渡してもいいと思った。だがもし警察関係の人間だったりしたら…。
「あぁそうそう。おやじがこれを言えば多分信じるだろうと言ってました。『つばめは切った』どういう意味かは知りませんが、納得して貰えましたか?」
 俺と奴の名前が、武蔵とその恋人お通との関係のようだったのもあっての、二人だけの合言葉だった。
「そうかあんたが通雄の息子か。半年後に例のものを出すつもりだ。それからでもいいんだろ?」
「判って貰えましたか。もちろんそれで結構です。それじゃこれから、よろしくお願いします」
 男は頭を下げると、居候させてくれとバッグを中に運び込んだ。なんとも厚かましい男だったが、翌日には仕事を見つけてきて、近所では、俺の世話をする為に田舎から出てきた息子だという事になっていた。この手際の良さには感心させられる。だが、だからこそこういう奴には、お宝のありかは秘密にする必要があるだろう。

 通孝は朝は6時に起床し、俺の分も合わせて食事を作ると俺を起こし、一緒に朝食をとって仕事に行き、夕方6時には帰ってきて又食事を作って一緒に食べるという、決まったパターンの生活を好んだ。休みの日には掃除やら洗濯やらをしてくれるから、本当に便利なお手伝いのようでさえあった。
 武三はパチンコなどをして時間を潰し、昼は弁当屋の定食で済ませていたが、通孝はそのうち朝出かける前に、昼の弁当までも作るようになったので、武三のこずかいは本当に遊ぶためだけの金になった。

「一体いくら稼いでるのか知らねえが、生活費、少しは出せるから言ってくんな」
 2ヶ月後に、武三はそう切り出した。
「親孝行出来なかったから、いいっすよ。本当のおやじだと思ってるから…。それに今まで俺ってツキが無いのか、何やってもダメだったんだけど、一緒に暮らすようになってから、なんか調子いいんだよね」
 通孝は照れくさそうに、頭を掻いて笑っていた。俺の息子に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ、まったく。武三はそんな通孝を本当の息子のように思い始めていた。

「おう、今日は夕食まだなのか?」
 通孝はいつもの通り帰ってきて、もう9時だというのに夕食を食べていなかった。
「おやじさん、何言ってるんだよ。さっき食べたじゃねえか。ほら夕飯の残りが鍋に入ってるだろ」
 台所の鍋には煮物が少しと、食べ残されたきんぴらにラップがかかって、テーブルに置かれていた。
 俺は夕飯食ったのか? 武三には食った記憶が無かった。
「腹減ってるんなら食ってもいいけど、大丈夫か?」
 武三は味噌汁に火を入れると、ごはんをよそって準備をしだした。
 腹は減っているし記憶が無いのだから、やっぱり今日の夕飯は食べていない。武三は不安になりながらもその日2度目の夕飯を平らげた。
 そして、それが始まりだった。

 通孝が仕事から戻ってくると、部屋のカギは開いていたが、武三はいなかった。今までこんな事はなかったし、この間の事もあって、通孝は不安になった。ひょっとしておやじさん、ボケたのか?
 2時間近く付近を探して、川辺リに座っている武三を見つけた。
「おやじさん。何してるんだい? もう遅いから帰ろ」
「ん…。お前誰だ」
「俺だよ。通孝だよ。一緒に住んでるだろ?」
「あぁ、そうか? …そうだったな、うん、帰ろうか」
 ぼんやりしている武三を抱えるように、通孝は家路を急いだ。
 こりゃ、金のありかを聞き出さないとマズイ事になるかも知れねえ。通孝はそう思った。時効まであと2ヶ月。通孝の不安はどんどん大きくなっていった。

「おやじさん。そろそろ金のありかを教えてくれねえかな」
「俺の金を取ろうってのか」
 通孝の言葉に、温厚だった武三は怒り出した。
「いや、又こんど話そう。いいから、落着いて。ね」
 金の話しを切り出すと、武三は怒るようになっていた。やっぱり俺の取り分の事を忘れているようだ。困った。

 最近なんだか物忘れが激しい。時効まで後1ヶ月だが、一緒に暮らしている通孝に話すのはやっぱり時効になってからの方が良い。武三は、やはり血が繋がっていないという不安からか、親切な彼を心から信じる事が出来なかった。

 そして時効の日が来た。

 武三はすっかり金の事を思い出せなくなっていた。通孝はそれでも武三の世話をしている。世話をする為に仕事は出来なくなったが、毎月送られてくる武三の小遣いだけで、何とか生活は出来た。それに通孝には、このまま放って逃げ出す事が出来そうもない。やっぱり俺はツイてないなぁ。そう通孝は思った。

 興信所から調査終了の報告書が届いた。報告では父はアルツハイマー症になったようだ。半年程前に同居しだした男は、昔の仲間の息子らしいが、時効になっても今の生活が変わらないという事は、父はすっかり忘れたようだった。奴も貧乏くじを引いたものだ。
 感謝しているからこそ、毎月仕送りしている。
 父が刑務所に入った時に、盗んだ金を横取りして今の会社を作った事は言えない。あの金は俺の実力があったからこそ、有効に使われたというものだ。
 報告書をシュレッダーにかけると、彼はたばこに火を点けた。
時効 太郎丸

お迎え
さゆり

「こゆきさん、お味噌汁辛いわよ!」
また、姑が文句を言っている。ぬかみそをかき混ぜながら、こゆきは舌打ちした。

こゆきが嫁にきた頃、姑は重度の更年期障害で苦しんでいた。実家の母は健康そのものの人だったので、この更年期と言うものの理解がこゆきにはできなかった。こゆきは二人の子を成したが、姑に抱いてもらった記憶はない。口は出すが、手助けはしてくれない姑であったのだ。彼女は自分の身体のことで精一杯で、孫を可愛がる余裕は持ってなかったように思う。

姑は家の中でも日常的に、毛糸の帽子を被っていた。頭の上を冷たい風が吹いているのだそうだ。暖かい日でも寒い寒いと震え何枚も重ね着した。ホッカイロとマスクは一年中手放せなかった。と思えば、とても元気な日もある。調子がいいと時には夜遅くまでテレビを見たりするのだ。こゆきは理解に苦しんだ。

姑のこの症状は夫が子供の頃からだったらしい。今日は頭が痛いとか、寒気がする・・・・・・等と寝込むことの多い毎日だったという。それをカバーしてくれたのは父親、つまりこゆきから見たら舅である。その当時は、農業を生業にしていたため、日々の農作業を一人でこなし、家事をこなし、子供の面倒をみたのだった。舅の働きは大変なものだったろうと推察するに難くない。

「おふくろは身体が弱いんだ」

夫は哀しげに言ったものだ。
その憂いを含んだ表情を見ると、姑との日頃の軋轢を打ち明けたくても、言葉にならなかった。疲れて帰ってくる夫に要らぬ心配をかけるのも躊躇われた。

しかし、

「な、だから頼むよ。上手くやってくれよ」
と、おどけて笑った夫は、五年前に亡くなった。
ついで舅もちょっとした風邪から肺炎を起こし、あっという間に亡くなってしまった。こゆきの二人の子供達はそれぞれ独立し、家を出て行った。かくして千坪もある敷地に建てた広大な屋敷に、こゆきと姑は二人ぽっちになったのである。

「辛いのですか。それはすみません」
「全く、何年アタシの食事を作っているのよ。こんな濃い味噌汁を飲ませて・・・・・・。殺す気?」
姑は落ち窪んだ目で、こゆきを睨んだ。
「そ、そんな、あんまりです!」
あまりの姑の言い草にこゆきはわなわなと身体を震わせた。
「それに、このお魚!」姑は続ける。
「アタシはお頭のほうが好きなのよ、取り替えて頂戴!」
「それは申し訳ないです。お母様が骨を刺したらいけないと思いまして」
こゆきは怒りを抑えてやっとそれだけ言った。

 姑はいわゆる「家付き娘」である。舅は二十歳の年にこの家に貰われてきた。余り世間の風に当たった事のない姑は常識に外れた所が多々あったようだ。「お前は社長だからな」皮肉たっぷりに舅は嫌味を言ってたものだ。姑の母、つまり大姑もかなり長生きしたので、舅も心休まることはなかったろう。ひどく口煩い大姑だったのだ。その血を受けた姑は輪をかけたように口煩い。

「魚はね、お頭のほうが美味しいのよ。全く、何年嫁をしているのかしら」
姑は萎んだ口をもぐもぐさせながら、まだ悪態をついている。

 嫁に来た当初は、今にも死にそうな様子を見せていた姑が、更年期障害が治まった後、信じられないほど健康になったのは全くこゆきの計算外であった。姑は驚くほど貪欲に健康情報を集め、確実に実践した。薄味にこだわり、自然なものを摂る為、畑で野菜作りを始めたりもした。適度な日光浴と土に戯れる生活は、確実に姑に健康を運んできてくれたのであった。姑は今年で九十歳になる。

 不器用な人であった。農家には農繁期というものがあって、その時は猫の手も借りたいほど忙しくなるのだが、そんな時に限って姑は怪我をした。それは例えば、鎌で指を切るとか、小さな棘を刺すとか。そういった類の小さな事なのであるが、姑は騒ぎ立て病院に行き、ぐるぐると包帯を巻いて帰ってくる。「医者が水には手を入れるなと言った」と水戸黄門の印籠、はたまた錦の御旗を手に入れた得意満面の顔をして、姑はみんなを見渡したものだ。

 そう、あれは九月の事だった。洗濯物に小さな蜂がくっついていて、それに刺されたことがあった。それは本当にその辺のどこにでもいる普通の蜂だったが、姑はいつものように騒ぎ立てた。数日すると、心臓が痛いと言い出したのだ。またまた、大げさな・・・。こゆきは呆れていたが、夫に頼まれ嫌々病院に連れて行ったら、なんと心電図に乱れがあったのだ。姑は即、二ヶ月の入院生活を余儀なくされた。

 自分の身体の変化には、ことの外、敏感な姑である。退院後、姑の健康オタク振りは益々冴えを見せたのだった。

「お母様、お新香をどうぞ」
こゆきは小鉢にいれたぬかみそ漬けを差し出した。
歯は勿論総入れ歯であるが、姑は実に美味しそうにお新香を噛み砕いてみせた。バリバリと噛む音がする。こゆきは、姑の生命力の強さに暗澹とした思いだった。

 心積りはあった。姑亡き後はこの家を土地ごと売って都会に出ようとこゆきは考えていた。田舎暮らしに憧れて都会からの移住者もいるけれど、こゆきには信じられない。田舎はもう、うんざりであった。土など見たくもない。自然?それがどうした。自然はいつだってどこにだってあるじゃないの。こゆきは姑の唱える「自然は素晴らしい」が反吐の出るほど嫌いだった。自然と姑と家がタックルを組んで、こゆきを束縛していた。

 姑が逝ったら、東京の高層マンションを手に入れるのだ。そしてマンハッタンに匹敵すると言われる東京の夜景を毎晩飽かず眺めて暮らすのだ。誰にも気兼ねなく過ごせる自分の城で過ごす日もそう遠くはないだろう。

 突然、落ち窪んだ目を精一杯開き姑の顔が青ざめた。
 それから、イスにちょこんと正座し、懐から数珠を取り出した。見るとわなわな震えているのだ。
「どうしたの?おばあちゃん」
驚いたこゆきに姑は「なんまいだ、なんまいだ」と繰り返した。

「こゆきさん」
いつになく改まった姑の様子だ。
「貴方がこの家に嫁いで何年になる?」
神妙な姑の声にこゆきは笑いたくなった。
「お母様、四十年になりますよ」
「そう、本当に長い間ありがとうね。お世話になりました」
え?こゆきは耳を疑った。
ありがとうなんて、これまで一度だって姑の口から出た事はないのだ。
「そろそろ、お迎えが来たみたいなの。こゆきさん」

 ああ、そうなのか!
 待ちわびた瞬間は今まさに、訪れようとしていた。

 こゆきの脳裏に走馬灯のように、姑との軋轢の日々が浮かんだ。不思議に恨みはなかった。もはや今生の別れなのだ。とびきりの笑顔でさよならしたいと心から思った。しかし、口をついて出たのは別な言葉であった。

「そんなぁ、お母様。気の弱いこと仰らないで。お母様にはまだまだお元気でいて貰わないと、困ります」

なんと言う白々しさ。こゆきはこの期に及んでもいい嫁を演じる自分に胸の塞がれる思いであった。

その時、姑の窪んだ小さな目に光が宿り、フッと小さく笑ったような気がした。
「違いますよぅ。こゆきさん」
不気味なほどに落ち着いた姑である。命を取られる瀬戸際だと言うのに。

「お迎えはこゆきさんなのよ。さっきから貴方の後ろに死神がいるの」

えっ!?
振り向いたこゆきに、死神がにやりと笑って覆い被さってきた。
「おあいにくさま」
まさかの展開のあわいに、姑が皺くちゃの顔でカラカラと笑った。

そうして直ぐに目の前が真っ暗になり、こゆきは闇に引きずり込まれたのであった。
お迎え さゆり

最後の桜
伊勢 湊

 いとこのケンジ兄ちゃんが言っていた。故郷には深い山と青い海があって、空気は澄んでいて、綺麗な小川には夏になると螢が舞う。僕の住むこの街にはそんなものは一つもない。そびえ建つビルとテレビ画面のようなショーウィンドウがあって、空気はどこか人工的な香がして、近くの幹線道路では夜になるとタクシーのヘッドライトが舞う。そんなんだからいままで考えたこともなくて、気が付きもしなかったけど、この街はやっぱり僕の故郷で、僕はこの街が好きだ。

 夕方のニュースで地方の過疎化が取り沙汰されている。シャワーで寝癖のついた髪を洗い、マンションの最上階から見るとそれほど悪くない夕日を見ながら体を拭く。少し視線を下に向けると駅の周りに蟻の群れのような人波と、まるで少し大きなだけで同じ虫のような車の列が見える。両親ももしかしたらあの中にいるのかもしれないし、あと何年かして学生時代という執行猶予期間を終えた僕もあの中へ紛れ込んでいくのかもしれない。それも、さほど遠い未来のことではないように思えた。この街では全ての時間の流れが早い。過疎化すら一日のうちに起こる。日の出とともに、その日の光を避けるように蟻塚のようなビルに飲み込まれた人々も、陽が沈めば家族の待つ郊外の街や、仲間と酒を酌み交わす繁華街へと消えていく。そうしてこの街は寂し気な本当の姿を取り戻す。そんな街の中へ僕は滑り出すように歩き出す。待ち合わせは、廃校になりもうすぐ取り壊される僕たちが通った中学校の校庭、桜の下。花見のメンバーは、先月、結局一度もこの街を出ることなくバイクで事故って写真になったカツヤを含め、同級生十二名。いまではビルだけが立ち並び、住む人がいない都心のこの街で、校舎と共に校庭がコンクリートに埋め尽くされれば、僕たちの街に桜はなくなる。

「よう、遅かったな」
 桜の下にはもうほとんどが集まっていた。充分に用意してあることは分かっているのだが、それでも買い足してきた差し入れのビールを幹事のタケオに差し出す。
「しばらくだな」
「ホントだよな。近くに住んでるのに意外なほど会わないよなぁ」
 いつもおちゃらけていたシンジの何気ない一言にみんな苦笑する。分かっているのだろう。この街は本当は錆びれた漁村よりずっとゴーストタウンだ。不況で残業代が出ないせいなのだろうか、ビルはその灯りを早々に消してしまい、そのあとは人の気配は全くない。ビールを買うのすら駅の向こうの小さなコンビニまで十五分以上歩く。
 久しぶりに会うといつもそうなるように、それぞれの近況を話す。まるで全然違う場所に住むものたちが集まったみたいに、それぞれ別の世界の話が語られる。
「そういえばアヤカはまだ帰ってこないのか?」
 アヤカは一年間アメリカに留学していると聞いていた。
「帰ってくるのは夏だよ。ほら、アメリカって日本と違って七月に学年終わるから」
 そう言ったカオリの語尾が少し暗かった。僕たちはそれぞれビールに口をつけたりして続きを待った。外灯に照らされた桜の花びらがゆっくり舞い降りてビニールシートの上、胡座をかいた膝の上に落ちた。
「でも、アヤカの住んでたマンション、もうこの街にないんだって。入居者が減って取り壊しになっちゃって、家族は少し遠くに引っ越しちゃったってお母さんが言ってた」
 そうなんだ。みんな口々に頷く。ここにいるものの大半はマンション住まいだ。不況とはいえ持ち家だっていつ地上げに遭うか分らなかった。
「カメリ屋だってなくなっちまったもんな」
 トオルが懐かしそうに言ったのは僕らがいつも帰りに立ち寄っていたパン屋だ。その名前と共に会話は思い出の中へと溶け込んでいく。
「わたしクルミミルクパン好きだったなぁ」
 懐かしそうにユリが話す。そう、僕はそれをよく知っている。僕の初めてのキスは随分遅くて、ユリとこの桜の木の下だった。六時間目のベルが鳴り終わると、ここで待ち合わせて一緒に帰った。あの日の風景が蘇る。
 みんながぽつりぽつりと思い出の名前を語り始めた。いつも隠れて買う角の煙草の自動販売機。ある会社の脇にある水道水のためられた池。駅への近道に、穴場のコインロッカー。もう、使われていなかった誰もいない校舎の三階。そして、コンクリートの校庭に一角だけ残された土の地面と桜の木。そして、その背後にそびえ建つビル群。どれもたいした風景ではない。それでも、いまになって分る。やっぱりここが僕たちの故郷で、ここが好きだったのだと。あの日、僕たちはみんな、確かにここにいたのだ。
 ふと会話が途切れた、その後だった。
「カツヤの葬式、行けなくてゴメンね」
 誰もが言い出せなかったのであろう言葉をナツミが口にした。カツヤの葬式に出たのは一番中が良かった僕だけだった。でも、僕はそれでみんなを責めるつもりは全くなかった。なんとなく気持ちが分る気がしていた。正直言って、あの日、僕も葬式に出ることを拒みたかった。無責任に、簡単に死んでしまったカツヤには分かっていなかったのかもしれない。この街に住む僕たちは、たぶん、一つの民族みたいなもので、そのたった十二人しかいない仲間の一人が本当にいなくなることなんて、僕だって認めたくなかった。それは何かの終焉を示唆するようで、それが、それまで学校がなくなると聞いてはいてもきっと受け入れることが出来なかった僕たちを、今日ここへ集めたのかもしれない。僕は「分かってるよ」と微笑んでカツヤの写真を桜の根元に立て掛け、いつもあいつが吸っていたマイルドセブンに火を着けてその前に置いた。線香よりずっと気が利いている。それから順番に日頃吸う者にも吸わない者にも煙草とライターを廻した。桜の木の下、夜の淡い光の中を煙が立ち上った。立ち上った煙と入れ代わりに桜の花びらが舞い降りてきた。
「この桜、病気だったんだって」
 アキコが舞い降りてきた花びらを手の平で受け止めて言った。アキコの家は企業のビルのエントランスなんかに飾る花を専門とした花屋だったが、仕事が減ったため郊外へ引っ越すという噂を聞いていた。本人から聞いた訳ではないが、それが本当だということをそのとき感じた。
「いつからだったんだろうな」
 かつてアキコと付き合っていたヒロユキが言った。悲しくはないけれど泣きたい気分だった。いつからだったのだろう。僕たちみんなのそれぞれの淡い関係が、いまでは人が住む場所ではなくなってしまったこの街が、そしてこの桜の命の運命が、気付かれることなく、そして気付かれても気付かない振りをされたまま変わり始めたのはいつからだったのだろう。
「この桜なくなっちゃうんだな、学校と一緒に」
 学級委員だったシゲオが言った。区の決定で、桜の木は植え替えられることもなく切り倒されるとのことだった。それが悲しくないと言えば嘘になるかもしれない。学校と桜のないこの風景を思い浮かべることはまだできない。でも、もしかしたらそうあるべきなのかもしれないとも思う。それはあまりに寂しい花見だったけど、このままただ終わりにしてしまうのが我慢できなくて、僕は袋からビールを取り出してみんなに手渡した。
「さあ、飲もうぜ。こいつに乾杯してやろう」
 カツヤの前にも一本おいて、みんなで「かんぱーい」と缶ビールを掲げたとき、どこから生まれたか分らないビル風が、勢い良く吹き付けて花びらを散らした。
最後の桜 伊勢 湊

『フシムシ』
さとう啓介

 曇り空を見上げながら、雪に覆われた店頭にロール台を引摺り出した永井サトルは、ブルッと身震いをしたかと思うと、慌てて店内に戻った。
「ブルッぶる~、北海道は今日もさっぶいどー」
 下らない言葉を白い息と共に吐き出しながら、開店してまもないドラッグストアのレジについた。

 本日一人目の小さな男の子が、難しそうな顔をして永井の前にやってきた。
「いらっしゃい、どうかしたのかな、ボク?」
 永井は覗き込むように少年を見つめて言った。
「パパが風邪で、熱があるんだ。おじちゃん、どんなお薬がいいの?」
「風邪か、どんな症状……って言うか、どんな感じかな?」
 少年は少し考えてから話し始める。
「えーっとね、熱があって、のどが痛くて、あっ、フシムシが痛いって言ってた。おじちゃん、フシムシってどんな虫?」
「フシムシ? あっああ、フシムシじゃなくて節々だろ? 節々って言うのは、ほらこんな所や、こ~う肩とか腰とかの事だよ。そうか、じゃあねこれと、これと、え~っと、あっ、これだな」
 永井は体を大きく動かして説明すると、後ろのクスリ棚から幾つかの薬を取出しカウンターにドンと置いた。
「これがノドのお薬で、この辺りの山が熱風邪に効くお薬ね。それからこれは座薬って言って、お尻にブニュ~って入れると一発で効くやつだ。アハハ」
 少年は永井のさぶい話し方を冷静に流した。
「それ全部でいくらになるの? ぼくお金これしかないんだ」
 一枚の丸まった千円札を小さなポッケから取出すと、少年は永井の顔の前に突き出した。
「アハ、そうか、そうだよな。じゃあ、この風邪薬が一番いいかな。アハハ」
 永井はバツの悪さに苦笑いをしながらレジのキーを叩いた。
 チーン!
「え~九百八十円でーす。はい、これお釣りね」
 永井が小さな掌にお釣りを渡すと、少年は薬と小銭を握りしめて駆け出した。
「ああ、ぼく、ちょっと待って。これお兄ちゃんから大サービス! え~っと座薬を二つと生姜湯を一袋、それに栄養ドリンク三本!」
 永井はそれを袋に詰めて少年に渡した。
「試供品だからさ、タダ。持っていきな!」
 親指を突き立ててそう言うと、少年の顔が一気に明るくなる。
「ありがとうおじちゃん!」
 少年は子犬のように喜んで駆け出した。
「ああ、入り口は滑るから気を付け……。元気いいなぁ、やっぱ子供だわ」
 永井は走り去る少年の後ろ姿を見送ると、フッと難しい顔をした。
(おじちゃんって言ってたよな? お兄ちゃんなんだけど……)

 正午を過ぎた辺りから、曇り空の合間から陽が差してきて、店頭にも太陽の光が真っ白な雪に反射して店内に明るさを運んできた。外の寒さにもかかわらず店内はお客様で賑わっている。永井サトルも、あっちに、こっちに、忙しく駆けずり回っていた。

「おい永井、三時になったら南二条の北之家へ集金に行ってくれ、さっきミヨ婆さんから電話があったんだ。それといつもの薬と養命酒にロールティッシュを一袋だってさ。二枚重ねの匂いのするやつな。まったく、うちをいつまでこき使うんだろうな!」
 店長は永井に愚痴るように言い捨てると、赤い集金バッグを渡した。
「まぁ、先代の妾って事ですし、お客様あってのツルワですから。店長、怒らない怒らない」
「ったく、下らねー事言ってねーでサッサと行ってこい! 雪祭りなんか見てサボるんじゃねーぞ」

 大通りは見渡すかぎり、真っ白い雪で造られた雪像で賑わっていた。
 北之家の集金を終え、ミヨ婆さんの昔話しの相手に疲れ果てた永井は、ボーッと公園の中を歩いていた。すると目の前に大きな雪像がドカンと居座っている。それを見上げて永井は、両手に息を吹きかけながら呟いた。
「紫禁城ね~、中国四千年の賜物か。ミヨ婆さんも行った事あるって言ってたなぁ。でもここじゃぁ邪魔なだけだよな」
 その時だった。踏み固められた氷雪に永井は足を滑らせ思いっきり尻餅を搗いた。
「痛ってー! ああ、中国四千年の恨みか、ミヨ婆~か。はたまた、店長の……うわっ、もうこんな時間?! 急いで帰ろ!」
 永井は慌てて起き上がると、即効で店まで走った。

「はぁはぁ、た、只今戻りましたーー、ふぅ」
 永井はうっすらと汗を掻き、暑苦しいコートを脱ごうとしてポケットを探った。
「あ、あれ? 集金バッグがない! あれあれ?」
 店長が永井に気付き、遅いぞ! と言いながらやって来た。
「あっと、えっと、集金バッグなくしちゃいました」
「なにー! 集金バックをなくしちゃいましただとー! ばか! さっさと探してこい! 無くしてたら給料から引くぞ!」
 永井は慌ててコートを羽織ると、また店を飛びだした。

「ううっ寒い。変に汗を掻いたから風邪引きそうだな……。もう雪祭りも終わりかぁ。あーぁ、どこで落っことしたんだろう? 赤い集金バッグ~」
 薄暗くなってきた東の空が、街の彩りを変化させていく。氷の広場の青白いオブジェがオレンジやブルーの光を放ちながら輝いて、永井の横顔を寂しげに照らしていた。
(おかしいなぁ、確かにコートのポケットに入れてたのになぁ……)
「ああっ! あの時だ、紫禁城の雪像の所で滑って転んだ時だ!」
 永井がそう思い走り出した時だった。
「おじちゃん!」
 その声に永井は聞き覚えがあった。
「おお、朝の少年! どうしたこんな時間に? パパの『フシムシ』は元気になったか?」
「ママと一緒に、おじちゃんの所に行くとこだったんだ~」
 そう言う少年の後ろに、長い髪の女性が軽く頭を下げて立っていた。
「はて? あっ、どうも」
 永井は状況が掴めず首を傾げた。すると少年の母親はフッと微笑んで、鞄から何かを取出した。
「これをそちらにお届けしようと思いまして」
 そう言って差し出されたモノはまさに、赤い集金バッグだった。
「ああっ! これ僕がなくしたバッグです。ど、どうしてこれを?」
「この子が雪祭りの帰りに見つけたらしいんです。それで中を見ましたらツルワドラッグ北一条店ってあったものですから」
 微笑みながら話すその姿が、永井には一瞬あの紫禁城のお姫様のように感じられた。
「うわー、ありがとうございます。もう諦めてたんですよ」
 そう言いながらバッグを受け取ると少し考えて、自分の財布から三千円を取出し、少年の母親へ差し出した。
「あっ、これ礼金です。少ないですが貰って下さい」
 少年の母親は首を横に振ると、少年の方を一度見て微笑んだ。
「いいえ、貴方にはもう十分、頂きましたから……。ねぇ和也」
 母親が少年の頭を撫でると少年も大きく頷いてニッと笑った。
「えっ?」
「フフッ、あの座薬、効きますね」
 少年の母親はそっと永井に呟くと、嬉しそうに微笑む。
「さあ、パパの熱も下がったし、今晩は予定通りハンバーグステーキにしようか。和也」
 そう言って子供を促すと、一度深々と頭を下げ、白い雪の中を戻って行った。

 その二人の後ろ姿に永井は大きな声で叫んだ。
「ボク! ありがとうなー!」
 少年も振り返り右手を振っていた。
「おじちゃん、大切なものは落とさないでねー」
 少年の大きな声は、雪に吸い込まれるように小さくなって永井の胸に届いた。
 永井はなんだか物凄く嬉しくて、ジーンとして、いつまでも二人の後ろ姿を見送った。

「おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんだって言ってるだろう。アハハ」
 目尻に浮かんだ涙が凍りつくような寒さだったが、永井の心はとっても暖かかった。
『フシムシ』 さとう啓介

死んでない
ごんぱち

「これが、最後だ」
 スキーウェア姿の梨元は、錆びた鯖のカンヅメをゆっくりと開ける。
「ああ」
 痩せた頬で、同じ大学の梅田が頷く。
 吹雪の音が、二人の息遣いを消す。
 安普請の山小屋は、ギシギシと音を立てて揺れていた。
「オレたち、死ぬのかな」
 鯖を食べながら、梨元はぽつりと呟く。
「分からん」
 梅田は、噛む事も惜しむ様に、ゆっくりゆっくり口を動かす。
 言葉が途切れる。
 囲炉裏に既に燃料はなく、湿った毛布だけが唯一の防寒具だった。
 二人は寄り添って、毛布をかぶる。
「男同士ってのが冴えないな」
 梅田が笑う。
「まったくだ」
 梨元は、次第に失われていく梅田の体温を感じながら、目を閉じた。

 暖かな光が辺りを満たしていた。
「――ん? オレ、死んだのか?」
 梨元は辺りをきょろきょろと見回す。
 春の野の様であり、夏の海の様である、目を凝らせば凝らす程、何も見えなくなって来る。
『貴様はまだ死なぬ』
 どこからか、声が聞こえた。
「誰だ!?」
 だが、集中すればするほど、声は見えず、聞こえない。
『貴様はまだ死なぬ』
「本当……なんだな?」
 何故だか、梨元にはその声が絶大な信憑性を持つものに聞こえた。
『貴様は、金がある限り死なぬ』
「金?」
 声も景色も、急速に遠ざかって行った。
「オレ、今は金持ってない筈だぞ……」
『――ぃ』
 別の声がする。
『――ぉぃ』
「金……」
『おい!!』
 梨元が目を開けると、見知らぬ男の顔があった。
「立てますか?」
 救助隊だった。
「ああ、うん」
 梨元は、男の肩を借りて立ち上がる。
 コトン。
 と、服の間に挟まっていた、硬貨が落ちた。
「――十円玉?」
 梨元は、首を傾げる。
(そうか、公衆電話を使おうとして、借りたままだった……)
 よろめきながら、梨元は十円玉を拾い上げた。

「おい、早くしろ!」
 作業員の怒声が響く。
「はいっ」
 梨元は、バランスを崩しそうになりながら、アスファルトを載せた一輪車を推す。
 深夜の道路工事現場で、梨元は働いていた。
「終わりました」
「そのブロック捨てて来い!」
「はいっ」
 息を切らせながら、梨元はコンクリートブロックを積み込む。
『金がある限り死なぬ』
 梨元の脳裏に、あの声が幾度となく思い返される。
(大学なんて行ってる場合じゃねえ。金だ。ともかく金だ)
 連日の重労働に身体が軋みを上げている。
「うわっ」
 バランスが崩れ、コンクリートブロックが散らばった。
「馬鹿野郎、ゴミ一つ捨てるのに何時間かかってやがんだ!」
「はひっ」
 大急ぎで、梨元はブロックを積み直した。

「……よし」
 狭い薄汚れた、しかし何もないアパートで、梨元は通帳を開く。
 通帳には、同年代の男よりも、一桁多い額が記されていた。
「これがなくなったら、死ぬの、か?」
 くすっと笑う。
「まさか、な」
 だが、あの時見た夢の、異様なリアリティが、その笑みを作り笑いにしかさせない。
「ま、金があるのは悪い事じゃないさ」

 梨元が、クレーンのフックを鉄骨の束に引っかける。
「終わりました!」
「よし」
 梨元と現場監督は、上がっていく鉄骨の下から離れていく。
「お前も、割と長続きするな」
「ええ、まあ」
 風に乱れる前髪を、梨元は手ですく。
「何だったら、本社の入社試験受けてみたらどうだ」
「そうですね」
「俺が口を利いてやる、なんて事は出来ねえけど、まあ上手く行くんじゃねえかな」
「ははは」
 その時。
 不意に強くなった突風に、クレーンがあおられた。
「え?」
 クレーンがゆっくりと、梨元に向かって倒れて来る。同時に、釣り上げられていた鉄骨も、ワイヤーから外れてずり落ちる。
「梨元、危ないっ!」
 大音響と共に、数本の鉄骨が地面に突き刺さり、クレーンが街路樹をなぎ倒した。
 ――十数秒後、気が付いた梨元の目に入ったのは、鉄骨に押し潰された現場監督と、自分の頭すれすれにめり込んだクレーンのアームだった。
 梨元は冷や汗を拭いながら、作業着の胸ポケットに入れてある一万円札の束に触れた。

 梨元は通帳を今日も眺める。
 額は日々増えていく。
「もっともっと貯めて、殖やしておかなきゃ」
 通帳を金庫にしまい、財布を腹巻きの中に入れた。
 それから、書き込みだらけのカレンダーを見る。
「今日は――警備員だったか」

 数年が過ぎた。
『――玉葱には血液をサラサラにするパワーが――』
 梨元はチャンネルを変える。
 宝くじの抽選番組だった。
 梨元の前のテーブルにも、宝くじが十枚ほど置かれていた。
『さあ、抽選を始めます!』
 電光掲示の抽選機が、番号を映していく。
 組番号と数字が一つづつ。
「――おっ?」
 梨元は数字を確認する。
 もう一度確認する。
 更に確認した。

「ふふふ」
 梨元は、トランク三つ分の札束を、うっとりしながら眺める。
「これで、少しは安心だ」
 六畳一間の安アパートの中には、未だに家具らしい家具はない。
「死なない、オレは死なないぞ」

「しかし、手術を行わなければ」
 医師が何度目かの説得をする。
「そんな事を言って、オレに金を使わせようとしているんだろう?」
 初老に差し掛かった梨元は怒鳴る。
「金があれば、オレは死なないんだ」
 立ち上がろうとするが、身体が動かない。
「無理ですよ」
 医師は呆れた風に肩をすくめる。
「脳内出血しているんです。こんなに早く、身体が動かせるわけないでしょう?」

(まだ、ある)
 半身が動かなくなった梨元は、金を数える。
 障害者用作業所での、安い安い給料が振り込まれていた。
 貯金は、宝くじの当選金を割り込んでもいなかった。
(まだ死なない)
 梨元は心から嬉しそうに、にまぁっと笑った。

「二百七十五歳、世界一の長寿か」
 医師は、研修医の持つトレイからメスを取る。
「本当ですかね?」
「とりあえず、私が生まれた時には既に世界一だったがな」
 死んだ梨元の顔は、信じられない程痩せていた。
「始めるぞ」
 医師は皮膚を切ろうとして、ふと手を止める。
「ん?」
 梨元の手が、ぎゅっと握られていた。
「こら、ちゃんと消毒しとけって言ったろう?」
「硬直があんまり強くて、開けなかったんですよ」
「硬直だぁ? こんなに長い硬直なんて――」
 医師は梨元の手を開かせようとする。だが、指は石の様に固く握られ、弛まなかった。
「ある、なぁ」
「でしょう?」
「仕方ない」
 医師は彼の指を切る。
「ん?」
「何ですか」
 指が切り取られた手のひらには、丸い物がくっついていた。
「お、懐かしい。王冠じゃないか」
 医師はメスの先で、瓶の蓋を剥がす。
 瓶の蓋は肉に深く食い込み、手のひらは丸く壊死していた。

 解剖を終えた医師と研修医は、ロビーで煙草をふかす。
「ひでえ有様だったな」
 医師は煙を腹の底まで吸い込み、吐き出す。
「ええ。雪山で遭難した餓死者みたいでしたね」
 研修医は細い煙草をくゆらす。
「寝たきり同然のクセに、介護犬も、ロボットも使わなかったそうだからな。金がもったいないとかで」
 煙草を吸い尽くした医師は、空になった箱を握り潰すと、財布を開く。
「――ん、ねえな?」
「今日は止めとけって事じゃないですか?」
「ないと思うと吸いたくなるもんだ。ちょっと貸してくれ」
「いいですけよ」
 研修医は財布を出す。
「あれ?」
 不思議そうな顔で首を傾げる。
「おかしいなぁ、オペの前は確かにあったんですけどね?」
 すっかり空の財布をひっくり返し、研修医は首を傾げた。
 ――階下の霊安室の方で、何か物音がした。
死んでない ごんぱち

60セントのリボン
るるるぶ☆どっぐちゃん

 見上げて目に入った灰色のビル群は子供の頃赤だとか青だとかの原色が大好きで、それでいつも混ぜ過ぎてしまい、絵を描く段階までには必ず訳の解らない、惨めな灰色にしてしまったこと、だからあたしは絵をいつもそんな灰色一色で、白猫も黒猫も、ホワイトクリスマスのツリーも描いていていつも図工が2だったことなどを思い出させてキツく、それで丁度駅にいたこともあり、あたしは自動券売機にお札を突っ込んだ。
 黒いボタンに赤い電光数字が浮かび、それがずらりと並ぶ。
(あたしにはこんなに行ける所があるのか)
 数字の羅列に少し圧倒されつつ、あたしは適当にボタンを押した。
 振り向くと人の列。ビル群と青い空。券売機に並ぶ人並みは、無言であたしを押し退けた。
 改札口は目の前だった。あたしは普段の定期券では無く先程買った切符を改札口に、未だに迷っているのかおずおずとした動作で差し入れる。改札処理はJRの誇るゼロコンマ2秒で終了した。あたしは背中を押されながら、たっぷり2秒はかけて切符を受け取った。
 構内には掲示板が沢山あった。掲示板を見るのは久しぶりだった。いつも同じ電車だったから見る必要が無かったのだ。
 敲波・佐野方面。真過張・鉢葉方面。掲示板には色々な地名が並んでいた。何乗ったら何処へ行くのか。あたしには見当も付かなかったからいつも乗っている緑の電車じゃあ無く、可愛いな、と思っていたオレンジの電車に乗ろう、と決めた。
 オレンジ、オレンジ、とオレンジの掲示板を辿っていく。迷わずにオレンジのホームに着けた。チャイムが鳴り、人気の無いホームに人気の無い電車が滑り込んでくる。乗り込む。チャイムが鳴り、ドアが閉まり、電車はホームを抜け出した。
 乗ったのは各駅停車のようだった。かなりのゆっくりさんであるあたしでさえイライラするくらい、電車は短い間隔の各駅を各駅停車し続けた。
 車窓にはどうと言うべきことも無い景色が続いている。もう灰色のビル群は見えないけれどでも風光明媚まわけも無く、何処にでもあるようなセンスゼロの看板ばかりが目に付いた。
 あたしは少し沈んだ気持ちになり、切符に目を遣った。切符には何か(入場者数だろうか)を示す四桁の数字が並んでいる。
 その数字の内、二つを足し算して十になるとその一日は良い感じ、という他愛も無い話が子供の頃あったなあ、と思い出し、やってみた。結果は大惨敗で、足し算はおろか引き算しても十にならない。昔は高確率でなったのに。
(すげえ。マジすげえよ)
 同じクラスの金子君が興奮してあたしの気持ちも知らないであたしの肩を掴んで、あたしをドキドキさせるくらいの、そんな確率だったのに。

 がたん。

 大きな音に目を開ける。
 どうやら眠ってしまっていたらしい。
 電車は止まっていた。でもホームでは無い。どういう訳か何も無い場所で止まっている。
 暫く経ったけれど何も連絡は無い。
 あたしは結局、窓から抜け出した。
 周りを見渡す。あたしは、とりあえずコンビニかな、と思いコンビニを探して横断歩道を渡り、真っ赤な橋を真ん中で渡り、トンネルを抜け、光に包まれ、それを抜けると、コンビニはあった。そして見つけたのはコンビニだけでは無かった。あたしは色々なものを見つけた。見つけてしまった。
 視界に飛び込んできた景色は見覚えのあるものばかりだった。古い並木。真っ直ぐの道とちょっとよれた道が芸術的な角度で交わる交差点。上空の鳥達も記憶と同じように鳴いている。
 あたしはいつの間にか、ずっと昔に家族で住んでいた街にいた。
 コンビニを通り越し、歩みを進める。
(あの角を曲がると)
 昔の家がある筈だ。
 あたしは角を曲がる。
 そして、見上げた。
 住んでいたあの倒れそうな、というか倒れてしまったのに気力だけで立ち上がったような、あの家は何処にも見え無かった。そこにあったのは八階建てで灰色の、自殺にはぴったりといった感じのマンションだった。
(いつか帰ろう。色々あったけれど、皆でいつか帰ろう)
 あたしがいつか、と思っていた場所にあたしは今辿り着いていて、そしてそう思っていた場所はもう無くなってしまっていた。
(これは一体どういうことだろう)
 事態を飲み込めず、あたしは眼前の景色をただ眺めていた。
 すると七階の窓がいきなり開いた。
「どうしました? これは一体どういうことだろう、って顔をしてますよ?」
「ええ。実にそういう事態なんです」
「それはそれは。じゃあお茶でも一つ如何ですか」
「有り難う御座います。伺います」
 あたしは階段を七階まで昇った。
 途中景色を見ると随分遠くまで見渡せた。あたしが知らない景色だった。
(この街にはこんな青空があったのか)
 あたしはそう思った。
「どうぞ」
 玄関を開けると、男が待っていた。
 男一人だけかと思ったら小さな女の子が居た。
「ご挨拶なさい」
「初めまして」
 彼女はそういうと男の後に引っ込んだ。
「娘さんですか」
「ははは」
 男は笑っただけで返事を済まし、あたしを中へ案内した。
「どうぞ。粗茶ですが」
「頂きます」
 確かに粗茶だった。
「ご馳走様です」
 あたしは茶碗を置いた。
「私は世界中を随分歩いたものです」
 男はお茶に関しては何も言わず、唐突に喋りだした。
「世界中ですか。どうですか、世界は」
「世界は段々悪くなっていくようですね」
「そうですか」
「でもそういう時代もあるものですよ」
「そうですね」
 私が答えると男は微笑んで、それで何となく打ち解けた気分になった。
「ところで、先程はどうしていたんです?」
 男はインチキ臭い、しかし大真面目にも思える独特の喋り方をしていた。
「ええ。あたし、昔この辺りに住んでいたんです」
「奇遇だ。私も住んでいました」
「そうなんですか」
「ええ。つい先程帰ってきたばかりです」
「つい先程?」
 そう聞きかけた時、大きな音が響いた。
 それと同時に部屋全体が傾き、あたし達は壁に叩きつけられる。
「いたっ」
「始まったな」
「えっ、何が?」
「工事ですよ」
 男は壁に手を付き、立ち上がる。
「ここ取り壊すそうですよ。入り口に書いてありました」
 そう言って笑う男の顔を、あたしは立ち上がれないまま見上げていた。
「こんなに新しいのに?」
 あたしは他に色々聞くべきことがありそうなのに、結局そんなことを聞いた。
「ええ」
 男はインチキ臭く、そして魅力的に笑った。
「でもそんな時代もあるものですよ」
 あたし達のそんなやりとりの間にも、マンションは崩れ続けた。
 窓の外に目を遣る。傾いた空があった。青の中を滅茶苦茶な角度で電線の黒が突っ切っている。それは手の届きそうなおかしさがあった。もう自殺なんて出来そうも無い。
「こんな時代もあるんですね」
 あたしはそう答え、そして手の中の何かに気付いた。切符だ。あたしはまだそんなものを握りしめていたのだ。
 あたしはバッグからボールペンを取り出し、構え、空を見つめた。そして切符にスケッチを始める。
「うまいですね」
 男があたしの手元を覗き込み、言った。
「まるでリボンをかけたみたいな空だ」
 あたしは絵を誉められたのが初めてだったので照れてしまい、何も言えなかった。
 傾いた壁に、女の子は器用にバランスを取って立っていた。
「お姉さんの邪魔をしちゃ駄目だよ」
 男はバランスを崩し倒れ、あたしの視界を塞ぎながらそう言った。
「うん」
 女の子は無表情にそう答えた。
60セントのリボン るるるぶ☆どっぐちゃん

一粒のキャラメル

 この寒々しい冬空が、精一杯の晴を作っている。北風は心を刺して、通り抜けて、温かい場所を探している。冷たい空気を切って歩いて、顔を上げて、見慣れた景色を遠くに臨む。晴の太陽が少しの温かみを降り注いで、二月の真冬に光を射した。
 一粒のキャラメルを握り締めて、恋心に気が付いたのは十二月。期間限定の真冬の片思い。例えるならば、砂糖が甘く溶けたカラメルみたい。カラメルは煮詰め過ぎると、こげておいしくないから。思い強く心に秘めて、煮詰めすぎた砂糖はこげて真っ黒。
「おめでとう。」
笑顔で言った。
「仕方ないよ。」
心で言った。
 
 十二月の夕方。テニスサークルの帰り、佳寿美は寒さに震えながら、まだ着替えている友達を待っていた。外には既に着替え終わった人達が全員が揃うのを待っていた。
「寒いよね。」
「寒いなぁ。」
口々に言っていた。

 佳寿美は大学一年生。大学のテニスサークルに所属していた。
「あれ?佳寿美、髪切った?」
満面の笑顔で寒そうに近づいて来たのは、サークルの中でも仲のいい、宗介だった。
「うん!切った。どう?」
「あは。かわいい。」
「嘘だぁ!失敗したんだから!」
「まじで?」
やっぱり冗談まじりの笑顔が映える。お互い言い合って仲良くしてた。
「そうだ。これ、あげる。」
そう言って、手渡されたのは、一粒のキャラメル。
「あ!呼ばれてる。北野にも渡しといて。」
もう一粒キャラメルを渡されて、掌には二粒。
宗介がくれたキャラメル。口に含んで、空腹な心に溶けてった。もう一粒、コートのポケットに入れて、待っている友達、北野茜に渡そうと思っていた。
「お待たせ。」
「遅いよ。寒い。」
「ごめん。ごめん。」
他の人は、アフターのファミレスに向い出していた。
 佳寿美はすっかり忘れていた。ポケットのキャラメルのことを。そして佳寿美の心は変わり始めていた。友達である、宗介が気になり出したのだった。
 
 四月が出会い。宗介も一年生として、サークルの新歓合宿に来ていた。満面の笑顔で、佳寿美の名前を呼んでくれた。人見知りの激しい佳寿美にとって、宗介の行為を嬉しかった。
 佳寿美はつい最近まで、恋になるなど考えてもいなかった。実際、サークル内に気になる先輩がいた位で、その恋に破れてからは、しばらくは恋をする気力を失いかけていた。
『そばにいた宗介をもっと早く好きにならなかったんだろう。』
『先輩があんなに好きだったのに、都合いい。』
佳寿美は自分でもわかっていた。
 
 友達の茜は宗介の幼なじみ。大学で再会したらしく、サークルも宗介の誘いで来た。佳寿美にとって、そんな茜は気の合う友達となり、同時に宗介ともますます仲良くなった。茜とは、よく恋の話をしている。佳寿美がつい最近まで好きだった先輩の話や、茜の元彼の話。そんな毎日が充実していて、楽しいと感じていた。
 最近では、宗介のことが気になり始めたおかげで、茜といれば宗介と話せると思って期待していた。勝手に宗介を想い出して、勝手に恋心に変えて、恋をしている自分に満足していた。
 佳寿美は、この淡い恋心を誰にも明かそうとは思わなかった。密かに想い、いつも通りを装うのに必死になっていた。
 十二月。秋に先輩へ恋に破れ、恋がしたいと再び思うようになったのが、冬の始まり。
 先輩を諦めてから、近くで笑顔をくれた宗介に恋をした。叶えばいい、と何もしないで待っていた。
「佳寿美、本当に先輩はもういいの?」
「うん。大丈夫だよ。ちゃんと諦めたから。」
佳寿美は笑った。想いを伝えた時、友達以上には見られないことを告げられて、しばらくは立ち直れなかった。時間が心の傷を癒して、佳寿美はまた立ち上がったのだった。
 
 宗介は優しくて、笑顔をくれた。わけ隔てなく、誰とでも仲良くして、誰からも慕われ、そんな宗介には、想う人がいるんじゃないかと考えていた。夏には、彼女がいないと言っていた。でも、あれから季節は巡った。佳寿美はどこかで小さく諦め、どこかで期待していた。
『私のこと好きになってくれないかな。』
そう想えば想うほど、毎日叶わぬ恋にさえ、幸せを感じていた。冬の寒さが心に凍みても、真冬の晴に想いを重ねていた。
 
 そんなある日、サークルの一年生の女の子だけが集まって食事会をすることになった。佳寿美はもちろん、茜と参加する気でいた。当日、予約したそのお店は、お洒落なダイニングバーで、女の子達は喜びの声を上げていた。集まったのは、中でも仲のいい九人だった。女の子だけのお洒落な食事会が始まった。
「亮先輩と美紀先輩、相変わらずラブラブだよね!」
「京子も、たっちゃんと長いよね。」
話題は専ら、サークル内の恋の話だった。佳寿美は、一緒になりながら意見したり、笑ったり、とてもゆっくりとした穏やかな時間の流れの中で、幸せを感じていた。そんな、穏やかな空気を断ち切るように、佳寿美の横で手が挙がった。
「私、発表があります!」
佳寿美が驚いて横を向くと、そこには茜が真面目半分、笑顔半分で発言し出した。

「彼氏が出来ました。」
「嘘!まじ?」
「ちょっと!?誰?」
佳寿美はあまりに驚いて、言葉に出来ない驚きを飲み込んだ。
「ねえ、誰?まさか、うちのサークル内?」
「まじ?」
場の雰囲気は、一気に高まりうるさくなっていた。

「もしかして、宗介?」

「うん。」
 佳寿美の心は、その時どうなっていただろう?
 辺りの景色と心の中がグラグラと揺れ出し、みんなの驚き声にかき消されながら、一人、心が砕け散った瞬間だった。そのとき佳寿美のことを誰が気にかけただろう? 誰一人として、佳寿美を見なかったと思う。誰もが茜に目を向け、騒いでいた。
 佳寿美はそれでも、みんなと一緒に笑っていた。そして何より驚いていた。きっと誰よりも。
 
 しばらくして、場が落ち着いた後に佳寿美は茜と一緒にトイレに立った。
「ごめんね。佳寿美には、真っ先に言わないといけなかったよね。」
「いいよ。いいよ。でも、びっくりした。」
佳寿美の心はまだグラグラしていた。それでも、笑って見せた。
「おめでとう。」
笑顔で言った。どんなに心がどしゃ降りの雨でも、佳寿美は笑った。トイレの個室にうずくまり、泣き出したいのを必死に堪えて、立ち上がった。
「茜のことも、宗介のことも好きだから、私も嬉しいよ。」
極めつけにはこんなことも言っていた。
 そうして、佳寿美のせつない片思いは終わった。
 佳寿美がその日、放心状態であったことは言うまでもなく、欠けた恋心に涙を流した。
「仕方ない。」
心で言った。

 佳寿美は空虚な気持ちで今日も歩いていた。第一、心は素直でいたいから。佳寿美はまた、恋をするだろう。
 宗介の視線を追うと、そこには茜がいるだろう。永遠に叶わない恋なら、今すぐ忘れて、笑って宗介達をからかうことが出来ればいいのに。もっと素直に二人を祝福してあげられるのに。
 二月に入って、寒さが一段と増した東京の空が濁って見えた。

「あ。」
佳寿美はある時、コートのポケットに突っ込んでいた手に何かを見つけた。それを掴み、掌を広げてみた。
 それは、一粒のキャラメル。茜に渡してと宗介に言われた、一粒のキャラメルだった。それを見て、涙が溢れた。そのキャラメルを握り締め、空を見上げた。
『素直な心で二人に会おう。』
佳寿美は青の空に誓い、微笑んだ。
 
 一粒のキャラメルを口に含み、甘くせつない真冬の片思いは溶けて消えていった。
一粒のキャラメル 繭

『氷魚』
橘内 潤

 たとえば、ここにひと欠片の氷があったとする。
 氷はゆっくりと、だが確実に融けていくだろう。やがて液体に姿を変えた氷は、こんどは徐々に蒸発していき、気体となって空気に溶けてしまうだろう。
 だが、氷がなくなったわけではない。姿を変えただけであって、消滅したわけではない。だから、わたしたちが普段なにげなく口にして、日常あたり前に掻き分けているこの空気とは、その意味の根底において氷となにひとつ変わるところがないのだ。
 わたしたちは、氷のなかを泳いでいる。

「なんでしょうか?」
 高橋真奈美の言葉に、担任教師は「まあ、座れ」と、手前の椅子を目で示した。
 腰かけた真奈美に、教師はわざとらしく咳払いをしてから訊ねる。
「高橋、おまえ……おれにいうことがあるんじゃないか?」
「なにをですか?」
「いや、その……なんだ……」
 口ごもる教師を、真奈美は斬り捨てる。
「年配の男性とラブホテルにはいったのか、ってききたいんですか?」
「やっぱりそうなのか?」
 真奈美には「やっぱり」が強調されてきこえる。
「はいってません――っていったら、先生は信じてくれるんですか?」
「そ、それは……信じるよ。先生は高橋の味方だ。だから、正直に話してくれ」
 表情を探るまでもなく、その台詞からしてすでに彼が真奈美のことを信じていないのは明白だ。
「……帰ります」
 立ちあがると、返答を待たずに踵をかえす。教師が手をのばすが、わずかに間に合わず、椅子から転げおちかける。
「高橋、待ちなさい。先生を裏切る気なのか!?」
 教師の言葉に真奈美は、かつり、と足をとめる。背中を向けたまま、口元を震わせる。
「さきに裏切ったのは先生のほうでしょ……」
 その言葉が教師に届いたかどうかをたしかめることなく、真奈美は放課後の生徒指導室をあとにした。

「先生」
 大好きな後姿を見つけて、真奈美は駆け寄った。ばしっ、と背中をたたく。
「おはようございます、先生」
「おう。おはよ、高橋」
 関本はふり向いて挨拶を返した。歩調をおとして、真奈美に合わせる。
「高橋は毎日元気だな」
「え、先生は元気ないんですか。風邪気味とかですか?」
 真奈美が顔を曇らせるのをみて、関本はあわてて手をふる。
「ああ、ちがうちがう。じつはさ……」
 辺りを見回す仕草をすると声をひそめて、「二日酔いなんだ」と苦笑した。
「え……」
 真奈美は絶句して、すぐに破顔する。
「この不良教師め、ふふっ」
「だまっててくれよ」
 ――などと笑いながら、ふたりは校門をくぐるまで並んで歩いた。

 教員用昇降口のまえで、柱に寄りかかっている真奈美。可愛らしくラッピングされた包みを大事そうに抱えている。
「高橋……なにやってるんだ、こんな時間まで」
 横からふいに肩をたたかれて、真奈美はびくっと跳ねる。
「えっ、あ……先生」
 立っていたのは関本だ。真奈美の驚きように目をまるくしている。
「ん……なに持ってるんだ?」
 関本の視線が真奈美の手元に注がれる。
「えと、あの……これ……」
 頬が紅潮していくのを感じながら、真奈美は思いきってリボンのついた包みを差しだす。
「あの、誕生日おめでとうございます!」
 押しつけるように包みを渡すと、だっと走りだす。関本は、わけがわからないといった表情で見送る。それから、押しつけられた包みを見て微笑む。
「ありがと、高橋」
 消えていく背中に、そう呟いた。

 噂が流れだしたのは、夏休みが終わって一週間ほどした頃だ。根も葉もない噂だったそれは、いつのまにか真実の顔をしていた。
 噂がまだ冗談にすぎなかったころ、真奈美は否定しなかった。それは、真奈美にしてみればちょっとした遊びのつもりだった。友達がたまにそういった話題で盛り上がっているのを知っていたから、自分もそういう冗談をいえるのだぞ、というつもりで曖昧な笑みをうかべていたのだ。
 けれど、ホテル街で真奈美をみたという生徒が現れてから、噂は自分が噂であったことを忘れていく。
 それでも、真奈美は否定しなかった。怒っているような泣いているような、曖昧な笑みをうかべるだけだった。

「明日、つき合ってくれないか?」
 そう言われて、真奈美の心臓は破裂しかけた。
「え、つき合う!? わたしが先生と!?」
「うん。プレゼントのお返しを買おうと思ったんだけど……なにを買っていいかわからなくてさ。それで高橋に選んでもらおうと思って」
 関本は照れくさそうに頭をかく。真奈美は関本の言葉をしばらく反芻して、「ああ……」とうなづく。
「つき合うって、そういうことか……」
「なにか用事あった? まあ、土曜日だし……遊ぶ予定があって当然か」
 ひとりで納得する関本に、真奈美はぶんぶんと首を振って、
「あ、ううん。予定なんてないよ。つき合う、先生につき合います」
「ほんと? ありがと、高橋」
 笑いかけられて、真奈美は幸せだった。

「あ、これなんか綺麗じゃないですか?」
「どれどれ……ネックレスか」
 真奈美が手にとったネックレスを、関本が顔を寄せて覗きこむ。
「わたし、このデザイン好きです」
「じゃあ、これにするか……あ、こっちにも似たようなデザインのがあるけど?」
 間近でふり向かれて、真奈美は赤くなった頬を隠すようにネックレスに手をのばす。
「そうですね。こっちの青色のほうが大人っぽいですけど……やっぱりわたしは、このピンクのほうが好きですね」
 最初に手にしたほうのネックレスを見せる。
「じゃあ、これにするか」
 そういって関本が手をのばしたのは、青色のネックレスだった。関本の意図が飲みこめず、真奈美は
「え?」と眉をしかめる。
「高橋で大人っぽいんだったら、あいつにはちょうどいいだろう」
 ネックレスを手にして微笑む関本を、真奈美はぎこちない表情で見る。
「あいつ……」
「同棲してる彼女に、プレゼントのお返しをしないってわけにもいかないしね……あ、ぼくが同棲してるってのは、みんなには内緒だぞ」
 関本は人さし指を唇にあてて笑った。
 真奈美は機械仕掛けの唇を持ちあげるのがやっとだった。

 真奈美が自主退学したその夜遅く、事後処理に翻弄された関本は足を引きずってアパートに帰りつく。
 だれもいない暗い部屋。関本はだまって鍵を開け、だまって明かりをつける。生活臭の薄い部屋には食卓兼仕事机がひとつ。その上には、プレゼント用に包装された縦長の小さな包みがぽつりと載ったまま。
 ネクタイを脱ぎもせず、机のまえに座って包みに目をおとす。あの日ふたりで買った包みの中身は、開けずとも知っている。
 音のしない部屋。うつむいて、ぽつりと呟く。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ……」
 初めて女性から贈られたネクタイに、ぽつり、と水が跳ねた。

 たとえば、ここにひと欠片の氷があったとする。
 氷はゆっくりと、だが確実に融けていくだろう。やがて液体に姿を変えた氷は、こんどは徐々に蒸発していき、気体となって空気に溶けてしまうだろう。
 だが、氷がなくなったわけではない。姿を変えただけであって、消滅したわけではない。だから、ぼくたちが普段なにげなく口にして、日常あたり前に掻き分けているこの空気とは、その意味の根底において氷となにひとつ変わるところがないのだ。
 ぼくたちは、氷のなかをもがいている。
『氷魚』 橘内 潤

時代
Ruima

「終わっちゃったね」
 明かりの消された礼拝堂は、夕闇に包まれて薄暗い。
 誰の姿もない壇上。数時間前、百数十人いる卒業生の一人として、私もあそこに上り、校長先生から卒業証書を受け取った。だけど、今は、誰もいない。
 一番上の座席から、静かなステージ上を一直線に見つめて。私は繰り返した。
「終わっちゃったね。卒業式も、謝恩会も、みんな」
「うん」
 私の背後、ゆっくりと入り口から入ってくるクラスメート。
「終わっちゃったな、一番最後」
 早馬君。
 明るくて、陽気で、誰にでも優しい男の子。
 毎朝の礼拝で座る場所は、四月時に決まり、年間を通して変わらない。そして、三年間ずっと、彼の席は何故だかいつも私の一列前だった。ちょうど、視界に入る辺りだったから。だから、よく知っていたよ。話を聞こうと頑張って、だけど途中で必ず眠ってしまっていたこと。それが、ある頃から、ちっとも寝なくなったこと。夢の代わりに見るようになったのが、説教者の先生じゃなく、二列前、瀬川さんの後ろ姿だってこと。
 三年になり、一番仲のいいキリン君――あだ名の由来はもちろん背の高さだ――と席が並んだ。生徒会の時間、何かを囁きかけられ、キリン君はうっとおしそうに眉を顰める。だけど繰り返される耳打ちに、眉間の皺は段々と浅くなり。ついには小さな笑い声。それに気付いた瀬川さんが、斜め前から険しい視線でちらりと一瞥。早馬君は、満足げに笑う。だしに使われていることに気付きながらも、キリン君は怒らない。しょうがないなって顔で苦笑する。これも朝の光景の中で知った。みんなに怖いと評されている少年は、本当は、誰よりも友達思いの優しい人。ピンと伸びた真っ直ぐな背筋は、少しだけ瀬川さんと似ている。
 賛美歌をなくしたのは秋のこと。だけど歌うのは好きだから、いつもキリン君に覗かせてもらっている。慣れない曲だと歌詞がよく読めなくて、顔が段々と賛美歌に近づいていく。最後には、面倒になったキリン君が早馬君の手に賛美歌を押し付けて、自分自身は黙って目を閉じる。

 そんな日常を。
 明るい茶色の髪を。十日に一度はついてる寝癖を。二週間に一度は折れ曲がってるシャツの襟を。ブレザーの背中を。男の子の肩幅を。

 ずっと、見ていたよ。

「早馬君、あのね」
「ん?」
「私、早馬君のことがずっと好きだったよ」
「ふーん」
「告白したいとか、つきあいたいとか。そういうことは一度も思わなかったけど、でも、友達としてじゃなく、好きだったよ」
「うん」
「あ、でもね。途中からは、キリン君のことも同じくらい好きだったかもしれないな」
「へえ」
「……へえって、それだけ?」
「だって、過去形なんだろ?」
 言いながら、早馬君は一つ空けた私の隣、礼拝堂最後列の座席に腰掛ける。
 さすがに今日は、ちゃんとネクタイも締めている。ブレザーの胸では、卒業生全員に共通の、白い花のコサージュが揺れていた。
 前を見つめている、その横顔を眺めながら。
 同じ列に座ったのは、これが初めてだと気がついた。
「うん。過去形」
「どうせなら、現在形がよかったな」
「嘘ばっか。私、叶わない恋はしない主義だもん」
「なるほど」
 ほら、否定はしないんでしょ。
 早馬君も、二年以上、今までずっと見つめてきた口だもんね。
「嘉月は、なんでここに?」
「なんとなく、かな。だって、もう二度と礼拝にも出ないだろうし」
「俺も。感傷なんて、ガラじゃないはずなんだけどな」
「あはは、私もだよ」
 くすくす。
 静かな礼拝堂内に、私達の笑い声だけが小さく響く。
「今日、泣いた?」
「ちょっとだけ。能代、答辞で結構いいこと言うんだもん」
「俺も、最後の賛美歌と校歌と歌ってる時に、ちょっときた。でも、仕方ないよな。キリンでさえ目が赤かったもん」
 知ってる。いつも誰より大きな口をあけて歌っている早馬君が、途中でそっと口をつぐんだこと。追うようにして、キリン君の低く掠れた声も消えてしまったこと。気付いたから。
 平凡で、だけど楽しかった高校生活。それは、振り返るとそれは輝きに満ちていて。せつなさに、胸が詰まる。
「……本当に、終わりなんだね」
「だな」
 沈黙。
 ドアの外から、教師らしき話し声と足音。続いて、下校時刻を示す音楽が流れ出す。これを聞くのも、もう最後だ。
「そろそろ帰ろっか。さすがに、みんなもういないかな」
 話しながら、立ち上がる。二人でゆっくりと、教室へ向かう。
「時々さ、みんなで集まって遊ぼうって」
「うん。どんな用があろうと絶対に参加するよ」
「俺も、キリン引っ張って行く。でも、瀬川は来ないかもなあ」
「大丈夫だよ。彼女、地元の国立だし」
「だといいな」
 ガラリ。
 戸を開ける。電気の消えた室内。黒板に、白いチョークで大きく書かれた、「3年1組よ、永遠に」。下手な殴り書きみたいな文字だったけど、書いた人物の予想がついて、思わず笑った。そして、八文字の下、綺麗な字で書かれたメッセージ。カヅへ、外で写真撮ってるから早くおいで。
「あーあ、待ちくたびれてんじゃねえの?」
「急いで行くよ。早馬君は? きっと、男子も外にいると思うよ」
「いや、俺の方は、ほら」
 教室の端、私の視界に入っていなかった辺り。机に突っ伏した男子生徒の姿があった。無口で長身の、早馬君の親友。そして、私にとっても、大好きだった男友達。
「なんか、気持ちよさそうに寝てるしさ。俺の帰り支度が終わったら、起こしてく」
「そっか。それじゃあ、先に行くね」
 行きはほとんど空に近かったカバンと、部活の後輩から貰った花束とを持ち、教室のドアを出る。
「それじゃあ。またな」
「うん。またね」
 太陽みたいな笑顔に見送られ、歩き出す。
 元気でね、とも。バイバイ、とも。
 口には出さない。二度と会えなくなるみたいで嫌だから。
 だけど、心の中でそっと思う。
 幸せになってね。私に色んな気持ちをくれた、男の子たち。
 バイバイ。

 廊下から窓の外を覗くと、多くの友人が校舎の前で記念写真を撮り合っていた。一人が私の姿に気付き、「カヅ! 早くおいでよ!」と大声をあげる。手を振り返し、足を速めた。
 昇降口へと向かう途中、礼拝堂の前を通りがかる。
 ぴたりと閉まった木の扉。その向こう側は、目を閉じれば鮮やかに思い描ける。
 その映像は、歳を経るごとに、おそらく薄れてしまうだろうけれど。それが、できるだけ先の事となるように。今は心に、深く深く刻んでおこうと思った。
 忘れたくないことがあるから。
 たとえ、一つ一つの思い出や。クラスメート一人一人の顔を忘れてしまっても。
 あの胸のときめきや、高鳴りを。
 思いっきり笑った、泣いた、あの気持ちを。
 傷つけた苦しさ、傷つけられた痛みを。
 誰かのくれた優しさを。
 無我夢中だったあの想いを。
 言葉を失うほどの、あの感動を、絶望を。
 そして、いつだって。どんなにつらい時だって、孤独に思えた時だって。私は決して一人でなかったこと。支えてくれた人の存在を。
 いつまでも、忘れないでいたいから。
 だから、とりあえず。毎朝見続けた、あの景色を。胸に刻んでおこうと思う。

 私は、クリスチャンにはなれなかったけれども。
 三年間、毎朝繰り返された礼拝。
 毎朝歌った賛美歌。
 毎朝ページをめくった聖書。
 毎朝見つめ続けてきた、その人。
 そして、毎朝抱いてきた、この場所の空気。

 それは。
 一つの時代の、象徴だった。

11月のうさぎ
松田めぐみ

 こういうものを衝動買いして良いのだろうか?

 昼休みに友達と行ったホームセンターの中にある小さなペットショップ、その片隅で売られていたミニウサギ。その子は、ベージュやグレーの子の中に混ざって、たったひとりでいた黒うさぎ。真っ黒だった。それまでうさぎは好きな動物ではなかったし、ふうん、と眺めて立ち去ろうとしたとき、その子の前足に目が止まった。左の前足の先っぽだけ白い毛がついていた。「はえている」というより「ついている」と言った方がぴったりで、はじめは綿でもついているのかと思った。それをまるで「これが売りなのよ」といわんばかりに、丁寧に舐めていた。

 すみません、あの、この黒いの、雄ですか?

 そう、雄ですか。育てるの難しいですか?

 ではください

 ええもちろん、うさぎ。あ、それから餌と水入れ、あと必要なもの

 ええ、連れて帰ります

 そう、今

 友達が笑った。ホントに買うとは思わなかったって。彼女曰く「お店の人はああ言ってたけど、うさぎって結構世話がたいへんなんだよ。さみしいと死んじゃうんだよ。あんた世話できるの?うさぎをさみしがらせない?」

 さみしいと死んじゃうのかぁ
 さみしいと死んじゃうのかぁ
 さみしいと…

 じゃぁ、買って良かった。だって私、今さみしくて死にそうなんだもの

ねぇ、ヒトってどういう時に死ぬのかなぁ
病気、事故、老衰
あとは? 
殺人はちょっと違うなぁ。あれは自分の意志ではないのだから

お金がない時、餓死、凍死

大切な人が死んだとき

逃げるとき
何から?
う~ん、なんだろ? 現実から、かなぁ

「なんで急にうさぎを買う気になったの?」

 11月に買ったからNovemberの『Nov.』と彼女が命名してくれた。彼女は冗談のつもりらしいが、私はとても気に入っていた。『Nov.』…11月のうさぎ。

 11月のうさぎは12月には健康診断を受け、健康優良うさぎの太鼓判を押された。そして、喘息の発作で入院した私を、早朝に病院から逃走させた。心配だった。もしも死んでいたら?餌はいつも多めに入れてあるし、水は3日間は十分なくらいの量のボトルがセットしてある。でも、わたしたちはふたり暮しなのだ。ひとりがいなかったら、ひとりぼっちなのだ。うさぎはさみしくて死んだりはしないと本に書いてあったのを読んだ。その説にはなんの根拠もないと。うさぎはさみしくても死なないのかもしれない。でも、ヒトはさみしくて死ぬ。友達が家に来た時に、Nov.は異様なほど怖がった。だからそれまでちょくちょく会っていたオトコも、誰も家に入れなくなった。オトコは安いHOTELのベッドの上で「おれとうさぎどっちが大事なの?」と愚問を投げかけてきた。

 Nov.に決まっているじゃない。Nov.はわたしがいないと死んじゃうの。あなたは違う。あなたにとってわたしの代わりはいるけど、ううん、わたしが誰かの代わりかもしれないけどさぁ、Nov.にはわたしの代わりはいないの

「そんなことない」という彼の言葉を遮って言った。

 わたしは、まなみって名前じゃないから

 だいたいにして、職場というところには窒息させられる。嫌な奴ばかりだ。人のミスを大声でわめきたてて、威張っている。私がミスをしたのがいけないのだけど。どうして私はこうも仕事が出来ないのだろうか。好きな仕事ではないからなのか、ただのグズなのか、オツムが弱いのか。しかし、そんなことは言っていられない。嫌なら辞めれば良いのだ。辞められないのは自分に自信がないから。もし次の仕事が決まらなかったら?私は野垂れ死にしたって構わないが、Nov.はどうする?連れて行くの?それともひとりぼっちにしてしまうの?
 そういえば昨夜、綺麗な顔のニュースキャスターが淡々と読み上げていたオトコの為にコドモを殺した女の事件。いまどきめずらしい話じゃないかもしれないけど、私だったら…私だったら、コドモの為にオトコを殺すことはあるかもしれないな。捕らぬ狸の皮算用だけど。でも、彼女は何故オトコではなくコドモを殺したのか。もしかしたら、好きなオトコのコドモではなかったのかもしれない。それとも寂しさ紛らしに、なんとなく生んでしまったのかもしれない。そして、邪魔になった。私もNov.を持て余すほどの好きなオトコに出会うことがあるのだろうか。

 仕事で役所に行った帰り道、友達のアパートに寄ってみた。たしか今日は休みなはずだと思いながらチャイムを押したが返事はなく、帰ろうとした時に鍵がかかっていないことに気が付いた。ドアを恐る恐る開けた。

 ゆみ?

そう言ってしまってから、オトコの靴に気がついた。間違いなく「おれとうさぎどっちが大事なの?」と愚問を投げかけてきたオトコの靴だ。『まなみ』の他に『ゆみ』もいたのかぁ。まぁ、ゆみに彼を合わせたのは私だし、「いつでも遊びに来てね」の言葉を間に受けて突然遊びに来た私が悪いのだ。知らぬが仏、知らないから幸せなのだ。特別なんとも思わなかったけど。好きな男でもなかった。ただ、私を好きだと言ってくれたことがうれしかったことを思いだした。ゆみもアイツも私の声に気が付いてしまったかしら。ふたりの絡み合っている姿を想像して何故か笑えた。

 同じ事やってんのかなぁ

 残業をしていると、窒息死しそうになったので帰ることにした。明日の朝早く来て仕事をすれば済むことだし、今日は寒いからNov.が凍えているかもしれない。ラビット専用のヒーターは入れてあるが心配だ。Nov.は凍えてなどおらず元気だった。当たり前といえば、当たり前なのかもしれない。それでもいつも心配してしまう。わかっていても心配してしまう。うさぎは懐かないと聞いていたが、Nov.は私に懐いていると思う。呼べば来るし、帰宅すると私の周りを暴走族さながらグルグル回る。呼ばなくてもいつも私の足元をうろついている。

 Nov.が来てから三ヶ月が過ぎた。
 今朝、この三ヶ月間治まっていた頭痛が復活してしまった。病気ではない。病院でいくら調べてみてもわからない。ただの偏頭痛。しかし、私は薬剤過敏症の為に頭痛薬を服用できないのだ。起き上がることも出来ない。Nov.が朝の運動をしたいとゲージの中で暴れている。這って行ってゲージを開けると勢いよく飛び出した。

 ノブー、頭が痛いんだよぉ。痛いよぉ、痛いよぉ

そう言ったとたんに涙が出た。せっかくだからそのままわぁわぁ泣いてみた。頭痛が治まるかもしれない。そんな訳あるか、と思いながらも泣きつづけた。涙はなかなか止まらない。Nov.は初めて見た光景にたじろいだ様子で、私の周りをウロウロしていた。

 ノブ、いいよぉ、ご飯食べなよぉ。大丈夫だからぁ。

もう、ガンガン泣いた。這いつくばってベッドに戻って、潜り込んでガンガン泣いた。壊れてもおかしくないほど。

 ノブー

顔を出すと、Nov.は私の涙のにおいをくんくん嗅いだ。

 ノブは泣かないの?でも、もしノブが泣いたら私すっごく悲しいよ。ノブを泣かせないように頑張るよ。だからずっと一緒にいてね

 まもなく3月。11月のうさぎは何月になっても私と一緒にいてくれると信じている。今度の11月まで生きて、ふたりでお祝いしようね。11月のうさぎは、次の11月まできっと元気だ。きっと元気でいてくれる。私と一緒に。

そして、私たちはいくつの11月を迎えることが出来るのだろう。