60セントのリボン
るるるぶ☆どっぐちゃん
見上げて目に入った灰色のビル群は子供の頃赤だとか青だとかの原色が大好きで、それでいつも混ぜ過ぎてしまい、絵を描く段階までには必ず訳の解らない、惨めな灰色にしてしまったこと、だからあたしは絵をいつもそんな灰色一色で、白猫も黒猫も、ホワイトクリスマスのツリーも描いていていつも図工が2だったことなどを思い出させてキツく、それで丁度駅にいたこともあり、あたしは自動券売機にお札を突っ込んだ。
黒いボタンに赤い電光数字が浮かび、それがずらりと並ぶ。
(あたしにはこんなに行ける所があるのか)
数字の羅列に少し圧倒されつつ、あたしは適当にボタンを押した。
振り向くと人の列。ビル群と青い空。券売機に並ぶ人並みは、無言であたしを押し退けた。
改札口は目の前だった。あたしは普段の定期券では無く先程買った切符を改札口に、未だに迷っているのかおずおずとした動作で差し入れる。改札処理はJRの誇るゼロコンマ2秒で終了した。あたしは背中を押されながら、たっぷり2秒はかけて切符を受け取った。
構内には掲示板が沢山あった。掲示板を見るのは久しぶりだった。いつも同じ電車だったから見る必要が無かったのだ。
敲波・佐野方面。真過張・鉢葉方面。掲示板には色々な地名が並んでいた。何乗ったら何処へ行くのか。あたしには見当も付かなかったからいつも乗っている緑の電車じゃあ無く、可愛いな、と思っていたオレンジの電車に乗ろう、と決めた。
オレンジ、オレンジ、とオレンジの掲示板を辿っていく。迷わずにオレンジのホームに着けた。チャイムが鳴り、人気の無いホームに人気の無い電車が滑り込んでくる。乗り込む。チャイムが鳴り、ドアが閉まり、電車はホームを抜け出した。
乗ったのは各駅停車のようだった。かなりのゆっくりさんであるあたしでさえイライラするくらい、電車は短い間隔の各駅を各駅停車し続けた。
車窓にはどうと言うべきことも無い景色が続いている。もう灰色のビル群は見えないけれどでも風光明媚まわけも無く、何処にでもあるようなセンスゼロの看板ばかりが目に付いた。
あたしは少し沈んだ気持ちになり、切符に目を遣った。切符には何か(入場者数だろうか)を示す四桁の数字が並んでいる。
その数字の内、二つを足し算して十になるとその一日は良い感じ、という他愛も無い話が子供の頃あったなあ、と思い出し、やってみた。結果は大惨敗で、足し算はおろか引き算しても十にならない。昔は高確率でなったのに。
(すげえ。マジすげえよ)
同じクラスの金子君が興奮してあたしの気持ちも知らないであたしの肩を掴んで、あたしをドキドキさせるくらいの、そんな確率だったのに。
がたん。
大きな音に目を開ける。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
電車は止まっていた。でもホームでは無い。どういう訳か何も無い場所で止まっている。
暫く経ったけれど何も連絡は無い。
あたしは結局、窓から抜け出した。
周りを見渡す。あたしは、とりあえずコンビニかな、と思いコンビニを探して横断歩道を渡り、真っ赤な橋を真ん中で渡り、トンネルを抜け、光に包まれ、それを抜けると、コンビニはあった。そして見つけたのはコンビニだけでは無かった。あたしは色々なものを見つけた。見つけてしまった。
視界に飛び込んできた景色は見覚えのあるものばかりだった。古い並木。真っ直ぐの道とちょっとよれた道が芸術的な角度で交わる交差点。上空の鳥達も記憶と同じように鳴いている。
あたしはいつの間にか、ずっと昔に家族で住んでいた街にいた。
コンビニを通り越し、歩みを進める。
(あの角を曲がると)
昔の家がある筈だ。
あたしは角を曲がる。
そして、見上げた。
住んでいたあの倒れそうな、というか倒れてしまったのに気力だけで立ち上がったような、あの家は何処にも見え無かった。そこにあったのは八階建てで灰色の、自殺にはぴったりといった感じのマンションだった。
(いつか帰ろう。色々あったけれど、皆でいつか帰ろう)
あたしがいつか、と思っていた場所にあたしは今辿り着いていて、そしてそう思っていた場所はもう無くなってしまっていた。
(これは一体どういうことだろう)
事態を飲み込めず、あたしは眼前の景色をただ眺めていた。
すると七階の窓がいきなり開いた。
「どうしました? これは一体どういうことだろう、って顔をしてますよ?」
「ええ。実にそういう事態なんです」
「それはそれは。じゃあお茶でも一つ如何ですか」
「有り難う御座います。伺います」
あたしは階段を七階まで昇った。
途中景色を見ると随分遠くまで見渡せた。あたしが知らない景色だった。
(この街にはこんな青空があったのか)
あたしはそう思った。
「どうぞ」
玄関を開けると、男が待っていた。
男一人だけかと思ったら小さな女の子が居た。
「ご挨拶なさい」
「初めまして」
彼女はそういうと男の後に引っ込んだ。
「娘さんですか」
「ははは」
男は笑っただけで返事を済まし、あたしを中へ案内した。
「どうぞ。粗茶ですが」
「頂きます」
確かに粗茶だった。
「ご馳走様です」
あたしは茶碗を置いた。
「私は世界中を随分歩いたものです」
男はお茶に関しては何も言わず、唐突に喋りだした。
「世界中ですか。どうですか、世界は」
「世界は段々悪くなっていくようですね」
「そうですか」
「でもそういう時代もあるものですよ」
「そうですね」
私が答えると男は微笑んで、それで何となく打ち解けた気分になった。
「ところで、先程はどうしていたんです?」
男はインチキ臭い、しかし大真面目にも思える独特の喋り方をしていた。
「ええ。あたし、昔この辺りに住んでいたんです」
「奇遇だ。私も住んでいました」
「そうなんですか」
「ええ。つい先程帰ってきたばかりです」
「つい先程?」
そう聞きかけた時、大きな音が響いた。
それと同時に部屋全体が傾き、あたし達は壁に叩きつけられる。
「いたっ」
「始まったな」
「えっ、何が?」
「工事ですよ」
男は壁に手を付き、立ち上がる。
「ここ取り壊すそうですよ。入り口に書いてありました」
そう言って笑う男の顔を、あたしは立ち上がれないまま見上げていた。
「こんなに新しいのに?」
あたしは他に色々聞くべきことがありそうなのに、結局そんなことを聞いた。
「ええ」
男はインチキ臭く、そして魅力的に笑った。
「でもそんな時代もあるものですよ」
あたし達のそんなやりとりの間にも、マンションは崩れ続けた。
窓の外に目を遣る。傾いた空があった。青の中を滅茶苦茶な角度で電線の黒が突っ切っている。それは手の届きそうなおかしさがあった。もう自殺なんて出来そうも無い。
「こんな時代もあるんですね」
あたしはそう答え、そして手の中の何かに気付いた。切符だ。あたしはまだそんなものを握りしめていたのだ。
あたしはバッグからボールペンを取り出し、構え、空を見つめた。そして切符にスケッチを始める。
「うまいですね」
男があたしの手元を覗き込み、言った。
「まるでリボンをかけたみたいな空だ」
あたしは絵を誉められたのが初めてだったので照れてしまい、何も言えなかった。
傾いた壁に、女の子は器用にバランスを取って立っていた。
「お姉さんの邪魔をしちゃ駄目だよ」
男はバランスを崩し倒れ、あたしの視界を塞ぎながらそう言った。
「うん」
女の子は無表情にそう答えた。