Entry1
『ゴリラと兵隊』
詠理
文字数2995
「きーみー…がーぁよーぉーはー…」
それは紛れもなく、我が母国であるはずの国の歌だった。
「ちぃよにー…やーぁちーよーに…」
画面に映った老婆の細い目は鈍く濡れている。
「むーすーぅ…まーぁーぁでー…」
伴奏もなしに歌いきったところで画面は切り替わり、真新しいゴリラの人形が飛び出した。
「こんな風に日本は昔この国を占領して、国語の教育をしていたんだ。今でも歌える人はたくさんいるんだよ」
その口調はひょうきんだったが、クラスは咳一つなく静まり返っていた。冷房がゴウゴウと私たちの代わりに鳴いて、ただ鳥肌の立つ風を送出す。
「さあ、次は君たちが自分で見に行くんだ」
ゴリラがそう言っていなくなっても、私たちの頭には先刻の流暢な(こう言うのが正確だと思う)な「君が代」が流れっぱなしだった。
社会科実習の授業の後は感想文を書くのだけれど、今日はその紙は配られなかった。前回の授業では非核三原則について習って私は短い感想を書いた。
「沢山の人を殺す武器を持たないようにするのはいいことだと思います。けれどどうやって今まで国を守って、これからも守っていくのかな」
先生のコメントは次のようだったと思う。
「武器という乱暴な力を持たなくても、人々は平和に生きていくことができます。例えばどういうものが挙げられるか、一緒に考えていきましょう」
母は現地の大学で日本語を教えていたのであまり家にいなかった。父の帰りも夜遅い。だから私たち兄妹の世話は、リリというアマさん(こちらではお手伝いさんのことをこう呼ぶ)がしてくれていた。生まれたときからお世話してくれている彼女は、私の第二の母だった。
今日も家に帰ると母はおらず、リリさんがココナッツ・ケーキを作っていた。
「リリさんも歌えるの?」
私はそんなことは聞かなかった。歌、占領。その意味はよく分からなかったが、老婆の皺がれた顔が私の腹をまだ侵蝕していたから。
夕方ごろに母は帰ってきて、私は一緒に近くのマーケットに出掛けた。普通の外国人(いつか帰国する人)はデパートで買い物を済まし、マーケットにくることは滅多にない。「なんで」と私が聞くと、「生肉の匂いと騒々しさが嫌いなんでしょう」と母は言った。私も生肉の匂いは苦手だったが、原色の花や躍るような人の表情はそれ以上の魅力があった。
「ジャパニーズ?」
店のおばさんが突然母に聞いた。
「チャイニーズ」
母は慣れた英語で返事をして、広東語で交渉を続けた。
私は少し離れたところで金魚を見ていたので、母は私が聞いていることを知らなかったのかもしれない。買い物中、その単語は頭の奥でぐるぐると回った。
家に帰ると私はすぐに箪笥の引出しからそっとパスポートを取り出した。確かに、菊の文様と「日本国」という文字。私は夕食までの時間ずっと、その文字を見つづけた。
七月は特にスコールが多い。表の道路から国立博物館に駆け込む間に、私たちはびしょ濡れになった。
この日、午前ということもあってか見学者はとても少なかった。英国調の重厚な造りのこの建物の床は全面が大理石だった。大理石の床は公共の建物には普通だけど、床に反射する自分の姿と反響する声が、何かの体内に取り込まれているような気持ちにさせた。
入り口で暫く待つと、クラスの誰かの母親だろう女の人がやってきた。
「はい、1番から12番の人は私、佐々木。13番から25番の人は大森さん。26番から35番は青木さんの後ろに並んでください」
一列に並ぶとプリントの冊子が配られる。一行目に大きく「社会科実習―歴史4」。
実際、この国の歴史の授業は四回目だったと思う。一回目は王冠を海に投げ捨てて辿り着いた建国者である王子様の話だったし、二回目はイギリスの軍人が中国人労働者を使って土地開拓をした話で、三回目はあの老婆の歌。そして四回目の今日はこれまでとはどこか違うと、私たちは息もできないほどのスコールから感じていた。
「こちらを見てください」
佐々木さんが言った。
「日本軍が侵攻したところです。こうして兵器で圧倒して、たった一日で国の全土を占領してしまいました」
並んだ大砲からでた綿は今にももくもくと噴き上がりそうだったし、銃剣で刺された男から溢れる血は転んだときの私の血と同じ色をしていた。整列した兵士たちは眉を釣り上げて無表情で、向かい合った男たちはすす汚れた顔を腫らしている。
佐々木さんのナレーションは棒読みだったが、この皮膚が引き剥がされるようなジオラマと合わせるとちょうどよかった。
「これは何でしょう?」
今度はガラスケースを指さして聞く。
「お札です」
一番前でケースに張り付いていた山崎が妙に大きな声で答える。
「そうですね。でも文字を見てください。なんて書いてあるか読めるでしょう?」
私たちは先を争って覗き込んだ。今のこの国のお札にはない漢字から、私たちは瞬時に悟った。それはパスポートのあの文字。
私たちは次々と様々な飛び散り方をする血、安っぽい既成品、歌う人々、きっちりした軍服、跪いて敬礼する人、出来合いの鳥居なんかを見た。それらは私たちの胸にぐいぐい入り込んできたので、飲み込もうと私たちは沈黙した。少しでもしゃべると吐きそうだった。血が逆流しようとしていたし、目頭は燃えそうだった。
「では皆さん一列に並んでください」
ぐるんぐるん浮くようで沈みそうな体は、いつの間にか大きなホールにあった。一列に体育座りをして私たちは他の二組が回ってくるのを待った。ああ、何故こんなところに座っていられたのだろう。二階まで吹き抜けの、正面の壁一面を覆う巨大な絵。赤い衝撃。
私たちは雷雨の海から岸を見ていた。水面はのこぎりの刃のように鋭く、切りカスが飛び散っている。奥の海岸に緑色に身を包んだ人影が林立して海に向って火花を散らし、その煙が海岸を曇らせていた。飛び出した弾丸は間違いなく貫いたのだろう、海は嵐のため黒かったが、それ以上に赤かった。雑然と積まれた真っ赤な体群は、砂浜を淡いピンクに染めて儚げな美しさを放つ。その小さな群れの一部になることを免れた者たちが、画面手前から外へ這い出そうと、声なき声で叫んでいた。喘ぎ、もがき、飲み込まれる。救いも何も待っていない進路を変えようともせず、手を先へ伸ばす。抱かれた子供は手をだらりと垂らし、頭は半分吹き飛んでいる。母親だろう女は泣くでもなく歯を食いしばり唇に血を滲ませている。水面は水飛沫だけではなかった。逃げ惑う人々の血飛沫と涙が混じり、雨をまったく打ち消していた。
髪の毛が一本一本、その飛び散る飛沫の数だけ抜き取られるような時間、私たちは凍りついていた。後で理解したことだが、ごてごてに色づいたタペストリーも、執拗なまでに装飾された金色の額縁も、ただその絵の威力を少しでも弱めるためにあったのだった。
私たちの小学校の五年生には必ずこの実習が行われ、胸に刻印を刻む。傷は年を経るごとに深くなっていきじわじわと痛む。私たちはこれがなんの印なのか知っていたし、この痛みがなんで起こるのかを知っていた。私たちはあの絵の外にいた。どうしても外にしかいられなかった。刻印はこの国の住人としてのものだった。けれど痛みは国民でないことのためのものだった。
今でも大きめの絵を見るたびに胸は何かに掴まれる。その手は一体?
私たちが教室に戻ると、画面からゴリラが「また会ったね」と言った。
Entry2
しのかたち
織アヤ
文字数2191
死、というものは、時折美しく語られる。
哀しむあまり故人の生前を褒め称え、その死を綺麗に語らなければ気がおさまらないのだ。
今年の春に、わたしの親友が死にました。
七年の、付き合いでした。
大好きだった彼女を、今ではとても憎んでいます。何故なら彼女の死は自らの手によるものだったから。
つまり――自殺。
三月とはいえ、夜ともなるとまだ冬のように凍てつく寒さ。
そんな頃、公園の池に彼女は沈みました。脚に碇のようなおもりをぶら下げ、引き上げられた時には彼女の体は膨れ上がってぶよぶよだった。とても彼女の身体だとは思えなかった。
彼女が本当は何に苦しんでいたのか、わたしにはわからなかった。でも親友だと思っていたから、彼女を救えなかったのはわたしの所為だ。原因はともかく、わたしは彼女を救えなかった。
死がこんな近くにあるなんて、思いもよらなかった。
今日のお昼、彼女のお母さんが訪ねてきました。わたしに、渡したいものがある、と言って。
「あの子の日記です。はるかちゃんに……読んでもらいたいの」
おばさんはにっこり、でもどこか悲しそうに微笑んで、これは返さなくていいわ、あなたが持っていて。と言った。
いま、わたしは彼女の日記を開いている。
毎日書かれているわけではない。もちろん、毎日のように書かれている時期もあれば、一ヶ月くらい平気で飛んでいるところもある。字もその日によって全く違っていて、まるで精神の不安定さを物語ってでもいるかのようだ。
疲れる 死にたい いなくなりたい やりたくない 疲れた
読んでいて辛くなるようなことばかり書いてあった。もちろんそれだけじゃないけれど、わたしにとって彼女の死はとても重く、だからこそこの日記帳は『死』ばかりが連ねてあるような気がした。
『わたしは、わたしとして受け容れられることは生涯ないと思う。』
「……」
わたしは彼女のことを受け容れていなかったのだろうか。わたしの前にいた彼女は、演じられていた人物だったのだろうか。
『上手く出来ない。本当の自分を綺麗に覆い隠すことは、わたしには無理だ。だから嫌われる。』
ということは、べつにわたしの前で彼女が仮面を被っていたわけではない。でも彼女はそれで嫌われると思っている。
「心外だ」
わたしは彼女を嫌ったことがない。
『わたしはやっぱり頼りにされてない。相手にされてないね。なんかいろんなことがどうでもいい気がするよ。』
わたしのこともどうでも良かったのだろうか。わたしが彼女を相手にしてないとでも、思っていたのか。
『内側のドロドロとしたものを、誰かに伝えたい。でも誰に言っていいのかわからない。』
「わたしに言ってくれれば良かったのに」
彼女の求めていた答を導き出して上げられる自信はないけど、それでも聞いてあげることは出来た。わたしから聞き出さなかったのがいけなかったのか?その結果がコレなの……?
『はるかに頼っちゃいけないと思った。独占なんてもちろん赦されない。つまりそれは、はるかを苦しめるということだから』
「勝手に決めるなよ」
彼女に頼られて、わたしが苦しいはずがないのに。
『いつかはるかにも嫌われていくのかな。そんなん耐えられないなぁ。わたしはいつになったら変われるんだろう。こんな後ろ向きな自分は早く捨てたいのに。』
苛苛してきた。今更どうしようも出来ないもどかしさに、わたしは足でドスンと床を叩いた。
深呼吸をした。
落ち着かない。
もう一度、床を鳴らした。たらなかった。
「……くそ」
どすん
どすん
「っざけんな!」
今度は机を叩いた。日記帳を放り投げた。ノートは壁にあたり、ベッドの上に微かな音を立てて落ちる。
机の上に置いてあるものを、手当たりしだい日記帳に向かって投げつけた。時計も教科書も、手帳も投げたしペンスタンドも投げた。散乱しているフロッピーディスクも、ぜんぶ投げる。
こんなになったのははじめてだ。
いつもは『後で片付けなきゃいけなくなる』という情けない理性が働いたのに。
投げるものがなくなって、立ち上がる。今は弾かなくなったキーボード。そこに乗っていた物もみんな散らかして床に落とす。
ここに来たとき、彼女は上手にキーボードを弾いた。
埋もれていた楽譜も引き裂いて、いろんなものを叩きつけられた日記帳は、もうわたしの視界に入らない。
「佳織ッ! 出て来い佳織!」
なんで死ぬの。
わたしがいたのに。
「勝手に死んでんじゃねぇよ!」
佳織にとって、わたしは一体なんだったんだ。どうして佳織はわたしに何も言わなかったんだ。
「佳織の『死』なんかキレイじゃない! 認めない! 出て来い佳織っ」
わたしは佳織が大好きだった。佳織より大事な友達なんていなかった。佳織が死んでも、わたしの中の佳織の位置はかわらない。
いちばんだ。
――今でもいちばん佳織が好きだよ。
「なんで、」
どうして伝わらなかったんだろう。
こんな簡単なこと、なんであんなに近くにいて、伝わらなかったんだろう。
「佳織ィ……」
へたり込んだ。一気に涙を意識した。
いつの間にかわたしは泣いていた。
佳織が死んで、はじめて大声で泣いた。
「さみしいよー……あたし佳織がいないと、どうしていいかわかんない」
出てきて。
切に、そう願った。
もう会えないのはわかってるけど、でも、会いたいよ……――
「会いたいよ……ッ」
Entry3
狭間
猫月終
http://guitarer.hp.infoseek.co.jp/untitled.html
サイト名■UNTITLED
文字数2611
ふわふわしてる。宙に浮かんでいるよう。右も左も上も下もわからない世界。そこには何もない。ときたま、体に感覚が戻る。その一瞬を逃してはならない。そうしなければ私は眠りから覚めることができない。
だるい。あまりにもだるい。目覚めは最悪だ。さっきまで、遠い世界にいたような、そんな気がする。
「くっ。」
ぼうっとしていると意識が飛んでいきそうだ。
僕は小さいアパートで家族三人で暮らしていた。父親は独善的で、自分の価値観が正しいと信じて疑わない。母親も、少しも僕のことをわかってくれない。僕の心の闇を、わかってくれない。
僕は自分の部屋でテレビを見ていた。ドラマがやっていた。安っぽい感動、悲しさ、安っぽい感情がそこには溢れていた。僕は呆れてものも言えず寝巻きからジーンズに履き替えて、外に出た。
繁華街を歩くと、幸せそうなカップルが目に付いた。仕事に追われるサラリーマンが目に付いた。こいつら、ちゃんとした社会生活を送って、僕を取り残していってる。途端に道を歩く人すべてが敵に見えた。
僕はさりげなく一組のカップルに近づくと、懐から大ぶりのナイフを出し、男の腹を抉った。男はうめき声をあげ、腹を抱えて地面に崩れ落ちた。
「え?うわ?きゃー!!」
男の彼女は完全にパニックを起こして地面に座り込んでいる。
僕は逃げ出した。近くの雑居ビルに駆け込み、屋上まで休むことなく走った。
屋上のドアには鍵はかかっていなく、しばらくそこで煙草を吹かしていた。
「う、動くな、傷害の現行犯で逮捕する!」
ドアに背を向けて立っていた僕が背後の声に促されて振り向くと、若い警察官が立っていた。日本の警察も優秀なもんだ。こんな短時間にここまで来るなんて。
「傷害が悪いって決めたのはあんた達だ。僕には関係ないね。」
僕はそう言って煙草を投げ捨てると屋上をぐるりと囲っていたフェンスを登り、遠く下に見える地面にその身を投げた。
ふと目が覚める。見た限り病院ではない。もちろん霊安室でもない。視界に入ってきたのは見慣れた自分の部屋の天井だった。
また、夢、か。いや、今のこの時間も夢かもしれない。あれは僕の願望か。おぞましい。でも自分を否定する気にはならない。自分が社会で許されない願望を持っているとしても、それは仕方のないことなのだ。
「健くん、おはよう。」
ああ、林か。僕の部屋で何をしているんだ。
「おはよう。何年ぶりだろう、会うのは。元気そうだな。」
「僕ね、パイロットになったんだよ。ジャンボジェットでも戦闘機でもなんでも飛ばせるんだ。」
「すごいじゃないか。」
「でしょう。今度見に来てよ。僕が飛行機飛ばすとこ。」
林は誇らしげに言った。
それからしばらく音沙汰なく、次に会ったのは彼の病室だった。彼は病床にいた。治る見込みのない病気だった。
「僕、曲を作ったんだ。健くん、作曲とかアレンジとか得意だったよね。アレンジ頼めないかな。」
「オーディションにでも応募するの?」
「いや、単純に趣味だけどさ。」
「まあいいよ。聞かせてみな。」
彼はテープレコーダーを取り出し、彼の曲を流し始めた。ジャズィでお洒落なピアノ曲だった。意外だった。彼に音楽的素養があるなんて知らなかったため、ひどく驚いた。ミスタッチは多いものの、アレンジなんかしないでそのままでも十分な曲だと思った。
「凄いじゃないか。ピアノ弾けるなんて知らなかったよ。」
「ピアノ習っていたからね。ピアノしか弾けないからピアノで作ってみたんだけど。」
「うん、まあ出来る限りのことはするよ。」
彼は最高の笑顔を浮かべていた。
ある日の夕方。僕は思い出した。彼はもう去年からこの世にはいなかったこと。僕が見ているこの世界は夢だってこと。そして僕は彼の名前も思い出せなかったことに気付いた。
僕は再び眠りについた。
ジリリリリリ…。
僕は目覚ましの音に促されて起きた。と同時に彼女から携帯にメールが来た。
「いつものとこにいるから。」
僕は急いで着替えると、彼女の待つ喫茶店へ向かった。愛する彼女とのデートのはずだが、気が重い。僕は彼女に対して強く好きとは思えなくなっていた。
「昨日の九時からのドラマ、見た?あたしすごい感動しちゃった。ほら、あの港で幸作が死んじゃうシーン。感動モンだったよね。泣いたよ、私は。」
「一気に喋るなよ。俺は見てないんだ。」
「そう。ドラマも面白いよ。見てみなよ。」
「ああ、そうする。」
それからの会話も決して弾んだものではなかった。
「あたしのこと、好き?」
うんざりするほど繰り返し聞いた台詞だ。
「ああ、好きだよ。」
「今あたし、すっごい鬱でさ。もう死にたい。何もかも捨てて死にたいよ。健はあたしのことウザイ?いつも死にたいってばっかり言っていて。」
「そんなことないよ。」
…嘘だ。
それから彼女は二言三言喋ったが、僕は上の空で相槌ばかり打っていた。
彼女とはその喫茶店で別れ、家に向かった。
家に着いたとき、携帯が鳴った。彼女からだった。
「悲しいの。どうしようもなく悲しいの。なんであたしはこの世にいるの。あたしなんかいなければいい。もう死ぬ。」
僕は電話を切った。勝手にすればいい。死にたいのは僕のほうだ。僕も鬱だった。ただ、一人で死にたかった。
テレビをつけてみた。
「感動のラブストーリー、全米ナンバーワンヒットの超大作、遂に日本上陸!」
仰々しく映画の宣伝がやっていた。
再び電話が鳴った。また彼女からだった。しかし彼女が言葉を発する前に僕はまくしたてた。
「安っぽい感動も愛情も悲しみも、安っぽい感情はもう沢山だ。おなかいっぱいだ。もういらないよ。」
僕は電話を切って、携帯を家に置きっぱなしにして、外へ駆け出した。
これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。僕はこんな世界にいるはずはない。そう思っていたら、重力のない空間を漂っているように、僕の感覚は消えた。
とてもふわふわした感覚の中で、僕は目覚めた。いや、目覚めと眠りの真中の世界にいた。ひどく現実感のない現実。いや、そもそもこれは現実なのだろうか。今まで見てきた夢の中の一つなのではないか。
一秒前の記憶も消えてしまいそうな希薄な世界。これが現実だというのか。
僕は現実を確かめたくて、手首にカッターで赤いラインを作った。ああ、この血は温かい。僕は両手を上げ、空を仰ぎ見た。
次の瞬間、今までの光景は消え失せ、僕はまだベッドの中にいた。
Entry4
犬
松田めぐみ
文字数3000
「ただいまぁ。」
アパートの安っぽいドアを開けると、犬がよぼよぼと玄関に出迎えてくれる。ただいま、ともう一度言って頭をなでてやる。あまり大きくならないからと言ってもらってきたのは小学生のとき。それが思ったよりも大きくなっちゃって。抱き上げようとするとお互いがつらい。一緒に暮らすようになってからもう何年になるだろう。
「さんじゅういち、ひく、じゅうに」と声に出して言ってみる。早いなぁ。でも長生きしてくれてうれしい。
夜になると隣の部屋の夫婦喧嘩も下の部屋の夫婦生活も聞こえてくるアパートで、しかもペット禁止ときっぱりと言われたこのアパートで、住人達が黙認してくれているのはこの犬がおとなしいからだ。3年も前から「いつ死んでもおかしくないから、覚悟はしておいて下さいね」と獣医さんに言われている。もうすぐ最も苦手とする季節「夏」が再び巡ってきてしまう。今年の夏も何とか持ちこたえてね。
犬にシニア用のドッグフードをあげて、自分のためにコーヒーメーカーをセットする。そして、タバコをゆっくり吸いながら出来上がりを待つ。犬もゆっくり、まったりと食べ始める。
「ねぇ、今日も会社で叱られたの。どうして私はダメなのかなぁ。それに頭痛がひどいの。きっと今夜あたり雨が降るんだわ。そうそう、あいちゃんのところで二人目が生まれたんだって、今度は女の子だってさ。みんなどんどん家族を作っていくんだね。」
いつの間に私を追い越したのだろう。もらってきたときは確かに赤ちゃんだったのに。
犬は食べるのを止めて悲しい目で私を見つめ返す。親のような目で。困った子だねぇ。とでも言いたげに。
タバコの灰が落ちたのをきっかけに涙があふれた。誰も気にせずに泣けるなんて、独り暮しって気楽で良いねぇ。
「ただいまぁ。」
めっきり暑くなってからというもの、犬は出迎えてくれなくなった。食欲も殆どなく、今朝のドッグフードがそのまま残っている。今度の給料日には休みを取って獣医さんのところに連れて行こう。
しばらくの間頭を撫でてやってから、新しいドッグフードと取り替える。そしてゆっくりタバコをふかしているとチャイムが鳴った。車で30分程のところに住んでいる両親が立っていた。
「どうしたの? 久しぶりだね。」
本当に久しぶりで見る両親は、急に老け込んだようで少し悲しい。
ある時、「いい加減に親離れしなさい」と言われた。そうだよな、と思ってからなんとなく実家に行ってはいけないような気がして、私の足は遠退いた。キタキツネは生後半年経った子ギツネを追廻し、巣穴から追い出して独り立ちをさせるという。私は二十歳の時にとうに家を出て独り暮しを始めていた。でも、それは親離れとは違う。親離れの意味は今もってわかっていない。体も心も丈夫ではない私の行く末を案じてのことだったのだろう。私は同居していないパラサイトシングルなのだ。
「どうしたのよ、いったい。電話も通じないし、携帯も番号が変わっているし。今日いなかったら会社に電話しようと思ってたのよ。それよりもなんなのこの臭いは。」
母が一気にまくし立てる。父が何も言わずに私を見ていた。私の犬の目に似ているなと思った。
母の小さな悲鳴が聞こえて、私の犬は私のタオルケットに包まれて両親に連れて行かれた。きっと獣医さんのところだろう。
犬がいない部屋はさみしい。さみしいからずっと泣いていた。独りで泣くなんてことがあっただろうか。小学生のとき以来かな。いつも犬がいてくれたから。
私の犬は、いつ親離れをしたのだろう。私と会った時はまだ赤ちゃんだったのだから、親を知らないのだろう。親はいなくても子は育つ、というけれど、親がいても子は育たない場合もあるのだなあ。
両親が早く私の犬を連れてきてくれることをひたすら祈った。
犬がいなくなってから、会社を休んでいる。
今日も暑い。犬の体に悪いからとエアコンは使わない。
ふと忘れていたことを思い出した。あの日は冬の最中だった。結婚しようねって約束した人がいた。その彼の妻と名乗る人が突然やってきて、訴えてやるからと怒鳴って泣いた。彼がその人をなだめて連れて帰って、それ以来彼と会っていない。声も聞いていない。私は電話もせず、犬とふたりで息を潜めていた。何が起きたのかわからなかった。友達が騙されたのだと教えてくれたけど、それでも私は何がなんだかよくわからなかった。
彼が「結婚してくれる?」と上目遣いで聞く度に、私は「どうしようかな」とふざけていた。実家を出たのが私の彼へ対する答えだったけれど、まだ若かったから彼が何故そんなに結婚にこだわるのかわからなかった。彼は寂しがりやだからだと思っていた。
もし、あの時、「すぐに結婚しようよ」って私が言っていたら、彼は離婚したのだろうか。もし、すべてを打ち明けてくれて、「離婚するから結婚しよう」と彼が言っていたら、私は彼と結婚したのだろうか。ただ、離婚した後で、全てを知ってしまったら私は間違いなく結婚しただろう。でも、そんなことあるわけはない。彼は寂しがりやなのだ。自分だけはひとりぼっちにさせない。たとえ彼の奥さんや私をひとりぼっちにしても、自分だけはひとりぼっちにさせない。
でも彼がいなくなっても私には犬がいたから。
会社を辞めて一週間くらい息を潜めていた。
犬が散歩に行きたがって、仕方なしに外に出て近所の美容院の前を通った時に驚いた。家に戻ってまじまじと鏡を見て我に返った。
「食べなきゃ、働かなきゃ、ね。」
履歴書を片っ端から送りつけて今の会社に決まった。犬には特上のビーフジャーキー、自分にはケーキでお祝いをした。私は誰も好きにならなかった。友達とも自然と離れていった。私はいつでも寂しかったし、いつでも犬がいてくれてうれしかった。
そう、いつでも犬がいてくれたから。
その犬がこともあろうか両親に連れ去られてしまった。いつもの獣医さんの所に電話してみたが、来ていないと言う。いったい、どこの獣医さんに診せているのだろう。
私にも我慢の限界というものがある。犬に新しいドッグフード(もちろんシニア用)を買って、実家に押しかけた。
義妹がいて、みんな仕事に行っていると言う。そして私の犬のことは知らないと嘘をつく。
「ただいまぁ。」
怒鳴ってみても犬は、犬は当然出迎えてはくれない。暑いからじゃない。年をとったからじゃない。両親が連れて行ってしまったから。
待ちに待った両親が来た。犬は連れていなかった。母は私の頭を撫でてから隣に座った。
「こんなに汗かいて。」
私の顔は、汗と涙に爛れて痛かった。
「私の犬を返して。」
そう言うと、母は泣いた。父が「また犬を飼おうな。今度は大きくならないのが良いな。」と言う。
そうじゃなくて、私は私の犬を返して欲しいのに。
車の窓は、やつれきった私の顔を映し出して走った。何処へ向かっているのか誰も答えてはくれなかった。
犬は、私を独りぼっちにはさせない。絶対に。誰が私を独り残しても、巣穴から追い出されても、新しい家庭を築けない片輪な私を、犬は見捨てたりしない。
私は、ドッグフードを持ってこなかったことを悔やんだ。
月が出ていた。
夏のよは またよひなから 明ぬるを 雲のいつこに 月やとるらん
百人一首を覚え始めた時も、犬は傍にいてくれた。
注)夏のよは またよひなから 明ぬるを 雲のいつこに 月やとるらん(小倉百人一首 作者:清原深養父)
Entry5
選抜クラス会
太郎丸
http://www.toshima.ne.jp/~takuto_k/index.html
サイト名■太郎丸の落書き
文字数3000
「みゆきさん。それじゃ。何にも無いとは思いますが、後はよろしくお願いしますね」
「はい。ゆっくりしてらして下さい」
光夫が小学校のクラス会に出席するのは2度目だった。15年程前に始めてクラス会が開かれ出席し、仕事の都合やらもあって欠席が続き、そのうち先生が亡くなってからは面倒になっていた。
あれから、妻には先立たれ息子は結婚し、孫まで出来た。月日の経つのは早い。
今回のクラス会は、いつもの往復はがきではなくて、封書入りの招待状だった。
「選抜のクラス会」という文字と「2次会は、もう大変!」という文字が、興味を誘ったのも確かだ。
招待状には、「不参加の場合、今後の誘いはありません」なんて書かれてあったのも原因かも知れない。光夫は昔を懐かしみながらも、嫁のみゆきさんが取ってくれた列車に乗込んだ。
降りた駅の名前は何年か前に変っていたし、駅前は大きなロータリーになっていた。もちろん、光夫が小学生の頃にはバスさえ殆ど通っていなかったし、大きな建物といえば駅前の2階建ての大黒屋だけだったが、いまでは見上げるほどのビルが立ち並んでいる。道も舗装され車も多い。…変ってしまった。そんな想いもバスに乗り目的の旅館に着く頃には、辺りの景色も昔通りの何もない田舎に変っていた。
「河野君?」
「えっ? あ…、さ・だちゃん?」
子供の頃は真っ黒だったのに今では白い顔をした幹事のさだちゃんが、待っていた。
「色、黒く…」
「もう! 今は白いんです!」
ふくれた顔は同じだった。
「みんなもう着いたんか?」
「えぇ、みんなお待ちかねよ」
旅館のロビーで会った私達は笑いながら、部屋に向かった。久しぶりに会ったのに、言葉遣いは子供の頃に戻っていた。
「はい。男子はこちら」
さだちゃんに案内された部屋には、懐かしい顔が待ち構えていた。
「お久しぶりっす。河野です」
「おぉ、久しぶり」「みっちゃん? 懐かしいなぁ」「薄くなったなぁ」なんて自分の事は棚上げしている。地肌が見える少ない毛を、茶色に染めている奴までいた。
「ところで、今回の選抜って何よ?」
近くにいた高橋に聞くと、高橋はニタリと笑った。
「河野は始めてだったな? 2次会でカップルになってな、まぁ、エッチをしようって事だ」
「な、なに〜!?」
私は唖然とした。そんなクラス会なら来るんじゃなかった。いくら知った仲とはいえ、そんな事をするとは思ってもみなかった。まぁ嫌いな方じゃないし、後くされもないから、遊びだと割りきってしまえば、いいのだろうが…。やはり抵抗はある。
「そろそろ、行こうか」
時間になり最後に出た部屋の鍵を閉めていると、廊下の奥から賑やかな声が聞こえてきた。
「わぁ、みっちゃん」「光夫君」「河野君」
色んな呼ばれ方をしながらも私はみんなの顔を眺めては、誰だっけ? なんて遠慮もせずに名前と顔とを一致させていった。
みんな気をつけているのだろう。スタイルが良い。女性陣はとても50過ぎのばあさんには見えない。
そして後ろの方に、恥ずかしそうにえっちゃんがいた。随分綺麗になった。やっぱり俺は彼女が好きだったんだなぁ。そんな事を思った。確か彼女も離婚していて、子供も結婚していたはずだ。
「みっちゃん。誰みてんの?」
笑われた私は、判っていたことを聞いた。
「参加は何人?」
「男子も女子も5人づつの選抜よ」
「いいおじさんやおばさん掴まえて、男子とか女子はねえだろ」
「それを言うなら、じいちゃんばあちゃん」
小学校の頃の気安さが、えっちゃんを見たせいか一層私を若返らせていった。
宴会は、美味しい料理と懐かしい顔とで、多いに飲み食い喋り、6時から始まった宴会にも終りはやってきた。
「宴会も盛りあがっていますが、1次会はこれまでということで、2次会は9時からです。男子がいた302に集まってください。全員参加で良いですね」
幹事に見渡されたみんなの顔に、少し緊張が走った。やっぱり高橋の言葉通りエッチな事をするのだろうか? 部屋に戻った私達は風呂に入り歯を磨き、酔いを覚まして栄養ドリンクを飲み、部屋の準備を整えた。
ノックの音に誰かが応えた。
「失礼しまーす」
艶やかな声と一緒に、女性陣が入ってきた。
流石にパジャマはいなかったが、ドレスの人もいる。えっちゃん
は浴衣だった。
「それでは組合せ抽選を始めます」
幹事のさだちゃんが宣言して、くじ引きが始まった。
「1番の人〜」
「あっ、俺だ」
高橋が手を上げると、1番の札を持った真っ赤なドレスのさっちゃんが高橋に近づいてきた。
「えへへ」
彼らは幹事から鍵を受け取ると、用意されていた部屋へと消えていった。
「次、2番の人〜」
順に呼ばれて、私は結局えっちゃんと組む事になった。
同じ誕生日で、隣に住んでいて、記憶にはないが毎日手を繋いで帰ったといわれていた私達は、やっぱり気になる存在だった。
子供の頃はよく一緒に遊んだし、お医者さんごっこだってした仲だが、それはやっぱり子供の頃の罪の無い思い出であって…、だからこそ私達は、恋人という関係にはなれなかったのかも知れない。
抽選で参加者や相手が決まるクラス会は始めてだ。えっちゃんが相手というのも少し照れくさいが、子供の頃に戻った気もして、私は嬉しかった。
女房を早くに無くした私は、息子にはもちろん秘密で、嫁のみゆきさんには随分手助けして貰った。女性のこんな所が感じ易いとか、こういう風にした方が嬉しいなんて言われながら、女性の身体と心を、男の力と優しさを鍛錬し続けた。
「みっちゃん。よろしくね」
えっちゃんは、微笑むと私にしなだれかかってきた。据え膳喰わぬはなんとやらで、私は心を決めた。
私はえっちゃんの髪を手で撫でながら、「本当に久しぶり」なんて言いながら、手を浴衣の襟元から差し入れ、まだ弾力のある、ゆったりした乳房を手に感じながら、乳首を摘みながら口付けを交わした。
「フムッ、プハァーッ」
長い口付けは、息を乱させ心拍を早め、お互いの気持ちを高まらせた。えっちゃんの身体からは力が抜けて、乳首は固くなり、早くも私は勃起してしまった。
えっちゃんは私の股間に手をやると、ニコッと微笑んで、パンツの中に手を入れてきた。蠢くえっちゃんの手は、みゆきさんよりも巧みで、私は早くも臨戦体制に入ってしまった。そんな私を見てかどうか、えっちゃんは浴衣の裾を掻き揚げると、私を押し倒し馬乗りになり、早くも潤っていたそれに治めてしまった。始めてえっちゃんが下着を着けていないのに気付いた。
私は乳房を下から揉みしだき、脇の下を指先でさすり、口に指を咥えさせ、顔の変化を楽しんだ。
上下に激しくし動いていたえっちゃんの顔が輝いて、押し殺していた声を上げ始めると、みっちゃん。みっちゃんと何度も呼びかけてきた。あまりの激しさに外れてしまった私達は体位を入替え、今度は私が主導権を握った。少し落着いてきた私は日頃のみゆきさんとの練習の成果を見せるべく、えっちゃんに挑んでいった。
「今、一人なんだって?」
「そう、一緒に暮らす?」
「まぁ…、考えとこう」
寝るまで3度、起きてから1度。私は子供の頃からの思いを、えっちゃんの身体にぶつけた。
翌朝向かった食堂には、みんなの姿は無かった。
「もう、本当に鈍いんだから…。泊まったのは私達だけ」
「それじゃ、俺達の為に…」
えっちゃんは、こくんと頷いた。
Entry6
邂逅
伊勢 湊
文字数3000
「もしもし、あっ、オレ。実はさ、会社の…」
夜の駅前、会社の若い後輩たちが家に携帯電話をかける私の後ろで肩を組んで鼻歌を歌いながらふらふらと歩いている。まずいことになった。梅雨の合間の蒸し暑い金曜日。会社の後輩達と軽く冷たいビールを飲んですぐ帰るつもりだった。ちょっとした付き合い酒。それだけのはずが、誰かが酔っ払い、私の家に行ってみたいなどと、とんでもないことを言い出した。「結婚しているんですよね?どんな奥さんです?」「あれ?独身だって聞いたけど?」「若い女の子囲ってるんじゃないんですかー?」話はどんどん広がっていく。はっきりと質問に答えることの出来ない自分の態度が後輩たちの悪ノリに拍車をかける。私の家に行くということは後輩たちの間では決定事項であり、なにがあろうと変更不可のように思えた。
もう長い間、家に誰かを呼んだことはない。同期の者たちは家に来るはおろか決して私の私生活に干渉してはこない。しかしそんな事情を若い後輩たちが知らないのも無理はない。確かに私は結婚していた。だが今は独身だ。そしてある意味では、若い女の子を囲ってもいる。そして、そんな自分の状況に答えを出せずにいる。
社内恋愛で結ばれた妻を亡くして六年が経つ。相手は気の利く可愛い女性で当時社内でもうらやまれた結婚だった。小柄で笑顔が可愛く、側にいてくれるだけで幸せな気分になれた。透き通った声でいろんなことを話していたかと思うと、私が悩んで語るときはじっと見つめて話を聞いてくれた。そしてなによりも家庭的だった。両親を高校生のときに亡くした私には妻との日々は本当に柔らかい陽だまりの中にいるようだった。不動産屋を回り古い一軒家を借りた。私はそれを週末ごとに床を張り替えたり壁にペンキを塗ったりして新しくしていった。キッチンには特に力を入れた。妻は料理が好きだったし、私は何よりも妻の料理が好きだった。お義母さんから習ったという家庭的な料理の数々はどれもとても美味だった。それに加え「試しに作ってみたんだけど」と出されたオリジナルの料理はどれもセンスが良く、私はいつも妻の新しいメニューを楽しみにしていた。
妻のお腹に初孫が出来たと分かったときには妻の両親は僕の両手を掴んで大喜びしてくれた。暖かい家庭の情景が浮かんでいた。仕事も順調だった。妻と生まれ来る子供のために苦労を感じずに頑張れた。でも、その全てが、上映中の映画のスクリーンが引き裂かれたみたいに無惨に消えた。
産婦人科へ向かうタクシーの中で、お義父さんとお義母さんは妻の手を握っていただろう。「がんばってね」と声をかけていたかもしれない。連絡を受けた僕も上司に許可を貰い会社を飛び出た。しかし、私が妻と会ったのは病院の中でも、もっと暗く寂しい場所だった。隣にはお義父さんとお義母さんも横たわっていた。赤ん坊は、姿さえなかった。ダンプカーとの正面衝突。「不運としか言いようがありません」そういう医者の声がいやに遠く聞こえた。
私は妻を失った。子供も失った。折角出来た優しい両親も失った。私は全てを失った。全てを失い支えてくれるものもなく、いまにも倒れそうなときに、私は、私と同じくほとんど全てを失った者の存在に気が付いた。それが、当時高校三年生だった、妻の妹の理恵だった。
「お茶漬けでも用意しとけばいいんでしょ。何人?」
「何人って、できるのか?」
「やだ、馬鹿にしないでよ。お茶漬けくらい出来るわよ」
理恵は料理をしない。あの日からずっと二人で暮らしてきたが理恵は料理をしたがらない。私もそのへんは妻に任せきりだったから二人の食生活はあまり健全とは言えない。
理恵は妻とは全く違うタイプの女性に見えた。ぱっと見て二人は良く似ているものの理恵は妻とは違い可愛いというかは凛々しい感じを与えた。勝気で活発なスポーツウーマンであり、家庭的ではないが社交的で交友関係も広い。だから理恵は出て行こうと思えばいつでも、どこへでも行けるはずだが、私とずっと一緒に暮らしている。
一緒に暮らしていれば奇麗事だけではすまない。それでも初めて理恵を抱いたのは一緒に住み始めて二年もが過ぎてからだった。ただその日の出来事が私が理恵との関係をはっきり出来ない原因になっている。あのとき、私は妻の名を呼んだ。それは理恵の誕生日で、私たちは酒を飲み酔っ払ってもいた。しかし、そんなことは言い訳にはなりはしない。二人ともあのときの話は一切しない。しかし、あの日から私には理恵がどんどん妻とは違う存在になろうとしているように見えたし、私にしてみれば理恵の存在を割り切ることが出来なくなってしまった。ずっと妻の妹として理恵と暮らしていけないことは分かっている。しかし理恵を理恵として見ていけるという自信も確証もなかった。
「近所迷惑だから静かにな」
「はーい」
後輩たちに釘をさす。ここまできて帰れとも言えず、私は仕方なしに玄関の扉を開けた。
「お帰りなさい」
ふいに時間が止まった。私は何も言えなかった。後輩たちも私には何も質問せずに「あっ、奥さん夜分遅くにすみません」と挨拶した。私自身もそれが妻であるように錯覚した。いつも無造作に髪を結わえてジーパンしか履かない理恵が、妻がそうしていたように髪を上げて割烹着を着ていた。あれは妻が私と結婚するときにお義母さんからもらい、「ちょっとおばさんくさいよね」と言いながらもいつも着ていた割烹着だった。どこにやったか昔ずいぶん探したが理恵が持っていたのだ。
「お茶漬けくらいしかありませんけど」
理恵が柔らかい物腰で後輩たちを居間に通す。私もなるべく平静を装いながら居間に入る。
「うわっ、美味しそうですね。なんですか、これ?」
「チャンジャと冷たいほうじ茶のお茶漬けなんですけど、お口に合うかしら?」
私は動けなかった。再びこれを口にできるとは思っていなかった。後輩の一人が早速お茶漬けをかっ込んでいる。
「うわぁ、これ美味しいですね。いいなぁ、料理の上手な奥さんで」
私も箸をつける。懐かしい味だ。ピリッと辛いチャンジャに、刻んだ葱とほうじ茶の香りが食欲をそそる。ひんやりとした食感も暑い季節には嬉しい。かつて妻が編み出した料理だ。掛け値なしに美味しい。しかし、なぜ理恵がこれを作れるのだ。疑問は募ったが、懐かしい味に箸は止まらなかった。
泊まろうなどと言っていた後輩たちだったが、冷たいほうじ茶の茶漬けで酔いが醒めたのか急に遠慮しだし、結局タクシーを拾って帰っていった。
「おかわりいる?」
「ああ、うん」
二人だけの居間で気が付けば自然に妻の茶漬けのおかわりを貰っていた。
「驚いた?」
理恵がいつもの顔になって私の顔を覗き込んだ。
「知らなかったよ。理恵があの割烹着持ってたのも、あの茶漬けを知ってたのも」
「あら、ちゃんと姉さんからもらったのよ」
聞いたことがない話しだった。
「いつ?」
「ほら、あの日、私のほうがずっと早く病院に着いたでしょ…」
理恵は立ち不がってキッチンに行くと自分の分のお茶漬けを作ってきた。
「これ、ほんとに美味しいわね」
そんな理恵に声をかける。
「でも、これ…」
しかし言葉は続かない。気持ちが言葉にならない。
「私もね、大人になったってこと。だからあなたもお願いね」
その言葉に弛んだ涙腺を隠そうと私はお椀を持ち上げてお茶漬けをかき込んだ。
Entry7
金無垢金時計
るるるぶ☆どっぐちゃん
文字数3000
なぜ時計などを私が持っているかのというと、それは拾ったからだ。
交差点で信号が変わるのを待っていると、道路の向こう側に立っていた男が、赤信号にもかかわらず突然よろよろと歩き出した。
赤と青の斜線で彩られた交通標識が立ち並ぶ交差点だった。行き交う車の中、彼は進み、そして渡り切り、ぱたりと目の前に倒れた。その男の手からぽろりと投げ出され、私の足下へと転がって来たのが、今私が持っている時計だ。
懐中時計で、全体が金色に輝いてた。時計の上部には鎖がついていたが、十センチほどを残して途中で切れている。文字盤には大袈裟な書体の飾り文字。
私は、男はどうしただろう、と時計から目を離し辺りを見渡した。男は何処にもいなかった。私が時計を見ている間に立ち上がり、何処かへ行ってしまったのだろうか。先程ちらりと見ただけだが、なかなかの美男子だった。彼は疲れているようだった。あの様子で、彼は一体何処へ行く気なのだろうか。
男の代わりに、犬がいた。
かわいい犬だったので、私は犬の頭を撫で「これ、喰うか?」と時計を犬に差し出した。
犬は鼻を時計にくっつけ、ふんふん、とやったあと、おもむろに口を開いて時計に噛みついた。
がぎ、がじり、と音を立て、犬は時計を噛み砕いていった。口の端からばらばらと小さなネジや歯車が落ちていった。それらも全て金色だった。
犬は本体を食べ終えた後、地面に落ちたものも舌で器用に拾い、口の中へと収めた。そうやって犬は時計の全てを飲み込んだが、暫くするとまた尻尾を振り始め、そして私の手をぺろぺろとやりだした。
「はは、くすぐったいな。でももう無いよ。おしまい」
私がそう言って手を引っ込めた後も犬は諦めきれないのか、私の周りを尻尾をパタパタさせながら回っていたが、遠くで犬の鳴き声がすると、そちらの方へ走って行ってしまった。
私は立ち上がり、歩き出した。階段を昇り、柵を乗り越え、資材の上によじ登り、そこから資材伝いに歩くと、目の前にはコンクリートの壁がある。それを乗り越え、私はやっと高架線路の中に辿り着いた。
地上三十メートルからの景色。私は早速キャンバスを取り出し、描き始めた。まだ日は昇り切っておらず、世界はまだ静寂の中にある。眼下には素晴らしい眺めが広がっていた。とても気分が良かったが、こういう日に限って筆は進まないものだ。それでも苦労しながら、私は夕方までに何とか三枚の絵を仕上げた。高架を降り市場へと向かう。懇意にしている店に持って行き、絵と引き替えに幾ばくかの金を貰うと、その金で小瓶の酒を買い、それを飲みながら、私は街を歩いた。
夕飯は、いつも二度に分けて食べる。酒が半分になってきた頃、まず一度目。今日は中華料理屋で魚を食べた。そして店を出て歩き回り、酒が無くなる頃に二度目。今日の二度目は塩豆の串焼きだった。それからまた街を、何処へともなく歩き回る。道の途中途中で友達に会う。久しぶり、会いたかったぜ、と言われる。何処へ行っていたのよこの嘘吐き、と怒鳴られる。可哀想に、と泣かれる。羨ましい、という目で見られる。会う時々によって、彼らの態度は変わる。
誉められれば、嬉しい。怒られれば、悲しい。だが両方とも歩き回っている内に、残念だが忘れてしまう。時々刻々と、全ては移り変わっていく。
酔いが全て抜けてしまう頃、私は座りたくなり娼館へと入る。受付を済ませ部屋に通される。二十畳ほどの広い部屋だ。そこで待っているとすぐに、「こんばんは」という声がした。
「どうぞ」
返事をすると扉が開く。
「こんばんは。モモです」
モモは鞠をつきながらそう言った。
「お客さん、お久しぶりね」
「ああ、そうだね」
モモは七月に誕生日を迎え、九つになる。
昔は娼婦の年齢は、もう少し高かったそうだ。その変化が、良いことなのか悪い事なのか、私には解らない。
「モモは、幾つまでこの仕事をするんだい」
「好きな仕事だから、長く続けたいんだ。十二くらいまではやりたいな。でもその後はまあ、読書と養蜂とボランティアの日々ね。大きな白い家を建ててね。お金はあるしね」
どちらにしても、彼女が何かを売ることには変わりは無い。
そして何かを得ることにも、勿論変わりは無い。
「そう。それも良いね」
私はそう言ってモモを抱き締めた。
「もっと抱き締めて。モモ、こうやって抱っこされるの好きよ。もっと抱っこして」
モモは鞠を投げ捨て、そう答えた。
目が覚めるとまだ外は暗かった。時計を見ると、まだ明け方だ。
「モモ、散歩に行かないか」
「良いわ。行きましょう」
部屋に置いてあった半纏を羽織り、私達は連れだって屋敷の外へ出掛けた。
小雨が降っていたが、傘を挿さずに出掛けた。久しぶりの雨だったのだ。随分長い間、雨は降っていなかった。
「雨、気持ち良いね」
モモは私に笑いかける。
「毎日雨だったら良いのに。ね? お客さんだってそう思うでしょう?」
「そうだね。雨が止まなければ良いね」
「本当ね」
そう言って暫く歩いている内に雨は止む。それと同時に、東の空が少しずつ明るくなり始めていく。
「きれいねお日様。見て、もうすぐ朝よ」
モモはそう言って喜んだ。
「きれいね。ずっと朝だったら良いのに。お客さん、お客さんだってそう思うでしょう?」
「そうだね」
昇り始めた太陽の光を背に私を振り返り、東の空をモモは指差していた。眩しかった。
「ずっと朝のままならば、良いね」
私達は赤信号に立ち止まった。赤と青の斜線で作られた、華奢な作りの交通標識が目につく。例の交差点だった。私は周りを見渡した。あの男は何処にもいなかった。代わりに、またあの犬だけがいた。
犬は私達と目が合うと、こちらへと駆け出して来た。
「きゃあ、かわいい」
尻尾を振りながらまとわりつく犬に、モモは楽しそうな悲鳴を上げた。
「何か食べそうなもの持ってなかったかな」
モモは服の中を探った。
「こんなものくらいしか、無いわね」
そう言ってモモは、小さな腕時計を取り出した。
「大丈夫だよ。これなら食べる」
「本当?」
モモは犬に向かって時計を差し出した。犬は鼻をくっつけて、くんくん、とやると、口を開き、時計にかじりついた。
「わ。食べた食べた」
「ね、本当だろう?」
「良かった。私、時計ならいっぱい持っているのよ」
モモは着物の前あわせを開いた。服の中は、胸元まで時計と札束が埋めていた。
「ね、沢山あるでしょう?」
「本当だね。驚いた」
モモは時計を次々と取り出し、犬に与えた。
「ふふ、かわいい。ほら、食べなさい。あ、なめないでよう、くすぐったいわ」
犬はすっかりモモになついた。モモと犬は楽しそうにくるくると回り、じゃれ合った。
私はキャンバスを取り出し、その光景を描き始めた。なかなか良い、売る時に惜しくなってしまうだろう絵が完成した。
だがそれでも、私は多分この絵を売るだろう
「どんどん食べなさい。かわいいわね。あはは、こら、噛まないでよう。うふふ、あたしも噛んじゃうぞ、ほら」
朝を迎えた街に、モモの笑い声が響いていた。
私は後を振り返ってみた。
そこには道があるばかりで、あの男は何処にもいない。
私はあの男の行方を考えてみた。答えが出なかったので、私は考えをやめた。
「ああ楽しい。楽しいわ。本当に楽しい」
モモは本当にかわいかった。誰も居ない道に、モモの笑い声だけが響いていた。
Entry8
勝利を掴むはこの手や否や
ごんぱち
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/4587/
サイト名■小説屋ごんぱち
文字数3000
「考え直す気はないのか」
苦い顔で宇崎直美総理はまた同じ事を口にする。
「交渉は決裂しました」
向かい合わせに立つグラム・カーン大統領は脱いだジャケットをテーブルに置いて、サスペンダーを親指で弾いている。がっちりした逞しい体つきで、宇崎よりも頭二つ大きい。
翻訳装置が互いの言葉を訳し、伝える。
「いいのか。もしも負けたら、目も当てられんぞ」
「あなた方がもう少し遠慮深く、譲歩という言葉を知っていれば良かったのですよ」
「どっちがだ! 穀物輸出を非課税にするなど出来るわけがない、明らかな内政干渉だろう!」
二人は睨み合う。
周囲を固めるSPとシークレットサービスたちは、じっと二人を見つめている。
宇崎は腕を振り上げた。
カーンも腕を振り上げる。
「ジャンケン、ぽい!」
宇崎の手はグー。
そして、カーンの手はパーを出していた。
窓の外の粉塵混じりの雲が切れ、眼下に環境修復用植物ナースモスの草原が広がり、その先にまだ復興していない焼け焦げた廃虚が見える。
それを通り過ぎると、突然街並みが見えて来た。その街並みを少し通り過ぎた所に、かつてのフリーウェイを改造した滑走路が見えて来る。
「少しは面影があるな」
吉沢長治は懐かしげに呟いた。
「引退後に声がかかるとは、まったくアジア連合(AC)情報部も人使いが荒い」
白髪も生え、初老と言える年齢だが、その立ち居振る舞いには隙がなかった。
ウエストステイツ国首都、ポートランド市街に程近いセントジョセフ空港に、旅客機は着陸した。
飛行機から降りた吉沢は、タクシーを拾う。
「セントラルホテルまで」
「おっ、その訛りイーストかい?」
タクシーの運転手が懐かしげな顔をする。
「おいらもなんだよ」
「ほう、生まれは?」
「オーガスタだよ」
「奇遇だな。君はどうしてウェストへ?」
「出稼ぎさ。爺さんも一緒だろ?」
「まあな」
「これもカーン大統領のジャンケン運の強さの賜物だぜ」
オートドライビングにしている気楽さか、運転手は吉沢の方を向いて話す。
「十一戦十一勝。どんなイカサマか知らねえけど」
「必勝法もない事はないがな」
吉沢は笑う。
「おいらも知ってるぜ。どうだい一勝負」
運転手は腕まくりする。
「勝てたら代金を半分にしてやるよ」
「それなら、俺が負けたらチップを百ドル弾もう。三本先取だ」
「OK」
「せーの! ジャンケン!」
「ぽん!!」
二人の手が出た。
吉沢、グー。運転手、チョキ。
「もう一本!」
吉沢、パー。運転手、グー。
「ま、待て待った、爺さん」
「どうした?」
吉沢がにやりと笑う。
「おかしいな? 負けるわけが――」
釈然としない顔で、運転手は首を傾げている。
「確かに指の筋肉の動きを読んでいる筈、か?」
「!」
「ジャンケンの手や指の筋肉は、出る前にも微妙な準備の動きがある。それを予め読み取るのが『筋肉読み』」
「……だ」
「敢えて誤った情報を読ませ、相手の手を操るのが『読ませ』」
「そんなのが?」
話しているうちに、タクシーは止まった。
「おっと、到着したみてぇだな」
「いくらになる?」
吉沢が携帯端末を出す。
「いやあいらねえ。半分はどう考えても負けてたし、もう半分は授業料だ」
夜の大統領官邸内を、清掃夫がモップ掛けをする。
警備のシークレットサービスとすれ違い、軽く一礼する。
それからしばらくして、モップ掛けを終えた彼は、掃除器具を満載したキャスターを押して、官邸の裏口から出て行く。
「お疲れ様」
裏口の警備員が、声を掛ける。
「お先に」
会釈して清掃夫が倉庫へ向かおうとする。が、植え込みの側まで来た所で、キャスターの車輪が引っかかった。清掃夫は反対側へ廻ってしゃがむ。
引っかかりを外した彼は、ふと何かに気付いたように顔を上げるや、大慌てで裏口から官邸内に戻っていく。
「忘れ物かい」
清掃夫は警備員の方も見ず、官邸の廊下を走って行った。
官邸内に入った清掃夫は帽子を脱ぐ。
――吉沢だった。
清掃夫として数年前から潜入していた工作員がキャスターを陰にして、吉沢と入れ替わっていた。
清掃夫の制服を脱ぐと、中からシークレットサービスの黒いスーツが現れた。
静かにドアが開く。
暗い仮眠室では、寝息が二つ。
吉沢は忍び足でもなく、大きな物音を立てるでもなく、クローゼットを開ける。
(よし)
そして掛けられたジャケットに触れる。
「――ヘンリーか?」
その時、背後から声がした。
「いや、俺だよ」
振り向かずに吉沢は応える。
「そりゃあオレの上着だぞ?」
「なに、ブラシを探していてね」
吉沢は服の埃取りブラシを見せた。
「大変な侮辱だ、心が痛む」
カーンが自信溢れる顔で、腕まくりをする。
「我が国が国際法を犯し、軍隊を保有しているとは」
「調べれば分かる事だ」
AC委員長、チャン・フェイは指をほぐす。
「いいでしょう。私が負ければ査察を受け入れましょう。しかし、勝ったら」
にやりとカーンは笑う。
「ああ、賠償金一千万ドル、耳を揃えて払います」
二人の手が振り上げられた。
「ジャンケン――」
次の瞬間。
チャンのSPたちが、一気にカーンのシークレットサービスに飛びかかる。
不意を打たれたシークレットサービスと、カーンはあっけなく取り押さえられた。
「ありました!」
SPは、シークレットサービスの上着を掴んで差し上げる。
「なんだそれは?」
シークレットサービスの上着の裏には、ビニール袋が付けられていた。
「私は知らん! 知らないぞ!?」
袋を押さえると、液体がにじみ出る。更に、床には鼻栓型のガスフィルターが転がっていた。
「全く呆れた話でね」
タクシーの運転手は、肩をすくめる。
「脳内物質の伝達を遅くする薬品をばらまいて、相手の動きを遅くさせてたんだとさ」
「ほう」
吉沢はシートにもたれたままで相づちを打つ。
「それで勝ち続けた利益で軍隊を作ってたってんだよ。地上を四割も灼いて、まだ懲りてないのかねぇ」
「だな」
「ほれ、着いたぜ」
「ああ、ありがとう」
「待った、爺さん」
携帯端末で支払いをしようとする吉沢を、運転手は止める。
「この前のリベンジと行こうじゃねえか」
「面白い」
タクシーから降りた吉沢と運転手は、立ったまま向かい合う。
吉沢は運転手よりも、頭半分ほど背が高かった。
「せーの!」
「じゃんけん」
「ぽん!」
吉沢、チョキ。運転手、パー。
「あはは」
吉沢はチョキの指のままで笑う。
「読ませもバレてりゃ意味がないって」
「むぅ、そうか……」
「必勝法も相手に知られれば無力。突き詰めていくとやっぱり運になるのさ」
「完敗だよ」
運転手は肩をすくめて両手を上げた。
「じゃあな」
「おう、今度イーストに来る事でもあったら寄ってくれ!」
吉沢は走り去るタクシーを見送る。
「――身長差のある場合、上から振り下ろされる手は、一瞬相手の視線を横切り目隠しの役目を果たす。その隙を利用して、相手の手を見て自分の手を変える。身長、反射神経、動体視力を兼ね備えて初めて可能な、必勝の技」
壁に貼られたカーンのポスターは、無残に引きちぎられていた。
「故に、抹殺しなければならない。勝敗が分からないから、最後まで使用を躊躇う。最終手段は、そういうものでなければならない」
吉沢はポケットから小さなビニール袋を取り出し、ゴミ箱に放った。
「――さあて、この前喰い損ねた名物でも喰うか」
露店の人混みの中に、吉沢は紛れて行った。
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