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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第1回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
緋川コナツ
3000
2
サヌキマオ
3000
3
小笠原寿夫
3000
4
蛮人S
2525
5
永井隆
2679

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

金魚草の咲く町
緋川コナツ

 無機質な空間に、火葬炉が七つ並んでいる。炉はどれもフル稼働中だった。
「おばあちゃん、焼いちゃうの?」
 三歳になる娘の恵里佳が、不安そうな表情で私に訊く。
「そうよ。みんな死んだら焼かれて、お空に帰るの。熱くはないから心配しなくても大丈夫よ」
「ふうん……」
 理解できたかどうかはわからないけれど、恵里佳はとりあえず納得したようだった。
 観音開きの鉄の扉の向こうで母が炎に包まれている。認知症になり、さんざん人の手を煩わせたあげく、最期は肺炎であっけなく死んだ。その小さな体で、あらゆるものを受け入れざるを得なかった母の人生を想うと涙も出ない。
「いろいろと、ごめんね」
 私が謝ると、夫の雅弘は首を小さく横に振った。
「いや、別に弥生が謝るようなことじゃないよ。ちゃんと送ってやろうな。この世で、たった一人のお母さんだもんな」
「ありがとう」
 ホールの隅にある大きな窓からは、やわらかな午後の日差しが降り注いでいる。
 母は自分が行くべき場所に辿り着けるだろうか。川を渡って、迷わずに歩みを進めることができるだろうか。
「ママ、だっこ」
 それまでおとなしくしていた恵里佳が、急にぐずり始めた。さかんに顔を擦りながら、ぐずぐずと泣いている。いつもなら昼寝をしている時間なので、眠たくなったのだろう。
「はいはい。恵里佳、おいで」
 私は恵里佳を抱いて窓の外に視線を移した。斎場の庭には大きな花壇があり、色とりどりの花たちが風に小さく揺れている。
「あ、金魚草」
 花壇の片隅に咲く淡いピンクの花に、私はふいに目を留めた。
 金魚草。母が好きだった花だ。派手さはないけれど、凛として可憐に咲き誇っている。私は恵里佳をあやしながら、その花にまつわる記憶を、ゆっくりと思い出していた。

 赤い電車が、勢いよく線路を駆け抜けてゆく。
 横浜にほど近いこの高架下近辺は、かつてはバラック小屋が建ち並び、たくさんの飲食店が身を寄せ合うようにひしめいていた。表向きはスナックや居酒屋として営業していたそれらの建物は、実際には女たちが春をひさぐ私娼館だった。
 私の母は、そこで働く売春婦だった。
 母は夜の町で客を取りながら、女手ひとつで私を育てた。その事実は育ててくれたことへの感謝以上に、複雑な感情を深く刻んだ。それはもちろん、大人になった今でも消えることはない。
「それじゃ弥生、おかあさん仕事に行ってくるからね。ご飯は適当に食べといてね」
「うん……」
 日が暮れる頃になると、母は派手な服に身を包んで夜の町へと出かけてゆく。六畳一間のがらんとした部屋には安っぽい花の香りだけが残った。
 読み書きも満足にできない母が、どんな仕事をしてわずかな生活費を稼いでいたのか。そのころの私は具体的なことは何も理解していなかった。幼かったし、本能的に理解するのが怖かったのかもしれない。
 自分の家は他の家とは違う。それだけはハッキリしていた。貧乏というだけでは説明のつかない、決定的な何かが違っている。でもそれが何なのか、私にはわからなかった。
「そうだ、まーちゃんのとこに行こう」
 私は寂しくなると、まーちゃんの家を訪ねた。まーちゃんは私の住んでいる、長屋のような古い木造アパートの一階に住んでいた。私よりも二つ年上で同じように母子家庭だった。まーちゃんのお母さんも母と似たような仕事をしていたらしく、私たちはよくお互いの家を行き来していた。
「まーちゃん、開けて。弥生です」
 トントンとノックしながら声をかけると、中から「はぁい」と返事があってドアが開いた。
「どうぞ」
 まーちゃんはいつも少し照れくさそうに、私を迎え入れてくれた。
 まーちゃんは雅弘という名で、今は私の夫であり、ひとり娘である恵里佳の父親だ。私とまーちゃんは仲間であり、家族であり、共に闘う戦友だった。
 
 アパートの階段わきの小さなスペースに、小さな橙色の花が咲いた。 
「あらかわいい。金魚草だ」
 昼間は寝ていることの多い母がたまたま起きていて、二人で買い物に出たときのことだった。とても珍しいことだったので、やけに鮮明に覚えている。
「金魚草?」
「そう。ほら、花びらの形が金魚に似ているだろ? 金魚草は死んだ金魚を埋めた場所に育つんだよ。きっと誰かが、ここに金魚を埋めたんだねぇ」
「じゃあ、ここは金魚のお墓なの?」
 私の問いかけに母が頷いた。
 細長い葉っぱが茂った先に、黄色がかった橙色の花が群がるように咲いている。丸っこい花弁が、なるほど金魚によく似ていた。
「金魚草はね、赤い金魚を埋めたら赤い花。黄色い金魚を埋めたら黄色い花が咲くんだよ」
「じゃあこの金魚草の下には、橙色の金魚が埋められているの?」
「そうだよ」
 金魚草の花は死んだ金魚の生まれ変わり。私は何の疑いもなく、母のその言葉を信じた。

「おまえの母ちゃん、立ちんぼなんだってな」
 帰り際にクラスの男の子にそう言われたときも、自分が何を言われているのかわからなかった。
「立ちんぼって?」
 褒められているわけではないことは、容易に察しがついた。陰口には慣れている。けれども、その男の子が放った言葉は強い侮蔑に満ちていて、胸がキリキリと痛んだ。
 男の子が最後まで話し終わらないうちに、私は踵を返して走り出していた。下校途中の他の生徒を押しのけながら、夢中で走った。足がもつれて、何度も転びそうになった。とにかく一秒でも早く家に帰りたくて、私は地面を蹴った。
 夜になって、私は一人で家を出た。
 母がどこでどんな風に働いているのか、この目で見てみたくなった。母には仕事場には絶対に来るなと何度も言われていたけれど、どうにもこうにも気になって仕方がなかった。
 私は駅の高架下を目指して走った。夜の町は、お酒のにおいと、喧騒と、煙草の煙に満ちていた。あちこちの店先から、人々の笑い声やカラオケの歌声が漏れてくる。
 駅の高架下は路地を挟んで、小さなスナックや小料理店がズラリと軒を連ねている。小さな女の子が一人で歩くには、あまりにも場違いで危険な場所だった。
 各店先に一人ずつ、女がパイプ椅子に座って前を通る男たちに声をかけている。その中に母親の姿があった。
 男の人が店の前を通ろうとするとにわかに立ち上がり、小さな体をくねらせながら媚を売っている。そのたびに赤いフリルのついたワンピースが大げさに捩れて、まるで酸欠になった金魚が苦し気に喘いでいるかのように見えた。
 やがて母は何人かいた男の人のうちの一人に腕を絡め、店の中へと消えて行った。
 そのとき私は母がどんな仕事をしているのか、漠然と理解した。私は母に何も告げぬまま帰宅して、それからも何事もなかったかのように過ごした。
 そして高校を卒業すると同時に、私はこの土地を離れた。

 簡素な葬儀を済ませた後、私は一人で電車を乗り継いで三十年ぶりに黄金町駅の高架下に立った。そこに、あの頃の猥雑な風景はなかった。洒落たガラス張りのギャラリーが建ち並び、人通りもまばらだ。
「お母さん、ここもすっかり変っちゃったよ」
 私はひとりごちて、持って来ていた母の骨の一部を高架に沿って流れる大岡川に撒いた。骨は風に乗って、どんよりと濁った水面に消えた。
 川沿いの花壇には、誰かが植えた金魚草の花が咲いていた。私は袋の底に残っていた遺骨の残りを、金魚草の根本にそっと埋めた。
 次はきっと赤い花が咲くだろうと思った。
金魚草の咲く町    緋川コナツ

青猫ロボットの憂鬱
サヌキマオ

 青猫ロボットに「憂鬱」って書いてよと頼むと、即座に目からの光線で「憂鬱」という文字が、極太の明朝体で、壁に映しだされた。
「そうじゃあなくて。書いてよ『憂鬱』って。データを引っ張りだすだけぢゃなくて、書いてよ。出来るんでしょ」
 ロボットはしばらく考えていたが、前足に備わったペン機能で、よれよれとした「憂鬱」をしたためた。代名詞のような金釘文字だ。
「にゃーん」
 昼はそうめんを茹でて食べた。ロボットもお膳の上にあがって、沈んだ麺を水ごと啜っている。充電器で充電してもいいし、ものを食わせても、体内で燃えるものは燃料になるそうだ。つまりは台所の生ゴミでも野の草でもよいということだけれども、猫型なので飯を食わせる。にゃーんと鳴くので飯を食わせる。掃除機で水風呂の水を吸ってみたことはあるだろうか。あれと同じ音でロボットはそうめんを啜っている。ロボットの頬についたランプが黄色く点灯しているのは「要排水」の合図だというのは本当に趣味が悪い。トイレに抱えていって排出を促すと、ちょろちょろと股間から水が出た。変なところだけ生々しくつくってある。そうめんの水だけなので色は透き通っているけれど。
 家はマンションとは名ばかりのワンルームである。二階建ての一階で、地下は貸し倉庫として営業している。線路と上水に挟まれて、小規模な賃貸だけが立ち並ぶ。上水には夏の草木が生い茂っていて、いつでも夏のじっとりとした湿気を運んでくれる。テレビなんぞ点ければ点けるほど熱が篭るので点けたくないが、さみしさが勝って点けるとデンマーク人の女性が日本の山奥に移り住んで桑の実でジャムを作っている。ジャムをくつくつくつくつ煮ているのを見ているとじんわりと汗ばんできて「あついなあ」と一言ぼやくと、部屋の隅で丸くなっていた青猫ロボットがとことことやってきて「室内冷却ユニットは有料DLCです」という表示を壁に投写してみせた。DLCって一体なんだろうと考えていたが、化粧品のメーカーだのなんらかの化学薬品だのを思い起こすばかりで埒が明かず、なぜ埒が明かないかというと疑問を口に出さないからで、「ねえ、でぃえるしーって何よ?」とつぶやくと、猫は律儀に「Down Load Contents」と壁に映してみせた。ついでに猫の口元のボタンを押すと、猫のものとは思えないおっさんの声で流暢に発音してみせるのだ。やらないけど。

 本当に、本当に唐突だが、諸橋冴子は乱暴な女だ。薩摩の幸子さんがサツコさんと呼ばれるように、冴子と書いてジャイコと読む。名は体を表さないのは身体も頭の出来もその通り。身も蓋もない言いかたをすれば発育の悪いおかっぱでぶ、統制されない感情、統制された自己中心的世界観。今日も不機嫌そうに偏平足でぺたぺたと歩く。本人が偏平足だと上履きで歩く音さえぺたぺたする。夏の廊下を裸足で歩くと足あと状のコーティングが廊下に並ぶ。
 昨日、土曜日は放課後に残されたのだった。高校は週六日ある。水曜と土曜は四限、つまりは午前中で授業が終わる。
「あ、演劇部、やらない? やるよね! 興味ない?」
 「こいつが演劇部か」という顔をジャイ子本人はしているが「脚本は私が書く」という。そもそもジャイ子、演劇部だっけ? と聞くと、「そう、演劇部。でも三月で先輩がみんないなくなっちゃってね、私しかいないんだ。そうすると大会に出られなくて、廃部になるしか無くて、それって困るから手伝ってよ」と一気にまくしたてられる。来週の月曜からテストである。一学期の、期末テスト。何を言っているのだお前は、と言葉には出さずとも顔に出していると、ジャイ子は「テスト明けに台本を配るから。じゃ、頼むね。本番は今月末だし」と背を向けようとする。ちょちょ、ちょっと待ってよ、と追い縋ると、
「タビノ、友達でしょ?」
 と、肩をパンッ、と叩かれた。

 ユウウツの鬱という字は木を書いて缶を書いて木を書いてワを書いてメを書いて凵を書いて匕を書いて彡を書くと出来上がる。現国は火曜だ。月曜は地学と体育。
「もー息をするのもめんどくさーい」
 猫はあたしの自棄に律儀に反応する。「手動呼吸ポンプ」なるアイテムをAmazonから探してくる。送料込み5、980円だ。
「ねー、どうしたら良いと思う?」
 あたしは壁に画像を投写する猫のしっぽに指を絡めた。塩化ビニールのようだがずっとしなやかで筋肉があるようだ。猫は嫌がるふうでもなく、投影をやめてあたしの顔を観ている。質問の仕方を替えねばならないのだ。
「ジャイコをどうにかしないとテスト勉強どころじゃないよう」
 猫が再び写した画面には、サバイバルナイフがちらと映っている。案外安いもんだなぁ、と眺めているとそれはトレーニング用のもので、材質はサントプレーン(熱可塑性エラストマー)とある。画面をスクロールするとちゃんと(?)ステンレス製のナイフが出てきて、それなりの値段だ――ってこら。
 ノリツッコミにもならない無気力が肩にのしかかる。これは妖怪のせいかしらん、とぼやくと、猫は「にゃーん」と一声鳴いた。猫の鈴が小刻みに鳴る。電話がかかってきたのだ。骨川からである。骨川祐希からの電話ということはおそらくはジャイ子の話題で、とうとう床に突っ伏した。こっちが出るまで延々と電話をかけてくるのはわかりきっている。
「あんたが『やりたい』って言ってるからお前が脚本を書け、ってジャイ子に云われてさ」猫の口から明らかな不満が吐出されてくる。「テスト前だよ? なんでそんな約束なんかしちゃったのさ」
「私はいいとも悪いとも言ってないってば。ジャイ子の無茶ぶりなんていつものことでしょ?」
「そりゃそうだけどさ」祐希のリアクションもいつものことだ。「かといって言うことを聞かないと面倒くせえし」
「あーもー」苛立つふたりを繋ぎながら、猫は『民事訴訟マニュアル・書式の要点と実例』という書籍を提示してきた。
「テスト前になんでこんなことで悩まなきゃいけないんだろう」
「わかる。不思議だよね」
「わかるんならゆきっぺもこういう電話をしてこなきゃいいと思うんだけどな」
「わかる。だったらジャイ子をどうにかする方法を考えてよ」
 どうにかする方法、がサバイバルナイフや訴状では仕方ない。
「それにしてもアレよね、このタイミングでこういう話をしてくるあたりが実に断りにくいっていうか、ジャイ子も案外策士っていうか」
「そうじゃないと思うな。きっとそこまで考えてないよ。ただ思いついただけでさあ」
「ただ、思いついただけ、かぁ」
 間がよく夕飯に呼ばれたので電話を切る。猫はついてくるかに見えたが、ぷい、とどこかにいなくなった。

 結局テストが終わって、無事に家に帰ってきている。
 ジャイ子はといえば、日曜の音楽番組で聴いたアブハジア共和国だかのアーティストがお気に召したようで「これからCD買ってカラオケ行ってロイホでテストを打ち上げる」と骨川を脇に抱えて駅前の方に去っていった。演劇部などテスト勉強をしたくないだけの言い分で、本当は何でも良かったのだろう。テストが終わると教員が採点をして成績をつける「採点日」が二日設けられている。答案返却日を過ぎるとまた成績付けに数日あって、ようやく終業式だ。
 アパート近くの民家にふと目をやると、うちの青猫ロボットが一階の屋根瓦の上で二階の屋根瓦を日陰にして昼寝をしているのが目に入った。
青猫ロボットの憂鬱    サヌキマオ

果てしないゴール
小笠原寿夫

「簡単に考えといたらええねん。」
父は言った。
「お父さんって呼べや。」

睡眠不足で頭がパニックになった時、私は、いきなり道端で声を張り上げた。どの記録にもそれは、残っていない。弟の名前を叫び、清き一票を、と叫んだ。
一瞬、北14条のセイコーマート前交差点が、凍りついた。
「よろしくお願いします!」
声を上げ、深々と私が、お辞儀をすると、ようやく街は元通りになった。

それから、私は、子供用の自転車に跨がり、札幌駅を南に下り、大通りまで辿り着いた時、次は、西へ西へと走り出した。いつまで走っても、宮の森には、辿り着かない。
「宮の森は、こっちで合ってますか!」
会う人、会う人に道を尋ねた。必死なので、次第に声も大きくなった。
怖がる人、まだまだですと教えてくれる人、今からじゃ間に合わないでしょうと言ってくれる人。道を尋ねた人に共通して言えるのは、私の風貌と、ぼろぼろの自転車だった。
宮の森という土地は、札幌市民は、よく知っている名前の土地だが、夏になると、宮の森神宮祭と呼ばれる、お祭りが行われる。私は、心の奥底で、札幌市民のお祭り好きを馬鹿にしていた。まだ、勉強さえ出来ればいい、と思っていた時期のことである。

確かに、学生は勉強さえ出来ればいい。要するに単位さえ取れればいい。
ところが、ある教授は、こう仰ったことがある。
「私は、1年目からサークル活動に没頭してたんですね。それで、ある時、光化学という言葉にぶち当たりまして、その研究に4年目から没頭したんです。そしたら、卒業論文が出来上がりまして、当時の教授にお墨付きを頂いたんです。」

余談になるが、学生と教授の関係性は、お弟子さんと落語家さんの関係によく似ている。話し方や喋る内容は違えど、持ち時間を話で締めくくるという職業というのは、噺家さんによく似ている。語りかける相手が教授の場合、学生であり、落語家さんの場合は、お客さんということになる。

それはさておきである。宮の森の件である。睡眠不足で頭はほとんど働いていなかった。何故、宮の森に行こうとしたのか、ということである。

前の晩のこと、いつものように、私はラジオでお笑い芸人さんのトーク番組を聞いていた。MCの方が、「おい!宮の森行けよ。絶対だからな。」と言っているのを頭の片隅に置いていた。直感で宮の森神宮祭であることは、承知していた。そこに行こうとは、その時、明らかに思ってはいなかったし、普通に学校に行こうと思っていた。

同学年の男の家のチャイムを鳴らし、一緒に登校しようと思っていた。
朝、チャイムを鳴らすと、男は出てきた。私の顔から全身の様子を見て、顔を曇らせたが、普通に「よう。」と言ってくれた。

「あっ、俺、今日ちょっと帰るわ。」
「えっ、帰るの?わかった。じゃあ、俺、学校行くわ。」
そう言って別れた後の出来事が、宮の森の件である。

簡単に結論から言うと、私は、入院した。

あまりにも知られていない病院だが、明らかにそこで、天国と地獄が同居している場所と言えば、ここしかない、と思った。緊急入院の場合は、まず保護観察室に入る。外から鍵が閉まっていて、中からは、扉を開けられないようになっている。ガラス張りになっていて、どんなことがあっても、自殺は出来ないようになっている。それなのに、保育所のような壁の色をしている。

私は、気づくと、そこに居た。
あたかもそこで生まれました、というような状態で。神戸に居た家族は、私が札幌に行った時点で、私は死んだものとして考えていたらしい。故郷を離れるとは、そういうことだ。だから、そこで生まれた、という表現にそれほどの間違いはない。勿論、背格好は、ただの学生だったかもしれないが。

話は逸れる。北海道と沖縄の人は、本州の事を内地と呼ぶ。だから、我々は、外地の人間だ、という言い方をすることがある。内地から外地に来た人間である私は、ある種、遠くて広い刑務所に閉じ込められた様な錯覚に陥った。少なくとも、弟の名を張り上げ、子供用の自転車をこいで、入院した日は、そんな思いだった。尾崎豊の「卒業」という歌の歌詞に、〈この支配からの卒業〉というのがある。我々は、まだ支配下にいる。自由という日本人の一番苦手とされてきた分野の対極にある支配というものの中にいる。
「人は、まず差別から入る。」
そんな言葉を、何処かで聞きかじった様な気もする。差別する側の人間は、差別される側の人間を支配しようとする傾向にあるらしい。闘争本能とでもいうべきか、それとも独占欲とでもいうべきか。

それが、逆転した時に、人は、良くも悪くも変わるのだと思う。賢かった人間が、急に馬鹿になったり。謙虚だった人間が、急に横柄になったり。変わらないことが一番だが、人間は人生のゴールが見えると、何かが変わるらしい。そのひとつのゴールが、私にとっては、卒業だった訳である。引退という言葉には、悲しい響きがあるが、卒業の裏には、達成感がある。

私は、弟に連れられて神戸に戻ることになる。2001年だった。
故郷という響きに、何故か戻れないイメージがあるのは、何故だろうか。人間が前に進む生き物だという勝手な認識があるからなのかもしれない。

戯言が過ぎた。本題に戻ろう。
神戸に帰り、それでも両親は、私を働かせようとした。それは、両親がそういう生き方をしてきて、世間一般もそういう生き方をしているからである。
それが出来たとして、
「あんた、普通やん。出来るやん。」
と言いたかったのだと思う。「いや、無理やねん。」
その言葉が出なかった。意識も朦朧としている中で私は、アルバイトを転々としてきた。事例として、引き合いに出して差し支えないのは、「老いには、勝てない。」という言葉だろうか。老いて尚、成長を続ける人もいるが、我々の病は、老いていくのが早い病気なのだろうと思う。それでも尚、老いに立ち向かう姿勢を日本人は良しとしてきた。
第一にそこに食い違いがある。
経験者優遇という求人広告を見たことがないだろうか。専門職に多いが、それは、何か特殊な能力を持ったスペシャリストの事を指す。ところが、人の走るスピードが違う様に、経験にもスピードがある。経験出来るものは、指数関数的に経験を積むことができるが、そうでないものは、いつまで待っていても経験値を積むことが出来ない。
そこに、差が生まれる。
簡単に言うと、全力疾走しすぎたのだと思う。しかも、無意味なことに。
最後のゴール手前で、倒れた。

「神様ほど偉くて、身勝手なものはいない。」
第二に挙げられるのは、そこではないだろうか。
例えば、山に登る時に、1合目よりも2合目の方が見晴らしがいい。その積み重ねで、山頂に辿り着けたものが、絶景を見る。その時、人は、達成感を味わう。それと共に、1合目や2合目を登る人間を見降ろす形になる。そこに尊敬の念はない。
差別をなくそう。というが、あれは嘘だと思う。
世の中から、差別がなくなれば、優越性がなくなる。
アルバイトで言うところの「使えねーなぁ。」という上司がいなくなる。世間でいうところの虐めがなくなる。良い事のように若干、思われがちだが、この傾向は、非常にまずい。使えない事を使う人間が擁護し過ぎると、私のような人間が減る。卑下する訳ではないが、私は使えない事を笑いに変えてきた男である。何遍も聞いて、「あいつ、馬鹿じゃねぇか。」と言ってくれる上司に何度救われた事か。
果てしないゴール    小笠原寿夫

嗚呼、栄冠は君に
蛮人S

「残念ながら」
 校長は渋面を作りながら言った。
「野球部の存続は認められんなあ、円谷君」
 初夏の傾いた日差しが、ブラインドのスリット越しに校長の横顔を照らす。その机を挟んだ向かいに立ったまま、僅かずつ拳を震わせているのは、野球部顧問、兼監督の円谷教諭であった。
「……なぜですか」
 円谷は絞り出すように言った。続いて言葉が一気に迸る。
「校長は確かに仰いましたね。全国大会に出場して、甲子園に行けるような部員を九名集めれば、我が校の野球部は存続させようと、だから、必死に集めたんですよ。それも、甲子園出場、いや、いやっ、優勝だって疑いなしの、最高の球児たちを、いったいどれ程の努力を」
「努力は、認める」
 校長は円谷を遮って言った。
「うん、よくもあれだけ揃えたものだよ。まったく驚きだ。だがしかしね、その部員たちに問題がある。少なくとも大会に出すのは問題なのだよ。分かるな」
「分かりません。何が問題あるのです。よろしいですか。まずは一番レフト、」
「あ、いや、君……」
 校長は押し止めようとしたが、円谷は片手に携えたバインダーを開き、選手の資料ファイルをぐい、と校長に見せつけた。
「鉄人アトムくん・二十八号機!」
「……いきなり、それかい」
 校長は深々と嘆息して見せたが、円谷はこれをすっかりと無視した。
「スポーツ科学の粋を集めた、人型決戦野球ロボットです。七つの威力その一、十万馬力! その二、ジェット噴射で空を飛ぶ! その三、カメラバックアップに対応し……」
「ロボットではいかんだろうが、君。なんでロボットが野球するんだね」
「ロボットではいかんですか。では」
 円谷はページをめくる。
「あ、いや、君……」
「時速一〇〇キロで突っ走る六〇〇ドルの男、二番センター・メカ村ジョー君は大丈夫ですね。彼はロボットではなく、瀕死の重傷の事故から両足、右腕、右耳のバイオニック手術で甦った奇跡の男。その費用……」
 校長は机を叩いた。
「だから、機械の力を使うなと言っとるんだ」
「ならば、密林の力、しなやかな野生の感性、天性の野球センス、三番サード・天才ゴリラのゴリシマシゲオ君はどうでしょう、いわゆるひとつのメークドラマなプレーヤーであるかと……」
「ゴリラもいかん」
「だ、だったら四番ライト・松井ヒデキ君を。この情熱、このスタミナ、ホームランの原動力、重量感ある下半身の秘密はこの尻尾なのです。すでにハリウッドからも超高校級のスタープレイヤーと期待され……」
「ゴジラはいかん」
「校長、ゴリラはいかん、ゴジラはいかんって、いったい何なら良いと仰るのでしょう」
「人間だあ……」
 校長の目には、心なしか涙が浮んでいるようにも見えた。これには円谷も動揺を隠せないままページをめくるほかなかった。
「えっと……じゃあ、まさか? 使い古した野球用品に魂が宿って生まれたベースボールスピリット、五番ファースト・野球妖怪ツクモ捨丸くんも、ひょっとして駄目なの……ですかね?」
「そんな奴、いつ入学した! 人間だと言っとるだろう」
「なるほど分かった。だったら、六番ショート・宇宙野球少年ゾランくんはOKですね。たとえ銀河を超えたディスクン星人だって、同じ野球を愛する人類同士である事には……」
「違う!」
「そうか、分かった。分かりましたよ。地球人なら良いのですね。もう最初からそう仰って下さい。されば七番セカンド・戦国時代からタイムスリップで僕らの町へやって来た、忍者カットビくんの修行の成果をお見せしましょう」
 校長は静かに首を振った。
「悪いがな。高野連の規定でな。登録選手の生年月日は何年以降の者に限るとな、毎年決まっとるんでな!」
「分かりました。では正真正銘、現代っ子の十七歳、人呼んで包帯王子、八番キャッチャー・雷で甦ったミイラ少年、コナンカーメン君! 死をも恐れぬ鉄壁の守備、どんなスライディングも跳ね返す、永遠の肉体は防虫防腐処理も完全で」
「し、死人はいかんッ!」
「……そうですか。そうなんでしょうね」
 円谷は息を吐き、顔をこすった。
「分かりました。いや、本当に分かりましたから。ここまでの八名は……八名は諦めましょう。しかし、せめて最後の一人だけ、どうか認めていただきたい。一人でも……居ればあとは……、ええ、あとは何とかしてみせましょう。九番ピッチャー・エスパー七美くん! サイコキネシスで投げる魔球は自由自在のハリケーン、敵の作戦もテレパシーでお見通しです。いや、これは選手の身体能力なもんですから。ルール違反じゃありません。もちろん、それ以外は普通の生徒、ロボットでも怪獣でも妖怪でも宇宙人でもありません。死んでもいません。しかも美少女です。エスパー美少女です。どうです、文句ないでしょう校長」
「女は、いかんッ!」
「は?」

 しばらく沈黙が続いた。

「女だから駄目。参加規程なんで」

 円谷は下を向く。
「それは、理不尽です……」

 どこからか振動を感じる。彼方から聞こえる幾つもの轟きが重なり合い、一つの唸りとなって校舎を揺らし、校長と円谷の肌を震わせる。
 校長はゆっくり立ち上がると、ブラインドの隙から窓の外へと目を遣った。乾いたグラウンドの彼方、土煙も雲と湧き、怒り溢れて天高く、迫り来る若き一団の姿を見とめる。
「青嵐、か」
 嵐とともにやって来るのは、きっと先刻より話題に上る、九人の異端児たちであろう。ここまでのやり取りも聴いていただろうか。
(そう、諸君の怒りはごもっとも。だがな、私にも校長として果たすべき、義務と立場があってなあ。いや、もちろん君達に、ただ分かってくれとは言わないが)
 校長は、上着を脱いで円谷に預ける。
「校長……」
「円谷君、君はよくやってくれたと思う。後は私に任せてくれるか」
 校長はシャツの袖のボタンを外して捲り上げ、両手で頬をぱん、と叩いて気合を入れた。
「どこからでも、かかって来なさい!」
 声に応じるかのように、窓を破ってゴリラの巨躯が、雄叫び上げて一番に飛び込む。校長はそのまま内掛けからゴリラを床に転がすや、続く忍者をはたき込み、躍りかかったサイボーグの上手を取るなり、出し投げで廊下まで吹っ飛ばした。
「さあ諸君、存分に、私と語り合おうじゃないか!」
嗚呼、栄冠は君に    蛮人S

その夜
今月のゲスト:永井隆

(昭和二十年八月九日、長崎に新型爆弾が投下された。長崎医科大学の教官である「私」をはじめ、医師・看護婦・医学生らが負傷者の救護にあたるなか、大学は火災の中に崩壊した)


 私たち教室員はうち揃って学長の寝ておられる畑へ行った。芋畑の隅に外套をかぶり、丸くなって雨にぬれておられるのを見て、つい涙が出た。調教授を中心とする医員学生の一団が駆け回って手当てに忙しい。私は学長に報告を終わり、二十歩ばかり行くと眩暈を感じ、脚のよろめくのを覚えた。ちょうどそこに長老から介抱されながら梅津君が寝ていた。これも雨にぬれている。私はその脈を握ってみたが、案外強かったので安心をした。上衣をぬいで梅津君にかけてやり、五、六歩行き、畑を一段降りると同時にくらりとして、私は卒倒した。
「頸動脈を押さえろ」施先生が叫んでいる。頸筋をぐっと押さえられた。眼を開けて仰ぐと、赤い雲の下に施先生と婦長さんと豆ちゃんと、どうしたかと心配していた金子技手の顔がのぞいていた。「結紮糸、コッヘル、ガーゼ、ガーゼ」あわただしく先生が怒鳴って、私の耳の辺りの傷の中へ何か痛い物を突っ込む。冷たい金属の触れあう音がして、時々どっとあったかい血が頬へあふれる。「押さえて、拭いて、ガーゼ」先生がしきりに怒鳴る。時々コッヘルの先で神経繊維をはさむものとみえ、全身の痛覚が一挙に目ざめて、足の爪先がぴんと突っ張る。私は思わず手に触れた草を握りしめた。
 調教授が駆けつけてくださった。施先生が何かぼそぼそいっている。脈が握られた。私は観念の眼をとじた。「動脈の断端が骨の陰に引っ込んでるんだね」と教授はいわれた。またも何回か私の足先はぴんと突っ張り、手は草の根を握りしめなければならなかった。けれども手術は手際よく成功した。「永井君、大丈夫だ。血は止まったよ」そういって教授は立ち上がられた。私はお礼を申し上げた。そして全身が急にだるくなり、気が遠くなっていった。
 日は落ちた。地上は炎々と未だ燃えさかり、空一面にひろがった魔雲は赤くあやしく輝いている。西のほう稲佐山の上のみがわずかに空をすかせて、三日月が細く鋭く覗いている。高南病棟の上の谷間に男組は板を拾い藁を集めて仮小屋を造り、女組は鉄兜で南瓜を煮て夕餉の支度をととのえた。長井君と田島君とが県庁まで非常食糧を貰いに出かけていった。畑の中に南瓜の煮える火を囲んで、私たちは小さな輪をつくっていた。わずかに生き残った者のこの小さな輪よ。お互いに顔を見合わせて、この輪をつくるこのわずかな人間同士こそ底知れぬ因縁の絆に結ばれていたにちがいないという気がした。私たちはお互いに手をとって固く握り合ってじっとしていた。もう暗くなった上の森から「担架来てください」「誰か注射に来てください」と哀れに叫んでいる。友の名を呼ぶ声、親を求める声、聞き覚えのある声、大勢声を合わせての叫び。しかし私たちはもう七人の仲間を死んだものと諦めていた。皮膚科の崎田君は大腿骨折で身動きもかなわず、今壕の中に寝せてあるという。藤本君は講堂の床下から九死に一生を得て、杖をつきつき、さっきここを過ぎたので自宅へ帰らせた。あとは辻田君と片岡の蛸ちゃんと山下君ら五人の看護婦である。彼らは生命さえ残っておれば、どんなにしてでも教室へ帰ってくる人々であった。たとい霊魂がまさに肉体を離れんとしてただ髪の毛の先でつながっているほどの瀕死の重傷でも、必ず私たちのところまではって来て、それから死ぬはずの仲間であり、それほど堅い私たちの団結だった。もう八時間も経過して、姿を見せぬが故に、あの人々は即死したにちがいないのである。私たちはじっと黙祷をささげていた。
 のっそりと裸の大男があらわれた。
「おっ、永井先生。見つけたぞ」
「あら、清水先生。生きていましたか」
「わし一人じゃ」どたりと尻餅をついた。手についてきた焼け残りの角材がからから音を立てて倒れた。ふうふう肩で息をしている像は、まさに傷つける闘牛か。
「すぐ来てください。学生たちが死にかけとる。もう半分以上は死んじもうた。注射しに来てくださいよ。見殺しじゃけん。薬専の壕じゃ」
「すぐ行きます。さあ、まあ南瓜でもお上がりなさいよ」
「いや、南瓜どころじゃなか。南瓜を何百食ったって学生は助からん。すぐ行きましょうや」
 施先生、婦長、橋本君、小笹君が医療袋をもって立ち上がった。清木先生は史郎から手をひいてもらって、やっと立ち上がることができた。
「大学はなくなってしもうた。とにかく、えらいこっちゃ。みんな死んでしもうた。途中はひどいんだぜ。たった三百メートルしかないのに一時間かかった。それじゃ、また来ます。ああ、よかった。学生が助かります」
 先生は婦長さんの肩につかまり、よろよろしながら再び燃える大学の中へ入って行った。この一隊はこの夜を基礎医学教室の裏丘を中心に、残りの大倉先生、山田君らの一隊はここの仮小屋を中心に夜間の救護をつづけるのである。私と梅津君とは仮小屋の藁の中に寝せられた。虫も死に絶えたものとみえて、あたりは寂莫としている。
 地に満ち空を焦がす大火の反映の明かりを頼りに呻き声にひかれて傷者に近づき、傷を巻き注射をし、これを抱いて引きあげてくる。路は思いがけなく炎の屏風にさえぎられ、転ずれば倒木縦横に交じりて越すに由なし。ある時は吹き崩された石垣をよじ登り、ある時は板橋の吹き飛ばされたのも知らず患者もろとも溝にはまる。足蹠はすでに幾度か釘踏み抜いて一歩毎に痛みをおぼえ、膝頭はガラスに擦り切られてもんぺとくっついている。救護隊は医学専門部の高木部長を発見して収容する。石崎助教授、松尾教授を相次いで担ぎ込む。仮小屋もようやく呻き声に満ちてきた。谷薬局長の令嬢も重態だ。通りかかった保険の集金人がころがりこむ。二人の囚人も宿を求めた。
 敵機は二回来た。ビラ弾のはじけるにぶい音がした。
 夜半火勢はようやく衰えはじめた。死に果てたのか、諦めたのか、疲れて眠ったのか、叫びはまったく絶えて、天地寂として声なく、まことに厳粛なひとときである。げにさもありぬべし、まさにこの時刻東京大本営において天皇陛下は終戦の聖断を下したもうたのであった。地球の陸と海とを余す所なく舞台として展開された第二次世界大戦は、次第に高潮し、さらにいかなる波乱を巻き起こすやと気遣われていたが、突如原子爆弾の登場によってクライマックスに達し、ここににわかに終幕となったのである。たしかに厳粛な一瞬である。私は放射能雲のあやしく輝いて低迷する空を胸のつまる思いで眺めていた。この放射能原子雲の流れゆく果てはどこか。前途は凶か吉か? 正か、はたまた邪か? この一瞬、この空から新しい原子時代は開幕せられるのである。