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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第3回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
緋川コナツ
3000
2
サヌキマオ
3000
3
植木
3000
4
兎六
3000
5
蛮人S
3000
6
吉行エイスケ
2999

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

空蝉の部屋
緋川コナツ

 ざりり。
 渇いた感触を足の裏に感じて歩みを止める。そこには干からびた蝉の死骸が転がっていた。
 そういえば最近、あちこちで蝉の死骸を見かける。コンクリートとアスファルトに覆われた都会のこの街の一体どこに、これだけの蝉が生息しているのかと不思議になる。
 長い間、土の中で世に出るときをじっと待ち、短い夏を謳歌して、あっけなく死んでゆく。陽射しに焼かれ、人に踏まれて、やがて雨に流され朽ち果てて。それが蝉の一生だと頭では理解していても、さざ波だった気持ちはどうにも収まらない。
 せめて交尾くらいはできたのだろうか。そのくらいの「いいこと」がなければ、生きる意味なんて無いんじゃないだろうか。
 つま先で蝉の死骸を側溝に追いやり、日傘を傾けながらぼんやりと考える。
 目指している場所は、海の水と川の水が混ざり合う河口の近くにある。そのせいか、そこはいつも体中の細胞が震えるような不思議なにおいがした。
 築四十年は軽く越えていると思われる古いアパートの共同玄関は、いつも開いたままになっている。クーラーなど持たない世帯ばかりなので、少しでも風通しを良くするためなのだろう。
 私はサンダルを脱ぎ、木製の大きな下駄箱の一番奥に押し込んだ。建物の中は埃っぽく、あらゆるにおいが混ざり合って空気が淀んでいる。いくら玄関を開け放して風を通したところで、染みついたにおいはそう簡単には消えてくれない。
 ぎしぎしと床を軋ませながら階段を上り、部屋の前に立つ。表札はかかっていない。ドアの横には読み終えた古新聞と雑誌の山が、今にも崩れそうになりながら乱雑に積まれてあった。
「私です……香澄です」
 軽くノックをしたあと、ドアの隙間に口元を近づけて自分の名前を告げた。
「入れ」
 すぐに無愛想で乱暴な声が返ってきた。私はドアのノブを掴み、軽くまわして手前に引いた。やはり鍵はかかっていない。みしっと湿った音をたてて、ドアが開いた。
「美味しそうな梨が出ていたから買ってきたの」
 部屋の主は私の姿をちらりと横目で見て、黙って頷いた。寝起きのぼさぼさ頭に無精ひげを伸ばし眼光だけは鋭いその姿は、どことなく異様な雰囲気を纏っていた。
「お腹すいてない? 何か作ろうか」
 私はそう言いながら買い求めた梨を流し台の上に置き、冷蔵庫を開けた。
「いらない。何も食べたくない」
「食欲ないの? 梨なら食べられるかな。今すぐ剥くから、ちょっと待ってて」
「……勝手にしろ」
 亮悟はそう言って、プイと横を向いてしまった。よれよれのTシャツと短パン。機嫌が悪いのは、いつものことだ。私は構わずに流し台の下にある扉を開けて、小さな果物ナイフを取り出した。
 この部屋の主である早川亮悟は、昔、私の夫だった人だ。
 亮悟は酒に酔って小さな傷害事件を起こした。示談金を私の両親が負担し、なんとか大事には至らずに済んだ。もともと結婚に反対していた両親は、ここぞとばかりに離婚を勧め、子どもができなかった私たちはあっけなく離婚した。
 別れてからというもの、亮悟は全ての意欲を失い働かなくなった。やっと見つけた土木作業員の仕事も、建築現場の足場から落ちて腰を痛めて辞めざるを得なくなった。さらに精神を病んで鬱病と診断され、生活保護を受ける身となった。
「おい香澄、何やってんだ。いいから、こっちに来い」
「ちょっと待って。これだけ、あとこれだけ梨を剥いてから」
 それさえもままならず、私は亮悟に腕を掴まれて畳の上に押し倒された。流し台の隅に置いていた梨が落ちて、床の上をごろごろと転がる。せっかくの梨が傷んでしまうのが気になった。
 心のどこかに、亮悟をここまで追い込んでしまったのは自分だという、拭いきれない負い目があった。
 あのとき、示談金の無心をしなければ。あのとき、亮悟を見捨てなければ。あのとき、両親に言われるまま離婚に踏み切らなければ。
「たられば」をあれこれ並べ立ててみたところで、死んだ子の歳を数えるようなものだ。つまり無意味。それは頭では理解している。
 私は亮悟に対する気持ちを、自分の中で持て余していた。
 亮悟の痩せた手が、私のスカートを捲り上げて素足をさする。ブラウスのボタンは乱暴にはずされて、キャミソールの上から乳房を乱暴に揉まれた。
 開け放した窓から蝉の鳴き声が聴こえる。どこかの部屋の軒下に吊るされた風鈴が夏の終わりの風に煽られて、涼し気な音色を響かせていた。
「自分で脱げ」
 ふいに亮悟が体を離し、顎をしゃくりながら私に言った。私は黙って立ち上がり、スカートの下に穿いていたものを自分の手で脱ぎ捨てた。そして再び畳の上に横になり、両腕で亮悟の頭を掻き抱いた。
 皮肉なことに、私は亮悟に乱暴に扱われているときだけ自分が生きていることを実感できた。そして横暴な態度に従うことが、私なりの罪滅ぼしなのだと思っていた。
 いよいよ、というときになって、亮悟があっけなく私から体を離した。
「……どうしたの」
「うるせえ」
 どうやら今日も駄目だったみたいだ。強い薬の副作用のせいか、亮悟は以前のように私を抱くことができなくなった。歳も歳だし、そんなものなのかもしれない。たぶんここで変に慰めの言葉などかけたりしないほうが、むしろお互いのためだ。
 私は無言で脱いだばかりの衣服を拾い集めて、下着だけつけた。亮悟は下半身だけ剥き出しの状態のままで胡坐をかき、私に背を向けて静かに窓の外を見ていた。
「香澄……もう、ここへは来るな」
 思いがけない亮悟の言葉に、私は一瞬、我を忘れた。
「え? どうしてそんなこと言うの?」
「もう俺のことは忘れろ。忘れて、新しい男を見つけて結婚しろ。いいな」
「いいな、って……そんなこと、いきなり言われてもできないよ」
 亮悟は窓際に置かれてあった煙草を手に取り、一本だけ抜き取って口に咥えた。すかさずどこかのスナックの名前が入ったオモチャみたいなライターで、ぞんざいに火を点ける。亮悟の口から吐き出される白い煙が、網戸を通り抜けて秋の気配が漂いはじめた空へと上ってゆく。
「もういい、もう充分だ。俺は一人でも生きていける。おまえは、こんなところに通っていたら駄目なんだ」
「そんなことない。私には亮悟が必要なの」
「それじゃあ、どうして離婚したんだ」
「それは……」
 私は言葉に詰まり、亮悟の目を見つめた。亮悟の瞳の奥は何も映さず、がらんどうだった。
「もう充分だ」
 私の言葉を遮るように、亮悟は何度も「充分だ」と繰り返した。
 亮悟は、ずっと前から気づいていたのだ。私が亮悟への罪滅ぼしのためにここに来て、己の身体を差し出していたことに。
「そうだ、梨。せっかく買ってきたんだもん、一緒に梨食べよう」
 私は流し台の前に立ち、一心不乱に全部の梨の皮をむいた。何かしてないと、涙が堰を切って溢れ出してしまいそうだった。
「はい、剥けたよ。どうぞ」
 小さなちゃぶ台の上に、梨の入った皿を置く。亮悟がカットした梨を一口頬張ったのを見て、私も一切れ口に含んだ。
「私、これからもここに来るからね。亮悟が何と言おうと、来るの止めないからね」
 私は自分がこの部屋を訪れる理由が罪滅ぼしだけではないことに、気づきはじめていた。
「バカ野郎……勝手にしろ」
「勝手にします」
 梨の甘味が、口の中いっぱいに広がる。
 
 ツクツクボウシの声を聴きながら、私は人生の夏を惜しむ。そして夏を慈しむ。
 
空蝉の部屋    緋川コナツ

小星はずっと何か食べてた。
サヌキマオ

 安部小星が演劇部に入ったきっかけは長い間語られることはなかったが、この前のお泊り会で「おばあちゃんに『コボちゃんは昨今マリリン・モンローによく似ているねぃ』と言われたからだ」という告白を聞いてしまった。もともと同じ中学にいた頃はとても演劇なんかしそうにない感じで、新聞部だったし、運動も得意でなかったし、もともと髪の毛の色の薄いのを心底嫌そうにしていた。その割にナイスバディなのには違いなく、体育の着替えの時などに十分同性の目を惹いたがしかし、その内向性から重度の猫背だったのであまり小星のことは話題にならなかった。
 最近は逢っても演劇部の話ばかりする。元子役タレントやネットアイドルもいるという。話を聞くだに魑魅魍魎の集まりには違いないが、そんな中で小星がいったいどういうポジションを得ているのかが老婆心ながら心配になった。どんな演劇をやっているのかと訊くと「森のキノコと親父と俺と」というなんとも判断に困るタイトルが返ってきた。どんな話なの、と訊くと「文化祭、観に来てよ」という。行きたいのはやまやまだがその日はうちの学校は体育大会だから、と断ると、あたりをはばかるように見回したあと、部内製本らしき台本を差し出してきた。確かに蛍光グリーンの表紙がホチキスで留められていて「森のキノコと親父と俺と」と書いてある。
「あのね、本当は台本は部員と同居している家族にしか見せちゃいけない決まりがあるんだけど」小星は本当に悪いことをしているような顔をしている。かいつまんで中身を要約してもらうと(この時でさえ小星は電気柵にかかる野生動物のような恐怖に満ちた顔をしていた)中世のティラミソ国の領主が、隣接する深い森の領有権を所有し始めたばっかりに森の樵とキノコと争う話だという。演劇部の台本は全て、顧問の先生が役者である部員に当てて書いているという。
「コボちゃんが樵の娘の役。ということは主役じゃない。すごいじゃない。一人称が『俺』の女子の役なの?」
「ううん、そうじゃなくてね、『俺』はウサギなんだよね。『俺』と樵は普段はいたずらをしたりされたりする仲なんだけど、その王女様に立ち向かうために共闘する、みたいな」
「ずいぶん少年誌的な展開だよね。じゃあ、こぼちゃん、ヒロインだ」
「そういうこと……なんだろうか」
 小星は顎に右手の親指をあてて考え始めた。まだ本人の頭のなかでも整理がついてないらしい。
「話の本筋と関係なく延々といろいろなものを食べ続ける役が『ヒロイン』だと思う?」
「話の本筋と関係なく延々といろいろなものを食べ続ける役はヒロインじゃないだろうなぁ」
「夕鶴がそういうならきっとヒロインじゃないよ。夕鶴の方がいろいろなこと、知ってるもの」
 おっと、そんなことを言われても、私――木下夕鶴にだってわからないことなんぞ馬に食わせるほどある。しかし、小星が出るという「舞台」に俄然興味が湧いてきた。
「そういう脚本を書くっぽい顧問の先生なんだ?」
「ああ、イブ先生? 普通。女装してるけど」
 おっとぉー。
「それは普通じゃない。異常だとは思わないけど普通ではない」
「ああでも、伊武先生、すごく真面目な先生なんだよ。『こういう格好が好きなだけだ』って言ってるし――え? けっこう若い先生だよ。三十代前半くらいかなぁ」
「キモくない?」
「キモくはないよ。普通にしてると本当に女性に見えるんだよ。全然無理なく女性に見える」
「へぇ……」
「全然無理なく女性に見える女装三十代男」という言霊はどうしてもおぞましさを呼んでしまう。外見は確実に綺麗な女性なのだと小星は力説する。どんな学校だ。たしか萬歳高校ってそこそこ進学校だったと思うけど。写メを見るとなかなかどうして、長い髪をひとつに括った女教師・伊武泉が腕組みをしている。長身すぎる気もするけど。

 失念していたのだが、体育大会というものは雨でたやすく中止になるのであった。体育大会が中止になるということは翌日(日曜日である)に順延になるということであり、そうすると、
「まもなく日本萬歳高校演劇部文化祭公演『森のキノコと親父と俺と』を上演いたします。携帯電話など、音の出る電子機器は音の鳴らぬように設定願います。また、舞台演出の都合上、通路には荷物を置かないよう、よろしくご協力をお願いします」
――というアナウンスが聞けたりするわけである。客の入りは六割くらい。視聴覚教室というくらいだから、普段は全校集会かなにかをやっているのだろう。ひと学年、五百人くらいは入りそうな感じはする。
 開演前のブザーが鳴って、しばらくしてまた鳴って、ようよう部屋が暗くなってきた。やおらスポット照明が付き、即座にまた消える。明らかに「間違えたな」と思う。緞帳が左右に開いていき、先ほどの照明が改めて点く。またすぐ消える。これも間違ったのだろうか。教室の後ろの方からたったったったっ、と人の走る音がする。思わず振り向こうとするとちょうど私の真横を駆け抜けていったのは着ぐるみのウサギだ。ウサギは今度こそスポットの照射を浴びながら、下り傾斜のついた通路を舞台に向かって走っていく。舞台に上る階段を一足飛びに上がろうとしたがそこは着ぐるみで、分厚いボアの足を段に引っ掛けてつんのめって転んだ。一瞬しん、となった観客がざわついていると上手から銀紙を貼った斧を持った樵がずかずかと出てくる。
「こ、こらぁー」
 もじゃもじゃとした付け髭でわからないが、声は女子生徒のものだ。
「うさぎめぇー、まぁたいたずらをしておるなあー」
 ウサギは足を上にしたままひっくり返っていたが、よっこらしょうと起き上がると急に素早く不思議な様子で踊った。無事のアピールなのか。
「おまえまたうちの裏庭にでっけえ穴をこさえおってー。うちの娘がまたおっこちたでねえかー」
 ウサギは何かに取り憑かれたように腹筋を始める。待って下さい! と声があって、下手から村娘の格好をした小星が小走りに出てきた。真に迫る顔で甘食を頬張っている。そういえば「ずっと何か食べている」役柄だったっけ。緊張のせいか勢い余って足元のウサギに蹴躓いてしまう。脇腹、当たりどころが悪かったのかウサギ(の中の人)が本気で噎せている。
「ウサギさんは悪く無いわ! ウサギさんの掘った穴に落ちた私が間抜けなだけ!(むぐむぐ)」
 なんだこれ。
 舞台はその後高慢な女領主が出てきて、キノコの妖精が出てきて、舞台上に犬が乱入してきた。キノコの妖精はあたまに細長いキノコを生やした蝉の幼虫の格好をしている。最終的には領主の館に森が侵食して崩壊し、樵の娘は舞台の端で甘食からメロンパン、チーズドック、チョココロネと延々と食べ続けていた。

 そろそろ字数が一杯になってきたので話をまとめるが、中学時代の親友が別の学校に行って、まったく別の世界に身を投じていているのは実に新鮮な光景だった。上演された劇に対する感想はとりあえずさておいて、あの阿部小星が、高校に入学することであれだけ活き活きとしだしたのはよかったと友人の一人としては思っている。きっと向こうも私のことを友人だと思ってくれていると思うが、人ははまるべきパーツがちゃんとはまればちゃんと活躍するということなのであろう。
 と、ようやく部誌に乗せる字数が友達のおかげで埋まったことに感謝しつつ、この原稿は本人には絶対読まれたくない。
小星はずっと何か食べてた。    サヌキマオ

三回忌
植木

 (世界中でいちばん美味しいたべもの……)と心の中で呟きながら、あたしは二日目のカレーを頬張っていた。
 じぶんで作ったからって訳じゃないけれど、今回の味は結構いい線いってる。
 兄貴の奴は、「マズい」なんて言いながら二杯目をたいらげたし、ママだって笑顔で食べてくれている。
 ポテトサラダ、肉じゃが、カレーライスの三種類しかレパートリーがないあたしだけど、十四才三ヵ月にしては家族のなかでいい仕事してると我ながら思う。
 こんな、なんてことのない日曜日のお昼があたしは好きだ。

「三回忌がすんだら見に行こうよ」
と、ちょと強い口調で不意にママが言いだしたのは、デザートの杏仁豆腐を三人が食べ終わったときだった。
 逗子の方に殺処分されそうな猫たちの面倒を見ながら里親探しをしているおばさんがいて、昨晩もその話題は出たのだけれど、その時は、そんな人もいるのよね、というごく軽い話題の一つだったから、ママが突然その猫おばさんの話をはじめた時、あたしはひょっとしたら口をぽかんと開けていたかもしれない。
 話の始まりは、いつもいつも猫を飼いたい飼いたいと言っていたあたしだけど、二人はそれほど乗り気ではなくて、今いるジョンちゃま(シーズーで、十八年生きてる)だけでペットはもう十分という雰囲気だったし、世話は誰がするんだうんぬんなんて話にいつもなって、あたしがこの腕の中に可愛い小さな仔猫を抱くことなんてないんだと思っていたから、そんな話がでたのはうれしくもあったけれど、三回忌まではまだ一ヶ月以上もあったから、その時はまだ軽い受け止め方をしていたし、正直なところ半信半疑というのがあたしの気持ちだった。

 死ぬ前に桜が見たい桜を見たら死ぬんだ、と言っていたパパはその願いを叶えてから肺がんで死んでしまった。
お通夜、葬儀、告別式と終えて大船の斎場から逗子の火葬場へと行く途中、桜が満開になった八幡宮の段葛脇を車は走った。それから三時間ほど経つ間にパパは骨と灰になってしまった。

 あたしは生まれて初めてパパの骨を見たような気がした。

 骨壷に骨を納めるとき、一畳ぐらいのステンレスの台を親戚一同が取り囲んで、骨壷担当者さんというのかわからないけど、ともかくそういう役割のオジサンの説明を受けながら骨を順序よく骨壷に納めていくのだけれど、その骨壷担当者さんの説明は明るく非常にスムースで、あたしはいったい一年で何回ぐらいこの台詞を言っているのだろうとか、なんとなくスーパーの実演販売に様子が似ているなとか、慣れるってこわいなとか、タバコの箱の形にふくらんだ骨壷担当者さんの胸ポケット辺りを見ながら、そんなことを考えていた。

 ジョンちゃまの具合が急に悪くなった。
 兄貴の運転する車で、腰越にあるジョンちゃまが仔犬だった頃からお世話になっている動物病院へ急いで連れて行った。あたしは助手席でジョンちゃまの乾いた肉球を触りながら、大丈夫、大丈夫と呟いているのが精一杯で、病院に着いてからも何の役にも立たず、そんな風だったから泣けて来たりして、自分がなんだか物事を悪い方へ、悪い方へと考えているのに気付いて、そんなことにまた苛立ったりし、無性に腹が立った。
 病院のクッションの効いていない固い長椅子に座って、足元でうろうろしているパグや片足を鎖で繋がれてケージに入っているカラフルで大きなオウムを見ていても、気は晴れず、兄貴がコンビニで買ってきてくれたコーヒーも、ただ強い苦みしか感じられなかった。
 ジョンちゃまは三日間持ちこたえてくれた。あたしが学校から帰ると、そうゆうことになっていた。ママはあたしにメールしなかったことを「ごめんね」といっていたけど、少し頭を冷やせばママの方が正しいと思う。 夜になってからママに謝った。
 
 ママはキッチンでアルバムを眺めていた。

 兄貴の話によると我が家は、パパが死んだときに斎場の家族会員という制度に加入していたらしく、ペットもオーケーということで私たちはジョンちゃまのために大船の斎場へと行き、最期のお別れをした。
 翌日、ジョンちゃまの骨を届けにやってきた斎場の人はちゃんと喪服を着ていて、何やら神妙な顔つきでお経の様な呪文の様なことをごにょごにょ言って帰って行った。
 骨になったジョンちゃまは骨壷に入り、滑稽なほど豪華に装飾された箱に納められて帰ってきた。
 ジョンちゃまのお気に入りだったキッチンに箱は置かれることとなり、ささやかな花瓶に活けられた花と遺影を飾った。

 その晩、あたしは猫おばさんのホームページを見た。やっぱりこのタイミングでは仔猫を我が家に受け入れることはできない。それを自分に確認するための行為だった。
 サイトの中の仔猫たちの写真には特徴を伝える短い紹介文がついていて、それを読みながらあたしは、(この仔猫たちを全部引き取ることができたら……)なんて夢のようなことを考えていたけれど、すぐにそれがひどく虫のいい考えだと気付いてひどく滅入ってしまった。
 「閲覧注意」と表示された動画を見終わってから、あたしは少しだけ泣いた。

 キッチンへと下りていくと、ママが日記を書いているところだった。ショッキングピンクで鍵の付いた日記帳。それは、あたしがママの誕生日にプレゼントしたものだった。
 考えれば考えるほどセンスの無いおくりものだったのだけれど、ママは文句も言わず受け取ってくれ(ラッピングを開けたときは、ちょっとびっくりした顔だったけど)日記を書いてくれている、ママってそういう人だ。 テーブルの上にはホットミルクが甘い湯気をたてていて、あたしに気付いたママは立ち上がり、あたしの分も作ってくれた。
 二人ともそれから黙って、時間を過ごした。泣いたの、とママに聞かれて、少しだけ、でも学校のことじゃないよ、と答えた。
「瑠璃、やっぱり仔猫を飼おう。パパもジョンちゃまも死んでしまったけど……家族って減るだけじゃなくて増やすこともできるんだよ」ママは、ぱたんと日記を閉じてから、顔を上げてあたしにそう言った。
 外国の映画だったらここで、泣きながら抱き合ったりするのかもしれないけど、いや、最近では外国じゃなくてもそうする人がいるのかもしれないけれど、あたしは、ママありがとう今夜はもう寝る、と言うのが精一杯だった。
 部屋に帰り、机の引き出しからショッキングピンクの鍵付きの日記帳を取り出し、あたしはママを抱きしめ、ありがとうと呟いた。

 翌朝、キッチンで兄貴が、なんだ今度は猫かよ俺は犬の方がいいけどねジョンちゃまの生まれ変わりみたいでいいじゃん、なんて言うのを軽く無視して、チーズ入りスクランブルエッグを食べてから学校へと向かった。授業中、あんなことを言ってもまんざらじゃなさそうな顔をした兄貴の顔を思い浮かべ、ああ、あれは二杯目のカレーを盛っているときの顔だと思いあたり、つい吹きだして先生にみんなの前で注意された、先生のバカ。でも、あまり気にしないようにしよう。
 
 猫おばさんの連絡先はサイトに書いてあったけど、いざとなると電話をかけるのに、こんなに勇気がいるとは思わなかった。あたしは、たいして広くもない部屋の中をぐるぐると回り、部屋を出てキッチンをぐるぐると回り、ママに変な顔をされるので、靴を履いて玄関を出て近所をぐるぐると回り、ようやく決心がついてダイヤルボタンを押した。
三回忌    植木

私家版「蛇を踏む」
兎六

 会社の帰り道で蛇を踏んだ。
 翌日のDRの資料のてめに延々とパターン別の試験を繰り返して、結局、終電で帰った日のことだった。就業規則では、女子社員は20時以降働かせてはいけないので、この残業はあまり良くない。ともあれ、社宅の最寄り駅、ショートカットのために10歩ほど通る公園を、7歩まで横切ったときのことだった。
 足元に違和感があった。見ると私は蛇を踏んでいた。ああ、踏み潰したら嫌だなと思ったが、蛇はどこまでも柔らかく、完全に体重をかけてしまったのに、全く無事な様子だった。
「踏みましたね」
 蛇は言った。
「踏まれたなら仕方ありません」
 そう言って、するするとサツキの植え込みの下に消えてしまった。
 私は狐につままれたような心持ちで、残り3歩の公園を通り抜けた。道すがら、ろうたけた芙蓉が花を咲かせていた。

「おかえりなさいませ」
 ワンルームのドアを開けると、女が居た。一瞬、部屋を間違えたかと思ったが、鍵を開けたのはまぎれもなく私自身だ。
「先ほど踏まれた蛇です」
 女は言った。
 玄関先でも何だからと、女に勧められるまま部屋に入ると、万年床があったはずの床にラグが敷かれ、赤い折りたたみテーブルが出されていた。どちらも、確かに私の持ち物だ。小さなテーブルの上に料理が並び、女が冷蔵庫からビールを出してきた。私は晩酌をしないが、お中元のシーズンだったので、会社からもらったビールが冷蔵庫に入っていた。
 女は私の目の前で一度蛇に戻ってみせた。私はがらにもなく大変おどろいた。私に踏まれたから、私の身のまわりの世話をするらしい。私には「踏まれたから」という理屈はよくわからなかったが、女はさも当然という顔をしている。「こんな狭い部屋に」という反論も、「それを何とかするのが私の仕事ですから」と一蹴され、風呂へと追い立てられた。風呂からあがると、ラグとテーブルが仕舞われ、布団が敷かれていた。「明日も早いのですから」と蛇に言われて床についた。

 蛇が来てから、不思議なくらい仕事が順調に進んでいた。
 趣味で勉強していた技術が仕事で必要になり、その仕事をこなしているうちに「詳しい」と評判が立ち、親会社のプロジェクトメンバーに加えられた。他の案件でも細々と駆り出されて、身がもたないので社内勉強会を開いた。それで目立ったか、管理職への昇進を打診された。正直、管理職の仕事内容を見ていると気が進まないが、権限が増えることは魅力だった。家でも悩んでいると、蛇が「止したが良い」と言った。理由を訊くと、私自身が知っていると言う。確かに考えてみると、増える権限よりも、調整や書類仕事に時間を取られる方が、よほど痛いように思えた。
 結局、昇進は断った。それでも、社内で私の意見は尊重されていたから、特に不自由を感じなかった。
 私は蛇に礼を言って、欲しいものはないかと問うと、晩酌に付き合って欲しいと言われた。それから、私はよく蛇と酒を飲むようになった。

 親会社でのプロジェクトが終わるころ、私は某有名企業に出向するメンバーに選ばれた。しかし、社内の次のプロジェクトを構想していたので、正直、気が進まなかった。そうは言っても、私以外に適任者はいないから頭が痛い。
 試しに蛇に話すと「行ったが良い」と言った。理由を訊くと「世のことは調べれば分かる」と言う。まさかと思って出向先の資料を調べると、私が進めている次期プロジェクトは、出向先でも準備している人間がいるらしい。正確には、準備段階で止まっている気配がするが、上手くすればこちらのプロジェクトと共同開発という形で、話を進められそうだった。
 蛇に礼を言って欲しいものを問うと、着物が欲しいと言われた。私は自分では和服など着たことのないが、蛇と一緒に呉服屋に行って着物を買った。それから、たびたび着物屋からセールスの電話がかかってくるようになった。

 出向を受けてから半年、自分の思い描いていた仕事も、求められた業務も十分に実現できた。そろそろ自社勤務に戻ろうかという時期、出向先の企業からこのまま残らないかと打診された。嬉しい話だったが、この話を受ければ、もとの会社を裏切る形になる。それは避けたかった。
 家に帰って蛇に相談すると、「行ったが良いが止したが良い」と言われた。意味を訊くと、「今のことは皆が知っている。先のことはお前さんが知っている」という答えだった。それから、蛇は「できますよ」と言った。
 蛇の言い方が引っかかって、自社の先輩社員にそれとなく現状を問うと、驚かされた。私がいない間に、上層部で株主交代の話が持ち上がっていた。その上、新株主のもとでは、開発部門は解散する可能性が高いらしい。
 安定を考えると出向先企業への転職が明らかに正しい選択だった。けれど、私には今の状況がチャンスのように思えた。私は打診を断り、代わりにひとつ約束をして、出向を終えた。
 私は蛇に礼をいい、「できるだろうか」と訊いた。蛇は「できますよ」と答えた。蛇は何か欲しいとは言わなかった。私は、出向が決まってから、ワンルームの社宅を出て、小さな戸建てに引っ越していた。そこには、蛇の部屋もあった。

 自社にもどってからまた半年、聞いていた通りに株主が変わり、技術部門がなくなった。代わりに、以前私が出向していた某有名企業の出資を受けて、もとの技術部門のメンバーで新会社を立ち上げた。私は、育ててもらった会社への義理も果たせたし、好きな仕事を続ける環境も維持することができたというわけだ。

 新会社が軌道に乗り始めたころ、私が蛇に改めて礼を言うと、蛇は「そろそろ子供が欲しいですね」と言った。私が驚いて、それは私と蛇の間に子供を作りたいということかと問うと、何を当たり前のことを訊くのだという顔をする。どうやら蛇は本気のようだった。仕方なく「私は女だから、お前との間に子供は作れない」と伝えると、蛇は目を丸くして「女なのですか」と言った。そして、しばらく考えて「女でしたら仕方ありません」と、たちまち細って蛇の姿にもどった。私が買ってやった着物と一緒に床に落ち、玄関まで這ってドアをコツコツと叩く。ドアを開けてやると夜の闇に消えてしまった。

 蛇に出て行かれた私は、いくらか寂しかったのだろう。遅めの盆休みを取って、実家に帰ることにした。
 私の実家は小規模な寺なのだが、それなりに広さがある。そのため、いつも掃除に苦労していた。先日、実家に電話をしたところ、ロボット掃除機のルンバを買ったと、母が嬉しそうに報告してくれた。「ルンバは子供のようでかわいい。バカなところがかわいい」とのことだ。
 帰省の日程を打ち合わせるため、実家に電話すると、母の様子が少しおかしい。理由を訊くと「まぁ、帰るなら見たほうが早いわ」と苛立ち気味に返された。
 果たして、久しぶりに帰った実家で母に案内されたのは、薄暗い和室だった。だだっ広い部屋を襖で田の字に区切ったうちの一室なのだが、今は半ば物置になっている。そんな部屋の片隅に、あの蛇が女の姿で正座していた。
 蛇は私を認めると、にっこり微笑んで「お姉さま、お帰りなさいませ」と言う。私が、口をぱくぱくさせながら、母の顔を見ると、
「ルンバが縁側から落ちて、蛇を踏んでね。それからずっとここにおるんよ」
 と、女の横を視線で示した。そこには、ルンバの充電器が置かれていた。
私家版「蛇を踏む」    兎六

うしがえる
蛮人S

(その時、私は苛立っていた。確かに苛立ちは感じていた)
 それは私にとっての三年目の初秋、私は陽射しにぬるむ水面の、私だけの領分に浮かんでいた。目を水の外に出し、すすきの穂が首を振ったり、色づいた赤とんぼが輪となって飛び去るのを、いつものように眺めていた。が、どうにも気に障る事には、先刻より鴉(からす)が、その隣、池のほとりの、古びた杭のてっぺんに舞い降りていて、
『幸せなのかい?』
 そう呟いて、微かな嗤いを浮かべるのだ。
 私は睨んで言った。
『最近よく来るが、お前は何が言いたい』
 すると鴉は欠伸して、
『そこはよくよく居心地が良いのだな、そのちっぽけな池で、毎日毎日飽きもせず。なあ、外に出たいとか思わないのか』
 私は、この黒い鳥が来るたび不機嫌を感じていた。
『鳥のくせに、聞いたふうな口を、水の事など何も分かるまいに。私はこの世界の事は、隅々まで、何でも知っているのだ』
 そう言ってしまった。
『どうだか――』鴉は羽繕いを始めた。『知ってるかい。その池はちょっと昔に人間が機械で作った溜池だよ。でも最近はこの辺りでも、田畑はめっきり減ったしさ』
 私は本当に意味が分からず、瞬きを重ねた。
『分からんか。井の中の蛙には』
『黙れ、ちんぴら』
 私はすっかり腹を立て、水を叩き、吠えた。鴉は舞い上がり、
『わきまえな、養殖あがり』
 啼きながら空高く消えていく。私にはただ、腹立たしさだけが残った


【鴉】
(君には酷い態度をとったと思う。ひとつ釈明すれば、私はいつもああいう物言いからしか入れないのだ。私は、そういう鳥だから。でもそれを勘案しても、やはり君への蔑みが先にあったと認める。私は池に執着する愚鈍な蛙を本気でからかおうと思った。自由に飛びる私の身を蛙は羨むだろうと考えていた。ところが君はそんな気持ちすらなく、外の世界について本当に理解できない生き物なのだと、そう思った時、私は呆れ、哀れみさえ感じていたのだ。済まない、そういう鳥と思ってほしい)


(私は鴉に嘘を言った。この世界の隅々まで知っているなどと)
 私は腹立ち紛れに、水面のすぐ下をぐるぐる泳いで回っていた。
 その間にも私の眼下には、まさに池の深みが闇となり、冷たく沈んでいる筈だったが、鼻先が前を向く限り、私の目は下を見るようには付いていない。そして私は、決して下を向こうとはしなかったのだ。私は、本当はその深みの果てを知らなかった。
 かつて一度だけ底を目指した事があった。おたまじゃくしの頃だった。好奇心に忠実な時代だった、だがそれだけだ。潜っても、潜っても底は無く、次第に冷えていく永遠の闇に包まれ、しまいに上も下も分からなくなってきたとき、私はぞっとして身を翻し、明るい水面に戻るまで、ただ恐慌のままに尾を振り続けたのだ。
 あの頃は幼かったし、未発達な身体だった。でも成長した私は、もう逞しく水を蹴る太い脚も持っていたし、精神的にも強くなった筈だった。
 なのに私は、やはり、二度と、下を向けなかったのだ


【鴉】
(私はあの池がいずれ埋められる事は知っていた。三十年近く生きていれば、人間の言葉も察するものだ。私は何度か池を訪れ、その度に君を外に連れ出そうと、私なりの言葉で説得したつもりだったが、全くその甲斐はなかった。当然だ、私には愚者の救済を試みる自己満足しかなかったのだから。
 それでも、ついに池の消える日が決まった時、私は慌てて池に向かっていた。
 私はその間にも、君の住めそうな、他の近隣の池を思い巡らせていたが、君が重い身を移すにはやはりいずれも遠かろうかと思われた。実際、どうしようもないのだ。あの池こそ君の世界、存在そのものだと、それが比喩でも冗談でもないと、私は理解し始めていた。きっと池から運び出しただけで死んでしまった事だろうよ。無力、君も、私も、無力なのだ)


(鴉が杭の上から見降ろしていた。大概、彼はここで斜に構え直して喋るのだが、その日は違った)
『世界の終わりだよ』
『何を言っているのか分からん』
『人間が、この池の埋め立てを決めた。もう、この池は消されるよ』
 何と不吉な言葉だろう。でも私は何の興味もない風に答えた。
『――知ってるさ』
『嘘つけ』
 鴉は真っすぐに言ったのだ。『だったら、なぜ池を離れない。もうそこには生きられないんだぞ』
『私の世界はここだ。お前には分からん』
 善意の相手にこの物言いも酷かろう。でも実際、私にどうしろと言うのか、全てが理解を超えていた。ただ深刻な状況が目前にある事は伝わった。それについては鴉に感謝する他ない。私はやっと何かを完遂する意思を得たのだ。
『ここにやり残した事がある。世界への気懸りは、もうそれだけなんだ』
『君は何を言ってるんだ』
 鴉は困惑しているようだった。少し愉しかったと言っておこう。
 私は彼を置き去りに水へと潜る。世界の底へと鼻先を向ける。
 二度三度と水を蹴ると、薄明るい視界はたちまち暗くなっていく。私は闇を蹴る。もう怖くない。漆黒に沈む水底を目指し、暗い水を蹴り上げる。皮膚を圧す闇、鼻先に纏う闇、眼を塞ぐ闇、頬をねぶる闇、ただ水を蹴る濁った音ばかりの闇の底へと、首を伸ばし、次第に重く粘ってゆく池の深みへ、深みへと、闇を掻き、闇を蹴り続け、何も見えず、上下の見境も無く、無いままに、ただ深く、深くと蹴り、蹴り、深く――


【鴉】
(誰も居なくなった水面に声はなかった。ただ、冷え始めた風が、水に触れては微かなさざ波をたてるばかりだった。
 私はそれを見降ろしていた。随分と、見降ろしていた。足下の杭の影が、次第に長く伸びて行く、その先の水面をぢっと見降ろし続けていた。君に何が起きているかも分からずに。
 やがて空も色を帯び、飛び交っていた赤トンボも姿を消した時分となっても、暗緑色の水面は、二度と、揺らぎはしなかったのだ)


【鴉】
(――話してくれてありがとう。もう君の邪魔はしない)


【鴉】
(池のほとりに二台の機械が入ってきたのは、五日後だった。その時にはもう池の水は抜かれていて、その底の、得体の知れない泥を見遣りながら、人間たちは手際よく機械を操り、その日にはすっかり埋め上げていた。
 やがて月日も過ぎてみれば、一帯はこまごまと区切った家々となり、池の有った辺りは「児童公園」と化し、中央には派手な色の「滑り台」が据えられていた。新しい人間が住み、ひと冬、ふた冬が過ぎた)


 いま公園は春の陽と子供の声に満ちている。
 陽の傾く頃になると、私は滑り台の高みの手摺りに舞い降りて、羽繕いをし、思う事など呟いている。私とて冷笑を浮かべるばかりが趣味でもない、しかし何を語ってもいっこう耳を貸す者もなければ、皮肉ぽい言葉の一つも口を衝こう。
『――井の中の蛙』
 いや蛙の方が良かった。
 私は確かに苛立っていた。実のところ私にしても、長きをこの地に暮らしてきたわけであり、飛んで行く翼はあっても、もうここから移りたいとは思っていないのだ。世界の終わる際にも、このままで居ようと考えている。ただ気懸かりはその時まで――自分は何のため、何をしていることだろうか、と。
 それは私が考えようとして分からない事だった。まるで夜の闇の深みへと、潜っても潜っても粘りつく、冷たい泥のように。馬鹿らしい、たかが鴉の営みに。
 私は、わざと音を立て翼を開く。
 空へと声を三度放ち、赤黒い闇へと飛び込んでいくのだ。
うしがえる    蛮人S

東京ロマンティック恋愛記
今月のゲスト:吉行エイスケ

 僕の同棲者の魑魅子は寝台に寝ころんで、華やかにひらいた唇から吐き出すレイマンの匂いで部屋中にエロテイィクな緑色の靄をつくりながら、僕のいつもの恋愛のテクニックを眺望しているんだ。
 かの女の前身は外人相手の娼婦なので、魑魅子には東洋の古典の絵巻にあるような繊細なこころは、あいにく持っていなかったが、女取引所にあらわれる体温によって花咲いた男性の手管を、侵略に委せて刺青した、肉体的異国的な地図と感情を失ったエモーションの波、そこに愛情の新らしい鋳型を僕は見出すのだ。だから、真紅の波紋絹に、かの女の愛の言葉は乗って、
「――………どうかしよって? うん」
 僕は腕時計に幻れる、午後十時半の指針をみて立上る。
「――………うん」
「――………浮気しよって?」
 すでに、僕のこころの秘密撮影をすまして、魑魅子はラーフェンクラウを小指にはさんで、どうや、と、云うような朗らかな顔をしている。
「――……うん、浮気しよった!」
 そこで、かの女は蓮の花がひらくように、僕のこころの迷彩のなかでわらいだす。その、わらい声が妖しくもある蠱惑となって僕に搦みついてくるのだ。
 僕は立ちあがると合廊下に出て電話の受話器を外した。都会と郊外の境界線にある中流のホテル、時刻は東京駅を十時五十五分の神戸行急行列車の発車すこしまえの混雑時だった。

    ★

 前夜のこと、………更けるとすこしばかし溝をつたうクレオソートの臭いが鼻に滲みたが、築地河岸附近にあるダンシング・ホールで僕はその夜、踊っていた。
 シャンデリヤにネオンサインが螺旋に巻きついた、水灯のような新衣裳のもとで、ロープモンタントをつけた女と華奢な男とが、スポットライトの色彩に、心と心を濡らして跳舞するのだ。そして、ジャズの音が激しく、光芒のなかで、歔欷(すすりな)くように、或は、猥雑な顫律を漾わせて、色欲のテープを、女郎ぐものように吐き出した。
 そして、縹緻(きりょう)よしの踊子は、たえまなく富裕な旋律のなかにいた。
 ふと、僕は気がつくのであった。この湿気のある踊場風景のなかに、赤色ジョウゼットの夜会服をつつんだ、栗鼠の豪奢な毛皮の外套をつけたアトラクティブな夜の女の華車な姿が、化粧鏡を恋愛の媾曳(あいびき)のための、こころの置場として、僕に微笑みかけているのだ。
 たった、ひとりで踊場にあらわれるレデーの香入りの天蓋の下で、僕は曲線のあるウィンクを感じながら、女性の罠と、慇懃な精神のむなさわぎを衝ける。

 浮舟のようにネオンサインにブルウスの曲目があらわれると、ジャズ・バンドが演奏を始めた。すると、恋を語るには千載に一遇のこの曲に立ちあがる男女、………そして、僕も立ちあがると、馴染みの踊子のアストラカンの裾を踏むようにして、
「――あの、栗鼠の毛皮の外套をつけた女を知ってる?」
 すると、僕のパートナーは陽気な鼻声をだして、
「――………気に入った」
「――………うん」と、うなずくのを、踊りながら好色的な上眼づかいに見て、かの女は僕の背中にエピキュリアン同志のする暗号をつたえると、
「――お世話しましょうか?」と、小声で、そっと囁く。
「――たのむ」
「――その御礼は?………………」
「――その、今月分の衣裳屋の仕払いを引うけるよ」
 すでに、かの女は栗鼠の毛皮をつけた女を囮りにして、
「――いいわ、こんどのワルツの曲のとき、あんた、あのレデーに申込むのよ。それまでに話しつけとくわ……」
 そして、ふたたびダンス場の桃色の迷宮のなかで僕は、嗄れ声のジャズ・シンガーの唱う恋歌に聞き惚れていた。
 イタリアンとの混血児の上海からこの土地に稼ぎにやってきた踊子の鳩胸、その偉大な女性の耕作地にこだまするサキソフォンの反響、かの女は、いつも踊場に蜜月の旅をつづける。
 また、あらゆるものは緩やかに旋回した。その夜の幾枚目かの衣裳を着替えて化粧室からあらわれてくる踊子は、その小脇にかかえた口紅棒の汚点のついたハンド・バッグを離さない。………かの女たちは、ハンド・バッグさえあれば、たとえ露天の夜だってたえ忍ぶことができる、浪速へなりと、上海だって、街のエロチシズムの集散地へなりと、こころのままに行くことができる。
 前髪に蝶結びのリボンを巻いた踊子の意気姿、かの女はもとよりショウト・スカウト、ハイヒール、流行色の粧いが艶やかだ。

     waltz

 ダンス・ホールの溶暗のなかで、僕たちは縫目のない肉体のように結びついた……………。そして、赤い蝶のようにホールを旋回しながら、僕は粟鼠の毛皮をつけた甘美な女の顔の花園を眺めながら云うのだ。
「――僕は、あなたを、どう解釈したらいいんでしょう?」
「――そんなこと、ご自由だと思いますわ」
 不可思議な女の声にあらわれるメロデイを感じて、
「――そんなら、僕と、ホールからお出掛けになりますか?」
「――あたし、お供したいんですわ」
「――何処へ?」
「――あたしのこと、なにもかも、あなたにお委せするのです」
「――………しかし」
「――………おいや」
 妖しい蠱惑のなかに、僕は色欲の錨を沈めてから、粟鼠の毛皮の外套についた無数の獣の顔を愛撫した。
 辻待自動車のなかであった。
「――僕は、あなたに恋愛をするかも知れませんよ」
「――あたし、そんなこと、好きでなくってよ」
「――いや、僕にはそれ以外のことはつまらないことなんだ」
「――あら、なぜ、そんなに亢奮なさるの」
 裏街を行く車窓にメインストリートの上層の華美な電飾が反映していた。

「――……接吻しますよ」と、僕が云った。
「――……いやです」と、云う栗鼠の毛皮の外套をつけた女の真珠貝のような耳垂が、センネットの場合の感覚をもって…………――――。

    ★

 下町の袋小路にあるホテルの一室ヘ、僕は僕の恋心を監禁してしまった。
 そして、僕は酔ったときの癖で、鍵穴に秘めた最期の手管をもって、ダンス・ホールからの女友達を眺めた。
 だが、そこには栗鼠の毛皮の外套をつけた、僕にたいする敵愾心を青ざめた顔面に浮べた女性が寝台の柱に凭(もたれ)掛っていた。
「――……どうしようと、お思いになるの」
「――……あなたを娼婦として、僕はおつき合いしたいんです」と、云いながら、僕は外套を脱ると、ソファに埋れて青い小切手帳を示した。
「――いくら?…………」
「……………………………」
「――僕は、あらゆるものをあなたのために失くしてもいいんです」
 しかし、彼女は青磁のリノリウムに花の浮いた波浪をつくると、突然、佗しさを堪えた悲しみの堰がこわれるのだ。
 その、彼女の涙の洪水に、僕の不徳が押し流されてしまうのだった。
 僕は黙って立上ると、鍵穴を埋めた冷やかなものに触れた。妙に官能的な音がした。
「――………お帰えんなさい」と、甘美な気分のなかで僕が云った。
「――……ええ」啜泣くのをやめると、栗鼠の毛皮の外套をつけた女は、コンパクトで化粧をなおしてから、
「――あたし神戸だわ、でも明夜の十時五十五分の列車で妾(わたし)帰ります」
「――さようなら」
「――……さようなら」

    ★

 とつぜん、受話器を外した電話を衝撃する音が、僕と魑魅子のこころをときめかした。
 一瞬間、儚かった恋愛の泡が消えて、エモーションの波のなかに僕は、繊細な事件のために魑魅子にあたえた心理的な新らしい恋愛の鋳型を見るのであった。