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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第4回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
緋川コナツ
3000
2
本作品は掲載を停止しています
3
植木
3000
4
牧逸馬
2730

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

紅いハイヒール
緋川コナツ

 あたしはキャバクラ「マーメイド」でキャストとして働いている。いわゆるキャバ嬢だ。キャバクラは女の園だから人間関係もやっかいで、この店は上京してから三軒目になる。
「おはようございまぁーす」
 更衣室で煙草を吸っていたら、トップの指名数を誇る綾菜が出勤してきた。
「あれえ? 真梨亜さん今日も早いですね~」
 あたしの姿を見つけた綾菜が、わざとらしく驚いてみせた。いけすかない女。あたしは無視してネイルサロンで手入れを済ませたばかりの指先を眺める。
「無視かよ」
 綾菜がロッカーを乱暴に開けながら舌打ちする音が聞こえた。
 そのままぼんやりと煙草をふかしていると、何人かのキャストがいっせいに更衣室に入ってきた。強いコロンの香りが一気に部屋に満ちる。
 うちの店では週に四日、一日二回のショータイムを実施している。彼女達はそのショーメンバーで、開店時間より早く来てダンスの練習をしている。ショーメンバーは店で人気のある娘ばかりで構成されていて、そこにあたしの入る隙は、ない。
 そのとき、テーブルの上に置いていた携帯電話の着信メロディが鳴った。電話をかけてきたのは、岩手で一人暮らしをしているあたしの母だった。
 母は、あたしがキャバクラで働いていることを知らない。都会へ行った娘は小さな運送会社で事務をしながら芸能界を目指している、と信じている。
 しばらく着信を知らせるメロディが鳴り響いたあと、電話は切れた。あたしは手に持っていた携帯を投げるようにテーブルの上に置き、二本目の煙草に火をつけた。

 フロアの照明が落とされ、店の名物でもあるショータイムが始まった。
 華やかな衣装を身に纏ったショーメンバーが音楽に合わせステージ上を舞う。色とりどりのライトがステージを彩り、客席から大きな歓声が上がる。店が一番、盛り上がる時間だ。
 子どもの頃から、いつも「ブス」とからかわれていたことを思い出した。地味で陰気な顔立ちは、昔からあたしのコンプレックスだった。
 瞼を二重にして鼻筋を通しても、カラコンを入れて瞳を大きくみせても、ヒアルロン酸を注射してふっくらとした唇を作っても、あたしには肝心の「華」がない。だからいつまでたってもステージで脚光を浴びることが許されない。
 いつか必ず、この店のトップになって見返してやる。あたしは震える拳を握りしめ下唇を噛んだ。

 ある日、あたしは不思議な露天商を見つけた。
 いかにも胡散臭そうな顔をした怪し気な老婆が、道行く人に靴を売っていた。特に安いわけではなかったけれど、何故かあたしは強く惹かれて店主に声をかけた。
「これ、サイズある?」
「あるよ。ここに並んでいる中から探しな」
 売られている靴は一種類しかなかった。すべてが玉虫色をしたハイヒールばかり。けれどもこの靴がスポットライトを浴びて七色に輝くさまを想像すると、たまらなく欲しくなった。
「じゃ一足買うわ」
「まいど。あ、お嬢さん。買ってくれたから、いいこと教えてあげるよ……この靴はね、実は魔法の靴なんだよ。この靴が赤くなったとき、あなたには人生最大の幸福が訪れるはずさ。でも時として最大の幸福は最大の不幸を呼ぶことがある。それだけはくれぐれも、気をつけるんだよ」

 そのときから、運命の輪が音もなく回り始めた。
 あたしは稼いだお金で全身整形を繰り返し、美貌を手に入れた。おかげで指名数が増えて太い客もつき、店のベスト3に入るようになった。
 しかもショーメンバーだった娘が一人、店を辞めて欠員が出た。足りなくなったメンバーを埋めるピンチヒッターとして、あたしに白羽の矢が立った。
 果たして、初めてのショータイムは大成功だった。あたしは眩しいほどのライトと客からの大歓声に酔いしれた。
 うちの店ではショータイムのラストに、ナンバーワンキャストのソロダンスがある。今は綾菜が踊っているけれど、あたしのほうがもっと上手に踊る自信がある。
 もっともっと指名数を伸ばして、いつか絶対にナンバーワンになってやる。

 長い間、トップの座に君臨していた綾菜が客同士のトラブルに巻き込まれて店を辞めた。
 ついにあたしは綾菜を抜いて店のナンバーワンキャストになった。
 更衣室でショーの衣装に着替えていると、見知らぬ番号から携帯に着信があった。
 いつもなら無視するところだけれど、そのときは何故か電話に出なければいけないような気がして、あたしはゆっくりとボタンを押した。
「もしもし……」
「あ、千春ちゃん? ああ、やっとこさ繋がった」
 千春は、あたしの本名だ。電話をかけてきたのは母の妹、つまりあたしの叔母だった。
「叔母さん……ご無沙汰しています」
「忙しいって電話に出るヒマもねえのか? まさか、あんたお母さんが入院してたことも知らねがったんか?」
「入院って、どこか悪いんですか?」
「まったくはぁ、あぎれたねぇ。お母さん、肝臓の癌で入院してんだよ」
「癌? お母さんが?」
「もちろん、すぐに帰って来るよなぁ?」
「帰るよ、帰るけど……今すぐは無理」
「なして?」
「仕事が忙しくて……それが落ち着いたら、すぐに帰るから」
 あたしは「忙しい」の一点張りでその場をしのいだ。
 綾菜がいなくなって、せっかくショータイムでのソロダンスを任されたのに途中で休みたくない。せめて千秋楽が終るまでは、絶対にステージから離れたくなかった。

 いよいよ千秋楽のステージの幕開けだ。あたしは、いつもより念入りにメイクを施し、自分に気合いを入れる。
 ショータイムは、いつもに増して大変な盛り上がりだった。ラスト、いよいよあたしのソロダンスが始まる。一瞬の静けさの後、あたしは一人でステージに上がった。
 リズムに合わせて軽やかにステップを踏む。艶やかに体をくねらせる。足を高く上げて舞う。すぐに背中を反らす。小さく跳ぶ。今日は、いつもよりもさらに調子がいい。踊り終えるとフロアは大きな歓声と拍手喝采に包まれた。
 赤いスポットライトに照らされて、ハイヒールが赤く染まっている。あの露天商の言っていたことは本当だった。あたしは、この店のナンバーワンだ。
 もう死んでもいいと思うくらい、あたしは幸せな気持ちに満たされた。

 すべての仕事を終えて、あたしはタクシーを拾うためにまだ薄暗い大通りに出た。始発の新幹線で岩手に帰るつもりだった。
 そのとき、手に持っていた携帯電話の着信メロディが鳴った。
「千春ちゃん……姉さんが、あんたのお母さんが、ついさっき息を引き取ったよ」
「え……? お母さんが、死んだ……?」
 嘘だ。そんなはずない。息が苦しくて足がもつれる。
 あたしは遠くからこちらに向かってくるタクシーを見つけて、右手を高く上げながら車道へと走り出た。
 耳をつんざくクラクションが、静かな夜明けの街に鳴り響いた。それと同時に、あたしの体は右折してきた大きなトラックの車輪に巻き込まれた。
「あ、あ、足が……足が……」
 冷たいアスファルトに横たわるあたしの目の前で、靴だけが踊っている。ハイヒールは、おびただしい量の血を浴びて真紅に染まっていた。激痛に耐えながら、あたしは自分の足に何が起こったのかを悟った。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
 あたしは朦朧とした意識の中で手を伸ばした。紅いハイヒールは、それをあざ笑うかのように軽やかにステップを踏みながら、白みはじめた東北の空へと上っていった。
紅いハイヒール    緋川コナツ

(本作品は現在公開を停止しています)

宇宙時代のオイディプス
植木

 別れてから一年半が経った。
 早いものなのか、ようやくなのか一口には言えないのだけれど、とにかく時間だけは容赦なく過ぎていくらしく、それは例えば、砂時計を遠くから眺めると何も変化が無いように見えるけれど、近づいてガラス管がくびれている所を見れば、思いのほか勢いよく砂が下へと落ちていく、あの見る者に少々不安を与える感じに似ていなくもない。うっかりして目を離してしまうと、とめどなくさらさらと目の前を砂も時間も通り過ぎてしまう。人生も、とまで話を広げると大げさかもしれないけれど、確かなことは一年半の間、僕にはその砂時計をひっくり返す暇も余裕もなかったと言うことだ。ただそれは結局、誰にむかって言うわけではない、自分自身に対する言い訳なのだけれども。
 いつごろからか定かではないけれども、夕食後のキッチンで息子と話をするのが習慣になっていた。僕の家にはテレビもラジオをないから、夕食を終えてから眠るまで時間をどうつぶすかが問題になってくる。息子はホットミルク、僕はカフェオレを淹れてペパーミントグリーンのテーブルを挟んで向かい合う。二人とも猫舌だから湯気を立てているマグカップを前にして少し冷めるのを待たなければいけない。ひょっとしたら、その待つ間の居心地のわるさを避けるために、どちらかが話し始めたのかもしれない。
 息子も小学校に通うようになり、他所の子供たちの輪の中に混じるようになってから会話が少し上手くなったようだ。以前は僕の問いかけに、ぎこちなく返事をするだけだったし、だいたい僕自身が息子に対してどんなことを話せばいいのか良くわかっていない状態だったから、二人の間には会話らしい会話と言うものがなかったわけだけど、最近は息子から話を切り出すことも多くなり、僕も少し頼もしく思えるようになっていた。

「うちゅうひこうしになるんだ、なんびゃくまんこうねんもさきにある、ほしにまでいくんだよ」
「へえ、そりゃあヘビーな話だな」
「『へびー』って?」
「いっぱい『べんきょう』しなくちゃいけないってことさ」
「べんきょうはすきだよ、りかがとくいなんだ」
「パパと同じ『せいしんかい』になるつもりはないのかい」
「いっしょはつまらないよ、パパも、みよしせんせいとおなじで、みんなといっしょにしなさいっていうの?」
「パパはそんなことは言わないよ、ひとは皆、違うものだからね、いっしょになろうとしてもどだい無理なんだよ」
「ふーん、よくわからないよ」

 息子は月に一度、彼女の家に泊まる約束になっている。この件に関して僕は親権だなんだと、とやかく言うつもりは全くなく、結局のところ双方の弁護士が上手く彼女と話し合って処理をしてくれたってことなのだけれど、彼女が僕にとってどんな存在であったにせよ、子供には母親が必要な年齢があることは確かだと僕は思っているから、この現状に異存はないのだけれど、やはり泊まりに行く前の晩にはついアルコールなどを飲んでしまう。別に飲まなきゃやっていられないと言うわけではないのだけれど、これも一つのジェラシーなのかもしれないと考えたりもする。泊まりに行ってしまった晩は、もちろん一人きりになってしまうのだけれど、狂おしいほどの寂しさを感じるかと言えば案外そんなこともなく、アルコールは前の晩に飲んでしまっているので別に飲みたいとも思わず、定番のカフェオレを淹れて、キッチンで漱石やハメットを読んだり、セロニアス・モンクを聴いたりしながら時間をつぶしている。
 翌日の日曜日の夕方に、真新しい服を着せられ、新しいおもちゃを抱えてアパートメントに戻ってくる息子に、彼女とどんな話をしたか僕はあえて聞かないことにしているし、息子もまた、それを話題にすることはない。ただ、いつも帰ってくるなり、すぐに服を脱がせ、熱いシャワーを浴びせ、手荒な手つきで頭をタオルで拭き、ピーナッツのライナスが胸の部分にプリントされたスウェットに着替えさせてしまう。自分でも何でそんなことをするのか、半分くらいは理解しているのだけれど、まるでどこか遠い国の儀式のようにそれを毎回毎回繰り返してしまう。そんな慌ただしい時が一段落し、キッチンで恒例の語らいを終えて、息子がベッドで眠りについたあと、玄関から廊下にかけて散乱している引き剥がすように脱がせた服を片付ける。クローゼットにはまるで一年半の成長記録の様な、季節ごとに少しずつ大きくなっていく、彼女好みにコーディネートされた服が整然と並んでいる。僕はそれを眺めながら過ぎた一年半とこれからやってくるであろう時間についてしばらく考えたあと、ひとつため息をついてからベッドに潜り込む。

「ウラシマこうかってしってる?」
「子供の頃に本で読んだよ、たしか双子の兄弟の一人が宇宙に行って帰ってくると、もう一人はおじいさんになってるって話だろう、そういえば、浦島太郎が玉手箱を開けたらおじいさんになったのはなぜだか知ってる?」
「りゅうぐうじょうにいったから」
「ちがうよ」
「たまてばこにまほうがかかっていたから」
「それもちがうな」
「わからないよ」
「時間をあげるから少し考えてごらん」
「……やっぱり、わからないよ」
「降参?」
「こうさん」
「正解は『男だから』だよ」
「そんなのわからないよ」
「これは『いじわるクイズ』なんだよ」
「『いじわるクイズ』なんかきらいだよ、それよりぼくがうちゅうにとびだしてから、ちきゅうにもどってくるとパパはうらしまたろうみたいにおじいちゃんになってるんだよ」
「それじゃあママもおばあちゃんかい?」
息子はじっと僕を見つめ、しばらく返事をしなかったが、
「……ママはコールドスリープ(冷凍睡眠)だよ」と、呟き黙ってしまった。

 僕はその時、息子の顔を見つめながら、息子はもう立派につとめていたじゃないか、と悟った。彼女と僕との引力に引き裂かれてしまった孤独な宇宙飛行士。小さな背中に生命維持装置以上のものを背負いながら、たった一人で空想の宇宙のなかを漂い。大人の都合で砂時計をひっくり返され、時間と空間の中で弄ばれてしまう小さなアストロノート。きっと、あの細いガラスのくびれを通り過ぎる砂のように、大人の数倍もの速度で毎日を過ごしていたにちがいない。息子は何一つ語ることはなかったのだけれど、僕は、いや息子に関わった全ての大人たちが一年半の間、そのことに気付かなかった。息子の命綱を握っているつもりが、無重力の空間に放りだしていたのだから。
 キッチンはいま冷蔵庫の微かなモーター音だけが響いている。僕はその音を聴き、それから自分の座っている椅子と体の接触している部分の感触を確かめ、呼吸していることを確認し、今まで自分の中にふわふわと漂っていたものが、大事な気付きとして目の前に現れたことを確信した。

「パパは起きてなきゃいけないのかい?」
「だれかがぼくのこと、みおくってくれなくちゃいやだよ……、うちゅうにむけてとびたつとき、こっくぴっとのまどから、パパとママがてをふってくれるのをぼくがみるんだよ」
「……そうだな、パパとママは必ずそうするよ、そして、パパがどんなにおじいちゃんになっても、ずっと待ってきっとおまえを迎えるさ」

 向かい合った二人のマグカップはまだ熱くて、僕はカフェオレのほろ苦さを、息子は薄く膜をはったミルクのやさしい甘さを、 いまだ飲み干せないままでいる。
宇宙時代のオイディプス    植木

夜汽車
今月のゲスト:牧逸馬

 大戦当時の英国首相クライヴ・ジョージ氏の大陸旅行の一隊にシカゴまで追随して、大政治家の言行を通信するはずだった、ニューヨーク・フリープレス記者ヘンリイ・フリント君は、社会部長マックレガーの電報をニューヨーク州バッファローで受け取ると、明日はナイヤガラの瀑布を見物して、廃兵院で演説しようという名士の一行から別れて、ひとりニューヨークへ引き返すことになった。
 電文は簡単でどんな事件が突発したのか判らなかった。それだけフリント君は不平で耐らなかった。靴へ少し水をかけた黒人の列車ボウイを危く殴り飛ばしそうな勢いだった。それでも、バッファローの街の遠明りが闇に呑まれて、汽車が唐黍の畑に沿って、カナダとの国境を走り出した頃には、フリント君も少しずつ、諦め始めて、隅の座席に腰を据えて新刊の『科学的犯罪の実例』を読み出した。小さい停車場の灯が矢のように窓の外を掠めていた。月のない晩だった。狭い特別室にはフリント君とフリント君の影とが、車体の震動につれて震えているばかりだった。明日の朝七時三十二分にはニューヨークへ着く――。
 どのくらい眠ったか解らない。ふと眼が覚めると、汽車は平原の寒駅に止まって、虫の声がしていた。何時の間にか、田舎ふうの紳士がフリント君の前に座って、旅行案内を見ていた。
「ここは何処です」とフリント君が訊いた。
「ラカワナです。どちらまで?」
「ええ、ニューヨークへ帰るんです」
「私もニューヨークまでです、お供させて戴きましょう。どうもこの夜汽車の一人旅というやつは――」
 紳士は葉巻(シガア)を取出した。「一つ如何です?」
 十七、八の田舎娘が慌て這入って来て、向うの席に着くと、汽車は動き出した。
「そうですか、葉巻はやらないですか、若し御迷惑でなかったら、一つ吸わせて戴きます。あ、お嬢さん」と彼は娘に声を掛けた、「煙草のにおいがお嫌いじゃないでしょうね」
「あの、何卒お構いなく」娘は赫くなって下を向いた。その生ぶな優しさがフリント君の心を捕えた。彼女の林檎のような頬、小鳥のような眼、陽に焼けた手、枯草(ヘイ)の香りのするであろう頭髪、そこにはニューヨークの女なぞに見られない線の細い愛らしさがあると、フリント君は思った。ラカワナに玉突場を持っているという紳士は問わず語りに、昔この辺は黍強酒(コーンウイスキー)の醸造で有名だったことや、それが禁酒(ドライ)になってからは下着や女の靴下なぞの製造が盛んになって、自分が今ニューヨークへ行くのも、近く設立される工場の用だ、ということなぞをぼつぼつ話していた。話は途絶え勝で、フリント君は大っぴらに欠伸をした。気の置けない小都会の世話役らしいこの男の淳朴さがフリント君の気に入った。
「ここが空いてるじゃねえか」
 突然(だしぬけ)に大きな声がして、無作法な服装をした青年が、よろよろしながら、向うの客車から這入ってきた。酔っているらしかった。何か喚くように言って、無理に娘の傍へ腰を下ろそうとした。サンドウィッチか何かつつましやかに食べていた女は、恐怖と困惑に狼狽して急いで立ち上ろうとした。
「あ、やったな」と青年が怒鳴った。
「あら、御免下さい。私ほんとに、どうしましょう。つい、何の気なしに押したんですもの」
「何の気なしに? へん、それで済むと思うか。そら、見ろ、こんなに滅茶滅茶に毀れたじゃないか」
 上衣の隠しから彼は時計を出して、娘の前へ突きつけた。よろめきながら豪い権幕で彼は怒鳴り続けた。「どうするんだ。おい、どうして呉れるんだ」
 娘は火のように赤くなった。今にも泣出しそうにおろおろしていた。中世紀の騎士の血を承(う)けているフリント君は気がつく前に立ち上っていた。
「君、君、何だか知らないが言葉使いに気を付け給え、相手は女じゃないか」
「何だと、こりゃ面白い」
 と青年はフリント君のほうへ向き直った。「言葉なんか何の足しにもならねえ。俺は只、時計の代を六十弗(ドル)この女から貰えばいいんだ」
「どんなにでもお詫びしますから、御免下さいな、ね、ね」
「いんや、いけない。六十弗で此の毀れた時計(やつ)を買って呉れるか、さもなければ――」
「車掌を呼ぼう。車掌を」
 紳士が立上った。
「まあ、お待ちなさい」
 フリント君が制した。
「だって、あんまりじゃありませんか」
 と紳士は中腰のまま、息もつけない程憤慨していた。「なんだ、そんなものがちょっと毀れたと言って何だ、失敬な」
「おや、そんなことを仰言るなら、綺麗に形を付けて下さるんでしょうね」
「幾らだ」
「六十弗」
 憤然として紳士は隠しへ手を突っ込んだ。フリント君は其の手を押さえた。
「馬鹿馬鹿しいじゃないですか」
「なあに、引っかかりです。女の児が可愛そうです。それに安いもんでさあ――」
 フリント君は女の方を見た。窓に額をつけて暗い外を見ていた女は、ちらとフリント君に哀願の眼なざしを送った。
「宜しい」とフリント君は蝦蟇(がまぐち)を探した。「私が出しときましょう」
「飛んでもない、私があの時計を買おうと言い出したんですから――」
「いや、是非私に買わして下さい。私が始め口を出したのだから――」
 暫らく紳士的に争った末、どっちからともなく半分ずつ出し合うことに妥協した。フリント君の三十弗に自分の三十弗を合わせて、忌々しそうに青年へ渡すと、引換えに、紳士は問題の時計を受取った。今毀れたものらしくなく、針など赤く錆びているその時計をフリント君が手の裡に調べていると、汽車は滑り込むように、眠っているスクラントンの停車場へ止まった。
「色々有難うございました」
「どうもお喧(やかま)しゅう――」
 一度にこういう声がした。青年と女とがにこにこ笑いながら、腕を組んで降りるところだった。善行をしたあとの快感に耽っていたフリント君は、何の気なしにそれを見送っていた。その手から時計を取りながら、紳士が叫んだ。
「やられましたよ。御覧なさい、この時計だって前から毀れていたものです。畜生、何て野郎だろう、あの女の図々しいったらありゃしない、一つとっちめてやらなくちゃ――」
 立ち上ると一しょに紳士は二人のあとを追掛けようとした。
「お待ちなさい、ま、お待ちなさい。相手が悪い」
 と言ったフリント君の頭には、俯向いている少女のしおらしい横顔が焼付けられてあった。
「何をしやがる」紳士はフリント君の手を払うと、動き出した列車から飛び下りた。三人揃って改札口を出て行くのが窓からちらっと眺められた。
 どういう風にあの三十弗を今度の旅費明細書に割り込めて、社会部長マックレガーに請求したものかしら、という楽しい問題が、ニューヨークへ着くまでのフリント君の頭を完全に支配していた。