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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第8回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
サヌキマオ
3000
2
緋川コナツ
3000
3
ろくなみ
2345
4
牧野信一
2856

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

伽藍鳥追わず
サヌキマオ

 さあ大変、近所でたまたま見かけちゃった探され中のネコちゃんをうっかり捕まえちゃったクロシェことデボゲレアクロシェンモが飼い主から御礼に三万円ももらっちゃったよお立会い。あのお金大好きっ子ちゃんがこれに味を占めないわけはない、というような話が今回も始まります。よろしいか、よろしおすか。

「猫五郎やーい」
 夏に百均で買った昆虫網を肩に、クロシェがあたりを見回しながら図書館の前を通り過ぎる。北へ下る斜面にある住宅地で、日が差さないので三月になったとはいえまだ肌寒い。入口の石段には暇そうにしている小学生の女の子がふたりいて、この変なお姉ちゃんをじっと観察している、その後ろを数歩離れてあたしはついていく。こっちは変でないと思って欲しい。
「ネコゴロウなんて名前じゃなかったでしょうが! ミモザちゃんでしょ」
「そんなサラダみたいな名前だっけ?」
 クロシェはスマホで撮った「探しネコ」の張り紙を眺める。張り紙の字は筆ペンの達筆で、モの字が「毛」に見える。
「もうなんでもいいよぅ。ネコはネコじゃーん」
「よくないよ、それってアレじゃん、人間にヒト太郎とか人間雄とかつけるのと一緒じゃんネコゴロウ」
「あ」
「何よ」
「ヒトシ、っているじゃん。ミミミんのハゲ散らかしたおじさんとかに」
「そんなハゲ散らかしたおじさんはいないけど、ヒトシさんは普通におるなぁ」
「でしょでしょ、だからネコ五郎も、ネコシ君もあるんだよ」
「探してるのはメスですけどね」
「んだよミミミミは細かいなぁ。そんなんだからおっぱいが育たねぇんだよ」
「るせぇ、殺すぞ化け乳房」
「キレやすい、胸がない、付き合いがいい、のKMTだよ君ぁ」
「最後褒められたしわけがわからない!」
「ところでミミミさん、質問なんですけれど」
「はい、なんでございましょう」
「ネコってのは、どこを探したら見つかるのかな?」
 漫画だったらクロシェの背後に「ケロッ」という書き文字が付いただろう。
「まったくのノープランだったのかッ!」
「松茸のノーブランド?」
「無理にボケなくていいよ!」
「あーあ、ご都合主義的にミモやんとやらが目の前に現れないかなぁ」
「うわぁ、さっそく飽きはじめた!」
 本当にご都合主義的にネコが現れると都合がいいのですが、当然そんなことがあるわけがない。
 小説じゃないんだから。
「よし、諦めよう」
「そうしましょう」
 三月という言葉のマジックのせいだ、うっかりコート無しで出かけてしまったので、普段だったらこの状況にツッコむあたしも賛成する。最寄りのコンビニで二個入りのショートケーキのパックを買って店を出て、クロシェの家に向かう道すがら、向かいの塀の上をまるまるとした灰色のネコが向かってくるのが目に入る。クロシェは「ヒャッハー」と一声挙げるとケーキを振り回しながらネコの後を追いかける。
「あのネコだ!」
「え、全然違うでしょ?」
「何が違うのよ? 顔見たでしょ? 彼だったじゃないネコ五郎さん!」
「メスだってば! でも、だって写真は長毛の」
「だーかーらー、あれは綺麗にカットされてるんだよ! あんなに綺麗にブラッシングされて!」
 急に人間ふたりが追いかけてくるのですからネコだって必死に逃げるに決まっている。で、当然捕まらない。
「いやぁ、いたねぇネコ太郎」
「いたかなぁ、本当にいたかなぁ」
「電話してみよう。お宅のネコちゃん、誰だかの手によって綺麗にトリミングされてます、って」
 云うや早いがクロシェはスマホを取り出して電話をかけようとする。が、電話番号がわからない。あ、電話番号は写真フォルダの中だ、と画像を取り出すと今度は電話がかけられない。数回同じ動作を繰り返すクロシェにさすがのあたしもうんざりしてきて、ちょっと貸して、と今度は自分のスマホでミミミのスマホの画面をチョリッピーン。あっ、チョリッピーン、はスマホのシャッターを押した時に出る音である。念のため。
「ほら、これを見ながら電話をかけたらいいじゃん」
「すごいあったまいーいミミミん! まるでものの云いようが大正時代の成金みたい!」
「ああ、あれか。札束燃やして足元を照らすやつか!」
「そうそう、って」
 クロシェは目が悪いのであたしのスマホを凝視する。
「電話番号、画像が粗くて読めねぇー」
 結局張り紙の貼ってあったところまで戻り、電話をかけたが誰も出ず、しかたなくクロシェの家に戻って電話をかけるとやっぱり出ない。クロシェの気が短いんじゃね? というあたしの指摘を参考にして、今度は長めに電話を待っていると、やっと出た。
「さっきからの電話、あんたさんかい? 年寄りだから電話にでるのが難儀でねェ」
「うわっ」クロシェが泣きそうな顔でこっちを見る。「ばあちゃんだ。声がすでに婆ちゃん!」
「なんですかいね」電話の向こうのおばあちゃんも相当声を張ってくる。
「お宅のネコの件でおでん」
「すみませんねぇ、耳が遠いもんでェ、はっきり喋っていただかないとェ」
「あのですねっ! お宅のネコゴロウちゃんが!」
「ネコゴロウちゃうやろ! ミモザやろ!」
「藤五郎は宅の主人ですがねェ、もう十五年も前に中風で死にましたんじゃあ」
 もうダメだ代わって、とクロシェはあたしに電話を押し付ける。手汗で受話器がぬるっとする。
「お宅のネコちゃんをですねぇ、見かけたと思うんですけれどもォ」
「うちのミモザひゃんはねえ、今アテキシの隣で寝てるんザマスよォ」

「なにそれ!」
「だから、張り紙を取り忘れたんでしょ、ネコが見つかった後に」
「それ、何度も聞いたよ。こういうときの正論は吐くほど嫌い。なにそれ!」
「その『なにそれ』も七回目なんですけどね」
 クロシェのおかげでぐしゃぐしゃになったいちごショートケーキ二個入り、四一〇円(税込)をだいたい半分ずつぱくついている。デパ地下では何かのカリスマと権力を手に入れた一個六〇〇円(税別)のショートケーキがあるが、比べてなんと奥ゆかしいことだろう。スポンジとスポンジの間にはクリームしか入ってないけど。クロシェは左手のスマホを離さず、右手をフォークとティーカップとに持ち替えて食べている。実に忙しない。
「――っと、あったあった」
「何よ」
「りついーとかくさんきぼう、鎌塚稲荷三丁目のかまつか幼稚園のモモちゃん三歳を探しています、と。お、鎌塚なら行けるんじゃない?」
「ちょっと待ってよ、ネットで探してまでネコ探しをするつもりなの?」
「ちっちっちっ、違うのだよミミミん」
 そういうとクロシェはスマホの画面を顔に押し付けてくる。
「じゃじゃーん! モモイロペリカーン!」
「もうええわ!」

 結局クロシェはペリカン捜索に行かなかった。ペリカンといえば川、この寒いのに川に網持って入ってくのかね、というあたしの指摘で心が折れたようだった。だったら普通にバイトしたらいいじゃない、と思う方もいるだろうが、働かなくても金のある家なのだ。
 ボギーちゃん電話、と階下からクロシェのお母さんの呼ぶ声がする。へいへいほーぅ、とクロシェ。内線で回してもらって喋ること数分、呆れ顔でクロシェは受話器を置いた。
「いやー、さっきなんと私、財布を落としてたらしいんだよねえ。警察から電話だった。駄目だな自分。でも知らなかったので反省はしない」
 クロシェの財布にはいつも、諭吉紙が群をなしている。
 実にいい御身分だ。その割にケーキはあたしに買わせるんだけれども。
伽藍鳥追わず    サヌキマオ

河童の女房
緋川コナツ

 小雨の降る、蒸し暑い夜のことだった。
 そろそろ寝ようかと布団を敷いていると、窓に小石が当たるような音がする。不思議に思い窓を開けて辺りを見回してみると、庭に植えられた枇杷の木の影に何者かが佇んでいるのが見えた。
「……誰?」
 用心深く、ゆっくりとこちらに近づいてきたのは、一匹の河童だった。
 体は緑色をしたウロコに覆われていて、顔には短い嘴がある。背中に亀のような甲羅を背負い、頭の上に小さな皿が乗っていた。
 あまりの驚きに声も出ない。河童と私は見つめ合ったまま、互いに探り合うような時間が流れた。
「もしかして、翔太……? 翔太だよね?」
 私の問いかけに、河童はゆっくりと頷いた。
 三年前、夫の翔太が忽然と姿を消した。
 朝「いってきます」と、いつも通りに家を出て、それっきりだ。警察や近所の人も総出で探してくれたけれど、翔太の行方はわからない。後日、自宅近くを流れる川のほとりで、私が翔太に持たせた空の弁当箱が見つかった。
「どこに行っていたの? 皆で探したけど見つからなくて……すごく心配したんだから」
 全部、言い終わらないうちに途中から涙声になった。翔太は申し訳なさそうに下を向いている。ぬるい風が、ざわざわと枇杷の葉を揺らした。
「とにかく入って」
 私は玄関にまわり、引き戸の鍵を開けて翔太を出迎えた。
「熱いお茶でも淹れようか」
 翔太は、ふるふると首を横に振った。私は少し考えて、冷蔵庫に入れっ放しになっていた瓶ビールを見せた。翔太が嬉しそうに頷いたのでグラスについであげると、ごくごくと喉を鳴らして美味しそうにビールを飲んだ。
 私は単刀直入に翔太に訊いた。
「ねえ、どうして河童になっちゃったの?」
「……」
 私からの問いかけに翔太は、ただぼんやりと宙と見つめるばかりで何も答えない。ときどき不思議そうな目で水かきのある自分の手足をじっと見つめたり、頭に手をやって水の入った皿を何度も確認したりしている。
 翔太はビールを飲み干して、満足そうに大きなげっぷをした。そしてグラスが空になると何事もなかったかのように、また夜の中へと帰って行った。
 それから何日か後の雨の夜、翔太はまたうちに来た。
 手土産のつもりなのだろうか、ほら、と渡された熊笹の葉の先には何匹かのイワナが吊るされてあった。
「ありがとう。ねえ、おなかすいてない? なにか食べる?」
 翔太は首を横に振った。そして自ら冷蔵庫のドアを開けて、中から買い足しておいた缶ビールを取り出した。水掻きのついた指先で器用にプルトップを引き上げる。固い嘴が邪魔をして、缶だとちょっと飲みづらそうだった。
 河童はきゅうりが大好物だとネットの情報で知り、とりあえず生のきゅうりに味噌をつけたものを出してみた。翔太は味噌を丁寧に皿の隅にどけて、きゅうりだけを食べた。
 そして三度目の来訪は、雨も風も強く吹き荒れる嵐の夜だった。
 翔太はいつものようにずぶ濡れの状態でうちに来て、私に勧められるままお風呂に入った。
「背中流してあげるね……って言っても甲羅だけど」
 私はスポンジタオルをよく泡立てて、背中にある甲羅をごしごしと擦った。気持ちいいのかどうかわからないけれど、翔太はまんざらでもない顔をしていた。
 私が濡れた服を全部脱いで裸になると、それまで虚ろだった翔太の目つきが変わった。
 翔太は私を後ろ向きに立たせ壁に手をつけさせると、人間の女の体を懐かしそうに撫でまわした。そして自分の体を密着させて、しばらく動かなかった。翔太の体は温かく肌はぬめりを帯びて生臭かった。
 やがて私が充分に感じていることを確かめると、翔太が後ろからゆっくり入って来た。私は目を瞑り、翔太のすべてを全身で受け入れた。
 人間だった頃、翔太はキスをするのがとても上手だった。
 その柔らかな唇が固い嘴となってしまった今、さぞかしもどかしい思いをしているに違いない。突然、異形の者になってしまった翔太の戸惑いと諦めが繋がっている部分からじわじわと伝わってくるようで、私は少し哀しくなった。
 交わりを解いた翔太は、また独りで嵐の中へと帰ってゆく。私は玄関の引き戸の影から、その後ろ姿を黙って見送る。ふいに翔太が振り向いて私を見た。外灯に浮かび上がるその表情は、かすかに微笑んでいるように見えた。

 それからも翔太は、雨の夜になると必ず逢いに来てくれた。私は雨の夜が待ち遠しかった。
 翔太はうちに来ると、必ず風呂場で私を抱いた。そして風呂上りにきゅうりをツマミにビールを飲んで、満足そうに夜の中へと帰っていった。
 翔太がどこで長い夜を明かし、暮らしているのかは知らない。でも体から常に生水のにおいがするのと、時々、葦の葉が体に張り付いていたりすることからも、たぶん川や沼などの湿地帯にいるのだろう。
 私は翔太の居どころを探さなかった。
 翔太が河童になっても私のことを愛してくれるのは、とても嬉しい。まわりの人は皆、「失踪した夫のことなど、もう忘れろ」と私に再婚を勧めた。でも、やっぱり待っていて良かった。河童になってしまったとはいえ、翔太が生きて私を愛してくれるのなら、それでいい。他には何もいらない。
 私は幸せだった。

 近ごろ体がやけに重たい。
 何をするのもおっくうで、お腹に力が入らない。しかも猛烈に眠い。もしやと思い、妊娠検査薬を買ってきて調べてみた。結果は陽性。私は妊娠していた。
 そうこうしているうちに悪阻の症状が現れた。とにかく気持ちが悪くて、水さえも飲めずに戻してしまう。けれども何故か、きゅうりだけは胃に収まってくれた。特に好物というわけでもないのに不思議だ。冷蔵庫の野菜室は、ストックのきゅうりで一杯になった。
 このところ、夜に雨が降らないので翔太に逢っていない。赤ちゃんを身ごもったことを話したら、翔太はどんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。私は少しだけ心配になった。
 悪阻も治まり体調も安定してきた頃、やっと夜に雨が降った。
 縁側に座り翔太が来るのを待っていると、枇杷の木の影から翔太がひょっこりと現れた。河童になった翔太が初めてうちを訪ねて来たときのようだった。
「翔太」
 私は窓を開けて翔太を招き入れた。縁側に敷いてあった大きな足拭きマットは、翔太の体から滴り落ちる雨のしずくですぐにびしょびしょになった。
 いつも通り、風呂場に直行しようとする翔太を押し止めて私は言った。
「待って。あのね、赤ちゃんができたの……翔太の赤ちゃんだよ」
 よほど驚いたのか、翔太は瞳を大きく見開いて身じろぎもしない。
「それだけじゃないの。ほら、見て」
 私は翔太の目の前に、自分の手のひらを差し出した。開いた指の間には、うっすらと水掻きのようなものが形成されつつある。
 水掻きだけではない。体中の皮膚が妙に湿り気を帯びている。汗ではない何かが、私の肌を覆っているようだ。甲羅はまだ無かったけれど、指先で触ってみると頭頂部に異物感がある。これが、きっとそのうち皿になるのだろう。
「きゅうううぅぅぅ」
 そのとき翔太が切ない声を上げた。
 私は河童になった翔太の声を初めて聴いた。河童って、こんな声で啼くんだ……と感心していると、ふいに翔太に強く抱きすくめられた。
 雨だれの音がする。
 やがて翔太は体を離すと手を繋ぎ、私を外に連れ出した。私は行き先もわからないまま、翔太と二人、裸足で雨の中を歩いた。
河童の女房    緋川コナツ

ある郵便屋の話
ろくなみ

サーモンピンクのカバンを肩に下げた女性は、ココアを口へ運び、考える。配達中に宛先が自分宛のものがあったときは、思わず目を見開いた。私宛の手紙があるというのは、珍しい。女性はそう思い、あて名を見る。
見覚えがある名前だった。いや、見覚えがあるとか、そういうものではない。女性と同じ名字であり、男の名前。女性の弟からだった。
『姉貴へ。実家に帰ってこい。一日でいい』
 その単純明快な内容に、思わず肩をすくめる。客の少ないカフェで微かに聞こえる車の走行音と、静かなジャズが耳に入ってくる。その間女性はその三言の手紙を繰り返し読み、静かに息を吸い、吐いた。

「戻りました」
 郵便局に戻り、事務作業を進める。行くなら早いほうがいいと考えていた女性は、仕事を淡々と終わらせた後、局長のデスクへと向かう。
 女性の表情は、仕事中も変わらない。誰とも話さず、まるで死んでいるような濁った瞳をしていた。
「局長、今お時間大丈夫ですか?」
「……なんだ」
 しばしの無言の後、局長は答える。普段話しかけてこない女性が話しかけてきたことに対して、驚きを感じていた。局長はメガネを外し、女性の言葉を待つ。
「有休を、とらせていただけますか?」
 局長はため息を吐き、女性の目を見る。
「君、本当に愛想がないね」
「……」
「笑わないの?」
「有休の話を」
「それはかまわん。かまわんのだが、その、なんというか、クールともいえるかもしれない。だけれど、少しは笑ってみてはどうだ? いつもつまらなさそうに仕事をして、どうなの? そこのところ」
 女性は、何も答えることができなかった。
 自分はどういうときに笑えていたっけ。そんなことを考えながら、女性は実家に帰る電車の時刻表を確認した。
 弟に最後に会ったのは、確か高校生のころだったか。父が死んでから笑わなくなった私を必死で笑わそうとして、そのまま家を飛び出した。それからの音沙汰は何もなかった、携帯電話の番号にもつながらないし、捜索願いを出したはいいが、見つかることはなかった。
 もう会えないと思っていた弟からの突然の手紙は、死んでいた心を焚きつける着火剤としては十分だった。
 電車から見える景色は、次第に緑が増えてくる。心も昔に戻っているみたいだ。
 高校を出て、働いて、何も考えずに家と職場を行き来することを繰り返し、数年がたった。女性はいつ、どんな時に自分が笑えていたのか、電車に揺られながら頭を働かせていた。結論は出なかった。
 実家についた時、辺りはもう真っ暗だった、女性の吐く息が白く、街頭に照らされる。思えば、こんな時間に外に出たのも久しぶりだった。
 実家まで歩いてしばらくかかるなと思い、俯いていた時だった。
「お、いたいた姉貴!」
 数年ぶりに見る弟は無精ひげを生やし、腕周りはごつごつしていた。
「もっと他に言うことないの」
「太った?」
 女性は弟の脛に蹴りを入れた。
「いってえ! ほら、早く来いよ」
 弟は近くに止めてある軽トラの助手席に女性を乗せ、エンジンをかけた。
「寒かっただろ」
「どこいってたの、今まで」
「まあいいだろ。その話はついてからだ」
 女性はあきれ、窓の外の地元の夜景を眺めた。
「ここも変わらないね」
「姉貴もな」
「どこがよ」
「その顔」
 女性は黙り込む。上司に言われた言葉が、また脳裏を駆け巡る。お互い言葉を交わさず、しばらく時間が過ぎる。暖房の音だけが響く車内で、赤信号になったとき、弟が口を開く。
「笑った姉貴ってのも、逆に珍しいのかもしれねえけどな。なあ、飯はもう食ったか?」
「まだ」
 ぶっきらぼうに女性は返す。
「そいつはいいや」
「なにが」
「ナイショ」
 久しぶりの実家の玄関には、おそらく数年ぶりに見るであろう暖簾がかかっていた。
「……なんで」
 女性は口を小さく開けたまま、そう呟く。
「いらっしゃいませ、お客様」
 弟が、演技じみた口調で女性に微笑んだ。
 この暖簾がかかっていた最後の日は、父が生きていた最後の日だった。
 店内は念入りに掃除されていた。床も窓も鏡のように磨かれている。まるで新装開店のようだと女性は息をのんだ。
「なに、これ、どういうこと」
「何から握りましょうか?」
 弟はいつの間にかお父さんが寿司を握っていた時の白い帽子をかぶり、アルコール消毒を両手にしていた。
「……じゃあ」
「へい、まいど」
「まだ何も言ってない」
  女性の言葉に耳を貸さないまま弟は魚をさばく。その手さばきはお父さんがさばいていた時とそっくりだったように女性は思った。その動きに女性は目を奪われ る。大人になったはずの自分の体は、いつの間にか子どもに戻ったみたいだった。父の背中、もう見ることができない。そう考えたとき、鼻の奥がツンとした。
「なにぼーっとしてるんだ、お客さん」
 いつの間にか目の前には、弟が握った寿司が一貫置いて会った。お気に入りのカバンと同じピンク色は、女性の大好きでたまらなかったサーモンに他ならなかった。
「……なんでわかったの?」
「弟だからな、ほら、早く」
 女性は恐る恐る手を伸ばし、サーモンを口に運ぶ。
 とろけるようなサーモンの感触が、口いっぱいに広がった、かみしめるたびに、シャリの酸味と、ネタの甘味が溶け合う。それは女性のかちかちに凝り固まった頬を緩めるのには十分だった。
「そうそう、姉貴、その顔が見たかったんだ」
 父が死んでから笑わなくなったのではない。父の寿司を食べられなくなって、笑えなくなっていたらしい。そのくだらない真実にまた苦笑する。
「寿司修行、大変だったんじゃない?」
「姉貴を笑わせるのには、一番の近道だったからな」
 二日後、女性はいつもの職場へと足を運ぶ。
「おはようございます。今日も一日宜しくお願いします」
 女性は言い終わった後、静かに微笑んだ。
ある郵便屋の話    ろくなみ

蘭丸の絵
今月のゲスト:牧野信一

 +目次
 僕等が小学校の時分に、写絵うつしえというものが非常に流行しました。それは毒々しい赤や青の絵具で紙に色々な絵が描いてあって、例えば武人の顔とか軍旗とか、花とか、その中で自分の気に入った絵を切り取って、水にぬらして腕や足に貼付け、上から着物で堅く圧えつけるのです。暫くたって紙をそっとはがすと、その絵がそのまま腕に写ってしまうのです。ただそれだけの事ですがそれをどういうものかその時分の少年達は、此の上もない面白いもののように思って、手や足では飽き足らず、終いには額にまで貼付けて誇ったものです。

 一
 午休ひるやすみの時間に、僕は臂掛が出来かかったので、嬉しくて堪らず、機械体操にぶら下って夢中になって練習していると、其処へ浜田がやって来て、
「面白い事をしているから来ないか。」と僕の名前を呼んだ。折角出来かかって居るのに、……それに浜田の遊びと云えば写絵に定って居る。僕は写絵は大嫌いだったし、若しそれが家へ帰って母に知れると大へん叱られるので行く気はしなかったが、どうしても浜田が来て呉れとまで云うので、渋々ながら降りて行った。
 雨天体操場の裏には可なり大きな椿の木が繁って居て、その紅のような花と深潭のような色をした葉とは、五六人の少年等が集うには丁度好い日かげをつくって居た。
「さあ君に之だけ上げよう。この絵はね、僕が昨日わざわざ浅草まで行って買って来たんだよ。皆が何処で売ってるときくんだけれど、店の名前は誰にも知らさないのさ……。こんなのを腕に貼っとけば他の者が羨ましがるぜ。だから今この五人だけに僕はやって、あとから皆にみせびらかしてやろうと思うのさ。面白いぜ、君も早く写してしまいよ。僕達もう出来ちゃったんだから、早くして方方見せて歩こうじゃないか。」と浜田は僕に、まるで百円紙幣さつでも呉れるかのように勿体らしく渡そうとしたので、僕は急いで云った。
「僕はいけないんだ。家で叱られるんだよ。」
「チェッ意気地がないな。」と浜田は不機嫌な顔色をしたが、僕はそんな事にかまっては居られない程機械体操の練習がしたかった。
「嫌ならいいよ。未だ此方に蘭丸や牛若丸や沢山あるんだけれど、そんなのをやらないばっかりだ。」浜田は懐中ふところから蘭丸の綺麗な顔を僅ばかりのぞかせて直ぐにかくしてしまった。
 僕が之迄に見た写し絵は大抵果物とか花鳥とかというものばかりで、そんなのは全く珍らしかった。でもただ珍らしい位ならば、根が嫌いな物なのだから何でもなかったが、その時チラリと僕の眼に写った蘭丸の顔が如何にも美しく勇ましくまるで芝居にでも出て来る強い若武者を目の当りに見るように感じられた。と同時に、あんなのを自分の腕に貼付けたらどんなに愉快だろうと思った。と急に僕はそれが欲しくなってしまった。
「浜田、それ何処で売ってるんだい。」と負惜みなど云って居られない程僕はそれが欲くなって尋ねた。
「それは教えられないよ。」と浜田は冷かに笑いながら、それがききたくば俺の家来にでもなれと、いわんばかりに「ここに居る者にだってそれは教えられないのだもの、若し君が僕達の仲間に入れば、売ってるところは教えないけれど、蘭丸はやってもいいよ。」と云った。
 この珍らしい写し絵を売ってる店を発見した浜田は、天下の秘密でも握ったかのような誇りを持っていたし、又事実その周囲に集っている友達等は浜田をそれが為に非常に尊敬しているのであった。
「僕にもう一枚おくれよ。」「僕にもよ。」「あたいにもよ。」などと皆な大騒ぎを始めた。僕は黙ってその光景を眺めて居た。皆なが騒ぎ出すと浜田は有頂天になって「僕をつかまえた者に、やろう。」と云いながらどんどん駆け出した。連中はドッと鬨の声を上げて浜田の後を追いかけた。
 僕は浜田が癪に障って堪らなかったが、わいわいと皆なが騒ぎ廻っているのを見ている中に、どうやら自分の心もその渦の中に巻き込まれて来るらしく、その上浜田が偉い者のようにさえ思われて来た。

 二
 放課後に機械体操の練習をする筈だったが、僕はもうそれどころではなくなった。――どうかして蘭丸の写絵を手に入れたいものだ、浅草中の玩具屋おもちややを一軒一軒尋ねてもかまわぬから、浜田へはもう頼むまいと決心して傍目も触らずすたすたと歩いていた。蘭丸の幻が風のように僕の脳裡を去来していた。――本能寺の勾欄は今や焼け落ちんとしている。緋の肩衣は紅蓮ぐれんの颶風に翻えり、どっという寄手よせての轟き、地をなめる猛火をはらって閃くは剣戟の冷たさ……火と煙と剣の閃光とを破って現れたのは蘭丸!
 勇ましい蘭丸、美しい蘭丸、蘭丸の顔は薔薇の如く、神の如く、鬼の如く、美しく輝いた……僕はこんなとりとめもない空想に焦れていた。それにしても浜田が持っていた写絵は美しかった。僕の頭では本能寺の蘭丸と、浜田が浅草で買ったという写絵の蘭丸の顔とを区別することが出来なかった。その貴い写絵を得ることは、信長の忠臣森蘭丸と握手するのと同じ事のように思われた。
「おい。」と僕の名前を呼んだ者があったので振り向くとそれは浜田であった。――僕はその時、浜田の顔を見た瞬間に、――浅草に行って探し出すという空頼そらたのみを棄てずには居られなくなった。つまらぬ浜田への意地でそんな手間遠い真似をするより、少しも早く今ここで浜田へ頼んで蘭丸に会わしてもらおうと思った。自分で此れほど望んでいる蘭丸を浜田は左右する権利を持っているのかと思うと、今まで軽蔑して居た浜田が急に偉い者に思えて来た。珍しい写絵を持っていない連中があの様に浜田を騒ぎ立てるのは当然のことだと思った。
「浜田君!」と僕はその時に限って君を付けて、
「僕も君等の仲間へ入れて遊んで呉れないか。」
「でも先程嫌だと云ったじゃないか。家で叱られるのならお止しよ。」
「叱られたってかまやしないんだ。」
「――そんなら来給え。」とやっとのことで浜田から許しが出た。

 三
 その日折よく僕の家では母は使にでも出たものか留守だったので、僕は浜田等へ報酬の代りとして僕の室で遊ぼうと云った。浜田はすっかり機嫌がよくなって、未だ家にもあるからと云って沢山の写絵を持って来た。僕の室に来ると浜田は学校とは全然打って変って、自分の物を皆の前に残らず解放した。
 皆思い思いの絵を選んで手に貼ったり足に貼ったりして――一つでもうまく写ったのがあると喜びの声を挙げて拍手した。(貼ったのが悉く写るというのではなく完全に出来るのは十の中二つか三つなのである。そこに面白味もあったのだ。)暫くたつと浜田を始め誰も飽きて了って、僕の本箱から絵本を引出して見始めたが、僕一人は飽きる処ではなかった。他の者が五枚も六枚も取り換えたのに僕だけは最初に腕に貼った蘭丸を、未だしっかりとおさえつけているのであった。そうして「どうか僕の腕にその儘に綺麗に写って呉れ。」と心に念じながら、力一杯たたいていた。涙が出そうになる程痛さが身にこたえてもかまわずに――。