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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第12回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
加藤武雄
2592

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

鬱金香
サヌキマオ

 橙の灯は夕立の闇に飲まれた店の中を照らしている。耳の裏の汗ばみを鬱陶しく思いながら、バイトの身だという意識の束縛だけが私をこの場に留まらせていた。そもそも、この乙坂ヱデン商会の客なんか、週に一人か二人くればいいほうである。店番と言う名の、レジの後ろにある畳に転がってスマホでまとめサイトを見る仕事だ。クーラーはかかっているが、涼しさを上回る湿気でスマホを持つ手と、畳に接した後頭部が同じくらいじっとりとしている。
 珍しく客が来たのは気の安めとなった。客は三駅くらい向こうにある白鶸女子の制服を生真面目に着こなしている。ひっつめた髪をひとまとめにおさげにして、フレームの細い眼鏡の奥の目が実に神経質そうだ――店番が自分と同じくらいの年の女であることにどんな気持ちであっただろう。白鶸女子はお嬢様学校だし、私のような友達などいなさそうな気配がする。
 問・この時の客の気持ちを三〇字以内で答えよ。答・「随分楽だったか、または死ぬほど厭だったかの何れかだったろう。(三〇字)」客はずいぶんと逡巡しているようであった。逡巡、いや、もしかして、思い返せば単に危ない客だったんだけれど。
「何かお探しで?」私のバイトとしての、最大限の心配りだ。
「いえ」
 なんでもないです、というフレーズを言外に押し込んで回れ右、女は店の外に出ようとする。お前何に驚いた。店の暗さにか。私にか。キャミソールで悪いか。貧乳で悪いか。
 と、女が引き戸を開け放った途端、健康的な、夏の、雷が落ちる。
 泣きそうな表情で振り向く女に対して「ま、ちょっと見てったらどうです、止むまで」と最低限の営業をかける。おっと忘れかけていた、口角を釣り上げる。

 店長は名古屋にいるらしい。通話の向こう、名古屋は三十五度の猛暑日で、ただ人が魂消るほど暑い、と聞いた。
 私は店長の指示通りに土間の隅にあった木箱を持ってくる。木箱には新聞紙がかけてあって、はぐるとつやつやと黒光りする塊が四つほど入っている。ナカネと名乗った客は一部始終、恐る恐る見ている。
「別に噛みつきやしませんって」私は塊を一つ摘んで手のひらに載せる。「球根です。球根」
「球根」緊張の緩むのが判る。私の手のひらの上を凝視する。「これが?」
「ご入用の件ですと」球根を指先に捉え直す。つやつやとした淡いオレンジ色の根が生えかけている。「これを膣の奥まで、ぐぐっと」
「ぐぐっと……膣?」
「で、アンタ、ナカネさん、処女?」
「はぁ?」
 よほど驚いたのか眼鏡が漫画のようなずれ方をする。面白いなぁ。
「いやね、入んないっしょ、こんなの。中に」
「入……らないでしょうね、多分」
「まぁ、アンタの身体のことなんかどうでもいいわ。でも、突き詰めるとそういうことなのよ。あなたは後輩のなんたらさんが好きで」
「シオリです。長瀞詩織」
「まぁじゃあその、長瀞さんに並ならぬ好意を抱いててラブラブだったんだけど、今度その長瀞さんに彼氏ができたんで、その彼氏にヤられる前にナカネさんの処女をぶち破りたい、と」
「いや……っていうか、詩織ちゃんをあんな男と一緒にさせるくらいなら、私のものにしたいってだけなのよ。ねぇ、聞いてました? 私の」
「そのための道具ったら、これなのよ。だったら自分で傷物にしたらいいじゃない。この女は自分のものだってことにするしかないじゃない」
「自分の」
 ナカネはしばらく視線をさまよわせて考えている。お、ビビるかと思ったら、案外喜んでないか、こいつ。
「まあ、端的に言ってそういうこと、ですよね」
「端的もトンテキもなく、そういうことよ」私は店の奥でコピーしてきた取扱説明書をナカネに渡す。「球根は膣奥に密着させるとあなたの養分を吸って二、三日で膣の入口から顔を出す。成熟すると本人の興奮具合によって球根は膨張するようになる、と。へーえ。大体いい? あとは自分で読んどいて」
 私は手元の仕入れノートに指をすべらせる。
「それで、お買い上げですと、一個六万円なんですけど」
「ろ、六万円?」
 ナカネさんはあからさまにうつむいた。黒髪に照明の輪冠が出来る。
「そりゃあそうよ。アンタ知らないかもしれないけど、ウン百年前には球根一個と家一件くらいが同じような時代があったのよ」
 だからって、今の時代に球根一個が六万円でいい理由にはならないけど。
「この品種だって当時のオランダの貴族がね、楽しみのために黒魔術師に作らせたってシロモノなんだから」
「安い」
「うん?」
「安いわよ! 私、本当に良かった。買います。買うので売りますよね? しかも即金ですし、ほらこれ」
 ナカネさんがそう言うと、取り出した長財布から六万円が滑り出た。財布には六万どころか六十万は入っていそう。
「本当にこんなことがあるなんて。これで詩織ちゃんを、詩織ちゃんの中の詩織ちゃんを私のものに出来る……ふふ、うふふくふふふ」
 本人は笑いをこらえて呟いているつもりなのであろうが、たまに漏れ聞こえる単語がいちいち卑猥に過ぎる。
「それは、ようございましたね」
「はー楽しみ。超超超楽しみ。じゃ、今すぐ包んでくださいな」
 店長に球根が売れた頃をメールすると<それは重畳、儲かったから今日は店を閉めていいや>と返事がある。

――三日午後十時二十分頃、井祝町中央のマンションで投身自殺とみられる未成年の遺体が発見されました。亡くなったのは仲根梓さん十七歳。現場は仲根さんの友人の住居だということで、なんらかのトラブルに巻き込まれた可能性が高いことが井祝署の発表により明らかになっています。遊びにいった先の友人が119番通報し、心肺停止状態で救急搬送されましたが、約一時間後に死亡が確認されました。
「なんで!?」
「なんで、ったってなぁ。あと重い」
「あなただって、この球根さえあれば詩織ちゃんと両思いになれるって言ったじゃない」
「言ってねえし。向こうにその気がありゃ幸せになれるけどさ、その気がなきゃレイプじゃん」
 私の上に薄ぼんやりとした影がのしかかっている。質量はないが、雰囲気だけがずっしりと汗ばんだ体を圧してくる。
「詩織ちゃんには嫌われるし、こんなものを股から生やしてなんか生きていけないし!」
「おい、シャワー空いたぞ」
「あ、はーい」
 トランクス一丁の男を見て元・仲根はそうとうに動揺したらしい。拘束が緩んだので、私は布団の上をごろりと転がるとようやく立ち上がる。
「誰よあの男」
「え、あぁ、店長。ここの」
 今日もずいぶん汗をかいてしまったがパンツの替えがない。どうしたもんだろう。
「どうしたもんかじゃないわよ! 私はこんなに苦しんでいるのに、あんたたちって、こんな……呑気に」
「ハイどいて、この店、狭いんだから」
 脱いだパンツを振り回してナカネの霊を払うと、扇風機にパンツを引っ掛けてから回す。今はシャワーだけでいいや。
「アンタ冗談じゃないわよ、私をこんなにして自分たちは自分たちでイチャイチャとああ悍ましい憎らしい妬ましいっ」
 ぼんやりとしていた影は急に凝縮したかと思うと宙に般若の相を形作ったがそれもつかのま、背後から近寄った店長がハタキでひと払いすると見る影もなく掻き消える。
「あれ、あっけない」
「人並外れた執念だと思うけど、ここ、その手の結界には事欠かないんだよね」
「ですよね」私は風呂の戸を開ける。うっすらと籠もった嫌な臭いがして、ああ、また掃除しなきゃ、と思う。
鬱金香    サヌキマオ

おいら宇宙のファンタジー
アレシア・モード

 夜は好い。湿った雨上がりの黒い路面。程よく吹いてくる冷えた夜風。私――アレシアは夜更けの県道をコンビニへと歩いて。サンダルの音だけヘタヘタと響く静寂の道、雲の狭間の白い星。綺麗だな。あ、また白い星。赤い星。青い星。ぐるぐる廻る星。あれ、増えていく……
 何かイヤな展開の予感がして、私は空を見るのを止めて足を早めた。だが時すでに遅し、私の前には光の渦がキラキラ輝き、その奥から謎の人物が一人、すうーっと宙に浮いたまま近づいてくるのだった。外見は細身の若い女性――ロングの金髪、白のロングドレス、顔からはみ出さんばかりのロングまつげ、微妙に伸びた頭頂、貧相な胸、その全身は青白く光り、半ば透明だった。貧乳ロングは飛ばされた洗濯物のように私の周囲をくるくる巡ると目の前に止まった。
『私は……ペペロン星雲から来たエージェント……ポロペンです……』
「そうだ、ビールとかも買おうかなー」
 これだから私の夜道は怖い。こんな手合いはスルーに限る。何も気づかなかった事にして歩こう。
『宇宙は……いま危機にさらされています』
「0時までにコンビニ行けるかなー」
『私たちペペロン人は……ピロパラシステムのエージェントとして……地球の皆さんに警告します』
「日付変わるまでに支払わないとまずいかなー」
『そう、支払わないと……大変な事になります』
「えっ?」
 しまった。返事しちゃった。もっともこいつは私の脳内や脳外をくるくるつきまとうばかりらしく、コンビニに行くのを妨げるものではなさそうだ。
『再三の督促にもかかわらず……いまだ地球は……ピロパラシステムへの支払いを怠ったまま……これは宇宙の……重大な義務違反』
 その鬱陶しい喋り方、どこで覚えたんですか。
「ピロピロ? そんなの聞いたこと無いし。聞いてないもの払うわけ無いし? 督促? 何それハガキとか来たの? 覚えてないよ。いつ来たんですか?」
『はい……今からちょうど65536千年前の今日……6月28日の23時45分……地球には大隕石を落としてお知らせしたはず……お忘れで』
 まさか今日がそんな記念日だったとは。いや、そこに気を取られてはいけない。
「は? それって、いつの恐竜時代の話っすか。昔すぎて分かんないから前任者に聞いてよね。ティラノザウルス部長だっけ?」
『部長さんは絶滅されたようです……引き継ぎはありませんでしたか』
「はあ、なにぶん暴君でしたからねぇ。後先なんて考えませんよ。いやあ惜しい方を亡くしたって地球一同大喜びで。ハハッ」
 足を止めてちらりと伺うと、ポロペンは無言のまま、斜め上から瞳のない目でじっと私を見下ろしているのだった。
(うわっ――全然ウケてはらへん)
 気まずい空気の中で私は再び歩き始める。ポロペンも無音でついてくる。
「一応、いちおう聞くけどね。支払いっていくらなの」
『……1地球年あたり195千120パロム……去年は187千080パロムでしたが』
「値上げかよ。てゆーかパロムって何」
「パロムとは誠意と友愛のエネルギーを表わし……地球の単位に大雑把に換算すれば……およそ年間4096千ギガワット時でしょうか? ……お支払いいただけますか」
 これはアメリカ全土の年間電力消費量に近い数字です。と、検索エージェントのググルさんがそっと耳打ちし、とにかく私には無縁な話と分かった。
「ばーかばーか。そんな電気代、私が払えるわけないでしょ、かーば」
『うっふふふ……もちろん……あなた一人だけの話ではありません。地球人みんなが力を合わせて納めるのです。アレシアさん……あなたには地球代表エージェントとして……世界の一人ひとりの心に訴えていただきたいのです……どうして皆さんは、宇宙の義務に目覚めないのですか、と』
 いくら私でも、それはキツい。
「だから、どうして払わなきゃいけないの。払わないとどうなるの」
『おお、あなた方は……ぺぺロンのプラシュら、プロパレらくてろ、ポイと仰るのですか……』
「仰ってないよ。いったい何を言ってるのよ」
『いずれ地球人も……ぺぺロンとらん、パンでリンまれ子供のままでいるおつもりです』
「――肝心なとこだけ分からない」
『まったく地球人ときたら……幼稚で未熟な、原始種族……まさに銀河の二歳児よ』
「そんなとこだけ分からせなくていいよ!」
 あのね、ポロペン。なんで夜道で宇宙漫才のツッコミなんかやらなきゃいけないんだ。もうさっさとコンビニ行って用が済んだら帰って寝るからね――という私の思念が伝わったのだろうか、若干エキサイト気味だったポロペンは最初の落ち着きを取り戻したようだった。
『お聞きなさい……私は……ペペロン星雲から来たエージェント、ポロペン……』
「聞きました」
『アレシアさん。これは……第四次元宇宙の公理。宇宙の維持に必要なエネルギー……もし地球が支払いを怠ったために……エントロピーを相殺できずに宇宙の熱死を早めたら……どうするおつもりです』
「あのお、宇宙って――アメリカの消費電力レベルの延滞で死ぬんですか?」
『うっふふふ……もちろん……これは地球だけの話ではありません。宇宙人みんなが力を合わせて納めなければ』
「はあ。納めてない宇宙人も多いんだね」
『え……』
 ぴろぱらぱらん~ぱ、ぴろぱらぴん~
「ヤバくない? そのシステム自体が」
『ッピー! ピロパラぷろっぺン、パラポローれ済みませんよ!』
「い、いらっしゃいませ」
 イケメン度72%ほどのコンビニ店員Mの顔に不安の色が覗えた。夜中にヤバい客来た俺のシフトにとか思われたか。私は会話を閉じ、通常の三倍に強化された陽気なスマイルを全開にした。大丈夫、怖くないからね。
「うっふふふ……こちらの支払いお願いします……ピロパれ」
「ピロパですね。公金支払いはピロポイントが付きませんが宜しいでしょうか」
 72%なお兄さんは用紙をスキャンしながら確認する。
「はいはい」
「では、こちらにピロパをタッチお願いします」
 そう、年金保険料支払いには普通はポイントつかない。アレシア残念! でもこのピロパラマートは保険料を電子マネーピロパで支払う事ができるのよ。えっ、でもアレシア。ピロパでもポイントつかないって72%なピロ兄さんもさっき言ってたわ。うん、実はね、私はこのピロパをピロパラカードでチャージしたの。ピロパラカードならピロパチャージでもピロポイントがつくのよ! えー、それってすんごいお得じゃない? で、このチャージしたピロパで支払えば、保険料の支払いでもピロポイントゲットできちゃうって仕組みなわけ。すごーいアレシア、私たちまるでネット広告のマンガみたいな勝ち組フレンズだね! でも面倒くさいよ私!
 ぶっぶー!
「あ、すみません……エラーなんでもう一度タッチお願いします」
(そう……でもこの面倒なコンビニ払いでのポイント稼ぎも、今月限りなんだ♪)
 だって保険料全額免除、審査が通っちゃったからね……
(はあ……)
「すっごいアレシア! 免除なんてさすがピロパね! ピーローパ! ピーローパ!」
「ピロパラ関係ないって。話を聞いてないの? もうピロパラピララいって言ってるの」
「何言ってるのか分からないよー!」
「あれ、ポロペンは? ポロペンらポこッ?」
「私は……ペペロン星雲から来たエージェント……ポロペン……」
「ポロペン居たー!」
 ぶっぶー!
「……あ、あの、お客さん、もう一度タッチを……いやホント、ごめんなさい!」
おいら宇宙のファンタジー    アレシア・モード

N先生のビジョン
今月のゲスト:加藤武雄

 両方から迫った山裾の間を、小路は曲り曲って、一曲りごとにだらだらと爪先上りになる。両側の雑木林の緑の中には、恍惚とする声で小鳥が鳴いていた。路傍の草叢の中には木瓜の花が燃え、ちょろちょろと湧き出す泉の上には山吹の花が枝垂れかかっていたりした。明るい空気に談笑の声を響かしながら一行は長い列を作って登って行った。先頭が村長、次が校長、その次が一行の主賓たるN先生、それから学校の教師、村の役員、青年会会長、その後には青年会の人達がつづいた。その中にはN先生がこの村に教鞭をとっていた頃の教え子であった者も交じっていた。N先生から最も愛され、志を励まされて、一度は先生を便って東京へ出て苦学をしたが、身体を悪くして今は役場へ務めているK青年は、一番あとからぽつりぽつりと歩いて行った。Kは久し振りで先生に逢って、非常に懐かしくは思いながらも、意気地の無い今の姿を先生に見られるのが辛いのであった。
 径は次第に険しくなり、山は次第に深くなった。両側の雑木林が、杉林にかわって、一行は暗い湿ッぽい緑の隧道(トンネル)に入って行った。これからが✕✕村の共有樹裁地で、N先生が行って見ようとする学校の樹裁地はその中の一部分である。
「随分大きくなりましたな」とN先生は一寸立ちどまって、樹脂(やに)の匂いを含んだ爽やかな木の香をすうと吸い込んでこう云った。
「学校のはこれよりまだ一際高くなって居ります。これは、たしか学校のより三年あとに植えつけたんですから」
 青年会の会長は、ステッキでこつこつとその幹を叩きながら云った。
「その筈ですね。――もう十五年も経つのですからね」
 N先生の口からは、またしても感慨深い言葉が漏れた。
 谷が窮まってまた一つの谷が開ける。漏斗形に右左に伸びた山肌は、麓から中腹まで杉の林に掩(おお)われていた。「✕✕小学校樹裁地」と書かれた雨曝(あまざ)れた標木を灌木の叢の中に見出した時、一行はN先生の周囲を取り捲いて、而して等しく眼を挙げた。
「随分大きくなりましたな」とN先生は云った。
「六千本はあります。もう五、六年すると、ざっと、一万両になりますよ」と村長が云った。
「皆、Nさんの御丹誠の結果で――」と帽子をとって汗を拭きながら校長が云った。そういう風な言葉が、一同の口から繰り返された。
「いや、決して――」と打消すN先生は、得意の微笑に、その肥った丹(あか)い顔を明るくした。

 一同は草を藉(し)いて暫く休息したが、やがて杉林の中にはいって行った。下草を分け、下枝を潜って、上へ上へと登って、上へ上へと登って、林を出外れてしまうと、林は眼の下にその全景を展開した。N先生は、谷を埋め山を埋めて矗矗(すくすく)と並び立った杉の林を幾度となく眺め渡した。N先生は十年前の秋晴のころ、四十余人の生徒を引き連れて、この谷に分け入り、自ら先に立ってこの山の草を刈り灌木を焼き、硬い岩石まじりの土を開墾(おこ)して、子供等の卒業記念として一万本の杉苗を植えつけさせた日の事を思い浮かべた。
「おれの植えたのはきっとつく」
「おれのだって」
 子供等はこう云って苗を植えた。先生は一々それに手を添えてやった。先生は一つの旅人(トラベラー)としてこの村に来た。而してこの村にこれだけの努力の記念を残した。この杉林は年と共に繁り、自分の記念は永久にここに残るであろう――こう考えるとN先生は衷心に限りない誇りを感じたが、先生は更により以上の誇りを以て考えた――しかし、俺の栽えたのは樹ばかりではない――十年の計は樹を栽うるにあり、百年の計は人を栽うるにあり――。

 がやがやと騒ぎながら降りてゆく一同を少しやり過ごして、先生は静かにあとから降りて行った。樹立の間には樹脂の匂を含んだ濃いしめッぽい空気が淡緑の水のように湛えられていた。先生は杉の林の一本一本を丁寧に見ながら歩いた。――そのうちに一つのビジョンが先生を捕えた。その杉の樹の下から短い筒袖を着た、眼のつぶらな男の児が先生の前に飛び出した。一本から一人ずつ飛び出した。而して両手をあげて先生! 先生! と呼びかけた。「先生! 私はB・Aです!」――おおB・A、彼は行儀の悪い、しかし数学のよく出来る児であった。「先生! 私はN・Iです!」――おおN・I、彼は運動好きな、しかしよく泣く児であった。「先生! 私はT・Kです!」――おおT・K、彼は……。「先生! 私はN・Mです!」――おおN・M……。「先生私はT・Oです」「先生、私はK・Yです!」「先生! 私は――」「先生!……」
「先生! 私はS・Nです」という悲しい声がきこえた。そこには黄色く立枯れた一本があった。青白くやつれた、眼ばかり大きく輝いた敗残の一青年が先生の前にあらわれた。彼は先生が最も望みを嘱した秀才だった。先生は彼を、無理な境遇の中から東京へ呼んだ。しかし、彼は躓いた、失望した、死んだ。
「先生! 私はL・Kです!」二度目の枯木がこう云った。彼も田舎に置くには惜しい秀才であった。奮起して都へ出た、しかし、今はどうなったか知る者もないと聞いた。
 ――先生の心は震えはじめた。三度目の枯木には不幸なSが居た。四度目の枯木には、腑甲斐のない、堕落したHが居た。何れも先生によって志を激まされた青年だ。五度目の枯木、六度目の枯木――先生は枯木のあまりに多いのに気がついた。先生の眼には、枯木ばかりが見えて来た。先生の心は暗くなった。而して激しく震えた。この里ばかりではない、N先生は三十余年の教師生活の中にはいくつの里の子供等に男子の事業を説いて、その功名心を喚びさました。百年の計は人を栽うるにあり――しかし、しかし――しかし――

「ずいぶん枯れたのもありますね」と降りて来たとき先生は云った。
「多くの中ですもの、仕方がありませんや」村長はそう云って、「さ、弁当をやりましょう」
 先生は一人ぼんやりと佇んでいた。K青年がだまってその傍らに立っていた。先生は、ああ、ここにも――と思った。
「どうだい。近頃は身体は良いかえ?」と先生は優しく問うた。
「ええ」とK青年は低く答えて懐かしそうに、先生の白髪のちかちかと日に光るのを見た。先生も老いた。あの教卓を叩いて、
「男子生れて草木と共に朽つるなかれ!」と説いた頃の先生の悌はもうどこにも見出されなかった。春の鳥はしきりに鳴いた。