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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第22回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
小川未明
2031

あなたが選ぶチャンピオン。

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

ベクトルa、ベクトルb
サヌキマオ

 週末は怒涛のように過ぎた。金曜日、放課後に最終の通し稽古があって、土曜日は大会初日の手伝いとして墨家、俵村、私の三人が会場の受付や整理に駆り出され、二日目、日曜の二番目に萬歳高校の公演「東京だよ落下傘」を演じた。一方、東京には落下傘どころか爆弾低気圧が押し寄せてきていて、夜半には都心を直撃する、ということでギリギリに大会は強行された。なにせ、日曜の夕焼けはきれいだったのだ。が、三十分もすると天空にわかにかき曇った。予想よりも早く雲が押し寄せたのだ。
 土日二日の公演が終わると審査員の講評があり、表彰式がある。天候のこともあって講評には伊武先生と部長の私、副部長の俵村が残った。表彰式を終えて(四位だった)ホールの外に出るとあたりは闇に閉ざされていた。雨の打つ音が一瞬耳を閉ざした。思わず息を呑む。電車は動いているだろうか。
 怒涛のように過ぎた、というのは誇張が過ぎたかもしれない。要するに、帰り道が大変だったのだ。結局懇親会をキャンセルした(かった)伊武先生の車で嵐を脱出したのだ。私の家は会場から車で二十分ほどのところにあった。途中トンネルをくぐったときにずいぶんと水が溜まっていて冠水したりしたのがなかなかスリリングだった、というだけの話だ。車は玄関まで迎えに来た母に私を預けると、そのまま雨で煙る闇の中に消えていった。あらためて、運転をする伊武先生ばかり見ていた。後部座席の斜め後ろから見ていた。たまにルームミラーで目が合うと頬が緩んだ。夜の闇の中だから表情もわからなかったに違いない。

 翌日、嵐は過ぎても朝から小雨。昼休みだ。曲の様子がおかしいのにはすぐ気がついた。一緒にお弁当を食べる気でベンチまで出てくると、あきらかに様子がふわふわしている。妙な足取りでやってきて私の隣にぺたん、と座る。ついぞ嗅いだことのないような甘い残り香がする。
「昨日は大丈夫だった?」
 曲が息を詰まらせる。あやしい。
「大丈夫……って?」
「なにかあったでしょ?」
「ないよ? なーんにもなかった。実に無事であります」
 曲は澄み切った瞳でこちらの眼鏡越しの目を覗き込んでくる。あやしい。
「いつもと洗濯洗剤の匂いが違うみたいだけど」
 曲がギクッ、として俯いた。平静を装おうとすぎに顔を上げたが、すでに目が潤んでいる。
「うん?」
「内緒だって云われたんだよぉぅ」
 え?
 途端に頭の中でパズルが音を立てて組み上がる。しまった、こいつも女だった。何かの間違いで男子小学生がセーラー服を着て高校に通っているだけかと思っていたが。しかし、しかしその、こういうのがお好みなんですか伊武先生。そりゃあ先生は女装の麗人ではあられますけれども、だからといってこんな少年のような……少年? ああ、じゃあいいのか――よくないよ! 絵的にはアリかもだけど!
 私が混乱しきっていると、曲はかえって気の毒そうな目でこちらを眺めてきた。私はいくらかムッとする。眼鏡を拭く。仕切り直しだ。
「バレちまっちゃあしょうがないよ、曲さん」
「そうかぁ、洗剤の匂いか……そこは盲点だった」
「こうなったら洗いざらい話してもらえませんかね、洗濯だけに」
「じゃあ、話すんですがね」
 やや間があった。
「昨日は伊武先生のうちに泊めてもらいました。以上であります」
「もっと詳しく。詳らかに」
「ご飯も食べました! 居候なのに三杯もお代わりしました!」
「ご飯?」伊武先生、自炊してらっしゃるのかしらん。
「じゃ、もっと面白可笑しく」
「にょっほっほー、って、聖ちゃん、真面目に聞く気がないな?」
「いや、そうでなくて――あれ、ご家族はOKしたの?」
「あ、うん。全然。兄ちゃんが泊めてもらえって」
「はいぃ!?」
「はいい、って?」
 家族公認の仲なの? という最後の一声をぐっと飲み込む。私の尋常でなさに、ようやく話が噛み合っていないのに気がついたようで、曲ははじめて笑顔を見せた。
「わかった、順を追って話すね」
 途端に饒舌になった俵村曲には三人の兄がいて、警察官をしている三男と伊武先生が大学の同級生だった、という。この雨で俵村家も散り散りになっており(飛行機が飛ばない、とか雨ゆえに駆り出される、とかいろいろ聞いたが割愛する)ようやく連絡の取れた三男が「そのまま家に連れて帰ってくれ」と頼んだという。
「それで、なにもなかったの!?」
「なにも、って。WiiUとPS4とSwitchがあった。すげーなあの家」
「そういうことじゃなくて!」
「ああ、玄絵ちゃんと一緒のベッドで寝た」
「クロエ?……誰?」
「え、伊武センセの娘ちゃん」
 これこれ、と曲はスマホから写真をだした。いかにも自撮り風の画面に、風呂上がりらしき曲と小学生くらいのハーフの女の子が頬を寄せ合って写っている。
「いや、待って待って待って先生」
「はい、花戸さん」
「伊武先生、結婚してたの!?」
「え、知らなかった?」
 ドッドーン。
 目には見えないが私にはわかる。いま、私の背後の植え込みから日本海の荒波が弾けている!
「さすがにお母さんの写真は取らなかったけどね、こっちは弟の聞太君」
 モンタ君という名の美少女のようなものが、プリキュアのパジャマに身を包んでちょこなんと座っている。
「このパジャマ凄いんだよ、なんてったって暗い所で光るんだから寝かせたいんだか起こしたいんだかわからな……って、おーい。聖ちゃん、おーぃ……」
 状況が脳の許容量を超えた。完全にオーバーフロウだ。私は家から持ってきていた水筒の蓋を開けると、そのまま口をつけて中の生ぬるい麦茶を一気に呷った。呷った、という量ではないので重力の力でどんどん喉の奥に流れ込んでくる。喉も裂けよとばかりに呑み込んでいく。
「……ワイルド!」
 ずれた眼鏡の先で小さく拍手をする曲が見える。
 種が明かされてしまえばどうといことのない話だ。暴風で帰るところのなかった曲は勧められて兄の同級生一家のところに泊めてもらった。以上。
「それにしても! やすきよ風に云えばしっかし!」
「いや、だから内緒なんだよ聖ちゃん。こういう、ちゃんとした事情があっても先生と生徒だし」
「――って伊武先生に云われたわけだ?」
 頷くな曲。そういうことではないのだ。
 これは、嫉妬なのだ。
 しばらく黙っていると、無理矢理話題を切り替えるかのように曲が口を開いた。
「あ、ローラさんね、すっごい可愛いんだよ! 先生より三つ年上で、私より身長が低くてね、コロコロしていて可愛」
「いいから! 内緒だったらそれ以上この話をするんじゃないっ!」

 あーあ。
 なにがあーあ、だか分からないが、午後の授業が始まっても気持ちがぐるぐるしている。
 じゃ、演習3解いて、と先生に云われてハッとするが、すっかり解き方を聞いていなかった。ベクトルという単語そのものが人の理解を拒否している気がする。横文字だし。「矢印」でいいじゃねえか、矢の「印」じゃいけないんだとしたら、ある方向と長さを持った矢A・Bでいい。置かれた矢を人間が数学を使ってなんとか調理しようとする。でも、調理となったら鮭でもサーモンでも変わらないよな。
 調理方法を聞いていなかった演習3は目の前であっという間に三枚に下ろされて片付いた。また解法のわからないことが増えてしまった。こと数学に関してはわからないことが蓄積し続けて、手がつけられなくなって、押しも押されもせぬ苦手に凝り固まっていくのである。
ベクトルa、ベクトルb    サヌキマオ

ボッチャーン
アレシア・モード

【親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある】

「フローム チャイルドタイム、ペアレンツプレゼンツ ノー・ガン、アンド ノー・アドバンテージ! ザ・ターイム アイアム イン スモール・スクール、アイアム フライング フローム セカンドフロア、アンド ミス マイ・ウエスト、ワン・ウィーク」

【なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである】

「ユー クエスチョン? ホワーイ アイアム ノー・ダーク? ノット ディープ・リーズン、ザ ターイム アイアム エグジット ネック フローム セカンドフロア、クラスメート ジョーク ハウマッチ ユーアー グレート、ユーキャン ノット フライ フローム ヒア。ウィーク インセクト ヤーイ、ザッツ ホワーイ」

【小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた】

「ザ・ターイム オン ザ リトルユース アイアム ゴーホーム、マイダディ ビッグ・アイ アンド セイ、アバウト フローム セカンドフロアダイビング アンド ミッシング ウエスト ガイ イズ ヒア? アイアム アンサー、ノーミス ネクストターイム」


「……アレシアって」
 マリは大きく目を開き、口も開いたままだった。いつも反応の薄いマリとしては異例のリアクションと言えた。
「……英語が上手なんだね……まるでアメリカの……ええと」
 マリはここで少し言い澱んだ。ような気もした。
「……アメリカ旅行者みたいだよ」
「はっはっは、恐れ入ったかねマリくん。こうして日本の文豪の作品を翻訳してアメリカに売り込むのさ。まあメリケンは日本の小説とか知らないだろうし、漱石なんか読んだらきっと驚いて大ベストセラー間違いなし! マリも私と一緒にドリームを掴もう!」
「……はあ」


【親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った】

「フローム ペアレンツ・カインド アイ ゲッツ ウエストオーシャンナイフ アンド ビューティフルエッジ イン サンシャイン、ルッキング トゥー マイフレンズ、ワンフレンズ セイ、イッツ シャイニング イズ シャイニング、バット ノールック カッティング。アイ セイ、アイアム ナッシング ノーカッティング。アイアム オール カッティング。マイ プロミス」

【そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ】

「ナウ、オーダー レッツ・カット・ユアフィンガー。ホワット フィンガー アバウト ディス・ウェイ、ライトハンド・ペアレンツフィンガー カット ノーストレート。イン ハッピー、ナイフ イズ スモール アンド ペアレンツ・フィンガーボーン イズ ハード、ナウ ペアレンツフィンガー アタッチメント イン マイハンド、バット スキンダメージ イン マイライフ」

【おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである】

「マイダディ ノー ラブミー。マイマミー ラブ マイブラザー。ブラザー イズ ベリー・ホワイト、プレイ ドラマ アンド ラブ チェーンジ レディー ボーイ。エニータイム ルッキング ミー、ダディ セイ ユーキャン ノット ビカミング グッドマン。マミー セイ ユーアー バイオレンス バイオレンス ロード ゴーイング イズ マインド。リアル アイアム ノット ビカミング グッドマン、ルッキング・ウェイ。イッツ ノーリーズン マインド マイ・ウェイ、オンリー ノープリズン イン マイライフ」


「……アレシア」
「何かな?」
「……私は遠慮しとく……アレシアもあまり本気出さない方が良いような……みたいな」
「ホワーイ?」
「その……私のシックスセンスというか」
「ああ、可哀想なマリ、失敗が怖いのね。それじゃ人生損するばかり、無鉄砲こそ成功への早道よ。まあ手伝ってくれなくてもいいけどね、その代わり分け前は無しだよ~」
「うん……」
「さあ、頑張るじょー!」
「……えっとアレシア……なるべくゆっくりやった方が……ね、結構長い話だし、少しずつ……」
 ああ、せめてこの時点でハッキリ忠告してくれてたら、とは思う。でもマリは私の心を傷つけるのが怖かったんだ、よね……


【ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した】

「ザ タイム オブ ジャパニーズチェス プレイング、ヒーイズ アンフェア ウェイティング・ホース プレイング、マイフィーリング ハードモード、ヒーイズ・グラッド・トゥー・セイ・コールド。アイアム エクストラ アングリー、ストライク フライングカー イン・マイハンド トゥー・ミッドブロー。ミッドブロー デストロイ アンド リトル ブラッド。ブラザー アピール ダディ ミー。ダディ セイ・ミー アウト・ミー」


 マリの翻訳は器用だった。
「……日本のチェスの演奏時間、彼は不公平な馬の遊び、私の感情のハードモード、彼は寒いと言うのがうれしい。私は余分に怒っている、中眉に、私の手の中に、空飛ぶ車を叩きつける……中眉は破壊され、血はほとんどない。兄は訴えるダディに私に。ダディは私に私を言う……ああ、これでは漱石が……まるでノストラダムスの大予言よ」
「せ、せやな……」
 これでも少し話題になったらしいんだよぉ。向こうの巨大掲示板で、ネタとして……

【その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた】

「ザッツ タイム アイハブ ノー・ウェイ ギブ・アップ、セイイング・ウェイ アイ ゲッツ アウト。バット テン・イヤー・ワーキング・メイド・キーヨ クライング アンド ソーリー・トゥー・ダディ、ダディ アングリー イズ クリアー」

「……それは出て行く手段を言って、あきらめる手段のない時……しかし十年働くメイドのキヨは、泣いてダディにごめんなさい、ダディの怒りは明らかだ」
 マリは突っ伏したまま、肩を震わせている。
「いや、なんで笑ってるんですかねぇ、マリさん」
「……はぇ?」
ボッチャーン    アレシア・モード

ペストの出た夜
今月のゲスト:小川未明

 清吉は其夜遅くなって、外から帰って来た。電燈の下で其日の夕刊を見ると、つい近くの町からペスト患者の出たことが書いてあった。これを見ると襲われるような寒気がした。
 何んだか黒い姿をした、暗い顔付きの死神がきこの附近をうろついているように思ったからだ。彼は子供に乳を飲ましながら、黙って次の間に横になっている妻にこの怖るべき病気がいよいよこの近くに発生したことを告げて、一日もはやく此処ここから移らなければならぬことを語った。
『他のうちも引越しなさるだろうか。他の家でも引越しなさるようだったらうちでも越せばいいが、あんまり大騒ぎし過ぎますよ』と妻は彼方あつちを向きながら言った。
 清吉は気持がぢりぢりした。早速家を出て近所の薬屋へねずみとりぐすりを買いに行った。酒屋の角に立て、ペストの出た下の町の方を見ると一直線に見渡すことが出来た。しとしとと雨が降って、道の上が光っていた、町は何処どこも大抵眠静まっていると見えて、ただ両側の軒燈けんとうだけがさえ返っていた。
 雨の降ったために空気は洗われて、一層はっきりとして遠くの方までが近くなって見えた。の白い活動写真の建物は真に手の届きそうな処であった。ペストは其の辺りに出たらしい。くるまが人通りのえた往来を其方そつちから二三台つづいて此方こつちにやって来た。
『今日のペストに関係した俥でなかろうか』と独言ひとりごとして、何となく無気味に思われて、其の俥が前を通るまで、酒屋の角に立止まって瞳を凝らして見守っていた。
 其他、常と変ったところはなかったけれど却ってこの眼に見えないだけ疫病の跳梁が怖しかった。
『もう一歩も明日からは彼方あつちくまい。また家内の者をやってならない』と思いながら薬屋の前まで来て見ると戸が閉まっていた。
 清吉は無理由にも腹立しくてならなかった。うちに帰った、張り詰めた気持が緩むとしばらく考え込んだ。
 此時、頭の上の天井張を走る鼠の足音がした。何時になく彼は鼠の足音を聞いて身の毛をよだった。しい、病源地と此処ここまでの直径さしわたしにした距離などを考えて、このうちにいる蚤にも既に病菌が附いているように、ただこの一夜だけでも怖しくなった。
 てからも幾たびか眼が醒めた。眼が醒めるとペストがこの附近に来たということが気にかかった。明る日、朝早く起きると頭が疲れていた。
『あなた見たいに怖しがる人もありません。近所ではあなたのように騒いでいる人がありますか知らん』と妻が言った。
『無神経な奴め、現にペストに罹っている者があるじゃないか。自分の病気をしている時に必ず他人がするとは限っていまい。誰がなるか分ったものでない』と清吉は言って、生きていられるのが僥倖のような感じがした。
 彼は早速薬屋に行った。防臭剤としては片脳油へんのうゆを一本と蚤退けのためにナフタリンの一箱とを買って、次に蠅を防ぐためには何がいいかと問うて見た。
『まだ蠅捕りの薬というものは出来ていませんので』と薬屋の頭の禿げた老人が言った。
『不郡合なことだ』と清吉は心で言った。
『じゃり線香を一包み下さい。其れを焚いたら蝿が逃げるだろう』
『ええこれをお焚きになったら、来ますまい』と其の老人が答えた。
鼠捕薬ねずみとりぐすりを一つ』と清吉は最後に言った。けれどこれを買うには認印がいるとかで、もう一度うちまで帰らなければならなかった。
 其日は朝のうちから一円余りの買物をしたのを考えて見て馬鹿らしくも思った。これ位のことをしたからとて、病気に罹らないという保証が得られるでもないと思ったからだ。して、やはり不安は去らなかった。
 子供の行く学校は、ペストの出た町にあるので、清吉は其日から休ませた。彼は二階に上って、仕事をしようと思ったけれど手に附かなかった。幾たびとなく窓から頭を出してペストの出た町の方を眺めた。
 雨の晴れた後の空は暑かった。しかも日中彼は汗を拭きながら家を探しに歩いた。志す様な家が見当たらなかった。不潔な、風通しの悪い巷にも家が重なり合っていて、人間が蛆虫のように住んでいるのを見ると、よくこれで病気にも罹らないものだと思い、まだしも今の自分の住家をこれに較べると我慢していなければならぬと考えた。
 清吉は疲れ切って帰って来た。うちに入るとまたしても同じい不安に襲われるのであった。やり線香せんこうけむりくらいでは、無数の蝿を退治することが出来なかった。彼は人手を待たずに自分で蝿を捕ることにきめた。しなければならぬ仕事も打捨て置いて、捕っても、捕っても、捕り尽くせぬ一種の無限に対する反抗心から蝿を捕った。
 毎日、子供は町へもちを買いにくのが役目になった。もう学校は幾日となく休んでいる。清吉は是迄きめて散歩に出かけたものが、蝿を捕るために、其の時間まで費やしてしまった。
 周囲には楽天的で、無神経の奴等が限りなく住んでいる。御隣りの相場師のうちでは、他人の迷惑を思わずに朝から晩まで下卑た蓄音機を鳴らしているし、お隣りでは安オルガンを暑苦しくも弾きつづけている。
 此の間にあって、独り清吉の神経は益々病的となった。