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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第31回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
森鷗外
2005

結果発表

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コミュニケーション

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脳天鮪落とし
サヌキマオ

 待ち合わせに三十分遅れてクロシェはやってきた。見るからに目が泳いでいる。そもそもこの悪友「おごる」というのに三十分遅れてくる時点で尋常ではない。何もかも隠しきれていない。
「いやぁ、素敵な門構えのお宅ですねぇ、普請は総体檜造り、天井は薩摩の鶉木目」
「ビルの四階の居酒屋だよ!」
 クロシェはヒョロヒョロとした足取りでこちらに向かってくるとこちらがすすめるまで棒立ちになっている。
「ところでミミミさん、ソータイヒノキヅクリって何だろうね?」
「わかんないで云ってるんだ?」
「ウズラモクメとかいうところはかわいいと思うんだけどね」
「いいから座んなよ」
 平日の七時半なので店も空いている。まずは駆けつけで瓶からビールを飲ませ、あらためてもうふた瓶注文する。
「なんかこう、家を褒めているというのはわかる」
「ああ、また落語ですか」
 最近のクロシェは落語にハマっているのだそうだ。「云っていることはよくわからないがリズムがいい」ということで志ん朝を中心にスマホで聴いているという。「小遣い稼ぎのために新築の家を褒める」という話だそうだが、今はそんなことはどうでもいい。追加で頼んだつまみが運ばれてきて、さらに追加でビールをふた瓶ほど頼んだところであたしは切り出した。
「男、出来たでしょ」
「うんうー」
「できたんでしょ?」
 そんな予感がしていたのだ。男の出来た予感が確信に変わるくらい、行動様式が大きく変化する。ラインの返信が秒単位から一時間単位になるとか。
「みんみー」
「ん?」
 あらためてクロシェの顔を見ると、両手で持ったビールのコップに顔を埋めている。
「別れなさい」
「やだ」
「別れて」
「ヤだっていってるっしょ」
 無茶な申し出だというのはわかっている。だが、本当なのだ――本当なのだ、という表情を読み取ったのか、
「だって、そんなのオカルトじゃん! いいがかりじゃん! 思い込みだよ!」
「そんなことないんだって! あんたが男を作るたびに――」
 あたしが云い終える前に、何らかの手違いで調理場のフライヤーから飛び立ったクリームコロッケが、あたしの顔面を直撃する。

 八ヶ月ぶりに出来た彼氏はかかりつけの病院の医者だという。基本的にどうでもいいけど、どうやって医者と患者の関係から発展していくのかだけはどうでもよくない。
「いや、だから池袋のフレッシュネスでばったり」
 やっぱりどうでもよかった! とにかく別れて!
 そうでもしないとこちらの身がもたないのだ。クロシェに男ができるとあたしに厄災が降りかかる。今日も昼間の職場では二回ほど車に轢かれかけ、通りがかりの小学生が蹴り上げたスニーカーが後頭部を直撃した。
「でもそれって」クロシェが珍しい顔をして答えた。必死で頭を使っているのだろう。「結局五体無事ってことだからさ、むしろ幸運が味方してくれるんだよ」
「あんたに彼氏ができることであたしが幸運を得てるってわけ?」
「そうは云ってないよ。私の彼氏のせいでミミミに災厄が訪れるってのが無茶苦茶ってだけ」
「うー」
 細かい原理についてなんてわかろうはずがない。知っているのは神様か、この世界のプログラマーくらいなものだ。
「でもアレだよ、前のムカイナリ君の時は左腕折ってるし」
「ムカイナリくんは奥さんがいたんだよ。いい男だったけど仕方がなかったねぇ」
「もっと前のランサムとかいう結婚式のバイトの牧師の時は、ちょうどいたコンビニに車が突っ込んできて」
「ランサムも気前が良かったけどねぇ。不法入国者だった。国籍目当てだった」
「そういうことじゃなくて!」
「そういうことじゃなくて? たまたまだよ、たまたま!」
 酒が回ってきたのかクロシェがいつもの勢いを取り戻している。
「だったら私は私で人を好きになるし、ミミミはミミミで事故から好きになられてるんだよ。ここに何の関係があるのかちゃんと説明してもらえるかな」
「それは――」
 あたしは無理矢理にでも買い言葉をしてやろうと思ったが、どうしても何も出ないので、半分ほど残っていたジョッキのビールを飲み干そうとした――すると、口をつけたところからジョッキがきれいに真っ二つに割れて、ビールが身体の前面にぶっかかる。
「それは――説明はできないけど、実際問題、あるんだよ。ね、ちょっと河岸を変えない?」
 流石に着替えないと、この冬の最中にやっていられない。

 新しい彼氏のヨシドメ先生はクロシェより二十五歳も年上である。
「それってお父さんと同じくらい、ってこと?」
「お父さんのほうが三つ上。お母さんと同い年」
 クロシェのことを別に尻軽女だと思ったことはないけど、フィーリングが合うと思ってから自分の軌道に巻き込んでしまうまでが非常に早い。
「でもなんか複雑なんだよね」
「なにが?」
「パパと同じくらいの齢でもさ、人によってはあっちの方がものすごいのね。ね?」
「はぁ」
 部屋に戻った。すっかり冷えてしまったので着替えてコーヒーを淹れたのだが、いつしか日本酒をレンジで温めての飲みなおしとなる。
「もうやったの?」
「もう、って、付き合って一ヶ月だよ? やるに決まってるじゃない。まず試してみてからわかるコトのほうが多いって」
 クロシェは本件についてもう少し話したそうなそぶりを見せていたが、正直面白くもなんともないので話題を切り替える。
「で、何? 結婚するの?」
「よさそうならね」
「よさそうなの?」
「今のところはね。なんかすごい、面白がってくれる」
「何を?」
「何もかも」
 あ、じゃあ、いいのかも。
 今年何度目かの記録的な寒波で、さっきまで持てないくらいだったマグカップがもう冷たくなっている。クロシェも、ということは私ももうそんな時期なのか。
 結婚なぁ、と時計を見上げると、轟音とともに凍ったマグロが天井を突き破って落ちてきた。

 引っ越すことにした。一週間ほどクロシェの家に厄介になっている間にも、あたしの身には大小様々の災厄が降り掛かってきた。さすがに「航空便から落下した冷凍マグロが家を破壊する」を超えるものはなかったが、引っ越すと同時に災厄もピタリと収まったことは喜ぶべきことである。
「ねぇ、ホント信じられる?」唯一この状況に納得がいっていないのがクロシェだ。「ママがね!? ヨシドメ先生とシちゃった、って」
「エロゲか! もしくは莫迦なのか!」
「エロゲじゃないよ! 現実だよ! 五万円貰ったから黙ってるけど」
「五万円という現実も生々しいな! いいのかよそれで!」
「よくないよ! それで問いただしたら『なんかフィーリングが合ったから』って……」
 クロシェは引越祝に持ってきた一升瓶を勝手に開けて自分で注ぎ、勢い良くフローリングの床に叩きつける。やめて。まだ下に誰が住んでいるかもわからないのに。
「もう私も家を出る。家を出てミミミと一緒に暮らす!」
「あ、いいけど……家賃と光熱費は折半だからね? もちろん携帯電話代も自分で出すんだよ?」
 うぐ、とクロシェが絶句する。赤ら顔に浮き出た青筋が時折少々グロく見えるが、まぁ基本は美人だ。美人で巨乳だ。
「それであんたのママはなんて?」
「え、今日はパパとデートだよ? なんとか温泉でしっぽりとかわけのわかんないこと言ってた」
「家族揃って莫迦だった!」
「先生は『誤解だ』って言ってたけどどーかなぁ。今度診察のときに聞いてみとく」
 もうええわ! と突っ込んだところでこの物語は終わる。
脳天鮪落とし    サヌキマオ

星に願いを
蛮人S

「あのお方と、結ばれますように」
 ルンル・ルーンは南の夜空に囁いた。先輩のボン・ボボーンを想うと胸が熱くなる。麗しのボン・ボボーン様、ハンサムでスポーツ万能、成績優秀、そして心優しいボン・ボボーン様。でも彼は学校中の女子生徒の憧れの的。少なからず内気で、目立たない女子であるルンル・ルーンに出来る事といえば、そっと夜空の星々に願うことぐらいであった。そう、人は誰でも、どんなことでも、密かに夢を囁くのは自由なのだ。
 夏の夜は、湿度を帯びつつ更けていく。星々が天に描く壮大なるアルゴーの星座の船、舳先に輝くカノープスの光、その目的の地は何処であろうか。
「あのお方と、結ばれますように」
 ルンル・ルーンはもう一度囁いた。囁いて、そっと顔を赤らめ俯いてしまった。


 惑星イズハコネーは、宇宙の彼方、大マゼラン銀河の辺境に属する地球型の惑星である。惑星の総人口、十二万七千人。唯一の陸地は山がちな大陸で、最大の都市は人口三万六千人のア・タウミ。その近郊にある小都市ユーガワーラの、駅前ビルの一角に居を構えた事務所で、いま驚愕の声があがっていた。
「うわっ、しょ、所長、一大事っス!」
「あん?」
 営業所長はマゼランスポーツの紙面から目を上げた。
「うっせえんだよコラ。お前の一大事は聞き飽きたわ」
「ほ、星のささやきファックスを受信したっス! なんと、惑星⊂⊃(地球のこと)っス!」
 所長は立ち上がった。
「なにっ、惑星⊂⊃だと?」
 地球上ではまだ知られていないが、無限宇宙にはどんな離れた相手にも、自由に言葉を送れる方法がある。それが星のささやきファックスなのである。何という奇跡であろうか、ルンル・ルーンの囁いたメッセージの思念波は、地球から遥か十六万八千光年のディスタンスを越え、このマゼラン商事イズハコネー支社、ユーガワーラ営業所の窓際でくるくる回る、受信アンテナのど真ん中にホール・イン・ワンしたのであった。
「所長、惑星⊂⊃から受注するのは、銀河系で初の快挙っスよ!」
「ぐふっ、マジかい、マジなの、マジなんだよなあ、ぐふふっ」所長は掌を拳で打ちながら頷いた。「どうやら俺たちも、運が向いてきたぜ? 逃しちゃ首の二、三本じゃ済まねえけどな! 何としても客の注文に応えるんだ。それっ、わが社のモットー!」
「星に願いを囁けば! 夢を届ける光あり!」
「さあて、ご希望商品はな~にかな? バイオマリリンちゃんの毒恋ストラップかな? 一撃で男を狂わしちゃうインパクト衛星リングかな? 二度と他の女を愛せない指向性劣化ミュータントコロン……は、初めての客にゃちょいと無理だよな? カタログ送ってないけど分かるのかな?」
「ファックス読むっス。ええっと……アノオカタト、ムスバレマスヨウニ(2回)テヘッ(*゚ー゚)>」
「……あん?」
「アノオカタト、ムスバレマスヨウニ(2回)テヘッ(*゚ー゚)>」
「……あん?」
「続きは、無いっス」
「なにそれ……」
「はあっス」
「アノオカタって誰?」
「さあっス」
「……いたずらなの?」
「……」
 沈黙を破ったのは、机を叩いての営業所長の雄叫びだった。
「わが社のモットーお!」
「星に願いを囁けば! 夢を届ける光あり!」
「星に願いを囁けば! 夢を届ける光あり!」
「惑星⊂⊃の、初めての客なんじゃあ! 俺たちが、俺たちが宇宙で初めて取ったんじゃあ! 何がなんでも、そうなんじゃあ! おいっ先生よ、アノオカタとは何者だ! 調べろ」
「おうっ」
 先生と呼ばれた部下が、宇宙データベースに端末を接続して答えた。
「現地の言語仕様によれば、アノってのは、手の届かない遠くに在ることを表す言葉だ。また、たくさんの人たちによく知られてるって意味もあるようだ」
「ふむ。手の届かない遠くところにある、よく知られたオカタかい。で、オカタって何だよ」
「オってのは、丁重さを加えるための接頭辞だそうだ」
「ややこしいんだな」
「カタってのは、この場合、一人の人間を示す名詞なんだが、特に、相手に対する尊敬の意味を含むってあるな」
「ううむ……」
「ムスバレマスヨウニとは、結婚したいってことだろう。テヘッとは……」
「いや、その辺はもう分かるから。よおし、つまりアノオカタとは」
 所長は胸を張った。
「とても手の届かないような、丁重にとても尊敬されている超有名人ってことだぜ!」

「所長、お見事な推理っス!」
「客のコミュニティに、そういう奴はいるのか」
「いわゆるひとつの神って奴じゃあねえのかな」
「それは認めない」
「じゃ、国王のズドド・ドーンが一番だな」

 ドーン・ガラガッチャ王国の国王、ズドド・ドーンは建国の父である。世界征服を企む悪の国家に捕らえられ、強力な戦士に改造された彼は、最後の洗脳から逃れて愛馬サイクロン号とともに脱出した。ズドド・ドーンは、人間の自由のために敵国と戦ったのだ。

「……しかし、この国の規律は重婚を禁じてるぞ」
「あん、結婚してんのかよクソ。じゃ、その次。結婚してねぇ奴で」
「第四王子のホドホ・ドーン……かな」

 第四王子ホドホ・ドーンは普通の人間である。偉大なる父と有能な兄の下で何苦労なく育った彼は、朴訥な外見と深く狭い知見によって、一部の国民から愛されている。ホドホ・ドーンは人間の自由な趣味のために戦うのだ。未婚である。

 所長は机の赤ボタンを押した。
「全営業機、発進スタンバイ。営業スタッフ、全員集合!」
 たちまちテーマソングに乗って、四人の営業マンが所長の前に整列した。
「いいかテメーら! こいつは、栄誉だぜ……利益なんかは度外視でい! サービス、サービス、何が何でも客の夢を叶えて来やがれ。科学営業力の粋を尽くし、全力、全速で客をアノオカタと結ばせろ! 他所の奴らにゃ死んでも出し抜かれんじゃねえぞ! さもなきゃ死ね! 分かったな」
「へい、分かりやした!」
「総員完全武装、直ちに惑星⊂⊃に飛べい!」
「うぉおっしゃあ!」
「因果リボーン砲!」
「あらよっ」
「ひとめぼれ発振装置!」
「ほいさッ」
「光学ファンデーション!」
「ガッテン!」
「昨夜の記憶チューニング回路!」
「任せんしゃい!」
「所長、すべて準備完了しやした!」
「ぐふふふ、全機発進じゃあ!」
 唸りをあげて飛び立った四機の営業機は、たちまち惑星イズハコネーを離脱、速度違反取り締まりのパトロール艇をぶっちぎってマゼランハイウェイに飛び込むや、不穏な宇宙サウンドとともに妄想空間へと消え去っていった。


 一週間後、号外の新聞がドーン・ガラガッチャの国中を舞い飛ぶ。
『ホドホ・ドーン王子、女子高校生ルンル・ルーンさんと結婚の意思』
『遅刻しそうな朝の通学路、からの衝撃の恋!』
『うっそー(王子談)』
 彼女は一躍、現代のシンデレラとして持てはやされた。誰ひとりとして、異を唱えるものは居なかった。ルンル・ルーンは突然に放り込まれた運命の、大渦巻に飲み込まれ、ただぐるぐると右左、上へ下へと翻弄の日々に茫然自失して、気づけばいつしか純白のウェディングドレスを身に纏い、手を握っては涙する親の姿まで見た日には、もはや今さら何事も言い出すさえ出来なかった。婚姻の儀式は盛大にとり行われ、パレードの車に国民たちは惜しみなく手を振り、旗を振り、歓声をあげ続けた。その中に、誰か知らない女子と並んで、祝福のメッセージボードを挙げるボン・ボボーンの姿もあるのを、彼女はしっかり見つけてしまった。
星に願いを    蛮人S

牛鍋
今月のゲスト:森鷗外

 鍋はぐつぐつ煮える。
 牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。
 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着はれぎらしい印半纏しるしばんてんを着ている。傍に折鞄おりかばんが置いてある。
 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
 酒を注いでる女がある。
 男と同年位であろう。黒繻子じゆす半衿はんえりの掛かった、しまの綿入に、余所行よそゆきの前掛をしている。
 女の目はえず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。
 目のかわきは口の渇を忘れさせる。女は酒を飲まないのである。
 箸のすばしこい男は、二三度かえした肉の一切れを口に入れた。
 丈夫な白い歯で旨そうにんだ。
 永遠に渇している目は動くあごに注がれている。
 しかしこのあごに注がれているのは、この二つの目ばかりではない。目がいま二つある。
 いま二つの目のぬしは七つか八つ位の娘である。無理に上げたようなお煙草たばこ盆に、小さい花簪はなかんざしを挿している。
 白い手拭を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、手に持ってっているのである。
 男が肉を三きれきれ食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではない。そんならと云って男をはばかるとも見えない。
「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ」
 娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて、待っている。
 永遠に渇している目には、娘の箸の空しく進んで空しく退いたのを見る程の余裕がない。
 しばらくすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。
 娘の目はまた男の顔に注がれた。その目の中にはうらみいかりもない。ただおどろきがある。
 永遠に渇している目には、四本の箸の悲しい競争を見る程の余裕がなかった。
 女は最初自分の箸を割って、盃洗はいせんの中の猪口ちよくを挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。
 娘は驚きの目をいつまで男の顔に注いでいても、食べろとは云って貰われない。もう好い頃だと思って箸を出すと、その度毎たびごとに「そりゃあ煮えていねえ」を繰り返される。
 おどろきの目にはうらみいかりもない。しかし卵から出たばかりのひなに穀物をついばませ、はらを離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸いかせる生活の本能は、おどろきの目の主にも動く。娘は箸を鍋から引かなくなった。
 男のすばしこい箸が肉の一切れを口に運ぶ隙に、娘の箸は突然近い肉の一切れを挟んで口に入れた。もうどの肉も好く煮えているのである。
 少し煮え過ぎている位である。
 男は鋭く切れた二皮ふたかわで、死んだ友達の一人娘の顔をちょいと見た。叱りはしないのである。
 ただこれからは男のすばしこい箸が一層すばしこくなる。代りのなまを鍋に運ぶ。運んではかえす。かえしては食う。
 しかし娘も黙って箸を動かす。おどろきの目は、ある目的に向って動く活動の目になって、それがしばらくも鍋を離れない。
 大きな肉の切れは得られないでも、小さい切れは得られる。好く煮えたのは得られないでも、生煮えなのは得られる。肉は得られないでも、葱は得られる。
 浅草公園に何とかいう、動物をいろいろ見せる処がある。名高い狒々ひひのいた近辺に、母と子との猿を一しょに入れてある檻があって、その前には例の輪切にした薩摩さつま芋が置いてある。見物がその芋を竿のさきに突き刺して檻の格子の前に出すと、猿の母と子との間に悲しい争奪が始まる。芋が来れば、母の乳房をふくんでいた子猿が、乳房を放して、珍らしい芋の方を取ろうとする。母猿もその芋を取ろうとする。子猿が母の腋をくぐり、股をくぐり、背に乗り、頭に乗って取ろうとしても、芋は大抵母猿の手に落ちる。それでも四つに一つ、五つに一つは子猿の口にも入る。
 母猿は争いはする。しかし芋がたまさか子猿の口に這入はいっても子猿をいじめはしない。本能は存外ぞんがい醜悪でない。
 箸のすばしこい本能の人は娘の親ではない。親でないのに、たまさか箸の運動に娘が成功しても叱りはしない。
 人は猿よりも進化している。
 四本の箸は、すばしこくなっている男の手と、すばしこくなろうとしている娘の手とに使役せられているのに、いま二本の箸はとうとう動かずにしまった。
 永遠に渇している目は、依然として男の顔に注がれている。世に苦味走ったというたちの男の顔に注がれている。
 一の本能は他の本能を犠牲にする。
 こんな事はけものにもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。
 人は猿より進化している。

(明治四十三年一月)
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