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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第37回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
田山花袋
2579

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

ハミルトンの鯨―急
サヌキマオ

 親愛なるお嬢様

 今やコオルリッジ夫人とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか。それはそれぞれの地方における慣習に免じていただくとして、なによりもまずはご結婚おめでとうございます。また、結婚式にお呼びいただいたことを大変嬉しく思います。
 この手紙を受け取れる日が来ようとは思ってもみませんでした。もちろん、お嬢様が素晴らしいご主人と出会えたことを思ってもみなかったのではなく、私をこのような晴れの場に呼んでいただけることをこの上ない僥倖と考えているのです。くれぐれも誤解なきようお願いいたします。
 運命とは不思議なものです。話のついでに昔話をしてしまいますが、あの当時、ハミルトンの城が崩落した夜に、あなたが「鯨が来てどうなるか」を教えてくれなかったら、私達は今頃城の周辺を亡霊になってさまよっていたことでしょう。この件に関しては、聞いた私も多少の栄誉に預かれるのではないかと自負しています。鯨はこの地下牢に来て、みんなを楽にしてくれる――「楽になる」とは? 子供のいうことにそこまで問い詰めるのは厳しいと考えた私は、旦那様と奥様に手紙を出しました。
 旦那様と奥様は、決してお嬢様のことないがしろにして働いていたわけではありません。城から運ばれていく品物のうち、半分はロンドンに向かっていました――ええ、ご存知のとおり、旦那様は城を棄てて市街に移り住もうとしていたわけです。



 どこから来た石だろう。知らない土の匂いがする。
 四百九十五年の命を終えたハミルトン城の跡地に――といっても、城のあった場所は単なる崖になってしまったのでその近所に、城跡を示す碑が設けられた。こうなってしまうと城も住んでいた人も繋がれていた人も過去のものとなる。
 マアサもセルバンデスの親父もすっかり見かけなくなった。相変わらず亡霊である俺も俺とて、あたらしい碑の座り心地を試す以外にはただぼうっとしていた。だが、今日はなんだか晴れやかな気分だ。天気のいいのが体に沁みるような、このまま青空と一緒になって消えて無くなりそうな……いや、違う。
 夜明けから、十年ぶりの顔を見た。新しい情報が少ないから、過去のことはよく覚えている。農夫娘の格好で足元を泥だらけにしているが、こいつは間違いなくかつてあった城で働いていたメイド、柿だ。柿はシャベルと逆の手に持っていた薄汚れた金属を――なんだろう? 碑の前に置いた。柿は石碑の前でしばらく佇んでいたが、思い出したように肩にかけていたカバンから煙草を一本出して火を付けた。東風が吹いた。俺のよく知っている匂いだった。
 全て合点がいった。
(はははは)
 これほど俺の声が相手に聞こえればいいと思ったことはない。
(シャロンか)
 俺の娘は一服だけ吸った煙草を踏みにじると、おもむろに穴を掘り始めた。娘が穴を掘っている間、俺は地面に転がった腕輪をまじまじと、いや、見なくても判る。娘の母親が働いていた店で買ったやつだ。どうしても彼女に気に入ってもらいたくて、一番高いやつを買ったんだった。
(そうか)
 俺は手で自分の顔を撫で回してみる。すっかり忘れていたが、眼の前の落ち窪んだ目や頬、薄い唇はまさに俺の顔じゃないか。
 こいつ、いくつになったんだろう。少なくとも、俺が死んだ年よりはずっと生きている気がする。シャロンは掘った穴に腕輪を埋めると、しばらく両の手を組んで祈っていた。この祈りは誰への祈りだろう。神様だろうか。それとも、俺にだろうか。祈ってくれなくても、俺はお前が生きていたというだけで十分なのに。今どんな格好をしていて、どんなことをしているかが判っただけでも御の字なのに。シャロンよ。お前はそうか。どうにかして俺の死体を助けようとして城にいたんだな。
 しかしいい天気だ。どうにかして娘に俺の存在を知らせたいと思った。どうしたらいいだろう。腕輪はまた俺の腕に戻ってくれるだろうか。俺は土に潜って腕に腕輪を充てがってみる。うまくいかなかった。どうしたらいいだろう。とても焦っていた。自分でも判るくらいに、かつてあったところに心臓の記憶だけが激しく律動している。そうだ、これだけ心が震えているのだから、きっと届くに違いない――最後に娘のことを抱き寄せたのはいつだったかな。
 俺の腕に背後から抱きかかえられた娘ははっと筋肉をこわばらせた。顔なんか見えなかったけど、泣いているのなんてすぐに判る。娘だもの。


 親愛なるシャロン"柿"ホーキンス 様

 返信を、しかもこんなに早くいただけるなんて! 夢かと思いました。しかも貴女、シャロンというのが本当の名前なんですね! 父や母がどうして貴女の本当の名前を教えてくださらなかったのかはわかりませんが、でも、本当の名前を知れたのは何よりです。今後会ったら是非シャロンと呼ばせてください。

 あれから。昔だったら「どれからですか」と突っ込まれてしまうところでしょうが、城から逃げた成り行きでハンバーズ・ショアーの街でしばらく過ごして、私は独りポットウォールの寄宿学校に住まうようになったのはご存知のとおりです。あれからこの方、あの「鯨」はたびたび私の夢に出てきては世界中のあちこちに連れて行ってくれるようになりました。腰の高さほどのクローバーが生い茂る野原の上、いろいろな高さの塔が延々と立ち並ぶどこかの商都。遥か空から直接滝が降り注ぐ湖畔。中でも頻繁に訪れるのはずっと霧や雨に包まれた崖沿いの街で、私はシャロン、やはりパーシモンと呼んだほうがしっくり来ます――柿と私でカフェにいて、チーズ付きパンとアイスクリームを食べている。もう私達は従者と主人ではなくて、姉妹のようで。とても幸せな夢を見ることが出来ていました――この話がどこに着地するのか、読んでいる貴女も困惑されていることかと思いますが、もう少し読んでください。つまりは、私が寄宿舎で知り合いを、友達を増やすたびに鯨と遊びに行くことはなくなっていったということを報告したかったのです。私の夫となるジョン・コオルリッジは私の同室の親友、オリビエのお兄様です。私とオリビエは周りからも本当の双子の姉妹みたいだと言われていましたし、私達もお互い、ずっと一緒に暮らしたいと思っていました。そして、そう、鯨です。あれが最後の、最後の鯨だったのですが、私がクジラに乗って南洋の海に出かけていると、とてつもない大雨がありました。誰がどう考えても危険でしたので(夢なのに!)私は鯨の口の中に避難させてもらうことにしました。すると、先客に男の人がいたのです。信じられますか? それがまさか、親友のオリビアのお兄様だったなんて!


 娘の肩越しに読んだ手紙の長いこと長いこと。それよりも娘だ。お前、今はどうやって生きてるんだ。俺はこうしてこの辺をうろつくしかないのだが、もしかして、俺がいるということをわかった上で、こんなところで手紙を広げだしたのかな。そうだとしたら大したものだけれど。
「お父さん」
 いきなり呼びかけられて肝をつぶした。お前まさか、ホン――
「聞こえておいででないかも知れませんが、一応申し上げます。もうここには着ません。私はお嬢様の結婚式が済んだらアメリカに渡ります。鯨の最後の伝言で――鯨が無事に渡してくれる、と、お嬢様がおっしゃるので。では」
 シャロンの後ろ姿を見送りながら「鯨が言うんじゃしょうがない」と思う。
ハミルトンの鯨―急    サヌキマオ

デモンドライバー
アレシア・モード

 歌えよ、ミューズ! 我が怒りを!
 我は知る……エアコンの、内に潜みし悲しみを。涼風に、交じりて聞こゆ慟哭を。その声は、生まれは悪魔の身と云えど、年端も行かぬ子供らの、救いを求む嘆きなり。
 幼子を母の腕より引き剥がし、闇の底にて虐げる、科学の非道を明かさんと、まずは彼らに課せられし、辛き労苦の姿から、ことのはじめと吟じよう……


 エアコンの中にある、時と空間を超越した作業場。そこでは数十人の小さな姿が、果てしれぬ流れ作業を懸命に続けていた。
 見たところ、彼らはみな子供だ。ただ、その肌は赤黒く、頭には二本の角が覗く。垂れた尻尾は、床近くで力なく揺れていた。子供らはその技能と、彼らを管理する工場長の名前に因んで『マクスウェルの悪魔』とも呼ばれていた。
 幼い彼らの目の前に、ごろごろと流れ続けるのは『熱の川』だ。その実体は空気の分子……窒素、酸素、二酸化炭素……勢いつけて転がる無数の分子の球の流れだ。子供らは、この熱くて重い球を、規則通りに選別していた。すなわち高い熱を帯びた分子があれば、素早く手で掴んでは回収レーンへ落とすのだ。この工程を大勢で回すことで、部屋の空気は熱い空気と冷たい空気に分別される。これがエアコンの原理だが、子供らはそんな仕組みは知らないし、知る必要すらなかった。彼らの頭の中は、ただ眼の前の作業だけで一杯だった。焼けた指先が痛んでも、時に勢いづいた球の間にその指を挟まれても、作業の手を休めることは許されない。ここでは、工場長マクスウェルと、その指示を伝える表示板だけが絶対の掟であった。
 電鈴の音が短く三回、構内に響き渡った。子供らは頬を強張らせ、反射的に顔を上げ、正面上方の表示板へと目を遣った。そこには大きな文字で2と6の数字が点滅している。目標温度が26度に下げられたのだ。これはもちろん作業の増大を意味する。数字は五回点滅し、画面表示は作業達成率へと戻ったが、もうその時には子供らは、みな何事も無いかのように自分の作業を続けていた。追い立てられたその手の動きが早まる。だが表示板のグラフ……達成率の曲線は上下にふらつき、平行線を維持するだけで精一杯だった。やがてグラフは下降の兆候を見せ始めた。
『ああ、ああ。だめじゃ、だめじゃ!』
 突然、マクスウェルの枯れた声がスピーカーから流れた。
『これじゃ、いつまでたっても目標は達成できぬわ』
 工場長マクスウェルは、二階にある管理室の窓から、常に子供らの作業を見ているのだった。
「ふん、みんな、だれておる」
 マクスウェルは嘆息しながら、なぜか楽しげにマイクを置いた。
「もう少し、やる気を見せて貰わねばな……」
 マクスウェルの手が操作卓のダイヤルへと伸びた。これは彼が発明した、電磁波発生装置である。マクスウェルの唇が、深い白髭の奥で微かに歪んだ。
「ほい」
 マクスウェルがダイヤルを右に廻すと、構内の子供らが一斉に、きゅうううという甲高い声を上げた。マクスウェルの発する電磁波は、悪魔たちの頭の中に作用して苦痛を与え、彼らを支配するのだ。彼はこの研究でノーベル経済学賞をも受賞していた。
「うふ、うふふ」
 マクスウェルは愉悦の笑みを浮かべながら、ひとぉつ、ふたつとゆっくり数え、三つ数えた所でダイヤルを元に戻した。
 構内から溜息のような声が幾つも漏れる。
「うむ、楽になったかな。よしよし、みんな良かったな。さあ、また仕事に精を出そう」
 子供たちの心は、抗し難い苦痛からの開放を、一時的な『報酬』と感じるまでになっていた。これをモチベーションとして作業を継続させることにより、マクスウェルは実際に何ら報酬を与えることもなく、局所的に作業のポテンシャルを高めることに成功したのだった。
「これぞ、マクスウェルの方程式! 我ながら素晴らしい才能じゃ……」
『そうして悪魔たちを酷使し、私腹を肥やしていたのね。ドクター・マクスウェル……』
「なにっ、何者じゃ」
 マクスウェルは窓に顔を寄せ、構内を覗った。謎の声は構内のスピーカーから流れている。
『エアコンの中では捕まった悪魔たちが、泣きながら空気を冷やす仕事をさせられている! 悪魔たちの給料は一日たった一本のキュウリの魂だけ! エアコンの発明者J・C・マクスウェルは悪魔たちが逃げたりサボったりしないよういつも観測している! 恐怖心を植え付けるため時々無意味に電磁波を与えたりする!』
 子供たちもすっかり手を止め、辺りを見回している。
『悪魔のほとんどは子供で、お父さん、お母さんに会いたいようといつも泣いている! 睡眠時間もほとんど与えられず、逆らうとキュウリを減らされる! こうして人件費を大幅に抑えることで、エアコンは安くて涼しい風をみなさんに提供できるのです!』
「ば、馬鹿を言うな! 貴様は誰じゃ、姿を現せ!」
「ここよ、ドクター・マクスウェル、科学を悪に使う者め」
 作業表示板に三方からスポットライトが当たる。その上には右目を眼帯で覆い、ハンチングを被った女が一人。
「むうっ、お前は確か、最近雇ったおかしな運転手の、えっと、誰じゃあ、お前は!」
「ふっふっふ……あーはっはっは! ある時は片目の運転手、ある時はアラブの運転手、またある時はニヒルな運転手……而してその実体は! とおっ」
 ジャンプした女の体が光に包まれ、神秘のシルエットが肢体を伸ばす。輝くパーティクルとともにアイテムが飛び出し、くるくる回る色彩の中でドレスがポンッと花開くや、流れる髪が拡がったりカールしたりして、それからえっと、ハートのブレスレットが輝いて、そんでもって、銀の剣を構えた美少女戦士がすくーと立った。
「愛の運転手、アレシア・モードさ! はい、♪シャン♪ラン♪ラランラ、♪シャランラン、どどん、ウワーオ!」
「あのお、それ古すぎです……」
「愚か者め、わしは全ての悪魔を電磁波でコントロールできるのじゃ。いでよ、魔将軍ヒドー、妖元帥ザンコック、魔先鋒サイアーク、三人であの美少女戦士を八つ裂きにするのじゃ。一人およそ二裂きと七分目じゃ!」
「アラホラサッサー!」
「あのお……」
「何よ、さっきからうるさいわね」
「それ……いつまで続くんですかあ、アレシアさん」
 助手席の馬鹿が何やら縋るような目で見つめてくる。右手に団扇、左手にアクエリアスのボトルを握るその姿は、何かを置き忘れたまま大人になったらしい彼には似つかわしく見えた。真夏の陽射しの中、車は渋滞に嵌っていた。
「文字数が埋まるまでよ。違うわ。違うのよ。私は君に伝えたかった。エアコンの非人道性を、私がなぜエアコンの使用を躊躇うのかを。これが君への愛よ。惚れ直したかな」
「この暑さで渋滞で車でエアコン使えない方が非人道的です……て言うか、躊躇ってるんじゃなくて壊れてるんでしょ、エアコン……」
「ああ、これだから(馬鹿は困るんだ)。壊れてはいない。私のアホのヴィータちゃんは毎年ガスが抜けてるだけさ。まあ今年は入れてもいないけど」
「入れてくださいよー。走ってる間はまだしも、止まったら僕死んじゃいますぅ」
 馬鹿とは言え、死なれてもまた困る。団扇と足をじたばたさせて子供のように駄々をこねる馬鹿。エアコン駄目なの知ってるなら、最初から私と車に乗らなきゃいいのに。とか言うのは可哀想か。
「ああ、ああ、わかった。日が暮れるまでどっか良い処で休みますよ~」
「うわーい♡」
デモンドライバー    アレシア・モード

庖丁
今月のゲスト:田山花袋

 庖丁の柄ばかり縁側に落ちて居たのを母親は手に取って、
『庖丁をどうしたい。また、お前、何処かへ遣っちまったんじゃないかえ?』
『知らない、知らない』
 と八歳ばかりの男の児はかぶりを振った。
『知らないじゃないよ。本当に、此の子は仕方がありゃしないよ。また何処かに遣ったんだねえ、此の子は?』
『知らない、知らない』
『だって、此処に柄が落ちてるじゃないか、お前より他に庖丁なぞを持ち出して悪戯するものはありゃしない。真ちゃんだって政だって……』
『知らない、知らない』
 と男の児はやはり頭を振った。
『後生だから出してお呉れよ。この児は本当に強情で仕方がありゃしない。誰れに似てこんなにたちが悪いんだろう。亡くなった父さんだって、兄さんだって、お前のような性の悪いものは家には一人もないのに……。よう、後生だから、お出しよ。隠してなど置かないで、出してお呉れよ。小言などおつかさんは言いはしないからさ。……おつかさん、芋の皮をむかなくっちゃならないんだから』
 と苦々しそうに、腹立たしそうに言って、鼻洟はなを垂らして黙って低頭うつむいて居る男の児を小突き廻した。
『よう、お出しったら』と言った母親の聲は尖って顔は赤かった。男の児はなお黙って居るので、母親はいきなり懐の中に手を入れてさがし廻した。ふところの中からは草と折紙と一銭銅貨が出た。
『ありゃしない! ありゃしない! かあさんの馬鹿!』
 男の児はとうとう泣き出した。口を半分開けて、眼と鼻と額とを一つに寄せて、わァわァ聲を立てた。終いには、
かあさんの馬鹿!』
 と泣きながら手を挙げて打ちにかかった。
『呆れた児だ。お前はおつかさんをつ気か、好い気になりやがって……』と母親はむらむらと癇癪を立てたが、思い返して、『本当に、好い児だから、出してお呉れよ。おかずを拵えるに要るんだから……』
『知らない、知らない。かあさんの馬鹿!』
 そこに老人としよりが来て、
『お前はまたなぜ子供を泣かしてるんだえ……日が暮れる時分には、そうでなくってさえせわしいのに、子供を泣かして、一緒になって、ケンケン言って居たッて
仕方がない……』
『でも此の子は庖丁を隠して出さないもんだから』
『庖丁をかくした?』こう言って男の児のそばに寄って、『本当にさだや知ってるんなら、出さなくっちゃいけないよ。かあさんがおかずを拵えるので要るんだって言うからな、好い児だから』
『知らない、知らない』
 と男の児は泣きながらかぶりを振った。
『知らないッて言うものを折檻したって仕方がない、其処等に落ちているんじゃないか、よく探して見る方が好い』
 老人としよりは腰を曲げて、四辺あたりみまわした。庖丁の身は何処にもなかった。
 母親はぶつぶつ言いながら、庖丁の柄を持って、勝手元に行った。小さい竈には汁の鍋が懸って、火が燃えて居た。俎板の上には、里芋の入った味噌漉しが置かれてあった。
 母親はむき憎い思いをして、小刀で里芋の皮を剥いた。

 しばらくすると、その男の児の姿が、裏の畑に見えた。
 もう日が暮れ懸かって居た。畑には蚕豆そらまめが熟して居た。唐蜀黍とうもろこしの二尺ほどになったのがガサガサと夕風になびいた。
 落ちた栗の花が地上に白く見えた。
 男の児は唐蜀黍を分けて、蚕豆の畑の中に入った。四辺あたりみまわしてから、体を低くして、蚕豆の畝の柔らかくなって居る土を掘った。何をするのか解らなかった。
 やがて男の児は其処から出て来た。裏に廻ると小屋があった。その中には沢庵を漬けた桶や薪や炭俵がごたごたと入れられてあった。味噌桶の臭気が強く鼻を衝いた。男の児はその小屋の入口の壁にひったりと顔を寄せて、一人で悲しそうに歔欷すすりあげた。涙が留め度なく出る。よごれた筒袖で、拭いても拭いても出る。終いには涙にぬれた手で、壁に字を書き出した。

 庖丁の身は何処へ行ったか解らなかった。新しい庖丁が町から買われた。けれど母親はその使い慣れた庖丁の無くなったのを悔んだ。その庖丁は亡くなった夫が若い頃大阪に在番に行った時に、堺から土産に買って来たもので、いろいろの記念があるばかりではなく、切れ味がすぐれてよかった。柄が悪くなると、幾度となくつけ更えて使って居た。少なくとももう二十年近くになる。歯の中央が湾形をなして居るのを見ても、主婦には離れかたない馴染のほどが想像される。母親は新しい庖丁を手にする度に、その古い庖丁を思った。
 『何処に行ったんだろう。不思議なことがあるものだ。定が持ってるんなら、いつか出て来そうなもんだが――出て来ないのを見ると、やはり定がどうかしたんじゃないのか知らん。不思議なことだ』
 こう幾度も思った。
 けれどその心も薄らいだ。新しい庖丁に慣れると共に、古い庖丁のことは段々忘れるようになった。

 初秋の晴れた日のことであった。
 蚕豆の畝の間に作った小豆も熟して、二三日前に収穫とりいれて了った。跡には漬菜をまこうと思って、母親はせっせと畑を耕して居た。もう大分耕されて三ばかりのはたには、新しい土の臭いが充ち渡った。母親は襟にけた手拭を取っては、鋤の手を留めて、おりおり額の汗を拭いた。
 傍らには栗の木が涼しい蔭をつくって居た。新しい荒筵あらむしろ陶器せとものの小さい火鉢、其処には蛍のような火種が生けてあって、母親の煙草盆と煙管とが置かれてあるが、男の児はその傍で跣足はだしで遊んで居た。草や花を取って来て、筵の隅に並べては、一人で余念なく独り言を言って居た。
 せっせと耕して居る母親の鋤の刃に、ふとガチリと音がしたものがあった。例の石と思って、取り除けようとして、手を其処に遣って見ると、思いもかけぬその古い庖丁の身が出て来た。錆びて、汚れて、赤くなって……。
『まァこんな処に』
 と母親は思わず聲を立てた。
『定や、庖丁がこんな処に』
 男の児を呼んで見せた。
 男の児は黙って顔をあかくして低頭うつむいて了った。その秘密をすっかり読まれたような気がした。
『誰がまァこんな処に放って置いたんだろう? こんなに錆びちゃって……』と母親は庖丁の身の泥を落として『本当に誰だか知らないけれど、使い忘れて、こんな処に放り出して置いたんだね』
 母親は不思議には思ったが、しかしこれが八歳の男の児のしたこととは思わなかった。まして物置の壁に顔を押しつけて泣いたなどとは夢にも知らない。
 古馴染の庖丁は新しい柄をつけて再び主婦の手に使われた。男の児はその掘り出された時の心地を大きくなるまで忘れなかった。