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第38回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
メディタラニアンのまだ見ぬ青 伊勢 湊 3000
母と子と 太郎丸 3000
生者の行進 ごんぱち 3000
『神話創造』 橘内 潤 2838
書かれなかったスコアもまた、スコアの一部である るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
震える指先 lapis. 3000
カエル・キッド THUKI 3000
オフェリア 詠理 3000


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エントリ1  メディタラニアンのまだ見ぬ青   伊勢 湊



 別れは唐突だった。
 彼女が何か美味しいものが食べたいと言い出して、僕たちは地中海風シーフード料理店に行った。どうして海に囲まれた日本でわざわざ地中海風のシーフードなのかにはいささか疑問はあった。魚介類が食べたければ、その辺のちょっとした料理屋でヒラメのお造りとか、あんこうの肝だとか、金目鯛の煮付けだとか、探せばきっとマグロの目玉の煮付けだって、車えびの踊り食いだって手に入る。地中海風だと安いのかとも思ったが、そんなふうでもない。僕は地中海風とは実際なんなのか分からないまま、ネクタイを締めてお洒落をした彼女とお店に入った。
 なるほどワインは美味しかった。料理はまだ出てこない。
「地中海風っていうのはワインに合うってことなのかな?」
 正面の彼女はなかなか綺麗に思えた。僕の好きな青を基調にしたドレスのせいかもしれない。
「分からない。でも心配はいらないわ」
「どうして?」
「ソムリエに来てもらって、このワインはこちらのお料理によく合います、って言ってもらえばいいから」
「なんだか僕たちは味が分からない人みたいだね」
「そんなことないわ」と彼女はそれを確かめるようにワインを口に含んだ。
「だって、合うか合わないかなんて絶対的なこと分かるはずがないの。たぶんソムリエという人たちは歴史を通して選ばれた大多数意見を表現する代表なのよ。だから指標になる。もしそれがただのワイン好きの言葉なら私は耳も傾けない。どんなにまともなことを言ってもね」
 なるほど知らなかった。ソムリエというのはその技術如何に関わらずなかなかの信頼を集める職業らしい。
「でもね、私の舌は私だけのものなの。だから美味しい美味しくないで他人にあれこれ言わせない」
「好き嫌いも含めて?」
「そう。好き嫌いも含めて。もし私に無理矢理アボカドを食べさせようとする人がいたら、武器を取ってでも闘うわ」
 それがピーマンだったら共感できるのにと思いながら、サラダかなにかの中にアボカドが入っていないことを祈った。

 少しして彼女はトイレに立った。それと入れ替わるように料理が運ばれてきた。それもなぜか一度に。小海老のカクテルには願い虚しく見事に小さく四角に切られたアボカドが入っていた。海草と野菜にスモークサーモンやイクラやホタテがトッピングされた豪華なサラダ。地中海風というか北海道風にも思えるがなかなか美味しそうだ。それから焼いたロブスターにバターソースをかけたやつとか、車海老に白身の魚を巻きつけて蒸したものとか、ソテーされた魚とか、蟹のムースとか、見た目はただのコンソメなのに魚介類の香りが立ち上るスープとか。いろいろ。
 注文は彼女がしていた。僕は見ても分かりそうにないので黙っていたが、どれもなかなか美味しそうだった。ただ小海老のカクテルだけはがっかりするだろうなと思った。
 しかしその心配は必要なかった。彼女はいつまでたっても戻ってこなかった。

「すいません」
 僕はどことなく店の重要な地位にありそうなフロアスタッフに声をかけた。蝶ネクタイを締めた落ち着いた雰囲気のスタッフが「なんでございましょう」と側に立った。
「ええと、彼女がトイレに行ったっきり戻ってこないんだけど」
 蝶ネクタイの彼は動揺一つ見せずに「では女性スタッフに点検に行かせます」と言って立ち去った。僕はどうするべきか決めかねて、目の前で少しずつ冷めていく料理を眺めていた。やがて蝶ネクタイが戻ってきた。
「お客様。レストルームのほうには現在どなたもおられないようです。特に変わったこともないとのことでございます」
 僕はレストルームということ言葉とトイレという空間を結びつけるのに少し時間を要した。
「トイレには誰もいないし特に変わったこともないけど、ただ彼女はいないということだね」
「左様でございます」
 蝶ネクタイは彼女の服装もいなくなった時間も何も聞かず、ただ決定事項を伝えるようにそう言った。それ以上、彼女の行方について聞いても無駄だと直感的に思った。僕は質問を変えた。
「料理は彼女が注文したんだけど、一度に全部持ってくるようにオーダーしたのもやっぱり彼女なのかな?」
「左様でございます」
 僕は一息ついて、少し考えて、そして口にしてみた。
「つまり、あらゆる意味で彼女は大丈夫だということだね」
「左様でございます」
 僕は目の前に並べられた美味しそうな料理を、それ以上冷めてしまう前に片っ端から食べ始めた。

 その夜、僕は彼女のいない一人の部屋で満腹感に包まれて眠りについた。まったく計算し尽くされた素敵な食事だった。味もさることながら、それは欠けているところが微塵もなく、かつ気持ち悪くなるような過剰な部分もない、心地よい眠りを誘う幸せな満腹感だった。ほんの一瞬、僕の満腹感まで計算してくれた素敵な彼女の顔を思い浮かべかけたけど、カーテンを揺らす風に包まれて何も考えられなくなり、やわらかい世界の狭間で、見たことのない地中海の空気とか海の色とかを感じ、それを意識に捉えようとすることすら怠惰で、ただ沈んでいった。

 その後、彼女が戻ってくることはなかった。引越しをするのが面倒くさくて僕はその部屋に住み続けた。彼女は服も写真も飼い猫さえも全て置いて行った。クロと呼ばれるその黒猫と僕はあたかもその部屋の付属物のようで、クロはそのマンションの四階の部屋から文字通り出ることはなかったし、僕はただ会社と家を往復した。
 もう誰かと地中海料理を食べに行くこともなく、女物の服や二人で写った写真がそのままになっている部屋に誰か他の女の子を連れてくるわけにもいかず、でもそれらを片付ける気も起きなくて、僕はただ静かに深夜放送の古い映画を見ながら季節を過ごした。
 ある日見た映画は冬のギリシャを舞台にしていた。時間を飴のように引き延ばした怠惰な映画だったが、冬の地中海の景色だけは印象に残った。灰色の雲の下、日本海と変わらない荒れた海だった。フォルムだけは観光パンフレットにあるそれと同じで、それが余計寒さを引き立てた。
 大抵は映画を見ながら猫と一緒にソファーで眠った。そこはたぶん地中海の海の底と同じで、例え冬でもほんのりと暖かかった。

 季節が巡り、猫が死んだ。ソファーの上で目を覚まし、動かないクロを撫でた。既に冷たかったが、毛並みは相変わらず素敵で撫心地も最高だった。それから顔を洗って歯を磨いて会社に電話した。他にやることもなかったので僕はそれまで会社を休んだことはなく、風邪をひいたと言うと上司は心配そうに「お大事にな」と言った。
 押入れの中から園芸用のスコップを探し出し、猫と一緒にカンバス地のバックに入れて近所の河原へと歩いた。河川敷の公園の一角に、その場に不似合いな背の高い木があったので、その根元に猫を、クロを、埋めた。三十分もかからなかった。
 やがて追いつく感情から逃れる術を、あるいは同化する術を僕は既に学んでいた。近くの本屋で写真入の料理の本を買った。それを片手に広げてスーパーであらゆる食材を買った。両手一杯の食材を持って家に戻り、味はともかく見た目は豪華な数々の料理を作った。出来上がるとなんだか満足してしまい急に睡魔が襲ってきた。目覚めるとテーブルの上の料理がなくなっていることを祈りながら、でもやがて祈ることさえ怠惰で、僕は限りなく漆黒に近い地中海の青に沈んでいった。





エントリ2  母と子と   太郎丸



 出勤前に化粧していた私に、息子の拓也から電話が入った。
「電車に乗り遅れた」
 それだけ言うと黙っている。
「家に戻って来なさい」
 私は化粧を止めると、今日は午前休を取る旨スーパーに連絡してから、学校には調子が悪いので拓也を休ませると連絡をいれた。
 最近の拓也は少し変だった。高校に入って始めての電車通学で少し遠かったせいもあったのだろうが、入学して2週間程たった頃から、あんなに明るかった拓也が全然笑わなくなってしまった。
 最近では折角作った弁当に手さえ付けず、小遣いだって無いはずなのにどうしているのかいくら問い詰めても、反発するばかりで何も聞き出せない状態が続いていた。
 しかも最近は学校なんか行きたくないといっている。
 そんな拓也に私は、高校ぐらい出なくちゃ力仕事くらいしか出来ないんだよ。そう言い続け、高校だけは出るように説得し続けていた。
 電車に間に合わない時間に家を出ているわけではない。とにかく何があったのか何故変わってしまったのか、今日こそは聞き出さなければ…。

「いったいどうしたっていうのよ!」
 玄関を開けた途端に、私は帰ってきた拓也を強く問い詰めた。
「それが…」
「とにかく…、お入りなさい」
 私はきつく問い詰めてしまった自分に驚きながらも、拓也を台所に座らせると、お茶をいれた。
 拓也は始めはほんの少しづつではあったが、話すうちに気持ちが段々軽くなっていったのだろう。最後にはすっきりした顔になって、全部話してくれた。

 私達が住んでいる所は、学校の場所から比べれば少し都会である。元々が田舎の事だから、都会者と思われる程の都会ではないけれど、この辺りからその学校へ通学している者は少ない。拓也の持ち物でさえ、そんなに立派な物ばかりとは言えないが、どうやら学校のみんなとは少し違うらしい。そんな些細なことからイジメにあい始めたのだという。
 昼休みにはみんなから逃げる為に保健室に隠れてしまうので、弁当を食べなかったという。最近ではクラスの中だけでなく、他のクラスや上級生などもやってきているという事だった。
「いじめられるのが悪いんじゃなんだよ。いじめる方の心が悪いんだからね」
 拓也の話を聞くうちに頭に来てしまって私は、まだ会った事もない学校の担任に直ぐに電話をいれた。
「判りました。直ぐに調べさせて頂きます。他のクラスにもそういう生徒がいるかも知れませんし、学校としてきちんと対処させていただきますので…」
 そう話す先生の態度は真摯的で、心のこもったものに感じられた。
「大変申し訳ありませんでした。そういう事実が確かにあったようです。早い時期に判って助かりました。つきましては拓也君には、本人が落着くまで学校は休んでも構いませんので…」
 仕事から戻ると、そういう連絡があった。
 しかし当の拓也は話したせいですっきりしたのだろう、明日は学校へ行くとケロッとしていていたが、流石に明後日からは週末で休みでもあったので、翌日は休ませた。
 結局翌週から、拓也は学校へ通い始めるようになった。
「学校の方はどうなんだい?」
 そう聞く私に拓也は、「えっ? 普通だよ」そういっては、何もなかったかのようだった。
 片親だけの家族ではあるが、拓也も親に心配かけまいとしているのだろう。それからも学校での事などをキチンと話すようになっている。学校では柔道部に入って、裸足でランニングさせられるとボヤいていたが、どうやら拓也がイジメられる事は無くなったようだ。
 そして家には、笑いが戻ったきた。

 しばらく経ったある日、仕事先へ学校から電話があった。学校から今日は来ていないという連絡だった。私は仕事場から休憩時間の度に何度も拓也の携帯に連絡したが、それでも連絡が取れなかった。
 家に帰っても、いつもは私より早い拓也は帰っていなかった。警察に届けるべきだろうか、心配しているところに、何事も無かったように拓也が帰ってきた。
「もう。何やってたのよ!」
 もちろん私は怒った。最近はイジメられなくなったと聞いていたのに、今度はいったいどうしたというのだろう。
「今日は終点の駅まで行っちゃったんだ…。携帯? ああ電池切れ」
 拓也はカラッとしていた。
 何でも、同じ駅から別の高校へ通っている人がいて、彼もイジメられているのだという。電車が同じで方向も同じなので声をかけた拓也は、彼に遠くへ行きたいと言われ付合ったらしい。しかし二人共金があるわけも無く、行く宛てさえ無いものだから、電車で行けるところまで行った後は、結局定期のある駅まで歩いて戻って来て遅くなってしまったのだという。
 私は安心したのと、拓也の友達を思う心が少し嬉しくて「ばっかだねぇ」そう言って涙を拭った。
 しかし彼は父親の仕事の関係で引っ越す事になり、友人とはなったが、イジメは無くならないままに転校してしまったらしい。

 それから一月程経って、行くつもりのなかった始めての父兄参観に私は出席した。
 もし学校側がイジメを隠そうとしていたりしたら、今の拓也はなかったろうし、私だってここには来ていないだろう。あれからも元気に登校している拓也の学校の状態も見ておきたかったし、担任の先生にもやはりお礼が言いたかった。
 辺り障りのないことばかりを言っている父兄達の挨拶で、私は少し頭に来ていたのだろう。始めは言うつもりも無かったのに、拓也がイジメられていた事を話すと、担任の先生もそういう事実があった事を補足してくれた。
 聞いていた父兄達は唖然としていたが何の反応も無かった。うちの子はそんな事には関係ないはずだ。そう思っているのかも知れない。確かに私だって拓也がイジメられなければそう思ったかも知れない。
 世の中なんてこんなものなのだろう。そう思いながら解散して帰ろうとしていた時に、一人の女性が近づいてきた。
「家の息子が、イジメていたかどうかは判りませんが、イジメの仲間に加わらなかったとしても、それは同じ事です。見て見ぬふりをしていたという事は、申し訳ないことです。本当にスイマセンでした」
 深々と頭を下げる始めて見る誰かの母親の姿を見ながら、私は少し胸が熱くなった。

 お袋は俺に構い過ぎだ。いくら後妻で父親と死別しているからといっても、本来なら夫へ注ぐべき愛情も俺に注いでいる。
 今回のイジメに関しては、上手く対処して貰えたから嬉しかったし、生活する為にパートを2つ掛け持ちしてもいるのは大変だと思うし感謝もしている。
 それにお袋は一般的に言っても魅力的な女性だと思うし、まだ若い。パート先でも人気があるようだし、近寄る男性も何人かいるようだが、軽くいなしているらしい。
 だけど、いまだに一緒に風呂に入ったりするのは少し抵抗がある。俺だって男なんだからな。大人の女性の裸なんか見たら、下半身が反応してしまうのは仕方ないじゃないか。それを笑って「あらっ、大きくなっちゃった」はないだろう。
 それに俺に背中を流させないでくれ。いくら母親だって、我慢出来なくなってしまいそうになる。俺よりも狭い白い背中から覗く柔らかい胸の膨らみや、翳っている茂みを見ると、いつ襲ってしまいそうになるか自身がなくなってしまう。
 こんな俺は変態なのだろうか。とても人には言えない。
 良い母親だとは思うが、いつまでも子ども扱いされるようで「ボクちゃん」という呼び方も止めて欲しい。




エントリ3  生者の行進   ごんぱち



「……水銀八リーヴル、ルリヂシャの汁二リーヴル、それから……」
 松島咲雄は、巨大なホーロー鍋で材料を煮詰めていく。
 焦がさぬよう、冷まさぬよう、ガスレンジの火を調整しながら、少しづつ、ゆっくりと。
 ダイニングのテーブルの上には、崩壊寸前の本が置かれていた。ページには、手書きのラテン語が殴り書かれており、その隣りに解読結果と思しきプリンタ印字のメモが置かれていた。
 鍋から立ち昇る煙は、奇妙な臭いを発し始める。
「今度こそ……」
 咲雄は鍋の上に右手をかざし、それから左手に持った包丁で手の甲を切る。
「痛っ」
 鍋の底に僅かに溜まった液体の中に、血が滴り落ちる。
 と。
 鍋の中の液体が、瞬時に澄み切って、煙も、臭いも消えた。
 彼はもう一滴落ちそうになる血を、手で受け止め、火を消した。それから液体を盃に注ぐと、リビングに繋がるドアを開く。
 リビングのソファーの上には、人間の身体が横たわっていた。
 いや、そう呼ぶには少し形が変わり過ぎていた。二つに折れ、傷口から腐敗が始まり、目や傷口やはみ出した内臓で白いものが蠢く。
 咲雄は盃を傾け、それの口らしき部分に液体を落とす。
 と。
 最初の一滴で、腐っていた筈の肉体が元に復元された。
「お……お、おお……」
 次の一滴で、傷口が消えた。
 土気色の肌がピンクに染まり。
 鼓動が始まり。
 呼吸が。
 ――そして、小谷楓は目を開いた。

 海沿いの街道を古びたカローラが走る。
「ほら! あのサーファー凄い!」
 ハンドルを握りながら、楓は海を指さす。
「え? どれ?」
 助手席の咲雄は、彼女の指先を追う。
「ほらあっちの――あ、転んだ」
「あははっ」
「うふふ」
 二人は微笑み合う。
「でも、今でも信じられないわ」
「何が? マンタのショー?」
「違うって。魔法で私が生き返ったって事」
「ああ……」
(魔法、か)
 大学の書庫から盗み出した一冊の本。
 中世の錬金術師によって書かれた論文。四度の焚書に遭い、オリジナルはおろか写本も消失した。だが、その内容に魅せられた検閲官が記した覚書。
「ねね、私の死体ってどんなだったの?」
「そ、それは」
 咲雄は口ごもる。
「あはは、ゴメン。かなりヤバかった? ヤバかったよねー。一ヶ月だもんね」
 楓は明るく笑う。
「勃つ? 大丈夫? 最中に思い出したりしない?」
「平気だよ。それより、楓は、大丈夫?」
「うん。死ぬ前よりずっと快調なぐらいだよ」
 彼女は綺麗なアクセルワークで、車を走らせる。
「何より、咲雄が私の事、死んでも好きでいてくれて、しかも生き返らせてくれたなんて、嬉しくって嬉しくって嬉しくって、もうこんなよ」
 にへらにへら笑う自分の顔を指さす。
「白雪姫気分っていうの? 最高ね」
「自分で自分を白雪姫? 図々しいなぁ」
「えへへ。いいじゃん、お・う・じ・さ・ま!」
「だああっ! やめてくれ!」
 笑いながら、咲雄は彼女の横顔をじっと見つめていた。

 二ヶ月が過ぎた。
「いやー、留年決定残念賞!」
 楓が咲雄のグラスにビールを注ぐ。
 僅かに開いた窓から吹き込む風は、冬の冷たさを失っていた。
「嫌な賞だなぁ」
「まあまあ、これで学年が一年縮まったわけだし」
「嬉しくないよ」
 咲雄は苦そうにビールを飲む。
「ねえ……これってやっぱり、私のせい?」
 楓は自分のグラスにビールを注ぎながら尋ねる。
「え?」
「だって、私が死んでた間、咲雄、卒論も何もないぐらい落ち込んでたって。教授、言ってたわ」
「そ、そんなことないよ。気にしないで」
「気にするよ。嬉しいもん」
 彼女は首を横に振る。
「ありがとう。私、あなたに逢えて本当に良かった」
 ビールを飲み干す。
「よく『死が二人を分かつまで』とか言うけど、咲雄は死んでも私のこと、見捨てないでいてくれたんだよね」
「そんなの、当たり前だよ」
 咲雄は照れ笑いを浮かべる。
「だから、ね?」
 楓は自分のバッグを取ると、中から小さな箱を取り出した。
「こういうのって、男の人からが常識みたいだけど、我慢も出来ないし、待ってもいられないから」
 中には、指輪が入っていた。
「結婚しよ?」
「楓……」
「入籍や式なんて急がなくてもいいから。結婚しよ?」
 咲雄は指輪に手を伸ばす。
「愛してるよ、楓」
「うん。知ってる。すっごく」

 一年が過ぎた。
「ただいまー」
 咲雄はワンルームマンションの玄関で靴を脱ぐ。スーツも革靴も、まだ新しかった。
「おかえり! ねえねえ!」
 エプロン姿の楓が、玄関に出迎えに来る。
「どうしたの? 何か良いことでもあった?」
「えへへへ。当ててみて」
「面白い講義に当たったとか?」
「ちがーう」
「結婚記念日は来週だしなぁ」
「第一ヒント!」
「なんだ?」
「えーと……えーと、どうしようか?」
「考えてから言いなよ、そういうのは」
「まあいいわ。はい!」
「病院の領収書――産婦人科?」
「うん! 三ヶ月だって!」
 楓は満面の笑みを浮かべる。
「ちょっと早かったけど、いいわよね?」
「やれやれ、新入社員の給料だよ?」
 咲雄の顔もほころんでいた。

「そっか……僕も父親か」
 布団に入ったままで、咲雄は呟く。
 すぐ隣で、楓の規則的な寝息が聞こえる。
(僕と、楓の、子供……)
 ふと。
 悪寒が走った。
 楓は生きている。少なくともそう見える。
 だがその内側は。
 楓の胎内で。
 腐ったまま、大きくなっていく肉塊。
 悪寒はいつの間にか激しい震えになっていた。
 忘れようとしても、思考は進む。
 様々な死者蘇生伝承が浮かんでは消える。
 死体をつなぎ合わせる、ウィルスに感染する、悪魔と契約する、薬を使う。
(結末は、同じだ)
「冗談じゃ、ない」
 分娩室で、産まれた子を抱き上げる楓。
 だが、その手の中で子供は腐り落ちる。
 腐った塊を抱きしめ泣き叫ぶ楓。涙に血が混じり、眼球が落ち、いつしか内側の腐汁が流れ出し、皮膚が破れ、肉が、骨格が崩れ落ちる。
(嫌だ)
 咲雄は布団から出た。
(今ならまだ)
 そして眠っている楓の腹に、握った拳を振り下ろそうとする。
 だが。
 腕は、ピクリとも動かなかった。

「元気な女の子ですよ」
 看護師に手渡された我が子を、咲雄は恐る恐る抱き上げる。
「あー、こんなに太いのが出るなんて、思わなかったわ」
 ベッドに横になったままの楓は笑う。
「どう?」
「うん」
 咲雄は赤ん坊を見つめる。
 腐臭はなかった。
 少なくとも、今の所は。
(育ったとしても、屍肉を漁るに違いないんだ。力のない今のうちに……)
 手が震える。
 このまま床に叩きつければ。
 腐汁の詰まった、薄い頭蓋骨が割れ、これ以上の悲劇は防ぐことが出来る。
「かわいいでしょ?」
「……楓、この子は」
 その時、赤ん坊は泣きだした。胸が呼吸と共に動く。
 手が、確かに体温を感じていた。
 咲雄は赤ん坊を看護師に渡す。
「連絡してくるよ。父さんたちに」

「うん、女の子……いや、まだ顔が定まってなかったから何とも。うんうん、そうだね。じゃ」
 緑の受話器を置いた。
「生まれて……しまった」
 咲雄はその場に座り込む。
 恐怖と不安が心を塗りつぶしていた。
 床が冷たかった。
 目を閉じれば、腐敗した楓と娘の姿が浮かぶ。いや、開いていても。
(生き返った者が、フランケンシュタインの怪物であったら、狂気の中で殺される事も出来たのに)
 目をえぐる事も、出来なかった。
「悲劇で、ただの悲劇で……良かったのに」
 その叫びさえ、誰かに聞こえるほどに大きくはなかった。




エントリ4  『神話創造』   橘内 潤



 光の雨が降りそそぐ。
 漂白された大地が弾け飛んで、ぼこぼこのクレーターのなかで液状になった細胞がきれいなミルククラウンを踊る。
 目を細めてよく見ると、いびつな地平線に船が浮かんでいる。たくさんの風船と椎茸をくっつけたみたいな、ちょっと笑っちゃうようなシルエットの飛行船。
 飛行船からは幾筋もの光の束が地上へと放出されていて、その雨に晒された大地が沸騰する。木々が蒸発し、肉塊が瞬時に弾けて塵に還元される。クレーターに溜まった生命のスープは熱々のビーフシチューみたい。ジャガイモが溶けるまで煮込むと、こんな感じになるのだろうか。
 視線を上げると、そらは青い。抜けるような青空、なんて表現があるけれどそれは、地上の魂がぜんぶ空へと抜き取られていくような青空のことを指していたんだ、と実感する。晴れた空を埋め尽くす何万何億という魂がすこし眩しくて、目を瞑る。瞼の裏に残光が焼きついている。それは緑だったり紫だったりして、肉体のない自由に喜んでいたり戸惑っていたりしている。べつに羨ましくはない。だからといって悲しくもない。まあ、普通。
 ――突然、大地が割れる。
 地面という天井におおきな穴を開けて躍り出たおおきなモグラが、変な形の飛行船に噛みつく。そのモグラは全身をびっちりとショッキングピンクの網目に埋め尽くされていて、そのピンクがびくんびくん、と脈打っている。たぶん、まだ皮膚ができあがる前に飛び出してきてしまったのだろう。ぎらぎら哄笑する太陽に焼かれて、苦しげに身悶えている姿はとてもいやらしい。
 モグラに噛み付かれた飛行船は、風船みたいな形を食い破られてぱちんと弾けさせる。ぶわぁっと飛び散った胞子がよこ煮込んだビーフシチューに落ちると、ビールに塩を入れたみたいにじゅわじゅわっと泡立ちだす。
 モグラは悶えながら、つぎつぎと風船を噛み千切る。弾けた胞子がクレーターに落ちては泡立ち、ビーフシチューを白く濁らせる。化学反応の進行したスープはみずから発生させる熱でぐつぐつに煮えたぎって、湯気で青空を曇らせていく。スポンジみたいに水分を含んだ魂はふわふわ上昇することができなくなって、重力に捉えられたことを嘆き、墜落の恐怖に喚きながら大地へと引き戻される。そうしてスープの中へと落ちていく。
 その頃にはもう飛行船の風船はすべて割られていて、椎茸だけが残った飛行船は浮力をなくして墜落する。爆発はしない。その代わりに、三十六色パステルカラーのガラス片をまき散らす。曇り空の隙間から差し込む細い光を乱反射させるガラス片は空中を踊り狂い、白く濁った湯気をちりぢりに切り裂く。眩しい。このガラス片はきっと光の束を生み出していた機関の残骸なのだろう。
 鏡の檻に閉じ込められたみたいに跳ね返っては跳ね返る光は、モグラの体表にも突き刺さる。ピンク色の皮膚に黒く焼け焦げた痕が染みのように広がっていく。モグラは悶える。狂おしく身をくねらせる。けれどもそれで光のシャワーから逃れられるわけでもなく、かえってガラス片が剥きだしの細胞に食い込むことになる。モグラはピンクの身体を黒と赤に染めて、乱れ狂う。
 やってきた穴から地中に逃げようとして、モグラは力尽きる。おおきな胴体をクレーターの鍋のひとつに落下させる。もうビーフシチューではなくて普通のシチューになっていた液状細胞がおおきく波立ち、ざぁぁと押し出されたスープが隣のクレーターに流れこむ。モグラの身体はたちまち煮えて、中まで火が通る。細胞の網目のひとつひとつに煮えたぎった白濁が染み込み、柔軟な体組織に熱変性をおこして硬化させる。
 熱と水分を吸収するモグラの死骸は硬化と膨張を繰りかえし、ついにクレーターのひとつをびっちりと塞ぐまでに肥大化する。溢れ出た粘着質のシチューは隣のクレーターに流れこみ、そこからも溢れたシチューがまた隣のクレーターに流れこむ。もうもう立ち込める湯気が、かろうじて逃げおおせていた魂を捉えて引き寄せる。そのときにパステルカラーのガラス片を何色から巻き込む。こうして、倒立したモグラの遺骸を中心に、きらきら光る濁ったシチューが完成する。
 まだ空中に残っていたガラス片はやがて互いに引き付けあうように寄り合って、ビリヤードの球ほどのガラス球になる。およそ三十一色ほどの色が寄せ集まったその球は、内側に閉じ込めた光で自ら発光しながら空中をさ迷う。スープの湯気に捉えられることもなく、まだ寒い春風に乗ってふわふわ漂いながら遠ざかっていく。そうしながら、閉じ込めた光を餌にして誘き寄せた、黒だったり白だったりする粉塵ですこしづつ風船を編んで上昇していくのだった。
 ガラス球が飛び去ったあと、冷えて固まったシチューから最初の生命が誕生した。

 ――以上がこの大陸の創世神話である。
 黒でも白でもない粉塵のあつまりでしかなかった世界から神がいかにして生命を生み出したかを、創世神話は語っている。神話に登場する「たくさんの風船と椎茸をくっつけたみたいな、ちょっと笑っちゃうようなシルエットの飛行船」自体が神なのか、神が生命創造に用いた道具であるのかという議論にはいまだ決着がつかない。
 事態はもっと、こちらが想定していた以上に馬鹿馬鹿しい。
 現在、われわれが早急に議論を重ねて結論を出すべきなのは飛行船事態が神なのか否かではなく、「飛行船の風船部分と椎茸部分のどちらが神の意思なのか」という議題である。
 風船派の信者に言わせれば、「風船から弾けとんだ胞子が始原のシチューを煮立たせる触媒だったのだから、これこそが大事肝要だったのだ」となる。しかして椎茸派が言うには、「椎茸の内側にこそ、光の雨を降らせたガラス球が収まっていたのだから、椎茸こそが神の本意だ」となるのだ。
 ぶっちゃけ、どちらでも構わない――というか構想段階からいまもって未定なのだが、そうもいかないらしい。両派の論争が取っ組み合いに発展して互いに九針縫う怪我をしていた頃はよかった。けれどさすがに自爆テロや報復爆撃にまでエスカレートされると、笑ってみているわけにもいかない。立場上、なんとか解決策を提案するくらいの姿勢は見せておかないと、後々になって突き上げられるおそれもあるのだ。
 そこで一応用意してみた解決策は、「じつは飛行船を墜落させたモグラこそが神の意思だったのだ」というモグラ派をつくって、「色んな解釈があるんだから、あんまり深く突っ込まないでね」という感じでうやむやにしてしまおう――という策なのだが、実行に移す前からもう失敗の予感でいっぱいである。なぜこんな、べろべろに酔っ払ってるときに考えた策にゴーサインが出たのか、理解不能も甚だしい。もっともそれを言ったら、あんな適当な神話でゴーサインが出た時点で転職を考えるべきだったのだろうけど。いまからでも遅くない。今度こそ本気で転職を考えるべきだろうか――。
 神さまというのも、やってみると苦労するものだ。





エントリ5  書かれなかったスコアもまた、スコアの一部である   るるるぶ☆どっぐちゃん



 手紙と新聞を持って、海へ出掛ける。
 海岸線には朽ちかけたピアノが置いてある。あたしは波打ち際へ爪先を伸ばし、赤いハイヒールの先で砂浜に絵を描く。
「そんなところへ描いても、誰も見ないよ」
 ピアノの方から声が聞こえた。タキシードを着たピアニストが、ピアノの椅子に座っていた。
「そうね」
 彼はシルクハットを被り直すとピアノの蓋を開けた。息をすう、と小さく吐き、長く細い指をゆっくりと曲げ、伸ばし、そして練習を開始した。
 波が静かに砂浜を覆っていく。あたしの絵が波に姿を変え、形を崩し、そして消えていく。男のピアノが聞こえて来た。彼の演奏はかなりうまいのだが、かなり間違える。それが日を追うごとにどんどん頻繁になるので、もう殆ど同じ曲には聞こえなかった。元のものとは、別の曲のようだった。新しい曲のように、あたしには聞こえた。
「今日の新聞、見たかい?」
「まだなの」
「そう、じゃあ見て御覧よ」
 あたしは新聞紙を広げる。風に新聞紙がばたばたと、国旗のようになびく。
「今日の新聞には、全て同じ文字が書かれているのね」
「そうなんだよ」
「昨日は七割くらいが、同じ文字だったけれど」
「明日からはきっと、毎日同じ文字ばかりが書かれた新聞が届く」
「新聞と一緒に、手紙が来てた」
「僕のところにも来てた」
「なんて?」
「別に。元気でやっていますか、とか、久しぶりですね、とか、何をしていますか、とか。覚えていますか、とか」
「お前なんて絶対に幸せになれない、とか?」
「お前には何も見えては居ない、とか」
「どうしてあの絵を描いたのか、とか」
「どうしてお前は戻らないのか、とか」
「お前はどこまで行くんだ、とか」
「どうして全てのことはこうなるのか、とか」
「もう帰らない、何処にももう帰らないとか」
 男は楽しそうに笑う。
 それにしても寒い。寒くて寒くて、寒くて堪らない。薄着で来てしまったことに後悔する。あたしは大きく開けたままにしておいたブラウスの胸ボタンを一つだけ閉める。側には二本の、見上げるほど大きな樹が燃え上がっているが、こんなにも勢い良く燃え上がる樹を目の前にしても、冬の海岸線は寒くて。寒くて寒くてともかく寒くて。
「酒場に行けば、酒が飲めるよ」
 風が吹く。新聞紙と一緒に、彼の被っていたシルクハットが風に乗って飛んでいく。
 それを見て彼は楽しそうに笑う。
「飛んで行ってしまったな。空に向かって、飛んで行ってしまった」
「そうね。その通りだわ」
 ふらふらと空を漂ううシルクハットを見つめながら、あたしは答える。
 海岸線を離れ、だらだらと続く長い坂を下った。
 酒場では男達が笑いながら新聞のことを話し合っていた。
「この新聞は、何処か紙幣に雰囲気が似て見えるな。どちらも紙屑なのは同じだが、どちらも悪くない」
「芸術的ですら、あるねえ」
「ところで芸術って、なんだい?」
「アートのことだよ」
「ピカソのことだ」
「ピカソとゴッホのことだよ、アンディ」
「ピカソとゴッホか。なるほど。確かにな」
 酒場の奥には立派なピアノが置かれていて、そこからは軽快なジャズが流れていた。あたしはマスターにウイスキーを注文する。無言のままボトルとグラスがカウンターに置かれた。
「ねえ、どんな絵が良い?」
 女のように髪を長く伸ばした絵描きが、いつもの窓際の席からあたしに言った。
「じゃあこんな感じのものを」
 あたしは持っていたコップを離した。コップは落下し、ピアノの高音部だけで構成された和音のような、ぱちーん、といった音を立て割れる。
「良いね。それでいってみよう」
 絵描きは木炭を持って、割れたコップの絵を壁に描き始める。その隣の壁には、落ちていく三冊の本が、その隣りには見事に着地をしようとしている黒猫が描かれていた。全て彼が描いたものである。
 あたしはウイスキーのボトルを持ったまま、二階にあるあたしの下宿へと向かった。
 階段を昇ろうとすると、テレビモニターが落ちて来た。
 がらん、ごろん、ごろん、がらん。
 派手な音を立てながら、派手にバウンドをしながら、テレビモニターはあたしの脇を通過していった。
「やあ」
 ピアニストがもう戻って来ていたのだった。彼は階段の上に立っていた。さっきと同じ、素敵なシルクハットを被っている。
「君は、テレビは、好きかい?」
 彼は楽しそうに笑う。彼はいつも、楽しそうに笑う。
「僕はテレビが、とても好きだよ」
「あたしはテレビよりも、やっぱりラジオ派だな」
 あたしは部屋に戻り、ラジオを持って階段に戻る。スイッチを入れ、床に置いた。ラジオからは女の泣くような声と、群衆の笑い声が聞こえる。
 あたしはハイヒールの先でラジオをそっと押す。
 かつん。からん、からん。
 ラジオが階段を転がり落ちていく。からん、からんと落ちていく。ただ音声だけを残して落ちていくラジオを見て、あたしは思う。
「やっぱりラジオよりテレビの方が良いわね」
「そうだろう」
「テレビなんて今までくだらない番組ばかりで、詰まらないものだと思っていたけれど、どうしようもないお話ばかりだと思っていたけれど、でも映像がばらばらに壊れながら落ちていくのは、とても見応えがあった」
「全てがばらばらになりながら、テレビモニターは落ちていくからな。人も、大地も、鳥も、音楽も、全てがばらばらになりながら、テレビモニターは落ちていくからな。ラジオでは、ああはいかない」
「そうね」
「ピアノでも、なかなかああはいかない」
「そうね。ねえ、あたしもう一度見たい」
「じゃあもう一度やろう。君のテレビを持ってきなよ」
「駄目、あたし、テレビは持ってないの」
「そうか。じゃあ下に降りてみよう。酒場にテレビがあるだろう、カウンターの上に一台」
「そうね。あるわ」
 あたし達は二人並んで酒場へ降りて、マスターに話をする。
「なるほどなあ。解ったよ、良いだろう。持っていくが良いよ」
「良かった」
 テレビには丁度、ピアノの前に座った美しい女の人が半裸で二人、並んで映っていた。良かった。とても美しいシーンだった。赤い口紅と、紫の口紅。真っ黒なシルクハット。滅多には見られないとても美しいシーンだった。良かった。あたしとピアニストはテレビモニターを方に担いで持ち上げ、階段を昇る。
 下宿の各部屋には明日の朝刊が早くも届いていた。音符が沢山書かれた新聞だった。同じ付点八分音符が、沢山沢山書かれた新聞だった。
 あたし達と一緒に酒場に居た連中もついてきた。酒をちびちび飲みながら、興味深げにテレビモニターを眺めながら、よたよたと楽しそうに、彼らは階段を昇る。
 階段の上に運び、床に置いた。テレビの中の二人は、詩の朗読を始めた。ピンク色の長い紙を手に取り、金色のマイクを口元に当て。ギロチンにかかり、死んでいった人達への詩だった。二人はばらばらな道を歩いて水平線へと向かいながら、同じ詩を朗読していた。
 あたしは赤いハイヒールの先で、そっとテレビモニターを押す。がちゃん。がたん。がたん。テレビモニターが落ちていく。派手な音を立てながら、全てバラバラになりながら。欠片が飛び散り、きらきらと輝く。がたん。がちゃん。がずん。テレビが下の階に落ちた。テレビの中にはもう誰も居ない。詩の朗読も聞こえない。ガラスで出来た花園のような景色だけが、ブラウン管の中に広がっている。
 皆と一緒に酒を飲みながら、あたしはその光景を見つめた。





エントリ6  震える指先   lapis.



「ばか、早く寝ろよ。危ないから」
 僕がそう言うと妹は恨めしそうに僕を見た。僕の妹は毎晩空爆を始めようとしている空の戦闘機を見るのが日課だ。
 弟が眠る2人ではちょっと小さいベッドまで連れて行こうとすると決まって妹は無邪気に「いやだ、いやだ」と言って手足をばたばたさせて暴れる。
 僕は妹をベッドの上に降ろすと頭を撫でていつもの会話をしてからゆっくりと抱きしめた。
「×××と一緒に、寝ろよ。落ちてきたら、まずは自分の命を優先しろよな」
 家族が愛しくて、妹の頭を優しく撫でた。それから強く強く抱きしめて身体の冷たい妹にぬくもりを移してやる。
 それから2・3言会話すると妹はベッドに潜り込んで顔だけあげて僕を見た。
「おやすみ、また明日ね」
 妹がそう言ってにっこりと笑うと僕も思わず微笑んでしまう。妹のこの言葉を聞くと、いつも思う。
 まだ死ぬ訳にはいかないんだ、ということを。
 僕はゆっくりと手を振るとろうそくの火を吹き消して、妹たちに気づかれないように家を出た。
 
 家の外に出てから少しして【ドオォォン!!】と大きな音とともに東の空が一瞬明るくなり、それから少し地面が揺れた。
 僕は慌てて東の方を向いたが、ここからは遠い空襲だと察して思わず胸を撫で下ろした。
 そして息を殺しながら僕は夜の街を走っていた。きめが細かい砂を蹴り、なるべく音を立てないように気をつけて走る。
 裏通りを抜けて、家と家との隙間を通って目を凝らす。その間にも何度かの空襲で東の空が燃えていた。
「―――遅かったな」
 後ろからそんな声が聞こえて僕は慌てて振り返って身構えた。両手をクロスさせてその隙間から、夜の闇に身を引きつつ声の主を睨み付けた。
「そんなに、睨むなよ」
 声はゆっくりと僕をランプで照らした。その光は家に置いてあるろうそくとは違って太陽にも似た明るさのように見えて身体をこわばらせた。
 僕を照らし、そして声の主もその正体を現した。
「……なんだ、あんたか。約束の場所とは違うな」
 ランプで僕を照らした男はにやりと笑って、僕に近づいた。僕も身構えるのをやめて男に近づいた。
 男の名前は知らなかった。ただ名前を知っていても得はしないな、とだけ思っていた。
「遅刻魔のお前をわざわざ迎えに来たんだよ」
「そう。それはどうも」
 僕は軽く頭を下げて礼を言った。男は面白くなさそうに肩をすくめると突然思い立ったようにランプを足元に置いた。
「?」
 僕は何かも分からずに男を見ていた。男は自分が背負っていた鞄に手を突っ込んで何かを探しているようだった。
 そして何かを掴んだのか、僕の目の前にそれを出してきた。
「何だよ、これは」
 僕は呆然とそう尋ねた。けれど頭の中では分かっていた。それでもそれを突き出されて混乱してしまったのだと思う。
 右手でグリップを握らされて、思わず握った掌に汗を掻いてしまう。心臓が飛び出しそうなほど緊張していた。
「お前、人を殺したことはあるか?」
 男はそう言った。僕はうつむいて首を横に振った。殺されそうになったことは沢山あるけれど、と言おうと思ったが慌てて口をつぐんだ。
「予備の弾は渡しておく」
 男はなんという風でもなくそれを僕の左手に握らせた。僕は男を見上げて呟いた。
「……今日の、話し合いは」
 咽喉からかすれた声が出た。でも尋ねたときには既に頭の中で分かっていた。男は困ったように笑うと胸ポケットから煙草を取り出して、口にくわえた。
「本当は爆弾を持ってもらいたかったんだが」
「……それは、嫌だと言った筈だけど」
 昼間のゴミ拾いの仕事をしている時にこの男に会った。いい稼ぎが出来るというからついて来てみれば、それはまるで命を代償にしたような仕事だった。
 だが確かにいい稼ぎにはなった。それは僕も認める。その度に同じ仕事をしていた仲間は死んでしまったけれど、それは仕方のないことだと諦める他なかった気がする。
 同じような仕事をしている奴の中には、信念だとか国だとか神だとかの為に働いている奴がいる。だから死んでもいいという奴もいる。
 そしてこの男や男の上司はそういう奴らに爆弾を持たせる。
 でも、僕はまだ死ぬ訳にはいかない。
 戦場に行った父さんはもう帰ってこないのだから。
「報酬は、いくら」
 僕は男を睨みつけてそう言うと、男は腕を組んで少し思い悩んだような顔をしてからとても白々しく笑って見せた。
「そうだな、いくら欲しい」
「何、それ。爆弾より危険なの、この仕事」
「違うよ。これは俺の好意ってものだね。仕事はいつもとさほど変わらない。ただ変わるのは確実に人を殺す、ことだね」
 男の茶化した言葉に少し苛立ちながらもグリップや弾倉を握る手と声が震えてしまう。
「それとも、人は殺せないっていうか?」
 男がひときわ険しい顔をして僕を見た。けれども僕はその顔から目をそらさなかった。
「殺せないことはない。ただ殺したことがないだけだ」
 僕はそう答えた。男はにっこりと笑って僕の肩を叩いた。そして男はズボンのポケットからしわくちゃになった$札が何十にも重なったものを僕に突き出してきた。
「これで、足りるかな」
 僕は男が突き出してきた$札を手で押しのけた。
「仕事が成功したら、もらう。そんな重たいものを持って動けるかよ」
 僕が吐き捨てるようにそう言うと男はにやりと笑って僕を頭を撫でた。
「利口だな」
 そう一言だけ言った。父さん以外に頭を撫でられたことなどなかったのでひどく違和感がした。

 気付いたらもう東の空は燃えていなかった。
 弾倉を薄い服をめくりあげて自分の腹部にくくりつけると、闇の向こうに佇む人々を睨み付けた。標的のことは聞かなかった。
 ザッザッザッ……、ザッザッザッザ……。
 闇に紛れながら砂を蹴り上げながら走る。そして夜営をしていると思われる人間に3発連続で撃ち込む。反動で砂の地面に後ろから倒れ込むが、そのまま横に転がって壁に隠れた。バクバクと心臓が動く。唇が震えた。
「!!」
 誰かの悲鳴か、叫び声がいくつか聞こえて僕はそれにも紛れて壁をよじ登り、建物の上に潜む。
 ババババッッ……。野暮に撃ち放たれた機関銃の音のお陰でざわめく僕の心は自然と和んだ。
 そして僕はゆっくりと標的の頭に狙いを定めてゆっくりと引き金を引いた。

「お疲れ」
 男はにっこりと笑った。はぁはぁはぁ……と男の所まで走ってきた僕は腹部に巻いていた弾倉とずっと離さなかったグリップを男の胸に押し付けてそのまま離した。
 男はそれらを抱えながらも、さっき渡そうとした$札を僕のポケットにねじり込んで入れた。そして僕は何も言わずにその場から立ち去ろうとした。
「またね?」
 男がそう呟くのが聞こえたが僕は立ち止まらずに走り去った。
 出来ることならもう2度とあんなことはしたくないと思った。
 けれどきっと戦争が終わるまで続くんだろうと思う。
 僕は必死に家と家の間をすり抜けて自分の家まで走って帰りゆっくりと木の扉を開けて、そのまま自分のベッドに倒れ込む。
 隣は妹たちの部屋なのでなるべく息を殺した。
「……お兄ちゃん? もう朝なの?」
 ギィィ……と木の扉を開いたのはまだ眠そうに目を擦りながらとてとてとこちらへ歩み寄ってくる妹だった。
 不意にとても懐かしくて泣きそうになった。
「ばか、まだ夜だよ」
 そう言って僕は妹を抱きしめようと手を伸ばした。
 触れた妹の頬はひどく温かかった。





エントリ8  カエル・キッド   THUKI



 俺の名前はカエル・キッド。
 漢字で書くと『蛙 木戸』
 こう書くと『かえる きど』なのでは? と聞きたくなるが気にしちゃいけねぇ。
 かの有名な四丁目の鈴木さんも言ってるじゃねえか
「三本でも朝鮮人参」
 意味は知らねえがなかなか良い言葉だ。俺の時世の句にしよう。

 さて、今俺は仲間のかたきを討つために旅をしている。そう、あれは俺たちがまだオタマジャクシだった頃・・・

『兄ちゃん。俺たち親に見捨てられたけど強く生きような』
 その日、俺たち兄弟26匹は、親に見捨てられた悲しみを紛らわすため、どじょうすくいをして遊んでいた。そんなとき・・・
『や〜〜ご〜〜(○_○)』
 明らかに何か間違った声を出してヤゴの奴らが襲ってきやがった。
 俺たち兄弟は必死に逃げたり戦ったりしたが、どいつもこいつもオランダも歯が立たず、結局俺を抜かして兄弟は全滅してしまった。
 それ以後俺はこうしてショットガン片手に旅をしているのさ。

「へい、いらっしゃ〜い。」
 旅を始めてから六ヶ月目、蛙になった俺はさびれた田んぼの小さな酒屋に入った。
 その酒屋は中身こそ小さいが、壁に『Zガンダムの開発番号<MSZ−006>から真中の『Z』と『0』を取るとザクの開発番号<MS−06>になるではないか!!世の中そんなことで良いのか?さあ立て国民!!』と書かれたポスターが壁全体に貼られたなかなか洒落た店だった。
「お客さん、なんにしましょう?」
 ウルトラマンにバリカン砲をとっつけたような顔をしているゲンゴロウのマスターが俺に話し掛ける。
「じゃあ、ハエのソテーを頼む。」
「プッ」
 誰かが俺の注文に笑い声を上げた。
 何だテメェ、この俺に文句でもあるのか!? あぁ、大いにあるね『ハエのソテー』だって?そんなモンは外で食ってきな!! 何だとテメェ!!表に出ろ!!
       ドカッ!!  バキッ!!  ヒヒッー(゜д゜ll) オ―ノ――!
 てな事をしてから俺はハエのソテーをいただいた。
 料理の味はまぁまぁの味だった。しかしハエのソテーだけじゃ俺の腹の虫が収まらない。俺はそう思いもう一つ料理を頼もうとした。その瞬間。
「邪魔するぜ、オヤジィ」
 突然入り口のドアが力強く開き、その中から一匹の赤とんぼが入ってきた。
 その瞬間ここにいた全員の顔が曇ったのが俺には分かった。まぁどこの世界にも『嫌われ者』というのはいる。
「オヤジィ、いつものやつ。」
 赤トンボは酒場のテラスに座ると、マスターに有無を言わせないくらいの強い口調で『いつものやつ』を頼んだ。
 マスターはしかめっ面を浮かべながら店の奥に入っていった。きっとこいつは金も払わないで店を出て行くような無法者の奴なのだろう。ケッ、いけすかねぇぜ。
「お、みかけねぇ顔だな。新入りか?」
 赤トンボが俺の方を見ていった。
「まぁいい、おいオヤジィ、この蛙にも何か一杯やってくれ。」
 赤トンボは気前良くこの俺に田んぼの水をおごってくれた。
 しかし俺はこの水を飲む気にはなれなかった。そもそも誰がテメェみたいな水色メガネのおごりを受け取るって言うんだ。 
 そんなことに怒りを覚えた俺は、せっかくマスターがもって来てくれた田んぼの水を店に落としてやった。
「!!!!!!、テメェ!!せっかくこの俺が『おごってやる』って言ってんのに!!」
 さすがにこれには腹を立てた赤トンボが腰につけてあった銃を抜く・・・が。
    ズキュッ―――――――――――――――――――――んд∀☆♪
 赤トンボより先に俺のショットガンが火を噴いた。赤トンボの四枚の羽のうち一枚がひらひらと輪を描いて落ちる。
「覚えてろぉぉぉ!!」
 羽を一枚撃たれた赤トンボは、どこかで聞いたことのあるような名台詞を吐き捨て逃げていった。
「へっ、所詮飛べないトンボはただのトンボさ。」
 俺はそう赤トンボに吐き捨てると再び何かを食べようと思い、テラスに腰をつける。しかし・・・
「すまんが出て行ってくれ。」
 マスターが俺に目を合わせないように言った。
 周りの客も俺から目をそらしてる。ケッ、いったい俺が何をしたって言うんだ!?
 そう抗議しようとした瞬間
「なぁ、若いの」
 突然老アメンボが話し掛けてきた。
「お前さんはここの者じゃないから知らんのも無理ないが、お前が今撃った赤トンボ、あいつはここいらを荒らしまくっている<全国・老後の幼虫愛護協会>の一人じゃ。あいつらは仲間の結束が強くてのぉ〜、仲間を撃たれたとあっちゃぁただじゃおかない。悪いことは言わん、早く逃げろ。」
 なるほど、そういう事か、それなら仕方がない。
 俺はそう思い帰る支度を始めた。と、その時。
「おっと、そうはいかないゼ。」
 突然酒屋にオニヤンマが入ってきた
「おめぇか?俺の大切な兄弟を撃ったっていうのは?」
 オニヤンマは俺の前に出るなり、その鋭い眼光を俺に向ける
 ・・・と、その瞬間、俺はあることに気がついた
「お前は!」
 俺が突然立ち上がる
「な、なんだ?」
 俺の迫力に押されてオニヤンマが一歩下がる。
「フッ、忘れたとは言わせねぇぜ、テメェだろう!?俺の兄弟を皆殺しにしたのは!」
「・・・忘れた」
 言いやがった。『言わせねぇ』って言ったのに言いやがった、チクショ――!!!!
「そっちが忘れても、こっちはしっかりと覚えてるぜ、テメェがまだヤゴだった頃にやった行為をな!!、そうさ、いくらテメェの姿が変わろうと、水色メガネをかけてようと、名前が『ヤゴ』から『トンボ』に変わろうと、テメェの名前が『ヤゴ』である限り俺は貴様を忘れたりしない!!」
「・・・おまえ、何か言ってることが矛盾してるぞ。」
「フッ、細かいことは気にするな。オタマジャクシが後ろ足から生えてくるのは常識サ」
 俺はそう言って得意の流し目をオニヤンマに食らわしてやった。
「・・・・・・。なんだか知らんが頭にくるやつめ。野郎どもやってしまえ!!」
 オニヤンマがそう叫ぶと突然後ろに控えていた赤トンボの集団が俺をめがけて飛んできた。しかしそんな物、俺からしてみれば物の数じゃない。俺はゆっくり腰につけてあるショットガンに手を伸ばす
  ズキュッーん ジッキューン  ヒヒッ――ン オ〜ノ〜(・∀・)
 全部で15発と三分の四の銃声が響いた。銃声が鳴り止んだ後の酒場にはオニヤンマを抜かすトンボたちが転がっていた
「フッ、なかなかやるなカエル・キッド。こうなったら一騎打ちだ表に出ろ!!」
 オニヤンマが俺を促すように外を指差す

「いいか?ここにコインがある。このコインが落ちたときが勝負だ。いいな?」
「あぁ」
「じゃぁ。いくぜ!!」
 そう言ってオニヤンマはコインを上空に投げようとした・・・と、その時
   ズキュッ――――――ん(¬△¬)
 突然俺の右手が反応してオニヤンマの心臓を射抜いた
「ひっ、卑怯だぞカエルキッド・・・」
 オニヤンマは左胸から深紅の血を流しながら俺に言った。しかし俺はそんなオニヤンマに
「フッ、ハンデだよ。」
 と言い返すとニヒルな笑いをオニヤンマに向けてやった
 まさかちょっと驚かすつもりで撃ったのに、本気で当たってしまったとは言えない
「なっ・・・」
 オニヤンマはまだ何か言いたそうだったが、その前に息を引き取ってしまった
「だから言ったろ。ガチャピンは恐竜じゃなくて怪獣だって。」
 俺はオニヤンマの遺体にそういい残すとそこを去っていった。後ろから『カエルーカムバーック』と言う声がほのかに聞こえた。

huki:四丁目の鈴木さん・・・・・・・・・全国の鈴木さんごめんなさい。
MSZ006とMS06・・・・・ガンダムネタ。笑える人だけ、笑っとけ。ちなみに、Zザクとは何の関係もない。
バリカン砲・・・・・・昔、あるカードに載っていた誤植。既に元ネタを知っている人はこの世に4人しかいないとい上にたぶんみんな忘れてる。
飛べないトンボはただのトンボ・・・・・ご存知ジブリ生まれの豚の命台詞。だが、すでに、飛べないトンボはただのトンボでもないような気がするが、気にしてはいけない。
ガチャピンは怪獣・・・・・どうやら恐竜という説もいまだ根強いらしい。この議論はしばらく続きそうである・・・・。



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エントリ9  オフェリア   詠理



 大助は七つになった。誕生日には戦車を欲しがった。すぐに母がうんと大きくて形もよい美しいのを買い与えると、大助はとてもかわいがった。母が電気を消した後の月も入らぬ闇の中で、おもしろいようにかわいがった。
 9時。優しげな母の手が忙しそうにカーテンにかかり電気のスイッチを消していってしまうと、少年はぱっと起き上がって、頭をシーツに圧しつけ平伏して言う。
「きょうもぶじにすごせました、ありがとうございます。どうも、ありがとうございます」
 それから白い布の上にこれまでたまったミニカーを並べ、小さな兵隊の人形に包囲させる。父が星を指すときに使う強力な懐中電灯で天井を照らすと、部屋の全てのものが影ともつかぬぼやけた分身を吐きだす。
「バキュゥン、バキュウン」
 兵隊がミニカーにむけて銃を発砲する。ミニカーも負けじと圧してくる。
「グォン、ドン、グォォオオン……、ドガーァアアォォアンッ」
 けれどそうして声をひそめて対決しあう過去の愛情は、最後にはミニカーの三倍はあるだろう最新の愛情でもろともに踏み潰されてしまうのだった。
 大助は自らの手で展開されるこの世界を好んだ。屹立するかすれた愛情の創造物を最新の愛の産物でもって潰してしまうことを、ほとんど自分の義務であり、そう願われた宿命のように思うのだった。
 死傷者0名、被害なし。玩具たちをすっかり片付けて、
「おやすみ、みんな、みんな、みんな……」
 息を吐ききるだけ言って、眠りにつく。

 征子は来週用の書類を片付けながら夫を待ち伏せていた。時計は既に10時をまわり、彼女はまた眉を険しくして唇をもてあそぶ。
「もうちょっと早く帰ってきてもいいでしょうに」
 征子が仕事を休むことは一度もなく、7時には必ず家に帰った。例外である大助の出産であっても入院はたったの三日前、生んだ次の日には出社した。
「そりゃ、がんばりすぎだよ」
「なによ。無事に生まれたんだから平気。仕事がたまりすぎて嫌なの」
 とはいえお座なりにしているつもりはなかった。夕食を一緒にすると大助はおいしい、おいしいと言った。学校行事に10分だけでもと顔をだすと、しっかりと確認し、うれしそうに笑顔で大きく手を振って合図する。休みの日には買い物へ行って映画をみ、外食して帰り、そして大助は飛び跳ねるように無邪気すぎるほどかけまわった。
『お母さん、ありがとう』
 そう、征子はそれが仕事を持つ自分にできうる最大限であると思ったし、喜んでいる息子もそれをよく分かってくれているのだと思った。
「あなたもこれくらいしてちょうだい」
 征子の願いはただこの一つで、夫にもっと息子に構ってもらう暇をつくるようにと繰り返し繰り返し言った。けれどもちっとも聞き入れられないのを征子は毎日のように咎め、激昂し、物を拾い投げつけては喚き散らした。
―大助はもうとっくに寝ている―
 内心、こうした確実な安心をもって叫ぶのではあったが、反面、息子に自分の健気な努力と献身を知ってほしいとも思った。大助は知ってか知らずか、起きて出てきたりはしなかった。
 征子は今日も朝の五時半には起床して8時に家をでた。きっちり7時に帰ってきては9時に大助を寝かしつけ、11時に夫を怒鳴り、11時半にはこてんとよく運動をした後のような心地よい眠りにつくはず。
 そんな彼女がよくみるのは、花畑の夢と空飛ぶ夢だった。けれどもどちらも最後には笑い声と共に消えてしまい、朝の彼女を知らぬ間に苛立たせた。
―そういえば大助が生まれた日も花畑がみえたっけ―
 征子は花畑も空を飛ぶのも好きだった。

 健治は妻の丁重なお迎えを夫らしく待ち望んでいた。けれどそのすぐ数秒後の一言に怯えてもいた。妻の声は朝日の照射していくようにすらすらと昂ぶっていく。
「あなた、聞いているの? ねえ、あなた」
 南天に昇りあがって全てを見おろした日は一体温度を何度まで上げるのだろう。しかしその下で健治は、無傷で静かにくつろいでいる自分をつくりだすことに成功していた。新聞が飛び、食パンが飛び、青リンゴが飛び。続いて最も狡猾な手が飛んでくる。
「私、もういやよ。こんな……。っ……」
 健治は歯軋りした。そのみりみりという軋みと妻の嬌声が鼓膜のうちで交わる。健治の中では全ては変わらないただ一つの事になった。
 完全な仕事、絶対の形。健治は人がよく魅入られるように、誰もが文句も注文もつけられないやり方を好んだ。そうして健治は征子を自分の上で妖しく怒らせられることを誇りに思い、同時になぜか夏の蝿のように煩わしく思うのだった。
―大助もそうに違いない。あの女のねっとりした口をきっと気味悪く思っているだろう―
 息子がときにみせる沈黙した平らな表情に、健治はこれ以上ない親しみを感じていた。自分は確かに大助と触れ合い声を交わすことは少ないが、息子は自分の苦しい愛情を知っているはずだと思っていた。
「だめだよ、あさ、あさなんだよ」
「もう少し寝かせてくれ、な」
「だめ。もう日もすごいのぼってるよ」
 大助は休みの日に必ず父を起しにくる。そして健治が息子の寝顔を見ることは決してない。遠吠えめいたいびきをかきながら健治はいつも何かにうなされる。
「君は俺の仕事を一度だって理解しようとはしなかった」
 とにかく、とっておきの一言が妻を貫く日は近いだろう。

 さて不真面目な家政婦はぐっすりと寝入っていた。彼女は明るい穏やかな性質ではあったものの、またそのために何でも気楽にやりすぎるところがあった。
「征子さん、それは私の仕事でしょう」
「いいのよ、今、時間があるから」
 歳の大して離れていない征子は綾の友人のように優しい。掃除洗濯、留守番に子守。飽きっぽい綾がこれを申し分のない仕事だと感じつづけられたのは、征子の器用な指先のおかげと言っていい。けれども実際、綾は一度たりとも最後の一つを十分にこなしたことはなかった。二十半ばを過ぎたばかりのただの女に子守が分かるはずもない。
「大助クンは親子丼が好きなの、そう。そうなの」
 前に試しに仕込んでみると思ったとおり上手くやったのをみて、大助が料理の腕をふるう。いじらしく愛らしい男の子。しっとりと出来上がったばかりの指は母のものとは対称的に清らかだった。
 本を読んで聞かせてやるとなんとも魅惑的なお伽話を返した。そのあまりの現実感に、綾は何から産まれたのか分からぬ卵が、今まさに自分の前で熟していっているような変な気になった。しかし一端泣くと子供はあんまりに無垢。
「ああ、かわいそうな夢をみたのね」
 結局はそう思うのだった。ミミズと同化した女が昼夜を問わず男を土中に引きずり込んでは臓物をいじりながら喰らう話など、果して子供がみるだろうかと疑う能は綾にはない。綾の能といえば。
「あと3年かしら、いえ2年。2年でいいわ」
 日に日に大きくなる大助の衣服をはずむように畳む。

 少女は一連のおままごとを終えると、ドール・ハウスをきちんと片付けてベッドの横の定位置に置いた。母の足音がしたのだ。
「偉いわね、理佳ちゃん。ちゃんとお片づけして」
 すぐに電気が消える。理佳は蒲団を鼻の上まで引き上げてドール・ハウスの中で起こっているだろうことを想像する。
 少年は今日も玩具の祈りをするだろう。密議は両親にはこれっぽちも知れないだろう。両親は自分の世界のしびれた秩序を守るだろう。家政婦はそのうち少年を救うだろう。
 少女は白く濁った水の上にいつまでも浮かぶ夢をみる。







◆スタッフ/マニエリストQ・3104・厚篠孝介・三月・ごんぱち・日向さち・蛮人S