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第39回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
『靴を抱く月』 橘内 潤 2941
桜巡り 立花聡 3000
断罪の歌 イセミナト 3000
ノーブルチョコレート るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
子に過ぎたる宝なし ごんぱち 3000
バカの鼻 篠崎かんな 3333
雪原 相川拓也 3000
幸せの殻 紺野なつ 3000
10 公立 平均小学校 満峰貴久 3000
11 姉とキッチン 中川きよみ 3000
12 石に喰われた屍の腹 3000
13 ねこのとけいやさん 猫月終 2748
14 画面の中の恋人 THUKI 3000


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バトル結果



エントリ1  『靴を抱く月』   橘内 潤



 武居慎平は恋をした。
 夕焼けの大通り、靴屋のショーウィンドウを見つめる少女に一目惚れだった。
 白いワンピースと腰までの黒髪。細すぎるほど華奢で伸びやかな四肢――後姿だけで顔は見えなかったが、一目惚れにはそれで十分だった。
 少女は次の日も、その次の日も靴屋の前に立っており、さらに次の日、慎平はようやく声をかけたのだった。
「ねえ、きみ……靴がほしいのかい?」
「―――」
 少女は慎平へとふりむき、言葉なくこくりと頷いた。
 揺れる長めの前髪のむこうから、雨粒が弾けたような丸い瞳が慎平を見上げる。それから再び、ガラスのおくへと戻される。
 白いショーウィンドウに飾られているのは、女物の赤い靴。
「買ってあげようか?」
 言葉は、気がつくと慎平の口を突いていた。あるいは、この少女の興味関心を独占する赤い靴に嫉妬したのかもしれない。赤い靴を自分が買い与えることで、少女の興味を買おうとしたのかもしれない。
 ともかく、その言葉はじつに効果的に少女の視線を慎平へとむけさせた。
 瞬きひとつなく見つめられ、慎平の口は意思の要請よりもさきにべらべら動きだす。
「この赤い靴がほしいんだろ? ちょっと待って」
 慎平は少女をのこして店内にはいると、その数分後には靴の入った箱を手に、慎平は少女のもとへと戻っていた。
 少女はさきほどと変わらぬ場所で、変わらずに赤い靴を眺めていた。
「買ってきたよ。さあ、履いてごらん」
 慎平は乱雑な手付きで包装を解きながら、ようやく自分が少女の足のサイズなどまったく考えていなかったことを思いだす。もしもサイズが合わなかったら取り替えてくればいい――と楽観しながら靴を手渡したところで気がついた。
 少女は裸足だった。
 括れた足首から先は、真っ黒に汚れていた。これでは、履いてみてサイズが合わなかったとしても、交換してはもらえないだろう。
 悩む。が、すぐに答えを決める。
「――サイズが合わなかったら、それまでのこと。ぼくときみは縁がなかったのだろう。だけどもしサイズがぴたり合ったならば、そのときはきみを家に連れて帰ろう。いいね」
「―――」
 少女は言葉なく、こくりと頷いた。
 靴はまるで誂えたかのようにぴったりだった。

 武居慎平が少女の手をとって自宅の戸を開けた頃、すでに日はとっぷりと暮れていた。
 慎平が少女を風呂場に連れていこうとすると、少女は初めて抵抗を示した。慌てかけた慎平だが、よくよく観察すると、少女は赤い靴を脱ぐのを嫌がっているのだと気がつく。
「大丈夫、その靴はもうきみのものだよ。だれも盗ったりしないから、安心おし」
 そう説得すると少女は素直に頷き、すこしだけ心配そうに靴を脱いで下駄箱にしまったのだった。こうして、どうにか少女を風呂場まで連れてきた慎平だが、ここでまた戸惑うことになる。
「風呂だよ、お風呂。汚れた足を洗うついでに、身体も流すといい」
 と告げるのだが、少女はきょとんとした目で慎平を見上げるばかりだ。
「……まさか、風呂に入ったことがない、とは言わないだろうな」
 勤めて冗談めかそうとするのだが、どうも上手くいかない。少女はやはり、じっと突っ立ったまま。
 仕方なく、慎平は少女の白いワンピースに手をかける。風呂の入り方を教えてやることにしたのだ。やましいところは――あった。が、一人暮らしの慎平の城で、それを責めだてする人間は存在しないのだ。
 抵抗することなく服を脱がされた少女は、羞恥の素振りすら見せずに、細く白い裸身をさらす。かえって慎平の方がどぎまぎしながら服を脱ぐことになった。
 風呂場の丸椅子に座らせて、まずは髪を洗ってやろうとして気がついた。
「……チャックみたいだな、これ」
 それを見つけての第一印象は、その言葉だった。
 丸椅子に腰掛ける少女の背中を、縦に傷跡が走っていた。尻の谷間の付根から首もとの髪の生際までを一直線に結ぶ傷跡は、明らかに人の手でもって縫合されていた。規則正しい間隔で傷を閉じ塞ぐ糸が、まるでチャックのように見える。
 そのチャックが開いて、少女の中から大きな蝶が孵化してきたら面白いのに――慎平はふとそんなことを考えて、ひとりで笑う。
「そうだ、名前を聞いていなかったっけ」
 慎平は少女の髪を洗いながら、あまりに今さらすぎることを尋ねる。尋ねてから、また、ふと思う――この少女は口がきけないんじゃないだろうか、と。
 靴がほしいのかと尋ねたときも、家について服を脱がすしたときも、少女は一言も声を発していない。それになにより、少女には仮に聾唖であるとしても納得してしまうだけの、どこか壊れ物めいた危うさが感じずにはおれないのだ。その独特の雰囲気こそが、慎平を惹きつけたのかもしれない。
「――ゆいりん」
 そよ風に葉と葉が擦れたような、ひそやかな声。慎平は洗髪の手をとめ、「え?」とききかえす。
「ゆいりん……名前――」
 少女はもう一度ささやく。慎平はそこでようやく、少女が自分の名を告げたのだと気がついた。
「それはどういう字を書くんだい?」
「夜の月……ちりんて鳴る、鈴……」
 少女の言葉はか細くて罅割れているのに、よく通ってきこえる。しんと静まりかえった風呂場で奇妙な反響をのこす。まるで耳の内側に棲みついてしまうような異物感――それが催すのは嫌悪だけではなく、不可思議な恍惚もまた同伴している。
「ゆいりん、月に鈴。月鈴、月鈴――」
 慎平は少女のささやいた名前を口の中で転がしてみる。とても良い名前だと思った。
 それから打算的な理性が、「こいつはこの国の生まれではない。つまり拾得物だ。このまま囲っても騒ぎにはなるまい」と進言してくる。たしかにその通りだ、と慎平はひとり頷く。
「月鈴、おまえは今日からこの家で暮らすんだ」
 慎平の言葉に、少女――月鈴はふり向きもしないし、答えもしない。けれど慎平は気にせずに話しつづける。
「あの赤い靴がほしいんだろ? この家で暮らしてぼくの言うことをきくというのだったら、本当にあげよう。でなければ、靴は取りあげて燃やしてしまう」
 月鈴は今度は首を横に振って、否定の意を表す。
「だったら、ぼくの言うことをきくんだ。いいな」
 月鈴はこくんと頷く。その頭に手桶に汲んだ湯をかけて、洗った髪をゆすいでやる。
「よし――おまえは物分りのいい子だな」
 慎平は満足の笑みに口の端をゆがめ、石鹸を泡立てた垢すりで月鈴の白い身体を洗いはじめる。泡の化粧をほどこされた裸体は、白磁のような滑らかさと艶かしさで慎平の視覚触覚を満足させる。
 肌を滑る手が背中のチャックに差し掛かると、月鈴はわずかにだが四肢を震わせるのが感じられた。
(ほお……)
 慎平は興味深そうに月鈴の背中を見おろす。この少女が赤い靴以外のことについて反応を示したことが、ちょっとした驚きだった。
 赤い靴と、あまりに少女らしすぎる肢体に似つかわしくない傷痕とは、月鈴にとってはまったく同列の存在なのかもしれない。思うままに歩きまわるための靴が月鈴を自分の手元に縛りつけるように、癒されたはずのこの傷痕も、ふたたび開かれることを望んでいるのではないか――風呂の熱気で汗ばむ肌を押しつけながら、慎平はふとそんなことを考えて、ひとり笑みを燻らすのだった。





エントリ2  桜巡り   立花聡



 腰が微かに曲がった女が手を挙げている。それを見た運転手は黄色い車を横につけ扉を開ける。
 紺のスーツに真珠のネックレス。上品な顔には皺が刻まれ、それを細く嗄れた幹が頼りなく支えている。よく使い込まれている黒いハンドバックと、腹一杯に膨らんだ紙袋を胸の辺りで抱えている。
 運転手は助手席のガバンに手を延ばした。
 南北に走る穏やかな小川の両側には桜が植えられており、川沿いに這わせた遊歩道の上では、桜の枝を持って走る子供達がいる。振り回す枝の先から薄い花びらがひらひら落ちる。
「良い季節になりましたね。この辺りの桜は特にきれいだな。そろそろ満開だ」
「どうなんでしょうね。もう明日か、明後日の土日には花見客でいっぱいでしょうよ。いや、実はね。僕の同僚は今日行ってるんですよ。花見。うらやましくってね、ほんとのこと言うと、少し仕事したら僕も混ぜてもらおうかなんて思っていますよ。もう花見、行かれましたか」
 しかし、客は窓の外を虚ろげに眺めているだけで、運転手の存在などすっかり忘れてしまっているかのようだ。彼女は胸の辺りで紙袋を腕で覆い、そこに頭をもたれかけ、体を小さく丸めている。ひどく窮屈そうに見えた。
 学校の横を通りかかる。校庭では瑞々しい少年達がボール蹴りあっている。乾燥した土ぼこりの霧が立ち上っている。大きく的を外れた球がフェンスに近づくと、続けて澄んだ少年の声がまっすぐに通った竹の様に伸びやかに伝わる。弱いチャイムの音も混ざって届いた。あっ、と女が何か閃きを呟いていた。 
 見通しの良い直線が大きなカーブに変わる。その先の半分銀杏の枝に邪魔された信号機の赤い光に減速する。隣にはくすんだ緑と白で塗られたバスが停車した。バス車内の赤ん坊がこちらを見つめている。運転手が手を振ると、母親が微笑み返す。会釈をしようとするとその笑顔は動きだしていた。
 突然トイレに行きたいと客が言った。運転手は返事に一瞬の間を空けて、礼儀正しく了解した。
 道沿いのコンビニに車を止める。隣の文具店のシャッターは埃で色褪せている。文具店の脇の小道には様々な色をした自転車が忘れられていた。大半が乗れそうになかった。
 客は無言で車を降り、荷物を片手に持って歩いていく。右手に持ったその重さによって、体は少し傾き、足元がズザと音を立てる。
 運転手は靴下の中で疼く右の親指の痒みを紛らわせようと、蝿のように靴を摺り合わせながら、自動ドアを眺めていた。
 客がなかなかに出てこない。運転手はひやりとした。未だに回っているメーターを見た。
 彼の考えを見越したかのように女の姿が表れる。俯き加減で、やはり足を引きずってもそもそ歩いてくる。染め残った白髪が光っていた。
「あの、帰っていただけませんか」
「は? 今来た道をですか」
「はい。さっき私が乗り込んだ場所まで。……いえ、やっぱり。ごめんなさい、少し考えさせて下さい」
 女は項垂れた。
 運転手はミラー越しに女を見る。均等に皺の入った手が膝の辺りで柔らかに重なっている。しかし、袖の端から出る腕は針金のように細かった。
 急な腹痛に襲われたかのような態度に、運転手は困惑し、大丈夫かと呼び掛けた。
 すると客は手だけを挙げて運転手を御した。そして、長く息を吐いた後、申し訳無さそうに行き先を指定した。
 告げたのは、刑務所の名前だった。

「すみません、ここで待っていて下さい」
 華奢な女の足取りは固く強ばっていて、片手に握った荷物は正確な秒針のみたく振れている。どこか口を開いたかのような門扉に向かう姿が徐々に小さくなった。
 すぐ脇には桜が植えてある。満開に近いようで、往来する人々は一様に木々を仰ぐ。初老の男が暫くの間、立ち止まり、それから桜の幹をポンと叩いていった。
 運転手は窓の外に咲く桜の艶やかさにほうっとした。桜の花びらが舞う様子や、その一輪一輪の形、そして通り過ぎる人々を眺めた。そのうち包み込むような日射しが車内を満たすと、いつのまにか訪れた軽い眠気に肩を叩かれた。
 窓をこずく音に目を覚ますと、女が立っていた。
 慌ててドアを開ける。
「すみません、居眠りしてしまって」
「いいですよ、随分時間がかかってしまいましたし。こんな春の日射しでは仕方ありませんよ」
 運転手はシートベルトに手をかける。後ろからの微かだが視線を感じた。
「もう、いいんですか」
「えぇ、もういいです」
「それじゃあ、帰ったらいいんですね」
「いえ、少し寄り道したいんです。だから、兼勝寺までお願いします」
「あぁ。はい、兼勝寺ですね」手がドアポケットの地図に伸びたが、すぐにハンドルに戻った。
「はい、お願いします」
 女の声は薄く咲いた桜のようであった。どこか張りがあるように感じる。
 前輪が迫り出し来た道を戻る。先にある交通量の多い交差点からクラクションの音が届いた。
「兼勝寺っていうと、桜の名所ですよね。桜を見に行かれるんですか」
「そうですね。あそこの桜はきれいだわ。桜の先に市内が一望出来ますし。でも、違うの。あそこには亡くなった主人のお墓があるんです。少しだけ報告しておきたいことがあって」
「なんですか」
「いえ、ちょっとね」
 女の声が一瞬衰える。 
「すみません。不躾なことを聞いてしまって」
「いいんです。それより、一度花屋さんによって下さい」
「分かりました」
 
「あのー、この辺で待っていますから」
 花束を持ち階段を登ってゆく女に向かって、運転手は窓から顔を出しながら言った。女は顔を向けて微かな会釈で返事をした。
 辺りは色めき立っている。傾きかけた陽光が桜を照らし、微風が並木を揺らす。どれも鮮やかな色彩を放っていた。
 運転手はタクシーを降りて煙草に火をつけた。 
 花見客は各々荷物を手にして、木々の袂をうろうろしている。まるで餌を探す蟻の様に見えた。
 運転手がフーっと長い煙を吐き出す。その煙の先に女が階段をゆっくりと降りてくるのが見えた。
「早かったですね。もういいんですか」
「もういいんです。少しで良かったから」 
「じゃあ、今度は」
「帰って下さい。今度こそ」
 そう言うと、女は頬に別の皺を作った。年輪よりもしっかりと深い皺であった。
「なにか良いことでもありましたか」
「いいえ。でも、そうね。桜のせいかもしれませんわ。今日は色んな所で桜を見たから。どこも見事な桜だったから、私も元気になったのかしら」
 何か懐かしいものを眺めている様に目を細めていた。美しい婦人の顔だった。

「そういえば、今日、お花見に行かれるんでしたっけ」
「あぁ、覚えていらしたんでしたか。えぇ、多分この後行くと思いますよ」
「今日は良いでしょうね」
「でもまだ満開じゃあありませんし。人が少なくて丁度良いですけどね」
「満開よりも、今日位の方がいいわ。だって、満開だとみんな競って散り始めるでしょう」
「そうかもしれませんね」
 運転手は光景を頭に思い浮かべた。
「あと、どれくらいですか」
「もうすぐですよ」
「きょうは無理言ってすみませんでしたね」
「いえいえ。またよろしくお願いしますよ」
 小さな路地から左折すると大きな通りに出る。ゆっくり歩道につけた。
「着きましたよ」
「どうもありがとうございました」女はお金を手渡すと、「お花見楽しみね」と一言付け足した。
 タクシーはそのまま道なりに離れていった。
 雑多な街並に仄かな桜がばらまかれ、美しく輝いている。





エントリ3  断罪の歌   イセミナト



 焦燥感とは心の空腹だと知った。肉体のみが空腹だったとき、私はその湧き出る欲望で空腹を満たすであろう食べ物の夢を見た。廃工場に隠れて朽ちた畳の上で夢でも現でもその幻をいつも手を伸ばした、そのほんの少し先に置き尺度の不明確な時間の中で自分を進めた。手に入らないと知りながら、可能性だけは大きく映し出し、私はそれを追った。いま、私は拓二を追う。体の空腹が、それがもし全く満たされなければ死に繋がるのと同じように、心の空腹も全く満たされなければそれは死に繋がるだろう。だから私は夜の街の中で拓二を追う。拓二を殺さなければならない。

 貧困はそれほどかけ離れた場所にあるわけではない。むかしテレビで見た遠い国への募金を呼びかける映像。遠い国ではこんなに多くの子供たちが食べるものに困っています。痩せた子供たちがテレビカメラを覗き込んでいるけど、そのカメラを売ったお金があればどれだけの食料を手に入れられるかは知りはしない。いまは思う。彼らはそれを知らずして、あるいはカメラを覗き込んでいるだけでは何も手に入れはしないだろう。
 騙されて、奪われた。父と母は車ごと海へ飛び込んだ。たぶんそれを聞いたときは悲しんだはずだがもう憶えていない。いま思うのは飛び込んでもいいが、どうして車を置いていってくれなかったのかということだ。工場と家は差し押さえられ、行き場のない三人の弟と私が隠れているのも構わずに取り壊しが始まった。それが中途半端に終わった理由を私は正確には知らない。たぶん土地が売れず、壊すことにさえお金がかかるからだろう。その日から私たちは壊れかけた工場に隠れて生きるようになった。中学三年のときだ。弟たちに、特に当時まだ小学三年生だった光二には施設に行くことを強く勧めたが彼もまた残ることを選択した。私たちの世界から理由もなくプレゼントをくれるサンタクロースも、金を支払ってまで望んで縛られていたルールも消えた。
 私は自分の体が売れることを知った。長男の拓二はどこかである種の薬は売る人間が足りないことを学び二人の弟を連れその流通役となった。どちらの世界においても私たちが幼いということはそれなりの価値を生み出しはしたが、その単価は安かった。つまり足元を見られた。状況は私たちを加速度的に闇の中へと推し進め、最早あらゆる意味で太陽の下には出れなかった。日中を廃工場の奥で息を潜めて過ごし、日が落ちると闇にまぎれて動いた。そしてまた日が昇る前に廃工場へ戻った。それでも生きていた。

「拓二はどこへ行った?」
 静かに次男の勝二に聞いた。わずかな青い光の粒子の漂う廃工場の床にはかつて光二であった肉片が散らばっていた。勝二は答えない。私は鉄の棒で思いっきり勝二の顔面を殴った。警告だ。ただしそれは話さなければ痛い目に遭うという意味ではない。話さなければ死ぬことになるという警告だ。闇に近い空間の中で勝二が笑うのが分かった。
「オレたちの親を死に追いやった奴を見つけた。上手くいっていればそろそろだ」
「どういうつもり? 仇討ちとでも言うつもり?」
「なんだそれは? よく分からないな。ただオレたちを今の境遇に追いやった奴を殺す。むかつくからな」
 仇討ちという発想が出来るだけ自分がまだまともなことを知った。たぶん弟たちは幼すぎた。
「光二はどうして?」
「儀式だ。拓二は人を殺したことがない。いざというときに失敗しては困る。だから拓二は光二に頼んだ。光二は了解した。拓二は光二と一体となって奴を殺しに行った」
「ノノあなたも、食べたの?」
「置いてあるんだ。拓二が失敗したと分かったら、次はオレが光二と一緒になって殺しにいくことになっている」
「そう」
 私は鉄の棒で勝二の足を打った。倒れた勝二の足をさらに肉がぐちゃぐちゃになるまで打ちつづけた。隠れて過ごすことに慣れすぎたのか、呻き声さえ控えめなのが悲しかった。
「あんたは負け犬だ。警察にここを知らせる。車椅子でこれからは誰かに飼われて生きていきなさい」
 気を失った勝二にそういい残して私は去った。

 割と仲が良かった男から拳銃と銃弾を貰い受けると試しに撃ってみた。とりあえず拓二と同等になった気がしたが、なんとなく終着駅も見えてきた。暗い地下室の階段を登ると、闇はネオンに照らされて明るかった。多くを知らないから遣り残したことが何か分からない。ただ拓二は殺さなければいけない。でなければ、私はあらゆる意味で死んでしまう。でも拓二を殺した私を、今度は誰が殺さなくてはならなくなるのだろう。考えがまとまらなくて、まだ電車がある時間の喧騒の交差点で、私は立ち止まり銃口をこめかみに当ててみた。上手く想像できないが出来そうにないこともなかった。人ごみがざわめいた。私が視線を向けると人並みが割れた。交差点の真中で私はぐるりと周囲を見回した。その一方向、人並みが割れた先にショーウィンドウがあった。その中で、そういえばむかし憧れていたような気もするドレスが飾られていた。一瞬だけ着てみたいという衝動に駆られたけど、もっといいことを思いついたのでそっちを実行した。私はショーウィンドウの前まで歩いた。近付くと思ったよりずっと大きなウィンドウで少しだけ高い位置にあった。それから発砲してショーウィンドウのガラスを割った。粉々に砕けたガラスの破片がキラキラ光りながら宙を舞い、私に降り注いだ。その一瞬、確かに私は明るく輝く世界の中心にいた。
 ビルの屋上。拓二と向かい合う。下からサイレンの音が聞こえる。捕まえる気もないのに、演技には随分熱がこもっている。
「姉貴、随分賑やかじゃないか」
「見てた? 綺麗だったでしょ?」
「逃げなよ。すぐに追っ手がくる。もうオレたちが会うこともない」
「時間は十分に足りるわ」
 拓二が肩をすくめ、やっと私の目を正面から見た。
「勝二はどうした?」
「足を潰したわ。鉄の棒でミンチになるまでね。それから警察に電話しといた。車椅子に乗って、世話をしてくれる人がいて、みたいな裕福な暮らしが待っていると思うわ」
 知らなかった。街のビルの屋上では月の明りより、地上から上がってくるネオンの光のほうが強い。その光の粒子が拓二を照らし出し、空に影を作る。その姿は怒りに満ちていた。
「おまえは、勝二を殺したのか!」
「命を奪ったわけじゃない。あなたが光二を食べたように」
「光二が望んだことだ」
「光二には判断など出来はしない。そしてあなたにもね、拓二。あなたたちは欠け過ぎている」
 私はそう言って銃口を拓二に向けた。
「一応聞いといてあげる。やったの?」
「もちろんだ」
「そんなことをしても意味はないのに」
「おまえたちは意味を求めすぎる」
 会話が唐突に終わった。拓二が私に銃口を向けていた。引き延ばされた時間の中で拓二が笑っているのを私は見た。引き金を引いた。引く前から分かっていた気もしたけど、正確に拓二の心臓を捉えた。強い力が拓二をビルの上から宙へと押しやった。私もまた、自分でこめかみを撃ち抜くまではなかった。重力が、消えた。
 
消える。青い光も消える。闇に生きたつもりだったなんて。なんかおかしかった。私はそのとき初めて闇を見た。闇が何なのかを知った。急速に歪んで、溶けていく。歪んで旋律に聞こえていたサイレンも、闇に溶けていく。そして、たぶん、もう、分からなくなる。なにもかも、すぐに。





エントリ4  ノーブルチョコレート   るるるぶ☆どっぐちゃん



 存在することには意味が多分あるのだし、だから、あの白い壁のビルが高いことにも、きっと意味があるよ。
 びしゃああん。びっしゃあああん。長く伸びた避雷針に、カミナリがどんどん落ちる。六連発。青空からあの白く美しい、八十階建てのビルのてっぺんへ、雷が落ちていく。びっしゃああん。びしゃああん。カミナリが、六連発。ぴしゃああん。
 あたしは一歩前へ。崩壊したビルの跡地、つまりたった六連発のカミナリで、がらがらと音を立てて崩れていってしまったビルの跡地の、もう何も無い大地にひざまづき、キスを六連発。ちゅ。ちゅ。ちゅ。
 六連発。
 ちゅ。ちゅ。
 ちゅ。

 しかし涙。涙ね。涙か。成る程ね。ふむふむ。
「そうですよ。その通りです。涙です。」
 そうですよね。解りました。ていうか解ってます。涙ですね。うんうん、解りますよ、涙。
「ええ、そうです。涙です」
 涙ですよね。うん、涙。オウケイオウケイ。
「涙のことです」
 涙。うん。涙か。涙、ってのはやっぱりさんずいを使うんですね。水ですからね。漢字詳しいでしょう? 漢字は、あたしあまり書けませんけれど、結構読めるんですよ。好きですよ。漢字、好きですね。漢字にはなんていうか、雰囲気、ってものが、ありますよねえ。うんうん、涙。雰囲気、雰囲気。漢字には、なかなか今の世の中では得難い雰囲気、ってものが、ありますよねえ。涙か。ええと。だから、要するにナミダですよね漢字を読むと発音は。ナミダか。ナミダね。ナミダか。ナミダ? ナミダね。
 ナミダ。
 ふうむ。ちょっと待って下さいね。
 ナミダって、何色?
 いや。いやいやいや。いやいやいやいや、ええと。ええとですね。ともかく、ですからね。ナミダ、も良いですけれど、それよりもですね、チョコレートケーキ。茶色のあのチョコレートケーキです。チョコレートケーキの、話なんですよ。ナミダは止めましょう。止しましょう。チョコレートケーキ。チョコレートケーキの話です。あなたの話は、確かにいつも面白いけれど、いつも面白くて、とても良いのだけれど、はっきりいってあたしが面白いと思うのは今ではもうあなたの話くらいしか残されていないようなものなんですけれども、でも今はですね、あたし、チョコレートケーキの話をしたいのですけれど。聴いてますか? チョコレートケーキなのですけれど。チョコレートケーキ。解りますか? チョコレートケーキ。要するにあれです、チョコレートを使ったケーキですよ。あの甘くて、茶色をしたチョコレートケーキです。甘くて美味しいけれど、チョコレートケーキは難しいですね。チョコレートケーキだから、チョコレートを必ず使わなければならないから、難しいですね。味にも色にもバリエーションがつけづらくて。お金をかけなければ良いものが出来無いし。チョコレートケーキは、難しいのです。アップルパイなんかはね、作った人の数だけアップルパイがありますというか。アップルパイは、シンプルなだけにバリエーション豊かですよ。どこの店で食べても、全てのアップルパイがうまい。全て作り手の意図が反映されやすくて、食べてて楽しい。その点チョコレートケーキは難しいですよ。チョコレートケーキは、チョコレートケーキですからね。どこの店で食べても、チョコレートケーキってチョコレートケーキですよね。美味しいチョコレートケーキは、食べれます。でも、どうにもなんていうか、これ、これお気に入り、これ新しい、っていうチョコレートケーキは、なかなかありませんよね。チョコレートケーキって、難しいですよ。ねえ、聴いてますか? チョコレートケーキの話ですけれど。チョコレートケあっ……。ええと、あっ……。

 ああ、あたしはですね。そうやってあたしの足下にひざまづいているあなたに、裸のままひざまずいているあなたに、あたしはひざまずきたい。これはなかなか難しいことですよ。なかなかに不可能なことです。あたしの足下にひざまづいているあなたにひざまずくのは、いくつかの不可能があるのですよ。距離とか、時間とか、そのような不可能があるのですよ。不可能があるから、不可能が一つでは無く、いくつもあるから、なかなかこれは、難しい。
 ああ、不可能か。そういえば、神はどこにいるのでしょうかねえ。神様です。神はどこにいるのでしょうか。死にましたか? 神は死んでしまいましたか? 死んだ?
 鏡はあるのですがねえ。目の前には大きな、銀細工をあしらった、デパートの化粧品コーナーとか、宝石売場とか、そこら辺に置いてありそうな、そんな鏡が、あるんですがねえ。あたし達二人が映っているのが、良く見えます。何も無い大地にひざまずいたあなたと、あたし。あたしもいつの間にか裸ですなあ。しかしこんなものが、見えてもねえ。確かにカガミとカミ。漢字の字面では無く、読みの音だけから考えれば、なかなか似てますけれど、でもまあそういう問題じゃあ、無いですからねえ。似ていれば良いって言う問題じゃあ、無いですからねえ。ああ、鏡はありますね。鏡はここです。神はどこにありますかねえ? いや、あるっていうか、あるじゃおかしいですね、日本語間違えましたねすいません。改めて、神様は、どこに、いますかねえ?

 そういうわけで、あたしはチョコレートケーキを、綺麗な綺麗なピンク色に焼く方法を、考案した。
 神はどこにいるのか。鏡はどこにあるのか。あたしはあなたにひざまずきたい。教会の真ん中には白い神様の像があるけれど。あたしはひざまずきたい。このピンクに輝くチョコレートケーキを掲げて、あたしはあなたにひざまずつたい。
 ともかくピンクのチョコレートケーキで、あたしはノーベル平和賞を受賞した。
「おめでとうございます」
 黒い細身のスーツ、美しい白い髭、痩けた頬が知的で魅力的なノーベルさんが、あたしにノーベル平和賞の賞状を手渡しました。
「さあ、こちらへどうぞ」
 ノーベルさんがあたしを案内する。扉の先には大きな赤い、見たことも無いような形の、素敵なオープンカー。
「特別に作らせました」
 ノーベルさんは微笑みながら、そう仰られます。
「ノーベルカーです。ノーベル賞を取った人しか乗ることの出来無いノーベルカーです」
「まあ」
「どうぞお乗り下さい。皆さんがお待ちですよ」
 凄い歓声が聞こえる。うわあ、うわあ、と凄い歓声。大地が揺れています。
 あたしはノーベルさんにエスコートされてノーベルカーに乗り込んだ。
「ノーベル! ノーベル! ノーベル! ノーベル!」
「万歳! ノーベル! 万歳! ノーベル!」
「ノーベルチョコレート! ノーベル! ノーベルチョコレート!」
 吹き荒れる喝采。鳴りやまない拍手。百万色の紙吹雪。
 カミナリが六連発。の六連発。が何度あったか。つまりは何回なのか。キスは、一体どのようになされれば良いのか。どのような角度で、何度なされれば良いのか。
 まあ良い。ともかくチョコレートケーキだ。ピンクのチョコレートケーキで、ノーベル平和賞だ。
「ノーベル! ノーベル! ノーベル! ノーベルチョコレート!! ノーベル!!」
「ノー、ベェール!!」
 あたしは手を振り返す。ピンクのチョコレートケーキを小脇に抱え、遠くへ、近くへ、歓声に向けて手を振り返す。
 がらがらと、大きな音を立てて崩壊していくビル群。その中を、平和に向けて、パレードは続く。





エントリ5  子に過ぎたる宝なし   ごんぱち



「こんちは、ご隠居」
「何だ、誰かと思えば八じゃないか。どうしたぃ?」
「いやね、この前カカァがガキをひり出しやがったんでね」
「――お前ね、ひり出すてぇ言い草はないだろう。子宝なんてぇぐらいだ。子に過ぎたる宝はなし。子供に甘いのは論外だが、大事にはしなけりゃいけないよ。特に今は少子化だ、将来お前がボケたり寝たきりになった時には、面倒見てくれるんだから」
「へー、そういうもんですかねぇ?」
「そうとも」
「でも確かご隠居、この前二十四孝てぇ話をしてくれましたよね?」
「んん? ああ、そういえばそんな事もあったな」
「あの時は、貧乏で親の食い扶持が減るってんで、自分とこのガキを埋めるヤツを、随分褒めてなすった」
「――あー、そんな事を言ったかな?」
「子のかけがえはあるけれど、親のかけがえはねえとか何とか言って。孫を埋められた祖父母の心情には全く触れずに」
「下らない事を覚えてやがんな。それはその時、これはこの時だ。シチュエーションてぇものが違うだろう」
「ですがご隠居、主張は首尾一貫してねぇと、BBSなんかで揚げ足取られますぜ?」
「取りたいヤツには取らせておけばいいんだよ!」
「でもねぇ……」
「いいかい、例えば、だ。八、お前が昼の腹が減ってる時に寿司を喰うとするな」
「ご隠居は、腹が一杯の時に寿司屋に入るんで?」
「いいから黙って聞け。そん時に、シャリが多かったらどうだ?」
「まあ、喰いでがあるから嬉しいです」
「じゃあ、仕事から帰って、一杯引っかけたい時に、もう握り飯みたいにでかいシャリが付いてたらどうだ?」
「嬉しいですねぇ」
「お前、メシ喰いながら酒飲めるのかい?」
「いええ、ネタだけ剥がしてつまみに呑んで、シャリは持って帰って次の日のおまんまにします」
「貧乏たらしいヤツだねどうも」
「へえ、恐れ入りやす」
「褒めてないよ――ええと、この寿司屋は持ち帰り禁止だ。こっそり持って帰るなんてのもナシだ。さあどうだ?」
「へえ、しみったれた寿司屋だねぇ。おれの行き付けの店は持ち帰りしかやらねえですよ?」
「それは小僧寿司か何かだろう」
「いええ、とんでもない! スーパーで半額見切り品を買うんで」
「……ちゃんと、カウンターのあって、回ってない寿司の話だよ」
「はあ、まあそういう極めて作為的に限定された前提なら、シャリを減らして安くして欲しいですねぇ」
「ほれみろ、時と場合で人の好みは変わるものだ。いわんや親子の情をや、だ」
「はぁ……何だか分かったような分からんような話ですねぇ。ありがとうございます、じゃあ、あっしはこれで」
「こら、八。何か用事があって来たんじゃないのかい?」
「ああっとしまった。そうそう、この前カカァがガキをひり出しやがって――」
「そこは聞いたよ」
「意外に記憶力いいですね、ご隠居」
「……お前、誰を基準にしてるんだよ」
「それで、カカァがビデオをあんまり撮るなってうるせえんでさぁ」
「ほほぅ、何だかんだ言っても、お前も人の親になったんだな、八。子供が可愛くてビデオを回したいと見える。昔は『避妊具が面倒臭え、パイプカットやってくれる病院教えてくれ』なんて言ってたのにな」
「いやぁ、可愛いとかじゃあねえんで」
「じゃあどうしてビデオを撮る?」
「ええ、それが、あいつぁ赤ん坊のくせにあんまり凄い事をするもんでね、今のうちに撮っておいてそのテープを研究機関やテレビの面白ビデオコーナー辺りに高く売ろうと、こう思うんで」
「凄いってどんな事をするんだよ?」
「いや、聞いて驚かねえで下さいよ。ほら、飛び出さねえように入れ歯押さえて」
「明治時代のバネ仕掛けじゃあるまいし、きょうびの入れ歯が飛び出すかい」
「じゃあまあ……いやね、うちのガキが、信じられねえような大声で泣くんですよ」
「はあ、泣くかい」
「しかもその声が、盛りの付いた猫ソックリで! 凄えでしょう!」
「……ああ、凄いよ」
「そうでしょうそうでしょう」
「当たり前過ぎて凄いよ」
「へ?」
「赤ん坊なんてぇのは泣くもんだよ。それ以外何で伝える事も出来ないんだから、大きくて当たり前さ。猫に声が似てるってのも、大体どの赤ん坊でも一緒だよ。多分、赤ん坊や子供の泣き声に似ていたから、猫が好まれたんだろうな」
「ええっ、そうなんで? じゃあ、アレはどうですか」
「何だ?」
「あのガキ、オレをさしおいて、カカァの乳を吸いやがるんですけどね」
「どちらかてぇと、所有権は子供の方が強いがね」
「誰に教えられた訳でもねえのに、一番最初からきちんとくわえて飲みやがったんですよ」
「赤ん坊は、本能で母親の乳を含むもんだよ」
「しかも、あんなまずいもんを、文句も言わねえで飲むんですよ」
「文句を言う方が凄いよ――って、お前飲んだのかい」
「まあ、夫婦生活の彩りとして。他にはカカァをこう立たせて後ろからこういう角度で……」
「お前たちのプレイの詳細なんて聞きたくないよ」
「まあ、そんなこんなで、凄えガキなんです」
「凄かぁないよ、普通だよ。目一杯」
「え、でも、え? あれ、そうなん、ですか……」
「まあそんなにガッカリした顔をしなくてもいい。どんなに平凡でも、自分の子なれば特別に見えるのは当たり前だ。岡目八目親目盲目、全部をビデオに撮影したい気分も分からないではないな」
「分かりますか」
「ああ、分かるとも。私だって倅が若い頃にビデオがあったら、事あるごとに撮っていたさ」
「倅? ご隠居子供がいたんで?」
「一人だけで、他にはいないな」
「誰との間の子で?」
「私が同居している女性ったら、一人だろう」
「ええっ、まさかあのバアさんと? いやはや……」
「五十年も前の話だよ! 若い頃は、あいつも――まあ、美人じゃなかったが、それなりに愛嬌があったんだ」
「なるほど、鬼も十八番茶も出花ってヤツですね」
「当たってても、他人に言われたかぁないよ」
「それで、子供の今の消息は?」
「消息も何も、お前のアパートの大家だろう?」
「ああっ、あのケチ野郎! 言われてみれば、鼻の広がった所とか、額が広いところとか、目つきが悪いとことか似てやがらぁ」
「……あれでも小さい頃は可愛かったんだよ」
「へー、何が彼をああさせたんでしょうねぇ?」
「やかましい。あれでも私たち夫婦には優しいんだよ。大体、不動産賃貸業なんて、半端な人間に出来る仕事じゃないんだよ」
「はー、なるほど。それで、ビデオの話なんですがね」
「いいや聞きなさい。そもそも倅が就職した時はだね、高度経済成長期だった。しかし無目的にサラリーマンを続けて、良いのかとまあ考えた訳だ」
「はあ考えましたか。それで、ご隠居から口添えをして貰ってカカァを説得して、ビデオを撮りやすく」
「ここからが大事なんだよ。それで十年と目星を付けてだな。自営業の開業資金を貯める事にしたんだ。そして最初のアパートを買ったのが何と二年目だ。二束三文の訳有り物件だが、ここから手を尽くして居座り屋を追い出して――」
「ええと、ビデオ……」
「黙らっしゃい! それで次にだな、おおそうだ、写真がある。是非見ておきなさい。今でこそああだが、小さい頃はそれはそれは美男子でな。鳶が鷹を生んだなんてぇ事をよく言われたもんだ」
「待った! ご隠居、分かりました分かりました」
「何が分かった?」
「大家が子宝てぇ事はよく分かりました」
「そうかそうか」
「それからええと、子に子に、過ぎ過ぎたる……過ぎたるは及ばざるが如しでしょう?」




エントリ6  バカの鼻   篠崎かんな



 カラリとした雰囲気の雨上がりの日曜日、スカートをひるがえして、坂を上る。目指すは町はずれの特等地。坂の多いこの町の一番てっぺん。
「うん。気持ちいいや」
 町のすべてが見渡せるこの場所は、私の一番好きな場所。人も家もビル群も、海を背景に私の視界の中で渦巻いている。
 清々しさも爽やかさも、十分にたんのうして、さて帰ろうかと、振り返ったら、見慣れぬお店が目に付いた。新しく出来た店だろう、真新しい建物が、水滴に塗れてキラキラ輝いていた。
『はなや』
 私は好奇心に支配されて、その店の引き戸を開けた。
「あっ、いらっしゃい」
 いやにエプロンの似合う小柄な男。
「あの、ここ本当に花屋ですか?」
 この小さな部屋には、花など置いて無い。白いテーブルと椅子のセットがいくつか。あと壁一面にガラス張りの棚があり、色とりどりの華やかな瓶が並んでいた。
「違うよ。『花屋』じゃ無くて『鼻屋』ね、香りを売ってるんだよ」
「香り、ですか」
「そう、今朝開店したんだけど、君が一人目のお客。特別に一杯ごちそうするよ」
「一杯?」
 香水でも売っているのだろうか。店主は奥に引っ込んで、紅茶を持って戻ってきた。
「待って、まだ飲まないでね。……えっと、どんな花が好き?」
「一番好きなのは、ラベンダー」
 それを聞いて、男は棚から綺麗な紫の瓶を取り出した。
「君の心に、ラベンダーを咲かせます」
 店主はそう言うと、瓶の中身を紅茶に加えた。
「はい、どうぞ」
 少し戸惑ったが、促されて、カップの中身を口にした。
 とたん、目の前にラベンダー畑が見えた。
「……何?」
 目の前にはカップがある。ここは部屋の中だ。隣にはエプロン姿の店主がいる。なのに、今見えた光景は、何?
「目をつぶったほうがいいよ」
 にっこりと笑う店主に言われて、私は目を閉じる。
 暖かい紅茶が喉を流れ、甘い香りが鼻を抜けると、私はラベンダーの中にいた。
 明るい日差しに照らされて、浮かび上がる一面の紫色。狂おしいほどの甘い香りと、開放感に促され、思わず走りだした。全部ラベンダー、すべてラベンダー、この世界でそれ以外の物は、あの真っ青の空と私だけだ!

 目の前には空のカップ、甘い香りは体から抜けて行った。
「どうだった?」
「すごい……」
「でしょ。」
 心がまだ弾んでいる。走り出した感覚が残っていた。
「あの……おいしかったです。また来てもいいですか」
「お店なんだから、また来てくれたら、嬉しいよ」
 店主の笑顔に、私もつられて笑った。

 私はそれから、この店に通った。と言っても毎日では無く。暇が出来るのは、決まって日曜日の午前中。息を弾ませて坂を上った。
「いらっしゃい。今日は何がいい?」
 いつもの笑顔が私を迎える。
「海!」
 次はこれだって、決めてたんだ。
「うん。海ね。とびっきりの奴があるよ」
 当然のように置かれた紅茶に、青い液体が入り交じる。初めの一口目は手が震える。一週間のお預けを解消するように、急いで口に運ばれる。
 塩の香りが私を包む。無数のきらめきを発しながら、目の前にあるのは海だった。
 懐かしい……。ここはあの海だ。自転車でよく行った近くの海。埋め立てられたはずの湾が、青々とした海水で満たされいて、不格好の開門も無くなっていた。ここの海は昔のままだ。熱い砂を踏んで行く。今じゃゴミだらけの波打ち際も、ここにあるのは流木かヒトデかクラゲぐらい。白い波が素足に冷たい、失ったはずの私の海はここにあったんだ。

 カップは空になっていた。ため息が口から漏れる。もう少し、あの海に身をゆだねていたかった。
 私はカップを持ったまま、店主に突き出した。
「おかわり」
 店主は、またかと言うように笑う。
「駄目だよ。いつも言ってるっしょ。一日一杯、これが原則。それ以上飲んだら疲れちゃうよ」
「私は一週間に一杯だからなぁ……。ここにあるの全部飲もうとしたら、どのくらいかかるんだろ」
 棚には沢山の瓶。ラベルに書かれた文字は、まだ体験して無いものばかり。
 ……バラ、ひまわり、桜、コーヒー、レモン、ブドウ畑、お茶、深緑、笹林、、雪化粧、快晴、土砂降り、結婚式に葬式。えっと……
 棚の一番端に、ラベルの無い茶色の瓶があった。
「何だろう……」
 取り出して見ると、意外とほこりは被っていない。
 ほかの物より小さいその瓶は、蓋のところが白い紙で封印されていた。
「あっ、駄目だよ。それ出しちゃ」
 早々に取り上げられて、また元の位置に戻された。
「ねぇ、何なのその瓶」
「うーん……これはね、究極なの」
「……一番いい奴、隠してるわけね」
 ふてくされて、言った。
「いいよねぇ、毎日この紅茶飲んでいるんでしょ。羨ましいよ」
「そうでも無いよ、沢山の香りが周りにあっても……僕の鼻は、もうバカになっている」
「バカに?」
 沈んだ声と、影がかかる表情。どうかしたの? 顔をのぞき込もうとしたら、急に明るい笑顔を振りまかれた。
「それに、結構忙しいしね」
 声も明るい、何だったんだろうか。
 引き戸を開ける音が響いた。
「あっ、いらっしゃいませ」
 入り口に顔を向け、微笑む店主――の顔が、固まった。
「おじゃまするよ」
 入ってきたのはスーツ姿の数名。一人が何か紙をひけらかして、店主に名前を訪ねた。答えると、先頭切って入ってきた男が、重々しく言う。
「麻薬密輸業者が摘発されてな、リストにあんたの名前があったんだ。少しここ、調べさせてくれるかな、そしてご同行願いたい」
 なんですって?
 私の座っていた椅子が音を立てて倒れた。棒立ちの私に警察官だろう人の手がかかる。
「お嬢ちゃん。出てってくれるかなぁ」
 暗示がかけられたように、すんなりと外へ閉め出された。ドアが閉まる一瞬、穏やかな店主の顔だけが、私の視界に滑り込んできた。

 どんよりとした雰囲気の小雨の日曜日、スカートが濡れるのもお構いなしに、坂を駆け上がる。目指すは町はずれのあの店。一週間前の光景が頭から離れない。
 当然のように扉は閉まっていた。引き戸のガラスから中を覗くと、暗い店内に、椅子とテーブルはそのままだったが、棚の中身は無くなっていた。
『大麻と覚醒剤が見つかった』『常習者だったらしい』風の噂は私も聞いていたが、信じてはいなかった。……でも、この店が開くことは無い。香りの瓶もすべて持っていかれた。
 店主の笑顔が心に浮かぶ。何で、こんな事になったんだろう……
 ふと、足下、隠れるように小さな瓶が落ちていた。ラベルの無い封印されたあの瓶だ。
「お前は無事だったんだね」
 私の手の中で、瓶が喜んだように見えた。私が放り込んだのか、瓶が転がり込んだのか、とにかくその瓶は、ポケットに収まった。

 目の前には紅茶が一杯。部屋で飲むのは初めてだ。茶色の瓶は笑いかける。店主の笑顔にそっくりだ。私は白い紙を破り、そっと蓋を取り外す。小さな瓶の中に残っているのは、一杯分。キラキラした液体が、紅茶の中にしみこんで行く。カップを持つ手がいつも以上に震えた。目をつぶり、口に付けて一口流し込む。
 涙がほほを伝う。何で? と思って目を開けると、一気に涙が溢れてきた。
『悲しい……』
 感覚が体を打ち、心が沈む。胸が締め付けられて、嗚咽が漏れる。涙は止まらない、声を荒げて、しゃくりあげて、とにかく泣く。落ち着きかけると、紅茶を一口飲んで、また涙の中へと身を沈める。苦痛では無い、ただ悲しくて、ただ泣きたいのだ。必死で泣く、一生懸命泣く、悲しみに溺れる感覚を体全体で味わって、紅茶も涙も空になった頃には、私の鼻はバカになっていた。
 もう何も感じない。レモンの香りを「レモンだ」とは思っても、ほかの感情は生まれてこない。何を食べても、何を嗅いでも、乾いた心は反応しない。店主は言っていたじゃないか、この香りは「究極」なんだと。あまりにも強烈で、一度知ったら、ほかの香りは無いに等しい。店主の鼻もバカだった、いろんな香りを集めて、麻薬や覚醒剤なんかにも手を出して、たぶんそれでも、満ち足りた訳では無いのだろう。
 『悲しみ』に勝る感情など無い、思いっきり泣ける事より、満たされる事なんて無い。
 私はこれからの人生、ほとんど飾りの鈍感でバカな鼻を顔に掲げて、生きなければならない。





エントリ7  雪原   相川拓也



 白い朝、快晴。乾いた刃物のような風がふきつける。村上祐也はその風に逆らって、ぐいぐい自転車のペダルをこぐ。裸の立ち木が震えている。祐也は機関車のような息を吐き出して、ずいずい進んでいく。
 春、入学した頃に比べると、中学校の門のまわりはずいぶん寂しい。花壇は土ばかり。それでも、祐也は冬独特のピンと張った空気も悪くないと思っている。まだまばらな駐輪場に自転車をとめる。テストが近い。朝練のない朝は静かだ。
 祐也は勉強はできる方だ。信頼もされているから、友達が質問に来ることも多い。そういうとき祐也は丁寧に教える。祐也の講義は評判が良い。聞かれて分かることであれば、彼は何でも教えていた。その日は真二の英語に五時まで付き合って、ようやく帰る。
「お前ほんとすげえよ」
 帰り道、真二が言う。
「お前と違って頭悪いから仮に、の話だけど、俺だったら暗くなるまでバカの相手してないよ」
「何か、そういうのほっとけなくて」
「ふーん。やっぱすげえよ」
 真二は祐也に缶のミルクティーをおごってやる。風は朝と変わらず、ひゅうひゅうふいている。

 祐也は家に着き、夕食の仕度を始める。母親は死産だった。父は彼の妻について多くを語りたがらない。祐也が知っているのも、死産したことと、二十六歳の母の顔だけだ。
 必然的に祐也は父になついた。幼い頃、父は絶対だった。
 小学校に入ったばかりの頃、祐也はコップを落として割ってしまった。父親は見ていない。しかし割れたコップは、幼い祐也の手に負えなかった。泣きそうな顔で付近をうろうろしていると父親が来た。
「何か割れたか?」
「……」
「落とした? けがしてないか?」
「風……」
 祐也は吹けば飛んでしまいそうになっている。窓は閉まっていた。
「祐也。……うそだけはつくな、つかないでくれ。いいか、祐也」
 父親は静かにコップを片付ける。祐也は父親が片付け終わって行ってしまってからも、そこから動けなかった。得体の知れない怖さから、涙腺がしばらく閉じなかった。祐也はこれ以後うそをつかなかった。父親は誠実に生きろ、とよく言った。実際祐也は誠実だった。
 その父親、村上弘は高校の教師だ。春に男子校から共学の学校に異動になっていた。「二人とも一年生だな」という弘の言葉が、祐也には嬉しかった。

 弘はなかなか帰らなかった。祐也は一人で食事をすます。珍しいな、と思った。遅くなるときはいつも何か言うのに。八時半を回ろうとしている。

 弘は女子バスケット部の顧問をしている。六時に部活を終えて、七時に下校する。家まで車で一時間。校舎から出ると、すっかり外は暗く沈んでいた。校舎の灯りはほとんど消えている。
 帰り道、弘は女子生徒の影を見つける。一人で歩いていた。
「おい」と生徒に呼びかける。「遅いじゃないか、進藤」担任するクラスの生徒だった。
「あ、すいません」
「危ないぞ、こんな暗い道。家遠いのか?」
「いえ、バス停までなんで」
「……乗ってけ、送ってやるから」
「え、いいんですか? F町ですけど」
「通り道だ」
「じゃあ」と言って、進藤は車に乗る。バレーをした後で、いかにも疲れた様子だった。
「ホーヘスハイムってわかりますか?」
「知ってるよ」
 弘は車を出す。
 進藤知子は走り出してすぐ眠りにつく。乗り過ごす心配もなく、知子はゆっくり寝ることにする。弘に一言断わることもせず、知子は眠る。弘は横目で彼女を見る。無防備に口を開けて、幼い顔で眠っている。弘は思わず微笑む。自動車は細い道を照らして粛々と走る。

 弘は十時を過ぎてようやく戻った。祐也は特に理由を問わなかった。
 次の日、祐也は誰からも講義の依頼はなく、早く帰った。家に着くと、父がいる。
「あれ? どうしたの?」
「ああ……今日、行ったら年休でな。休みだったんだよ」
「昨日は遅かったけど……」
「ああ、昨日は、ちょっと、寄るところがあってな」
 弘は手紙のようなものをたたみながら言う。言葉につまり気味だったのはビールのせいか、などとテーブルに置かれた二、三の缶を見て祐也は思う。珍しい。だが質問攻めも気が引けた。さて、そろそろ夕方の安売りが始まる、と言って弘は出かける。祐也は軽食をあさる。
 部屋は静かだ。菓子袋を開ける音がひときわ大きく聞こえる。そういえば、と祐也はふと学校で聞いた話を思い出す。
「N高校で強姦だってね」
「県内であるとはねぇ」
 まさか、と祐也は思ったが、すぐ思いなおす。父が年休と言ったから、年休なのだろう。免職されるような人ではない。

 その翌日、祐也は友達の数学に付き合って、五時過ぎに帰宅した。外は薄暗く、雪がぱらついている。居間に入ると弘がテーブルに突っ伏している。何本もビールの缶が空いている。眠っているようだ。昨日と同じ手紙が傍に置いてある。祐也はそれを手にとる。
「こういう形でしかあなたにお話できないことをお許し下さい。でも、もう限界なのです。言おう言おうとは思っていました。でも、祐也を本当にかわいがっているあなたの姿を見れば見るほど、言えなくなってしまうのです。
 祐也はあなたとの子かどうか、わからないのです。不器用なあなたに愛想をつかしていたのかもしれません。今となっては、自分の愚かさにうんざりするばかりです……。それでも、立ち会いまでしてくれたあなたは、自惚れかもしれませんが、私を本当に愛しているのだと感じました。そう思うと、この子を生むことが大罪のような気がしてなりませんでした。何度祐也を殺してしまおうと思ったでしょう。でも、あなたから祐也を奪うことなど、とてもできませんでした。
 私が死ねばあなたは悲しむかもしれません。でも、あなたについてしまった重すぎる嘘をつぐないたかったのです。私のわがままを、許して下さい……」
 部屋に蛍光灯の音が冴える。空き缶が沈黙する。

 弘が目を覚ます。手紙を持った祐也の姿をみとめて黙る。祐也は見たこともない、おびえた犬のような父の姿に驚き、軽蔑の念さえ覚えた。
「嘘……だったんだ、死産」
 弘は消えてしまいそうだ。
「学校は?」
 声か息か分からないような音を出して、弘はうろたえる。
「レイプ?」
 祐也にとって、弘は父ではなくなっていた。立派な人物だと思っていた祐也の父は、薄汚ない中年の姿を露呈している。弘は何も言えない。

 祐也はゆっくりと居間を出ていく。玄関を出る。雪は踏むと音がするほどに積もった。傘もささず、祐也は道を歩く。雪が街灯を浴びて小さく光る。いつにもまして静かだ。雪の感触が足に心地良い。
 祐也は父への冷たい態度を少し悔いていた。強姦は許せない行為だが、父も父とて、妻を失った悲しみは大きいはずだ、と祐也は思う。それでも、父に対して生まれた漠然とした嫌悪は消えなかった。空は真っ暗になっていた。白い雪が暗い空から降ってくる。白い空から黒い雪の降ってくるのが人間なのか、と祐也はふと考える。
 見たことのない小さな路地に入っていた。街灯はまばらでひっそりとしている。負の感情はまだ祐也の中に渦巻いている。しかし不思議とすがすがしい気分になっていた。体がしんと冷える。祐也は歩き続ける。
 空地があった。真っ白い雪が土を覆っている。暗い景色の中で妙に浮き立って見える。美しい、と祐也は思う。均一に降り積もった雪に一歩踏み出す。祐也はそこで走り回る。真っ白な雪が、足跡でぐしゃぐしゃになる。





エントリ8  幸せの殻   紺野なつ



「女の一生をレースに例えるとね、私は詩織ちゃんより1周遅れてるんだって」
 家に遊びに来た従姉妹の千沙ちゃんが膨れて言った。女は結婚して子供を生んで一人前だと伯父さんに言われたらしい。
「もうすぐ2周遅れになるね」
 そう言って私の大きなお腹にそっと触れる。
「でも、まさか奥手の詩織ちゃんに先を越されるとは思わなかったな。今じゃ立派な若奥様だもん」
「そんな事ないよ。私なんて……」
「どうした? 何かあった?」
 表情を曇らせた私を心配して千沙ちゃんが言った。
「いいアドバイスは出来ないかもしれないけど、話すだけでも楽になるよ」
「ありがとう。でも、何でもないの」
 私は精一杯の笑顔を作る。
「それより夕御飯食べていってくれるんでしょ?」
「ごめん、仕事入ちゃって。本当にごめんね」
 千沙ちゃんは何度も謝った。千沙ちゃんはいつも優しい。
「もし、話したい事があったら夜中でも電話して。独り者は暇なんだから」
 帰り際にはそう言ってくれた。誰もが千沙ちゃんみたいに優しかったら……。千沙ちゃんを送り出した後、一人だけになった部屋でそう思う。私の世界の全てを見渡して。

 その夜は夕食のテーブルに乗りきらない程の料理が並んだ。夫の雄一さんが少し困ったような表情を浮かべた。
「またこんなに作って。おかずは簡単な物でいいから休んでてくれよ」
「病気じゃないんだから少しは動いた方がいいの。それより、その煮物食べてみてよ」
 私が微笑みながら言うと、雄一さんは南瓜の煮物に箸を伸した。
 今日は千沙ちゃんが帰るとすぐに夕飯の準備に取り掛かった。料理を作るのは楽だ。その間、他の事を考えなくて済むから。最近、気が付けば今日のように食べきれないくらい沢山作ってしまう事が多い。
「御飯が美味しいのはいいんだけどさ、毎日こんなに食べさせるから、お前みたいなお腹になっちゃったよ」
 そう言ってトレーナーをめくり、ぽこんと出たお腹を見せて笑った。
 今、幸せだと思う。ここに悪意は存在しない。
「予定日の頃は桜が綺麗だろうな。来年は3人で花見に行こうな。あ、そうだ、女の子だったら桜って名前にしようか?」
 雄一さんが遠足を楽しみにしている子供のように目をきらきらさせて言う。
「……赤ちゃん産むの、やめてもいいかな?」
 無意識のうちにそう言っていた。
「え?」
 雄一さんは狐につままれたような顔をしている。私も自分が発した言葉に驚いていた。しかし、言葉は堰を切ったように次々と私の口から溢れていく。
「怖いよ」
「大丈夫、二人で話し合って決めたじゃないか。絶対俺が守るって」
「無理よ。私とこの子に、いつでも付いていられるわけがないじゃない」
「詩織は子供を愛してないのか?」
「愛してる! でも、外に出るのが怖いの。私みたいなのがお母さんじゃあ、この子は不幸になっちゃう。だから―」
 その時、脚を伝って暖かい液体が流れていくのを感じた。破水したのだ。
「どうして? まだ8ヶ月なのに……」
 床に広がっていく羊水は赤い色をしていた。

 小さい頃の写真の中の私は、いつも八の字眉をしている。困ったような、泣き出しそうな顔で父母の影に隠れて写っている。一人っ子だったせいか、気の弱い引っ込み思案の子供で、よくいじめられた。今ほど陰惨ではなく、いじめっ子達に鞄を隠されたり仲間はずれにされる程度だったが、それでも私は傷ついていた。
 その頃の私は、いじめは子供ゆえの幼稚さからするもので、大きく成るにつれて無くなっていくものだと思っていた。でも、それは違った。いじめは私が高校生になっても、OLになっても無くならなかった。子供の頃のいじめっ子は同級生から先輩や上司に変わり、手段も変わっていったが、私がいじめられるという事だけは変わらなかった。何故いつまでもいじめられるのかは解っている。私が八の字眉の子供のまま変わらないからだ。解っていても私は変われなかった。
 そんなどうしようもなく弱い私に初めて好意を寄せてくれた男性が雄一さんだった。彼は優しく、決して私を傷つける事はなかった。私は両親以外からこれ程愛されていると感じたのは始めてだった。この人となら、ずっと一緒に居られると思った。丁度会社の人間関係に悩んでいた事もあって、私は逃げるように会社を辞めて結婚し、専業主婦となった。その日から世界の住人は彼と私だけになった。彼を朝送り出した後は家事だけに専念した。外にも出ず、彼の帰りだけを待った。幸せだった。二人だけの世界は愛情だけで満たされていた。
 伯父さんのように、世間の人達は結婚した私を一人前の大人だと思っているかもしれないが、それは間違っている。私は引き蘢りだ。大人に成れないまま、二人だけの世界に逃げ込んだのだ。
 閉じた世界の中で穏やかな日々が続いた。彼が子供を欲しいと言うまでは。
 私は子供が好きだ。彼との子供なら尚更欲しい。でも、子供が出来たら家に引き蘢っていられない。また外の世界に出て行くのが恐かった。そう訴える私を彼は絶対に守ると約束して説得した。そして半年後に私は妊娠。幸せの絶頂だった。しかし、出産が近付き育児関係の本を目にするようになると、公園デビューや母親同士のいじめの記事が気になり始めた。そこに書かれている世界は、私が逃げて来た元の世界そのものだった。私はここに居たい。もう二度とあの悪意に満ちた世界に戻りたくない。でも、私のお腹には愛しい―

「―赤ちゃん!」
 意識を取り戻した私は、膨らみを失ったお腹を押さえて病室のベッドの上で身を起こした。その瞬間、下腹部に激痛が走って呻いた。
「駄目だよ動いちゃ!」
 ベッドの側で付き添っていた雄一さんが慌てて私を抱き留める。
「ねえ赤ちゃんは?」
「大丈夫。未熟児だったから保育器に入っているけど元気だよ」
「良かった、本当に良かった……」
 安心した途端、私は号泣した。
 家で気を失った私は病院に運ばれ、帝王切開の手術を受けたのだと雄一さんが話してくれた。そして、術後一日は動けない私に赤ちゃんの写真を見せてくれた。生まれたての赤ちゃんは猿のようだったが、それでも堪らなく愛しく感じた。
「女の子だったから名前は桜?」
「桜の時期より早かったから梅。でも、何かおばあちゃんみたいだな。じゃあ……小梅。どう?」
「うん、良いよ」
「親子三人頑張って行こう。な、お母さん」
 雄一さんが私の手を握ってそう言った。私は頷いたが、この時はまだ母親に成れる自信がなかった。

 翌朝、雄一さんと未熟児室に行くと、小梅は一番奥の保育器の中にいた。二人並んで保育器の前に立ち、初めて小梅を見た時、ただ涙が溢れた。生まれてくれてありがとうと思った。今すぐこの胸に抱きたかった。
 保育器の中で小梅が小さな体を精一杯伸ばす。折角子宮から出たのに、こんな所に入れられて怒っているように見えた。この子はこれからも外を目指すだろう。守ってあげたい。側にいてあげたい。その為には私も出て行かなければ。
「私、今からでも外の世界に出て行けるかな?」
 雄一さんは無言で頷き、私の手を握り締めた。その手の温もりが勇気を与えてくれる。
 優しさだけが母性ではないのだと今解る。強さも母性なのだ。こんな私でも、守るべき者ができた今なら変われると思う。私は保育器の中の小梅に手を差し延べる。
 外に出よう、この子と一緒に。
 優しさに満ちたこの世界から、幸せの殻を破って。





エントリ10  公立 平均小学校   満峰貴久



 土曜日の午後、呼び出されて私は五年生になる息子の小学校へ行った。
 妻は他の用事で行けないので、普段、息子の学校へ行くことなど殆んどない私にとっていい機会だと思い、変わりに引き受けたのだ。
 出掛けに妻は、にこやかな顔をしながら、ちょっと気になることを言った。「どんな学校にもその場の教育方針ていうものがあるのだから、おとなしく聞いてくるだけでいいからね」だと。
 私が短気だということを心配してのことだろうが、そんなことは言われなくても判っている。大体、私が怒るような用事で行くことではないのだ。
 成績のことで校長が話をしたいということだが、転校してまもなく行われたテストで息子は全科目百点を取ってきた。きっとそのことで家庭での教育法などを聞かれるのだろう。
 私だってテストの結果に驚いたのだが、息子はぜんぜん難しくなかったと言っていた。
 しかし、いくら小学校とはいえ、学年の平均点が七十点位だというから全科目百点ということはたいしたものである。前の学校ではたいした成績ではなかったようだから、転校を機会に発奮したのだろう。私はちょっと弾んだ気持ちで校長室のドアをノックした。

「ちょっと確認しておきたい問題がありましてね」応接用ソファーに座り、小太りで、残り少なくなった髪の毛を丁寧に撫で付けた校長は上目遣いで切り出した。
「わが校の教育方針のことで、その、以前、奥様と息子さんを交えてお話させていただいたのですが、まだうまく伝わっていなかったようなので」
「はあ?」私は意外な言葉に面食らった。
 校長は棚に飾られた賞状の額やトロフィーを眺めながら続けた。
「いえ、教師のほうも、転校して間もなくだった本人にきちんと説明する暇がなかったようで」
 何を言いたいのかわからなかった。
「あの、うちの子が何かいけないことでもしたんでしょうか」
「とんでもない、成績は優秀ですし、活発なお子さんで生活態度も問題ありません」
 じゃあ、何が問題なんだ。私は少し憮然として校長の次の言葉を待った。
「実は、わが校は現在教育省のモデル校になっておりまして、その数あるモデル校の中でもトップの位置にあるのです」
 そう言って校長は棚に飾られている賞状や額を指差した。その賞状や額にはどれも○年度最優秀校と記されていた。
「ご存知のとおり、わが校は公立です。ですから、教育はすべてにおいて平等でなければなりません」
 当たり前のことを何をいまさらと思ったが、ふと不安が胸を掠めた。妻が朝言ったことを思い出していた。
「落ちこぼれを作らないということが教育省の命題でありまして、このことはどの父母の方々も昔から熱望されていることだと思います」
「それはよくわかっていますが、それと息子のことに何か関係でも」
 私の不安は増幅していく。頭の中で妻の顔がズームアップしてくる。
「まあその、お互いを思いやる気持ちというか、困っている人がいたら助けてやるという気持ちを育てることも、小学校のうちにしておかなければならない大事な教育だということなんです。たとえば運動会の競争でも、ゴールは皆で一緒になって入るというように、遅れる子の気持ちになって不愉快な気持ちにさせない、みんな平等に楽しく参加することが大切なのです」
 校長は手元にある資料を意味もなくぱらぱらとめくった。私は腕組みしてじっと聞いている。
「勉強においても然り。ゆとりを持った学習で、できない子がいれば解かるまで根気よく教える。後れた子にあわせてクラス全員が解ける問題を一つずつ解決していく、これが教育省から託された我が校の方針なのです」
 私の不安は的中したようだ。頭の中でにやっと笑う妻の顔がアップになった。
「つまり、テストでも一人だけいい点を取ってはいけないということですか」穏やかな笑顔で聞いてみた。
 校長はおお、といって両手を揉み始めた。「分かっていただけましたか? テストの点というのは親御さんにとって一番気になるところでして、うちの子の成績が悪いのは教師の教え方に問題があるのじゃないかとか、ひいきがあるとか、いろいろ言ってくるものなんですよ」
 私の掌はじっとり汗ばんできている。
「いえ、勉強をしなくてもいいと言っているわけじゃないんです。勉強することは大いに結構。ただ、試験の時だけは、『全員七十点が望ましい』という教育省が決めたガイドラインに沿って、解ける問題でも各自で工夫して点数を調整する。つまり、全員が同じ点を取るということです。それもなかなか頭を使ういい勉強になりますし、平均点も七十点を保てるわけです。なに、テスト自体はどんな子が受けても七十点以上取れるような簡単な問題です。これは保護者の方にも説明して、理解していただいています。そのへんのところを息子さんにもよーっく説明したのですが、どうも理解してもらえなくて、わざと間違えるなんて嫌だと言いましてね。しかし、そういった自分本位な考え方は将来、非行に結びつきかねないと」
 突然、ドンという音に続いてポカリという音がした。もちろん私が怒ってテーブルと校長の頭を叩いた音だ。校長の残り少ない髪もつかんでいた。その前にテーブルをひっくり返そうとしたのだが、どういうわけか小さなテーブルはしっかり固定されていてピクリとも動かなかった。
「痛たた、何をするんですか、いきなり。あ、やめなさい、髪が抜ける。やめてください、引っ張らないで。これが抜けたら私は禿げになってしまう」
 校長は前かがみになって、両手で必死に私の手を離そうとする。私が片方の手で棚に飾ってある賞状とトロフィーをなぎ倒そうとした時、勢いよくドアが開いて男が駆け込んできた。
「乱暴はやめて下さい。校長、大丈夫ですか? 毛、ケ、け、警察呼びましょうか」
「いや、そんな事しちゃいかん。これが外部に漏れたら私の立場が悪くなる。そんなこともわからんのか君は、だからいつまでたっても教頭なんだ。大体、君はいつでもそうやって人に頼ろうとするところがある。そもそも君がちゃんと担任に徹底しておかなかったからいかんのだ。言ったろ、最初が大事なんだからしっかり説明しておくようにと」
 こんな時に校長は屈んだまま教頭に説教を始めた。
「落ち着いて、落ち着いて話し合いましょう。話せば分かる、話せば分かります。手も離してください」
 私は一気にしらけて、ハアハア言いながらも校長の髪から手を離して腰掛けた。
 私が落ち着いた様子を見た教頭は、後ずさりしながら校長に尊敬の念をたたえた目を向けて出て行った。

 数分後、私は校長に非礼を詫びて校長室を出た。ドアの外にいた教頭と一瞬目が会うと、教頭はあわてて愛想笑いをし、入れ替わるようにあたふたと校長室の中に消えた。たぶん、私が来たときからドアの脇で様子を伺っていたのだろう。

「かあちゃん、ここはどうやって計算するの?」
「何よ、こんな簡単な問題もわからないの。学校で何してんのよ」
「俺、やっぱり前の学校のほうが良かったかなあ、なにしろ、テストじゃクラスで一番だったもんなあ」
 しばらくして、私の息子は少し遠くなったが別の公立小に転校した。あの時、校長が別の学校を紹介してくれたのだ。今度の学校は教育省のモデル校ではないので、余計な心配はしなくていいだろう。息子の成績はというと、やはりと言うかなんというか、クラスの下のあたりをうろうろしている。





エントリ11  姉とキッチン   中川きよみ



 双子の姉が黙ってテレビを見ている。
 かつて兄だったのだが、数年前に姉になった。まあ、それはどっちだって良い。私にとってかけがえのない存在であることに変わりない。
 姉はテレビを見ているフリはしているものの、横顔の視線は虚空を見つめている。まるい肩が途方もなく傷ついていた。
 かわいそうに。
 どうせロクでもない男にフラれたのだろう。姉はふつうの女性の何倍もパートナーの男性からの篤いサポートを必要とするはずだから、ロクでもない男なんかこっちからお断りだと私は思う。けれど、当の姉がいつもそういうロクでもない男を好むので厄介だった。
「何か、お茶でも飲む?」
「……いい、いらない」
 「ない」のところで、下瞼の許容量を越えた涙がボロボロボロッとこぼれ落ちた。一旦決壊すると姉の涙は山奥のダムのようにどんどんあふれ出てくる。止まらない。やや厚めのメイクが瞬く間に押し流され崩壊してゆく。

 「彼ね、結婚してたの。知らなかったの……でも私が女になったことも言ってなかったの」
 小一時間涙してメイクがすっかり流れきると、姉は私に報告を始めた。
「責めたの?」
 姉は黙って首を横に振る。
「責められた?」
 やはり黙って、今度は縦に振る。
 大きく息を吐き出して天を仰ぐ。
「自分のこと棚に上げて平気で責めるなんて、私だったらブン殴ってるよ。」
「……ありがとう」
 そして姉はまたおいおいと泣き始める。

 姉は死んでるのかと思うくらいよく眠った。土曜日の明け方に眠って、目を覚ましたのは日曜日の太陽が沈んだ後だった。太陽が2回空を渡っていく間、ただの1度も目を覚まさなかった。私はひたすらその強靱な膀胱に感動していた。
 そして、やっと目を覚ましたかと思ったらとんでもない申し出をしてきた。
「しばらくここに置いてもらいたいんだけれど」
 寝呆けているのかと思ったけれど違った。彼との思い出が真空パックされたような自分のアパートにはどうしても帰りたくないと言う。
 少なからず面食らったが、それが傷ついた姉の希望なら致し方ない、と終いには了承した。

 不思議に明るくどこか昂揚した生活が始まった。
 まだ兄だった頃に実家を出て以来の共同生活だったので最初は気恥ずかしかったが、さすがに母の胎内からの長い付き合いであるからか、しばらくすると新しい生活のすべてがとても自然に肌に馴染んでいった。
 もちろん10年ぶりくらいに共に生活してみて初めて気付くことはいくつもあった。たとえば姉は意外なくらい料理が上手かった。
 私がほとんど料理をしないのでうちのキッチンはひどく殺風景で、実はガランとした感じが嫌いではなかったが、そこに姉は大量の調味料やら料理器具を持ち込んだ。自分の部屋には帰らずにうちから勤め先に通っているので、わざわざどこかで買ってきたものらしい。
 姉が元気になってまたアパートに帰る時には、できたら全部持っていってもらいたいなあと、急に充実してもはや全く私の手には負えなくなったキッチンを眺めていた。
 うちにいるときは四六時中狭いキッチンの前に立っている印象があるくらい、こまごまと料理を作ってくれた。安価な食材の手が込んだ料理ばかりだった。紛れもなくどれもとても美味しかった。
 そして姉は相変わらず信じられないくらい集中して眠っていた。ボロ雑巾のようだったくせにみるみる気力を取り戻して行く姉の姿を目の当たりにして、食べることと眠ることがどれだけ人間に大切かを痛感した。

 ある電話が、かかってこないことを念じていた。意思も押しも弱い彼らしい、途切れがちのつまらない世間話だけの電話だ。ごくたまにかかることは別に迷惑でもないが、今はまずかった。
 私は幼なじみととても若い時に一度結婚して、すぐに離婚したことがある。いくつもの合わない部分に気付いたからだが、そんなこと結婚する前から分かっていた筈のことばかりだった。つまりは若気の至りだ。
 離婚してもう7年になるのだけれど、昨秋にかつての義母が思いがけなく脳梗塞で亡くなり、ずっと可愛がってもらっていた上とてつもなく迷惑をかけた人だからこっそりお通夜に行った。当たり前だが元夫に見つかった。
 以来、情緒不安定気味の彼が私とヨリを戻したくなったらしく、時折電話をかけてきているのだ。
 彼は常に身近な女性に主導権を委ねて生きてきているので、そのことの是非は別として母親喪失のショックには素直に同情した。復縁はありえないが一度は夫婦になったのも因縁で、まあ立ち直るまではそっとしておこうと敢えて拒絶もしていなかった。
 幼なじみだしなにより元夫なので姉にも身近な存在であるが、彼は姉が姉になったことを知らない様子だったので、姉がうちにいる間は電話をもらいたくなかった。帰宅が遅い私に代わって電話口に姉が出てしまうことを非常に恐れていた。
 でもちゃんとかかってきてしまった。

 鍵を開けたら部屋の中に異様な雰囲気が漂っていた。吐瀉物でぐちゃぐちゃになった床に空になった胃薬と泡盛の瓶が姉と一緒に転がっていた。どこを歩けばよいのかすらわからない状況だった。
 へべれけに酔っ払って軟体動物と化した姉は、なぜか姉ではなく兄を感じさせた。長年堆積した潜在的な何かは、もしかしたらまだ男なのかもしれないと思うとちょっとジンとした。
 姉になってしまうまでは、無理をしてしんどかったろう。
 正直なことを言えば、気弱ですぐに泣き出す兄を小さい頃からずっと弱々しいヤツと心配していた。兄を掛け値なしに大切に思っていたが、男としてはあまり評価していなかった。姉には悪いことをしたと思う。成人してから姉が手術を受けると決意したとき、皮肉にも初めて姉を男らしいと見直したものだ。もちろん、その気持ちを遙かに上回って心配で怖かった。私にとって、姉が幸せであることは非常に重要だが男であろうが女であろうが本質的にはどうだってよかった。ただ、私の分身に生きていてほしかった。生命を賭けて手術なんてしてほしくなかったから、反対した。でも、姉は曲げなかった。エライと思う。
 ドロドロの床とドロドロの姉とを、ゆっくりと拭い清める作業に取りかかった。
「……ごめん、ほんっとうに、ごめんね……カンちゃんから電話、あったの。」
「言っておけばよかったね。彼、寂しいらしくて最近時々電話してきてるのよ。」
「わかってるつもりだったり、覚悟してるつもりだったりしてもね、……傷つくことってあるわぁ。すっかり嫌になっちゃったのぉ。」
 仕方がない。あまりに身近な他人は始末が悪いのだ。
 悪いヤツではないのだが、気が利かないことに関しては天下一品だ。悪びれずに、親切心さえもって、姉の弱い部分に確実に切り込んできたのだろう。
「虎の子の泡盛だから隠しといたのに、よく見つけたわね。弱いくせに空けちゃって。」
「悪いなぁって思ったら、急に死にたくなって、飲んだ。」
「バカだね。これ、胃薬よ。」
「風邪薬だと思ったのに……そっかぁ……」
 姉はそのままガクンと眠りに落ちて、その後は起きて吐くというのをエンドレスでやっていた。
「またゆっくり元気を取り戻せばいいのよ。」
 内臓がひっくり返って出てるんじゃないかというような苦しげなうめきを繰り返す背中に小さくつぶやく。開け放したトイレの照明を受けて、背中の向こうでキッチンにぎっしりと並ぶ調理器具たちが金色に輝いていた。





エントリ12  石に喰われた屍の腹   庭



 石があって。
 私はそれをじっと見ていた。とある夕暮れ。
 「散歩してくる」と母に言って家を出たら石を見つけてしまって見入ってしまい、そうしたら石はあちこちにある。石と同じ位に人もいて、すれ違う顔は幼いころから見覚えのある近所の人々だったし、私はそういう安心感から石を見たり人を見たり、でもやはり主に石を見つめながら散歩を続けていたのだけど、ふと気が付くと自分がどこにいるのかわからなくなっていて、すれ違う人たちの顔にも全く見覚えがない。ただ石だけはどれも似たような形だったのでそこを見ていると安心するから不安から逃げるため、なおも石に心を向けて歩き続けた。
 暗くなると心細い。腹が減ってひもじくて石を齧ってみたけど石は石。歯が砕けてそれを食うのは無理。それでも私は石に拘泥していたので舐めてみたら、それはいい具合にざらざらの石で細かい粒子が舌に心地よかったけど、しばらくすると口中に鉄の味がして石は真っ赤に染まり、涎が垂れ落ちた路面が赤黒く変色しているのを見て「しまった、舌を擦り剥いた」と後悔した私は舐めるのをやめ、その石をやさしく楽しく飴玉のように頬張ってみた。これは舌の傷と空腹が癒えるようでいい感じだった。生暖かくもザラザラの鑢じみた感触。
 四つん這いになり、脱糞する犬のように屈み込んで、石の感触に身を震わせていた私の側ををいい香りが吹き過ぎたので、薄くなった鉄の味を残念に思いながらふらふらとその香りについて行ってしまった私はその後、その最初の舌の傷も歩き回った足の疲れも消え、母の顔さえも忘れてしまうほどの時間をその香りに包まれて過ごすことになった。
 とてつもなく大きな屋敷に一人で住んでいるらしい仰天するほど美形のその女は私の存在に不信感を持つでもなくそのまま迎え入れ、これも見たことが無いほど広大な風呂場で私の体を洗ってくれた。髪から爪先まで。私は男子としての威厳を示そうと自分でできることを主張したのだが、女は「私に奉仕させてくださいませ」と懇願し、私はそれを許した。
 みすぼらしい身なりの私。女はぼろきれのような私の服を丁寧に手洗いした後でキチンとたたみ、箪笥にしまいこんでしまった。そして全裸で惚けている私を後ろから抱きしめたのだが、それがとても暖かくて「この女は私の服になりたいのかな?」などと思いつつ、それでも外出の時などは不便そうに思えたので重厚な低い声を作って「服を」と私は言ってみた。
「あなたに衣服は必要ないのですよ。私が全部お世話いたしますし、あなたは私以外の誰の眼にも触れないのですからどうか、お気遣いの無いように」
女は私の耳元で甘い香りのする吐息と共にそう囁いた。
 飛天の後、堕ちて行く。爛れていく。見えなくなる。白い。私の感覚はひたすら鋭敏になり、だが精神は私と女を含まずそもそも全く意に介してさえいない世の中人々の住む現実世界とは、時が刻まれるごとに乖離していった。もはや石を頬張り衣服を捨てたこの姿さえ異形ではなく、確かな私の宇宙。
 女は私の体を舐め上げた、隅々まで、毎日毎日。甘く苦く切ない香りを放つ長い髪が私の全身を這いまわり、いつしかその香りは私の体にも染み付いていて、私は日々高級な洋酒を舐めながらシガーを燻らせるような生活にすっかり馴染んでしまった。私の食欲と性欲はほぼ完全に満たされていたし、私はそれ以外の欲望をほとんど感じなくなっていた。ただひとつだけ、眠る前に石を頬張る事だけはやめられずにいたので、赤黒くざらざらしたその石は常にベッドサイドの小さなテーブル上にあった。
 そんな暮らしを続けていたある時期、私と女はほぼ同時にイラつき始めた。女は不機嫌に私のペニスをしゃぶり、その空々しい行為にむかついた勢いで私は射精していた。憎悪ではなく、愛も無く(もともとそんなものを感じていたわけではないが…愛玩…だが今はそれも無いというのに女は私を捨てられず…情の深さは命取り)だが私は出て行けと言われなかったので行くところも無いような、帰るところはずいぶん昔に忘れ去ってしまったし、そんな感じでそこに居座っていた、ただそれだけ。女も私といる理由さえなかったが、それでもなお。では、何がいったい二人の感情をこのように逆立てていたのだろうか?
 それは石の存在。私は夜、石を頬張って眠り、翌朝はそのまま女と接吻をして双方の口腔内でガチガチと音を立て、奪い合うような甘い遊びで目覚めてセックスし、最後は必ず石を女の口に吐き出して女はそれをテーブルに置いた。私は少し物足りなさを感じながら酒を注ぎ、またベッドにもぐる。女はどこかに出かけてしまい、私は放置される。毎日が石のやり取りで始まり、石のやり取りで終わる。私は寝ている間に石に歯を立てる癖があって実際、その時既に折れてしまってほとんど歯がなくなっていたし、女はそのせいで石を奪い合う感覚が薄れてしまったと嘆き始めたのだが、実際にはそんなこと些細な問題なのであって常に石とともにある生活と言うのは、石に監視されているようで石がタクトを振っているようで石があるからこその不幸が私たちの生活を脅かすのではないかと言う恐怖が次第に私たちの精神を支配して狂わせて、でもそれがないと生活の区切りが無くなるようで捨てられず、いつしか二人はテーブル上の石をいつも苦々しく思うようになっていたのだ。だが捨てられぬ。憎みながらも私たちは毎晩頬張っている。石を。
 ある朝、女が私の口に吸い付くといつも通り石は女の口に吸い込まれた。が、今朝に限って勢いが良すぎたのか、石は女の前歯を圧し折って喉を塞いでしまった。
「おご、おご、うぐぐぐ、おご、おごっ!」
 うまい具合にがっつりと喰らいこんでしまったのだろう。
 女の顔は見る間に赤黒く腫れ上がり、青紫の血管が相当に細いものまで顔面に浮き出していて、眼球は徐々に迫り出してくるし眼窩から血の涙は流れてくるし、鼻血は当然としても舌の裏側にある太い血管が破裂し、そこから吹き出る血液がビュッ!ビュッ!と私の顔面を汚して舞い散る。飛沫く。
 ついに眼球が飛び出して、デフォルメされた漫画のように分厚くなった唇から石が落ちた。「息の根がとまったのだな、もしかして、この女はじめから無理に息をしようとしなければ石は排出され、死なずにすんだのでは?」私はそう思って、微笑した。
 石を頬張り、しかし腹が減って、性欲も満ちてきたのだが、私の目の前には醜い骸がひとつあるばかり。
 私は骸を犯して射精してから、捩れ垂れ下がった唇に吸い付き、齧りとって喰ってみたけれど食感の悪さと悪臭にすぐさま吐き出した。空腹、貧困、生活苦。
 私は部屋を出ようと思って屍の腹を踏んでしまった。唇のちぎれた穴からどろりと黒っぽい何かが出てきたので、私は気持ち悪くて石を吐き飛ばしたのだが、それは汚らしい鼻の残骸にぶつかってバウンドし、眼球のあった場所に飛び込んで、あまりにもきっちり収まった。変な顔。私は吹き出してしまった。ぷぷぷ。
 女がしまっておいてくれたボロボロの衣服を箪笥から引っ張り出して袖を通す。いい匂いがして気持ちは幸せ。
 だが眼前の無残で無様な風景に胸を悪くした私はこの部屋に来て初めて窓を開け放つ。外界から時の流れが進入し、息苦しさを感じた私は屍の腹を撫でて覆い被さってまた、安心。石の目玉もまたセクシー。





エントリ13  ねこのとけいやさん   猫月終



 ねこは、やさしいおねえさんにかわれていました。おねえさんはとてもやさしくていつもおいしいごはんやおやつをくれたりなでてくれたりしたのですが、けっしてそとにだしてはくれませんでした。ねこはちいさいころにこのいえにきたので、あまりそとのせかいのことをしりませんでしたし、そとにでたいとおもっていました。
 あるひ、おねえさんがまどにかぎをかけわすれたのをねこはみのがしませんでした。ひっしになってつめでまどをあけようとしたら、ついにそのまどはやっとねこがとおれるくらいひらきました。ねこはよろこびいさんでそとへでていきました。これからどんなものがみられるんだろう、そうおもうとねこのむねはたかなりました。
 そとにはあおいそら、アスファルトのかたいじめん、はなやきなどがあって、それはねこのさんぽをとてもここちよいものにしました。ねこはごきげんです。でもどんどんあるいていくうちにねこはおなかがすいてきました。どうしよう、おねえさんのところへもどってごはんをもらおうか。でもそうしたら、そとにはもうでられないかもしれないな。ねこはそとをたいへんきにいっていたので、そうおもうとかえりたくありませんでした。とけいやさんのまえですこしやすむことにしました。
 2じかんくらいたったでしょうか。みせのなかからしらがのおじいさんがでてきました。おじいさんはそこにねこがいるのにきづくと、みせのなかにとってかえして、つぎにでてきたときにはさかなのかんづめをもっていました。
「おいしいよ。さあおたべ」おじいさんはそういってかんづめをあけてねこにくれました。ねこはよろこんでそのおいしそうなそのさかなにとびつきました。おじいさんはねこがさかなをたべているあいだ、ずっとねこをなでていました。おじいさんはねこにいいました。
「わたしはもうずっとひとりでね。かぞくもいなくなってしまった。おまえみたいなのがいてくれるととってもうれしいんだがなあ」
 しょうがない、ごはんももらったことだし、すこしのあいだおじいさんのそばにいてあげよう、とねこはおもいました。そしておじいさんにすりよっていきました。

 ねこはそれからとけいやさんからはなれましたが、やはりおじいさんがきになって、まいにちおじいさんのところにごはんをもらいにいきました。おじいさんがとてもさびしそうにしていたからです。それに、みせのなかにはおもしろいものがいっぱいありました。かべかけどけい、うでどけい、おきどけい、かいちゅうどけい、いろいろなものがありました。ぴかぴかしているものもあれば、どっしりしたかんじのきでできたものもありました。ねこはとけいのつかいかたはしりませんでしたが、みていてとてもおもしろいものだなあとおもいました。おじいさんはよくとけいをいじっていました。いろいろなひとのとけいをなおしていたのです。ねこはおじいさんがとけいをなおすのをみているのがすきでした。おじいさんのともだちはきっとこのとけいたちなんだな、とおもいました。
 ねこはあるひ、すてきなとけいをつくってほしくて、はらっぱにはえていたきいろいちいさなはなをもぎとっておじいさんのもとへもっていきました。きっとすてきなかざりになる、とおもったのです。おじいさんはそのすばらしいおくりものにめをかがやかせました。
「ありがとう。ありがとう。とてもきれいだよ」といいながらおじいさんはねこのあたまをなでました。そしてすぐに、みせのなかにあったとけいのなかでとくべつかわいらしくてきれいなちいさなかいちゅうどけいをえらんで、そのふたにはなをつけてみせのなかにかざっておきました。そのひのごはんはねこのだいすきなやきざかなでした。ねこはまんぞくげにそれをたべました。おじいさんといっしょにいるうちに、ねこもおじいさんもなんだかしあわせなきもちになっていきました。このままこのしあわせがつづいたらいい、とふたりはおもっていました。そしてねことおじいさんはいっしょにねるようになりました。おじいさんのふとんはとてもあたたかくていごこちがよかったので、ねこはいっそうしあわせなきぶんになりました。

 おじいさんはあるひ、かぜをひきました。せきがでて、ねつもでて、ふとんからおきあがれませんでした。そんなひがふつかつづいて、おじいさんはむすこにでんわをしてきてもらいました。おじいさんはとてもいやそうでした。むすこさんもとてもいやそうでした。おじいさんがむすこさんとくらさないのは、ふたりがおたがいをきらいなせいだとわかりました。だからおじいさんはさびしくひとりですんでいて、ねこだけがこころのささえだったのです。おじいさんはむすこさんのいえにいくことになりましたが、ねこのことだけがしんぱいでした。ねこは、じぶんのせいでおじいさんがあんしんしてむすこさんのところにいけないのだとおもって、でていくことにしました。あのかいちゅうどけいだけをもって。

 それからねこは、ちかくのこうえんやいえのえんのしたやほそいろじをたびしました。とけいのはなはだんだんしおれていきました。ねこはだまってとけいをもちだしてしまったので、やっぱりおじいさんにかえそうかとおもいました。そして、もういちどあのとけいやさんにいってみました。
 とけいやさんはもう、やっていませんでした。おじいさんもそこにはいませんでした。ときどきたずねてみるのですが、いついってもとけいやさんはしまっていました。ねこはだまってとけいをみせのまえにおいて、はしりさりました。

 ねこはそれから、おねえさんのことをかんがえました。おじいさんがねこのことをしんぱいしていたように、おねえさんもねこのことをしんぱいしているんじゃないか。おねえさんのいえをでてあまりひはたっていないけれど、ねこはなんだかおねえさんがなつかしく、そしてしんぱいになりました。ねこはおねえさんのところへかえることにしました。とちゅうにあったこうえんで、おみやげのはなをつんでいきました。
 ねこがおねえさんのいえについて、まどをがりがりとひっかいていると、おねえさんはすぐにきがついてとんできました。どうしていたの、しんぱいしたよ、とおねえさんはいいました。ねこははなをさしだして、おねえさんにすりよっていきました。おねえさんはとてもあんしんしたようすでした。
 それからねこは、とけいやさんのことをわすれられないまま、あのおじいさんのことをおもいつづけながら、くらしていきました。
 ところがあるひ、おねえさんがねこをしゃみせんのざいりょうにつかおうとしていたことがはっかく。ねこはあわててにげだして、となりまちのこうえんにきょをかまえることにしましたとさ。って、おねえさん怖っ。


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エントリ14  画面の中の恋人   THUKI



 金曜日。

『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 田中重雄は27歳である。

『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 重雄には先日恋人ができた。

『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 重雄の恋人の名前はミントという。

『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 ミントは、三次元の存在ではない。

『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 ミントは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・画面の中にいる。

 午前7:30、重雄の朝はミントの声で目が覚める。
 パソコンから聞こえるミントの声。
 先週、電気街で購入したタイマー起動ソフト。25000円。
 ・・・・・・ミントのためなら安い買い物だ。
『おはようシゲオくん。朝だよ。起きて。』
 タイマーが起動してから5分後。重雄はようやくベッドから這い出て、タイマーを切る。
 本当はだいぶ前から起きていた。
 ずっと、ミントの声にベッドの中で聞き惚れていたのだ。
「おはよう。ミントちゃん。」
 重雄はパソコンに向かって声をかける。
 違和感などない。
 それが、重雄にとって当たり前のことだ。
「重雄〜、朝よ!起きなさい。」
 こちらは現実の声。
 同居している母親の声。
 朝食の時間、毎朝この時間になると母は大声を挙げて重雄を起こす。
 ・・・・・・うるさい。
「今、起きるよ!」
 重雄はしぶしぶクローゼットに向かい、服を取り出す。
 ミントのポスターとフィギュアで埋め尽くされた部屋。
 重雄にとっての楽園。
 重雄の心がもっとも休まる空間。
「重雄〜、いつまで寝てるの?」
 再び聞こえる母の声。
「だから、もう起きてるよ!!」
 重雄の母は口うるさい。
 ・・・・・1人暮らしをしたい。
 しかし、1人で暮らすのは淋しすぎる。
 矛盾した心・・・・・・・。
 重雄はベッドから這い出ると、ミントが映るパソコンをクリックする。
『おはようシゲオくん。今日もいい天気だね。』
「そうだね。ミントちゃん。」
 重雄は再びパソコンに声をかける。
 精神安定法。
 それに『おかしい』という感情はない。
 冬の朝は寒い。
 重雄はクローゼットから取り出した背広とワイシャツを取り出すと、自分が出せる最速のスピードで、着用する。
 瞬間、部屋の隅においてある鏡に映る自分の姿。
 小さな頃から運動が嫌いで、甘いものが好きだった重雄はとても太っており、年齢の割に頭皮も薄い。視力も両目が0.1を切っているため眼鏡は必需品。
 その姿はどこに原因があるのかを求めること自体が無駄なほど醜い。
 ・・・・・・・・・・・構わない。
 自分にはミントがいる・・・・・・。
 自分にだけ笑顔を向けて、おしとやかで清楚な僕だけのミントがいる。
 重雄は、再びパソコンのマウスをクリック。
『いってらっしゃい、シゲオくん。今日もお仕事頑張ってね。』
「うん、行ってくるよ。」
 重雄はミントに挨拶をして家を出る。
 その笑顔は、とても醜い・・・・・・・・・・・・・・。

 重雄の会社は電車で30分。
 就職して5年目。
 未だに通勤ラッシュはまったく慣れない。
 窮屈な空間の中で女子高生の笑い声が聞こえる。
 首を動かさず、眼だけでそちらを見てみる。
 ・・・・・・自分を見ている気がする。
 自分を見て笑ってる。
 ・・・・・バカにしている。

   自意識過剰・・・・・。 
   
    被害妄想・・・・・・。
 
 他人が見たら、そう言えるが重雄自信には分からない。
 年下の分際で・・・・・・ムカツク・・・・・・。
 心の中でイラつきながら、重雄は今日も会社に向かう・・・・・。

 重雄の会社は、広告代理店。
 花形の営業と違い、重雄の仕事は事務局。
 他人との接点がない。
 会話が少ない。
 ・・・・・・孤独な仕事・・・・・。
 構わない。
 ミントの良さが分からない異常者どもとは話すこともなければ、話す気も起こらない。
「田中、この前頼んだ資料やっといてくれたか?」
 係長からの催促。
「・・・・・・はい。」
 小声で返答。
 本日、仕事中で重雄が交わした唯一の会話。
「あいつ・・・・キモイ。」
 隅で話すOLから聞こえたような気がした。
 ・・・・・・・・オマエたちこそ、少しはミントちゃんを見習え。
 重雄は心の中で、ぼやきながら今日も仕事を定時であがる・・・・。

土曜日

 休日、重雄は多額の金額を持って1人、電気街に向かう。
 友人はいない。
 構わない・・・・・・・。
 自分にはミントがいる。
 それだけで十分だ・・・・・・・・・・・。

 電気街に着いて、たくさんの店を渡り歩く。
 重雄には辛い重労働。
 愛用のダッフルコートに汗が溜まる。
 すべては、ミントのため・・・・・
 憧れの女性を金で買う・・・・
 違和感などない
 ミントのためなら、全財産かける・・・・・。
 重い身体を引きずり、グッズを買いあさる。
 女性があまり見かけない街。
 女性の姿がいない店内。
 ・・・・・・・いい場所だ。

 重雄は思う。

 現実の女性にロクなやつはいない。
 厚化粧・・・・・。
 悪口・・・・。
 うるさい・・・・・。
 我侭・・・・・・・・・・。
 女性はミントのように、清楚で可憐で美しくあるべきなのだ・・・・。

 重雄は思う。

 ミントこそ最高の女性なのだと。
 清楚。
 可憐。
 そして、いつどんな時にも自分に最高の笑顔を向けてくれる。
 彼女さえいてくれるなら、この世界は楽園に変わる。

 帰り際、重雄は自分と同じようにミントグッズを買いあさっていた男を見かけた。
 太く、眼鏡をかけた醜い男。
 オタクが、神聖なミントちゃんを汚すな。
 自分とは違う。
 自分はあんなに醜く、汚らしくない。
 重雄は自分に言い聞かせて、家に帰る・・・・・。

 家に帰り、パソコンをつける。
『おかえりシゲオくん。今日もお仕事ごくろうさま。』
 ミントの声が重雄の心を癒す。
 これだけで十分。
 これ以上は何もいらない・・・・。
「ただいま・・・・。ミントちゃん・・・・。」
 笑顔で挨拶。
 そして、近くのテーブルに腰をかける。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 グッズをあさろうとして、不意に重雄の目から涙がこぼれた。

 本当は、ずっと前から分かっていたことだった・・・・・・。

『おかえりシゲオくん。今日もお仕事ごくろうさま。』
 ミントなんて存在は最初からない・・・・・・・・・・。

『おかえりシゲオくん。今日もお仕事ごくろうさま。』
 ミントはゲーム会社が作り出したただの造形物。

『おかえりシゲオくん。今日もお仕事ごくろうさま。』
 プログラムされた言葉しか発しないただのCG。

 本当は、ずっと前から気がついている・・・・・。

 会社のOLの悪口も、電車の中での女子高生の笑い声も、別に確証があるわけではない、ただの被害妄想。
ただ、感情がそれを認めないだけ・・・・
 自分も、先ほど見た醜い男と同じ、汚らしい存在。
 何も変わらない、何も違わない・・・・
 丸々と太り、薄くなってきた頭は、どこに原因があるのかを求めること自体が無駄なほど醜い。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
 重雄は大声で泣いた。
 醜い容姿に・・・・・・。
被害妄想しかできない自分の心に・・・・・。

・・・・・・ミントしかいない自分の存在に・・・・・・・・・・・。

『おかえりシゲオくん。今日もお仕事ごくろうさま。』
 ミントは励ますことを知らない。
 そんなプログラムは、組み込まれていない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

作者注:※この作品は決して『オタク』と呼ばれる人たちに対しての非難を描いた作品ではありません。ですが、この作品に対して、不快に思われた方がおりましたら、この場を借りてお詫びします。







◆スタッフ/マニエリストQ・3104・厚篠孝介・三月・ごんぱち・日向さち・蛮人S