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第4回3000字小説バトル
Entry21

磁場コップ

作者 : 鮭二
Website : members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 3000
 私は昼過ぎから公園で座っていた。馬鹿みたいに青いシートの真
ん中で。ただひとり。
「花見は場所取りが全てといっても過言ではない」と支社長は言っ
た。前月の販売コンクールでやっと隣の支社に勝ったのだ。「ぶわ
っと、盛り上がってくれたまえ」
 おごれるもの久しからず。私はビニールシートとカラオケセット
を営業車に積込みながら、南無南無と念仏を唱えた。南無南無。
 生暖かい風が吹いて、桃色の花びらが舞い降りる。桜なんて1時
間も眺めていれば十分だ。シートの四隅を石で固定し、マイクの調
子を確かめ、カセットを曲順表にしたがって並べかえる。5分と間
がもたない。寝そべって煙草に火をつける。きりりとネクタイを締
めたビジネスマンが横目で私を見て苦々しく口元を歪めた。何とな
く、負けたような気がした。南無南無。
 また生暖かい風が吹いた。煙草の煙と一緒に胸に吸い込む。ため
息が紫に色付く。煙を吸う、風が鼻を撫でる、鼻の奥がむずむずし
てくる。いかん。
 びえっぐぢゃんっ。花粉症である。眠りを邪魔されたツキノワグ
マのような勢いで症状が出始めた。大小20回ほどのくしゃみを合
図に、鼻水、目の痒み、喉のイガイガが荒勢のがぶり寄りの如く押
し寄せる。私は土俵下に叩き落とされ、蔵前国技館の2階席まで引
きずり回された。びえっぐじゃああんっ。
 とその時だ。すぐ近くで男の声が聞こえた。破裂した顔で辺りを
見回すが誰もいない。私はテッシュを3枚重ね、ニキ・ラウダのよ
うな爆音で鼻をかむ。
「うるさいな」
 今度ははっきりと聞こえた。耳のすぐそば、いや、イヤホンでラ
ジオを聞いているような感じで男の声が聞こえた。聴覚の混乱が体
を硬直させ、鼻水がひと筋垂れていることに私は気付かない。
「おいおい、鼻を拭きなよ」
 すごくいい声なのだ。FMのDJみたいな声だった。鼻水を拭う
と、ニキ・ラウダが爆音を轟かせる。
「すごい音だね。非常にかき乱してるんだよ、この辺の磁場」
「磁場?」と私は聞き返し、携帯電話を耳にあてた。便宜的に、そ
こに向かって話しているのだと自分を納得させることにしたのだ。
「もしもし、どちら様ですか?」
「磁場コップ」といい声が答えた。「歪んだ磁場を取り締まってい
るわけだ」
 私は困惑の表情をじっと前方の黒い幹に向けていた。
「突然飛行機が消えたり、やたらと船が遭難する場所とか、知って
るでしょ? 『ムー』、読んでない?」
 私が首を振ると、落胆したようなため息が耳の中で響いた。
「ところで、今夜の花見なんだけど、カラオケもするの?」
「はあ、見てのとおり」
「やめてもらえないかな。ここはね、かなり磁場が弛んでるんだよ」
「でも、曲順表も配っちゃったし、審査員の得点ボードも作っちゃ
ったし」
「ちょっと曲順表見せてくれる?」
 私はコートのポケットから曲順表を取り出し、空にかざした。
「何してんの、いいんだよ、普通に持ってれば見えるから。ええと
……『天城越え』はまずいな」
「いや、これは絶対外せません。大トリなんです。経理の原さん、
すごい気合いで練習してたんです」
「ますますまずい。酒と気合いと『天城越え』。最悪だ。一発で穴
が開く。絶対にやめてほしい。今夜は人出も足りないし」
 磁場コップは電波にも強いらしく、突然携帯電話が経理部につな
がった。
「……あ、原さん。はい、津田です。場所ですか? ええと、外見
的にはばっちりなんですが……ええ、カラオケもばっちり、マイク
良好、で、そのことなんですが……じつは、あの、誠に申し上げに
くいのですが……歌うのやめてもらえませんか? いえ、支社長の
嫌がらせではないんです……磁場コップっていう人が、いえ、人じ
ゃないんですけど、ええと、あちら側の世界から……ですから、今
夜原さんが歌うと大変なことに……あの、原さんは『ムー』を読ん
だことは……あ、ちょっと」
 叩きつけられた受話器の音が虚しく耳の中に響いていた。当分交
通費の精算をしてもらえない。毎日ジョアを持ってご機嫌取りに伺
ってもきっと許してくれない。
「駄目なのか」と磁場コップは深みのある声で言った。
「ええ、ものすごく、怒ってました」
「ふふん、君のことが好きなようだね」
「まさか」
 雨でも落ちてこないかと空を見上げるが、雲ひとつ見当らない。
「じゃあ、そろそろ引き上げるよ」と磁場コップは言った。「取り
締まり以外でそっちとコンタクト取ると、いろいろ問題になるか
ら」
「どうするんですか、『天城越え』」
「どうにかしてよ。俺たち、直接手出しはできないんだ。お互い穏
やかな夜を過ごしたいものだね。じゃあ」
 それからいくら呼び掛けても磁場コップは返事をしなかった。

 とにかく酔い潰してしまえと思ったのだが、結局潰されたのは私
の方だった。原さんの足元で干物みたいに伸びているうちに、宴は
その終局へ向けて確実にボルテージを上げていった。
 うねうねと渦巻く空気のどこかから何かを嫌らしく歪めるような
波長が聞こえてくる。耳の中に微かに残っていた磁場コップの声が
私を叩き起こす。いかん、このイントロ。原さんが左腰にためを作
って、今まさに歌いだそうとしている。
 私は力を振り絞って起き上がり、原さんに襲いかかる。カラオケ
セットを蹴倒し、マイクを奪い取るとビール瓶が何本も倒れ、シー
トの上は騒然となった。誰かが「あ、支社長の頭が!」と叫んだ。
振り返ると、支社長の精巧なヅラが消えていた。イントロだけでこ
の威力だ。私はマイクを口にくわえ、一目散に走りだした。
 人気のない暗がりに逃げ込むと、原さんの荒い息遣いがすぐ背後
に迫ってくる。私は黒々とした木によじ登り、高さ2メートル程の
ところにしがみついた。荒い息遣いが程なく私の真下に辿り着く。
 しばしの静寂が訪れた後、ぴしゃっと小気味よい音が暗がりに響
き渡った。一瞬鋭い電流が背骨を逆流し、じんわりと臀肉が熱を帯
びていく。原さんがよくしなる細い枝で私の尻を叩いている。ぴし
ゃっ。そのひと振りは的確に私の肉に食い込んだ。マイクをくわえ
た口から鈍いうめき声が漏れる。
 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。
 私は苦悶しながら徐々にずり落ちていく。背中、腕、太もも、原
さんは打擲の手を緩めない。
「あんた、ちょっとひどすぎるわ」
 原さんの目がぎらりと光った。私は自分のネクタイで後ろ手に縛
られる。さらに原さんはストッキングをゆっくりと脱ぎ、私の両足
をひとつに縛り上げた。
「お仕置き」と言って原さんは枝を振り上げた。
 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。
 私は便宜的に、これは痛いんじゃない、気持ちいいのだ、と思う
ことにした。
 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。
 ワイシャツに滲んだ血を見て、原さんは妖しい笑みを浮かべる。
気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。念じているうちに不思議な
気分になっていった。原さんがハイヒールの踵で私の傷口を踏みつ
ける。まるでその不思議な感覚を共有したがっているように、ぎゅ
っと。
 確かにその場所も何かが歪んでいるはずだった。しかし磁場コッ
プは現われない。きっと今夜は雪の日のJAF並みに忙しいのだ。
私はただ力なく磁場コップのいい声を思い出していた。
 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。
 やがて私たちの混沌とした感覚は、未だ経験したことのないワン
ダフォーな興奮へと昇華していったのだった。