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第40回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
輪廻 立花聡 3000
世界のどこかの見知らぬ街で 伊勢 湊 3000
ゴーレム ごんぱち 3000
キャンディ るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
江戸の春、「はなびらひとつ」 冬日 洋 3000
雪の降る町で THUKI 3000
暖かく澄んだ光 中川きよみ 3000


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エントリ1  輪廻   立花聡



 荒っぽい南風がびゅうっと吹くと、取れかかった庇の端が揺れ、またびゅうっと吹きすさぶと今度は完全に何かが飛ばされるような音をたてた。
 男はもう一月あまりも外には出てはいない。吹き飛びそうな貧しい小屋にこもっているのだ。しかし、男にとって小屋だとか、吹きすさぶ風や降雨、そしてそろそろ尽きかけた米などは問題ではない。問題は仏なのだ。
 男は仏を彫っている。黙々と、淡々と刻む。その行為こそが男にとっての命題であると男には分かっていた。その為には全てを犠牲にする覚悟はとうに決めていた。
 男が仏を彫ることに理由はない。強いてあげるならば、男が彫り師であったからであろう。男の名は、煩という。煩はかつて都で名をなした彫刻の天才であった。十を数えようかという歳に、蚤を握り、十五の頃には立派にうつくしい鷹の木像を作り上げた。
 煩は腕を見込まれて、帝から様々な寵愛を受けた。煩は全てを手に入れる。毎晩のように宴を開いた。見たこともない西洋の菓子を食べ、珍しい青い鳥を屋敷で飼い、都で評判の美女を妻とし、聡明な息子をえた。煩は、都では名を知らぬ者がおらぬほど、裕福になり名も知れ渡っていった。
 しかし、帝が亡くなると権力を奪い合う醜い争いが始まった。多くの人が死んだ。ある人は、火で灼かれて死んだ。ある人は、弓で射られて死んだ。またある人は、母親を眼前で殺され、そして自分の目もえぐりとられた。戦火は新たな帝を勝ち取られるまで続き、先帝に反感をもっていた弟がその座についた。
 帝と親しかった煩は、命を狙われた。煩の屋敷も焼き払われた。煩は逃げ出した。一心不乱に逃げた。都から遠く離れた山奥にある寺に駆け込んだ。
 そこで煩は仏と出会ったのだ。それは名もない像である。しかし手足が烈火の如く左右に延び、その掌は自在である。瞳ははるかを見つめ、身に付けた袈裟は、穏やかな広がりをもつ。
 尼は煩に言った。
「うつくしい仏です。山腹の小さな村の男が彫ったのです」
 尼は彫った男を、心と呼んでいた。心は目が見えないとも言っていた。

 心の住む小さな小屋は村のはずれにぽつねんと佇んでいる。全てを流すような雨の晩である。あたりは雨で出来た小川に囲まれているようでもある。外から何かが揺れる音がする。心は手探りで扉に近づいた。
「どなたかいらっしゃるのですか」
 返事はない。
 戻りかけると、またトツトツと音がする。心が扉を開けると、そこには何かの気配がある。
「どなたかいらっしゃるのですか」
「もし……」
 心は確かに聴いた。雨にかき消されそうなか弱い声の元を撫でてみた。そこには大きな何かがある。それは人であることを悟るまで時間はかからなかった。
 突然訪れた煩を心は歓迎した。貧しいが暖かな飯を振る舞った。そして、見窄らしいが清潔な衣服を与えてやった。
「あなたは本当に目が見えないのですか」
 くべられた火がパチパチとなる。室中に木屑の匂いが立ち込めている。煩は心をまじまじと見つめた。目は堅く閉ざされ、目尻に微かに傷がある。白い髭をたくわえ、口元ははっきりとはうかがえない。しかし、心は煩よりもはるかに年老いて見える。
「えぇ、もう随分と前から」
「何故です」
「何故でしょう。わかりません」
 温和な笑顔を浮かべ、心は左の手元にある木をくべる。新たな枯れ木を得て、やはりパチパチと鳴った。
「……ところであなたはどこからいらしたのですか」
 煩は自分の境遇を心に語った。自分が都にいたこと、彫り師であること。そして心の彫る仏に感銘したこと。煩は話しているうちに、心を求めた動機を自分の中で探した。それは仏像のためだろうか。いや、そうではない。言うなれば、それは大河にも似た絶対的な流れである。体が自ずと欲する欲求であるようにしか、煩には思えなかった。
 心は煩の話を聞き終えると、長い間、心は言葉を発しなかった。頭を垂れて考え込んでいた。それから煩に困っているのであれば、ここに留まってはどうかと薦め、煩はそれを有り難く受けることにした。
 盲目であるはずの心は、見事な仏を彫った。それは生き生きと躍動し、今にも動きださんかというような気配をもっていた。時折、心は煩に尋ねた。都の様子、自分の彫った仏の出来、一体どのように世がうつろって行ったか。煩は出来る限りこたえた。しかし、煩が心にひとしきり何かを話終えると、必ず心は、大きく項垂れるのだった。
 心の家を訪ねるものは、米や野菜の交換に仏像を求めてくる百姓や、坊主ばかりであった。心は彼等の為に毎晩、仏を彫っているようであった。しかし、心は彼らから避けられているように煩は思った。何か恐れているような様子である。それは煩は心について更に興味を持たせた。
 ある日のことである。煩は坊主から都の噂を聞いた。
「たいそう有名だった彫り師の妻と子が逃げ遅れ、手足を切り落とされ、生きたまま埋められたという話だ。そして、その彫り師は今も逃げているらしい」
 その日の夜からである。煩は毎晩、妻と子の夢を見るようになった。冷たい目を煩に常に投げかけるのだ。煩は怖くなった。心に相談を持ちかけると、
「あなたも仏を彫ってみると良い、少しは楽になるかもしれませんよ」
 煩は心と肩を並べて、仏を彫るようになった。しかし、どうしたことか、あれほど巧みに動いていた蚤がついと、思わぬ動きをするのだ。そして、やっとの事で彫り終えると、それは鬼のように異形の形相で煩を睨むのであった。隣では心が見事な仏を彫り上げている。悩む煩を見て、心は緩やかな笑みを浮かべ、大丈夫と呟くのだった。煩にはそれが自分に対する嘲笑のようにも思えた。
 煩はあの夢を見続けた。そして、その度に彫った。しかし、出来上がるのはやはり鬼なのである。手足がひょろながく、燃え尽くすような炎を纏った鬼なのだ。心は穏やかな笑みを作ってよこすだけであった。
 ある晩、出来上がった鬼を見て煩は蚤を叩き付けた。
「心、私にはできません。どうしても恐ろしい鬼ができるのです」
 隣で仏を彫っている心は、煩に向けて行った。
「煩、大丈夫です。あなたはもうすぐ見事な仏を彫れますから」
 いつもの様に笑った。
「そんなこと」
 そういって煩は手元にあった蚤を鬼に投げつけた。
 すると、蚤は鬼を外して心の胸元にまっすぐに突き刺さったのだった。心はゆっくりと体を横たえる。
 煩は狼狽した。心をなんとかせねばと思った。
「心、心、心」
 幾度も呼ぶが、心の声は帰ってこない。代わりに真っ赤な鮮血があたりを敷き詰めた。煩は両手を赤く染めながら、心を抱きかかえ、幾度も呼んだ。
 それから煩は始終、妻や子の姿に加えて心も見るようになった。もう昼夜を問わなかった。はっきりと見えるのだ。そして三人が自分を呪っているように思えるのだ。三日三晩、彼らの視線に晒された煩は、己の目を盲にすることを閃いた。そうして自ら蚤で瞳を貫いた。温かな感触が広がって行く中、煩はようやく三人から解放された気がした。

 彫らねばならない。仏を彫って許されねばならない。全く寒々とした暗黒の中で、光を見い出すには、救われるしかないのだ。私は既に死んでいる。しかし、生きていているのだ。だから仏を彫るのだ。もう誰の為だとか、なんの為だとかではない。生きる為なのだ。死ぬ為なのだ。終わる為なのだ。
 あぁ、不思議だ。私を心と呼ぶ声がする。





エントリ2  世界のどこかの見知らぬ街で   伊勢 湊



 それが悲しく見えるのはきっと時間を感じてしまうから。いまこの瞬間、僕は僕の時間と完全に同調していてその終わりは見えない。いつの日か歳を取った時の自分は想像し難いし、次の瞬間何かの事故に遭うかもしれないなんていつも考えながら歩いてはいけない。ただ夜の闇の中でライトアップされた風に散りゆく桜の花びらに儚さを思う。移りゆく全てが、そこにありそうで。

 夕方に目覚め、風呂を沸かす。その間に簡単な料理を作る。きんぴらごぼうとかポテトサラダとかを作る。テレビではニュースをやっている。あまり明るい話題はない。明るい話題ばかりのニュースがあっても悪くないとは思うが、もしかしたら人はそれを望まないのかもしれない。まさかテレビ局に暗いニュースが多すぎると文句も言えないので僕はたいてい途中でテレビを消す。代わりにラジオをつけ勤務先でもある地方FM局にチューンする。その時間帯に流されるのは数世代前のUSのヒットチューンで、時代背景と結びつきにくい彼らの歌声は実に時間的節操がない。かつて風を切ったバイクに乗らなくなって久しいお父さんが奥さんと「懐かしいね」とか顔を見合わせている側で、高校生の娘が「なんだろう。悪くない」なんて新鮮な興味を示す。そんな音楽たち。僕はそれらを聴きながら出勤の準備をする。僕は夜しか泳げない。暗くなった街に小さな銀のビートルで走り出す。

「初めてお便りします。最近なんだか眠れなくて毎日放送を聞かせてもらっています。不眠症とかに詳しい友達に聞くと稀にある桜の花粉症らしいです。でも今の私には特別にやることがあるわけでもないですし、本当はそれを言い訳に毎晩放送が聴けるのでちょっと得した気分です」
 その日の放送で手に取った葉書を読んだ。僕の仕事はこの地方FM局の深夜放送のパーソナリティーで、この町に来てから誰が聴いているのか、そして誰に話し掛けているか分からない放送をずっと毎晩続けている。冬は太陽を見ることなく、夏は夕日と朝日だけを見る生活だ。その中でたまに、ごくたまに葉書が来ることがある。僕はそれを世界のどこかの見知らぬ街で偶然耳にした同郷の言葉のように愛しく思う。
 隅に桜の水彩画がプリントされた葉書の一番下のほうにリクエスト曲が添えてあった。スタイリスティックスのユー・アー・エヴリシング。僕にとっても懐かしい曲だった。

「こんばんは。またお便りしてしまいました。実はわたし、この街に住んでいる人間ではありません。ちょっとした旅行の途中でこの街に立ち寄りました。最初の夜、なんだか胸騒ぎがして眠れなくて、あんまり手持ちぶたさだったからラジオをつけたらあなたの声がしました。なぜだかすごく懐かしい気持ちがして、あれから毎日聴いています。私のリクエスト曲はどうですか? あなたにも気に入ってもらえると嬉しいです」
 また同じ桜の水彩画がプリントされた葉書だった。リクエスト曲はタック&パティのタイム・アフター・タイム。これもまた懐かしい曲だった。僕はブースの窓から見える局の脇に咲く桜を眺めながら曲を聴いた。懐かしさには景色がなくて、代わりに桜の木を当てはめたのだ。

 僕には記憶がない。自分の名前や年齢すらも分からない。あるいは、それを知ろうとすれば知ることは可能なのかもしれない。例えば警察に行って自分の捜索願が出ていないか調べるとか、テレビ局に行ってニュースに出してもらうとか。現実的なのかどうか分からないけど方法はあるように思えた。しかし僕はそれをしなかった。逆に自分の存在を隠した。そのためにずいぶんな冒険もした。拾った定期入れの中の免許証の住所を使い、知らない誰かの住民票を取った。夜間の警備員の仕事をしながら自動車学校に通いなんとか免許証を手に入れた。その頃は名前を聞かれる度に手のひらに汗をかいていた。
 それから僕は旅に出た。どこか遠くへ行くことで安心感を覚えた。そしてこの街へ辿り着き、そしてやっと安息の場所を手に入れた。深夜のラジオ局。こんな仕事を得られたのは奇跡としか言いようがない。そこでは僕はパーソナリティーとしてさらなる偽名を使い、声だけで世界と繋がる。交通量が多い街ではないが絶対に安全運転を怠らず、朝から夕方までの人が訪ねてきそうな時間はそっと部屋の奥で息を潜める。存在を誰かに嗅ぎ取られないように。ただ、静かに時を進める。そして夜の闇の中でだけ世界と繋がる。
 この生活を変えるつもりはない。光の下に出るわけにはいかない。僕は、自分の過去を知ることが怖い。あの日、今の僕が持つ記憶の最初の日、僕は海岸の岩場にいた。両手足をガムテープで巻かれていた跡があった。混乱が僕を襲ったが手がかりはほとんど何もなかった。あったのはジャンパーのファスナーつきのポケットに入っていた小さなMDウォークマンだけで、驚いたことに水浸しになってなお聴くことができた。自分が何者なのかも分からぬまま、ただそれらの曲は胸に響いた。

「こんばんは。今日は風の強い一日でしたね。桜の花びらがたくさん散ってしまいました。桜の花が散る頃に、私は帰ろうと思います。いつまでもここに留まれるわけでもないですし。気分転換のぶらり旅のつもりだったんですけど、いつのまにか目的みたいなものもできちゃって長居しちゃいました。実は私の夫はもう何年も行方不明中です。独身だと思ってました? へへへ、実は早くに恋に落ちて結婚したんですよ。でも、ある日突然いなくなっちゃいました。新興宗教の脱会カウンセリングしてたんですけど、クライアントさんを家まで送りに行ってそのまま。あっ、なんかお昼のテレビの視聴者相談コーナーみたいになってきちゃったから、もう止めときます。ただ、あなたの声とか喋り方とかすごくあの人に似てるから、もうすぐ放送が聴けなくなるの残念です。残された時間はお昼は中央公園で桜を見て、夜はこの放送を聴いて過ごそうと思います」
 また、同じ葉書だった。リクエスト曲はキャロル・キングのソー・ファー・アウェイ。MDの一番最後に入っていた曲だった。僕は曲をかけた。いつもそうするようにマイクを切り、ブース内にも音を流した。曇りのない音だった。本来、ブースの中は静粛そのものだ。雑音が入れば放送に乗ってしまう。風音一つ聴こえないけれど、窓の向こうでは桜の枝が大きく揺れていた。花びらが、溶け出すように闇に舞った。

 あるいは僕は何かを取り戻すかもしれない。そう思った。いつもより少し早く起きて明るいうちに家を出る。車の中でラジオを聴きながら自分自身に問い掛ける。僕と葉書をくれた女性の本当の関係は分からない。記憶のない僕には会ったとしても判別できないかもしれない。でも、やはりそれは理屈では説明できない部分で必ず僕の何かを変えるだろう。そして手紙をくれた女性のことも考えた。僕がそこへ行くことで何をしてあげられるのだろう。車は中央公園の近くまできていた。背の高い桜の木が見えてくる。ただ、なにかを決めかねている自分の心だけが見えなかった。

 結局僕は公園を通り過ぎた。商店街のレコードショップでいくつかのCDを買い、本屋で適当な文庫本を一冊買って局へ向かった。駐車場に車を止めて桜の木を見上げる。強い風に花びらはほとんど散っていた。見上げていると、あの人の葉書に書いてあった桜の花粉症なのだろうか、少しだけ涙が出た。





エントリ3  ゴーレム   ごんぱち



「アルツハイマーですね」
 脳のCTスキャンには、黒い影がはっきり映っていた。
「補助大脳移植による早期治療をお勧めします」
 医師が引き出しの中から、見本の補助大脳を出す。温州みかん程の大きさで、キチンコーティングされた本体から、針よりも細い端子が毛のように生えていた。
「保険も効きますし、手術リスクは麻酔の覚醒程度ですから」
「ゴーレム手術です、か」
 清水信は呆然と呟く。
「補助大脳移植手術です」
 医師は明らさまに不機嫌そうな顔になった。
「す、すみません」
「手術同意書をお渡ししますので、奥様と清水さん自身のサインをお願いします」
「あの、それを装着しても、本当に私は私のままでいられるんですか?」
「手がなくなったら義手を作る、脳細胞が壊れたら補助大脳を使う、それだけの事です」
 医師は、見本の補助大脳を引き出しにしまった。
「それとも、症状の進行に任せて、奥様にシモのお世話までさせるつもりですか?」

「そう……」
 テーブルに置かれた診断書と手術同意書に視線を落としたまま、妻の頼子は呟く。
「病気でしたのね」
「ああ」
 清水は応える。
 テーブルの上には、用意しかけの夕食が並んでいた。
「手術、なさるんですか?」
 手術同意書の署名欄に、清水の名はない。
「頼子」
 清水は頼子を見つめる。
「した方が良いと思うか」
「私は……」
 頼子は口ごもる。
「まあ慌てる事もない。別の医者に行って、あ……え……うあ……あれ、何て言ったか」
「セカンドオピニオン?」
「そう、それを聞いて来よう。案外、誤診かも知れない」
「そうですね」
 同意書を封筒に戻して、頼子は立ち上がった。
「ご飯にしましょう。今日はイナダが安かったのよ」
(ああ、この魚、そんな名だったか)

 数日が過ぎた。
(アルツハイマー……本当に?)
 出社した清水の手は、度々止まる。
 父親の姿が頭に浮かぶ。
 痴呆が出始めた事を自覚し、悩み、鬱になり、それがまた痴呆を進め、最期には歩く事も出来なくなる。
(そんな、馬鹿な事が)
「……ゴーレム、か」
「清水部長」
「な、なんだ」
 いつの間にか、側に部下が来ていた。
「お願いした物品台帳の検印、終わってたら下さい。急ぎで本社に、ファックスしますので」
 部下は、最後を少し強めに言う。
「物品台帳? 受け取ってないぞ」
「さっきお願いしましたよ。ちゃんと部長、返事したじゃありませんか。さあ、十一時の本社会議に間に合わせたいんで早く!」
「えっ、ええと」
 清水は机の上に視線を這わせる。
「ん、これ?」
 一枚の書類が目に留まった。
「なんだ、検印あるじゃないですか。出来てたらすぐ下さい。急ぐって、言いましたよね」
 部下は言い捨て、ファックスへ直行した。
(受け取った事も、忘れてる)
 両手で頭を抱え、清水は溜息をついた。
(しかし、もう少し言い方があるだろう、あいつ……あいつ)
 それから、部下の後ろ姿に視線を向ける。
(あれ? ええと、あれ、名前、は?)

 仕事を終えた清水は、夕暮れになりかけの繁華街を、ゆっくりと歩く。
(何も、分からなくなっているなんて)
 首を横に振る。
 通りに面したビルで、改装工事が行われていた。
 亀裂の入った床を修繕する為に、セメントが混ぜられている。
 頭にタオルを巻いた作業員が、セメントを手際よく混ぜる。ダマになることもない。
「おーい、出来たか」
「はいよっ!」
「じゃあ、持って来てくれ!」
「おうっ」
 その作業員は、額を拭おうとして、頭に巻いていたタオルを外した。
「あっ……」
 清水は呟く。
 作業員の後頭部には、禿があった。
 ざっくりと、何かで切ったような。
 そう、脳手術を施した時に出来る傷跡そっくりの。
「ゴーレム、か」
 言葉に気付いたのか、作業員は顔を上げた。
 それから。
 にっこり笑った。心から幸せそうに。

(補助大脳、か)
 サラリーマンや学生の乗り込んだ列車は、それほど混んではいなかったが椅子に空きはなかった。
(そんなに考える事もなかったんだ)
 清水は吊革に掴まって立つ。
 目に、作業員の笑顔が浮かぶ。
(そりゃあそうだ。意思を持たない人形になるような手術が、保険適用される訳がない)
「ふふ」
「あの」
 ふいに、声をかけられた。
「どうぞ」
 一人のサラリーマン風の男が、椅子を立って清水に会釈する。
「ああ、ありがとうございます」
 清水は軽く頭を下げて、椅子に座る。
(そんな歳になったかと思うと、寂しいやら何やら。でも、アルツハイマーなんてものが出るんだ、やっぱり年寄りになってしまったんだな)
 礼半分恨み半分の目で、清水は席を譲った男を見る。
 男の顔は赤く、酔っているのがハッキリと分かった。
 体重を左足にかけている。
(怪我? 申し訳ないなぁ)
 ずっと、その姿勢は変わらなかった。
 男は酔っているようだったが、足取りはしっかりしている。
 それどころか、揺れる車内だというのに、吊革に掴まる必要すらない程にしっかりと立っている。
(怪我でも、ないのか)
『次は、下鷹野、下鷹野でございます。JR線はお乗り替えです』
 列車が止まってから、清水は立ち上がる。
「ありがとうございました。もう降りますのでどうぞ」
 声をかけると、男は足を引きずりながら座った。
 清水は列車から降り、改札へ続く階段を上って行った。
『――閉まるドアに、ご注意下さい』
 ドアが閉じ、列車が動き始めた時。
 操作でも誤ったのか、列車が大きく揺れた。
 座った男は、その勢いに椅子から投げ出される。反射的に動いた左手も間に合わず、頭が床に音を立ててぶつかった。
 頭は、後頭部からぱっくりと割れ、床に強烈な腐臭を放つ汁が飛び散り、誰かが悲鳴を上げた。
 転げ出た補助大脳が、ドアに当たってコツンと音を立てた。

『つまり、Aさんは、一週間前に脳が死滅していた、と?』
 アナウンサーが、医学教授に尋ねる。
『はい。多少の不自然な動きはあったようですが、独り暮らしのせいもあり、気付かれなかったようです』
 医学教授の顔は、深刻というよりも好奇心に満ちている。
『死者をも動かしてしまう補助大脳は、人間を操ってしまうのではないか、との懸念も出ているようですが?』
『それは杞憂でしょう。今回の件も、Aさんの脳機能の低下を補おうとリミッターのレベルが下がって行っただけです』
「おはよう」
『――の持つ抗酸化力はすっごいんですよ!』
 背広姿の清水がダイニングに入ってくるなり、頼子はテレビのチャンネルを替えた。
「おはようございます」
「今日も良い天気だなぁ。あはは」
「そうですね」
 頼子は微笑みながら、味噌汁を注ぐ。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう。うん、旨いね」
 明るい顔で、清水は食事をとる。
 その箸の動きは、完璧な作法に則っていた。
「ご馳走様。じゃ、行って来るよ」
「はい、行ってらっしゃい」
 清水は家を出て行った。
 頼子はチャンネルを戻す。
『――いずれにせよ』
 医学教授が締めに入ろうとしているところだった。
『補助大脳は、そのままでは日常生活も困難なほど機能低下した人間の脳を補い、仕事が出来るように、必要とされる人間に戻しています』
『なるほど……』
『人間にとって一番重要で幸せに直結するのは、必要とされるか否かです』
 頼子はテレビを消し、玄関から外へ出た。
 自転車に乗った清水が、遠ざかっていくところだった。
「行ってらっしゃい」
 その後ろ姿を、頼子は見送った。
 限りなく穏やかで、幸せそうな顔で。





エントリ4  キャンディ   るるるぶ☆どっぐちゃん



 さあ、みなさんこっちを向いて聞いて下さいね。
 ああもう、そんなに急がないで。みなさん、みなさんってば。聞いて下さいみなさん。雑念を捨てて下さい。こんなに広い入り口で、そんなに急ぐ必要は全然無いのですよ。道はこんなに、広いじゃあ無いですか。そして、果てしない。終わりなんて見えないくらいに果てしない。終わり、見えますか? 見えないでしょう。だから大丈夫です。急がないで下さい。この青空の下、雑念を捨てて下さい。
 それにしても、いやあ凄いですね今日の青空は。もう冬も終わり、季節の変わり目で、天気は崩れがちだったけれど、今日は凄いですね。こんなにも青く晴れて、そしてこんなにも何も無い。雲なんて全く見当たらない。みなさん、聴いていますか? こちら見てますか? 聞いてますか? ああもうそこの方々、ナイスショットとかいうのは、止して下さいませんか? ゴルフじゃあ無いのだから。こんなにも凄い青空なんですよ? この青空の下、雑念を捨てて下さい。ああもう。ですから、ゴルフじゃあ無いんですよ。ナイスショットは、止めにしましょう。ナイスショットとか言うのは、止めにしましょう。ゴルフじゃあ、無いのですから。
 ようやく静かになりましたね。さあ、良いですか。
 実は、少女が少女に、恋をしたのです。
 長く輝くような金髪と、緑色瞳をもった、どこを見ているのか良く解らないけれどとにかく吸い込まれそうな美しさの瞳を持った彼女は、ばっさりと切った、頬も胸も腰も足もガリガリに痩せた、全てものを傲慢に、真っ直ぐ見つめる、これもまた美しい少女に恋をしました。
 少女が、少女に恋をした。
 そして坊主が、屏風に恋をした。
 見てご覧なさい。あの小さな小坊主さんを。屏風に描かれた怪しい仙女を見つめるあの、恋に狂った瞳を。ああ、あの瞳を、瞳をというか、あの瞳のようなものを、あたしはどこかで見たような気がしますね。どこだったろうか。ずっと前のことだからなかなか思い出せない。どこだっただろうか。どこだったかな。
 ともかく、少女が、少女に恋をしました。
 そして、坊主が屏風に恋をした。
 どちらも、あまり上手なやり方とは、言えないけれど。
 でも恋なんて、言わばエゴとエゴのポーカーフェイスですからね。上手い方法、なんて言っても。恋ですからね。所詮上手い方法なんて、望むべくも無いのですが。
 さあ、みなさん、ご覧下さい。雑念を捨てて、ご覧下さい。見えますね。あの屏風の影から垣間見える、六本の足が絡み合うところが。少女と少女と、坊主の六本の足が、絡み合うのが。あの巨大な、小さなビルほどの屏風の影から、垣間見えますね。
 美しいものです。とても美しい。屏風も美しいし、小坊主さんが恋をするのも解ります。そして、それにも増して、彼らの足も美しい。美しい者達が、美しいものに恋をする、というのは、良いものですね。美しい足を持つものは、きちんと道を歩いてきた者だ、しっかりと、上手か不上手かではなく、しっかりきちんと自分の道を歩いてきた者だ、そのように言われますけれど。綺麗ですね。本当に。本当に、美しいものです。六本が六本、違った個性を持っていて、ああ、あの足は、金髪の少女の物でしょうね。あの高貴な曲線は、間違いない。あの娘のものです。少しも濁ることの無い、真っ白な肌ですからね。ああ、真っ白というのは、あそこまで真っ白というのは、凄いですね。とても美しいですし、それに、なんだか切ない気持ちになります。あんなにも白い足が、黒い髪の少女の、ほっそりとした足に絡みついて、離れないように、離れないようにと、ぎゅう、と力を込め、汗をうっすらとかいている、というのは、なかなか切ないものです。切ない。切ないといえば足は六本ですからね。屏風の影から見えるのは六本ですから。小坊主さんのことを考えると、なかなかに、つらい。
 いや、駄目ですよ。写真に撮らないで下さい。フラッシュをそんなに焚いて。眩しいくらいに焚いて。写真に撮らないで下さい。六本の足が絡み合うのを、みなさん、撮らないで下さい。ゴルフじゃあ無いのですから。どうせうまくは撮れませんよ。あそこは影になっているし、
 大体キャディって誰ですか。あたしですか。そんな筈ある訳無いじゃあ無いですか。こんなセクシーな衣装を着たキャディが居ますか。こんな、ウサ耳を取ったバニーガールみたいな衣装を着たキャディが居ますか。居るわけ無いじゃないですか。居ませんよそんなキャディ。そんなキャディなんて、信じられませんよ。そんなキャディの言うことなんて、何も信じられませんよ。
 みなさん、聞いて下さい。雑念を捨てて下さい。こんなにも素晴らしい、青空の下なのですから。
 ああ、またフラッシュ。かしゃりかしゃりかしゃり。シャッター音。フラッシュ。
 みなさん、ボールをぶつけますよ、言うことを聞かないと。その頭に、ボールをぶつけますよ。みなさんの頭にボールをぶつけるくらい、あたしには簡単なのですから。嘘だと思っているでしょう。でも簡単なのですよ。本当に簡単に、出来るのですから。ここに、極細に加工された金属バットのような、珍妙な形に折れ曲がってしまった灰色の金属棒と、一面でこぼこで、つまり全面が月の裏側のような、クレーターだらけの小さなボールが、偶然置いてありますからね。これを使えば、あなた達の頭にボールをぶつけるくらい、わけは無いのですから。握ってみたならば、実にあたしの手にフィットするのです。ですからこんなに離れていたって、ヤードにしたら100ヤードくらいですか? そんな距離は、問題じゃあ無いのです。
 ああもう。だからもう。みなさん、ナイスショット、じゃあ無くて。
 みなさんぶつけますよ。本当にぶつけますからね。痛いですよこれがぶつかったら。本当にぶつけますよ。痛いと思いますよ。これがぶつかったら、絶対に血が出ますよ?
 雑念を捨てましょう。雑念を捨てて下さい。風は完全なアゲインストです。こんなにも強いアゲインストです。いろいろなものが飛んでいってしまう。そんなアゲインストです。みなさん、雑念を捨てて下さい。ゴルフのことなんて考えていると、手元が狂いますよ? ゴルフじゃあ無いのですから。屏風の影をご覧なさい。ゴルフじゃあ無いでしょう? 彼女達は、あそこでゴルフをしているわけじゃあ無いでしょう? あそこでは、彼女達は人生の全てを賭けているのです。恋に全てを賭けてしまっているのです。解りますか? 聞いていますか? 私の話。ああですからフラッシュじゃあなくて。かしゃりかしゃりかしゃり。シャッター音。閃光。ですからフラッシュじゃあ無くて。写真を撮らないで下さい。怒られますよ? ボールを、ぶつけられますよ。血が、出ますよ?
 みなさん、雑念を捨てて下さい。その傘で、ゴルフスイングの真似をするのは止めて下さい。青空の下で、傘で、ゴルフスイング。いますぐ止めて下さい。何で傘なんて持ってきたのですか。そんなのは全く関係ありませんよ。せめてあたしに目隠しをする、なら解らなくも無いですけれど。黒いビロードの生地で、もしくは白いざらざらとした布で、あたしの目隠しをするのなら。
 さあ、全てを捨てましょう。道はこんなにも広く、そして果てしなし。ゴルフじゃあ、無いのですから。人生はゴルフじゃあ、無いのですから。





エントリ5  江戸の春、「はなびらひとつ」   冬日 洋



「‥‥俺は今日、死ぬのよ」
 若い男は、花見帰りの客が引き上げていった後でもう一度つぶやいた。居酒屋のなかは今は静まって、ほかには先ほどやってきた五十過ぎの客が飲んでいるばかりである。
「あいつら、馬鹿みてえに騒ぎやがって、桜が咲いたからってそんなにうれしいかね‥‥」
 若い男は横をむいて付け加えた。
「‥‥俺には何にもねえよ、何にもねえからよ」
 年配の男は、店の亭主を引き止めてそっと尋ねた。
「知ってる顔かい‥‥」
 亭主は渋面で応えた。
「この先の三河屋の奉公人だったんでさ。‥‥長次とか言いましたかな。なんでも二十を越えても、まだ見習いのままで自棄をおこしちまったとか」
「‥‥しかし、あんなこと言ってるぜ。大丈夫なのかい」
 亭主は幾分あいまいに答えた。
「以前も同じようなことがありましたよ。居合わせた客がみんな寄ってなだめましたがね」
「で、どうしたね」
「野郎、しばらく姿を見せなくてぞっとしましたがね。ふいにまた現れて、あんなこと言い出すんですよ。これで三回目でさ」
 亭主は銚子を振って、酒の残り具合を見た。
「言ってみたいんでしょう。今の若い奴はすぐに言いますねえ。わし等の若い時はそんなこと思い付きもしなかったが」
 客はその言葉にうなずきながら、懐に手を差し入れて痛みを感じたかのように顔をしかめた。
「‥‥確かに、本気の奴は黙っているだろうな」
 長次という男はふらりと立ち上がった。
「ほっときゃいいんですよ‥‥」
 聞こえよがしに言う亭主の言葉にも無表情に、長次は銭を置くと物憂い足取りで店を出ていった。年配の客はじっとその後姿を見送っていた。
「このごろじゃ、あんまりまともな仕事についていないってことですよ‥‥あの」
 亭主は追加の注文を尋ねたが、客は断って店を出た。

 春の月夜はほの白く肌寒かった。家々はすでに暗く、花に浮かれていた人々の疲労が余韻となって静かに漂っていた。
 店を出た客は、それとなく人影を捜しながら歩いていた。
 通りを二つ横切った時、その先の橋の上に小さな影を見つけた。夜をすかして目を凝らすと、やはりさっきの若い男で、欄干に寄りかかって川の流れを見ている。年配の客はそろそろと近づいていった。
「死ぬのかい‥‥」
「‥‥」
「そこから飛び降りればすぐだ。‥‥それとも木にぶら下がるか、いっそのことぐさりと短刀ででもやるか‥‥」
「‥‥」
「ほんとに、死ぬのかい」
 長次は振り返った。
「うるせいな」
 年配の男は近づいた。
「それでも怖いだろう」
「俺に構うな」
「どうしたんだ‥‥」
「行っちまえ」
「‥‥覚えがあるんだ」
 若い男はせせら笑った。
「‥‥覚えがあるって、あんたにか。俺だって訳の判らないこの感じが、どうしてあんたに判るんだ」
「‥‥」
「‥‥ふん、大した話じゃねえ‥‥ある日、主人に言われたのよ。『もっと真面目にやらないとほかの奴に抜かれちまうぞ』とな。それだけだ」
「‥‥それだけか」
「そうさ、それもたった一度さ。『おい、長次、もう少し頑張ったらどうだ』‥‥それでふいとつまずいたように厭になっちまった‥‥」
「‥‥頑張れとな」
「押し殺したように、毎日同じことをくり返して黙って仕事してきた挙句にだ‥‥ちっ」
「‥‥」
「主人のひと言で、俺は怠け者さ。そうなると周りは天と地ほども態度が違う。どうにもたまらなくて同い年の奴に言うと、実はそいつも俺のことを哀れんでやがる、と判った」
「‥‥そうか」
「世の中の奴等はよくよく意地が悪いんだ。いやあ、俺には分かっている。みんな自分がはずれ者になるのが嫌なだけさ。人のアラを探して自分は、みんなのほうに留まりたいのさ。馬鹿な奴等さ」
「‥‥そうだがな」
「そうよ。俺が特に怠けていたわけじゃない。みんな同じだぜ。見せかけだけさ。実際はちゃらちゃらと一日過ごして生き延びているだけだぜ」
 長次は物憂げに続けた。
「ただ生きているだけだ‥‥なんでこんな思いまでして生きていかなければならないんだろう」
 男は長次の言葉を引き取った。
「楽しいことなんてそうありはしない。‥‥嫌なことばかりだ。毎日毎日あたり前で同じことばかりが続く。寝て起きて飯を食って、同じ所に行って同じ奴等と同じ仕事をして帰って寝て起きて‥‥生きている限り同じ生活が続いていく」
 おぼろな光に照らされて、水のおもてを散り急いだ桜の花びらが流れていく。
「‥‥おまえさん、いくつだね」
「‥‥説教はごめんだ」
「覚えがあるんだ」
 長次は、そっぽを向いていた。
「俺はな、十三の頃から生きていたくなかった。今日にしようか明日にしようかと、毎日こうやって橋の上で考えたもんだ」
「‥‥」
「やぶ睨みでな。客を睨むといっては怒られたり笑われたりしていたんだ。くだらない話だが、これで立派な理由だと思ったね」
「でも、生きてるんじゃねえか」
「ずるずると死にそびれてな。十八を過ぎて店を飛び出して、細工師のところへ弟子入りしたよ。まったく遅れたはじまりだが、それでも間に合った。名人にはなれなくても、覚えた技と店勤めの才覚で、今じゃ小さいながら店もある‥‥」
「今では嘘みたいに生きていたくなったか。めでたしめでたしだな」
「ああ‥‥やっ生きているのが当たり前になった」
「ふん」
 長次は何の関わりもなかったように、ふらっとその場を離れて歩き出した。
「俺には関係のないはなしだ。俺の嫌気はまだ年期が入っていないか。とんでもないお節介やきだぜ」
 年配の男は、なだめるように相手の肩に手を置いた。
「他人はお前さんが思っているほどお前さんのことを気にしちゃいないさ。だけど、お前さんが思っているほど冷たくもないんだよ」
「‥‥離せよ」
「‥‥生きていたくても生きていけない人もいるんだ‥‥などと判ったようなことはいわないよ。いざとなれば人間なんて弱いものだ、でもな」
「くどいぜ。うんざりだ」
 若い男は堪忍を切らしたとみえて、肩にかかっていた手を払いのけた。
「俺がどうなろうとあんたに何の関係がある。俺はあんた等が憎い。どうしてこんな時ばかり俺に付きまとうんだ」
 長次は男に飛びかかっていった。
「‥‥へへ、俺はもう、殺しても殺されてもいいんだぜ」
 冗談めかして言う長次の言葉はそれまでになく生き生きと響いた。本能的なもがきは見せたものの、男は黙って引き倒され、組敷かれて喉を絞られるままになった。
「殺してやる」
「そうか」
 男は薄目をあけて哀れむように長次を見た。
「気の毒だな、おまえは、死罪だ」
「なに」
「まあな、人に殺してもらうのが一番気が楽だ」
 気味が悪かった。興奮はすぐに消え、若い男は元の無気力な調子に戻ると手を放して背中を向けた。
「‥‥てめえ勝手に同情しやがって。おめえなんかに判ってたまるか。‥‥場所を変えるぜ。‥‥あばよ」
 年配の男はゆっくりと呼びかけた。
「もう死ぬな」
 若い男がまだ悩みつつ去っていく姿を、男は温かい目で見守っていた。
「牛込町で小間物屋をしている又造という者だ。訪ねてくれ、‥‥なるべく早く」
 そしてふいに泣き笑いの表情になると、懐から縄を取り出して川へ投げ捨てた。その日一日、持ち歩いた古縄だった。
 男は欄干に寄りかかって歩いた。
 胃の腑に癌種があると告げられたのは二日前だった。だが、すぐ死ぬわけではない、と医者は言った。
「‥‥死ぬまで生きるってことか」
 橋をおりて遠ざかる男の背に、桜の花びらがひとつ舞い降りた。





エントリ6  雪の降る町で   THUKI



 私の朝は、ストーブを付けるところからはじめる。
 雪国の朝は、11月を越えると春が来るまで氷点下を上回ることがないからだ。
 ベッドから足だけを出してその親指でストーブのスイッチをつける姿は他者から見たらとてもだらしないだろうが、私の部屋は一人部屋。こんな姿、親にすら見せたことはない。
 幸か不幸か私の部屋は6畳という小さな間取りに、床一面にカーペットが引かれている。さほど威力のない小さな石油ストーブであっても、10分もすればすっかり5月張りの暖かさになってくれる。
 普段部屋を狭く感じさせているベッドや、クローゼット、勉強机も暖房に協力してくれるのだから、このときだけは、感謝したい。
「うっ、う〜ん。」
 ストーブの熱が部屋を温め、室温感知センサーのデジタル表示が『18度』を上回ってから、私はようやくベッドからはいでる。
 この温さ代償は石油独特の匂いが鼻を刺激することだが、慣れてしまえばさして気になるものでもない。
 パジャマ姿のまま、背伸びをして、窓に目を向けるとカーテンの隙間から明るすぎる光が、一本の線を引いて私に降り注いだ。
 少し気になりカーテンを開いてみると、一瞬まぶしすぎる光が私を襲い、思わず視線を床へと落としてしまった。
雪が太陽の光を反射したのだ。
確信した私は、目をこすり、もう一度目を慣らしてよく見る。
そこに広がっていたのは庭いっぱいの真っ白な銀世界。
 昨日の夜から振り出した雪が、今朝になるまで積もっていたのだろう。
「わぁ、雪だ!」
 私は、思わず声をあげて喜んでいた。
 雪国で育った私には見慣れた風景であるはずなのに、足跡や、タイヤによって汚されてない真っ白な雪世界は、何度見ても感動する。
 地域によっては一年中雪が降らない地域があるという。
 そのようなところで育った人たちは、きっと、雪がこれほど感動できるものだと知らないのだろう。そう思うと、ちょっと可哀想だ。
「由紀〜朝よ。学校遅刻するわよ!!」
 感動の時間は、お母さんの扉をはさんで聞こえてきた声によってかき消された。
 由紀とは私の名前。何でも、冬に生まれたから『雪』とかけたのだそうだ。
 私の両親が付けた名前にしては、中々洒落たセンスを持っていると思う。
「今、着替えるから待ってて。」
 現実は厳しい。
 もう少し銀世界を眺めていたい衝動に駆られたが、光陰矢のごとし。
 名残を惜しみながら私はカーテンを閉めると、クローゼットから学校指定の制服を取り出した。
 全身紺色に統一されたロングスカートの制服は、他の生徒たちの評価は悪いが、私としてはけっこう気に入っている。
 元を辿れば、この制服が着たくて今の高校を希望したのだ。
 パジャマを脱ぎ捨て、すばやく制服を着る。
その後、ブラシを持って、勉強机に着席。
大き目の置き鏡を一番上の引き出しから私の顔が映るようにセットすると、そこには、この世でもっとも見たくない顔・・・・・・・寝癖がたった私の顔が映っていた。
「ふぅ〜。」
 思わず、ため息が出る。
 私のロングへヤーは、朝起きるたびに大爆発を起こしている。
 コイツを直すだけで、私の貴重な朝の時間の大半は削られてしまう。
 男が羨ましい。男性のように、短い髪にできれば、少しはこの寝癖もおとなしくなるのに・・・・。

「お母さん、私のご飯ある?」
 寝癖と戦うこと30分。ようやくまとまった髪になった私は家族の待つ食卓に顔を出す。
 食卓といっても、海外ドラマで見るようなテーブルに家族みんなが囲むようなカッコイイ物ではなく、電気コタツをみんなで囲んでいるような、どこにでもある日本的な風景だ。
 だからといって、朝食のメニューもご飯に味噌汁という様な純和風と言うわけではない。
今日の朝食のメニューはミートボールに、玉子焼きとタコさんウインナー。
見るからに、お弁当に使ったおかずの余りだということがわかる。
上座では先に起きたであろうお父さんが座っており、ご飯をつつきながら、壁においてあるテレビを食い入るように眺めていた。
35インチの大き目のテレビでは、二年前の殺人事件が特集されている。
「当たり前でしょ?早く食べないと学校遅刻するわよ。」
 母の言葉は頭に入らなかった。
「お兄ちゃんだ・・・・・。」
 テレビに映る兄の姿。
 二年前の姿と何も変わらず、テレビに映っている。
 ニュースキャスターが歩く町並みは家のすぐ近くだった。
「そういえば、今日でしたね。博之が死んだ日は。」
 母も手を止め、テレビを凝視する。
 まさか、お母さんがそんな大事な日を忘れるとは思えない。
 おそらくお父さんや私に気を使っていたのだろう。
「・・・・・お母さん。お茶碗、もう一膳出してもらえるかな?」
 寡黙なお父さんが、テレビから目を話さず口にした。
 お兄ちゃんが死んだのは今から二年前の冬。
 その日も雪が降っていた。
 死因は、殺人。・・・・・・・・・犯人は、同級生だった。
 ・・・・・・・今でも、目を閉じれば思い出すことができる。
 真っ白な雪景色に栄えるような真っ赤なお兄ちゃんの鮮血・・・・
 正直・・・・・綺麗だった。
「はいはい。」
 私の分のご飯を目の前に置くと、お母さんは戸棚の奥にしまってあった大き目のお茶碗を取り出し、軽く水洗いをして、テレビの前の席に置く。
 今は使われないお兄ちゃんの茶碗と、お兄ちゃんのお気に入りの席。
 そういえば、昔はよくそこに座るとテレビが見れないって騒いでいたっけ・・・・・。
「由紀も今日は早く帰ってきなさいよ。」
 最後にお母さんも席に着き、家族の中で一番遅い朝食をとる。
「わかってるよ。」
 私は、ご飯を口の中に含めながら曖昧な返事を返すと、食べ終わったお茶碗を流しの中に入れ、急いで部屋に戻った。
 かばんを、部屋に置きっぱなしで、食卓に出てきてしまったのだ。
 あの事件から今日で二年がたつ。
 もうすぐ、私はお兄ちゃんの年齢と同じ年になる。
 お兄ちゃんと同じ年・・・・お兄ちゃんを殺した連中と同じ年だ。
「行ってきます〜。」
 かばんを手に取り、コートを片手に、私は家を後にする。
「気をつけなさいよ〜。」
 母の忠告を軽く流し、玄関と戸を開けると、北風が私の身体を容赦なく襲った。
 せっかく30分もかけてセットした髪の毛が一瞬のうちに台無しだ。
「さむっ!」
 身体が芯から振るえだし、思わず声に出る。
 早速、片手にとったコートを起用に羽織ると、大きく足を踏み出す。
「始めのイ〜ッポ。」
 何にも汚されていないきれいな雪景色に自分の足跡をつける。
 小さなことからやっている年に一度あるかないかの、私の些細な幸せ活動。
 二年前から、最大のライバルはいなくなった。
 私たちの日常は二年前から何も変わらない。
 風のうわさでは、お兄ちゃんを殺した犯人は最近少年院から出所したそうだ。
 お兄ちゃんが死んだ冬。その日も雪が降っていた。
 それでも、私は雪が好きだ。
 真っ白く、何にも汚されていない雪が好きだ。
 二年もたつと、お兄ちゃんのことを思い出すことは少ない。
 一緒に遊んでいた記憶ももうおぼろげだ。涙を流すこともなければ、殺した相手に怒りを覚えることもない。
 きっと、私は薄情な人間なのだろう。
「帰ったら雪だるまをつくろう〜っと。」
 大好きな雪の中、大好きな紺の制服を身にまとい、私はお兄ちゃんの供養をする。
 私の日常はこれからも、何が起ころうと変わることはない・・・・・・・。



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エントリ7  暖かく澄んだ光   中川きよみ



 ちさとは、もうパラグアイに着いただろうか。

 「しばらく留守にするから、預かって欲しいものがあるんだけれど」
 ちさとからの留守電を聞いたとき、またイグアナだったらイヤだなと思った。3年くらい前にイグアナを預かったけれど、苦手だということに預かってから気付いて往生した。
 でもちさとが持ってきたのはイグアナなんてもんじゃなかった。
「これ」
 季節はずれの赤いマフラーを受け取った瞬間、何かの気配にぞわっとした。ぽとん、と、軽いものがマフラーの間から落ちる感触があって、テーブルの足元に小さな小さな人が転んでいた。半分透明の身体に絨毯の柄が透けて見えた。腰を抜かしそうになった。
「ユーレイ。ご飯食べたりしないから特に世話は要らないんだけれど、放っておくと死んじゃうから」
 もう死んでるんでしょ、という言葉をやっと飲み込む。
 いくらちさとだって、こんな厄介なものを拾ってこなくたって良いだろうに。
「どうすればいいの?」
「ときどき話を聞いてあげて。もしかしたら、私が帰ってくるまでに消えてしまうことになるから。」
 身の丈20cmくらいの小さな幽霊はよく見ると若い女性のようだった。キョトンとした顔は悪さをする感じではなかったし、どっちみち断ることはできなさそうだった。

 ちさとは従妹だが、まるで本当の妹のような感じだった。実際、彼女が小学生の頃に離婚と病気で両親を失ってごちゃごちゃした一時期、我が家で引き取って暮らしていた。そういう生い立ちが作用したのかしないのか、昔から風変わりな子ではあった。
 私はちさとのことが本当に好きだったし、私の両親を含めた周囲の大人がいつもちさとの気持ちを後回しにすることを残念に思っていた。年は近いがせめて私だけでも彼女がごくたまに発するささやかな希望を無条件で聞こうと心掛けていた。そしてちさとが成人しても頼み事を無条件で引き受ける癖は直らず、イグアナを預かって欲しいとか幽霊を預かって欲しいとかいう珍妙な頼み事を受けるのだった。

 私に霊感がないからか互いに遠慮があったからか、幽霊は見えたり見えなかったりした。うちにきてから3日目くらいで慣れてきたのかやっと見えている時には声が聞こえるようになった。小さいくせに和田アキ子によく似た声だったのでちょっとたじろいだ。小さくて半透明で和田アキ子の声なので、怖がるも何もだんだんどうでもよくなって、ついつい友達に話しかけるような口調になった。すると幽霊の方もうち解けてきた。
「あんた、幽霊なんでしょ? パラグアイでもなんでもついて行けばいいのに、どうして留守番するの?」
「飛行機酔いが激しいから、あんなに遠いと困るのよね。」
 涼しい顔をして言う。
「なんでマフラーに憑いてるの?」
「ちょっと心配事があるのよ。それが片付くまではねぇ、ちょっと。」
 世間話のオバサンだ。
 幽霊は名前を教えて欲しかったのだけれど渋ったので、妥協案として「ベル」と呼ぶことにした。サイズが、ピーターパンに出てくる妖精のティンカーベルを思わせたからだ。良く言ってもコケシという、純和風で常に寝すぎた時のような顔立ちに「ベル」は褒めすぎだとは思うが、当人はいたく気に入っていた。

 コーヒーをいれていたらベルが寄ってきた。飲めないくせに。かつて好きだったのだろうか。カップの湯気のように透けた身体を見てギュッと哀しくなる。
「ベルが、そうしてるのと、ちさとって何か関係があるの?」
 これだけはどうしても訊いておきたいことだった。
「あのマフラーが強風に煽られて落ちてたところを拾われただけ。すっかり埃だらけで汚くなっていたから洗ってくれた。最初から見えてたみたいで、私のことも洗おうとしてくれたよ。普通、幽霊を洗うか?」
 ベルは少し笑って、私は心からほっとしていた。もしもベルが死んでしまったこととちさとに何か少しでも関係があったら私はどうしてあげればよいだろうかと真剣に心配していたから。
「どうしてちさとはベルとマフラーを世話してるのかしら? まあ、手間は確かにかからないけれど。」
「私はちさとのような誰かに助けられる必要があるってちさとは判っていて、そして部屋に私がいることでちさともさみしくないんだと思うよ。Give and takeかな。」
 イグアナの静謐さを思い出した。静かなものに埋めてもらいたいと願う、ちさとの深いさみしさにもう一度ギュッと哀しくなった。
「好きだったの?」
 ベルは喋りながら身を乗りださんばかりにコーヒーカップを覗き込むので、飲みづらいといったらなかった。
「うん。とっても好きだった。中毒みたいだったなぁ。執着していたものに集中してこうして誰かと喋ってないといい加減成仏してしまいそうだから、せめて見てるの……でももう匂いもわかんなくなっちゃってる。」
「……成仏しちゃえばいいじゃない?」
「そういう訳にもいかないよ。何のためにここまで頑張ってるんだかわからなくなっちゃうじゃない。」
「何のために?」
 ベルは無頓着に私の視界を堂々と横切ると、ふうわりと浮かび上がり、窓から外を覗く。空には鮮やかな夕暮れが広がっていた。
「ここから聖心病院って近い?」
「遠くはないけれど見えないわよ。」
「……」
 さあっとひと刷毛、明るい光が走ったような気がした。意外に目にする機会が多いような、なんだか懐かしい光だった。 
 失礼ながら常々ブサイクだなと思っていたベルの顔が、不思議なことにその時だけとても美しく見えた。

 ベルのためを兼ねて、もとから好きだったコーヒーをいれる回数が増えた。
 ちさとはまだ帰らない。帰国予定の日を過ぎて、やっと昨夜旅程が伸びたことを知らせるメールが届いた。
 ベルは何か用事でもあるのか、ここ数日は殆ど現れてなかった。さして気にもしなかったが、預かって棚の上に放りっぱなしの赤いマフラーを、埃くらいは払ってやるかと出してきた。
 日陰で軽く叩くと驚くほど埃っぽかった。よく見るとそれは手編みで、ズッシリとした編みのなるほどよく埃を吸いそうな代物だった。編み手の真心が、埃同様目にいっぱい詰まったような愛らしいマフラーだった。これだけ見ていると、ベルが憑いているとは想像もできない。
「ありがとう」
「あら、ベル、久しぶりじゃない。どっか出掛けてたの?」
「あんたも間抜けなこと言うね。憑いてるのに出掛けないよ。」
「ああ、じゃあ、痛かった? ごめんね。」
 埃を払うために布団叩きの柄で払っている内に、ついつい力が入って叩きまくっていた。
「何を言うやら……痛くもないよ。もうすぐ消えそうなの。」
「えっ?」
「もう、覚えていられないの。」
 確かにもとから半透明だったベルはますます薄くなっていた。
「お世話になったから、あんたにも、ちさとにも。」
「気味が悪いほどしおらしいわね。」
「最後の手術が終わったみたい。霊の気配もないから、多分、うまくいったんでしょ。ああ、これを編んでくれた人の手術……祈ってたんだ。私は幽霊だけれど、それでも必死に祈り続けたら、祈らないよりも少しは甲斐があるんじゃないかなと思って、それで無理して居続けたの。もう、いいわ。」
 とてもやわらかに、とても自然に、ふうっとベルは消えた。
 ベルが居た間何度も感じた明るい一筋の光、そう、あれは祈りだったのだろう。

 夕闇に暖かな光が散っていた。いくつもの祈りがあふれる一日が、今日も静かに終わる。