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第42回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
『睡眠病 ―天使― 』 橘内 潤 2822
さよならの構図 伊勢 湊 3000
シネマ CW るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
『だんまり』しましょ 篠崎かんな 3000
祖母 立花聡 3000
選考哀歌 ごんぱち 3000
パフォーマンス 小笠原寿夫 3000
ユウトとカオル THUKI 3000
約束 のぼりん 2999
10 旅日和 中川きよみ 3000
11 柳 戒人 3000


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エントリ1  『睡眠病 ―天使― 』   橘内 潤

 第五次睡眠病が発病したとき、世界人口は第一次睡眠病が発病した十年前と比べて、じつに五割以下にまで減少していた。
 人口大激減の原因はなにも睡眠病のせいばかりではなかったが、睡眠病患者が引き起こす「夢喰い」現象による被害者と、患者自身が法的殺人の犠牲となったことを合計した数が内訳のほとんどを占めていた。睡眠病をして「レミングス現象」と呼ばれた所以もそこにある。
 世界各所で発病者が眠りにつき、「夢喰い」として目を覚ます。夢を食べられた
人間はやがて夢を見ることができなくなり、ストレスを浄化できなくなった脳はアルツハイマーや脳卒中を起こして活動を停止する――そんなことは夢喰いを隔離施設に閉じ込めれば解決する問題だというのに、人々はまるで引き寄せられるように夢喰いの傍へといって、死んでいくのだった。
 神経ガスで夢喰いを「公共の福利」のために処理しても、その三日後や、あるいは三年後に次の睡眠病が始まって、同じことをくりかえす。それが四度もつづいて、人類の半分が死に至ったのである。
 そしていま、五度目の睡眠病が世界に蔓延していた。
 最初の睡眠病から十年――この頃になると、人々は大きく二種類に分けることができた。すなわち「睡眠病を受け入れるもの」と「睡眠病を拒絶するもの」である。
 前者の人々は「緩慢な滅びこそが神の意志ならば、それに従うしかないではないか」と諦観し、日々酒を飲んで唄って騒いで詩を詠んで暮らした。後者の人たちは、「夢喰いは殺人者だ。自衛のためにどんな手段をとっても罪にはならない」と高らかに謳った。老若男女、国籍、地位や財産を問わず発病する睡眠病は、世界じゅうのいたるところで悲喜こもごもの愛憎劇を生みだした。
 睡眠病に侵された乳飲み子を洗面器で溺死させようとした父親が母親に刺され、その母親もやがて我が子に夢を食いつくされて衰弱死する。夢喰いとして覚醒した恋人を、請われるままに泣きながら絞殺する男と、植物状態で横たわる私生児。逃げて逃げて逃げたはてに、樹海のなかでただ独りの平穏を手にいれたもの――語りつくせないドラマを繰りかえし、世論は日々、夢喰い完全排斥へと傾いていった。
 第一次睡眠病が騒がれた頃は無抵抗を貫いて、なにも知らぬまま殺されていった夢喰いたちも、自分たちを取り巻く状況の冷酷さには穏やかでいられなかった。好んで争おうとするものはなく、人の近寄らない山中や孤島でひっそり暮らしていければ満足だった夢喰いたちを、未感染者は許さなかった。血眼で探しだしては「自衛」のために夢喰いを殺してまわった。
 こうした状況の最中にも睡眠病は蔓延しつづけ、みずからの発病を悟ったものは社会から姿を消して、永い眠りの床に就く。夢喰いとして覚醒するまえの、無防備に眠っているところを襲われては抵抗できない――命を賭けた“かくれんぼ”だった。幸か不幸か、睡眠病の昏睡から覚醒までの時間はどんどんと短くなっていて、この頃には三日を待たずに夢喰いとして目覚めるようになっていた。
 三日の間、人間に狩られることなく人生最後の眠りから目を覚ました夢喰いたちは、殺されまいとして団結するようになった。この頃の人間と夢喰いの人口比は、睡眠病の蔓延率と、夢を食べられたことによる死傷者数、それに公的組織が夢喰いを殺していく速度などの相関の挙句、おおよそ一対一となっていた。人間側には近代兵器と戦争のノウハウがあり、夢喰い側には信奉者という味方がいて、戦力的にも拮抗しているとの見方が大方の軍事評論家が口にするところだった。
 未感染の人間にも夢喰いの助けをしようとするものが多かった。かつて、ひとりの詩人がそうしたように、「夢喰いとともに暮らして死んでいくのが自然の摂理だ」という理念のもと、夢喰いたちと共同生活を選んで人間と戦うものたちは信奉者と呼ばれた――正確には、彼らが自分たち自身のことをそう呼んでいたのであって、人間たちからは「裏切り者」だとか「コウモリ」だとか呼ばれていた。
 夢喰いたちからしても、信奉者の存在は嬉しいのが半分、困ったのが半分、というのが本音だった。夢喰いたちだけならば、食事も睡眠も要らずに二十四時間動きつづけることができたが、信奉者たちはただの人間――彼らに合わせて行動することは、最大のアドバンテージを放棄するということだった。そしてまた、眠った信奉者たちの夢を食べてしまうことが心苦しかった。夢喰い現象は呼吸や鼓動がそうであるように、止めることのできない生理現象なのだ。
 どのみち一ヶ月と持たずに死んでしまうような連中ならば、置き去りにしてしまえばいい――そう頭では理解していても、なかなか実行に移せなかった。信奉者という存在が人間というカテゴリーのなかにもう戻れない集団であるということも理解していたから、とても置き去りにすることができなかった。
 世界中、どの夢喰いと信奉者のコロニーもこのような状況で、日々を追うごとに死傷者の数を増やしていった。銃弾に倒れた夢喰いと、夢喰いに夢を食いつくされた信奉者を土嚢代わりに、彼らはむなしい抵抗をつづけた。
 ――第五世代の夢喰いもあと数週間のうちに殲滅されるだろうとだれもが予想していたある日、その瞬間は訪れた。
 その日その時刻に、夢喰いたちはひとりの例外もなく白昼夢を見た。真っ白な光に包まれた視界に、有翼の聖人が舞い降りる夢――それが引き金だった。生き残った夢喰いたちは、まるで“おしくらまんじゅう”をするように一点を目掛けて殺到した。ひしめく肉と肉が互いに削り合い、骨の折れる鈍い音と苦痛に泣き喚く声がこだまする――そんな奇妙で凄惨な円形が、世界各所の夢喰いコロニーにつくられた。
 そして、円の中央になって圧死ししていた夢喰いの肉体が消滅した。肉体が内側から爆発するという映像を巻き戻し再生するように、肉も骨も内側に収縮して、ごっそり掻き消えたのだ。
 それはまるで、内側に巣食ったものに身体を食べられているようだった。
 肉体消滅は同心円状に広がっていった。隙間なく寄り集まった夢喰いたちの身体が、つぎつぎと内側に爆ぜていく――そして、“内側に巣食ったものに身体を食べられている”というのが比喩ではなかったことが明らかとなる。
 夢喰いの肉体――大量の夢が蓄積された胚乳を食らって、天使が発芽する。無から有、夢から現、形而上から形而下へと生れ落ちた天使たちは、高らかに産声を唱和させた。鈴の音よりも美しく澄んだ歌声が、世界をつつんだ。
 天使どもは生誕の喜びを歌いおえると、四散さした夢喰いたちの四肢や頭部を骨ごとむさぼり食った。血と脳漿がワインだった。

 聖者の相貌と悪鬼の牙をあわせ持った異形を、人間たちは「天使」と呼んだ。夢喰いを皆殺しにした天使はまさに、神が使わした救済だった。
 ――その牙が人間に向けられるのは、「最初の晩餐」がおわった十七分後のことである。





エントリ2  さよならの構図   伊勢 湊

 自分が何を求めているかを考える。この期に及んで、それを考える。きっと僕にはいままでも気がついていないことがたくさんあって、気づかないからこそ、あるいはその意志に応えることが出来ていたのかもしれない。あるいは応えることは出来ていなかったかもしれないが、それを僕が知ることはない。それはたぶん、彼女とのことだけではなく僕の全てにおいてだ。いくら美しくとも宇宙には星がたくさんあって、見上げてもその全てを記憶に留められないように。

 結婚を三ヵ月後に控えて彼女が部屋を出て行った。一緒に住むようになって三年が過ぎていて、新婚というものに抱くある種の初々しさはなかったかもしれないが、その代わりお互いをよく分かっていたつもりではあった。つまり成田離婚とかそういうのとは無縁だと思っていた。特にこれまでと何かが変わるわけではないが、僕がいくつか売れる本を書けるようになり新しい単行本も初版からこれまでよりは割と多い発行部数で発売されるようになったのを期に籍を入れ、仲間内だけの小さな披露宴を開く気でいた。それは日常ではないかもしれないが、なにかの十周年には必ずなんらかのパーティーがあるようなもので全てはただ流れの中にあるものだと感じていた。だから彼女からその言葉を聞いたときには僕はショックや悲しさよりも、あるいは疑問さえ抱かずに、ただ単に諦めを感じた。僕は何も理解などしていなかったのだ。
 それは日差しの暖かい初夏の昼下がりで、籍を入れようと話した次の日に二人で銀座で買ってきたレースのお洒落なカーテンがときおり吹く風に膨らんでいた。二人とも貧乏だった頃の前の部屋には全ての光を遮る湿った分厚いカーテンしかなかったのを思い出し、記憶の中のそれと見比べながら、どこか家庭というものを感じる、そんな時間だった。彼女がコーヒーを入れてくれた。使い慣れた大きめのマグカップで、クリームだけが入っていて、混ぜられずに白い螺旋を描いていた。初めて会った頃にはおかしな飲みかただと言われたものだけど、それが当たり前になっていた。
「ねえ、聞いて」
「なんだい?」
 言葉は窓から吹き込むそよ風のように自然に発せられた。それを回避する術などなかった。
「わたし、ここを出て行くわ」
 幾分間があったが、僕は思考すらしていなかった。
「旅行にでも行くの?」
「ううん。ここを出て行って、もう戻ってこないの。結婚もしないし、たぶんもう会わない。決めたことなの」
 僕の馬鹿な質問に彼女はそう答えた。そのあと彼女は気持ちのよい風が吹く中でたった二時間で自分の荷物をまとめた。僕はその様子を資料として買ってきた自然科学雑誌を開いたまま眺めるともなく眺めていた。別に自分の存在の欠片をこの部屋から完全に消すつもりはないらしく、写真立の中の二人は切り裂かれて別々の紙切れになることもなく瀬戸大橋をバックに笑っていた。本当に旅行か何かに行くような感じで彼女は大きめのボストンバックを手に立ち上がった。
「じゃあ、行くね」
 そう言われて、どう言えばいいのか、いやどういうべきなのか答えが全く見付からなくて僕はただ雑誌から目を上げて彼女を見た。行くなという言葉も、どうしてという疑問も口を付いて出なかった。僕はもう一度雑誌に目を落として記事にあることを言った。
「宇宙で一番冷たい天体は、ケンタウルス座にあるブーメラン星雲って言うんだって」
 二人でいつもつまらない話に真剣になった。退屈などしたことはなかった。言葉にならない思いはいくつもあったが、そう言うのが精一杯だった。しまらない最後の言葉だった。彼女は小さく微笑んで、「いままでありがとう。わたしとの時間、小説のネタにでもしてね」と言い残すとテーブルに鍵を置いて出て行った。僕は雑誌に目をやったままで、それを音だけで認めた。

 答えを知らなければ良かったのかもしれない。それはあくまで偶然で、そういう意味では彼女は僕が彼女のことを理解するよりもっと僕のことを理解していたのかもしれない。そのあとで僕は自分から彼女に連絡をしようとはしなかった。彼女の実家の連絡先は知っていたが連絡は取らなかった。別に喧嘩別れしたわけでもなければ、お金の問題が存在したわけでもない。だいたい籍すら入れていない。自分の親には何もなかったように「結婚は止めたよ」とだけ告げた。友人の中には心配して話を聞いてくる者もいたが自分だって何が起きたのかいまいち理解できていないのに何の説明できず、ただ自分は大丈夫だと答えた。実際以前と変化の少ない生活を送った。一人であることは思うより難しくはなかった。ただやはり小説を書くことだけは出来なかった。知り合いの編集者が気を利かせてルポの仕事を回してくれた。南房総にある西洋医学だけに頼らない、あるいは西洋医学では根絶不可能な末期癌の患者たちを専門に受け入れる病院を取材して記事にするというものだった。
 駅からバスもあったのだが歩いても二十分ほどだと聞いていたのであえて歩いてみることにした。空がやたら青くて、蝉がうるさかった。海辺特有の雲が浮かんでいて、暑くはあったけど都会のそれほど不快ではなかった。この夏が終わりに差し掛かる頃に、結婚していたかもしれなかったのだと、ふと思った。
 病院は海が見える小高い丘の上にあった。医者というより海の男といった感じのアメリカ帰りの癌科部長が窓を開け扇風機を回した応接室で話を聞かせてくれた。人は自然に触れていないと弱くなってしまうんです。だから私は出来るだけエアコンは使わないんです。彼はそう話した。確かに海風は心地よく、慣れれば暑さすら楽しめそうだった。そのあとで彼は院内を案内してくれた。
 西洋医学を否定しているわけではありません。ただ手術と薬を大量に投与し癌が小さくなっても副作用の影響が大きければ生命力を奪います。ここでは人間の自然治癒力を高めるようにしているのです。そしてそれは同時に仮に癌の根絶が非常に困難な患者さんに痛みだけを強いるのではなく人間らしい生き方と、そして敢えて言葉にしますが、死に方さえにも力になれると信じています。そして彼がここがその状況的には死を迎えるしかない末期の方たちの病棟です。告知もしてあります。
 僕はふいにそこで足を止めた。それは、やはり邂逅には違いなかった。彼が横で「どうかしましたか?」という声が音としては聞こえていたと思う。

 その病院はなるべくエアコンを使わないから、ドアとか窓は開け放たれていた。その声を聞き、僕は壁に身を隠し、そしてそれっきり動けなくなった。
「保険は掛けてあるの。癌保険とかそういう意味じゃなくてね。思いっきり冷たく振ってきたの。理由も言わずに出てきたの。だからね、あの人は私のことなんて追いかけはしない。そういう人だから。私が死んでも何年か後に風の噂にそれを聞くだけ。ええ、分かってる。もちろん諦めてなんかないわ。だから保険なの。頑張って治して、それでね戻ってやるんだ。いきなり戻ったらそのときになってはじめて怒ると思うけど、そういう人だから、でもね、精一杯謝って結婚してやるんだ」
 自分が何も分かっていないのを知った。彼女のことだけでなく、自分のことも。どういう選択肢を選ぶことが最良なのか、その選択肢すら分からずに、選ばぬまま意識とは関係なく涙腺から出る水だけが廊下を濡らした。





エントリ3  シネマ CW   るるるぶ☆どっぐちゃん

 賛美歌を歌いながら、雑居ビルの共同トイレに入る。サビの部分のメロディがどうしても思い出せないままだったが、個室の壁に書かれていた落書きを見て、ようやく続きを思い出す。トイレにはいつも神様に関することばかりが落書きされている。あたしはパンツを降ろし、落書きを見上げながら便器に跨る。
「開けろよ、開けてくれ」
 外からがしんがしんとノックする音が聞こえる。
「なあ、セックスしようぜ」
 扉を開けると福耳の男が立っていた。彼は黒人で、痩せていて背ばかり高く、丸く可愛らしい形の耳をしていて、その耳に男は右に十個、左に二十個ほどのピアスをつけているのだった。
 男はあたしが女だと解ると明らかに不満そうな顔をした。が、それでもめげず、
「なあ、セックスしようぜ」
 と、先程よりはいくぶん意気消沈しているが、それでも明るくそう言った。
 良いよと答えると、男はちゃらちゃらと音をさせてトイレの中に入ってきた。男は鎖の巻き付いた皮の黒ズボンと、安全ピンの沢山付いたシャツと、銀色の指輪をつけていたのだった。シャツを脱ぐと羽根の刺青が目に入る。広い褐色の背中に一枚の大きな羽根。胸板にも羽根。腕にも羽根。首筋にも羽根。男は沢山の羽根の刺青をしていた。こんなに沢山の羽根じゃ重くてとても飛べそうに無いなと思う。男はあたしのスカートを脱がせる。男はスカートが気に入らない様子だった。
「女の子はいつでも可愛いスカートを履いているね。なんでだい」
「どうしてトイレにはいつも沢山の神様や、それに関することが書かれているのかしら」
 あたしは疑問文に疑問文で応じた。男はあたしの問いには何も答えなかった。
「今日はとても良い天気だった。さっきまで屋上にいたんだ」
 そのようなことを、男は言った。
「雨が降ると聞いたが、とても良い天気だった。割れたコンクリートの隙間から、花がいくつか出ていて綺麗だった」
 男はあたしの女性器には手を触れずそうで無い部分を求めた。あたしは身体の力を抜き、彼を受け入れる。あたしは女に産まれたが、ゲイになりたかった。ゲイの女役をやりたかった。男は何になりたかったのだろうか。何が望みだろうか。あたしは男の頬に手を触れて尋ねる。
「ねえあなたは何が好き?」
「恥ずかしくて言えない」
「そう」
「君は何が好きだい?」
 マリリン・モンロー、マリリン・モンローがホモセクシャルだったら良いのに、と答えようとしたが、その前に男はあたしに強く抱きつき、果てた。男はゆっくりとあたしから離れる。太股を、どぎつい白と、茶色の混じった粘液が流れていくのが見えた。男はトイレットペーパーで、あたしの太股を優しく拭いてくれた。こういう時トイレだと便利だなあと感じる。
 あたしはパンツを脱いだまま便器に座る。男は自分の股間を乱暴に拭うと、さっさとズボンを引き上げて、
「じゃあね」
 と扉の外に出た。
「じゃあね」
 あたしは手を振る。
「ああ、そういえばさっきの質問のことだけど」
 男は洗面台で手を洗いながら言う。
「なあに」
「トイレには神様や神様に関することばかりが書かれているのはなんでだろう、って話だけど」
「うん」
「神様や、神様に関することばかりが書かれているのではなくて、トイレに書かれた時に、そう感じるんじゃないかな」
 男は水を止め、大きな黒い布を取り出して手を拭う。
「もしくは、トイレに書かれることで初めて、神様や、神様に関することを書くことが出来る」
「昔のヨーロッパにはトイレは無かったのよ」
「ははは、そうだね、それもそうだ」
 男はトイレから出て行った。あたしは暫くぼんやりした後、パンツをはき、洗面台の前に立って手を洗った。
 階段を一気に登り、屋上に出る。
 屋上に男はいなかった。もうすぐ夜で今日は天気が良かったのか、男が言っていたことが正しかったのか、それを確かめることは出来無かったが、涼しい風が吹いていて心地良かった。
「お待たせ、待った?」
 振り返るとあたしの女友達が立っていた。あたし達はここで待ち合わせをしていたのだ。彼女は綺麗な白のドレスを着て、がちゃがちゃと大荷物を抱えていた。
「お待たせ、久しぶりだね、それ、持とうか」
 彼女は半年ほど前に結婚していた。あたし達は半年ぶりに会った。
「お願い」
 彼女が持ってきたのは映写機だった。彼女の夫になった人物はお金持ちなので、彼女に映写機を買ってやるくらいはどうってことは無いのだ。
「見せたいものがあるの。一緒に見ましょう」
 彼女はそう言ってあたしを誘った。
 あたし達は夜になるのを待って、映写機をセットした。二人でがちゃがちゃと組み上げ、レンズを調節し、大きな白壁に映像を映し出す。
 映像はとても短いものだった。二十分あるか無いかだった。白黒で、音声も無かった。カメラは固定で、一回も切り替わらず、ただ一点だけを写し続けていた。裸で正座をしているあたしの女友達の横からの眺めだけが、粒子の粗い画面に、映し出されていた。
 画面の中の彼女がきょとんと顔を上げる。フレームの外の人物に何かを命令されたようだった。彼女は弱々しく首を振る。身体がぴくんと震える。彼女は弱々しく首を降り続けている。身体の震えが止まらなくなる。彼女は震えながら、のろのろと手をあげる。涙をぽろぽろと流しながら、左手の薬指を自分の口の中へと入れる。
 やがてゆっくりと、彼女の口から液体が流れ始める。白黒画像なのですぐには解らなかったが、それは彼女の血だった。彼女は口に力を込める。震えながら懸命に、自らの指に強く歯を立てる。血が溢れ出していく。彼女の顔がうっすらと血に染まっていく。彼女はマゾであった。彼女はずっといろいろなことを望んでいた。血がますます激しく流れる。彼女は泣いていた。涙をぽろぽろぽろぽろと流していた。震えながら、命令を受け入れて、自らの指を自らの歯でぎりぎりと噛みしめていた。
 やがてかくん、と彼女の顎が下がると、血が指から一気に吹き出て、そして多分失禁したのだろう、彼女の座るコンクリートの床にゆっくりと染みが広がっていく。彼女はびくびくと身体を奮わせたまま、血と小便に濡れた床に倒れ込む。
 フィルムはそこで終わった。
 彼女はするりとレースの手袋を脱いだ。彼女の左手の薬指は、綺麗に根本から無くなっていた。
「結婚おめでとう」
 とあたしが言うと、
「ありがとう」
 と彼女は答えた。
「ねえ、あたし、今ね、絵を描いているの」
「綺麗な絵ね」
 あたしは彼女から受け取った絵を見ながらそう言った。素直な感想だった。綺麗な青で、空とも人ともつかない何かが描かれていた。
「とても良いと思う」
「そう、嬉しい。ねえ、貰ってくれる?」
「うん、ありがとう」
「わあ、嬉しい。ねえ、あなたもまた描いたら? 前はあんなに描いていたじゃない。あんなに沢山、あんなにうまく。絵ってとても楽しいじゃない。ねえ、あなたも描きなさいよ」
「あたしなんか駄目よ。でも絵か。良いね。絵は、良いね」
「また描いてね。また描いて見せて。きっとよ」
 彼女はそう言い残して帰って行った。
 あたしはまた賛美歌を忘れてしまったので、階段を降り、再びトイレに入った。
 トイレには神様や、神様に関することが沢山書かれている。あたしは壁に彼女がくれた絵を貼ってみる。がしんがしんと扉がノックされる。
「セックスしない?」
 誰かの声がする。
 あたしは扉を開ける。





エントリ4  『だんまり』しましょ   篠崎かんな

 彼女は絶対に喋れらなかった。言葉という物を信じてなかった。
 出会ったのはUFOキャッチャーの前、どうしても取れない僕の次、彼女はいとも簡単に景品を手にした。
「うまいねぇ」
 呟いた僕に、彼女はにっこりと笑いかけ、それを差し出す。
「くれるの?」
 彼女は頷き、可愛いぬいぐるみが僕の手に収まる。。
「本当にいいの? ほしくて取ったんじゃ」
 すると彼女はUFOキャッチャーを指してにんまりと笑った。
『私は取るのが楽しいの』
 可愛い笑顔が、そう語っている。
「……君、喋れないの?」
 控えめに聞いた言葉に、彼女の顔は変わった。明らかに怒った顔で首を振る態度に、僕の感性は意味をくみ取る。
『喋れないんじゃないわ』
「僕とは、口を聞きたく無いの?」
 少し口の端を上げ、微かに首を振られた。
『あなただけじゃない』
 そう言うかのように。
「喋れるのに、喋らないって事? なんで? いつも?」
 純粋に聞いた質問に、彼女は驚いた顔で僕を指す。
『なんで?』
「どうしたの?」
 自分の口を指した彼女の指、再び満面の笑みに変わる顔。
『なんでわかるの、すごいねぇー』
 そう言っている。
「喋らないのって、不便じゃない? 誰も意味わからないでしょ」
『うん、だからすごい。私の言いたい事わかる人いたんだぁ』
 彼女は『どうして喋らないのか』については話す(?)気は無いらしい。
「なんでだろうねぇ……人の観察ばっかして、びくびく過ごしてるせいかなぁ」
 彼女は笑った。声を出さずに、可愛い笑顔を浮かべて笑った。

 彼女は絶対に喋らなかった。言葉という物を信じてなかった。
 僕の名前を言っても彼女は名前を教えてくれない。
『必要無いじゃない』
 そんな顔で、教えてくれない。
 彼女が喋らないもんだから、必然的に僕も喋らなくなる。
 喫茶店で向かい合って座る、メニューを指して注文を終えると、二人で『会話』を始める。
『携帯電話、買い換えたの』
『えっ、前のは』
『落とした』
『どこに!?』
『わかんないのよ、だから買い換えた。いっちばん新しいんだよー』
 声はいっさい発していない。僕も彼女も姿だけで、言いたい事を読み取る。言葉が無いだけ、言い間違いも考え違いも、気を遣う事も無い。正しい思いを伝える事が出来るのだ。

 ある日僕らは喧嘩した。
 だって彼女が嘘を付いたんだ。
 僕が何気なく振った会話に、彼女は答えなかった。いや、答えようとはした。でもそれは明らかに嘘で、しどろもどろの彼女の顔が偽っていると語っている。僕は追求した。
 なんで嘘を付く必要があるんだよ? 言えないなら、言えないって、言えばいい。隠す必要がどこにあるんだよ。
 何を言ったところで、一つの偽りを隠した彼女の意志が正しく伝わる事は無い。
『もういいよ!』
 そう叫んだ僕は喫茶店を飛び出した。
 複雑な表情の彼女を残して……。

 締め付けられるというか、後悔というか、罪悪感。
「だって、あっちが悪いんだ」
 声に出して言うのは、なんか違和感。
「なんで、嘘付くんだよ」
 喋ってないのに、話してないのに。彼女にだけは本当の事言って欲しかったのに……。
 日常が重い……。言葉でひしめく周りが辛い。彼女と居る時は楽しかった。すべてを伝えられたじゃないか、似た言葉を選ぶ事なく、今の感情をそのまま伝えられたんだ。
なのに……。
「なんでだよ……」
 彼女は携帯なんか持っていないから、連絡なんて取れない。いつもは、次の約束をして別れた。でも、今回は次の予定は無い……僕が飛び出して来てしまったから。
 足が向かう。どこに? あのUFOキャッチャーの前だろ。
「違う……たまたま歩いてるだけだ……」
 ほら、ココだ。初めて会った場所。
「通りかかっただけだよ……」
 また、彼女に会いたいんだろ。
「いるわけないじゃないか」
 うん……いないや。

 言葉で偽るのって簡単だ、口に出すだけでいい。
 そんな安易な道具が辺りに溢れ、子供だろうが、年寄りだろうが、女子高生だろうが、犯罪者だろうが、みんなが持っていて、みんなが使える。
 下手すりゃ、人を殺す道具。そんなぶっそうで、簡単で、原始的な物がこの世界を支配している。

『会いたい』
 本心だ……言葉じゃない。
『彼女に会いたい、話したい! 彼女が……大事なんだ』

『本当?』
 それは、僕の視界から、ダイレクトに心に響いた。
『えっ?』
 彼女だ……いつのまに居たんだ。僕は……君の為に……
 ただ、今の気持ちを伝えたくて、迷わず彼女を抱きしめた。
『会いたかったんだ』
 彼女の体は微かに震え、拒むわけでもなく、受け入れるわけでもない。何も伝わってこない、嘘の感情しか……。
『なんでだよ』
 僕は彼女の体を離し、両肩掴んで顔を見つめた。
『言いたい事言ってくれよ。何を考えてるか、教えてくれよ』
 彼女の顔が微かに歪む。笑顔の裏に隠れた本心だ……。
『ごめん……僕じゃ、駄目だったんだね……』
 彼女はもう僕に本当の事を言う気は無いんだ。
「……違う」
 ちっさな声、かすれて絞り出すようで、聞き取りにくいが、でも確かに声。
「違うのよ……」
『喋った……の? 今』
 僕は気が付いた。彼女の顔から汗が垂れている。真っ青の顔、涙目……。
『どうした?!』
『苦しい……』
 彼女が僕の方へ倒れ込む。足下から崩れるように、
「大丈夫か? なぁ……どうしたんだよ!」
 これを、隠していたんだ……彼女は。この苦痛を表に出さないように……必死で。
 携帯を取り出し救急車を呼ぶ。
「彼女が苦しみ出して……早く来てください!! ……えっ、症状? なぁ、どこが痛い?……どう苦しい?」
 苦しさで歪む顔、荒い息。
 読み取れない……彼女の顔には苦痛しか浮かばない。なんで? なんで、喋らない? 話せるんだろ、さっき話しただろ、僕は助けたいんだ。
「わっ……わかりません。いえ、意識はあって……とにかく、早く!」
 彼女がすがりつくように、僕の服を掴む。
「あ……」
 口が動く、僕は必死で顔を近づけた。
「……好きよ」
『えっ……』
 ハッキリと言った。彼女の言葉だ。
『あなたが好き』
 苦痛の上に浮かぶ笑顔、彼女の心……。
「なんで……なんで、こんな時に……」
 彼女は笑う。涙を流しながら、にっこりと。
「僕も……」
 視界が歪んで、耐えられなくなった涙が頬を伝っていく。
「僕も好きだ」
 笑顔をいっぱいに浮かべて、彼女が目を閉じていく。
『本当に、すっごく好きだからな』
 手をしっかりと握りしめて、彼女に伝える。嘘の心配なんて無い、言葉じゃないんだ。
『なぁ……やめてくれよ。行かないでくれよ。頼むから……助かってくれ……』
 握り返す力が弱くなっていって、上下する胸が静かになって、彼女の顔が動かなくなる。
 いまごろ来た救急隊の人が、彼女に心臓マッサージを始める。
「どいて!」
 放心して座り込んでいた僕に、鋭い声が飛ぶ。
 彼女の手は奪われて、金音のする担架に彼女の体が乗る。
「家族の方ですか?! 心臓病の気は前からありましたか? 日頃からですか?! ……とにかく、乗ってください」
 バタバタと救急車に押し込まれ、彼女の横にまた収まる事ができた。
 真っ青の彼女の顔、マッサージを続ける腕のすき間から、僕に伝わる最後のメッセージ。
『嬉しい』
「僕も……嬉しいよ」
 悲しみこらえて呟く、彼女に聞こえるように。
「えっ、なんか言いました?」
 だって、彼女の目は開かない。口で言うしかないじゃないか……。





エントリ5  祖母   立花聡

 佳奈子はくすぐったいのを我慢していた。顔を柔らかに触れられる。そしてしゃがれた声で、
「もうかなちゃんが、どんな顔だったかも知れないねぇ」と祖母は言った。
 祖母は父の姉夫婦と小さな村で暮らしている。祖母の家のまわりは段々の田が囲み、すぐ向こうには青々とした山が見える。蝉のせわしない声がする。差し込んだ日ざしが座布団を暖めていたようで、すわるともわんと日の匂いが立ち込めた。
 祖母は目が悪い。七十を迎えたころから目が弱くなったらしく、ここ数年は全く目が見えなくなっていた。祖母は治療をかたくなに拒んだ。
 佳奈子が十三の時だった。墓参りをかねて祖母たちをたずねた。玄関をくぐったときに一番に顔を出したのは相変わらず祖母であったのだが、その歩みは手探りであり、不自然なほど曲がった腰つきだと佳奈子は思った。
 祖母は家を出ることがなくなったと聞いて、佳奈子と弟は祖母の手を引いて散歩に誘った。
 夕暮れ時の美しい山なみであった。三人の影が長くのび、西日が顔をさす。
 県道から少しそれた所に神社がある。
 弟は道脇の澄んだ流れに手を突っ込んで遊んでいた。佳奈子は祖母の手を引いて、境内におかれた簡素な木製のベンチに二人で腰掛けた。
「目、大丈夫?」
「そうさね、あんまりかもしれないね」
 木の葉をぬって、橙の陽光が佳奈子たちをつつむ。
「たいへん?」
「慣れればそうでもないさ。困りゃしないよ。でも……」
「おねえちゃーん、見て、カエル捕まえた」
 遠くで弟が呼んでいた。祖母は弟に向けて手を振った。
「でも?」
「少しさびしいねえ」
 そう言ってから、手をかざし、眩しそうに夕焼けをながめた。指の隙間から漏れる光にまるでなんともないように目を細めている。
「忘れないようにしなきゃねえ」と祖母は呟き、佳奈子の顔を見た。
「もう少し近くで見せておくれ」祖母は固そうな指先を佳奈子に向ける。
「ほんとに綺麗な顔だ、おばあちゃん、うらやましいよ」
 そういって、祖母は佳奈子の顔を撫でた。固い指先が佳奈子の涙腺にふれる。「また、すぐ見れるから」佳奈子は気取られない為に祖母の手を制した。
 ひぐらしがカナカナと鳴き、呼応するように夜が腰を下ろし始めた。
「蝉、鳴いてるね」と佳奈子が言った。
「鳴いてるねえ」と祖母が言った。
「蝉って寝ないのかな」
「どうだろうねえ」
 穏やかな日暮れだった。
 そんな祖母にいつもの様にふれられたことが佳奈子は恥ずかしかったのだ。
 化粧をした目元や頬が祖母に悟られたかもしれない。祖母が知る家族の容貌は、まだ佳奈子が中学生、弟が小学生の頃である。その姿のまま化粧を加えられるというのは、どこかむず痒いような気持ちに佳奈子をさせるのだった。
 弟は去年から祖母の家に行くのをいやがりはじめた。
「早く死んじまえばいいのに」と吐き捨てるように言う。
「なにいってんの」佳奈子は弟を思い切り引っぱたいてやろうと立って行くのだが、台所から母がつかつかやってきて、
「健一、冗談でもそんな言葉を使っちゃだめ。それでもし、ほんとにおばあちゃんが死んじゃったら、あんた、どう思うの」
 母が弟と目を合わせようとすると、弟はついとその場から立ち上がり、バタンと扉を閉めて出て行った。佳奈子が追い掛けようとすると、母が佳奈子を止めた。
「いいのよ、かなちゃん、反抗期なのよ。いってもこじれるだけだから」
 佳奈子にとって母のその言葉もくやしかった。やり場がなかった。
 弟の態度を見る度に佳奈子は父のことを思い出す。嫌な所が似だしたと思う。
 父とは生活を別にして、もうまる一年になる。
「おまえといると息がつまる」そう最後に父が母に向けて言った言葉を襖越しに聞いた。
 佳奈子はどきりとした。なんと冷たい言葉だろうと思った。鬱積した様々な思いを一度に投げ返したような、固く冷酷な塊であった。
「いないほうが楽じゃない」
 しかし母はため息をつくようになった。
 佳奈子は父と連絡をとった。それでも母と仲良くして欲しかった。そこには崩れかけている家族を保ってくれるかもしれないといった淡い期待もあった。
 父のアパートの部屋の扉を叩く。待っていたのは汚く散らかった室内と、やせた父親であった。
「よくきたな」言葉すくない出迎えだった。
 よれたシャツの襟首がくすんでいる。ももひきの先から見える足先が以前より不潔に見えた。
 できものの弁当を食べ、慣れない洗濯をし、毎日働いていたのだろう。自然と父の孤独を思う。それでも佳奈子たちに金を入れ続けていることに、初めて感謝した。
 結局、佳奈子は何も聞き出すことはできなかった。ただ、「今度おばあちゃんちにおいでよ」と弱く促すことが精いっぱいだった。
 帰りの地下鉄のなかで、
「すまなかったな。また来てくれよ」
 あの父からそう言われたことを思い出した。弱々しい父の姿が頭から離れない。
「はい、これね」佳奈子は祖母の手に箸を手渡す。
 盲目となり、食事には箸や碗を渡す役が必要となった。普段は父の姉がやっているのだが、今日は姉夫婦は農家の集まりで留守であり、佳奈子が引きついだ。母と佳奈子と祖母といった顔ぶれは、思い返してみると一度もないようで、新鮮であった。
 もし父が来るのならば明日の早朝となると間際に聞いた。佳奈子は二人に伝えるべきか悩んだ。
「三人で御飯食べるのはじめてね」母が言った。
 佳奈子は答えることができなかった。祖母の焼き魚をほぐし、気がつかないふりをした。
「そうさねえ、洋次やけんちゃんもこれなかったものねえ」祖母はさらりと言った。そして無言で見えているかのように箸をはこぶ。その姿が佳奈子は怖かった。ほぐした魚の身をすすめられなかった。じっと小鉢のなかをかき混ぜていた。
 風鈴が軽やかな音をたてている。
 その晩、佳奈子は祖母の隣で眠ることにした。母は襖を一つ隔てた客間に床をとった。
「もう寝た?」
「起きてるよ」小さく祖母が返事をした。
「あのね、父さん明日来るかもしれないの。墓参りに来ないかって誘ったから」
「そう」
「驚かないの?」
「別に息子が来ることくらい、なんでもないさね」
「でも、母さんがいるし……」
「かなちゃんもいるじゃない」
 祖母の布団がずれる音がする。旧式の扇風機が佳奈子をあおいだ。
 月光が照らしている。満月だった。
 佳奈子は不意に目が覚めた。布団が足下にかたまって、体の上を冷たい風が通り抜ける。目をこらして時計を見ると、短針は五時の辺りをさしていた。
 足下の布団に手をかけようとすると、隣に祖母がいないことに気がついた。
 少しだけ体を上に傾けると、縁側の座椅子に祖母がすわっている。
「おばあちゃん?」
「あら、おこしちゃったかね」
 チチッと、蝉が飛び立つ音がする。
「何してるの」
「最近、こうして日の出を待つんだ。ちょうどいいお日さまが拝めるからねぇ。目が見えなくなっても、なんとなく分かるんだよ。ほら、もうすぐだよ」
 たしかに山際が光り、暁闇をまぜ始めている。
 佳奈子は祖母の隣にすわり、その先を見つめた。
 仄かに色めく山が、だんだんと明るくなり、稜線が輝く。
はっきりとした明暗がまぶしい。同時に暖かな感覚が肌に重なって、ほうっとなる。澄んだ涼風と混じって心地よい。
 佳奈子は父に早く来いと思った。そして、光景を見せたいと思った。
「きれいだねえ」
「うん」
 日の出である。美しいものだと、佳奈子は思った。





エントリ6  選考哀歌   ごんぱち

「これで全校分ですねぇ」
 狭いスタジオの中で、兵藤真は、リストに印を付ける。
「うむ、今年もようやく揃ったか」
 ディスプレイにずらりと並ぶファイルを、馬場登は眺める。
 キーボードのかたわらにある、審査用に打ち出した紙は、A4で辞書ほどもあった。
 馬場と兵藤はヘッドフォンを着ける。
「じゃ、永埼第一小学校から、始めるぞ」
「りょーかいです」
 馬場は古いマウスのボタンを、ダブルクリックする。
 ディスプレイに映像が、そしてヘッドフォンからはクリアな演奏が流れ出す。
 外からの音を遮断するスタジオ内。ヘッドフォンで聴く音に、一切のノイズ入らない。
「……ん」
 シャカシャカシャカ……。
 入らな……。
 シャカシャカ……。
「こら、兵藤!」
「何ですか、馬場さん?」
 『探偵物語』に出てきそうなヘッドフォンを着けた兵藤が、顔を上げる。
「半世紀も前のヘッドフォン持って来てるんじゃない!」
「えーっ、だってこれ音に味があって、オレの愛用の品で」
「音漏れすんだよ! そっちの使え、そっちの」
 馬場は、スタジオ備え付けのヘッドフォンを指さす。
「音がクリアすぎて面白くないんですよ」
「審査だからそれでいいんだよ」
「ちぇっ」
 もう一度、再生を始める。
 小学生特有の高い歌声。
 楽しげに、精一杯歌う様は、音声にも映像にも表れる。
 程なく演奏が終わった。
「――小学生でも上手いもんですねぇ」
「そりゃそうだろう。SPEEDだって、デビュー当時小学生だったんだぞ」
「えと……昔の、グループサウンズでしたっけ?」
「私を何歳だと思ってるんだ!」

「今日は、この辺にしとくか」
 馬場の周りには、眠け覚ましに飲んだコーヒーの空き缶が、いくつも転がっている。
「そーですね」
 兵藤はぎゅっと腰を伸ばす。
「まだこんなに残ってるのかぁ」
 恨めしそうに、彼は審査用紙を見つめる。
「何かもう、百校ぐらい、ダイスで絞っちゃいません?」
「だアホウ、そんな事が出来るか!」
「……でも、どれも水準を遥かに越えてるじゃないですか」
 兵藤が端末の電源を落とす。
「この中から選ぶなんてとてもとても」
「審査なんだから選ばなきゃいけないんだよ。それで金貰ってんだから」
「音楽家ってのは、こんな仕事までやるんですねぇ」
「名があればこそだ。有り難い話さ」
「名……ですか」
 二人はざっと机の上を片付ける。
「出世したんだよ、素直に喜べ」
「でも、馬場さんの口利きですし」
「無能なヤツを、弟弟子だからって理由で推薦するほど、私は甘くないぞ」
「えへへ、そうですよねー、えへへ」
「さあ、くっちゃべってないで、帰るぞ。余計な音楽なんて聞いて、感覚を狂わせないように注意しろよ」
「はいっ」
 二人は、スタジオを出て行った。

 ピーーー。
『あの、馬場先生でございますか? 私中野島市立小学校の校長、花岡と申します。この度は選考委員おめでとうございます。つきましては、我が校の評価を、でございますね……』
「消せ」
 ソファーに座り込んだままの、馬場の声に反応して、留守番電話が動く。
『メッセージを、消去しました』
 ピーーー。
『――えと、私立長谷高校と申しますが』
「消せ」
 ピーーー。
『県立――』
「消せ。再生一時停止」
 電話のスピーカーが止まる。
「検索。『学校』アンド『先生』アンド『評価』エンド、消せ」
『検索条件、学校、先生、評価の語句が含まれるメッセージを消去いたします。よろしい場合は――』
「消せ」
『メッセージを消去しました。新しい録音はありません』
「ふぅ……一体、どこで電話番号まで嗅ぎ付けたのか」
 馬場は部屋の壁一面を埋める、壁掛けスピーカーに視線を向ける。が、小さく首を振った。
「審査中は、他の音は御法度御法度、と」
 その時、開いた窓からやかましい歌が流れて来た。
 窓の外の道を、車が大音響で音楽を流しながら走っていく。
「御法度だつーのに! そもそもこんな時間になんだ」
 防音サッシを閉め、鍵をかける。
 と、また、どこからともなくヒトケタ年代懐メロが聞こえ始める。
「なんだ、なんだっ!」
 床に転がっているバッグから、携帯端末を取る。
『もしもし、馬場さんですか、兵藤ですが』
「御法度だろうが!」
 一つ怒鳴って、電源を切る。
「ったく……御法度、御法度」
 馬場は寝室兼仕事場に入る。
 部屋の真ん中にあるキーボードには視線も向けず、ベッドに横たわる。
「御法度、御法度、ごはっと、ごはごはごはっと、ごはははごはっと、ごはーーーあーーっと、ごはあっとーーー……」
 がばっと身体を起こす。
「歌うな、自分!」

「むぅ……」
 スタジオで、馬場は唸る。
「二百校か」
「甲乙付けがたいですねぇ」
 兵藤の顔は、疲労一色に染まり、腰も八十年間農作業を続けた老女の如く曲がっている。
「後は熱意の差とか、そんなとこじゃないですか?」
「違い、分かるか?」
「いえ……みんな音は完璧だし、いっそ該当者なしなんてのは?」
「ドアホウ、それができるなら苦労はしない」
「顔で決めたらどうですか?」
「決められるかっ!」
 馬場は缶コーヒーを飲む。すでに、彼の周りは、空き缶が山のようになっていた。
 溜息混じりに、演奏を再び再生する。
「……顔ってなぁ」
 ふと、馬場は言葉を切る。
「そうか。そっちは、悪くないな」
「なんかあったんですか?」
「ほれ、ここ。映像も、審査基準にならない事もない」
「なるほど。だとすると、これとこれとこれは――やっぱり、うん、切れますね」
「兵藤、お前はこっちの半分比べろ。私はこっちの半分やる。残った一つづつを比べれば良いだろう」

 演奏の再生が終わる。
「残り二つ……」
 ほとんど虫の息で、馬場は椅子にだらりともたれかかっている。
 コーヒーの缶は、うず高く積まれ、馬場が座っているのかコーヒー缶が座っているのかよく分からない。
「死むーー」
 兵藤の腰はもう完璧に二つ折りで、むしろその体勢が出来る方が元気じゃないかと思う程だった。
「ダメだ、どこをつついても、一緒だ!」
「比べがたいですーー」
 もう一度、演奏を流す。
「どうだ、兵藤、何か、どっか一ヶ所でもいい、何かないかっ」
「あったらもう気づいてますよぉ!」
「何でもいい、どんな些細な事でもいいんだっ!」
「もう嫌だー、両方で良いじゃないですかぁ。上も文句言いませんよぉ」
「私たちの心意気の問題だ」
「心意気で死ぬのは、やだー。ダイスにしましょ、ダイス」
「そんな事したら、一生後悔するぞ」
「じゃあ、両方ナシで」
「そうできたらどれだけ良いか」
 二人は大きな溜息をついた。
「あーもう! どっちにするか! 藍川県立高校と!」
「藍川県立高校!」
「藍川県立高校もアレだが、藍川県立高校もなぁ……」
「そうですよね、藍川県立高校と藍川県立高校の――あれ?」
「どした、兵藤?」
「馬場さん、そっち一文字づつ読んで下さい」
「ん? いいけど」
「あ」
「あ」
「い」
「い」
「か」
「か」
「わ」
「わ――って、同じじゃねえか!」
「ああっ、メールが同じ学校から二つ届いてたんだ!」
「つーことは終わってたのか? もう選考終わってたのか!」
「終わってたんですよおおおおお!」

「――県教育委員会は、卒業式における国家斉唱が、指導要領から逸脱しているとして藍川県立藍川高等学校に厳重注意処分を行った。これにより、校長を含む全ての教師は任意辞職、卒業生たちは就職、進学を全て任意辞退した――」
 某新聞、二〇三二年四月二十九日朝刊より抜粋。




エントリ7  パフォーマンス   小笠原寿夫

この日は、何かが起こる。
そんな予感がしていた。
確か、6月の何週目かの土曜日のことだったと思う。
その日は、梅雨のない北海道に、晴天が訪れ、
春の陽気が、僕の頭を逆に混沌としたものにしていた。
僕は、恐る恐るバイト先の後楽園ホテルに向かい、
カメラの準備に取り掛かった。
その日は、新しく入ってきたアルバイトの千葉さんという人の教育に当てられた。

水曜日に見た、「松本紳助」がずっと気になっていた。
「こうやって、ここに座るとなんか安心するなぁ。」
そんな島田紳助の一言から放送は始まった。
島田紳助が、「おもろいおもんない病」とか言っていた。
「家帰っても、全然おもんないねん。ここに座ると落ち着くねん。」
「ここに座ってるお客さん何のことか全然わかってないと思いますわ。
 でも、テレビ見て、大笑いしてるやつ絶対おると思うねん。
 そんなやつ、俺とこ来い。」
僕は、テレビの前で大笑いしていた。松本人志も大笑いしていた。
おもろいおもんない病。
それは、その当時の僕にぴったりの言葉だった。
大学がおもしろくない。バイトもおもしろくない。
もっと面白いことがあるはずだ。
そう感じて、せっせとコント台本を大阪の同級生に送る毎日が続いていた。
「俺、メジャーになりたいねん。」
そいつに電話で、そんなことを何度も繰り返していた。
全て、おもろいか、おもんないかでしか物事を捉えることが出来ない病気。
家に帰って、一人になると、無性に人恋しくなる。
もっと生活に笑いが欲しい。
「そこにお化けいるんちゃいます?」と松本。
「お前、顔赤いなぁ。」と紳助。
「お兄さん黄色いですねぇ。」と松本。
淡々と続くお笑い界のカリスマのトークに、引き込まれ、大笑いし、
僕はひとつの結論を出した。
芸能界が僕を呼んでる。
勘違いと思われようが、僕は、そう感じた。

ざわついた場内が、進行の一言で、静まり返る。
「皆様、本日は当ホテルにご来場くださいまして誠にありがとうございます。
 季節は春の陽気に恵まれ、晴れ渡る陽気が2人の門出を祝うように、
 差し込んでまいります。さて皆様、これより将来を担う2人の若者が、
 大海原へ旅立とうとしております。盛大な拍手でお迎えください。
 新郎新婦ご入場です。」
場内が暗幕になり、入場口にスポットが当たり、会場に明るい音楽が流れる。
黒服が入場扉を開け、拍手の中、新郎新婦がゆっくりと歩を進める。
カメラマンは、右目で、新婦の横顔を撮影する。
新郎新婦が、席に着き、進行役が、新郎新婦の経緯を紹介する。
披露宴は、いつもの調子でスタートした。
その後も、開宴の辞、来賓挨拶、新婦のお色直し、歓談と続き、
いつも通り、披露宴は進んでいく。
何かおかしい。
カメラアシスタントをしていた僕は、そう思った。
披露宴が始まる直前に、「吉本興業」の文字が目に映ったような気がする。
来賓挨拶でも、話は、新郎のことではなく、僕と、僕の同級生のことのような気がする。
新婦のお色直しの最中の歓談でも、周囲の話題が、僕に向いているような気がする。
「気がする」づくしで、何も確証はないのだが、その披露宴は、
新郎新婦のためではなく、僕のために行われている。
確信のないまま、僕は、ケーブルを巻いていた。
その時、周りを見渡すと、千葉さんがいない。
僕は、なぜか、千葉さんを探さないと、と思った。
あの人は、のちの僕のキーマンになる人だ。
そんな気がした。
僕は、カメラマンの斎藤さんに、
「ちょっとトイレに行っていいですか?」
と、尋ねた。
その後のことは、明白に覚えている。
斎藤さんが、床を指差した。
僕の中の誰かが、僕に「何かやれ。」と命令を出した。
次の瞬間、僕はズボンのベルトに手をかけていた。
斎藤さんが、手を横に振り、僕を制した。
「ここに(ケーブル)置いて、行ってきな。」
我に返った僕は、慌てて、ベルトを締め、ダッシュでトイレに走り、千葉さんを探した。
隣の会場の受付の人に、千葉さんの顔の特徴を伝え、こんな人見ませんでしたか?と尋ねた。
首をかしげる受付の人を横目に、僕は、また走り出した。
先ほどの入場扉から、勢いよく会場に入った僕の目に映ったのは、斎藤さんが持っているカメラだった。
あれに映ろう。
脳が、そうサインを出した。
カメラの赤いランプも見ずに、僕はカメラの前を横切った。
それからも、僕は走り続け、ホテル内の自動販売機の前まで来たとき、
映像課で一番偉いフクシさんに出くわした。
そこでフクシさんは、笑顔で、確か200円を僕にくれた。
その時、200円を一枚ずつ新郎新婦に配る自分の姿が、頭をよぎったが、
怖くなって、クリーニング室に隠れた。
何がなにやらわからなくなり、実家に携帯電話で、連絡した。
父親が出た。
「今、結婚披露宴の最中に、カメラの前、横切ってもてん。それで、今、200円持っとんねん。
 どうしたらええと思う?」
僕は、弱々しく、そう言った。
「今、バイト中か。」
「うん。」
「お前ちゃんとバイトしとんか。」
「うん。してない。今、200円持っとんねんけど、どうしたらええと思う?」
そこで、電話が切れた。
僕は、急いで、スイッチャーの石田さんのところへ戻った。
「ここに座れ。」
スイッチングをする強面の石田さんの隣に座らされた。
気付くと、後ろに、探していた千葉さんが立っている。
「自分が何したか、わかってんのか。」
石田さんは、まずそう言った。
「はい。」
「それじゃ、それを新人に伝えろ。」
「アシスタントがカメラに映るのは、・・・・よくないので。」
横で、仏前式をスイッチングしていた先輩の斎野さんが、「さむい。」と呟いた。
「アシスタントは代わりに○○を行かしたから、お前はここで見てろ。」
「はい。」
そう言ったものの、また、落ち着かなくなり、僕は、立ち上がって、
どこかへ向かおうとした。
「小笠原ぁ!」
石田さんの声が聞こえて、すぐに映像室に戻った。
「ここにいなさい。」
石田さんの口調は、威厳があり、それでいて、優しかった。
この後、スイッチングは目まぐるしく行われた。
僕の目線も、目まぐるしく動いた。
石田さんがインカムで斎藤さんに檄を飛ばす。
「はい!2カメ!3カメ行ったぁ!1カメ!斎藤、気をつけろよ。回転速ぇかもしれねぇぞ。」
僕の事だ。そう思った。
僕は、怖くなって、その場から逃げ出した。また後ろから、石田さんの「小笠原ぁ!」という声が聞こえたが、
わき目も振らず、僕は、映像課の制服のブレザーを着たまま、ホテルの外に出た。
どこかから、誰かが監視していて、僕の行動の一部始終を見ていると思った。
札幌の風景は、いつもと変わらなかったが、僕は、紺のブレザーを着たまま、
街を歩き、また実家に連絡した。
今度は、母親が出た。
「今、紺のブレザー着たまま、街歩いてんねん。」
「で、バイトはちゃんとしてんの?」
「今、ホテルの制服着たまま、街歩いてんねん。おかしいやろ?」
「いや、バイトはしてんのかって聞いてんねん。」
「うん。してない。」
「あんた、もう家帰り。」
「うん、・・・わかった。」
僕は、ホテルに戻り、更衣室で制服を脱いだ。
ジーパンの裾に足を入れようとした時、石田さんが更衣室のドアを開けた。
「もう帰んのか。」
「はい。」
「気をつけて帰れよ。あとは○○に任せるから。」
泣きそうになった。もうここで仕事は出来ないと思った。
着替えを終えた僕は、石田さんに大声で「お疲れ様でした!」と言った。
石田さんは、一瞬、間を置いて、大声で笑った。





エントリ8  ユウトとカオル   THUKI

 梅雨の合間に見える青空はとても気持ちがいい。
 夏のように暑くもなく冬のように寒くもない。そして何より、春や秋とは違って悪魔の花粉も飛んでこない。
 15歳になる青山ユウトが、相談室に呼び出されたのは、そんな日の放課後だった。
「分かるかい?君は殺人を犯したんだ。確かに罪に問われることはない。しかし、君のおかしたことは・・・・。」
 他の教室には存在しない、ゆったりとした細長のソファー。
 机をはさんでカオルの目の前に座る若い男性は、そこにゆったりと座りながら先ほどから説教とも非難ともいえない言葉を発している。
 一応カウンセラーらしいが、自分とは性にあわないということは、最初の雰囲気から分かった。
「君に悪気がなかったのは、良く分かるよ。だが、カオル君の両親は・・・・。」
 どこの大学を出て、優秀な勉強をしてきたのか分からないが、これぐらいの話、自分でも出来る・・・・。
 ・・・・・・・・それとも、こいつは自分が罪悪感をもっていないとでも思っているのだろうか。
「あの・・・・・そろそろ帰ってもいいですか?」
 30分ぐらいカウンセラーの言葉を聴き続け、ようやく言いたかった言葉を口にする。
「う〜ん・・・・そうだね。もう時間も遅いしね。また来週来なさい。それまで、日記をつけることを忘れずにね。」
 イヤだ・・・・。
 口にしようと思ったが、そうするとまた長くなりそうだからやめた。
 荷物をまとめて、相談室から出てくると窓から真っ赤な夕日が目に入った。
「ふぅ〜。」
 思わず、ため息が漏れる。
 日記をつけなければならないこと、また来週あいつの話を聞かないこと・・・・。
 ・・・・・どれをとっても、今の自分には辛すぎる。

「あの君、少し時間いいかな?」
 変える瞬間、背広姿のおじさんに声をかけられた。
 おそらく、どこかの週刊誌の記者。
 ・・・・・・今は、何よりも邪魔な存在だ。
「すいません。少し急いでいますから・・・・・。」
 簡素な言い訳でその場を振り切る。
こんなヤツに話すことなど何もない・・・・。
「ふぅ〜。」
 少し歩き、もう一度ため息が漏れる。
「カオル・・・・・・・。」
 思わず、口に出ていた。
 友人のカオルが死亡したのは、今から一週間ほど前。
 死因は自殺だった。
 ・・・・・・・友人だと思っていた。
 からかうと面白いヤツで、よく顔を真っ赤にして怒っていたから、「アカオル」なんて、あだ名がついていた。
 良いヤツだった。
 ・・・・・・・なのに、あいつの残した遺書には自分の名前が入っていた。
 ふざけ半分でからかっていただけだったのに、あいつは、イジメだと感じていたらしい。
 ・・・・・・すまない、カオル。
 罪悪感と、後悔だけが心に残る。
 そんなこと、周りから言われなくたって十分に感じているというのに・・・・・。
「あ、ユウト君だね?待っていたんだ・・・この前の事件について少し・・・・。」
 今の家である、アパートに着くと先ほど昇降口に待っていたのと似たような男が待ち構えていた。
 うざい!!
 無視して、男を振り切ると、アパートの中に入っていく。
「少しでいいんだ!君の事を少し聞かせてよ!!これは、事件だったんだ。別に、君を責めているんじゃないんだよ!」
 十分に責めているだろう・・・・。
 そりゃ・・・俺だって悪いと思っているよ。
 でも、どうすればいいんだよ。
 カオルの両親の前に行って土下座すればいいのか?
 それとも、頭丸めて出家すればいいのか?
 何でもしてやるよ!!・・・・それが、本当にカオルのためになるならな!
「ふぅ〜。」
 家に入り、電気をつける。
 ・・・・・こんな日だと言うのに、親父は家には帰ってこないのか・・・・・。
 分かっていたことだが、少し涙が出そうになった。

 ユウトの両親は五年前に離婚した。
 理由なんて、子供であるユウトに分かるはずもない・・・。
 ただ、何の相談もなしに勝手に離婚を決め込んだ瞬間、自分の存在が彼らにとって何であったのか、十分すぎるぐらいに思い知らされたような気がした・・・・。
 その後、養育権をめぐって裁判を起こしたらしいが、正直、どちら側にもつきたくはなかった・・・・。
 早く自立したい。誰にも頼らず、一人で生きていたい・・・・。
 五年前に芽生えた感情は今も色あせることなく、ユウトの心の中に強く残っている。
『カオル君のご両親は・・・・・』
 夕飯の支度をしながら、BGM代わりにつけたテレビには、どこかで見たことのある風景が映っていた。
 この間まで、カオルの『カ』の字も知らなかった連中が好き勝手言ってくれる・・・。
 どうせ、もう一月もしないうちに、全てを忘れるくせに・・・・。
 これ以上この番組を見ていると、そのうちテレビのレポーターの所に行って、殴りつけたくなるだろうから、ユウトは思わずチャンネルを変えた。
「疲れた〜。」
 軽い夕飯の後、愛用のマイルドセブンに火をつけ一服する。
 小学生の頃から覚えたタバコは、今ではすっかり中毒だ。
 早くやめなければ、取り返しの着かないことは分かっているがきっかけが作れない・・・。
「ゲームでもするか・・・・。」
 テレビも何かつまらなくなって、受験勉強もする気になれずに、PS2の電源をつける。
 ロゴを見た瞬間、これがカオルから借りたゲームだということを思い出し、思わず涙が流れていた・・・・。
 殺す気なんてなかったんだ。
 あいつはからかうと面白くて、それをあいつも喜んでいたと思っていたんだ・・・・。
 なのに・・・・なのに・・・・。
「・・・・・・すまない、カオル。」
 思わず声にもれる。
 どれだけ謝っても、ぬぐいきれない罪悪感だけがユウトを襲う。
 まるで、世界の大罪人でもなった気分だ。
 いっそのこと、正義の味方でも現れて自分を殺してくれたらどれだけ楽なことだろう・・・・。
 涙でにじみ画面が見えなくなり、思わずPS2の電源を消した。
 途端に映るカオルの顔。
『このいじめグループは小学校の頃よりカオル君と接点があり・・・。』
 ・・・・・また、このニュースなのか。
 思わず、目をそらしそうになる。
 反省して、心のそこから謝れば必ず許してもらえるなんて嘘だ。
 犯した罪は、ありとあらゆる人間から責められる。
 こちらの言い分なんて・・・・ただの言い訳に過ぎない・・・・。
 おそらく、これが自分の犯した罪の重さなのだろう・・・・。
 先日まで顔も名前も知らなかったような見ず知らずの大人に罪を問われ、自分勝手な正義感を押し付けられる。
 本来の自分なら、そんなもの跳ね返せる力を持っているはずなのに、「友人を殺した」という事実がそれを許さない。
 まるで、世界中を敵に回した気分だ・・・・。
 もし、この世に「正義の味方」が存在するというなら、間違いなく自分は闇の中に葬り去られるだろう・・・・。
 本当に、そうならどれだけ楽なことか・・・・・・。
 罪を犯したことは分かっているんだ。償いだって、したいんだ・・・・。
 でも、少しは俺の身にもなってくれ・・・。俺は、友人に死なれ、葬式に出ることも出来ないんだぞ!!
 それが、どんなに辛いことか・・・・。
「くそっ!くそっ!・・・・」
 ついに我慢が出来なくなって、ユウトは机に拳をたたきつけた。
 そこにあるのは、理不尽な責めを繰り返す他人たちに対する怒り。
 しかし、それすらユウトは許されない・・・・・・・・・・。


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エントリ9  約束   のぼりん

 冬、バイトで溜めた金でやっと中古の軽四を買った。就職活動にも便利だと考えたからだが、世の中の不景気はどうしようもなく深刻で、車の機動力も生かせないまま、あっという間に最後の夏休みになってしまった。
 将来の不安を感じながらぶらぶらしているのも癪で、ふと思いついたように車に乗って街を離れた。国道を外れ、幾重にも重なる山並みを抜けてさらに奥に進むと、そこに僕の郷里がある。両親は早くから都会に移り住んでいるから、郷里といってもそこの家を継いでいるのは叔父夫婦だった。
 寄ってみるか、と誘うと、助手席の奈緒子は何もいわずに頷いた。彼女は同じゼミの同期で、今は多くの時間を一緒に過ごしていた。そろそろけじめをつけなければ、と思いながら、お互いにそれを口に出せないままでいる。僕たちは惰性の日々にどっぷりと浸かっていたのだ。
 しばらく谷底の細道を延々と走っていくと、箱庭のように小さな村が見えてきた。その見慣れた景色の中に、叔父たちのいる古い大きな家があった。

「サトシ、大きくなったなあ」
 突然の帰郷だったから、叔父夫婦は目を丸くして驚いている。
「その人は?」
 と、叔母が昔のままの優しい笑顔で尋ねた。「友達」と答えると、奈緒子はぺこりと頭を下げた。自分たちの態度を、まるでガキのようだとも思うが、そういう接し方が彼らを喜ばせるということもわかっている。 
「泊まって行くんでしょう」
「いや、二三時間休んだら行くよ。明日も授業があるから」
「それなら、夕ごはん食べていけるわね」
 叔父が「叔母さんは、お前が来た早々帰る話ばかりしている」と笑いながらいった。しばらく会わないうちに、ふたりともまた年をとった。それを見るのが淋しくて逆にあまり長居はしたくないな、と思う。

 そこは、都会の猛暑とはまったく別世界の場所だ。僕は広い居間の真ん中でひんやりとした畳に頬を当てて横になった。横で奈緒子が膝を崩して休んでいる。
 障子を開け放した縁側から、透明な空気を通して濃紺の山々の稜線がはるかに見渡せた。雲が少しずつ厚くなってきたようだ。
「いいところね」と、奈緒子。
「叔父さんたちふたりっきりなの? 子供は?」
「いないんだ」
 叔父夫婦が僕を自分の子供のように可愛がってくれるのには理由がある。昔、小さい子供を亡くしたせいだ。僕と同い年のひとり娘だった。
 僕は、隣部屋の仏壇の引き出しから古いアルバムを取り出した。小学生まで住んでいた家だから勝手はよく知っている。
 畳に転がってアルバムを開くと、その横で奈緒子が覗いた。
「昔の写真だけど、僕の写真しか残ってないんだ。でも、よく覚えているよ」
 セピア色の写真の中では、叔父たちも信じられないほど若い。
「女の子の写真は処分してしまったのかもね。きっと辛かったから……」
「そうかもしれない」
「好きだった?」
「まさか、子供だぜ」
 奈緒子の言い方がおかしくて思わず笑った。
 その女の子と下の村道によく自動車を見に行った。田舎の道に車が走ることなどたまにしかないが、それを道脇の草の上に一日中座って待った。いつか大きくなったら僕が車に乗せてやる、と約束もした。そんなことがふたりの遊びだった。
 そういう些細なことはよく覚えているのだが、不思議なことに彼女の名前や顔は思い出せない。夢のようにあやふやなことばかりだが、あらためて両親や叔父夫婦に聞いてみたことはなかった。昔のことを蒸し返すのは、叔父たちにとっても辛い思いをするだけのことだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと辺りがどんよりと暗くなっているのに気づいた。垂れ下がった空に黒い雲が駈けるように流れている。
 奈緒子がのろのろと縁側に立ち、雨が降るよ、といった。
「ここらの雨は鉄砲水のように激しいことがあるんだ。ぐずぐずしないほうがいいかもな」
 麦茶を持ってきた叔母には申し訳なかったが、ごめん、と僕はおどけたように両手を合わせた。
「また来るよ」
「嘘ばっかり」
 叔母は唇を尖らせ、すぐに叔父を呼びに出た。叔父は僕たちのために、川魚を釣りにいっていたらしい。慌てて帰ってきた。
「もう行くのか」
「うん。土砂降りの山道を運転したくないからね」
 叔父たちは今にも落ちてきそうに低く流れていく雲を見上げながら、「泊まって行けばいいのに」と繰り返す。
 ところが、逃げるように屋敷を出て車の前まで来たとき、奈緒子が突然、帰りたくないといいだした。その様子があまりにも異様だったので、見送りに出てきた叔父夫婦も驚いたような顔をしている。
 そのうち、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「何いってんだ」
「この車、変なものが乗っているわ」
「バカな。いいから早く乗れよ。雨が強くなってきたじゃないか」
「いやよ、きっとこの近くの地縛霊だと思うわ。そうでなかったら、何かもっと危険なもの。助手席に、それがじっと座って待っているのが見えるのよ」
「僕には何も見えないよ」
「その席には乗れないわ。そこは私の座るところじゃない、彼女はそういっている」
 フロントガラスを覗いてみたが、何もいるはずはない。
 奈緒子は霊感が強い。が、多くは彼女のヒステリー体質が原因していると、僕は冷静にそう思っている。彼女のそのわかりにくさが、時に僕を嫌な気持ちにさせる。
 ドアを開くと、黒く淀んだような空気を感じて、一瞬息ができなくなった。もっとも、炎天下に駐車していたせいで、熱気が篭っているのは当然だ。
 かまわず運転席に座り、エンジンをかけた。叔父が外から覗いていった。
「もう少し待ってみたらどうだ。通り雨ならすぐ止むぞ」
 雨脚がさらに強くなってきた。
 奈緒子はびしょぬれのまま外で震えている。叔母がその肩に傘を差しかけた。
 と、そのとき、石つぶてを投げつけるような雨粒が落ちてきた。ボンネットに落ちた雨は太鼓の乱れ打ちように踊り狂い、その激しさでガラスの向うの視界が見えなくなった。凄まじい雨量に鼓膜が痺れた。
「なんだこの雨は」
 戦慄はそればかりではなかった。
 助手席に、黒い影がぼんやりと浮かび上がってきたのである。
 一瞬で僕は理解した。
 あの女の子に違いない。大きくなったら車に乗せてやるよ、と僕は確かに彼女と約束した。
 水圧に押し付けられたドアはびくとも動かない。ガラスの向うは水流で分離され、まるで車中という狭い空間だけが切取られたように思えた。僕は完全に閉じ込められていた。
 そのうちハンドルを握った手が瘧のように痺れ、全身の感覚がなくなっていくのがわかった。
「助けて。叔父さんたちの子供がここにいるんだよ!」
 僕は叫んだ。
「私たちは、お前のことを自分の子供のように思っているよ」
 豪雨の中から叔父の声がかすかに聞こえた。
「そうじゃない、女の子だよ。あなたたちの子供だ、僕のことじゃない」
「私たちに女の子はいないよ」
「僕が子供の頃死んだはずだ。あの女の子だよ」
 その時僕は、彼女が死んだことと、彼女と道路で一緒に自動車を待っていたことの記憶がおぼろになっていることに、はっと気づいた。
「まさか……」
「昔から子供はいないのよ。私たちはふたりだけなのよ」
 叔母の声がそう聞こえて、後はさらに大きくなった雨音に掻き消された。

 その間も――不気味な影の塊は徐々に輪郭を整え、その異形を僕の目の前ではっきりと浮かび上がらせようとしていた。
 僕はもうどこへも逃げられなかった。





エントリ10  旅日和   中川きよみ

 菜緒ちゃんの部屋で電話が鳴る。
 私は電話を持ちながら、抑え目のくぐもったような呼び出し音をリアルに想像する。
「もしもし……」
 菜緒ちゃんは、私が切羽詰まって電話する時には絶対に部屋に居る。あの不思議なチカラで私が電話してくることを知って、用事を取り止めて居てくれるのだ。
「もしもし」
「歩美、どうしたの?」
 菜緒ちゃんは、『菜緒ちゃん』なんて呼んでいるけれど、腹違いの姉だ。私の母が亡くなってからは長く精神的には母親みたいなものだった。
「嫌になっちゃった。」
「そう。」
 小柄で華奢な印象とは裏腹の、静かな低い声は、いつだって私を肯定してくれる。
「どうしたらいいかなあ。」
「そういう時って、あるわよ。」
 ふと、カレンダーの信州の写真が目に付いた。去年の暮れに菜緒ちゃんが送ってくれたものだ。電話の向こうで菜緒ちゃんが小さくやさしく笑う。
「出掛けてきたら? いいわよ。きっと。」
 この部屋で私の視線を見守っているような絶妙な間。いつもこういうささやかな不思議が離れている筈の菜緒ちゃんが同じ空間にいるかのように思わせる。
 お土産におやきを買って帰る約束をして、電話を切った。

 本当は、一人旅は好きではない。そわそわして、ちっともくつろいで楽しめないのだ。
 それでもこの時は受話器を置いてから急いで荷物を用意して、会社に明日からの年休の連絡をして松本のホテルに予約を入れて、新宿からあずさに乗った。
 松本駅前のビジネスホテルに入ったのはもう10時前だった。車内でビジネスマンに混じってビールと駅弁で夕食を済ませていたので、ごく簡単にシャワーだけ浴びるとベッドに倒れ込んだ。まどろみの向こうで携帯が鳴ったのには気付いていたし、それは多分彼からだとも思ったけれど、手を伸ばすことなくすぐに深い眠りの淵に落ちた。

 朝の松本は、平日だったからか私の予想よりもはるかに賑やかなオフィス街だった。私鉄に乗って新島々駅に着くと一転して年輩のハイキング客が大多数になった。登山客も結構いるらしく、大きくて埃っぽいリュックにもまれるようにしてバスに乗り換え、昼頃やっと上高地に辿り着いた。
 カレンダーに載っていたかの有名な河童橋が、私の目的地だ。本物を見たのは初めてで、写真よりもざわざわした観光地っぽかった。でも、よく晴れた空の青が周り中の水や木立や山々の青に呼応して際だっていた。昨日からの長い時間の先でやっと深呼吸する。肺に深々と吸い込む空気は、凛として濃い緑の匂いがした。
 普段ほとんど身体を使って生活していないので、ここに来るまでで十分に疲れていたけれど、もっと身体を疲れさせたら私自身の気持ちも明瞭になるような気がして、川べりの散策路を人が少なくなる方向に向かってがむしゃらに歩いた。しばらく歩くとすっかり人はまばらになって、砂利道が見通しの悪い林道になる頃には前後の人影も見えなくなった。

 一人になると、すぐにやりきれない気持ちになってしまう。
 どうやって会社を突き止めたのだろう。彼が教えたのだろうか? 
 昨日の昼休み、真希子さんが直接乗り込んできた。ものすごい剣幕で、意見という名の罵倒を私に浴びせられるだけ浴びせた。小さな会社なので、何もかもバレバレだった。
 真希子さんは彼と元奥さんとの間の一人娘で、なんと私よりも1歳年上だった。真希子さんの気持ちが分からないでもない。
 年なので彼はそこそこ資産もあったけれど私は質素な今の暮らしで満足だったし、子供ができる感じもしなかったので、私だって敢えて結婚など望んでいなかった。結婚したくない訳ではないけれど、何となく最初から無理だろうなと諦めていた。私はずっと、ただ彼のそばに居たいとだけ思っていた。
 なのに彼は半ば強引に入籍しようとしていた。それは単に私に対する愛情の証のためだけではなく、還暦を越えて健康にも不安を抱き初めて、彼が病気になったり私が彼よりもずっと若い同年代の男性に心を傾けたときのための保険として法的な拘束を図ろうとしているようだった。きっと私は最期まで逃げ出さず寄り添っているだろうに、そんな小狡い計算は正直なところ心外だった。
 私の父も、付き合うのはともかく正式に結婚することには反対らしかった。尤も、父は私の母が亡くなって5年ほどして再々婚していて、既に成人していた私は義母とも養子縁組なんてしていないし、一度だけ皆で食事しただけで普段は距離を置いて生活している。菜緒ちゃんが言うには、父は自分がきちんと向き合って生活しなかったが故に私が父親ほども年齢が違う男と結婚することになったのではないかと悲しんでいたらしい。そうではなくて、彼と私とが一対の存在のようにぴったりとはまると感じているからだと、釈明しようにもチャンスがなかった。
 私たちの結婚でこんなにも周りの人たちを不快にしていると実感すると、とても間違ったことをしようとしているのではないかと不安で、ちっとも嬉しくなかった。
 でも多分、私は彼でなければダメなのだ。

 散策路の林道は、大きな川に沿いながら時折奥に逸れた。川音が遠くなると自分の足音が大きく聞こえる。次第に歩くことだけに集中するようになり、ずいぶん長く歩いたような気がした頃、神社に着いた。
 拝観料を払って中に入ると二つの池があった。どちらも、とても静かでとても透明な池。
 池を巡る小径を少しだけ歩く。神社の池だけあって、それは神様の領分だと感じるような場所だった。立ち止まると静けさが増した。

 「タコってね、狭い場所に囚われの身を続けたりしてると自分の足を食いちぎる習性があるんだって。しかもしばらくすると切れた先から必ず2本の新しい足が生えてきて、つまり1本だったのが2本になるのよ。増えるの。すごいね。」
 水鳥が2羽、悠々と泳ぐのを見ていて、突如菜緒ちゃんのアルトの声を思い出した。
 菜緒ちゃんは何かのテレビ番組で知って、感心してすぐさま私の携帯に電話を掛けてきた。その時、私は五反田の中華料理屋で彼と食事をしていて、面白かったのですぐに彼にも話した。
 菜緒ちゃんは私の結婚に賛成も反対もしていない。菜緒ちゃんがニュートラルな立場を貫いているように、ただ一つ明確なのは、今の私にとって彼はかけがえのない存在だということだ。一番大切なのはそのことだ。
 水鳥は、ゆっくりとそれが自分の唯一のコースであるかのように私の目の前を泳ぎ切り、枝の陰に入って視界から消え去った。枝の下には池へ流れ込む浅い小川があって、よく見ると20本くらいの水芭蕉の塊がすっきりと背を伸ばして咲いていた。とてもきれいな白だった。ここに在る生命はみな、何にも媚びず、とてもすがすがしい。
 過度なストレスに苦しむタコのように、私は全部がつぶれてしまう前に大切な足を何本か食いちぎらなくてはならないのかもしれない。痛みがない訳ではないだろうけれど、大丈夫だ。時間が経てば、いずれ切り捨てたところに新しい2本の足が生えてくる。

 こんなに美しい神様の透明な池で私が受けたありがたい天啓と言えば、タコの足を教える菜緒ちゃんのアルトの声というのも、あまりにマヌケな光景だったなと思うと思わず笑いがこぼれた。それは久しぶりに澄んだ笑いだった。

 空に、水に、木立に。溢れんばかりの自然の青が、私の身体にも染みわたる。
 さあ、ここからまた私のアパートへ帰ろう。

参考:西広島タイムスのWEBサイト 平成13年(2001年)9月7日 第689号 宮島水族館 塩田昭仁





エントリ11   柳 戒人

 ゆっくりと目を開けるとそこは焦点も定まらないほどの完全な暗闇だった。
 徐々に意識がはっきりしてくる。そうか、自分は死んだのだ。不思議と違和感も恐怖もなく、やけに静かな気持ちが武田を覆っていた。
1年前に病院で末期がんの宣告を受け、長くて半年と言われ生きがいだった会社を辞めた。それからの半年は恐怖との闘いが続いたが、半年を過ぎると何だかその時間は人生というのとは違う何か「おまけ」のようなものに感じられて恐怖が薄らいだ。毎日一進一退を繰り返しながら、しかし確実に死に向かって病は進行し、2ヶ月前にはほとんど首から上しか動かなくなった。それでも武田は、3年前に建てた念願のマイホームのベッドに横たわり、結婚10周年を迎えたばかりの妻とすごす日々がかけがえのないものに思えて、これも悪くはないのかもしれないと感じるようになってきていた。
ふと思いついて武田は右腕と思われる神経に力を込める。やはり動かなかった。死んだんだから動けよな、そうつぶやいて武田は力を抜き、再び目を閉じた。
そのときだった。足のむこうから妻早苗の声が聞こえた。早苗の声がだんだんはっきりしてくる。
「夫は・・・、皆様の・・・、本当に・・・、でした・・・」
途切れ途切れだが、葬儀の挨拶のようである。10年間というと長いようだが、振り返れば人並みの出会いをして人並みの式をあげて人並みの結婚生活だったとしか言いようがない。それでも武田にとっては幸せな時間だった。会社では広報部の次期部長と言われ、誰からも認められる優秀な社員だったが、辞めてみれば見舞いに来たのは同期と直属の部下それぞれ数名が一度ずつで、以後音沙汰はなかった。辞めてしばらくは読んでいた新聞の経済欄でも株価はあいかわらず業界トップをひた走り、誰よりも貢献してきたと自負する自分がたった一人の、代わりのきかない存在ではないことをあたりまえながら再認識させられた。最後まで武田の傍にいたのは結局早苗だけだったし、思えば「企業戦士」という今となってはすでに死語でしかない言葉を体現していた時も早苗は決して仕事の話を自分からはしようとはしなかった。武田が16年という長い間「企業戦士」でいられたのも早苗のそういった気質によるところも大きかったのかもしれない。
「それでは最後のお別れです。武田隆さん出棺。」
葬儀社の人間らしい厭味のない、しかし決して心から悲しんではいない言葉がはっきりと聞こえた。胸騒ぎを覚えてもがくように体中で動こうとしたがやはり力が入らない。そうだった、死者は焼かれるのだった。死者が火葬されるのはわかっていたはずだし、これまでにも両親や上司など何度かその場面にも立ち会っていた。体が動かなくなって、いよいよきた、と思い自らの死について具体的に思いをめぐらせてはいたが火葬というのは武田の想定には入っていなかった。自分がいない妻早苗の生活や、決して変わることはないであろう社や、さまざまなことを考えたつもりでいた。保険にも入っているし貯えもないわけではない。それでも死後の自分については考えたこともなかった。案外と人間自分の死をリアリティーを持って想像するのは難しいものだ。そもそも自分のことを考えることはつらい。毎日のラッシュや社での仕事を自分のために正当化するのはほとんど無理といっていいほど難しい。武田に子供はいなかった。早苗が不妊症気味なのかもれなかったが、二人とも特に気にせず子供ができないまま37になり、病が発覚した。それでも武田は早苗がいるだけで気力を保つことができた。年並みに火遊びがなかったわけではない。運動部だった武田の体躯はがっしりとしていて、元来浅黒い肌も手伝って社や取引先の女性に好意を寄せられるのも二度三度ではなかった。そのままずるずると関係が続きかけたこともあったが、やはり長くは続かなかった。たとえ不倫とわかっていても、さらには決して離婚させることなどできないとしても、その瞬間自分を一番に思ってくれる男にしか女は「はまら」ない。武田は常に別れを切り出される立場だったし、その理由も判で押したように同じだった。武田はどんなときでも夜には家へ電話を入れた。たとえ駄の女性とホテルにいてもそれだけは欠かさない。それほど早苗は武田にとって特別な存在だった。顔は十人並み、贔屓目にみても際立って美しいわけではない。特技もこれといってないが、早苗は質問をしなかった。仕事のこと、学歴のこと、家族のこと。自分の見えている範囲を信頼し、それだけで生きていける、そんな人間だった。少なくとも武田の目にはそう映った。もしかすると自分が浮浪者でも、極論するならば犯罪者でも結婚してしまったのではないかと武田は思ったことがある。そしてその早苗が自分と一緒になり、そばにいてくれるというのが武田を完全な「企業戦士」にしてしまわなかった理由なのだろう、とも。
車に乗せられた感覚があった。こらから焼き場へ向かうのだろう。胸騒ぎは一向におさまる気配がない。死への恐怖はもうない。いや、ないといえば嘘になるかもしれないが受け入れることはできたはずだった。何をいまさら、と声にしてみる。それでも生への欲求は消えずにむしろ大きくなっていく。武田は自分の混乱した精神をおちつけようとして、何度も自分に言い聞かせた。
もう死んだもう死んだもう死んだもう死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ
そのとき脳裏に浮かんだのは早苗だった。早苗に会いたい。生きなくてもいい、ただ早苗に会いたい。それが矛盾したものであることは武田にもわかったが、その思いは真実としか言いようのない切迫さで武田をしめつけた。自分はこんなことに長い間気づかなかったのだと思うと、武田はあきれると同時に泣けてきた。働く理由を見つけようともがいてみたり、会社の薄情さに腹をたてていた自分がおろかに思えた。働く理由などありはしない。企業は薄情であるに決まっている。ただ、そうだとしても現代の中で早苗との生活を守るためには必要な犠牲であったのではないか。その犠牲で得たものはもっと大きなものであったのではないか。死をリアリティーとして迎えてみて初めて手に入れた心理を武田は何度も繰り返した。そうだったのだ、生自体に意味などない、生きるために働くのではない、その向こうにある、ほのかなしかし温かなもののために人間は日々暮らしていくのだ。
車が止まって、ふわっと浮く感覚の後に、再び何かに着地する衝撃があった。衝撃で、首筋に冷たいものが当たった。最後まで触覚の残った首筋に。武田の中で仮説がすさまじい速さで組み立てられていく。目を開きもう一度声を出してみる。相変わらずの暗闇だが、瞼に何か布のようなものが触れるのがわかる、空気が震えたのがわかる。今は感覚を失った背筋に電流が走った。
「生きている?」
武田の頭はその言葉を反芻すると、最後の賭けに出る決意を固めた。希望は失望につながる。そんなことはここ何ヶ月かで痛いほど身に染みている。それでも武田には生に賭ける理由があるように感じた。大きく深呼吸し、渾身の力を振り絞って武田は声を発した。
「早苗!」
しばらくして、武田の顔に光が射した。あまりの光に目が眩む。その光の中から、真っ赤な目で信じられないように見つめる早苗が姿を現した。武田も早苗にやさしく微笑みかけると、静かに目を閉じた。