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第45回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
バイリンガル・バイリンガル 篠崎かんな 3333
『睡眠病 ―近衛道久― 』 橘内 潤 2978
十六夜 伊勢 湊 3000
灰の海 るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
砂上の美 立花聡 3000
鉛の兵隊 ながしろばんり 3000
乾坤一石 ごんぱち 3000
比翼の鳥とならん 中川きよみ 3000
幽霊女 のぼりん 2956


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エントリ1  バイリンガル・バイリンガル   篠崎かんな

「『ちゅっ・ぴっくるっぷ・ぃうっぷす』はい、繰り返してー…………違います。『ぴっ』は、喉で発音するのでは無く、閉じた口のすき間から息を吐く事によって音を出しま〜す。我々には発音する事は出来ませんから。はい、ではもう一度……」

 華々しいチャイムの音と共に、苦しい拘束時間は終わった。
「今日はここまでです。宿題として、五十個の単語を覚えてきてください」
 自分よりも10歳ほど若い講師が配る単語リストを、真田は苦笑いしながら受け取った。
「やれやれ、この年になって宿題か……」
 ため息と共に立ち上がり、リストを眺めながら自動ドアをくぐる。他教室も同時期に抗議を終える為、廊下はすでに人が溢れ、地下パイプラインへ向かう人の群れが、エレベーターの前に長い列を作っていた。
 これでは何回待つか分からないな……。
 真田は半球形を形作る窓から外を眺め、夕刻前の淡い空を背景にそびえ立つ隣のビルを見付けた。両ビルを繋ぐ通路パイプがこの階からも出ている事を確認すると、それに向かい歩きだした。地下パイプラインは、大半のビルの地下と繋がっている、隣のビルからも行けるだろう。
「おーい、真田。お前、真田だよなぁ」
 後ろからかけられた声に振り返ると、笑顔で男が駆け寄ってきた。
「お前……坂口か?」
「あぁ、久しぶり」
 昔、会社の同期だった男だ。と言っても、半年間だけ。あいつは『こんな事するために社会人になったんじゃない』といって会社をやめた。
「お前もシュルプ語を習いにきてたのか……」
 坂口が横を歩きながら暗く呟く。
 この嘆きには裏の意味が込められている。すなわち『お前もリストラされてたのか』と言う意味だ。
「あぁ、一ヶ月前に切られてな。三ヶ月は退職金が出るから、それまでに……な」
「どこの世界も景気が悪い……いや、悪いのは人間ばかりだ。あいつらの景気はいまだ上向きだもんな」
 坂口が言う『あいつら』とは、シュルプァラントという星からきた異星人の事である。『地球により高度な技術をもたらす救世主』として招かれたのが五年前。たった五年で世界の科学技術、機械技術、通信交通網は様変わりした。いまや、庶民の重要な足と化した地下パイプラインを始め、ほとんどの分野で異文化技術の吸収による高度化が進められて行った。彼らと地道に交流を続けここまで実を結ばせた『NAーSA』は、始め手柄を主張しながら大手を振っていたのだが、やがてそれも縮こまざるをえなくなった。NAーSAの宇宙技術はシュルプァラント人の持っている技術にはとうてい及ばず、地球からの宇宙進行による機材、建築物等の建設はシュルプァラント人が、いってにまかされる事になったのだ。
 また、それはけっして例外では無く。どの分野でもシュルプァラント人の技術は今までよりも高い物であり、機械導入、技術向上により、今まで必要だった人間がいらなくなり、人間社会では大幅なリストラが相次いだ。
「皮肉なもんだな。あいつらが持ってきた技術で職場追われた俺らは、あいつらの作った職に逃げ込む事しかできない」
「あぁ、そうだな」
 地球中に溢れた失職者にシュルプァラント人が仕事をあたえはじめた。条件は、満足に働ける者と、シュルプァラント人の公用語『シュルプ語』が話せる事。地球人にとってはなじみも文法も法則もまるで違うこの言語を習得して、初めて職がもらえる。
「なぁ、坂口」
 隣とのビルを繋ぐ通路パイプのドアをくぐった時、真田は気になっていた事をきいた。
「お前、会社やめてからどこで働いていたんだ?」
 ガラス張りの通路の中には、夕方を迎えた世界が発するオレンジ色の光が突き抜け続けていた。
 坂口は一瞬きょとんとした顔で固まったが、すぐ笑顔で言った。
「宇宙」
 夕焼けに染まった坂口の顔ははっきりとそう言った。
「って……まさか」
「世界宇宙科学技術局『NAーSA』これでも俺は機内整備士として働いていたんだ」
「へー……お前が、なぁ」
「満天の星空の中で……いいもんだった。それもまぁ、おわっちまったがな」
「リストラ……か」
「いや、倒産に近い。NAーSAはシュルプァラント星の企業に完全に吸収された」
 坂口の歩みが少し早くなる。日が沈む反対側に出来た影が坂口の顔を覆って行く。
「でもまぁ、地球の文化は飛躍的に進歩した。それは事実だ。だから、俺の夢は達成された事になるんだ」
 そう言って振り向いた顔は、『こんな事するために……』と言ったあの頃に、年相応の落ち着きが加わっていた。
「ちっ・ぷるうっく・ぷってっとぅく」
「えっ、何て言ったんだよ」
「こんなのも、わかんないのか? まだ初期だな。だから、いい年した大人が宿題なんて貰うんだよ」
「うるせぃ」
 暖かな地球の夕日は、全てをセピア色に包み込んでいた。

 今日、風の噂で坂口が死んだと知った。
 すでにあいつは、シュルプ語を習得して仕事についていたから、詳しい死に方はわからないが、原因は『働き過ぎ』だとだけ流れた。地球人のだれもが、『働かせ過ぎ』の間違いである事を知っていた。労働時間が長い。扱いが悪すぎる。衛生面での配慮が無い。奴隷同然の扱いに苦情を申し立てる事は、地球人には不可能だった。『苦情』も『抗議』もシュルプ語でどう言えばいいのかわからないのだ。シュルプ語を習得、と言っても日常差し支えなく聞き取れる程度しか教わらないし、教える講師もそれぐらいしか知らない。言葉が無い、たてつく手段が無い、爪を抜き取られたトラのように、人間は従う事しか出来なくなっていた。

『こんな事するために社会人になったんじゃない』

 あいつは、やりがいのある仕事につけたのだろうか、満足な死に様だったのだろうか、あの時のように……。
 地球の進歩を求めて、この世界を作りだしたのは、ある意味お前だよ……坂口。

……ちっ・ぷるうっく・ぷってっとぅく……

 あいつと会社でやった事ってなんだったっけ……一度だけチーム組んで作った物。
えっと……たしか、『バグリンガル』。犬の鳴声から、正確に意味を拾って人間の言葉に直す。常用小型装置として売り出したかったが、おもちゃ部門に払い下げらさせられたなぁ……。

 頭に何かが引っかかり、それがなんだかわからない事で、不快感が生まれ始める。
 あれを作った時、大量の犬の鳴き声を坂口と二人で全部集めたんだ……。何千、何万もの犬の鳴き声。その中の一部、周波数と高さのデータにより、意味を拾い出していった……。

「あっ」

 不快感は一気に晴れた。
 同じだ……。犬の鳴き声、周波数と高さの関係。一緒なんだ、このシュルプ語と!
人間の言語とまるで違うはずだ……。そうだ、犬の鳴き声……データは、残っている!!
出来る、わかる、『苦情』も『抗議』も、すべて逆算により導くことが出来る。

……ちっ・ぷるうっく・ぷってっとぅく……

 ありがとう坂口。このまま、この地球を……シュルプァラント人の支配になんかさせたりしない!!

 すざまじい銃声がやみ、歪んだドアが音を立てて倒れた。
 暗闇だった世界に光りが当てられ、同時に銃口も向けられた。
「真田秀二。いるんだろう」
 綺麗な日本語だった。
「あぁ、いる」
 真田は暗闇から姿を出し、光の中で声の主を見つめた。
 現物を見るのは真田自身、初めてだった。少し青みがかった肌、尖った耳。
「真田秀二。お前を今から犯罪者として殺害する」
「罪名は?」
「シュルプ語翻訳機『バイリンガル』の作成」
「それが何で犯罪なんだ?」
 目の前の異星人の顔がニヤリと歪んだ。
「文明の低い人種は、ただ従っていればいい。反抗しなければ変化も無い。変化がなければ進化もない。お前らはだだ、私らの下で生きればそれでいい」
 真田は相手を静かに見据え、ゆっくりと口に出した。
「ちっ・ぷるうっく・ぷってっとぅく……」
 歪んだ顔から余裕が消え、細い両目がつり上がって行く。
「すでに翻訳機は完成して、大量生産レートに乗せた。お前らが捨てた地球人の古い技術だ。地球は生きている……言葉がわかれば、何でもでき……」
 複数の銃弾が同時に放たれ、すべてが的確に真田の心臓を貫いた。

 坂口の声が聞こえてくる。

……ちっ・ぷるうっく・ぷってっとぅく……
   『地球は進化しつづける』





エントリ2  『睡眠病 ―近衛道久― 』   橘内 潤

「コノエミチヒサ……こりゃまたご大層なお名前ですな」
 監察医、近衛道久が名刺を手渡すと、初老の域に差し掛かった刑事が、口許にいびつな笑みをうかべる。近衛の名前はすでに知れていたはずだから、これは定年間際の刑事にできる精一杯の嫌味だったのだろう。
 近衛は刑事に連れられて、少女が待つ取調室へと向かう。本来ならば未成年の保護は生活安全課の管轄であるべきなのだが、二件の不審死に関わっている疑いから、少女の身柄は刑事課が預かっていた。世が世ならば「未成年に対する権利の侵害だ」などと騒がれそうな対応だが、戦時下といってよいご時世、国家組織の規律や風紀をとやかく言うのは、弾圧を恐れないアナーキストだけである。もっとも、このような状況であるからこそ、この事件に直接関わりがあるわけでもなく、また少女の身内でもない――ただの監察医にすぎない近衛が、コネクションを頼りに、少女との面会を許されたのであるが。
 取調室に入ると、はたして少女が座っていた。線が細く、意思の光を感じさせない人形のような印象の少女だった。身分証の類もいっさい所持しておらず、全国の病院に問い合せても少女の身元はようとして判明しないままだった。
 近衛が話しかけても、少女は黙ったままだった。名前をきいても無言、年齢をきいても無言、いままで何処でどのように暮らしてきたのかを尋ねても、少女は黙ったままだった――その様子は「黙秘権を行使している」というのではなく、「言われていることが理解できない」といった印象を与えるものだった。
 この日の面会は、終始無言のままで時間を迎えた。だが近衛はこれで引き下がろうとせず、少女の精密検査をさせるように要求した。初老の刑事はあからさまに「問題ごとはごめんだ」と疲れた顔に皺をよせたし、一般的な健康診断もすでに行われた後で、精密検査がすぐに下りるようにはおもわれなかった。かりに検査が実施されたとしても、監察医である自分がその検査に携われる可能性は低い――そう判断した近衛は、さらに大胆な行動をとった。
 この当時すでに事実上閉鎖していた「睡眠病病理解析研究所」の所長に面会したのだった。ひねりもなく長ったらしい名前の研究所は厚生省直轄の国家機関であり、睡眠病が蔓延していた時期に設立された睡眠病の研究施設である。名称にセンスがないのは、そんなことを推敲している暇もないほど緊急的に設立されたからだった――しかし、睡眠病はその病理が解析されるよりも早く、天使の誕生という結末を迎えてしまう。役割を失ってしまった研究所はじきに解体される予定だった――近衛がやってくる前日までは。
 それから日を空けずに、名前のない少女は研究所へと身柄を受け渡された。名目は「精密検査のため」であったし、一般の病院をいくつか経由して研究所に搬送されたので、事実を知る関係者以外はその名目を疑おうとすらしなかっただろう。
 研究所に運ばれた少女は、睡眠病患者であるという前提のもとに、いくつもの検査を受けた。その結果、少女の生物的な実態が過去の睡眠病患者の事例と酷似していることが判明――すなわち、生物としての代謝機能が停止している代わりに、周囲で睡眠状態にある人間の夢を食べる「夢喰い」現象が確認された。――どのようにして確認したのかについては、多くを語るまい。だれも自覚できないほどゆっくりと倫理や常識が綻んでいった時代だったことを再認識するばかりである。
 近衛もまた、研究所の一員として少女の研究に参加していた――といっても睡眠病についての専門知識がすくない近衛はおもに、少女の世話をすることが多かった。本来ならば女性スタッフがやるべきなのだろうが、実験以外で睡眠病患者に近づくことをみんな嫌がったので、近衛がその役を買ってでたのである。母親が睡眠病にかかっていると判明したとき、深夜に家を飛びだしていった母親をどうすることもできずに見送ったことの罪悪感が、そうさせたのかもしれない。
 近衛は献身的に世話をした。少女の近くで眠らなければ平気なのだと理解すれば、華奢な少女に対する恐れなど感じなくなった。むしろ、庇護欲とでも呼べる感情を覚えていることを自覚して、ひとり苦笑いすることもあった――年がひと回りは離れているだろう少女との、おもえばこのときが近衛にとってもっとも穏やかで満ちたりた日々だった。少女にたいして行われた実験はけして人道的なものばかりではなかったが、少女はどんなときにもまるで人形のように感情を露わにしなかった。そのことが研究員たちの良心を麻痺させる一因だったのかもしれないが。
 近衛が初めて少女を見たときから「人形のようだ」という印象は変わらなかったが、そのなかでもほんの僅かにだが、感情らしきものを垣間見るときがあった。一日の実験が終わって身体を拭いてやるとき、どこか遠くを見ている少女の瞳がすこしだけ細められる――近衛にはそれが微笑みになのだと感じられた――許されているのだと感じた。
 研究所という閉鎖環境で育まれた、いびつな共生関係――この関係が終わりを迎えるのは、それから間もなくのことだった。
 研究は停滞していた。少女が睡眠病患者の特徴を示していることは確認できた――が、研究の目的は「睡眠病の病理を解明する」ことである。さらに言えば、「睡眠病の病理――不老不死の生態を解明して、利用可能性を探ること」であった。二番目の目的は研究員のなかでもごく一部にしか知らされていなかった。もちろん、近衛も知らなかった。近衛が少女をこの施設に連れてきたのは、睡眠病であるかどうかを知りたかったからだ。睡眠病だと確信できれば、あの日、母を見送ることしかできなかった罪を償うことができる――そんな意識があったのだろうと後日になって回顧することになる。
 ともかく、研究は停滞していた。そのことに業を煮やしたのは、研究所に出資している老人たちだった。国家機関である睡眠病病理研究所は国民の税金で賄われている――というのが正常な認識ではあるのだが、研究所の存続を厚生省や国会に認めさせたのは、とある老人たちの力だった。近衛との面談で少女のことを知った所長は、ぜひともその少女を研究したいとおもった。しかし、睡眠病の恐怖がなくなった現在、天使への対応で手一杯な国は、明日にでも研究所の解体を決めてしまうかもしれない――とても研究予算をよこせと言える状況ではなかった。そんなときに閃いた妙案が、「睡眠病とは不老不死の生態である」という謳い文句だった。政界の黒幕と恐れられる老人たちはまるで餌に群がる鯉のように、所長の話に食いついたのだった――この老人たちは後に元老院と呼ばれることになるのだが、それはまた後日に語る機会もあるだろう。
 出資者である老人たちに急かされた所長は、ついに少女の解剖を決断した。これで成果が出なければ、つぎの解剖されて魚の餌にされるのは自分だろうとわかっていたが、もう解剖する以外に手段がなかったのである――実験を重ねるほどに、睡眠病というものがいかに人智を超えた病理であるのかを思い知らされるばかりだったが、もう後には退けないのだった。
 ――しかし、解剖は実行されなかった。
 少女が解剖されるということを知った近衛が、少女を連れだして逃亡したからだった。





エントリ3  十六夜   伊勢 湊

 神社の境内、出店の白熱灯。夜の空気はいつしか冷たさを含んでいて、季節の締めくくりをするお祭りの熱気の中にあって次の季節への予感を孕んでいた。花柄の浴衣を着こなして嬉しそうな歳の離れた妹の咲季子の手を引いて出店の並ぶ人込みを歩く。最初にお参りしてからな。そう言った僕にうんと頷きながらも眩い出店の数々に目を奪われている。無理もない。まだ小学三年生だ。僕とは七つも違う。
 咲季子がずっと元気で幸せでありますように。お賽銭を投げ込んでそう祈る。横の咲季子が何を祈ったのかは分からない。僕達の季節は終ろうとしていた。でもまだ咲季子は何も知らない。

 仲の良い家族。周りからはそう映っていただろう。咲季子も何も気が付いていないはずだ。僕自身、気が付いたのは家を出て外側から家族というものを見てからだった。そういう意味では両親は辛抱強くやっていたのだと思う。しかしそれが事を取り返しの付かないところまで加速させた気もしなくもない。いまの僕には全ては想像でしかない。
 高専学校に入り僕は家を出て寮に入った。少しでも早く一人で生きているようになりたい。そう思っての選択だった。そう思わせる何かが、たぶん家庭の中に前からあったのだろう。いまではそう思う。夏休みを迎え、久しぶりに家に帰ってきたとき僕はそれを知った。僕がそれを知ったということを両親も自然に知った。夜中まで蝉のうるさかったある夜に、咲季子が眠った後で両親は僕に離婚するつもりであることを告げた。それはそういう話をするにはあまりに不自然なほど家庭の形を保っていた。月明かりの縁側で父親と並んで座り、母親がお盆にビールと枝豆をのせて持ってきた。僕は初めてビールを飲んだ。あの苦さは忘れることはないだろう。もう随分前からダメだったんだよ。父親のその言葉が一番苦かった。

「咲季子、今日はいろんなお店まわろうな」
「うん!」
 元気よく返事をする。今日だけは何でも買ってやるつもりでいた。隠れてバイトして貯めてきたお金だ。そして僕という兄を咲季子の記憶に残したかった。祭りの夜が明け明日になれば、僕は高専の寮に戻る。そして次に家に帰ってきたときに、そこには母と咲季子はいないことになっていた。

「ほら、咲季子」
「うわぁ」
 綿菓子を手渡してやると咲季子は歓声を上げた。でも眩い光は次から次に視界に飛び込んで咲季子の興味を引いた。
「あっ、金魚掬いだ! 兄ちゃんとって」
 咲季子が金魚掬いを見付けて言った。
「よーし、まかせとけ」
 僕は金魚掬いが得意だった。たくさん取ってやれば咲季子の中にも金魚掬いが上手な兄の姿が残るかもしれない。その場にいるときから少し胸を打つような、綺麗なセピア色に変わっていくことが約束されたような夜だった。そのときまでは。

「いくぞ」
 椀を手にし、素早く、かつ慎重に紙のポイで水を切るように金魚を掬っていく。一匹、二匹、三匹と掬っていく。今日は特に調子がいい。四匹、五匹、六匹。歓声が沸きあがる。七匹、八匹、九匹。辺りはますます盛り上がる。そこでふと我に返る。そこには多くの声があった。しかし咲季子の声がしなかった。横を見ると咲季子がなぜか心配そうな顔でこっちを見ていた。いつの間にか辺りには人だかりが出来ていた。そして咲季子の向こうからポイを手にした男がこっちを見ていた。
「なかなかやるな。だがオレも金魚掬いの全国大会で準優勝した男だ。そう簡単には負けんぞ」
 なに言ってんだ、こいつ。いきなりそう言った男の手にもポイが握られていた。椀には、ちょうど僕と同じ九匹の金魚。らんらんとした目でこっちを見ている。
「まさかこんな田舎の祭りでこれほどの使い手に会うとはな。その技を見せられては金魚掬い名人のオレとしては引き下がれん。勝負だ」
妹との大切な時間になに勝手に勝負を始めているんだ。邪魔すんな。最初は無視するつもりでいた。どうして祭りの金魚掬いで勝負などしなくてはいけないのだ。いま僕に大切なのはそんなことじゃない。いや正直言って金魚掬いなど全然大切ではない。咲季子の記憶に自分を残すこと、それだけが大切なことだ。
しかし二十代後半にも思しきその自称金魚掬い名人は僕が手を休めているとどんどん掬っていく。そしてその都度に人だかりから歓声が起きた。秋の気配を忍ばせているはずの夜の風はまるで感じない。人垣が纏う色とりどりの浴衣の柄が白い光に照らされて踊っていた。連なる歓声に驚嘆。そして側には心配そうに見守る咲季子がいた。咲季子、おまえはそれを望むのか?
「なんだ怖気づいたか? かかってこい」
 声が反響して聞こえた。憎たらしい男だ。耳たぶの温度がきゅっと上がった。
「やったらあ!」
 僕はポイを握って水面に向かった。準優勝かなんか知らんが、勝手に大切な時間に入り込みやがって。これは今の僕にはただの遊びじゃない。咲季子の記憶に踏み止まるのだ。自分の描いたドラマじゃないが、だからってここで引き下がれるか。
「咲季子、見てろ。兄ちゃんは負けん」
「ほんま? 兄ちゃん頑張って」
 何も知らない咲季子が笑う。これでいいのかもしれない。いや、それよりもいまは考えない。こうなったらやってやる。それだけだ。
「おっ、やるな。やっとやる気になったか」
「後悔するなよ、金魚掬い名人の称号はもらうぞ!」
 ええい、なんだ、なんなんだ。なに言ってるんだ? 称号ってなんだ? どうして身も知らずの男と勝負なんてしてるんだ? でも、とにかく、とにかく負けちゃいけないんだ、ここは、いまは。
「うおりゃ」
「なんのっ」
ポイを動かす。金魚が椀に飛び込む。笑い声、歓声。目の端に咲季子の喜ぶ顔が見える。視界が妙に鮮やかで、金魚掬いそのものに夢中になっていた。白熱灯の光に水飛沫が舞った。

「ちいっ。やるな兄ちゃん。今晩のとこはオレの負けだ」
 結局僕は二十八匹を掬った。名人は二十七匹。たかが金魚掬いに僕は全精力を使い果たし思わずその場に座り込んだ。ああ、笑えるほど馬鹿らしい。でも悪い気分じゃなかった。声を上げる人垣の中心で嬉しそうな咲季子の顔が僕に向いていた。拍手が起こっていた。僕は咲季子の頭を撫でてやった。
「ええか咲季子。兄ちゃんは金魚掬いの名人だ」
「うん! 兄ちゃんの優勝だよ」
 なんでだろう。咲季子が泣いていた。顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「なんだよ、どうしたんだよ。泣くなよ」
「うん、泣かない」
 拍手と歓声の中でいろんなものが溶けていく気がした。そうか、咲季子だって僕が思うほど子供じゃなかったんだな。それに、これは僕達の血筋なのかもしれない。家族でそれぞれみんなが、いろいろあるなりに役割を演じようとしていたのかもしれない。子供達のために別れを引き延ばしてきた夫婦とか、思い出を残そうとする兄とか、何も知らない振りを通そうとする妹とか。なんか哀しくて、それを全て風に流した。僕は人垣の真中で咲季子をぎゅっと抱きしめた。周りは金魚掬いに勝ったくらいで大袈裟な、と思ったかもしれないけど全然構わなかった。
 
 僕達のあいだを一陣の風が通り過ぎた気がした。それは秋の風だった。季節は待ってはくれない。でもこの歓声と白熱灯の光はきっと僕達の中から消えはしないだろう。
 風の向こう、その先に金魚掬い名人の姿はもうなかった。僕は咲季子の手を引いてもう少しだけでもこの夜を引き伸ばそうと歩き始めた。





エントリ4  灰の海   るるるぶ☆どっぐちゃん

 近所には女の子が住んでいて、年の頃は十五、六、脂気の無いかさかさと乾いた肌と髪、いつも不満げな顔をして、つまらなそうに空を眺めながらふらふら歩いているから、その内きっと自殺でもするんじゃないかと思っていたら、昨日、本当にした。周囲は突然の自殺、葬式に、全くもって迷惑げで、不満そうに空を眺めている。わたしは彼女の自殺自体はどうでも良く、よそ事ばかりが気になるのだが、その事とは、わたしは、彼女が死ぬ前の一週間、夜の散歩道で、何度か彼女と出会い、話をしたのだが、その時彼女は見事な花を抱えていた。沢山の。色とりどりの。ひまわりも枯れたこの時期、どうやって手に入れたのだろう、とわたしは思っていた。日に日に彼女が抱える花は増えていった。彼女はきっと秘密の花園を何処かに探し出したのだった。彼女が死んだ今、もう何処にあるのかは誰にも解らないけれど。
「美しい花だね」
「そうでしょう」
「こんなに沢山、一体何処に咲いているのだろうね」
「おじさんにあげるわ」
「わたしにかい? 要らないよ」
「良いのよ。幾らでもあるのだから。あたしには誰も花を贈りたい人はいないし」
「わたしにもいないよ」
「そう。じゃあ捨てるわ」
 彼女は楽しそうに花を空へと投げる。一瞬夜空を目も眩む色彩で染めた後、風に吹かれて花は跡形もなく散る。
「死んだね」
 葬式には画家が来ていてわたしに話しかけてきた。画家とはわたし達の間でのあだ名であるが、確かに彼は画家であり、というのも、彼はマッチ箱の裏やら、広告の切れ端、切符、映画の半券などに小さな絵を描き、周囲に売り歩いていたのだ。
「三十万円だ」
 絵はあまり売れず、だが時たま売れた。
「たった三十万円だぞ」
 彼の稚拙な絵は、極安価で取り引きされた。
「無理か。三十万円では無理か。なら煙草を一本くれ。それで良い。それで良いよ」
 そう言って彼は煙草を一本貰い、懐から手垢で真っ黒なライターを取り出して、火を付ける。
「死んだねえ。葬式だねえ」
 葬式に彼はいつもの通り、紫のベレー帽を被っていた。曇天の周囲は暗く、また、背の小さな彼は目立たないので、誰もそれを咎める者はいなかった。
「死んだ、げほ、ねえ、葬、げふ、式だねえ、げほ」
 彼はいつもの通り、煙草をむせながら吸う。静寂に彼の弱々しいセキが響き渡る。誰も咎める者はいない。
「本当に、げふ。寂しくなるよ。君、君は、あの子とは随分仲良しだったじゃないか」
「そんなことはないよ。普通だよ」
「普通か? 普通だったかな」
「普通だよ」
「いつも君とあの子は仲良く話していたが」
「普通だよ」
「そうか。ともかく寂しくなるな。あの子は優しい子だったから。げふ、げふっ。げふっ」
「ああ」
「げほっ。ふう。ところで」
「なんだい」
「花は、要るかい?」
「要らないよ」
「そうか。げほっ、げほっ。だが本当に、要らないか?」
「ああ。要らない」
「そうか」

 薄暗い廊下を渡り、扉を開ける。
 女の家は、路地の奥に隠された長細い階段を昇りきった先にある。ぎしぎしと軋む、何処までもだらだらと長く続く階段を昇り、十二階建ての七階、周囲に建物にも、自らにも、明るさから遠ざけられた部屋に、女は住んでいて、その部屋を、わたしはとても気に入っていた。
 奥の部屋、もっとも丁寧に絨毯が敷かれ、もっとも薄暗い、もっとも湿ったその部屋には赤ん坊が二人、寝ている。昨年の早々に、女が急に産み落としたのだった。わたしはその兆候を全く見抜けなかった。女が急に産んだようにしか見えなかった。女は急に苦しみだし、そしてわたしに病院へと運ばせ、産んだ。女は出産をひどく苦しんだ。手首の所で縛られたその細腕をみしみしと軋ませて、鉄の棒を掴み、涙をだらだらと流しながら、鼻水を吹きながら、唇を噛み裂き、血まみれにしながら、物凄い拷問を受けているかのようにぎゃうぎゃう叫びながら、下腹部から大量に血を吹き出させながら、双子の姉妹を、彼女は産んだ。
 小さなベッドに、二人は大人しく寝ている。目をぴたりと閉じて、小さな寝息を立てている。この二人が産まれてから、わたしは女と暮らし始めた。女は二人を愛した。女は二人を、ともかくも愛した。乳の出ない痩せ尖った胸を呆けた笑顔で含ませ、誰の子かも解らぬ二人を、女はともかくも愛した。二人は泣きもせず、笑いもしなかった。ただ静かに、されるがままにされていた。女は仕事に精を出した。血の乾かぬままの下腹部を引きずって、今日も彼女は街を歩き回し、男に声を掛ける。
 二人の世話は、わたしがする。ベッドの中を覗き込む。二人はおもちゃに埋もれたベッドの中から、わたしをじっと見ている。もう間もなく二歳であるから、泣き叫ぶようなことはしない。
 間もなく女が帰ってくる。わたしは二人のパジャマのズボンを脱がせる。汚れなくぱっちりと閉じたおまんこが、小便に溶けた大便で、ふにゃふにゃと汚れていた。わたしはペーパータオルで拭いてやり、ぬるま湯ですすぎ、おむつを交換する。

 目を開けると映画はもう終わっていて、エンディングテーマと共に、スタッフスクロールが真っ黒な画面に流れていた。とても楽しみにしていた映画だったが、途中で寝てしまった。痩せた女と、小さな男と、何人かの女の子が、悪い王様から逃れて、笑顔で楽しく暮らすところまでは覚えている。みな美しい衣装を着ていて、とても楽しそう笑って、どこまでも広がる青空の下、手を取り合っているのだった。あの笑顔の先は? あの美しいシーンの先にはどんなことが? エンディングテーマは暗い音色のトランペットが中心の曲で、とても良い曲だった。とてもとても良い曲だった。あの続きは一体どうなるのか。あそこまでは覚えている。絶対に夢じゃあない。しかし本当に夢じゃないのか。あんなシーンはあったのか。曲が終わる。映画が終わった。ぼんやりと電灯がつき、人々は帰り始める。
 狭いネオン街を三周した後、わたしはポケットから手紙を取り出して読んだ。
「しばらく帰らない。鍵を送る。今度帰るまでに下記住所のアトリエにある絵を全て焼いて置いて欲しい」
 画家からの手紙だった。住所はネオン街の外れにある、大きなビルで、その屋上階である。
 鍵を開け、電気をつけると、そこは色とりどりの花が咲き乱れた花園であった。ありとあらゆる花が咲き乱れ、暖かい花園、だがしかし、違う。ここは花園では無い。こんなところに花園があるわけがない。花はもう彼女が投げ、散ってしまった。女は散ってしまった花束を抱えて、春を売っている。こんなところに花園があるわけがない。こんなところには、花園は無い。
 一歩踏み込むとキャンバスが倒れ、がたん、と音を立てた。わたしはキャンバスを持ち上げる。絵が描かれている。たくさんの色が無造作に置かれた絵である。
「美しいじゃないか」
 わたしはさらに歩を進める。絵は無数にある。美しいじゃないか。色。形。溶けていく。溶けている。散っていく。美しいじゃないか。色が解け合い、吹き出し、垂れ続け、穴を穿ち、散り、美しいじゃないか。彼は焼けと言った。全て焼け、そう言った。帰るまでに、全てを焼け、そう言った。
 わたしはライターを取り出し、火を付ける。絵はゆっくりと燃えていく。すぐに部屋の中は灰に満たされる。灰に満たされながらも、わたしは懐に手を伸ばす。
「げほ、げほっ」
 わたしは煙草に火を付ける。





エントリ5  砂上の美   立花聡

 中華街の端にうまい粥を食べさせる店がある。私は知人に誘われてから、月に一二度足を運んでいた。その味に出会う度に私はある挿話を思い出すのである。
 中学の時分の頃だ。私には寺の息子の級友がいた。近藤(友人の名である)が私を寺へ泊まりにくるように誘ったのだった。
 私は近藤と中学の校門の前で待ち合わせ、それから近藤の住む寺へと緩い坂道を歩いた。あたりは蝉の鳴き声とどこからともつかない熱ーーまるで日が二つ三つ増えたのではないかと思われるほどその日は暑かった。しかしその熱がのちの出来事を融解せしめて、私の心に溶けて混ざり、そのまま固まってしまったのかもしれなかった。そして砂金のような美しさと儚さ、傾ければさらさらと音をたてるような経験に変わっているのに気が付いたのは、もう私が成人してからのことかもれない。
 寺までは三十分の道程である。私は近藤のうしろについて歩いた。覚えているのは、街路脇に植えられた楓の葉が赤い日を、透過して足下に光彩が差し込み、私の白い靴にゆらゆらとした抑揚をもたらして大層うつくしかったことだ。それはまるで水面が白くなったり青くかわったりする様子のようであった。私は近藤の足取りをたどりながら、横目でその足下のうつりかわりを見るでもなく、ぼんやりとながめていた。
 近藤の寺へは長い階段をのぼらねばならなかった。広葉樹が左右を囲み、階上からは清涼な風が吹く。私は顔をあげ近藤を見た。かれは私の手を引こうとしていた。近藤の背中に日がさして、まぶしく揺らめく。逆光であった。丸刈りの頭の輪郭。明暗につつまれた顔。はるか頭上である階段の稜角。それらは私が夏に思う濃密なイメージとして残っている。
 のぼりきると石畳の先に社が見える。社と言っても西に家屋が隣接し、縁側のすぐ傍らには自転車がおかれている。そこには神聖さと言うよりも、生活感のようなものが漂い、かろうじて脇の大きな石碑がその空気を戒めていた。近藤は知らせて来ると走り出し、私はそこに残され、石畳から遠く逸脱しないようにあたりを見て回った。ずっしりとした根をもった松が石碑と対面して聳えている。カナカナという鳴き声につられて、幹を見上げるのだが、陽光が私を邪魔して声の主を見ることはできない。幹は分厚くかたい鱗で守られ、触れると掌にふしぎなぬくもり(それはまた涼やかでもあった)が伝わる。凝り固まった表皮を引っ張るとそれは容易に剥がれ、しかしその下にはまた分厚い皮が現われて、終わりがないように思われた。急に暗くなったのに気づいて空を見ると、豪奢ななりをした雲がすっぽりと覆い尽くしてしまった後であった。
 雨が音をたてはじめたのは、私が近藤の父に通された頃からであった。丸顔でがま口のあたりは近藤の顔と似通っているのだが、色白で頬は赤く染まり、裕福そうにみえた。日に焼け、固い岩肌のような顎先の近藤のそれとは、全く異なっており、私はいささか驚いた。物腰も極めて穏やかで、それでいてなにか人を惹き付けるような話し方である。微細な声の抑揚が読経のちかく、変に私を納得させた。近藤の父から二人の徒弟を紹介された頃には、雨はいよいよ本降りになり、石畳を強く叩きつけるようになっていた。時折、松から塊となった雨粒が一息に流れ落ちると、その大仰な音に私は少し体を強ばらせた。
 雨が降り、遊びの算段は否定された。近藤と私は、二人で本堂から降り注ぐ雨を見た。近藤はしきりにつまらないとぼやくのだが、私にとりそれは新鮮であった。自若とした仏像が座るその目前に背を向けて、雨を見る。畳と線香が鼻先をくすぐる。景色に溶け込むような一体感とでもいうのだろうか、私はそれに酔っていた。
 それからじきに薬石となった。雲がなければまだ日も暮れきっていないだろう早い時間だった。薬石は簡素な粥で、傍らには沢庵と小鉢だけが添えられ、私たちは本堂脇の、十畳程度の部屋でそれを食べた。ふしぎと甘い香りがする粥で、口に入れると塩気の細い、柔らかな味だった。
 和尚(徒弟たちは近藤の父をこう呼んでいた)が私の家族のことを尋ねた。私は父と母、そしてともに暮らす祖母のこと、祖母は日本舞踊を教えていたことを話した。私は近藤たちが極めて日本的な生活をしているように思えて、それに見合うような自分をつくりだそうとしたのかもしれない。
 話はいつしか説教のようなものにかわった。内容は理解できなかった。私以外のものは、滅多に見せない大義なものを聞かされているような面持ちに変わっているので、私もその顔を真似て和尚の話を聞いていた。ただ、その神妙な場にいることで私は何かしらの感慨の表情をしなければならないと思ったし、実際聞き取れた言葉があればその語幹に感動を求めるのだが、やはりいかほどの感慨も心には浮かばなかった。
 雨はようよう勢いを増しているようで雨音は遠慮なく鳴り続けていた。
 食後の話が終わると近藤と私は本堂に呼ばれ、畳の上で正座をして待つよう言われた。私は近藤に自分が何か悪いことを言ったのだろうかと訊ねるのだが、近藤は笑いながらかぶりを振った。夜、薄暗い中での仏の瞳は無気味なほどに暗然としていて、私の単純な心など見透かされているようで、そのために仏は微笑を浮かべているのではないかとさえ思えた。
 和尚は手元にくすんだ桐でできた小箱を持っていた。真新しい茶の帯でそれは閉じられていた。
 差しだした小箱のを紐とくと、中には紫紺の手触りのいい薄い布ーー絹であったろうか、その手触りに私は無性に緊張し、同時に期待をもった。
 そこには能面がある。
 滑らかな肌をもった白い、のっぺらとした面がそこにはある。細くのびた目、朧げな口元、それは確かに奇麗であった。しかし、奇麗すぎた。私は興醒めた心地になった。和尚が「いいもの」と言って渡された品は私にとって価値はなかった。許されるなら面をそのまま外に投げ捨てることも出来ただろう。そんな美であった。私は和尚の感動を求める視線に後押しされて面を手に取り、見つめる素振りをした。
 そのときだ。面の左目の目尻のあたりに一点の瑕瑾を見たのだ。か細く僅かだが、確かに黒く変色した一点。それを見たのだ。私の心地は一転した。能面の瞳が、表情がありありと私に伝わってきた。この女は笑っているのではない。泣いているのでもない。疲弊し、消耗しきった精神の先にある孤独に女はただ横たわっているのだ。私は女の危うい美を見た。いや感じたというべきか。この美しい能面の美は刹那である。一瞬で崩れ落ちそうな、毀れてしまいそうな砂上の美である。爪で掻いてしまえば失われる、その刹那が私を揺り動かしたのだった。ふしぎなことに瑕瑾が私に、失われた完璧を想像させ、本来もつべき美、与えられた美が儚く永遠になったことを知ったのだ。
 見つめるほどに、その黒の一点に吸い込まれていった。音も匂いも光も、時間も空間すらない邂逅のときであった。その中で思うのは、まさにalleinであった。女の孤独は圧倒的であったのだ。
 その後は鮮明ではない。あの遭遇に打ちひしがれ高揚しきった私は、開沈も開定も単なる出来事としてしか覚えていない。
 しかしあれほど鮮明であった美の体感も日々に流されるのである。そうして今日も私は……。
 あぁ、そうだ。雨は一晩中降り注いでいた。飽きることもなくただ昏々と。





エントリ6  鉛の兵隊   ながしろばんり

「思えば遠く来たもんどつ」
 ドンギューが荒野を行く。軍部支給の背の高い帽子に、はみ出た顎肉と山賊ひげ、担え銃。鈍牛のあだ名の通り、鉄板を埋めた重い靴で、明星の先、地の果てまで特命を帯びて突き進む。
 駐屯地からもう随分歩いたが、今日も誰にも会わなかった。

「牛越富士夫二等兵は、本日十二日ロクサンマルより特別任務についてもらう。目的地は鋸平G地点より西方八十五マイル、俗称オバンガ森という森林地帯である。なお、任務詳細であるが、目的地にすむ異形より、風土病の医療物資を調達することである」
 上官はちら、とドンギューこと牛越の様子を伺うが、牛越は牛越で、直立不動のまま控えている。
「なにか質問は」
「あの、伍長どの、イギョーとはなんであるどつか」
「異形とは、異なる形をしたもののコトだ」
「へぇ、はぁ」
「いわば妖精、化け物だ」
「化け物」
「案ずるに値しない。近隣土民の話によれば、妖精異形は体長半尺、性格は温和にして友好的だという。礼を尽くして生薬を調達してくるのだ」
「伍長どの」
「なんだ」
「任務には自分一人でありますどつか」
「危急存亡のときだ。皇軍の一機軸として、百人分の士魂を発揮してこい。そして一万の皇軍を救うのだ」
「伍長どの」
「なんだ鈍牛」
「ヨーセーイギョーは、本当にいるのどつか」
 ドンギューは罵倒とともに蹴飛ばされて、天幕の外に転がり出る。
 和ちゃんも一ツ木も、みんな風土の病で起き上がれない。おかげでドンギューの飯の量が若干増えたのは嬉しかったが、だからといって一人で化け物のところに行かされるのが不思議で、翌日の朝までぼんやりと首を傾げていた。
「きっといつもより一杯食わしてもらったどで、人一倍働げっでお天道様が決めたことどつ」
 毎日一度は途方に暮れた頭で、ドンギューはそう考える。

 駐屯地から出て五つめの日が落ちる。固められた土の路から斜め十五度、茅の原の向こうにドンギューは手を合わせる。陽の落ちる前に一度は地図を開いてみるのだが、目標となる集落や丘のほかには、ただ一本の曲がりくねった道しか描いてないのだった。
「駐屯地までの行軍が輸送車で、百六十マイルで半日どつから、輸送車は人間の百倍の速度どつから……」
 算数は苦手だ。寒寒とした夜風が空腹の胃に差しこんでくる。蒼くなった雲がドンギューを見下ろして、野営の支度をしろという。
「とにかく腹が減ったどつ」
 ドンギューは背嚢から鎌を取り出すと、道端の茅を刈り始める。二畳ほども刈り取って、寝袋をひいてその上へ座りこむ。この野原で火を焚くわけにもいかず、しかたなく干上がったパンを齧る。世界はずっと埃っぽいので、齧った欠片からじゃりじゃりと音がした。水の補給が出来ないのは困り者で、刈った茅の茎をかじってみたが、当然美味いものではなかった。
 月はまだ出ていない。昨日は薄っぺらい、ささくれみたいな月だったから、今日は出ないかもしれない。
「どうせならこうもっと、盆のような月が見たいものどつ」
 頭上の闇には星粒が渦を巻いていて、見ていると果たして、目が回ってくる。
「ああ」
 視線をはずすと茅の茎が並ぶ。黒々とした闇から何か零れ落ちてきそうで、ドンギューははっとする。
「ヨーセーイギョーって、もしかして小人の妖精のことどつか」
 何やら寝つかれなくなって、ふとむくりと起きあがる。どちらを向いても世界は闇に沈み、空想の輪郭はどこまでも平たいままだった。
「上官どのはイギョーなとと仰るからわからなかったが、上官どのは、自分に妖精さんのきのこのお薬をもらって来いとお命じになられたどつか! ヨーセーって、妖精のことでしたでありましたどつか!」
 可笑しいわけでもないのに笑い転げる。転任した折りからも小難しいことばかり並べやがってあの伍長。ヨーセー、妖精って。
 ふう、とため息をついて仰向けになる。星は沢山ありすぎて、それを見たらいいかわからないから嫌いだ、といつも思う。

 森はそれから三日経て見つかった。茅場千里の野の一本道から外れて二マイルほどの所に忽然と現れた。もっとも、地図通りの丘と、地図通りの集落があったのだ。長い行軍のわりには集落でこざっぱりと髯を当たっている。銃の先に花を差し、歌を唄って野を渡る。あそこに見える森が自分を待つ。森の奥深くの妖精には、野の花が珍しがられるだろう。妖精はよほど奥深くにいるに違いない。奥深くにいるからこそ、近くの集落の人にもまったく知られないでひっそりと暮らしているのだ。そうに違いない。そう思わないと、泣けた。
 けもの道を往く。頭上を大小の鳥が飛びまわる。往けども往けども同じ道のようで、ついには森の反対側に出てしまう。何度繰り返しても同じことで、まさにぷいと森を追い出されてしまうのだ。いいかげんにうんざりしてしまって、作戦を練らんと集落に引き返そうかというところでドンギュー、足を滑らせた。名の如くぐるり、どたんと転ぶと背中の銃がだぁん、と打ち出される。ひい、という小さな悲鳴がしてひと呼吸おいてから、ドンギューの頭にごつん、と落ちてきたものがある。見れば、大きさ半尺ほどの羽根の生えた人間で、ドンギューがいくらゆすろうとも、靴下を脱いで嗅がそうともぴくりともしなかった。
 ドンギューは無表情に妖精を傍らに置くと、自分の銃と試す眇めつ較べ見た。銃弾がどこにいったかはわからないけれども、この銃の音のせいで妖精が倒れてしまった、ここまではドンギューでも理解できる。問題はその後だった。
「どうすりゃいいんどつか、上官どの、お天道様、お釈迦様……かあちゃん」
 家においてきたかあちゃんと妖精はよく似ている、というと嘘になるが、かあちゃんは元気だろうか。ちゃんと軍からお金を支給されて、うまくやっているだろうか。あのコッコウのおじさんから卵やメリケン粉をかって、今日も水団を作っているだろうか。そう、軍から、お金。
 ドンギューは「任務完了どつ」と一人呟いて、妖精を薬を入れるはずだったビンに詰めると、森をあとにした。

 帰り道は来た道の倍も時間がかかった。足を傷めたわけではなく、往けども往けども焼け野原で、ようやっと辿りついた駐屯地には杭の跡しか残っていなかった。トラックで半日の道を十日かけて歩き詰める。妖精は目覚めないままで、とうとう上陸した港にまで戻ってしまった。
「ははぁ、その様子だと本隊に置いていかれたんだな」
 敗戦であれば連合軍に逮捕されても当然のところ、町は平然と賑わっていて、バーは「兵隊」が入っても変わった様子一つ見せない。
「もう一週間前にもなるがね、火事が出たんだよ。下手すると駐屯地に放火でも入ったのかも知らんが、ずいぶんな爆発で、一個師団みんな消えた」
 カウンターの向こうの親父は、ドンギューの顔色が変わるのを楽しんでいるようだった。
「まぁ、それが発端だかどうだがわがんねけどよ、停戦ーッ、停戦ーッ、ってオートバイが拡声器ぃ持って走り回ったんだァ。で、幾日もしない間にお前さん方の軍隊は船に乗って帰っちまった。五十人も残っとったかなぁ」
「じ、自分は特別任務のために……」
「停戦だもの。皇軍も別に慌てて帰ることもなかったんだから、置いていかれたんだよ。実際」
 軍に連絡をとろうというマスターを断ってドンギューはバーを出る。
 ちなみに、妖精のビンにはクルミが一杯詰まっていて、いい土産になった。


website: Equinox.


エントリ7  乾坤一石   ごんぱち

 人通りの少ない住宅地内の道路を、トレーニングウェア姿の男が走る。
「はっ、はっ……」
 中年間近だが、上半身は細く引き締まり、下半身は細すぎず太すぎず。使う筋肉のみを残し、贅肉を取り去った肉体だった。
 ただ、人の目を引くのは、何より足先。
 男は。
 石を蹴っていた。
 美しいフォームで、リズミカルに。
 だがそのリズムは、たった一度のイレギュラーバウンドで狂い始める。
 重心は傾き、軽快な走りはいつしか往年の喜劇俳優が如きドタバタとなる。
 そして蹴り損なった石を、思い切り踏んづけ――。
「うわあああっ!」
 身体は空中に投げ出され、そのまま収集前のゴミの山に突っ込んだ。

 ディスプレイ越しの世界各国十七名の委員たちから、溜息が洩れる。
「やはりクーベルタンルールは、現実的ではありませんね、松本助教授」
 背広の白人男が言う。
「いや、競技場の走行データでは、充分実現可能です」
 松本勇の額には、真新しい絆創膏が貼られていた。
「しかしだな」
 他の委員が割り込んで来る。
「上海オリンピックまで後二年しかないぞ」
「石の制御技術も、付け焼き刃では難しいでしょう」
「やはりボールが適当ではないか?」
「何も、自然石にこだわる必要はないと思いますわ」
 と。
「『――私の目の前を横切った子供の握り拳ほどの石。そして後を追って現れた子供の笑顔』」
 上座の老齢の委員が、古びた日記を読み上げる。
 ざわつきはさざ波が引くように収まっていく。
「『狩猟や争いが或いはスポーツの原点かも知れない。だが、こんなにも単純な、無為な、無垢な行為がある。これも、スポーツの峰の一つではあるまいか。いや、理屈も不要だ。マラトンから発した石蹴りの集団が、42.195キロを完走する。考えるだけでワクワクするではないか』」
 委員達は、しんと静まり返った。
「松本助教授のハイ・ストライド走法は、充分実現の可能性がある。皆も、いち早い競技制定に向け、尽力して欲しい」
 老齢の委員は、松本に微笑んだ。
「はい、委員長」
 ――回線が切断された頃を見計らうかのように、研究室のドアがノックされた。
「はい?」
 松本の師、篠崎秀彦教授だった。
「ヒマでヒマで仕方なかったらで良いんだが、ゼミに来て貰えないか。松本センセイ」
「はい、い、今すぐ」
「おやおや、これは驚いた。君は私の言う事を聞かないものだと思っていたよ」

「――それで、仕事は大丈夫なの?」
 肉を七輪の焼き網にのせながら、氷室苗香が尋ねる。
「あ、ああ。順調だよ。本当」
 紙の前掛けを付け直しながら、松本は曖昧に応える。
「ふうん――すいませーん、タン塩追加!」
 通りがかりの店員に注文してから、苗香はビールの大ジョッキを傾ける。
「じゃ、私といるのが楽しくないんだ?」
「え? な、なんで?」
「それが、もうすぐ結婚しようかって相手とデートしてる時の顔?」
 松本は思わず顔を触る。
「仕事、上手く行ってないんでしょ?」
「まあ……実績が上がってないから」
「篠崎先生は何て?」
「皮肉しか言わないよ。先生は、私が委員になった時もいい顔をしなかったし、それを押し切って委員になったんだからなおさらさ。でも、どうにか――」
「……なるほど、先生は先見の明があったんだ」
 苗香は焼けた肉をまとめて頬張る。
「クーベルタンの手記が見つかって、競技化委員会が発足して三年も経つのに、未だに何の成果もないんだから」
「苗香?」
「デートも満足に出来ない忙しさなのに、将来性もないとは、お笑いね」
 まくし立てる訳ではない。
 だが、切れ目なく話し続ける苗香に、松本は言い返す事が出来ない。
「あたしは、ちゃんとした収入のある主人を持って、頼れる子供を育てて、幸せで堅実な家庭を築きたいの。国大教授夫人ならその最低の線は守れると思ったけど、研究室での立場まで悪くなるなんてね」
 話しながら、苗香は器用に白菜漬けを食べる。
「現実に足が付いてない夢は、ただの妄想よ。あたしはあなたの妄想と一緒に地獄巡りする気はないの」
 松本が止めようとする間もなく、苗香はビールを飲み干し、席を立つ。
「ご馳走様。さよなら」
「苗香、おい!」
「――追って来たら、交番に飛び込むわよ」
 ぼそりと苗香は言って、店から出て行った。
「タン塩お待ち!」
 わざとらしい威勢の良さで、店員がタン塩の皿を置いた。

「……ぅぷ」
 夜道を松本はフラフラと歩く。
 無理矢理詰め込んだタン塩と、ビールと、焼酎が、胃の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。
「何だ、ってんだ」
 ふらつきながら、商店のシャッターにぶつかる。
「惰性で続けた研究、証明する価値もないクズデータばかり集めさせて、毒にも薬にもならねえ論文書かせて。それで師匠ヅラか」
 空き缶を蹴る。
 まだ中身の残っていた空き缶は、松本の鋭すぎる蹴りを受け、上半分がちぎれ飛ぶ。
「ああそうさ、オレが委員会に入ったのは、手前ぇを見限ったからだ。お察しの通りってんだ」
 今度は下半分を蹴る。
 缶は、跳んでいって、歩道の上に軟着陸する。残っていた中身は、ほとんどこぼれなかった。
「オレの仕事の先行きが怪しくなったから別れるだぁ?」
 ちぎれた下半分の缶まで歩いて、また蹴飛ばす。
「やっと面白れえと思えた仕事を捨られるか、糞っ」
 缶は歩道を滑り、点字ブロックに引っかかってひっくり返った。
 間髪入れず、松本は缶との間合いを詰める。
「ほーーーーーむらんっ!」
 走るスピードを乗せ、サッカーのシュートよろしく思い切り蹴飛ばす。
 缶は軽い音を立て、回転しつつ遠くへ跳んでいく。
「ほらもう一発!」
 松本は、また思い切り蹴る。
 跳ぶ。
 蹴る。
 跳ぶ。
 蹴る。
「――!」
 松本は、ふと立ち止まった。
 ずうっと遠くで缶が落ちる。
 と。
「うっ、おげええええええっ、うえ、えげおおおぶぁっ!」
 胃の中の物を、電柱の陰に吐き出す。
「うおえっ。はぁ……ふぅ」
 唾を吐く。
「そうか」
 もう一度唾を吐く。
「そうかそうか」
 手の甲で、ぐいっと口元を拭う。
「ふふ、はは、ふはふははははは!」
 それからしばらくの間、松本は喜びに笑い転げた。

「スーパー・ハイ・ストライド……」
 委員長が呟く。
「はい。石を制御云々はさておき、出来るだけ遠方へ飛ばす走法です」
 試走映像を終了させ、松本はカメラを見つめて大きく頷く。
「しかし、これは、あまりに大雑把過ぎる」
 背広の白人男が眉をひそめる。
「それが、解決のカギです」
 松本はニヤッと笑う。
「正確な蹴り方と安定した走りは、スピードの対価としてランナーに極度の緊張を強います。人間、肉体と精神なら、精神の疲労の方が耐え難いものです」
「しかし」
 疑り深げな顔をする白人男をよそに、松本は続ける。
「十メートルで一メートルの誤差は困難だが、五〇メートルで五メートルなら、もう一歩多く走れば良い。この誤差は、むしろ精神の緊張を和らげてくれます」
「だが足の負担も増えそうだし、他の競技者に当たる可能性も……」
「細かなルールは皆で詰めていけば良い。完走出来た、この事実でIOCの他の委員も、陸上協会も説得して見せよう」
 委員長が微笑んで、クーベルタンの手記を閉じた。
「松本助教授、君がいてくれて良かった」

 二〇三二年、上海オリンピックに現れた新競技「長距離石蹴り」は、以降、陸上競技の定番となる。
 競技方法は、近代オリンピックの父、クーベルタンの手記に忠実に従ったと言われている。




エントリ8  比翼の鳥とならん   中川きよみ

 今日は田丸先生の娘さんのお誕生日だそうで、僕は救急外来の当直を交替した。風邪気味だったので正直キツいなとは思ったものの、前々から頼まれていたので仕方がなかった。それに5歳になる娘さんは本当に可愛らしい子なのだ。
 うちは古い市民病院で、近くに大きな私立病院が2つもあるせいか救急外来とは言っても普段は割と閑散としている。なのに、こんな日に限ってややこしい重症患者が搬送されてきた。
 山本一力、76歳。搬送されてきたのは深夜だった。
 山本さんは独居老人で、自宅アパートで倒れているのをたまたま訪れた遠戚の男性が発見したらしい。
 既に心肺停止状態で、処置は施したものの甲斐なく明け方に亡くなった。

 僕の妻は佐和という。主婦作家としてちょっとだけ売れたミステリー作家で、僕は彼女の2番目の夫だった。
 悪妻、と言うよりも、けったいな妻だった。天啓が降りるのを待つ、とか言って、猛烈な台風の最中にベランダで天を仰いだまま夜を明かしたかと思えば、興に乗ればろくすっぽ眠ることさえなく書き続け、その間は一切の家事が滞った。家事に従事している時でも、凝り性らしく本格的なパエリアを作り上げてよく冷えた美味しいワインまで揃えながら、食卓には洗う前か後かよくわからない洗濯物が山積みなので皿を置くスペース分だけかき分ける、といった調子だった。おまけに浮気だって分かっているだけでも3回された。
 それでも、僕は心から妻を愛している。妻といることは最高に楽しかった。そう、まるで果てしないジェットコースターのような楽しさだ。暴走ジェットコースターだが僕を振り落とすことなく、何より僕を必要としてくれている。僕はそれだけで満足なのだ。
「余ってるの。捨てるのももったいないから、飲む?」
 僕が見かねて台所の膨大な量の洗い物をしたり洗濯機を回したりすると、妻は少しだけ照れたような表情で買ってきたばかりのユンケルを差し出してくれた。僕は体質的にこの手のドリンクを飲むと下痢に見舞われるのだけれど、いつもこの上なく美味いと感じて飲み干した。
 妻の今わの際のセリフが、これまたすごかった。
 気付いて病院に行った頃にはもう手遅れの症状で、闘病生活はわずか3ヶ月ほどだった。夜逃げ同然に退院してきて、最期は自宅のベッドで迎えた。最期ということは、僕にも妻自身にもよく分かっていた。いつになく穏やかな表情でこう言い放った。
「あなたが死ぬ時には、私が絶対に迎えに戻ってくるから、忘れずに待っていてよ。いい? 約束よ!」
 忘れずに待っていろと言われても、一体どうすればよいのだろうかと一瞬考え込んだ間に、最愛の妻は息を引き取った。

 朝の病院は慌ただしい。当直の引継の後、警察の係官とも話をしたので、勤務が明けたのはすっかり日も高くなった頃だった。
 山本さんは事件性のない単なる病死ではあるけれど、警察に連絡しなくてはならないのだ。警察官と僕は無意味な手間に少し苦笑しつつも、お互いに規定通りの内容を確認しあった。山本さんには弟がいるらしく、遺体は弟が午後引き取りに来ることになっていた。
 僕は医師になってもう4年になるのに、いまだに人が死ぬことに慣れていない。いつもなんとかなったんじゃないか、と悔やんでしまう。でも、今朝の山本さんの死は意外なくらいショックがなかった。老衰にはまだ早い年齢だけれど、何だか全体に自然死の穏やかな雰囲気があったのだ。
 風邪で熱が出ているようだった。病院の駐車場脇まで来て、ふと家に薬はあっただろうか、戻って貰ってから帰った方が良いだろうか、と立ち止まった時、ふわりと人魂のような光を見た。遺体安置室のすぐ外だった。病院なんかでは意外によくあることだ。山本さんのご冥福を祈って、僕はそのまま帰宅した。

 迎えに来てくれる、ああ、なんて可愛い女性だろう。20年経ったけれど、僕はちっとも変わらずに惹かれ続けている。
 僕はちゃんと忘れずに待っているのに、妻の方が忘れてしまったのだろうか、まだ現れない。

 長年電話すらしたことのない弟が現れて、喪主としてごく簡単な葬儀を挙げてくれていた。何とも不思議な感じがする。長年僕の名義になったままの郷里の土地があって、そのことで連絡してきた親戚の宮部さんが運悪く僕が倒れた場に居合わせたらしい。ずいぶん迷惑もかけたので、強欲な弟だが僕の遺産の一部でも宮部さんに渡してくれると良いのだがと念じていた。いずれにせよ、もう僕にはお金も土地も全然関係ないことだ。
「山本一力さん、そろそろ行きましょう。」
 担当の天使が僕の横で何度目かの言葉を口にしている。でも僕には妻との約束があるのだ。
 彼女が約束を反故にすることは、約束を遵守することの何倍も確率が高いのだけれど、もしただ単にいつもの大胆な遅刻だったとすれば、遙々彼岸から僕を迎えに来てくれるというのにすっぽかして先に行くのは気の毒だ。
 葬儀は終わり、煙突から僕を焼く煙が立ち上っている。天使はしきりと急かす。残業になるとかなんとかボヤいてもいる。
 見れば天使は働き盛りといった若さで、決して暇を持て余している風ではない。僕にばかり付き合わせるのも申し訳なかった。僕は迷ったけれど、とうとう天使にこう告げた。
「案内して頂かなくても迎えの者が来る約束なので、僕はもうしばらくここで待っています。先に戻って下さい。」
 天使は目を丸くして驚いた。
「迎えの者が来る約束ならばとっくに来ている筈でしょう? このまま初七日が過ぎても現れなかったらあなたは渡ることができずに地縛霊になってしまうのですよ。あなたの迎えの者だって、ここまで遅れたならば来てみてあなたがいなくとも不義理と思うわけがない。また戻るだけです。それだけのことに、地縛霊になる危険を犯すなんて無謀すぎはしないでしょうか。私は承伏できません。一緒に行きましょう。」
 でも僕は、大丈夫だ、と言うしかなかった。もしそうなってしまったら、それはその時だ。致し方ないと諦めて地縛霊にでもなるだろう。
「たとえ渡ることができなくなっても、ぎりぎりまで僕は待ちたいのです。」
 天使もずいぶんと食い下がったが、結局僕は残ることに決めた。後ろ髪引かれる様子で去る天使を、さすがにいくらかの心細さを感じつつ見送った。

 法要はとても心地よかったが、僕の初七日も終わろうとしていた。
 これで現れなかったら地縛霊だ。地縛霊になることに恐怖は感じていたけれど、妻がついに現れなかったとしてもきっと僕は後悔しないだろう。自ら好きでこうしたのだから。
 どこに憑いてしまうのだろうか、仕方がないなあと、良く晴れた秋晴れの夕空を見上げた。キラリと、何かが太陽に反射したなと思ったそれこそが、待ちわびた妻だった。鼻唄混じりにひらりと回ると、たちまち妻の姿になった。
「佐和さん……!」
「ずいぶん老けたわね。すっかり爺さんになってるんだから、もう少しで気付かないところだったわよ。」
 感動で言葉もない僕を後目に、遅れたことの詫びを口にするわけもなく開口一番こう言った。ああ、何も変わらない、僕の妻だ!
「20年も一人でのんびり生き延びちゃって、私、寂しかったわよ。」
 それは嘘だ、と心の中で即座に否定したが、嬉しかった。
「馬鹿正直に待ってこの人は……さあ、行きましょう。」

 色合いの異なる穏やかな2つの光が溶け合い、やがて消えた。





エントリ9  幽霊女   のぼりん

 学校の近くのコンビニで、友人の森と待ち合わせした。すでに深夜に近い時間である。
 いつもは約束にルーズな男だったが、思ったよりも早くやってきた。きっと僕の口調にただならぬものを感じたのだろう。まったく情けないことに、僕はその時、かなり動転していたのである。
「こんな時間に電話で呼び出すとはいったいどういうわけだよ」
 森の開口一番の物言いは、すごく苛ついているように聞こえた。当然かもしれない。
 僕は黙って、森の肩をつき押しながら歩き出した。まず、自分の気持の方を落ち着かせることが大切だとも思っていた。
「な、なんだ。どこへ行くんだ?説明しろよ」
「実はな……」
 そういいながら、僕は星一つ見えない曇天の空を見上げた。最初にどう話していいかわからなかったのである。あまり大袈裟に森の好奇心を煽るようなこともしたくなかった。
「中学の時の同級生で、忌野優子という女の子がいたのを覚えているか?」
「ああ、あの影の薄い女かあ」
 森はすぐ思い出したようである。
「今さっき、その優子から電話があって、これから会いたいと言ってきた」
「ふーん」
と曖昧な返事を返した後、森は叫ぶように甲高い声を出した。
「ま、待てよ。優子は、女子高へ入ったその春に、陰湿ないじめが原因で首吊り自殺をしたはずだ。俺たちの高校でも話題になって、知らない者はいないぞ」
 話の核心はそこである。僕もその噂を知っている。
 だから、森を呼んだのだ。しかも、会いたいという場所が、昼間でもひと気のない、霊園横の公園である。こんな真夜中に。
「おいおい、勘弁してくれよ、そんなことに俺を巻き込むのは」
「まさか、びびっているのか、お前」
「お前がびびっているから、俺を呼んだんだろ」
 そこを突かれると、確かに次の言葉が出ない。
「しかし、まさか本物の幽霊だなんてことはないだろ。きっと誰かの悪戯か、かん違いだろうな。まあいいや。どうせ今夜は宿題もないし、面白いテレビもない」
 そぞろ好奇心が涌いてきたのかも知れない。森という男、もともと物事の感じ方が、普通より少しずれている男だった。
「わかったよ、ついて行ってやるよ」
 そう言って、すぐにいつもの間抜けな笑顔になった。こういうときは、バカの方が役に立つもんだ。

 夜の公園は深閑として不気味である。
 時おり、風に揺れるブランコの軋んだ音が聞こえてきて、その度に僕は震え上がった。
 散歩道を照らす外灯は薄暗すぎて、あまりにも頼りなげである。道の周りを囲む薮の外は、奥の見えない暗闇だった。霊園の方向がどっちだったか、それもよくわからない。
 しばらくその一本道を公園の奥の方に向かって進むと、何本目かの外灯の下に人影が見えてきた。
 きっと、優子に違いない。
 もっとも、それが本物かどうかの確認をこれからしなければならないのである。しかし、こんなところで、一人で佇んでいる神経こそ尋常とはいえないのではないか。
 横を見ると、森も同じ気持だったに違いない。自然に目と目が合った。
「どうやら本当にお前を待っているようだ。俺がここにいたんじゃまずいだろう」
「おい、僕をひとりにするのか」
「俺お邪魔虫」
 現金な奴だ。
「そりゃないだろ、お前だけが頼りなんだぞ」
「まあ、行ってみろよ。ここでしっかり見ていてやるから」
 二人がそう言い合っているうちに、相手の方がこちらに気づいたようだった。
 ――と、その刹那……。
 すぐ側に黒い塊が伸び上がるように現れたのだ。悲鳴をあげる暇もなかった。
「来てくれたのね」
 と、女は言った。
 まるで、瞬間移動だった。空間を削り取ったのか、と思うほど間近に彼女の顔があった。
 が、こちらを振り仰いだ口が耳元まで裂けている!
 僕は我慢できず金切り声を上げた。自分のその声に驚いて、なおさら恐怖の感情が爆発した。
 目の前が暗転して気を失いかけた僕の背中を、そのとき森が後ろからしっかりと支えてくれたようである。ひざから力が抜けて崩れてしまうところを、そこでかろうじて押し止めることができた。
「何を驚いているんだ。バカ」
 森の声は、どこまでも現実的で迷いがなかった。
 女は困ったような顔をしている。しかも、その表情が奇妙に歪んでいた。
 口紅が異様にはみ出しているのだ。口が裂けていたわけではない。
「ごめんなさい。脅かすつもりはなかったのよ」
 女はおろおろしながら言った。その声と顔は、中学の頃知っていた忌野優子に間違いない。
「お前、なんでこいつをこんな所に呼び出したんだ」
 森が声を荒げて詰問した。優玲子は泣きそうになった。
「――好きだったから……中学のときから……」
「それになんだ、その口紅は?」
「初めて口紅をつけたからきっと変になったのよ。こんなにびっくりさせるとは思わなかったわ」
 森はため息をついた。
「お前……」
 それだけ言って後は、独り言のように呟いた。
「まあ、噂は噂に過ぎないということだろうな。ちゃんとここに本人がいるんだからな」
「何を疑っているの」
 もちろん僕たちは、彼女のことを幽霊だ、とホンキで疑っていたのである。しかし、そんな馬鹿げたことを、今となって本人の前で口に出せるはずはない。
「別になんでもないよ。どうやら、俺はお邪魔のようだから帰るよ」
 僕は森を振り返った。森はにこにこ笑って僕の肩をどんと突き押した。
「あああ、お安くないよな。まあ、仲良くやりなよ」
 森は、半分あきれたような口調でそう言いながら、あっという間に後ろ姿になった。

 真夜中のデートというのも変なものである。
 しかも、唐突すぎる。
 森は早々と気を利かして帰ってしまった。今ここで、彼女のことだけを思い考えるわけにはいかないような気もする。だが、友人に悪いことをした、という気持はどうしても後回しになる。こういう場合、結局、友情よりも女の子の方が優先するものなのである。
 もちろん、女の子から告白を受けるなんて始めてのこと。
 舞い上がった僕には、すでに薄暗い道も無気味な木々の影も、ロマンチックな愛の演出に思えている。人の心とは不思議なものだ。いつの間にか二人は、さらにひと気のない方へ、暗い方へと歩いていた。
「いつまでも、ふたりでこうして歩いていたいわ」
「君がそう思うなら、僕はかまわないさ」
 その変テコな口紅さえきれいにふき取れば、優子の顔は美人の分類に入るに違いない。いつも俯いている自信のない暗い表情が、彼女の評価を必要以上に低くしているだけなのである。
「それにしても、君の口紅には驚いたよ」
 お互いに話題を探すのに苦労している。それが、初デートの難しさでもある。結局、どうでもいいようなこと、取りとめもないことしか尋ねられない。
 優子は、はにかみながら答えた。
「ごめんね、せっかくの日だからと思って、お化粧をしたんだけど」
 僕に会うために、そこまで気を使ってくれたと思うと、愛しくてしかたない。初めての化粧だから、はっきりいってヘタクソなのは仕方ないじゃないか。
「別にそんなこと気にしないよ」
「だって……どうしても自分の顔が鏡に映らなくって……」

 やっぱお前……。
 なんとも僕は、もはや悲鳴すらあげることができない暗いところまで来てしまっている。
 しかし、森の役たたずめ。今度は、俺がお前のところに、化けて出てやるぞ!