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第5回3000字小説バトル
Entry15

紅い花

作者 : テルヒロ
Website : http://www02.u-page.so-net.ne.jp/kb3/shine/
文字数 : 2890
 長く肺の病を患い、寝たきりの妻のために、花の種を買って帰っ
た。近ごろ仕事が忙しいことなどもあってなかなかゆっくりかまっ
てやれない罪滅ぼしに、と思った。陽のあたりの悪い、あの湿っぽ
い四畳半に咲くだろうその花が、せめて妻の気分を少しでも晴らす
ことができるなら、と考えた。花屋の主人の話では、小さくてきれ
いな紅い花が咲くらしい。私と同じく、摩耗しきったような表情を
浮かべる工場労働者で溢れた電車にゆられながら、花を眺めて嬉し
そうに微笑む妻の顔を、思い浮かべた。

 はじめは花を買ってやるはずだった。しかし、この工場街では、
生花は極めて高価な買い物なのだと、その店先で思い知らされた。
とても一介の下級工場技術者に買える代物ではない。しかたなしに
種の入った小さな紙袋を買った。それでもずいぶん値の張る買い物
だった。しかし、考えようによってはこれでよかったのかもしれな
い。後は枯れていくだけの花より、育っていく楽しみを与えてくれ
るその種のほうが、今の妻にはいいように思えた。

 第十一重化学区と特別自治工場府を結ぶ工場間線の高架下にある、
背の低い、義足の店主のいる雑貨屋で買った合成肥料と人工土壌の
入った袋を抱え、帰途についた。重化学工場から伸びるパイプライ
ンの影にひっそり並ぶ、煤汚れた借りアパートの階段で、隣の部屋
の住人である李さんと出会った。李さんはいつものように階段の手
すりにもたれ、合成金属でつくられた夥しい管のわずかな隙間から
のぞく、複雑に切り取られた夜空を見上げていた。重化学区と工場
府を結ぶ無数のパイプラインは、この工場街という町を巨大な生き
物と見立てるなら、その大動脈を連想させる。ところどころに「有
害質」と赤いペンキで殴り書きされた管の中を、昼夜を問わず行き
来する膨大な物質の質量がこのあたりの重力に干渉し、常に胃がチ
リチリ痛んだ。大小様々な鉄塔が天蓋に向かってそびえたち、星々
の替わりに警告灯が激しく瞬いている。地面の所々から噴き上がる
蒸気による濃霧が辺りにたちこめ、経水のような臭いが鼻腔にはり
ついた。

 何かお土産ですかと聞かれたので花の種を買ってきましたと答え
たら、花はいいです、私は花を見るとなんだかこの街にやって来る
前の、ずいぶんと昔のことが思い出せそうな気がするのです、花が
咲く時分まで育ったらぜひ見せてください、と李さんは人の良さそ
うな笑顔で言って、また暗い空を見上げた。

 妻はこの買い物を私の想像以上に喜んでくれた。私が台所で夕食
の用意をしている間、布団の中から、水はやりすぎてはいけない、
肥料は控えめにしたほうがいい、人工土壌じゃ綺麗な色の花は咲か
ない、少しでも本当の土があったらなぁと夢中になってしゃべって
いた。私も妻の調子がいいのだと思い嬉しくなった。私はやかんを
コンロにかけると、妻の枕元に静かに座り、夏になればきれいな紅
い花が咲く、それまでには元気になればいいな、と励ました。妻は
その言葉を聞いて悲しそうに微笑むと、頷いて、せめて少しでも本
物の土があればいいのに、とどこか遠くを見るような表情で、何度
も繰り返していた。

 遅い夕食をとり、片付けを済まし、風呂の用意をして食卓で妻と
一緒に温かい珈琲を飲んだ。すぐに妻は少し疲れたと言って布団に
戻ってしまった。少々興奮しすぎてしまったようだ。やがてすうす
うと穏やかな寝息をたてるのが聞こえた。私は昼間、花の種を植え
た鉢を置く場所はこの部屋のベランダより、日当たりのいい李さん
の部屋のベランダのほうがいいのではないかと考え、明日にでも話
してみようと思った。

 ちらちらと瞬く台所の薄暗い電灯のせいか、うとうとと微睡んで
いると、いつのまにやら寝入ってしまったらしい。見も知らぬ土地
の夢をみた。なぜかしら一抹の懐かしさをかんじる夢だった。隣に
いまよりいくぶんか若い、妻がいた。そこで私たちは、小さな土手
を歩いていた。まだ冬の名残の残る、冷たい風の吹く夜だった。空
気は凍りついたように澄んでいて、あたりの静寂は耳の奥に痛みを
感じるほどだ。背の高い葦が足元のすぐそこまで生えていて、土手
の小道を挟み、川面の方へと続いている。葦は風に吹かれてざあざ
あ靡いていて、まるで黒い海原に立っているようだ。私も妻も、終
始無言だった。妻は俯いたまま、まるで子供のように足元の小石を
蹴りながら歩いていた。音の立てず、静かに流れる河は、私たちの
前に、まっすぐにどこまでも続いている。その黒い帯の先に大きな
明るい月が懸っていて、その青白い姿を川面に優しく浮かべている。

 翌朝、目覚めてみると妻が死んでいた。気持ちよさそうに寝てい
るので起こさないように静かに朝食をとり、仕事に出かけてくるよ、
と呼びかけたとき、ああ、死んでしまったのだ、と不意に気がつい
た。眠っているような死に顔だった。顔色などは生きているときよ
りいいくらいで、頬はうっすらと朱色に染まり、なにか愉しい夢を
みているようであった。不思議と悲しみはなかった。もう先が長く
なく、とうてい夏までは生きていられなかった妻にしてみれば一番
良いときに死んだように思えた。

 その日、一日中、私は妻の横に座り、何をすることもなしに時間
を過ごした。思い出したように鏡台から櫛を持ってきて、妻の髪を
何度も丁寧に伽ぎ、濡れたタオルで身体を拭いてやった。死んだ妻
の身体は、子供のようにほっそりとして、乳の甘い香がした。する
ことがなくなると、私は妻の隣で、ただただ座り続けた。暗い四畳
半の部屋で、妻をその眠りから起こさないように、まるで影のよう
に座り続けた。

  しだいに弱まる琥珀色の西日が夜を告げると、私は花の種のこと
を思い出した。白い小さな紙に包んだ種をずぼんのポケットに押し
込み、灰色の外套を羽織ると街に出た。この種は、薄暗いこの部屋
で育てるより、陽のあたる場所に蒔くべきだという気がしたからだ。
できれば人工土壌ではなく、本当の土のある場所がいい。私は場末
の喧騒を抜け、区間線の橋架下をくぐり、ジリジリと点滅を繰り返
す街灯の薄暗い明かりを頼りにどこかよい場所、掘り返されたり、
上からコンクリートを流し込まれたり、汚水にまみれたりしない場
所を探しながら時のたつのも忘れて歩き続けた。螺旋を描く赤錆び
た長い階段を高い音を立てて上り、貯水用のタンクにかかる鉄橋を
越え、入り組んだ工場街の建物と建物の境を彷徨い続ける――爆発
する新星のごとく、天蓋を貫かんと生える無数の鉄塔、腐肉に群が
る蛆虫のように蠢く街の光、吹き上がる黒煙、脊髄を掻き乱す金属
の摩滅する声、下腹部に鈍い痛みを残す低い機械音――求める土は
なかなか見つからなかった。街を覆う荒々しい生命の息遣いはやが
て遠くなり、聞こえるのは、決壊した河川のようにごうごうと轟く、
私の苦しげな鼓動だけだった。

 頬から首筋に流れ落ちた汗が夜風に吹かれひんやりとした。見上
げればいつのまにか月が出ている。巨大な給水塔の下で息を切らせ
た私は立ち止まり、煙草に火をつけて煙をゆっくり吐き出した。誰
にも知られずひっそりと月下に咲く、紅い花を想った。