「君がいないと、終業式だね。」
そう言ったか言わないか、蜂須賀君は走り出した。夕飯に定食屋へ向かう道のことだ。
大学3年生の春休み、私は今までのぐうたらな生活から一転して就職戦線真っ只中にいた。毎日朝からリクルートスーツに身を包み、縦横無尽に地下鉄を乗り回しては都内を動き回る日々。私は疲れていた。
一方、蜂須賀という名のこの男。彼も同じく3年だが、理系大学院進学ゆえに毎日の春休みをのほほんと満喫している。彼とは私の家でほぼ同棲状態にあるが、私がスーツとメイクをビシッと決めたころに起き、日が暮れてスーツとメイクをよれよれにさせて帰ってきた頃には、かなりの確率で昼寝にいそしんでいる。そんな男だ。
付き合い始めたのはおととしの秋。
無口であまり動かない、大仏様のような人だと思った。そんな大仏様から突然に愛の告白を受けたものだから、自分が告白されたことよりも、大仏様に恋愛感情があったことに驚いた。後にそれを蜂須賀君に言うと、
「そうかな。」
たったそれだけの返事が返ってきた。
蜂須賀君が初めて手をつないでくれたのは、その直後のことだ。
そして、今もその手は私と繋がっている。はずだったが、点滅青信号を渡ろうとダッシュしたおかげで外されてしまった。
「今の、どういう意味?」
信号を渡りきって、少し息が切れる。
「今言ったよね。何、終業式って。ねえ。」
蜂須賀君は私に返事をするでもなく、いつもの定食屋に入っていた。お互いの家のちょうど中間の位置にあるその店は二人のお気に入りだが、彼にとっては少々量が少なく、私には多いので、お肉は決まって彼にいくらかあげる。お肉のやりとりは、私達の間では暗黙の了解となっていた。
「メンチカツ定食。」
私がコートとスーツのジャケットを脱ぎ席につく間に、彼は手早く注文を済ませる。
この定食屋で一緒に食べようと言ったのは私だ。今日は朝から就職セミナーをハシゴして、夕飯を彼と待ち合わせした。
朝と夕のラッシュに揉まれて、疲れたサラリーマンと同じ顔をした私がいる。明日も、明後日も、真っ黒のスケジュール帳を見るだけでくたくただ。私が慣れないパンプスで靴ずれを起こした足をひきずっている時、このメンチカツ男はどうせベッドでぬくぬくしてたんだろう。そう思ったら急に腹が立った。
「チーズカツ定食ください。」
言った後で蜂須賀君をちらりと見る。ぼーっとしている。
彼はチーズが嫌いだ。そのおかげでピザもチーズケーキも食べられない。ただ『チーズかまぼこ』だけは、むしろ好物だと言わんばかりに食べていたのを覚えている。
それはいいとして、そう、私はとにかく疲れていた。だから、彼の嫌いなチーズカツをあえて選んだ。
もう一度蜂須賀君を見ると、彼はこっちを見ていた。
「今日、何してたの?お昼ごはんちゃんとたべた?」
私が訊く。それから、蜂須賀君は湯のみを手に取る。飲む。もう一口飲む。息を吐く。
「食べたよ。」
相変わらず、質問から答えに至る時間が長い。どうしてこう、さくっと答えられないんだ。そんな考えを抱いてまた、いらいらした気持ちがつのる。
蜂須賀君の独特の「間」。いつもなら気にならないのに、なぜだろう。どうして今日はこんなに嫌な気持ちを抱いてしまうんだろう。黒くて堅いリクルートスーツが、私を変にさせる。
「あと、デュージャン・ボグダノヴィチのCD聴いてた。」
誰だよそいつ。
そうこうしているうちに、美味しそうなメンチカツとチーズカツがテーブルに届いた。
ほかほか、している。
私と蜂須賀君は何を話すでもなくそれを食べた。いつも「会話」なんてほとんど無く、私が一方的に喋って、彼は相づちを打ったり打たなかったりする。でも、今日は私が黙っていたから、時々彼がデュージャンナントカについて喋った。あまりにも言葉が少なすぎて、結局そいつが何者なのかわからなかった。
お会計を済ませて店をでる。私のお皿には、チーズカツが2切れ残っていた。
店の外は、2月下旬の冷たい夜気で満たされていた。
「寒いね。でもね、ビルの間の風の冷たさはもっとひどいんだよ。」
私が言う。蜂須賀君はマフラーを鞄から取り出し、首に巻く。結び目に失敗して巻き直す。
「行くよ。」
それだけ言って、蜂須賀君は私の手をとり、私の家の方向へ歩き出した。
「家に帰ったら履歴書書かなきゃ。シャツもアイロンかけないと。あ、ストッキング。コンビニ寄っていい?」
蜂須賀君は無言だったが、ちゃんと私の手を引いてコンビニに入っていった。私はストッキングを、蜂須賀君は梅おにぎりを買った。そのおにぎりは、ちょうど2切れ分のチーズカツくらいの大きさだった。
コンビニを出て、また歩き出す。人気の少ない道路に二つの影が映る。
普段着の蜂須賀君と、着慣れないスーツの私。普段のままの蜂須賀君に、どこかおかしい私。
「いいよね、蜂須賀君は。理系大学院ってすごく就職いいんでしょ?文系は大変なんだよ。蜂須賀君みたいに毎日ぐうたらしてられないんだから。」
いけない、と思った。、今の苛立ちを蜂須賀君にぶつけたって、どうにもならないことくらい分かってる。
「君はキリギリスだからね。仕方ないよ。」
意味が分からない。苛立ちが止まらない。
「私の家に来てもいいけど、私忙しいから遊んであげられないよ。ごろごろされても邪魔だし、帰ってデュージャンナントカでも聴いてたほうがいいんじゃない?」
下を向いたまま、まくしたてた。
蜂須賀君は何も言わなかった。ただ、10歩ほど歩いてから、止まった。
「帰るね。」
そう言って、つないだ手に目をやった。私はいつの間にか、蜂須賀君の手を強く握り締めていた。彼がもう片方の手でそれを解いた。
「ごめん。」
つぶやいて、彼はくるりと向きを変えて行ってしまった。
私は、そのまま自分の家に歩き出した。
私が悪かったのだろうか。私の就職活動に余裕がないことで蜂須賀君に苛立っても、無意味だ。でも、隣でのんびりされるといい気はしないっていうのも一理あるんじゃないか。
キリギリスってなんだったんだ?アリとキリギリス?そう言えば蜂須賀君は日頃、授業のレポートでよく徹夜していた。分厚い本を眺めては妙な数式を書いて、しかめっ面をしていたことも多い。私は、将来を考えることもなく、ただ毎日を楽しく遊んで過ごしていた。だから、キリギリス?
「あの野郎。」
言葉が少なすぎるから、よく考えないと分からないんだ。なるほど、キリギリスか。なかなか的を射ている。少し、笑った。
ふふ、と声を出したところで、何か前方がもの足りない気がした。笑っても、それが跳ね返ってくるいつもの背中が無かったからだ。喋らなくても笑わなくても、ただいつも近くにいることが当たり前だった大仏様が、いない。
「あ。」
そうか。それだ。
終業式。終業式は授業がないからランドセルを持って行かないんだ。何かちょっと不安で、背中がスカスカして物足りない感覚。
いつも前を歩く蜂須賀君がいないと、私は前がスカスカする。蜂須賀君は私がいないと、背中がスカスカするんだ。
まったく、どうしてもっと言葉を増やして説明しない?この分じゃ、今までにも私が理解を逃した愛の言葉があるかもしれない。なんて面倒な男なんだろう。
勢い良く180度回転して、ダッシュ。全力で走れば、蜂須賀君が家に着く前に追いつくかもしれない。
だけど、途中でコンビニに寄ろう。明日の履歴書用紙と、「チーズかまぼこ」を買えば、きっといつもの私に戻れるはずだ。