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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第51回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 3月)
文字数
1
橘内 潤
2883
2
るるるぶ☆どっぐちゃん
2849
3
伊勢 湊
3000
4
吉備国王
2996
5
ごんぱち
3000
6
榎生 東
3000
7
中川きよみ
3000
8
村松 木耳
3057
9
小笠原寿夫
2958
10
のぼりん
2412
11
めだか
3000

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カナリア
橘内 潤

 鳥籠館に客がくる。
 篭で飼われた小鳥が、その客を出迎える。
「ようこそいらっしゃいました。私は本日、お客さまのお相手を勤めさせていただきます、カナリアと申します」
 深々と頭をさげる小鳥。
 まだ年若い――といっても二十代後半なのは確実であり、学生などではない。鳥籠館を訪れる客の中では若いほうだ、という意味――その客は、鷹揚にこたえる。
「ではカナリア。早く部屋へ案内してくれ。疲れているんだ、とても」
「かしこまりました」
 ふたりは客室へと向かう。
 天井が高く広々とした客室は、控えめだが高価な調度に飾られている。なによりも、真白なシーツの敷かれたベッドが目につく。
 客はベッドの縁に腰かける。
「さあカナリア――はやく歌っておくれ」
「かしこまりました」
 小鳥は一礼すると客の膝の上にちょこんと横向きに腰かけて、か細い喉を歌声に震わせる。
 歌の歌詞は英語でも日本語でもない言葉で、意味はよく分からない。歌声は高く澄んでいて、まるでボヘミアンガラスの杯に注がれた清水のよう。歌詞の意味はわからなくとも、歌声をきいているだけでとても心地好かった。
 小鳥は客人の首に両腕をまわして、ささやくような歌声を耳孔へと注ぐ――やわらかく、かすれ声のようにはっきり澄んだ歌声に、若い客人はうっとりと目を閉じている。
 やがて、小鳥は歌い終える。
「……ご満足いただけましたか、お客さま」
「ああ、いい歌だった」
「それでは、つぎは私の身体を所望なさいますか?」
「いや、いい。ぼくは不能者だ――いや、ちょっと違う。ぼくは歌にしか欲情しないんだ」
「まあ……」
 小鳥は目を丸くする。
「じゃあ、いま、私が歌っているのをきいて――」
 客人の足の付根にそっと片手をのばすが、そこはもう何の反応も示していなかった。
「カナリア、さあもっと歌っておくれ」
「……はい」
 ちいさく頷いて、小鳥は歌いだす。両手の位置はそのままに、若い客人の耳朶に唇を寄せて、すすり泣くように歌う。今度のは英語の歌で、客にも歌詞の意味が理解できた。

 翡翠(かわせみ)の少女が川べりに佇み、朝も夜も、流れつづける川を見つめつづける。
 きらきら光る水面を見ているうちに、翡翠は飛び立つ。空へ空へ、高く。
 太陽になりたかった翡翠の少女は燃えつけて流れる星になり、夜空を落ちていく。

 翡翠の少女が声を殺して泣いている。
 差しのべた両手から零れ落ちたものに俯く彼女に、両手に残ったものがささやく。
「あなたの手に掬われた、わたしたちに胸を張って」
 太陽になれなかった翡翠は、いつか、きらきらした光になって川を流れていく。

 歌詞がわかることと、歌詞の意味がわかることはまったくの別物だ。彼には小鳥のささやく歌がどんな意味の歌だったのか、本当のところ、まったくわからなかった。
 ただ、その歌声に酔いしれていた。
 小鳥は、客人に触れた片手に熱を感じると、満足そうに口の端を持ち上げて歌いつづける。
 ――若い客人は、明方まで小鳥を歌わせてから帰っていった。一晩中、歌をきいていただけで、小鳥の腰を抱くことすらしなかった。

 若い客人は、いつも予期せぬ時に鳥籠館を訪れた。
 三日つづけて姿を見せたかとおもえば、二ヶ月近く現れなかったりした。そして、指名されるのはいつもカナリアだった。
 小鳥の知っていた歌はすべてこの客に歌ってきかせてしまっていた。次の彼がやってくるまでに新しい歌を覚えようとおもうのだが、うまく時間がとれない。それに一度、忙しさの合間を縫ってどうにか覚えた歌を歌ってきかせたら、彼は首を横にふってこう言った。
「ぼくはきみの歌をききにきたんだ……歌詞と音程が在るだけのノイズをききにきたんじゃない」
 そう言われてから、小鳥は無理して歌を覚えようとしなくなった。乞われるままにいつもの歌を溜息にのせて、ときには思いつくままに口ずさんだ鼻歌で彼の耳朶をくすぐった。
 若い客人はいつも決まって、最後には翡翠の歌をききたがった。
「この歌が好きなのですね」
 と小鳥が微笑むと、客人は首を傾げる。
「どうだろう――好きなのかもしれないし嫌いなのかもしれない。よくわからないんだ」
「………」
 小鳥は、いつものように客人の膝にすわって両手でゆるく抱きついた姿勢のまま、黙ってつづきを待っている。
「翡翠の歌だということはわかる。けれど、ぼくは翡翠を見たことがない。街中を流れる汚された川しか見たことがない。だから、その歌をきいておもいうかべる光景は作り物でしかない――そんな歌を好きだとはおもえない」
「でも、ききたくなる――?」
 小鳥が言うと、客人は首を縦にふる。
「ああ、そうだ。なぜだろう――そうか、ぼくはその歌を好きになりたいのかもしれない」
 客人は小鳥にふり向く。鼻先がこつん、とぶつかる。
「今度、翡翠を見にいこうとおもう――カナリア、きみも一緒にこないか?」
「お客さま、それはできません」
 小鳥は悲しげに微笑んで睫毛を伏せる。
「篭の中の小鳥は、篭の中でしか生きられない――それがルールですから」
「そうだったな、忘れていた。……きみは翡翠を見たことがあるのか?」
「図鑑で見たことはありますが、本物は……」
 小鳥は首を横にふる。
「そうか。では、ぼくがひとりで翡翠を見てきて、その話をきみにしよう――かまわないか?」
「はい、もちろん。楽しみにしております」

 それ以来、若い客人がこの館を訪れることはなかった。
 カナリアと呼ばれた小鳥は三年ほど彼のことを待っていたが、そのうちに忘れてしまった。
 ときおり、翡翠の歌を口ずさんでは、「両手から零れ落ちたものもやはり、きらきら光っているのだろうか」とひとり小首を傾げる――若い客が来なくなって変わったことといえば、その程度だった。
 篭の小鳥は愛でられるのが生業――それは歌を歌うことだったり優雅に舞ってみせることだったりも含まれるが、それらを望む客はいない。小鳥は黙って、客の欲情を受け入れる。それが、篭の小鳥の生業だから。
 カナリアはいつか、歌を忘れていた。歌おうとしてもおもいだせないのではなく、歌うことを忘れていた。
 だから、
「カナリア、歌っておくれ」
 そう言われたとき、目を丸くすることしかできなかった。
 はっとしてそう言った客人の顔を見るが、それはあの若い客人とは違う客。欲情を吐き出した後の余韻にまどろみながら呟いた、暇つぶしを求めるだけの言葉だった。
「………」
 小鳥はそしてようやく、自分が歌を忘れていたことに気がつく。歌おうとしても、ただ喉がひゅうひゅうと震えるばかり――そうしているうちに客は眠りへと落ちていて、小鳥はひとり、とりのこされる。
 小鳥の両手から零れ落ちたものは、たしかにきらきら光っていた。両手にのこったものもまた、光っていた。けれど小鳥自身の羽は――。
 小鳥は、翡翠が太陽になりたかった理由を知った。若い客が戻ってこなかった理由を知った。
「………」
 彼がいるのだろう――あるいはいないかもしれない――太陽を探して窓を見上げる。けれど夜空には、崩れ落ちそうに細い月しか見つけられなかった。
カナリア 橘内 潤

にせ宝石屋
るるるぶ☆どっぐちゃん

「にせ宝石屋はどこ?」
 彼はあの男のことをニセ宝石屋と呼んでいる。
 男の家に初めて赴いたとき、部屋にはたくさんの宝石が転がっていた。
「入れよ」
 男に促されるまま彼は足を踏み出す。冷たい宝石の感覚が足の裏に伝わった。
 男はさっさと部屋の中に歩いていく。ばらばらと宝石が蹴っ飛ばされて部屋を転がってごろごろと音を立てた。
「入れよ」
 男は再びそう言い、上着を脱いでソファに座った。
「ねえ、にせ宝石屋はどこ?」
 彼は一歩を踏み出す。色とりどりの宝石が目に入る。壁に手をつくとそこにも宝石が並べられていて、ばらばらばら、と床へと落ちた。
「あははは」
「どうした」
「おかしいよこんなに、こんなに宝石、あははははは」
「おかしいかな」
「おかしいよ」
 笑いながら彼は男のそばに座った。
 宝石を一つ手にとって光に向ける。光沢はあめ玉のようななめらかなものだ。
「きれいだね」
「そうだな」
「にせものでしょう」
「そうだよ」
「きれいだね」
「そうだな」
 にせの宝石を作って売るのが、男の商売であった。いびつな丸みを帯びたそれは単純な美しさを持っていて、そして素晴らしい安値で売られていく。
「なんといっても、あめ玉よりも安いんだからな」
「そうなんだ」
「ああ。だから凄く売れるよ。毎日すさまじい量が売れるよ。何箱もね。何箱売ってもたいしたものじゃないけれど」
 宝石を口に入れてみる。いびつな丸み。夜明け前、街を歩いていると誰もいないメインストリートを音もなく歩いて道に散らばった空き缶を背中のかごに入れて歩いている人を見る。あの人たちが集めている空き缶のいびつな丸みの単純な光沢。美しさ。
「世界中にたくさん売れる。自分でも驚くほどに」
 男はそう言うと黙り込んだ。待っていたがいつまで経っても動かないので、彼は自分から男の首に手を回し、キスをする。
 部屋は寒かったが二人はかまわずに服を脱いだ。蛍光灯の白々しい光の下、二人はお互いの身体を見つめ合う。
 男の行為は、噛んだり、つねったり、ひねったりといったものが中心だった。執拗にそれが行われた。あまりに執拗に痛みを与えるので、彼は男が残酷なのか優しいのか、判断出来ない。
 行為は終始ソファで行われた。寝室には行かない。寝室に招くのも招かれるのも気の進まないものだ。彼はいつも地獄に堕ちる夢を見る。地獄に真っ逆様に落ちていく夢を見る。墜ちて落ちて、焼かれて、貫かれて、凍えて、ばらばらになって、そして自分の悲鳴で目が覚める。そんな姿は誰にも見せたくない。寒い部屋の中、二人は白い息を吐きながら全裸になって動き続けた。
「あ」
 行為を終え、二人はぐったりと横になっていたが、彼が急に声を上げた。
「どうした」
「宝石を、飲み込んでしまった。さっき口の中に入れてたやつ」
「本当に?」
「うん。飲み込んじゃった」
「何色?」
「赤かな」
「赤か」
「赤は毒?」
「全部毒だろうきっと。なんと言っても偽物の宝石だからな」
「そうか」
「お前のお腹に赤い宝石が入っているんだな」
「そういうの興奮するの?」
「お前はしないのか?」
「しないなあ」
「そうか。じゃあこの色はどうだ」
 そう言って男は黄色い宝石を差し出す。
「飲むか?これも」
「もう良いよ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ俺が飲もう」
 男は舌の上に黄色い宝石を載せ、彼を見た。彼は何かを言おうとしたが、男はその前に宝石を飲み込む。
「あ」
「これは、どうだ?」
 次は青色。緑。黒。
「じゃあこれも俺が飲もう」
 男はどんどん宝石を飲み込んでいった。何個も何個も何個も。
「やめなよ、ねえ」
 男はやめない。どんどん手を早めて宝石を飲み込み続ける。
「やめなよ、やめて」
 男は飲みこみ続け、どんどん膨らんでいった。どんどんと身体を大きくして、髪を伸ばし、爪を伸ばし、目をぎらつかせ、牙を剥き、綺麗な顔を醜くゆがませてよだれを垂らし、訳の分からないことをつぶやきながら、どんどん膨らんでいく。
「やめて、やめて、やめて、おねがいします、やめてください、やめて」
 彼はそこで目を覚ました。
 駅のトイレの脇、ゴミ箱のすぐ近くで彼は泥まみれで寝ていたのだった。
 起きあがる。
 夜の駅前を歩く人々は忙しげだ。誰も彼を見ない。
 歩き出す。
 歩き続ける。
(やめて、やめて、やめて)
 まだ自分の耳に自分の悲鳴が残っている。
「どうした。大丈夫か」
 あの晩、にせ宝石屋に悲鳴を聞かれてしまった。
「大丈夫だ。大丈夫だよ」
 ようやく昨晩、銃を手に入れた。聴かれてしまったからには殺さなければならない。
「そうか、大丈夫なら良かった」
 にせ宝石屋は優しかった。とても優しかった。だけれど殺さなければならない。
「ねえ、にせ宝石屋はどこ?」
 にせ宝石屋の居場所を知るものは居なかった。みな静かに首を振った。
 歩き続ける。
 夜まで歩き続けると、男の家にたどり着いていた。
 ドアを開ける。
 大きな、馬鹿馬鹿しいほど大きな銃(小さな銃では不安だった)を構えて部屋に入る。蹴飛ばしたごろごろと宝石が転がっていく。
 ソファには男が横たわっていた。
 男は死んでいた。
 小さな、本当に小さな銃を厳粛に口に入れて、脳味噌の中身を全部部屋の中へまき散らして、男は死んでいた。
 彼はしばらく立ちすくんでいた。
 どうして良いか解らず、彼はともかく警察に電話した。
「もしもし、そう、死体か。それならともかく一度来てくれないか」
 銃を置いて出かける。公園の前で、黒いワンピースのむちむちとした身体の女とすれ違う。真っ赤な口紅。あの男の頭の中身にそっくりだった。
「そうか。自殺か。ともかくじゃあ出かけようか」
 警官は青い目をした細身の男で、毛皮のジャケットを着ながらそう言った。
 共に歩く。
「あ、あ、あ、あ、あうう、あん、あ」
 公園の前に来ると女の声が聞こえた。先ほどの女だろうか。
「やっていますね」
「やっているね」
「あうぅ、あん、あん」
 男の家につく。警官は土足のまま男の家に上がった。がちゃがちゃと音を立てて宝石を踏みつぶしながら。靴を脱ぎ、彼も続く。
「なるほど、自殺だね」
「解るんですね」
「解るさ。一目でね。そういう職業だから」
「なんで死んだんでしょうね」
「そこまでは解らん。だが自殺をする理由などいくらでもあるだろう」
 彼には思いつかなかった。何一つそんな理由を。人々の心の、その闇を、彼はどうしても理解できない。
 警官は目をつむり、手を合わせる。
「自殺したものには丁寧に扱わなければいけない」
 手を合わせたまま警官は言う。
「自殺したものは、苦しみ続けるのだからな。自殺をしてしまったものは、苦しみ続ける」
「苦しみ続けるのですか」
「ああ、そうだよ」
「いつまで」
「永遠にだ」
「永遠」
「そう、永遠にだ」
「永遠とは、いつまでですか」
「おまえが忘れてしまうまでだよ」
 警官は手を合わせ続ける。
 警官の足下、男の隣に彼は座った。目をつぶる。急速に眠くなる。彼は眠ろうと思った。寝て地獄の夢を見ようと思った。あの宝石屋も、今日から彼を引き裂く鬼に加わる。
にせ宝石屋 るるるぶ☆どっぐちゃん

カテゴライズ・ブルー
伊勢 湊

 手書きのメモで一言だけ。「心配しないで」。そう書かれた小さな紙切れを見ながら二人で暮らしたマンションのリビングに立ち尽くしていた。そういうメモが残されていたとしても突然いなくなった妻のことを心配しないはずがない。昨日の夜、遅くに仕事から帰り、いつものように自分で鍵をあけて中に入った。一歩家に足を踏み入れて僕は一瞬にして彼女がいないことを知った。五年の結婚生活というのは一般的に長いのかどうか分からない。しかし家の中に彼女がいる空気といない空気を嗅ぎ分けるには僕には充分な時間だった。砂漠に生きる者たちが近くに水がある空気を嗅ぎ分けるように、僕もそれを嗅ぎ分けた。テーブルの上のメモを見つけ、携帯電話に電話した。電波の届かないところにいるか電源が入っていないらしい。彼女の実家に電話してみたが、いつもと全く変わらぬ様子に彼女がいなくなったことを言うことすら出来なかった。彼女の友達にも電話してみたがいくら考えても片手で足りるほどの名前しか思い出せず、誰も彼女の行き先を知らなかった。焦燥感に突き動かされスクーターで夜の街を走り彼女がいないか探してみたが、頭のどこかで分かっていたように、それはただ現実と正面から向かい合うことから逃げ続けているだけに過ぎなかった。
 夜が明け、朝日の差し込むリビングに立ち、もう一度メモを読んだ。彼女が僕がこれを見て心配しなくなると思って書いたメモだとは思えなかった。

 僕は驚くほど彼女の事を知らないことに気が付いた。彼女は僕がそれに気が付くことを知ってこのメモを残したのだろう。僕にはそう思えた。だからといって僕にはどうすることも出来なかった。彼女がいなくなった直接の原因が僕にあるとしても、それはどこにも示唆されてはいないようだったし、直接の原因がもし僕ではなかったとしても、それに辿り着くことが出来ないこと自体がひどく致命的なことのように思えた。
 結局僕はシャワーを浴び、髭をそり、ネクタイをして通勤電車に乗り込んだ。他にやるべきことが見付からなかった。

 仕事を終え家に帰ったのはやはり遅くなってからだった。分かっていたことだが彼女は帰っていなかった。携帯電話にも着信履歴は一件も入っていない。それでもうすべきことが終わってしまった。あとは自分をどの位置に置くかという問題だった。とりあえず風呂に湯を張りながら、冷蔵庫の中から見付けたレタスとトマトとチーズで簡単なサラダを作った。炊飯器の中に御飯はなかったし、炊き方もいまいちよく分からなかったのでスパゲッティを茹でることにした。チーズが大量に余っていたので熱したワインと混ぜて溶かしソースを作った。それをスパゲッティに絡め、刻んだ海苔とカリカリに炒めたニンニクを振った。料理はかなり久しぶりだったが悪くない出来だった。もともと嫌いなほうではない。やる機会があまりなかっただけだ。
 たっぷり作ったサラダとスパゲッティをワインで流し込んでから寝室に行った。寝室には彼女の私物がまとめられた小さな棚がある。僕はそれまでそこに何があるのか見たことがなかった。そしてそれを知ろうとしたことも、なにがあるのか聞こうとしたこともなかった。棚の中には小さなジュエリーボックスや友人からの手紙、古い写真、そして端のほうに何冊かまとめられた青いノートがあった。中には小さな彼女の字が所狭しと並べられていた。いままで、彼女が日記を書いていること自体に、まるで気が付いていなかった。あるいは視界に入っていても見ようとしていなかったのだろうか。
 僕はベッドに横たわり日記を読み始めた。それは二人の間でいままで隠されつづけてきたコミュニケーションだ。日付の一番古いノート、僕たちが結婚した年のノートの最初には次のように書かれていた。
「仮に夢と現実が厳然と区別されているとして、私にはそのどちらが夢で、どちらが現実なのか見分けることができない」
 ノートの中には僕の存在は出てこなかった。いや、僕の知る世界そのものが出てこなかった。内容が突飛だったわけではない。家でパンを焼くのにチャレンジしたが上手くいかなかったとか、水彩画を描いたらコンクールでいい評価をもらって嬉しかったとか、中型二輪の免許がやっと取れたとか、そういうことだ。でも僕の知っている彼女は二輪どころか車の免許も持っていない。そういえば前に寝ぼけて「免許やっと取れた」と言った彼女に、なんの免許なのか聞き返したら「あら、やだ。ごめん、夢の中の話なの。夢の中でだけど中型免許とっちゃった」と返ってきて二人で笑ったのを憶えている。僕はあのあとなにか聞き返しただろうか?

 全部で五冊あるうちの一冊目を半分まで読み終えた頃、携帯電話が鳴った。
「もしもし」
 電話の向うの相手は何も答えなかった。でも僕にはそれが誰なのか分かる気がした。僕は電話を耳に当てたまま日記を読み続け、最初の一冊を読み終えたとき「一冊目読み終わったから今日は寝るよ。おやすみ」と言い残して電話を切った。
 
二日目も同じように日記を読んだ。途中で携帯電話が鳴り、僕はそれを耳に当てたまま読み続けた。三日目には三冊目を四日目には四冊目を同じように途中でかかってきた電話を耳に当てたままで読んだ。読み進めていくうちに、多くはないが僕と僕の知っている世界が現われることがあった。でもそれは、日記の中ではあくまで夢の中の話という扱いになっていた。四冊目を読み終えて、電話の向うにいるはずの彼女にお休みを言ってから寝室の天井をぼんやり眺めていると、そこが一体どこなのか僕自身も分からなくなる足場のしっかりとしない感覚に襲われた。ゆっくりどこかに着地するまで天井を眺めたまま浮いていた。気が付けば頬を冷たい何かが伝っていた。哀しいなんて、思ったこともなかったのに。

最後の五冊目を持ってベッドに横たわる。最近になるにつれて僕や僕のいる世界が話しに出てくる頻度が高くなる。しかしそれはたぶん、逆にいえば日記の中の世界がこっちの世界に侵食してきたからなのかもしれない。電話がかかってきた。もう少しで全部読み終わるよ。そう言うと、電話の向うで彼女が頷いた気がした。
一番最近の日付にはこう書いてあった。
「夢の中でテレビを見ていたら旅番組をやっていて、それがちょうど夢の中の私の住所から、いま現実に私がいる住所まで車でドライブするというものだった。すごく驚いた。起きている今は思い出せないけど夢の中ではメモをしたはずだから、もし残っていたらそれを頼りに旅に出てみたい。そしたら夢の中の私は、ここにいる私に会うことができるのかしら?」
 彼女がどこにいるか分からない。それは距離の問題とかではなくて、簡単には手が届きそうにない気がした。それでも僕はいま彼女と繋がっていた。今はもう、この電話を切るつもりはない。
「ずっとここにいるから」
 いまの僕には彼女を迎えに行くことは出来ない。いつまでもここにいることだけがいまの僕に出来ることだ。電話の向うで彼女が頷くのがはっきり分かった。流れる涙の音を聞いた。
「いまは眠ろう。絶対にきちんと目覚める朝はくるから」
 僕もそのままベッドにもぐりこんだ。声が聞こえるわけではない。それでも確実にその向うにいる彼女と繋がっている携帯電話を握り締めたまま、ふたり眠りにつくまで、小さな息遣いだけを頼りに漂い続けよう。
カテゴライズ・ブルー 伊勢 湊

誘惑
吉備国王

 パート社員募集に応募してきたのは近所に住む、八代百合子と名乗る主婦だった。彼女の提出した履歴書に記載された家族は、五つ年上の夫と、二十歳になる長女、そして、十七歳の長男の名が記された標準的なもので別段変わったことはなかった。
しかし、八代夫人は、履歴書に書かれた過去の職歴の詳細を質問しても、自ら多くを語ろうとしないばかりか、眼の奥を曇らせ、此方の視線を避けるかのように幾分か視線を逸らし、此方の投げかける質問を無視するかのように暫く沈黙した。それでも、長男が中学に入学した頃に勤めていた飲食店について詳しく聞き正すと、無視していた夫人の表情が急に複雑になり、色白美人の顔を紅潮させて、自らが沈黙を破って雄弁にその経緯を話しはじめた。それは、その飲食店の主人と女将の夫婦間のトラブルに捲き込まれて辞めざるを得なかった趣旨を弁解して語る内容だった。
 その後、彼女が勤めだして、ひと月もしない頃に判ったのだが、その飲食店を手伝いはじめて一年程経った頃、女将が実家に急用で出掛けて留守の夜に、一人だけになった店の主人が閉店してから言葉巧みに八代夫人を誘い、その情にほだされて晩酌相手をしている内、酒気帯びの勢いから気を許して身体を交え、それ以後、双方ともに熱く激しく燃えて抜き差しならぬ深い関係に陥った。それからは堰が崩れたように、女将の眼を盗んでは密会を重ねていた。処が、運悪く、それを目撃した店の常連の客が酒を飲みに来て、八代夫人の耳元で浮気の事実を暴露して交際を強要したらしく、それを、八代夫人が強く拒否すると、客は腹を立てて、主人との関係を女将に洩らした。その事実を知った女将は裏切られたばかりに腹を立てて、別れろ、辞めろと強く迫り、主人も仕方なく諦めて、八代夫人に慰謝料を支払って清算したのだった。
 商店街に伝わる噂によれば、あの実直な店の主人が八代夫人を誘惑する筈もなく、夫人の方が媚びて誘惑したのが真相だと、店の主人に同情する声の方が強かった。しかし、男女の関係の複雑さを考えると、果たして事実はどうであったのだろうか?
 八代夫人にも言われる理由が多々あったのも事実、会社を辞めた夫が毎日酒浸りのアルコール中毒になり、毎晩酒を飲んでは暴れて二人の夫婦関係は崩壊していたからだ。
 この偶然の経験に味を占めた八代夫人は、女の武器に目覚め、男は金ずるだとばかりに手当たり次第に媚びを売った。
 この職場でも活発かつ積極的によく働いた。髪を長く肩まで垂らし、仕事の妨げになるにも関わらず直そうとはせず、女の魅力を最大限に露出して男の視線を惹きつけた。一見派手に見えたが、天性のバランスのとれた体形と媚顔で眼を奪っていた。
 八代夫人の魅力を引き立てる微笑みは、男を誘惑する娼婦にも似た妖しい魅力を秘めて、男の誰もが興味を抱き、声を掛ければ誘いに応じるような印象を見せていた。
 ある日、八代夫人の傍を通りかかった男性社員が若い女子社員に誘いの声を掛けた。すると、何が気に入らないのか、その男に向かって干渉がましく、
「若い娘は病気を持っているから気をつけないと・・・」
と、その職場の同僚男性を牽制するかのように注意した。どうやら、若い女に熱を上げる彼に対するやっかみらしく、その男に好意を寄せる夫人の嫉妬心を露骨に現していた。
「若い者同士、いいんじゃない!」
 と、二人のやり取りを奪うように、私が横車を押した発言をすると、八代夫人は怖い顔をして私の顔を睨み付けた。
「お節介はやめて・・・」
 と、怒りを諸に出して言った。夫人の若く見える溌剌とした生き方を保つ秘訣は、男との交際なのかと、改めて夫人の顔を眺め直した。
 何気なく、無意識の基に己が夫人の虜になっていようとは思いもよらず、夫人の行動に注意を払い、その行動の一つ一つに神経を行き届かせていた。そうした中、上司との繋がりを注目して見ると、その目的が雇用を確保することを第一に考えてのことらしく、二足の草鞋を使い分けて実利と遊びを上手にこなしている様子だった。
 これも、女性の社会進出の影響であり、外見的な男女の関係が、個人的なものか、仕事上かを見て見極める術もなく、他人の眼を気にせずに気楽に楽しめる。
 世論調査のデータによれば、働く女性の七割もが、夫以外の男との性的関係を持ちたい願望を持っていると報じていた。
 また、実際に不倫をしていると答えた主婦の二割は、全て仕事上で知り合った上司や部下、そして、仕事の取引先だと述べており、やはり、八代夫人と似たり寄ったりであった。
 八代夫人の行動に興味を抱き、男の好奇心を満たそうと、私も、夫人に接近し始めた。
 初めは野次馬程度の軽い気持ちだったが、いつの間にか嫉妬心を掻きたてるまでになっていた。
 モナリザの微笑にも似た美しい笑顔と、バランスのとれた身体に興味を寄せ、その豊満な肉体と美貌を欲望のどん底に叩きこんで跪かせたい願望に駆りたてられた。
 マスコミで話題を撒いた、有名大学の心理学者の著作で「女の弱点を見破る」と「女心の秘密」「女の深層心理」等の心理学書を片っ端から読み耽った。
 夫人の無視した素振りをみせる、心の歪みに手をこまねくばかりであった。ある時は、素直に、又、次の時は反抗するといった具合に、振幅の多少はあっても、大なり小なりの感情の起伏は誰にもある。人、様々な思いや行動が心の真実を現してるとは限らない複雑さに故に迷い、誤解や不信を招きながら、喜んでみたり、苦しんだりと、一人勝手にきりきり舞いしているのが実情だろう。
 この世の現象は、宇宙の自然界のなす不思議なエネルギーの偶然の産物でしかない。いかに科学的に証明しようとも、科学的理論に基づいて人が創った物ではない。自然界に存在する原子と分子の組み合わせの方程式で説明しても、ただの構造を解いたに過ぎない。
 人間の科学理論や技術より、遙かに大きな未知の力が働き、科学を越えて誕生してきたのも事実である。天地創造のごとく、神をここに登場させて、未知なる力を説明しようとする宗教家の話に惹かれても致し方ないだろう。
 形ある物も、人心も、宇宙の自然の元で誕生した。全ての地球の産物は、不思議と言えば不思議である。宇宙の誕生も謎に包まれ、太陽系の地球も、宇宙全体が謎なのである。
 この物体でさえはっきり解らないのに、形の無い、人の心等は尚さら分かるはずもない。何故なのだろうか、どうしてなのだろうか。人は、他人に対しては寛容さを失い、自己については寛容すぎる。他を許さなくても、自分は許せる。約束を相手が破れば腹を立てて怒る。しかし、自分が破った時は平然として気にも留めないでけろっとして、自分自身を叱ることもない。幾分の気まずさを感じる位ならまだしも、何も思わぬ非常識な者が多い。
 自動車を運転して、自転車や歩行者に腹を立てるが、立場が変わり、自分が歩行者になった時や、自転車を乗ったりする時、果たしてどれだけ気遣いしているかと云われても耳が痛いだろう。相手の立場を思いやることが少ない。しかも、自分で決めたことさえ守れない弱さを持っている。これはエゴイズム(自己中心的)で済せる問題ではない。確かに意志はあったが、何かの都合でそうなってしまうことも偶にはある。
 人間の尊厳と自尊心はメンタルな作用なのか複雑怪奇で予想すら出来ない。
誘惑 吉備国王

エアーキャップ職人
ごんぱち

「エアーキャップ職人?」
 篠塚良文は、いぶかしげな顔をする。
「ああ、下鷹野に、一人残っているらしい」
 『月刊工芸』編集長は、出入り業者のお中元のクッキーを食べながら応える。
「エアーキャップって、コレですよね」
 割れたクッキーを食べながら、篠塚は脇に置かれたビニールのつぶつぶ――エアーキャップを手に取る。
「ああ、それだ」
「わざわざ取材する事もないと思うんですけどねー。こんなの工芸品でもなんでもないじゃないですか」
 篠塚はエアーキャップを指先で潰す。
 プシュッ。
 弛んだ音がした。
「馬鹿野郎、出来上がった陶器や漆器を輸送するのに、エアーキャップは必要不可欠だろう」
「マジっすかぁ?」
 篠塚はエアーキャップを絞って、まとめて潰す。
「……いやまあ」
 編集長はクッキーを口の中でもさもささせながら小声になった。
「連載の村野碗斎先生が、スランプらしくて、原稿が落ちる可能性が高いってのが、まあ、なぁ」

「こんにちはー」
 篠塚は、『(有)高田ビニル』と看板の出た小さな町工場の引き戸を叩く。緩い磨りガラスの入った引き戸は、大きな音を立てた。
 ガラガラガラガラ。
 今にもガラスが落ちそうな音を立てて、引き戸が開く。
「はい?」
 初老の小男が顔を出す。
 同時に、むっとするようなビニールの臭いが溢れ出た。
「初めまして、先ほどお電話させて頂きました『月刊工芸』の篠塚です」
「あ、はい、社長の高田信宏です」
 社長という肩書きがおおよそ不釣り合いの、おどおどと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
 営業スマイルで、篠塚は名刺を差し出す。
(使われるかどうかも分からない、穴埋め記事ねぇ)
「どうも」
 名刺を受け取る高田の手は、荒れて皮が分厚くなっており、グローブのようだった。
「中へどうぞ」
「はい、有り難うございます」
 小さな町工場は、ビニールの溶ける臭いが壁の目地にまで染み込んでいるようだった。
 篠塚は呼吸を浅くしながら、工場内を眺める。
(社長ったって、社員はいないクチだな)
 十畳あるかないかのスペースに、作業台があり、電熱器の仕込まれたテフロン加工の鉄板が置かれている。
 後は、三尺四方にカット済みのビニールが積み上げられ、反対側には完成したエアーキャップを仮に入れていると思しき大きな段ボールがある。
「では、何からお話を――」
 高田が緊張気味に尋ねる。
「いえ、お話とか良いですから、お仕事しているところだけ見せて下さい」
 篠塚はカメラのキャップを外した。
(時間かけたくねえしなぁ)

 テフロン加工の鉄板の上に、シート状のビニールが二枚並べて置かれる。
 途端に――。
 高田の目つきは変わった。
(――え? あっ)
 篠塚は、慌ててカメラを彼に向ける。
 先ほどの貧相な印象からは、想像も付かない、引き締まった真剣な表情になる。工場内の空気さえ、一変した。
 鉄板の熱が、ゆっくりとビニールを柔らかく弛め始める。
 高田の目は、獲物を狙う隼にも匹敵する鋭さでビニールを見つめる。
 元はごわごわしていたビニールが、くたりと広がり伸びていく。
 周囲のビニール臭が、強くなった。
 その時を待ちかまえていたかのように、高田の手が動き、平たい棒でビニールを持ち上げ、浮かせる。
 浮かせてできた鉄板とビニールの間に高田は、ずらりと小穴の空いた金属板を差し込む。
 迅速、という程でもない。
 初老を迎えた高田の雰囲気そのままのゆったり、いや、むしろのろまな動き。しかし、一分の無駄もない、流れるようなひと繋がりの作業。
 溶けかけていたビニールは工場内の生ぬるい空気に冷まされ固まりかけながら、穴あき金属板の上に落ちていく。そして金属板にくっつく寸前。
 ぶしっ!
 高田がペダルを踏んだのと同時に、無数の小穴から鋭い空気が吹き出した。
「おおっ」
 空気の勢いに、ビニールが伸び、伸びたビニールは無数の突起となる。
 それから高田は、突起の出来たビニールの端を持ち、隣りで熱せられていたビニールの上に落とす。
 ふわり、とも、はらり、とも表現しがたい柔らかさで突起の出来たビニールは落ち、熱せられていたビニールと結着する。
 高田はそれを、平たい棒でふわりと持ち上げ、冷却台の上に置く。
 冷却台の上のビニールはゆっくりと冷めて行く。それを表すかのように、突起は縮み、締まって行った。
「どうぞ」
 高田は、冷却の住んだビニールを、篠塚に手渡した。
「エアーキャップ……これが」
 篠塚はエアーキャップを撫でる。
 張りのある、しかし、柔らかさを感じさせる突起。それはまるで。
「猫の肉球みたいだ」
 思わず溜息が洩れる。
「ええ」
 照れ笑いを浮かべ、高田は電熱器の電源を落とす。
「正に、先代の工場長の理想が、肉球でした。数メートルの高さから落ちても音一つ立てない衝撃吸収性を目指していたようです」
「やはり」
「先代のエアーキャップは、缶を球代わりにラグビーをしても、クッキー一枚割れなかったと聞いています」
(それは大げさ過ぎるような……いや、しかし、あり得る)
 篠塚の指先は、もうエアーキャップから離す事が出来ない。
「ですが、もう、この仕事も、私の代でおしまいです」
 高田の声に元気がなくなる。
「えっ?」
「生産量とコストは、大量生産品には及ぶべくもない」
「しかし、これほどのものなら、需要もあるでしょう?」
「不要ですよ」
 高田は微笑う。
「このエアーキャップ製造法が考案されたのは、昭和初期です。あまりに古すぎる」
「古いと言っても! 今に通用する技術はたくさんあるじゃないですか! 漆器だって、陶器だって、織物だって。伝統技術はそういうものでしょう?」
 いつしか、篠塚の声は大きくなっていた。
「交通がね」
 高田はあくまで静かだった。
「は?」
「交通がね、整備されたんですよ」
「――ぇ?」
「半世紀前は、道は悪く、汽車やトラックの振動も大きかった。だからこそ、エアーキャップは、ここまでの性能を求められた。ここまででなければいけなかった。でも今は」
 出来上がったエアーキャップを、高田はいとおしげに撫でる。
「今は、これだけのエアーキャップが必要になるような、悪路はありません」
「ですが、そんな」
「そんな顔をなさらないで下さい。産業の発展の成果が現れたんですよ、喜ばしいじゃありませんか」
 工場中に染み着いたビニールの臭いは、高田自身からも漂っていた。

 帰りの列車内で、篠塚は取材ノートを読み返す。
 高田の解放されたような笑顔が、頭に浮かぶ。
 それから篠塚は、バッグから高田のエアーキャップを取り出した。
 精巧に並んだ、真円の粒。それはまるで、空気の結晶、触れ得ぬ宝石。故に無価値な宝石。
 篠塚は、粒の一つを両手の指先で押さえる。
 空気を閉じ込めたビニールが、ぴんぴんに張り切って――。
 ピシッ!
 鋭い音がした。
 量産品からは到底出る筈のない音と破裂の感触。
 指先から全身に、カタルシスが走り抜ける。理屈ではなかった。快感を求め、ほとんど本能的に次の一つに指先を伸ばす。
 ピシッ、パシッ、プチッ!!
 破裂音は、まるで音楽のように列車内に響き渡った。
 篠塚はただもう、中毒者のように潰し続けた。
 シートの半分ほどを潰し終え、篠塚がふと我に返ると、乗客達が皆、彼のエアキャップを凝視していた。
 羨望の眼差しを感じつつ、篠塚はもう一つ、粒を潰した。
 周囲には、ほんのりとビニールの臭いが漂っていた。
エアーキャップ職人 ごんぱち

悪道
榎生 東

 軽井沢の矢ヶ崎公園の奥に一万五千坪を有するゴルフ練習場がある。平地に五十打席350フィート打ち放しの軽井沢最大の優良施設だ。滝本は収益の上がらないこの練習場の閉鎖を考えていた。
 北軽井沢の社有地に会員制のリゾートホテルを計画中の鹿嶋工務店は現地市場調査でこの噂を聞き付けた。
 鹿島工務店代表取締役大野泰三副社長はゴルフ練習場の所有者の詳細な緊急調査を秘書室長に極秘に命じた。
 
 報告書は二週間で上がった。
 
 練習場は日本インスツルメントエンジニャリングの滝本社長の婦人が親の遺産を相続したもので負債も謄本はサラである。
 練習場の収益は土地保有の経費を賄う程度で今年の十一月に閉鎖解体予定。
 再開発事業は医療機能(リハビリセンター)を持つ高級リゾートホテルを計画中。
 医大教授の五十嵐医学博士が顧問に就任し、リハビリ事業は博士の関係する専門機関のシュミレートで事業成立が見込まれる。
 事業資金は長野銀行本店の融資が内定。
 建設大手五社に接触の形跡はない。
 長野銀行は地元の井上建設工業を推薦と、あった。

 大野は一式独占の特命受注を狙った。
 滝本社長の知古に太田垣の名が浮かび上がる。滝本は東洋経済フォーラムのメンバーであり、太田垣との接点には現代都市空間デザインの杉本所長がいた。
 大野は常務会の承認を待たずに西新宿の関東支店営業本部に杉本を呼び出し覚書を提示した。新軽井沢計画と題された覚書は概ね次のようであった。
 
 杉本は鹿島工務店と太田垣との道を付けること。
 新軽井沢計画は鹿島工務店の一括特命受注を前提とする。設計監理は杉本に発注する。
 経費実費は鹿嶋工務店が負担する。情報は書面にて直接報告する事、等々である。

 鹿島工務店にうま味のある仕事は現代都市空間にも美味しいに違いない、杉本は二つ返事で引き受けた。
 
 直ちに太田垣を訪ねる。
 元赤坂一丁目の豊川稲荷裏に太田垣ビルがあった。六階建ての小さなビルで駐車場の無いビルは車に不便だったが環境の良いところで、最上階の会議室からは遠く新宿の高層ビル群が眺められ、眼下には御所の森が広がっていた。
 杉本は小さなエレベーターを五階で止める。
 受付のチャイムを鳴らす。
「杉本です、倉本さんとお約束頂いてます」
「はい、お待ちしております、どうぞ」
 礼儀正しい女性に案内された。
 倉本は京大の建築から丹下建築事務所を経て太田垣の秘書に金で引き抜かれていた。
 電話中の倉本は杉本をテーブルに手招いた。
 黒革のパイプ椅子の座りが心地よい。杉本は備え付けの葉巻を無遠慮に取り出し火を付けた。キューバー産のボリバー・ブレヴァスだ。
「御社の軽井沢、蓼科、箱根などの会員制ホテルは、リネン費のみの一泊二千百円で利用できると宣伝されていますが、館内の食事はべらぼうに高くて、ラーメンは二千八百円もすると苦情が寄せられてます。どんなラーメンなのか取材したい。軽井沢のはずれ、蓼科のはずれ、箱根のはずれと、ホテルはどれもこれも境界ぎりぎりで軽井沢蓼科箱根と表示は違法ではないが、人里離れた鄙な所で外食したくてもタクシー代は三千円も取られ、会員制リゾートホテルの落とし穴と言うか、詐欺とも言うべき手口は検証するに値するものです。詳細を伺いたいので責任者を出して下さい」
「お話の趣旨はよく解りました。支配人及び本社の然るべき責任者に申し伝えます。ところで雑誌編集長ご出身の太田垣代表に折り入ってお願いが有るのですが」流石の広報である。倒産した大手出版社出身の太田垣の痒いところを舐めるような話を持ち出してきた。
「本業にご用命を賜ったようなもので大変喜ぶと思いますが、太田垣の年内のスケジュールは既に詰まっておりまして、お引き受けしたいと思いますが少々お時間を下さい。ご意向はよく理解いたしましたのでよしなに申し伝えます」
 杉本は人柄が悪くなったと噂される倉本の本性を目の当たりにした気がした。
「週刊誌の依頼で『会員制ホテルの落とし穴』の特集をやるんですよ。会員の苦情が絶えない三和ホテルに取材を申し込んだら逆に仕事を頼まれてしまって」と言った。
「頼み難くなったなあ」
「何なりと私に出来る事でしたらお引き受け致しますよ」盆暮れの付け届けを欠かさない杉本の願いを聞かないわけにはいかない。
「鹿島工務店の大野副社長が太田垣代表に頼みたい事があるので、是非早い内に時間を作って頂きたいと言っています。いい話です」
「他ならぬ杉本先生じゃありませんか、一々私を通さなくても直接太田垣に話してやってくださいよ」倉本の態度が一変した。
 
 会議室は大粒の梅雨がガラスを叩いていた。太田垣は直ぐ来た。
「テーブルがベトベトするじゃないかクーラーをつけなさい」
「少しお待ち下さい、直ぐ乾燥しますから」と、倉本は従順で少しも変わっていない。
「何かいい話ですか、杉本先生」太田垣は杉本先生と言った。
 倉本は三和ホテルの一件を手短に報告した。
「社史編纂をお願いしたいそうです、創業三十周年記念事業だそうで三千万の予算で一万部と言っておりました。太田垣のスケジュールを調整してみますので時間を頂きたいと言っておきました」
「お前は俺より上手だ」太田垣がほくそ笑んだ。
杉本は緊急極秘の意向であると断りを入れ、新軽井沢計画の太田垣に必要な最小限の情報を伝えた。
「わかった、わしが滝本社長本人から確かな話を聞いてから返事をする」
 杉本は(滝本に近い太田垣に付いた方が有利か)と迷った。
 その時、会議室の出入り口の電話が鳴った。
「はい、はい結構ですよ繋いで下さい。通産省からです」倉本はコードを手繰って太田垣に受話器を渡した。
「太田垣です。はい、なんだと、型式承認を取り消し? ふざけたことを抜かすな! 貴様、名は何と言うか、取り消しは貴様の意見か課長の判断かどっちだ。ストーブは春には全て回収し全額払い戻し済みなんだ、社長自ら顧客に頭を下げて回ったのに役人が今更何をぬかす。課長を出せ、否、俺がそっちへ行く、直ぐ行くから課長を突っ捕まえておけ」と受話器を叩きつけて「先生の話は引き受けた。段取り付けて連絡するからそれまで大野には知らせるな」
 杉本は太田垣の指示に従い大野には知らせず、新軽井沢計画に対する自らの戦略を練った。
 事業は本申請に先立って関係省庁と事前の協議をしなければならないのだ。
リハビリセンターとホテルの計画全容を示す図書を作成し、建築指導課、下水道課、観光課等と協議し指導を受ける必要がある。近隣住民及び関係業界団体の承諾も得なければならない。この協議に必要な図書を無償で作図提供し受注契約を確実なものにしよう。設計図書には著作権が生じ他者が当該図書を用いて協議する事も本申請する事も許されない。
 サービスの対価は本設計で必ず回収する。実質損害を被るサービスなど有り得ない。
 施主との直契約と鹿嶋工務店との契約では収益は雲泥の差だ。鹿島工務店の下請けは保険に過ぎない。鹿島工務店が受注に失敗しても現代都市空間デザイン事務所の看板は必ず立てる腹だった。
 久しぶりの大型物件に気が入った。この夏のスキューバーダイビングは断念した。
 ケアンズ島の南に浮かぶ珊瑚礁の島、波打ち際のシャリンシャリンと風鈴のような涼しい夏の音がするフランクランド島が彼の遊び場で、日帰りで潜る事も珍しくなかったのだが……。
悪道 榎生 東

母ちゃんの握り飯
中川きよみ

 まだ1歳だというのに、隆は深夜になっても熱が一向に下がらない。妻はゴソゴソと布団から起き出して奥の部屋へ行く。額の冷えピタでも交換するのだろう。それが長所であり短所でもある大雑把な性格の妻が、驚くほど細やかに献身的に看病に当たっていた。
「薬は飲ませたんだろ? まだ熱が下がらないなんて、大丈夫かな?」
「これ以上は上がらないみたいだから、朝までこうして様子を見てましょう。」
 寝室の豆電球が落ち着いた笑みをたたえる妻を照らし出した。僕まで安心してしまう、母のほほえみ。

 子供の頃の僕の家は、ずらりと並んだ5階建ての市営住宅の3階の隅っこだった。
 1年生くらいの僕は小学校帰りで、いつも通り猛烈にお腹を空かせていた。そして、住宅の階段の一番下の陰に、チラシ裏の白い紙の上にぽつんと置かれた肉まんを発見したのだった。もうとっくに冷めていたけれど、もちろん食べられそうだった。
 幼い僕は、空腹のために虚血気味の脳味噌で必死に考えた。ここは一番公園に近い棟だから、このままではすぐに野良猫に喰われるだろう。チラシごともらって帰ればバレないし、万一置いた人が捜しに来ても誰かが拾って帰ったと思うだろう。
 そしてぼくはそそくさと肉まんをチラシに包んで3階に駆け上がったのだった。

 鍵を開けていつもは何もない玄関に靴があるのを見て、突然今日は弟が保育所を休んでいることを思い出した。朝、熱があったから父ちゃんが病院に連れて行くと言っていた。部屋を覗くと裕二だけが真っ赤な顔で寝ていて、父ちゃんはいなかった。
「とうちゃんは?」
 訊いても、裕二は起きなかった。テーブルのところに「はやくかえるよ。ゆうじをたのむね。」と書かれた手紙があった。父ちゃんから書き置きの手紙なんかもらうことは初めてだったし、父ちゃんの書いた平仮名の手紙が全部読めたことが僕はものすごく嬉しくて、誰にも言われなかったのにちゃんと手を洗って、それからもう一度読み直した。
 「ゆうじをたのむね」と父ちゃんから信頼されていることを知って、僕は俄然やる気になった。当たり前のように独り占めするつもりだった肉まんを、半分分けてやる気になったのだ。
 肉まんをぴったり半分になるように皿に分けると、裕二の枕元に行って座り込んだ。裕二の真っ赤なほっぺたをちょっとつついてみて、それでも起きないので耳元で「ゆうじ、ゆうじ、」と呼んでみた。
「ねえ、ゆうじ、にくまんたべる?」
 裕二ははぁはぁと荒い息をしながらかすかに首を横に振った。僕は少し考え込んで、それからもう一度耳元で声をかけた。
「じゃあ、にいちゃん、たべちゃうよ? いい?」
 裕二は何も反応しなかったので、「いい」と言ったことにした。
 僕はひとくち、かぶりついた。
 ガタ!
 突如襖が開いたので、僕は本当にびっくりして思わずかぶりついた肉まんをぽろりとそのまま落とした。
「浩一、そんなもん食べちゃダメだろっ!」
「かっ、かあちゃん!」
 爆発的な驚きと嬉しさで身体が沸騰しそうになった。
「拾ってきたんだろ? 母ちゃん、知ってるよ! 裕二に半分こしてあげた心根は褒めてあげたいけど、こんなもん拾って食べるのは悪いことなんだよ!」
 皿を取り上げ、台所のゴミ箱に肉まんを放り込んだ。せっかく僕が拾ってきた肉まんを目の前で取り上げられて捨てられてしまった理不尽さに、僕は号泣した。
「浩一、落ちている食べ物にはね、毒が入ってることもあるんだよ。」
 母ちゃんは僕の目の高さまでしゃがむと両手でほっぺたを挟んで、やさしく言った。前みたいにドツかれると思っていただけに、ますます僕は泣きじゃくった。母ちゃんの手はひんやり冷たかった。
「お腹、空いてるの?」
 しゃくりあげながら、こくんと頷く。
「仕方ないね。そこで待ってな。」
 母ちゃんは台所に立って、なんと米を研ぎ始めた。母ちゃんは家にいた頃から滅多に料理などしていなかっただけに、子供の目にも異様に手際が悪く、僕はだんだん不安になってきた。もたもたしている間に父ちゃんが帰ってきたらどうしよう、母ちゃんは本当は帰って来ちゃいけない筈だろうに。
 何度も繰り返された、もう絶対に見たくない、父ちゃんと母ちゃんのバトルを思い出して、僕はものすごく気を揉んだ。その一方でやけに余裕をかましている母ちゃんの様子に、かすかな期待を膨らませた。そう、僕と裕二はずっと、母ちゃんに帰ってきて欲しくて、ずっとこの家にいて欲しくて、でもそんなことは言ってはいけないと幼心に我慢していた。

 部屋に飯の炊ける匂いが立ちこめる。母ちゃんはくわえ煙草でおにぎりを作り始めた。
 アルミ鍋で適当に炊いたご飯は芯があるくせにべちゃべちゃとした状態で、母ちゃんはそれを塩を探し出せずに味の素を使って強引に握り固めた。駄目押しするみたいに、中には父ちゃんがおつまみ用に冷蔵庫に常備していたイカの塩辛が入っていて、それはもうすさまじい出来映えだった。おにぎり、などと可愛らしく称するにはあまりにもおこがましい、いびつででかい握り飯だった。
 あまりの不味さと、あの母ちゃんの手料理だという奇跡のようなありがたさに、僕は本当に涙ぐみながら食べた。母ちゃんは僕が食べ終わるのをじっと見守り待っている。その視線の前で大きさと不味さに持て余し、裕二に半分分けてやろうかと思い付いたが、いやそんなことをしたら腹をこわして裕二はますます病気が重くなる、と子供のくせに冷静に正しく判断し、自らを犠牲にして完食を果たした。あらゆる意味で強烈な、忘れられない味の握り飯だった。腹がいっぱいになると言うより、胃が重くなっていた。

 「いいかい、母ちゃんが来たことは絶対内緒だよ。」
 僕が食べ終わるのを待っていたかのように、母ちゃんが言った。
 ああ、やっぱり母ちゃんはまた出ていってしまうのだ。僕は途方もなく悲しくなって、胃がさらにズシンと重くなった。
「心配すんな、また来るよ。」
 なぜかその時、僕は泣いちゃ行けないと思った。必死に、もうとにかく必死に涙を堪えて、母ちゃんの顔がにじんでブレていた。それでも、涙はこぼさなかったと思う。
「よし、それでこそ、男だ! もう二度と拾い食いはするなよ。」
 母ちゃんはニコリと笑うと、くしゃくしゃっと僕の頭をなでてから、出て行ったのだった。
 出て行った? いや、消えたのだったと、今でも思う。母ちゃんのくわえ煙草の灰は、なぜか全く痕跡がなかったことを、とてもよく覚えている。
 ちょうどその頃、近所で野良猫がホウ酸入りの肉まんで何匹も殺される事件があってちょっとした話題になった。

 短い、幼い日の夢から覚めた。
 母は、僕が小学生の頃、浮気相手と旅行中に事故死したのだと、大きくなってから知った。家出しただけでなく、とうに死んでいるだろうと薄々気付いていたので別に驚かなかった。ただ、遠いあの日、毒入り肉まんの代わりに毒にも匹敵するようなすごい握り飯を食べさせたのは、死んだ後の母だったように思えて仕方がない。

 隣を見ると妻は寝息をたてていて、隆はと言えば冷えピタが切れていたのか巨大な保冷剤を額にくくりつけられていた。なんだか頭が変形しそうで怖かったので取り除いてみたら、額はひんやりと冷たく、意外にも気持ちよさそうに寝息を立てていた。
 何にしろ、母親という生き物は逞しい。
 僕は嘆息して、再び眠りについた。
母ちゃんの握り飯 中川きよみ

スカスカ
村松 木耳

「君がいないと、終業式だね。」
 そう言ったか言わないか、蜂須賀君は走り出した。夕飯に定食屋へ向かう道のことだ。

 大学3年生の春休み、私は今までのぐうたらな生活から一転して就職戦線真っ只中にいた。毎日朝からリクルートスーツに身を包み、縦横無尽に地下鉄を乗り回しては都内を動き回る日々。私は疲れていた。
 一方、蜂須賀という名のこの男。彼も同じく3年だが、理系大学院進学ゆえに毎日の春休みをのほほんと満喫している。彼とは私の家でほぼ同棲状態にあるが、私がスーツとメイクをビシッと決めたころに起き、日が暮れてスーツとメイクをよれよれにさせて帰ってきた頃には、かなりの確率で昼寝にいそしんでいる。そんな男だ。
 付き合い始めたのはおととしの秋。
 無口であまり動かない、大仏様のような人だと思った。そんな大仏様から突然に愛の告白を受けたものだから、自分が告白されたことよりも、大仏様に恋愛感情があったことに驚いた。後にそれを蜂須賀君に言うと、
「そうかな。」
たったそれだけの返事が返ってきた。
 蜂須賀君が初めて手をつないでくれたのは、その直後のことだ。

 そして、今もその手は私と繋がっている。はずだったが、点滅青信号を渡ろうとダッシュしたおかげで外されてしまった。
「今の、どういう意味?」
信号を渡りきって、少し息が切れる。
「今言ったよね。何、終業式って。ねえ。」
 蜂須賀君は私に返事をするでもなく、いつもの定食屋に入っていた。お互いの家のちょうど中間の位置にあるその店は二人のお気に入りだが、彼にとっては少々量が少なく、私には多いので、お肉は決まって彼にいくらかあげる。お肉のやりとりは、私達の間では暗黙の了解となっていた。
「メンチカツ定食。」
 私がコートとスーツのジャケットを脱ぎ席につく間に、彼は手早く注文を済ませる。
 この定食屋で一緒に食べようと言ったのは私だ。今日は朝から就職セミナーをハシゴして、夕飯を彼と待ち合わせした。
 朝と夕のラッシュに揉まれて、疲れたサラリーマンと同じ顔をした私がいる。明日も、明後日も、真っ黒のスケジュール帳を見るだけでくたくただ。私が慣れないパンプスで靴ずれを起こした足をひきずっている時、このメンチカツ男はどうせベッドでぬくぬくしてたんだろう。そう思ったら急に腹が立った。
「チーズカツ定食ください。」
言った後で蜂須賀君をちらりと見る。ぼーっとしている。
 彼はチーズが嫌いだ。そのおかげでピザもチーズケーキも食べられない。ただ『チーズかまぼこ』だけは、むしろ好物だと言わんばかりに食べていたのを覚えている。
 それはいいとして、そう、私はとにかく疲れていた。だから、彼の嫌いなチーズカツをあえて選んだ。
 もう一度蜂須賀君を見ると、彼はこっちを見ていた。
「今日、何してたの?お昼ごはんちゃんとたべた?」
私が訊く。それから、蜂須賀君は湯のみを手に取る。飲む。もう一口飲む。息を吐く。
「食べたよ。」
 相変わらず、質問から答えに至る時間が長い。どうしてこう、さくっと答えられないんだ。そんな考えを抱いてまた、いらいらした気持ちがつのる。
 蜂須賀君の独特の「間」。いつもなら気にならないのに、なぜだろう。どうして今日はこんなに嫌な気持ちを抱いてしまうんだろう。黒くて堅いリクルートスーツが、私を変にさせる。
「あと、デュージャン・ボグダノヴィチのCD聴いてた。」
 誰だよそいつ。
 そうこうしているうちに、美味しそうなメンチカツとチーズカツがテーブルに届いた。
 ほかほか、している。
 私と蜂須賀君は何を話すでもなくそれを食べた。いつも「会話」なんてほとんど無く、私が一方的に喋って、彼は相づちを打ったり打たなかったりする。でも、今日は私が黙っていたから、時々彼がデュージャンナントカについて喋った。あまりにも言葉が少なすぎて、結局そいつが何者なのかわからなかった。
 お会計を済ませて店をでる。私のお皿には、チーズカツが2切れ残っていた。
 
 店の外は、2月下旬の冷たい夜気で満たされていた。
「寒いね。でもね、ビルの間の風の冷たさはもっとひどいんだよ。」
私が言う。蜂須賀君はマフラーを鞄から取り出し、首に巻く。結び目に失敗して巻き直す。
「行くよ。」
それだけ言って、蜂須賀君は私の手をとり、私の家の方向へ歩き出した。
「家に帰ったら履歴書書かなきゃ。シャツもアイロンかけないと。あ、ストッキング。コンビニ寄っていい?」
 蜂須賀君は無言だったが、ちゃんと私の手を引いてコンビニに入っていった。私はストッキングを、蜂須賀君は梅おにぎりを買った。そのおにぎりは、ちょうど2切れ分のチーズカツくらいの大きさだった。
 コンビニを出て、また歩き出す。人気の少ない道路に二つの影が映る。
 普段着の蜂須賀君と、着慣れないスーツの私。普段のままの蜂須賀君に、どこかおかしい私。
「いいよね、蜂須賀君は。理系大学院ってすごく就職いいんでしょ?文系は大変なんだよ。蜂須賀君みたいに毎日ぐうたらしてられないんだから。」
 いけない、と思った。、今の苛立ちを蜂須賀君にぶつけたって、どうにもならないことくらい分かってる。
「君はキリギリスだからね。仕方ないよ。」
意味が分からない。苛立ちが止まらない。
「私の家に来てもいいけど、私忙しいから遊んであげられないよ。ごろごろされても邪魔だし、帰ってデュージャンナントカでも聴いてたほうがいいんじゃない?」
 下を向いたまま、まくしたてた。
 蜂須賀君は何も言わなかった。ただ、10歩ほど歩いてから、止まった。
「帰るね。」
そう言って、つないだ手に目をやった。私はいつの間にか、蜂須賀君の手を強く握り締めていた。彼がもう片方の手でそれを解いた。
「ごめん。」
つぶやいて、彼はくるりと向きを変えて行ってしまった。 

 私は、そのまま自分の家に歩き出した。
 私が悪かったのだろうか。私の就職活動に余裕がないことで蜂須賀君に苛立っても、無意味だ。でも、隣でのんびりされるといい気はしないっていうのも一理あるんじゃないか。
 キリギリスってなんだったんだ?アリとキリギリス?そう言えば蜂須賀君は日頃、授業のレポートでよく徹夜していた。分厚い本を眺めては妙な数式を書いて、しかめっ面をしていたことも多い。私は、将来を考えることもなく、ただ毎日を楽しく遊んで過ごしていた。だから、キリギリス?
「あの野郎。」
 言葉が少なすぎるから、よく考えないと分からないんだ。なるほど、キリギリスか。なかなか的を射ている。少し、笑った。
 ふふ、と声を出したところで、何か前方がもの足りない気がした。笑っても、それが跳ね返ってくるいつもの背中が無かったからだ。喋らなくても笑わなくても、ただいつも近くにいることが当たり前だった大仏様が、いない。
「あ。」
そうか。それだ。

 終業式。終業式は授業がないからランドセルを持って行かないんだ。何かちょっと不安で、背中がスカスカして物足りない感覚。
 いつも前を歩く蜂須賀君がいないと、私は前がスカスカする。蜂須賀君は私がいないと、背中がスカスカするんだ。
 
 まったく、どうしてもっと言葉を増やして説明しない?この分じゃ、今までにも私が理解を逃した愛の言葉があるかもしれない。なんて面倒な男なんだろう。
 勢い良く180度回転して、ダッシュ。全力で走れば、蜂須賀君が家に着く前に追いつくかもしれない。
 だけど、途中でコンビニに寄ろう。明日の履歴書用紙と、「チーズかまぼこ」を買えば、きっといつもの私に戻れるはずだ。
スカスカ 村松 木耳

夢じゃない話
小笠原寿夫

 夢を売る商売。それは、人間だけに許された特権なのかも知れない。
あのアイドルグループが、国家プロジェクトとして、自由の国アメリカに進出した。
そこに至るまでには、長く険しいレッスンがあった。ダンス、歌、英会話。コーチが手塩にかけて育てたアイドルが今、夢の舞台で一世一代のプロジェクトを完成しようとしている。

 舞台は海岸に面する、未来都市さながらの大都市であった。街は、すべて銀色のビルディングが立ち並び、海に囲まれるように、港が、きのこ状に伸びている。集客は街全体の150万人。訪れた観客は、スーパースターの登場を待ち焦がれ、かなりどよめいている。まさに空前絶後の大イベントである。

 一方その頃、日本の首都、東京では、主役のアイドルグループをはじめ、各界の著名人が、その瞬間を、今か今かと緊張した面持ちでその場の空気に圧倒されていた。そこには、某有名放送局のアナウンサーや、スポーツ界のトップロードをひた走る選手や、それを支える、企画者たちが終結していた。アイドルグループ5人がワープ装置の中に入れられると、その場の緊張はピークに達した。スター5人を乗せたワープ装置がウォンウォンと音を立て、その回転を早める。と、次の瞬間、大きな縦波と共に、アイドル5人はその場から姿を消した。

 突如、アメリカのある街が興奮と熱気で、溢れかえる。観衆が取り囲む中、突然、5人の男が、姿を現したからである。5人はまず、沿岸の港に向かって、バク転で岬のステージまで上がっていった。そして、決めのポーズを取った後、“わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!we wish love and peace of world!”と声をそろえて叫んだ。観衆のどよめきが、スタンディングオベーションへと変わる。後から、ワープ装置でやってきた、某有名放送局のアナウンサーが、突如、アメリカのビルの倉庫から、現れる。そして、アメリカの街の、一般の黒人男性の前まで歩み寄り、振り向いたかと思うと、目と口に1セント硬貨をねじ込んだ顔を見せる。黒人男性は、はじめ、戸惑った様子だったが、いつの間にか、上半身裸になっており、大胸筋から腹筋を上下に震わせて、体全体で、笑いを表現する。アナウンサーも身体を震わせて、笑いを見せる。いつしか、寒空の下、街全体の観衆が、体を上下に震わせて、笑っている。まさに言葉の通じない人種通しのコミュニケーションである。その後、日本トップのスポーツ選手がパフォーマンスを見せた後、アイドルグループの英

 次の日、アナウンサーが見せた、1セントのネタはその街で大流行した。老若男女に至るまで、いろんな円いものを目と口にねじ込んで遊んでいる。トナカイまでもが、目にトマトの輪切りを入れて、ごみ収集のおじさんに見せている。ごみ収集のおじさんは満面の笑みを浮かべ、トナカイはそのトマトで、おじさんにハンバーガーを作ってあげる。おじさんもおばさんも笑顔に満ち溢れている。

 昨日、大活躍を見せた、アイドルグループはというと、昨日の疲れもあってか、岬の先端にあるホテルのベッドでしばしの休息を取ったり、歯磨きしたりしている。昨日の興奮とは裏腹に、今日は、街は落ち着いた様子である、このホテルは筒状の超高層ビルになっていて、アイドルは1、2階を使用している。ベッドはハンモックになっていて、2階に寝ていた、アイドルの一人が、寝返りを打った瞬間、ハンモックが、1回転して、1階に寝ていた、もう一人のアイドルの上に落ちてきた。丁度、アイドル同士が抱き合う形になったところへ、昨日作った、アメリカの彼女がドアを開けて入ってきた。
「何やってんの?」
彼女は、怪訝そうな顔をして、そう言った。
「違うんだ、これは、その、あぁ、空からこいつが降ってきて。」

 街は、さわやかな陽気に包まれていた。街全体が、ウキウキムードで一杯である。しかし、この街の中で、ひと際、恐怖におののいている、一人の男がいた。アイドルが1、2階に泊まる超高層ビルの屋上で宇宙を見上げながら、一人で宇宙に飛び立とうと、携帯電話を持って震えている全身銀色のタイツを履いた男がいる。

 ビルの最上階から、2、3階下の会議室にいるスーツ姿の白人男性が、この男と、電話をしているようである。
「なんか、上の方、相当怯えてるみたいなんですけど。」
「大丈夫だろ。あいつヒーローなんだから。」
電話をしている男性の上司と思わしき人物は、あっけらかんとしている。

 全身銀色のタイツ男は今にも宇宙に飛び出して行こうという体勢になった。日本の国家プロジェクトを遥かに凌ぐ全世界の期待と大望を、今、この男が一手に引き受けている。
「ごっつ怖いわ~。俺、これからどうなるんやろ。」
「大丈夫ですって。博士も係長も心配ないって言ってますし。」
「身体、震えてしょうがないねん。」
「全身タイツが全部守ってくれますから。」
「厄払い行っといたら良かったわ~。」
「今更、そんなこと言ったって、しょうがないですよ。あなたは、アメリカの名誉にかかわるプロジェクトの最前線にいるんですから、自覚してくださいよ?」
「昨日のイベントどうやった?」
「大成功でしたよ。あなたもきっと成功しますよ。」
「何のためにこんな怖い思いせなあかんの?」
「宇宙の神秘を確かめるためです。」
「わかった。しゃあない。ちゃんと家族には連絡取っといてな。」
「わかってますって。いってらっしゃい。人類の希望を乗せて。」
男には、宇宙船も使わずに、危険を冒して、宇宙に行く意味が分からなかった。しかし、上司の言うことは絶対である。逆らうことは出来ない。この男、ヒーローと呼ばれながら、宇宙よりも上司の方が怖いのである。

 その時、銀色タイツの男の耳に、わっしょい!わっしょい!の声が聞こえてきた。昨日のアイドルグループのパフォーマンスが、頭の中に蘇ってきたのである。男も、ビルの屋上で、わっしょい!わっしょい!わっしょい!わっしょい!と叫びだした。そうしているうちに、だんだん勇気が湧き上がってきた。そして、わっしょい!を45回叫んだ次の瞬間、男は、宇宙に飛び立った。

 大気圏が異常に熱い。しかし、特殊加工の全身タイツのおかげで、なんとか、その身体を熱が溶かすことはなかった。大気圏を抜けると、そこは真っ暗闇だった。身体が異常に軽い。まるで、自分の存在すらも確信できない無の世界。男は地球に戻った時のコメントを考えていた。一人で宇宙空間を浮遊した時の情景、今の気持ち、地球に帰ったらまずやりたい事。しかし、何もない世界で、想像力を膨らますのは至難の業である。男は、今の現状を洞察するため、神経を集中した。そうこうしているうちに、身体に取り付けられたワープチップで、男は地球に引き戻された。

 男は、急に地球の見慣れた風景を目の当たりにして、すこし動揺した様子だった。インタビュアーが男に迫る。
「宇宙から見た地球はどうでしたか!?」
「宇宙を旅した感想は!?」
「宇宙ってどんなところなんですか!?」
 男は、困惑した様子で答えた。
「夢を見させてもらったのは、僕の方かも知れない。昨日のイベントといい、今日の宇宙旅行といい、たったの2日でこんなにも激動の体験が出来ることに感謝します。」

 平和はきっと訪れると確信した。
夢じゃない話 小笠原寿夫

最も恐ろしい一夜の話
のぼりん

 たまには実話もいいだろう。
 学生時代のことである。サイクリング部の友人からその身の毛もよだつような恐ろしい話を聞いたのは、最初の夏休みがあけて間もなくのことだった。
 久しぶりに授業で再開したとき、彼の頬はやつれ目はうつろで、まるで別人のような変貌ぶりにまず驚いたものである。
「悪魔でも見たのか」
 女々しくふぬけのようになってしまった友人を前にすると、そうとしか尋ねようがなかった。しばらくして友人は血を飲むようにただならぬ形相で、ぽつりぽつりと話し始めた。

 長い休みを利用して、彼とその友達の二人は、四国一周のサイクリングに出かけたのだという。色々な出来事、人々とのふれあいを経験しながら、日程の大方を消化したある日のことである。
 朝から天気がおもわしくない。午前中いつの間にかどんよりと暗い雨空になったと思ったら、午後には、すでに暴風大雨警報がでていた。雨脚は激しくなるばかりで、ついに目の前が見えないほどの大降りになった。
 今にして考えてみれば、彼らは四国の天気がどういうものなのか、よくわかっていなかった。この地では天候の変化は常に急なのだ。
 立ち往生したのが山中である上に、もう夕暮れになろうとしている。さらに、方々で土砂崩れがあり、行く手の道がふさがっているという情報がラジオから流れてきた。宿の予約はあったが、その町までとうていたどり着けそうもない。引き返すにしても一番近くの町までは、二、三時間はかかろう。もちろん、車軸を流すような豪雨と暗闇の中、無事に自転車が走るとは思えなかった。
 彼らは途方にくれた。
 そんな時だ。けたたましいクラクションの音が聞こえたのは。
 目の前に電飾のにぎやかな大型トラックが瀑布を破るように浮かび上がり、彼らのすぐそばに止まったのである。
 中からやたらに元気そうなオヤジが顔を覗かせ、図太い声をかけてきた。
「兄ちゃんたち、だいじょうぶか。こんな所でうろうろしていると、冗談じゃなく死んでしまうぞ」
「困ってるんです」
 素直に答えるしかなかった。
「よっしゃ、自転車は後ろにつみな。乗れよ」
 助かった、と二人は安堵した。運がいい。
 実に人のよさそうなトラック野郎だった。彼らはいわれるままびしょ濡れの体を拭いて、そのトラックに乗りこんだ。中はかなり広い。三人はフロントガラスの前に並んで座った。
「ちょっとむちゃだなあ。ここらで雨を馬鹿にしちゃいかんぞ。で、泊まるとこあるんか」
「ええ、宿はとってるんですが」
 ところが、この親切なトラック野郎のいく方向とはぜんぜん違うようだ。
「しかたない、今日は泊まっていきな」
 二人とも旅の中で人の親切に慣れきっているという甘さがある。
「本当にいいんですか?」と、期待をこめて訊ねた。
 そのトラック野郎のいうことには、長距離運送の途中で休憩所として使用している施設(家屋)があるという。どうやらトラック野郎同士で共同して借りているらしい。一戸建てだから宿泊もできる。
 歯を剥き出しにして笑いながら、今晩はそこでゆっくり寝ろ、と、トラック野郎はいった。
「ありがとうございます」
 彼らは、嬉々として感謝の言葉を返したのである。

 さて、その家だが、驚くほど山の中にあった。暴風雨でけむって、全貌は確認できなかったが、木々の間に埋もれるように立っている古い屋敷だ。トラックから降りたときの印象は、そう、まるで、お化け屋敷のようだった。
「泊めてもらって文句は言えないが、なんか不気味だなあ」
「昔の家だなあ。出そうだゾ。こりゃ」
 郷土資料館でみる、大昔の庄屋のような感じのつくり。その中、すでに二三人のトラック野郎が広い座敷の真ん中に集まってくつろいでいる。
「おお、おお。大変だったな。あがれ、あがれ。」
 円座の真中には、酒とつまみがぶっきらぼうに並んでいる。
 気のいい男たちだった。トラック野郎とサイクル野郎、お互いに旅の空で生息していることで息も合う。飲めよ、摘めよといわれるままに、二人は彼らとの語らいを続けた。旅の話は弾み、その間中、陽気な笑い声は絶えなかった。
「それにしても古い家ですね。ここ」
「ああ、なんかいわれはあるみたいだな。家賃もけっこう安かったからな」
 友人はそのとき、ちょっとびくついた。
 死国……そういうホラー映画があった。この地に数多くの霊場があることも知っている。実際、旅の途中で奇妙な話もいくつか聞いた。日本でも、特に霊的な波動が大きい土地柄である。
「出そうですよね?」
「何が?」
 しかし今ここに一緒にいるのは、陽気で豪放なトラック野郎たちだった。さすがのお化けも怖くて逃げ出すに違いない。そう考えると、急に少しでも臆病風に吹かれたことが馬鹿らしく思えてきた。
「いや、何でもありません……」
 そういうと、友人は笑ってコップ酒を飲み干した。 
 男たちは酔っている。彼らもしたたかに酔った。
 宴会は際限なく続くかに思えたが、さすがに疲れた。
「もうこれ以上は飲めそうもありません。眠くなってきました」
「おお、そうか。となりの部屋に布団が敷いてあるから、そっちで寝な」
「あの……」
「なんだ?」
 どうもこのまま寝るには体がべとべとして気持ち悪い。
「風呂はないですかね」
「あるぞ、裏に五右衛門風呂がな、はっはっは」
「使っていいですか」
「いいよ」
「すみません。それじゃ、お先に」
 立ち上がろうとする二人を、誰かの声が、おい、と呼び止めた。
「二人ともケツきれいに洗っておきなよ」
 そういいながら、男たちは相変わらず笑っていた。

 まさか、と思いたい。
 二人はせんべい布団の中で、互いの顔を見合わせた。捕まえられた小うさぎのように怯え、一言も言葉が出なかった。
 外は、叩きつけるような暴風雨である。すでに深夜。無理に家を出れば、確実に死ぬだろう。
 逃れようのない悪夢に襲われた夜。
 助けを求める声は、何処にも届かない。現実というやつは、柔なお化けなど飲み込んでしまうほど恐ろしく、想像を絶するものなのである。 
最も恐ろしい一夜の話 のぼりん

Nightynight,Bedtime
めだか

 二人で初めてみた恋愛映画の再放送があるし、幻の銘酒も手に入れた。
夜は永い。楽しみが待ってるときほど、子供は寝てくれないものだ。
「ねえ、おとうさん。なにかおはなし、して」
「おはなし? えっと、昔むかし、あるところに」
さっさと、お終いにしよう。
「かっこいい王子様がいましたっと……。おしまい」
「なにそれ」
「育ちが良くてお金もあって、惚れ惚れする若者だぞ」
「うん」
「それだけ揃えば、人生、もう何も起きないほうがいいだろう」
「そうかなぁ」
「だから、お終いでいいのさ」
「つまんなぁい」
「いいじゃないか。早く寝なさい」
映画と銘酒がおかあさんとね、なんだから。

 浮ついた気分がわかるのか、放そうとしない。
「だから、だからね。テロは自由の平和が独裁なの」
どっかの大統領じゃないんだ。落ち着いて話さないか。
「でもね、人類に家族よぉ。おとうさんはおはなしするの」
「そうだけど、真面目に聞かないだろ。そんな王子様いないとかさ」
「そんなこと、ないよ」
「王子様の年収とか学歴とか、いつも聞いてくるじゃないか」
「きちんと聞くから、お・は・な・し、ね」
「でもねえ。着てるスーツのブランドとか、困るしさ」
そうだよ困るよ。寝てくれよ。
「……」

 言い過ぎたかな。
「電気消すよ?」
「……」
「暖かくしたかい?」
言い過ぎたよね。
「……」
うん、言い過ぎた。
泣いてたら、朝、起きてくれないからなあ。
薄明かりに枕元へ近づいて、そっと髪にふれる。

 じゃ、ばあちゃんに聞いた話にしようか。
ねずみがね……。

 かほが、突然起きあがる。
「王子様は、どうなったの?」
どうしよう。お終いにしたから、忘れてた。
「それは、今はちょっと忘れなさい」
「う、うん。忘れるのね」
「そう、お布団のなかで暖かくして、静かにね」

 ねずみがね。きょうも元気に、辺りを駆け回っていましたとさ。たいそう頭が良かったので、花の名前をよく知ってますし、英字サイコロでは負けたことがありません。人間の罠なんかで捕まることもなく、猫に見つかることすら、ありませんでした。それでも好奇心旺盛なので、ちょっとした事でも好きになり、なにかなあと気になります。屋根裏をつたって、いつものように散歩していると、間違えて離れの小屋に来ていました。ここへ来たのは初めてです。そこには、大きな真っ黒い生き物が、長いしっぽを器用に揺らして、草をハグハグ、食べていました。なんだろう。気にかかるとジッとしていられません。自分で確かめてみたくなり、降りてゆきました。

 その黒い生き物は……。じつは、牛さんです。最近は、かえるさんとコンビで、テレビにも出てるのですが、メイクをしてないので、真っ黒で誰だかわかりません。芸能人は、オフでスッピンの時なんて、そんなもんです。視聴率を少しだけ持っているので、仕事は順調とはいえませんが、悩むほどでもありません。ちょっと笑顔が、かえるさんに似てきたかなとか、近所の猫が色気づいて、夜鳴きが煩しいなとか、とりあえず悩みも、そんなもんです。

 牛に夜鳴きをけなされた猫は、いい迷惑です。季節の性ですから、隣の家の三毛猫を責めても、しかたありません。この家のシャム猫がお気に入りなのです。今日も逢えないかなと、屋根の上に来ていました。おや? よくみると、シャム猫ちゃんを悩ませているねずみが、牛小屋に降りてゆくではありませんか。恋にプレゼントは付き物です。あのねずみなら、シャム猫ちゃんも喜んでくれるでしょう。さっそく三毛猫も、足音を忍ばせて降りてゆきました。

 ちょとすみません。そのしっぽ、どうなっているのですか? ねずみが尋ねます。これが、どうかしたの? 牛はしっぽを振ってみせます。そのとき、やや翻すのがいつもの癖です。なんてすばらしい技だ、ねずみは褒めます。牛は、玄人受けだけする技を認められて、すこし嬉しくなりました。そうかしら、ちょっと苦労はあるけど、たいしたことでもないのよ。また、翻して魅せます。ほんとうなら牛は、ねずみが大嫌いなので、大騒ぎになるのですが、陽気なもので、いつもより多めに振っています。ねずみは不思議なものも好きですが、他人の笑顔が、もっと好きなのでコツを知っていたのです。二人が笑みを交わした。そのとき!

 ウギャアアアア。バサバサバサ。

 寝藁をついて、三毛猫が駆け込んできました。
とっさに、ねずみはしっぽに飛びつきました。
猫も、負けずに飛びつこうとして、ジャ~ンプ。

 駆け込んできたのが猫だと、牛にはわかりましたから、ねずみが捕まったと思って心配です。ねずみさん、どうなったの? あれ? 何かがしっぽにぶらさがっているぞ。これは、ねずみかな、猫かな? 

 ぶんぶん、ぶん。
あッ! これは軽いぞ、ねずみさんだ。

 牛は、しっぽを思い切り振って、天井裏に逃がしてあげました。牛からは見えませんが、ねずみは無事に逃げることができ、ちゅうと挨拶して、走っていきます。あれ? また、しっぽにぶらさがっているぞ。これは、ねずみかな、猫かな? 

 ぶうんぶうん、ぶううん。
あッ! これは、猫だ。

 牛は、しっぽを思い切り振って、壁に叩きつけてやりました。猫は、ねずみを逃してしまい、にゃんと鳴いて、目をまわしています。あれ? まだ、しっぽにぶらさがっているぞ。これは……、なんだろう? 

 ぶううんぶううん、ぶぶ、ぶううん。
あッ! これは。

 しっぽを翻して、ドンと背中に乗せてあげました。ほら、やっぱり、王子様だ……。

 かほが、ゆっくり起きあがる。
「王子様は、ないんじゃない? おとうさん」
「いや、だからね」
「忘れてたのに」
「だってほら、忘れたままじや気になるだろ」
「あん?」
ちいの真似は、やめなさい。
「だから、牛さん王子様に、密かに恋心を持っていてだな」
「それで?」
「そう、ねずみさんのおかげで仲良くなるという」
「ほんとに?」
「ほんとさ、ばあちゃんに聞いたんだからさ」

 暗闇でボソっと、声がする。
「それは、ちがうな」
「のわッ」
「おっどろいた。おばあちゃん、いたの?」
「そうだよ、いつからいたのさ」
「話につられてな。それより、正くん」
「はい」
正くんなんて、子供のとき以来だ。
「いくらお前さまでも、王子様はなかろう」
「やっぱり、おとうさん」
そうだったっけ。

 そもそもなと、ばあちゃんの話が続く。
「好きなのに、モウモウと煮え切らない牛が、正くんでな」
「おとうさんが牛?」
待て待て、何を言い出す。
「シャム猫が、猫になりたい楓さんよ」
「おかあさんなの?」
そうだった。最後に王子様でなく、シャム猫だった。
「どうして私だとわかったのと、仲良くなってな」
「うん」
そうか。それで、覚えてたんだ。
「それから一生、幸せに暮らしましたとさ」
「そうなんだ」
知らなかったよ……。

 かほは、何かを考えている。
「ねずみさん。役に立ったかな」
「縁結びさね。ちいさくても、大きな力をもっておる」
「そうよね」
大切な役割が、あるのさ。
「……。もう寝るわ」
「そうしなっせ」
おやすみ、かほ。

 かほは、夢を見る。

 三毛猫さんがやってくる。早く逃げないと、しっぽが翻ってドン。背中で王子様がお酒飲んでる。
馬鹿みたい、おとうさん。映画はあきらめたけど、きっとおかあさんは待ってる。
よかったね。おばあちゃんが、ニッコリ笑ってウインクしてる。
「子供を寝かすコツよ。覚えておきなせ」
おばあちゃんが、狸になっちゃった。狸さんだ!