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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第57回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 9月)
文字数
1
のぼりん
3000
2
麻優
2552
3
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
4
伊勢 湊
2998

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愛しのキャサリーン
のぼりん

 誰もがこの船が沈むと思ってはいなかった。しかし、氷山に衝突してすでに一時間を経過している。振動する足元に、地獄の奈落がその口を広げているのは確実だ。
 とりあえずデッキを後にして、一等客室に戻った。さすがに焦りを隠せない客室係が、金持ちどもに救命具のつけ方を教え始めたようである。しかし彼らはそれさえも鬱陶しそうにして撥ねつけていた。
 私は馬鹿ではない。今、この船で繰り広げられつつある出来事を俯瞰する知力は持っているつもりだ。もっとも、私がこの場に及んで理性を保っているのは、常に紳士でありたいという、高貴な誇りのためでもあった。
「何かあったんですか?」
 振り向くと部屋着のままの妻が通路に立っていた。
「キャサリーン」
 彼女は首を傾げた。
「ん、どうした、聞こえないのか?」
「ええ、先ほど船底ですごい爆音がしたの。そのせいで難聴になっているのでしょう。耳が聞こえなくなっては、もうわたしもおばあちゃんね」
 私は少し笑って見せたが、すぐに弛んだ唇を引き締めた。
「君に伝えなければならないことがあるんだ」

 私たちは運命を受け入れなければならない。人生の最期を最愛の人と終えることを、神に感謝すべきだ。
 部屋に戻ると、私たちは簡単にシャワーを使い、身だしなみをつくろった。それから、抱き合うようにベッドに横たわった。
 そこには外の喧騒はまったく届かなかった。ふたりは別世界のような静寂の中にいた。
「これまで本当に世話になった。私の人生は君のおかげで喜びに満ちていた」
「長い時間でした」
 ふたりは、片手をしっかりと繋ぎあって仰向けになり、天井を見つめた。そうしてしばらく思い出を語り合った。
 最後に、さあもう眠ろう、と私は穏やかに呟いて目を瞑った。
 ふと、妻が繋いだ手に力を込めたのがわかった。
「この船ほんとうに沈むのですか」
「ああ……だんだん部屋が傾いてきた」
 今や、水しぶきが激しくベッドの足元を洗うようになっている。ちょっとでも気を抜くとずり落ちそうだ。
「ごめんなさい、ベッドの場所、替わってくださる?」
「いいけど…眠れないのかい?」
「無理だわ。こんな格好じゃ」
「眠った方がいい、苦しまずに死ねる」
 ベッドの足はすでに水面に没していた。シートからはみ出した片腕が海水に浸かって、私はその恐るべき冷たさに跳ね起きた。
「き、君、もう少しそっちへ寄って貰えないか」
「そんなに冷たいの?」
「場所を替わって、君自身で確かめてみたまえ」
「いやよ、水に手を浸けるなんて、下女のやることだわ」
 妻は炊事も洗濯もしないで一生を終えることのできる階級に生まれた女性だった。冷たい水をとても嫌った。
「あ」
 と、突然、私は懐疑心の虜になった。
「だから、場所を替わってくれってこと?」
「何くだらないことをいってるの。私のこと愛してないの」
「もちろん愛してるよ。だからもう少しそっちに詰めてくれないかな」
「ちょっとだけですよ」
 妻は身を捩るようにして空間を空けた。が、いくら寄っても冷水は私を追いかけてくる。
「どうして私たち逃げないんですか?」
 それは男としての人生の終わり方に関する重大な問題だった。女性には理解できないと思うと、その質問に至極ありふれた回答しか思い浮かばないことに気づいた。
「逃げられないんだよ。この船の救命ボートは総員の半分しか乗せられないし、人々はあさましい取り合いをしている」
「あなたっていつもそうなのね」
 妻はそのまま口をつぐんだ。予想通りの反応だった。
 突然、傾きに耐え切れなくなった私の体がずり落ちた。下半身が冷水に浸かり、「ひえ~」と、情けない悲鳴をあげた。
 慌てて這い上がり妻を押し上げたが、そのとき、ささやかな抵抗を感じた。気づいたときは握り締めていた掌も離れてしまっている。
 まさか……? 
 胸中が疑心暗鬼にざわめいた。
「ね、ねえ君」と、私は歯の根を震わせながら妻を仰ぎ見た。
「愛してる?」
「愛しているわ、でも……」
「でもって、何だ?」
 再び、妻が沈黙した。
「何かいってくれ。冷たくて死にそうだ」
「だって、あなた死ぬつもりなんでしょう?」
「仕方ないだろう。この船は沈む運命なんだから」
「でも、救命ボートに乗っている人は、確実に助かるわよね。なんでそのボートに乗れないの? どうしてあなた一人で全部決めるのよ」
「男としてどう終わるか、それはすべて、私が判断したことだ」
「それ変でしょう。だって、こんな時は上流階級から先にボートに乗れるはずじゃないの? お金なら誰よりもずっとたくさん払っているわ」
「―ううん、確かにそうかも……」
「交渉しなさい」
 キャサリーンは毅然として言い放った。私はうろたえた。
「ボートのところまでどうやって行くんだ?」
「あなたがここから降りて、わたしを背負って泳ぐのよ」
「そりゃないよ、キャサリーン。私は、昨日から風邪気味なんだぞ」
「レディを守るのが紳士。そうでしょう?」
「本当に愛してる?」
「しつこいわね!」

 その後、まさに奇跡の脱出が成功してデッキの上に立ったとき、私はただ呆然とした。最後に残ったボートに乗り込むため、人々が我先に争う地獄絵図を展開していたのである。
「これを使いなさい」
 いつの間にかたくさんの宝石を身に纏った妻が、私に護身用の拳銃を手渡した。
「アメリカに行って先月新調したドレスの袖に腕を通すまでは、絶対死ねないわ」
「この騒ぎなら、撃ってもばれないな」
「ばれないわよ、ボートの席をとるのよ」
「…だが、私は紳士だぞ。晩節を汚したくない」
「私を失っても?」
「馬鹿な、そんなこと考えられないよ。ええい、こうなったら私はやるぞ」
 その阿鼻狂乱の中をどうやって突き進んでいったのかわからないが、気づいたときには、私は最後のボートの前にいた。
「このレディを乗せるんだ。死にたくないのなら」
 ざわめく乗客に二三発銃を撃ち込み、やっとのことで妻をボートに乗せると、さらに自分の席のために凄んだ。
「三等客室の者は降りろ。さもないと撃つぞ」
「あんたそれでも紳士か。どうせ死ぬんだ、撃ってみろ」
 実は銃弾は底を尽いていた。私は拳銃を海へ捨て、仕方なく内ポケットから札束を抜いて、目の前の男に差し出した。
「ここではもう金は役に立たないよ」
 ではこれを喰らえ、と、思いっきり突き出したパンチが空をきり、私はつんのめった。男はニヤリと笑った。
「そんなヘナチョコで喧嘩ができるかい」
 万策は尽き、すべてを諦めなければならない時がきた。
「私は船に残る。男として君を守りきったことを、誇りに思うよ」
 ボートと一緒に海面に降りていく妻に声をかけた。最後に垣間見えた妻の笑顔は天使のようだった。涙が止めどもなく流れた。
「あなた、自由をありがとう、そしてさようなら」
「キャサリーン!」
「あなたのこと、覚えているうちは、けっして忘れないわ」
 私はボートに向かってさらに叫んだ。
「キャサリーン、愛しているよ」
 が、妻は答えない。
「最後に愛しているといってくれ!」
 それだけでいい、それで私は笑って死ねるはずだった。
 暗い海上の様子はもはや私の立っているデッキからはまったく見えなかった。ただ、海面に下ろされたボートが浮かぶ音に続いて、妻の小さな声がやっと私の耳に届いてきた。
「ごめんなさいね」
 と彼女の声はとても申し訳なさそうにいった。
「さっきから難聴のせいで、やっぱりよく聞こえないのよ」
愛しのキャサリーン のぼりん

藁得よ
麻優

藁の匂いを嗅ぐ瞬間、あたしは世界の誰よりも幸せだろーなと思う。
世界の誰よりも、はあたしの知る、他者との比較の最大値でしかないのだけれど、自己満足にはちょうどいいサイズ。

藁の匂いは食べ物の匂いでもあり香水の匂いでもある。と思う。あまくて懐かしい匂い。あたしは、藁の匂いに包まれた暮らしをする男なら、―たとえどれほど醜悪であっても―、一瞬は藁がために愛せる気がする。

おばあちゃんがすいかを作るためにホームセンターで藁を買ってきた時、あたしは初めて一目惚れをした。一目というより、一嗅ぎ。この匂いが嫌いな人と、あたしは友達になれないなと直感で思った。安易なんかで、直感は構成されないってあたしは知ってるから。

 夜中、藁のことをふと思い出して起きた。一度嗅いだら、またいつか嗅がずにはいられない。あんなに優しい匂い、あたしは知らない。思い出すと止まらない。藁のいいところは匂いしかないのに、藁、藁、藁。そのただひとつのいいところが藁の存在価値の10割を占めている。好きな人を考えて眠れないという人がいるけれど、それとは少し違う。目の前に好きな人がいるのに、抱きしめられない感じ。納屋にいる、たくさんの藁たち。愛さずにはいられないし、抱きしめずにはいられない。
 だけどよくよく考えてみると藁を抱きしめたところであたしは満たされない。満たされないというのは苛立つことぞかし。満たされないから満たしたい。パラドックスかもしれないね。
この匂いを自分のものにするには、ただ抱きしめるだけでは所有したという意味などなさない。この匂いを自分のものにするには、食べるしかない。咀嚼して、消化して、あたしの一部になれば、あたしのものになる。愛の証明が、私の肉や内臓を構成する。藁をわたしが永久に支配する。それしか見つからない。
でも藁を食べるなんて家畜みたいだ。胸の中には二択がある。自尊心で自分を殺すか、欲望で自分を殺すか。でも悩むことのほどでもない。すごく簡単に思える。あたしにとっては、欲望しか、あたしを生かす方法はないんだ。きっとこういうのが、人間が動物に戻る瞬間。だって、誰も見てないよ。いえるよ。これがあたしの自尊心だって。

 決めたら即実行。マイポリシー。階段を滑り、音を立てずに玄関を出る。重たい戸を開けると、おのずとずずずと音が鳴る。鳴れば鳴るほど、胸の中にうずまいた罪悪感が芽を出して、双葉になっていく。あたしは理解してる。それは家族や友達に対する罪悪感なんかでは、決してないこと。
(あたし、ほんとに食べちゃうの?)
自分を構成していた腐葉土が崩れていく音がする。これは不安か。違う。ただの未知への恐れだ。そんなものは飛び込んでいけばすぐ慣れる。養分を失い、崩れていくそれを見ながら、そのままの欲望に乗せられていくあたし。愚かでいい。その愚かさが、人を一時でも幸福にすることを、あたしは誰よりも知っている。
本葉になりかけて、養分が足りなくて、枯れた。

崩れていくなら、身をまかせるんじゃなくて、そんなものは捨ててさっさと逃げて新しい砂の城壁を築き上げるだけ。たとえそれがかりそめだったとしても。 捨てることの辛さは、他者のためなんかじゃない。自分の理想を勝手に掲げてしまった人間のあたしの自尊心への罪悪感の蓄積でしかないんだから。

あたしは人間か、獣なのか、それともどちらでもないのか。
自尊心が尋ねてきた。
 どちらでもないんだろうな。だって今、こんなふうにこの自尊心を踏みつけている。欲望に従順になろうとしている。そんなことに幸せと罪悪感を感じてるんだもの。まあマゾヒストな人間なだけかもしれないけれど。誰かにじゃない、人間であった自分への罪悪感を感じてるんだもの。少しだけ気持ちいいよ。叫びたい。やっぱりマゾなだけかもね。

 玄関を出るともうそこは自由の国だった。足音をたてても、一点には集中されない。音は波紋みたいに広がる。ぷわぷわぷわ。緊張のあとの緩和。胸がメビウスの帯を描いている感じ。どこまでいっても目的地に辿りつかない気がして、もどかしくて心がくねる。

納屋の電気をつけると、もう見るものはひとつしかなかった。充満した匂いに包まれて痺れていく。あたしはしあわせなの。
 手づかみで藁を引っこ抜いた。もう何にも邪魔されないことに気づいたから。入る分だけ口の中にほおばってすぐ電気を消してずずずの戸に戻った。音を立てるのに、あたしに残ったのは達成感だけ。今のあたしは雌なのかもしれない。
部屋に着いて、明かりをつけて、ゆっくり噛んだ。噛めば噛むほどコクが出て、おいしい。たまに舌がざくざくしたところに当たって軽く痛いけど。マゾには変わりないしね。おいしそうなクリーム色の藁が、いとおしさに拍車をかける。

 得るものを得た気がした。ストイックには生きられない。あたしを生かしているのは欲望だから。藁がおいしいんじゃない。藁を食べている自分が、欲望に叶っておいしい。藁を食べてるんじゃない。欲望を食べてんの。夢を食べるバクがいるように、欲望を食べるヒトもいる。
 呑み込む瞬間、ざくざくした部分が喉に突き刺さる。痛い。一生懸命喉の奥に押し込む。涙が出そう。ん。ん。ん。喉への圧力のかけかたって、どうすればいいの。そんな筋肉使わないからね。普通。ん。ん。ん。あと少し。もうざらざらしかない。マイルドなコクなんて唾で流されてるよ。ん。ん。ん。豚さん牛さん、あたしを救って。いたいよー。うぇーん。あ、通った。後味はよくないんだね。

 疲れた。顔中の筋肉を無駄に酷使してしまった。時間外労働させてごめん。労働基準法違反でした。

 獣の行為が終わったあと、まだ手に少しだけ残った藁を見つめて、少しだけ噛んだ。舌はじんじんして味なんかわかんないし、ただ舌の痺れと痛みを強く感じるだけ。別の意味で痛めた喉でまた通すのに時間がかかった。思いっきり疲れた。思い通りにいったのは思い通りだ、と自分が許せたところまでなんだね。愚かさは、もうただのごみ。使い捨てだからね。こんなの持ってるの恥ずかしいよ。ぽいぽいっ。

 欲望のなれの果てなんて、こんなもんだから。

 分析で割り切るやいやなや、温度は急降下する。
人間のスイッチに切り替えて明かりを消した。おやすみ。
藁得よ 麻優

(本作品は掲載を終了しました)

勇み足
伊勢 湊

 星谷さんの葬式が終わり、僕たちはその小さなバーの扉を開けた。バーといえば聞こえは良いが特別に希少な酒を出す訳でもなく、若い女の子を口説けるようなオシャレなカクテルが出てくる訳でもない。年老いたマスターが切り盛りするこれといった特徴のないバーである。ただ一つ、ジャズのためにしつらえられた小さなステージ以外には。
「編集長、清田さん、いらっしゃい。よろしくお伝えいただけましたか?」
 僕は微笑んで頷く。僕はマスターの代わりに彼からの最後の言葉を棺桶の中に横たわる星谷さんに伝えてきたのだ。
 星谷さんが愛したこの場所で編集長と僕はカティーサークのグラスを傾けながら昔のことを思い出していた。十五年前、初めて僕が編集長にこの店に連れてこられた頃のことだ。

「清田くん、この企画本当に星谷さんのOKとったの?」
 編集長に呼ばれた僕は、その問いに曖昧に返事をした。星谷さんは雑誌『ジャズ評論』の編集部の先輩であり主任デスクだった。僕のような新人の企画は星谷さんのGOサインがなければ採用されないのが習わしだった。僕が書いた記事はあらゆる専門的視点から演奏に点数を付けてランキングするというものだった。僕はこの手の企画を何度も星谷さんに持っていっていたが星谷さんは決まって温和に、しかしはっきりと僕の企画をボツにした。「清田、流行るかもしれないけど、でも、きっとこれじゃダメだよ」と何度も言われたが僕にはその理由が分からなかった。そして星谷さんもそれを説明してはくれなかった。その頃はメディアがこぞってランキングや点数評価を見せ、流行はそれに沿って作られる時代だった。僕はジャズ論を体系的に学んだ自負も実績もあったし、採点に協力してくれたメンバーもそういう人材を集めていた。だから僕はそういう経歴がない、この業界で長いだけの星谷さんが嫉妬しているのではないかとも思ったくらいだった。
「やっぱりとってないね」
 そういう編集長の目を最初はまともに見ることができなかったが、僕は思い切って自分の意見を言った。
「自分は、星谷さんよりジャズ論を分かっているつもりです! この採点には自信があります」
「ジャズ論ねぇ」
 編集長はそういいながら記事にパラパラと目を通した。
「清田くんの言うことも分からないではないけど……。ああ、沢田和也カルテットに十点満点か」
 編集長が食いついてきたのを感じた。
「沢田和也は逸材です。確かにまだ若いですが満点をつける価値のある演奏をします」
「キミがそう思う、ということだろ? でもジャズ界に詳しいキミになら言わずもがなだろうがキミが点を付けなくても本当に才能があれば年齢関係なくブレイクする。それがいままでのジャズの歴史だろ?」
 僕は口を閉ざした。この雑誌はいままで一度もジャズに点数をつけたことはないという。星谷さんは気に入った人がそれぞれレコードを買えばブレイクに繋がると言っていた。それがこの雑誌のスタイルなのかもしれない。しかし、それでも僕は雑誌の基本理念を信じて疑わなかった。読者が望むべきものを作るべきだという基本理念、ただそれだけを信じて動いた。そして僕は印刷会社に差し替え分として自分の作ったページを星谷さんにも編集長にも黙って送り込んだ。

 その週末、印刷会社の輪転が回る日、僕は編集長に誘われた。記事を差し替えたことへの罪悪感と自分の記事が載る高揚感で編集長と飲みにいく気分ではなかったが、編集長は思いがけない一言を言った。沢田和也もその場に来るのだと。
 僕はその言葉につられ一緒に行くことにした。沢田和也の演奏に対する自分の評価を確かめようと思ったのだ。僕は編集長に連れられてそのバーにやってきた。大通りから少し入った薄暗い街灯が並ぶ細道に面した小さなバー。中に入ると奥にしつらえられたステージから演奏が聞こえてきた。僕は狭い店の人波をかき分けてステージの上の男を見た。そこにいたのは沢田和也だった。僕には、その顔を見るまでその演奏の主が分からなかった。それどころか演奏の主を認識してからもそれがステレオから聴こえてくるサウンドと同質なものとは思えなかった。ライブの臨場感がステレオから聴こえてくる以上のものとして耳に届いた訳ではない。その逆だった。
 演奏が終わり僕はカウンターで編集長と並んで飲んでいた。ペースは編集長の三倍はあったと思う。自分の中で揺らいだ何かを繋ぎ止めようとしていた。そしてぼんやりとあと少しでアルコールに身を委ねられると思った頃、沢田和也が話しかけてきた。
「編集長、ご無沙汰してます」
 沢田は編集長に丁寧に挨拶した。そして僕のことを「うちの有望な新人でキミの演奏に惚れ込んで十点満点を付ける男」と紹介した。
「十点満点? ははは、僕の演奏に点なんか付きませんよ」
「付かない?」
 僕は聞き返していた。
「そりゃそうですよ。どれだけの人が気に入ってくれたかだけです。レコードでもライブでも。ただ、やっぱここで演奏するには経験不足なのかなぁ。どれだけの人の心に響いたんだろう?」
 それはここの音響という意味なのか、と質問しようとしたときに別のカルテットが小さなステージに上がった。沢田が小さく「今日の主役で、このバーの専属バンドですよ」と言った。演奏が始まった。僕は身動き一つ出来なかった。真ん中でテナーサックスを吹くその姿と、そしてそれよりも驚くべきその空間を魅了するサウンドに完全に囚われてしまった。ステージの真ん中にいたのは、星谷さんだった。星谷さんの織りなすスイングは、この空間において心地よさの全てを支配していた。動けるはずも、なかった。

 気が付けば立ち上がっていた僕は、演奏が終わると脱力したように椅子に座った。
「キミはこの時間にどんな点を付ける?」
 編集長が聞いた。僕はただ「えっ?」と聞き返した。星谷さんの演奏は至高の時間をくれた。でもそれは点にされるべきものではなかった。
「星谷さんはジャズを評論する勉強はしていない。文章を書く勉強もしていない。編集者としてもライターとしてもそういう意味では素人かもしれない。だから僕が編集長をしている。でも実際には彼にこの雑誌を任せている。少なくとも、この雑誌に必要なのは論理や文章力とかじゃなくて、たぶん、なんていうかな。例えば作り手の人生の深さ、みたいなものかもしれないね」
 いろんなことが頭を駆け巡る。いま聴いた演奏の素晴らしさ、星谷さんの歳にしてはもう大きな三人の子供たち、確か家は郊外の一軒家。その理由は何だっただろうか? 
「星谷さんの演奏には、なんかほら、深さみたいなの感じるでしょ?」
 僕は返事をしなかった。走り出していた。印刷所へ向けて。輪転はまだ止まるだろうか?

 結局僕は輪転を止めることは出来なかった。勇み足は出せても止めるほどの力は僕にはなかった。いまだってない。僕は大きな間違いを犯し、雑誌は多くの苦情を受け取った。いい評価を得もしたが、もちろんそこになにの意味も見出せなかった。あのあと星谷さんはその記事に対して何も言わなかった。続けるかどうかについては「任せるよ」とだけ言った。でも僕は二度とジャズに点数は付けない。星谷さんが亡くなるまでにそれを信じてくれたかは分からない。ただあの後も二人で雑誌を作り続けてきた。僕がジャズを愛していること、それだけはきっと伝わってくれたと思う。