愛しのキャサリーン
のぼりん
誰もがこの船が沈むと思ってはいなかった。しかし、氷山に衝突してすでに一時間を経過している。振動する足元に、地獄の奈落がその口を広げているのは確実だ。
とりあえずデッキを後にして、一等客室に戻った。さすがに焦りを隠せない客室係が、金持ちどもに救命具のつけ方を教え始めたようである。しかし彼らはそれさえも鬱陶しそうにして撥ねつけていた。
私は馬鹿ではない。今、この船で繰り広げられつつある出来事を俯瞰する知力は持っているつもりだ。もっとも、私がこの場に及んで理性を保っているのは、常に紳士でありたいという、高貴な誇りのためでもあった。
「何かあったんですか?」
振り向くと部屋着のままの妻が通路に立っていた。
「キャサリーン」
彼女は首を傾げた。
「ん、どうした、聞こえないのか?」
「ええ、先ほど船底ですごい爆音がしたの。そのせいで難聴になっているのでしょう。耳が聞こえなくなっては、もうわたしもおばあちゃんね」
私は少し笑って見せたが、すぐに弛んだ唇を引き締めた。
「君に伝えなければならないことがあるんだ」
私たちは運命を受け入れなければならない。人生の最期を最愛の人と終えることを、神に感謝すべきだ。
部屋に戻ると、私たちは簡単にシャワーを使い、身だしなみをつくろった。それから、抱き合うようにベッドに横たわった。
そこには外の喧騒はまったく届かなかった。ふたりは別世界のような静寂の中にいた。
「これまで本当に世話になった。私の人生は君のおかげで喜びに満ちていた」
「長い時間でした」
ふたりは、片手をしっかりと繋ぎあって仰向けになり、天井を見つめた。そうしてしばらく思い出を語り合った。
最後に、さあもう眠ろう、と私は穏やかに呟いて目を瞑った。
ふと、妻が繋いだ手に力を込めたのがわかった。
「この船ほんとうに沈むのですか」
「ああ……だんだん部屋が傾いてきた」
今や、水しぶきが激しくベッドの足元を洗うようになっている。ちょっとでも気を抜くとずり落ちそうだ。
「ごめんなさい、ベッドの場所、替わってくださる?」
「いいけど…眠れないのかい?」
「無理だわ。こんな格好じゃ」
「眠った方がいい、苦しまずに死ねる」
ベッドの足はすでに水面に没していた。シートからはみ出した片腕が海水に浸かって、私はその恐るべき冷たさに跳ね起きた。
「き、君、もう少しそっちへ寄って貰えないか」
「そんなに冷たいの?」
「場所を替わって、君自身で確かめてみたまえ」
「いやよ、水に手を浸けるなんて、下女のやることだわ」
妻は炊事も洗濯もしないで一生を終えることのできる階級に生まれた女性だった。冷たい水をとても嫌った。
「あ」
と、突然、私は懐疑心の虜になった。
「だから、場所を替わってくれってこと?」
「何くだらないことをいってるの。私のこと愛してないの」
「もちろん愛してるよ。だからもう少しそっちに詰めてくれないかな」
「ちょっとだけですよ」
妻は身を捩るようにして空間を空けた。が、いくら寄っても冷水は私を追いかけてくる。
「どうして私たち逃げないんですか?」
それは男としての人生の終わり方に関する重大な問題だった。女性には理解できないと思うと、その質問に至極ありふれた回答しか思い浮かばないことに気づいた。
「逃げられないんだよ。この船の救命ボートは総員の半分しか乗せられないし、人々はあさましい取り合いをしている」
「あなたっていつもそうなのね」
妻はそのまま口をつぐんだ。予想通りの反応だった。
突然、傾きに耐え切れなくなった私の体がずり落ちた。下半身が冷水に浸かり、「ひえ~」と、情けない悲鳴をあげた。
慌てて這い上がり妻を押し上げたが、そのとき、ささやかな抵抗を感じた。気づいたときは握り締めていた掌も離れてしまっている。
まさか……?
胸中が疑心暗鬼にざわめいた。
「ね、ねえ君」と、私は歯の根を震わせながら妻を仰ぎ見た。
「愛してる?」
「愛しているわ、でも……」
「でもって、何だ?」
再び、妻が沈黙した。
「何かいってくれ。冷たくて死にそうだ」
「だって、あなた死ぬつもりなんでしょう?」
「仕方ないだろう。この船は沈む運命なんだから」
「でも、救命ボートに乗っている人は、確実に助かるわよね。なんでそのボートに乗れないの? どうしてあなた一人で全部決めるのよ」
「男としてどう終わるか、それはすべて、私が判断したことだ」
「それ変でしょう。だって、こんな時は上流階級から先にボートに乗れるはずじゃないの? お金なら誰よりもずっとたくさん払っているわ」
「―ううん、確かにそうかも……」
「交渉しなさい」
キャサリーンは毅然として言い放った。私はうろたえた。
「ボートのところまでどうやって行くんだ?」
「あなたがここから降りて、わたしを背負って泳ぐのよ」
「そりゃないよ、キャサリーン。私は、昨日から風邪気味なんだぞ」
「レディを守るのが紳士。そうでしょう?」
「本当に愛してる?」
「しつこいわね!」
その後、まさに奇跡の脱出が成功してデッキの上に立ったとき、私はただ呆然とした。最後に残ったボートに乗り込むため、人々が我先に争う地獄絵図を展開していたのである。
「これを使いなさい」
いつの間にかたくさんの宝石を身に纏った妻が、私に護身用の拳銃を手渡した。
「アメリカに行って先月新調したドレスの袖に腕を通すまでは、絶対死ねないわ」
「この騒ぎなら、撃ってもばれないな」
「ばれないわよ、ボートの席をとるのよ」
「…だが、私は紳士だぞ。晩節を汚したくない」
「私を失っても?」
「馬鹿な、そんなこと考えられないよ。ええい、こうなったら私はやるぞ」
その阿鼻狂乱の中をどうやって突き進んでいったのかわからないが、気づいたときには、私は最後のボートの前にいた。
「このレディを乗せるんだ。死にたくないのなら」
ざわめく乗客に二三発銃を撃ち込み、やっとのことで妻をボートに乗せると、さらに自分の席のために凄んだ。
「三等客室の者は降りろ。さもないと撃つぞ」
「あんたそれでも紳士か。どうせ死ぬんだ、撃ってみろ」
実は銃弾は底を尽いていた。私は拳銃を海へ捨て、仕方なく内ポケットから札束を抜いて、目の前の男に差し出した。
「ここではもう金は役に立たないよ」
ではこれを喰らえ、と、思いっきり突き出したパンチが空をきり、私はつんのめった。男はニヤリと笑った。
「そんなヘナチョコで喧嘩ができるかい」
万策は尽き、すべてを諦めなければならない時がきた。
「私は船に残る。男として君を守りきったことを、誇りに思うよ」
ボートと一緒に海面に降りていく妻に声をかけた。最後に垣間見えた妻の笑顔は天使のようだった。涙が止めどもなく流れた。
「あなた、自由をありがとう、そしてさようなら」
「キャサリーン!」
「あなたのこと、覚えているうちは、けっして忘れないわ」
私はボートに向かってさらに叫んだ。
「キャサリーン、愛しているよ」
が、妻は答えない。
「最後に愛しているといってくれ!」
それだけでいい、それで私は笑って死ねるはずだった。
暗い海上の様子はもはや私の立っているデッキからはまったく見えなかった。ただ、海面に下ろされたボートが浮かぶ音に続いて、妻の小さな声がやっと私の耳に届いてきた。
「ごめんなさいね」
と彼女の声はとても申し訳なさそうにいった。
「さっきから難聴のせいで、やっぱりよく聞こえないのよ」