コメディ世界におけるスナイパーの憂鬱
ごんぱちさん
感想: この落ちは予想されるんだけど、やっぱり読まされるなあ。落ちに行くまでの文章がリズミカルで心地いい。基本がきっちりできているんだろうなあ。さすがだ。
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感想: 小説は、いきなり会話ではじめることもできる。「いままで誰にも話したことがないことがある。じつは私は……」と告白するように書くこともできる。「十七歳の夏が僕にとって忘れられない夏になるなんて、そのときにはまだ考えてもみなかった」と、回想ではじめることもできる。最近は、一人称でテンポよくしゃべるように書く語り口が流行っているようだ。が、どれも一行目からあまりに小説すぎる。またその一方で、書くことがないときは苦し紛れに一行目を書いて、しかし、その一行目すら書き直すのが惜しく、仕方なく一行目と辻褄があったように見える二行目を書く、そして二行目に継ぎ足して三行目……という反射神経にまかせた書き方もあり、そのやり方を採用すると書き手が何のつもりで書いているのかさっぱりわからないけれど面白い小説が書けるときが、ままある。どちらが楽かといえば、それは前者で、慣れればいつでも十人中三人は面白いといってくれそうな小説を生産することができ、別に十人中十人を面白がらせる必要もないので、それなら問題ないじゃないか、といえば、まあ問題ないのだけれど、ときどき書いていてやるせなくなる時がある。
やるせない、というのは、小学館大辞泉によれば、どうしようもない。なすすべがない。手の施しようがない。などの意味のことだけど、つまり自分の意識した通り、思い通りに行かない状態のことで、それなら前に言っていることと矛盾しているじゃないか。「すごく眠いときでもまあ十人中三人は面白いといってくれそうな小説を生産することができ」るのではなかったのか。そう、それはたしかにそうなのだが、小説を生産するだけの体力があっても、精神の方が、なんというか、ハンガーノックになるのだ。シャリ切れ、シャリバテともいうのだが、つまり燃料切れだ(こういう人間を車に例えるような表現を小説の中ではあまりしたくなかったからハンガーノックと書いたのだが、ハンガーノックを説明しだすと長くなるので仕方ない)。そうなると、ほんとうにどうしようもなくて、一日中近所を歩き散らしたり、川沿いの講演に集まってくる野良猫たちと遊んだり、ひたすら眠り続けたりしなければ日常生活にも支障をきたすようになる。
ところで、四日前、西永福駅前のドトールで原稿に手を入れながら、彼は――といっても私は、といっても同じことだが、彼はまさにその精神のハンガーノックに襲われた。書いていた原稿は、「説明しよう!」から始まる、まあ面白くなくはない構成と、赤青黄緑桃、そして説明者の六人の視点の変化による文体変化と、サイバーパンクと2チャンネルを混ぜ合わせたようなテンポで進行するのだけど、それをいじり続けていたら、本当にやるせなくなった。B5紙の上で文字がちりぢりになり、それらをむりやり数珠玉のようにつなぎあわせて読もうとしてもまったく頭に入ってこなくなった。一週間前に『物理化学A』の断熱機関とCarnot cycleの関係式を書き写してノートも、昨日の小テスト前に見直したらなにが言いたいのかさっぱりわからなかったのと同じで、かつてこの文字列を自分が書いていたなんてまったく信じられない。
くりかえしになるけれど、精神のハンガーノックになったときは無理をせずに歩いたり、猫たちとじゃれあったり、寝てしまうよりほかないのだから、とりあえず、冷めるどころか、だいぶ蒸発してしまって、焦茶色の輪っかがカップの側面についているコーヒーを苦い。どうせサービスなんだからガムシロップをカウンターから持ってくればよかったと思いながら飲み、胃におさめ、赤ペンを入れていた原稿と吉田兄弟の掛け合い三味線を流していたCDプレーヤーをもって席を立ち、ドトールを出た。
外ではドトールに入ったときと同じように雨が降っていた。いや、むしろ雨は夕方に向かっていっそう強まっているようだ。正午の天気予報によると、台風20号が太平洋上、八丈島の南で三つの高気圧にはさまれてなかなか去ろうとしないらしい。雨はそのせいだろう。ここで雨が降っているということは、伊豆諸島沖にある高気圧というのが、そんなに強くないことをしめしていて、いずれにせよ明日の夜あたりにはその高気圧は消えて、台風はこっちにやってくるにちがいない。せっかくの日曜日なのに。
彼はとにかく半透明のビニール傘をさし、ぼっぼっぼっ……という雨の音に頭を包まれながらとにかく商店街を歩き出した。どこに行くというあてもない。ふと顔を上げた家のベランダの窓が網戸もなしに全開になっているのを見て、自分の部屋のベランダの窓が開いていたらきっと座卓の上のパソコンがびしょぬれになってしまうことを想像し、そうなったら書きためていた小説のデータや友達からもらったエロい動画なんかは消えてしまうだろうということ思いながら、同時に雨粒が傘にあたってはじけるときの音は番傘とビニール傘ではやっぱりちがうとも思っていた。なぜ番傘が出てくるのかといえば、彼が大学のジャグリング部で太神楽十三番末広天蓋の曲、つまりは傘回しをよくやっているからで、練習に使う番傘の骨が弱ってしまったやつなんかは下駄と合わせて実用したりしているからだ。
はじめはステージの依頼の帰りだけだったが、いまではたまに部活にもその格好で行って周りにいろいろな意味で刺激を与えている。それはともかく、番傘は油をひいた分厚い紙でできているのだが、あれはばっばっばっ……と高い音で、ビニール傘はさっきも言ったようにこもるようなぼっぼっ……という音だ。彼は番傘の音の方が好きで、それは音が傘の中で反響するからで、油紙の独特のにおい(なんだか臭い、という友達もいる)とまじって耳と鼻だけどこかに連れて行かれるような感じがするからだ。
こう書いてみると、耳で聞いた音を口で再現するのがすごくむずかしいことに気づく。いや、むずかしい、というよりできないことなのかもしれない。「ばっばっばっ……」も「ぼっぼっ……」も音の近似値でしかないし、そもそもそんなことをやるのは人間ぐらいなもので、これからぼくが会いに行く猫はそんなことはしない。油紙の匂いを「なんだか臭い」という友達に、「そう? 濃くっていい匂いじゃない?」としか彼がいえない原因も、二人の語彙があまりに貧困だからだけではなくて、鼻で嗅いだ匂いを口で再現することに根本的な不可能性があるからではないだろうか。耳や鼻、目も舌も肌も含めて、体に入力されたことをそのまま出力することはできないのだ。
そこまで考えたときに、彼ははたと閃いた。
じゃあ、入力はされたけれど、出力されずにのこっている「何か」が書きながら、つまり出力されながら精神に補給されつづければハンガーノックにならずにすむのでは?
そういえば、今年の五月、まるで発狂したようにワープロに向かい続けて書きつづけて、というか書き散らしていた時期があったが、そのときはいままで読んだ本からとっかえひっかえ引用してそれをアレンジして、そこから「何か」を吹き込まれるようにして書いていたような気がする。きっとそうだ。
なーんだ。と、思ったのは、例の原稿でやっていた「六人の視点の変化にあわせた文体変化」というのが、彼自身の単なる補給方法であったからで、よく考えると、赤は岡本太郎、青はメルロ=ポンティ、緑は尾崎放栽、黄と桃はよくわからないけれどたぶんどこかに引用元があって、そこから入力された文章を出力し直しているだけだったのだ。あれ? だったら、自分がハンガーノックになるはずないじゃないか。
おかしい、おかしい、と思いつつ、字数も尽きてきたのでそろそろ歩くのをやめよう。
投票者: このバトルへの参加作者
感想:「気付いてしまった人」って感じですね。
追っかけられたネズミがネコを壁に叩きつけ、ネコはペラペラに。
ネズミはペラペラになって気絶しているネコの口にホースを突っ込み、
ポンプで空気を入れ、
プーッと膨らんだところで勢いよくホースを引き抜くと、
ネコは甲子園の風船よろしく飛んでいく・・・。
そんなアニメを思い出しました。
主人公だからって許されるもんじゃないですよね。
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