この冬、成人式をすませた僕はまだ女の人をよく知らない。友人はちらほら体験しているようで、コーラス部の合宿になると、布団の中で聴きたくもない自慢話を聞かされる。あの連中は僕が童貞だってことは、まず疑いのない事実と確信しているから、「お前、もうしとるんか?」なんて尋ねる奴は一人もいない。それにしても、この僕の丸顔の童顔なんとかならないかと思う。枚方の叔父なんぞは、 「お前は五十になっても、そのまんまの顔やろな」と、会うたびに冷やかしてくる。もちろん良い気分ではないけれども、できるだけ気にしないようにしている。 一応大学の英文科在籍ということで家庭教師センターに登録してあったので、そこから派遣の依頼がきた。先方は梅田から急行で30分位の駅の近く。病院長の娘で来春大学受験を目標に頑張っており、成績は中の上ぐらいという話だった。 阪急電車を降りて、駅前の商店街を北に数分行ったところを左に折れる。日はすでに暮れていて、よく目を凝らさなければ雑居ビルと間違えられそうな建物に「山倉病院」という看板がぼうっと浮かび上がっている。その病院 の真向かい、救急車がやっと通れるくらいの路地を挟んで、洋風のコンクリ ート住宅がそびえている。広い敷地に分厚い生垣を張り巡らしている。ここが依頼先の家らしい。 鉄製の門扉の脇にあるチャイムを鳴らすと、お手伝いさんらしき中年の女性が出てきたので、来意を告げると家の中の応接間に通された。スプリングの利いた二人掛けのソファーに座って15分程待たされる。「病院の待合室 を思えば大分ましか」などとぼんやり考えながら周囲を見回すと、マントルピースの上に立てかけてあるA4サイズの写真が目に入る。公園の花壇のそばで、3歳ぐらいの男の子の肩に母親が右手を置き、それよりも年上の女の 子の頭を父親が撫でるような仕草をしている。男の子は無邪気に笑っているが、女の子の表情はこわばっている。その対照に気を取られていると、 「お待たせしました」という低い中年女性の声が木彫模様のドアの所から聞こえた。写真の顔に比べると大分年月の経過を感じさせる疲れた様子の母親と、その母親より10センチは身長が高いのではと思わせる、細面でロング ヘアーの少女が入ってきた。少女はうつむき加減にあらぬ方向へ視線をやっている。半袖のブラウスからぎこちなく伸びた両腕が心なしか震え気味だ。おとなしそうな子だ。 「ご挨拶は?」いきなり母親が声の調子を荒っぽく変えたので僕はどきんとした。娘は黙って頭を下げる。 「とにかく全然基本が出来てないんです。一から鍛えてやってください。」 椅子に浅く腰掛けて僕の方へ強い視線を送ってくる。娘は立ったままだ。 と、母親が急に何かを思い出したように、 「先生はお幾つですの?」と尋ねて僕の頭をじろっと見た。 「10月に二十一になります」 母親は意外だというような顔をして、 「あらそうですの。家庭教師センターには現職の先生か、それでなければ教授経験のある先生をお願いしたんですけど。先生はどこか他所で教えてはるんですか?」 「二、三、家庭教師やってます」自分でも小さい声になっているのが分か る。 それからしばらくの間、教える曜日とか、時間帯の事などを最終確認した後、「それじゃ、よろしく」と言いながら、母親は娘を残して出て行った。 母親が去ると、今まで突っ立っていた娘がいきなり僕の右斜めの一人掛けソファーにバウンドせんばかりに腰を下ろした。驚いた事に彼女の雰囲気が一変している。束縛を解き放たれた動物が次に何をしようかと思案し始めたような顔だ。息遣いにどことなく投げ遣りな空気が感じられる。僕は何か言わなければいけないと思って、 「ここでやるの? 君の勉強部屋あるんやろ?」と尋ねた。 「ええわ、此処で。今までずっと此処やし」いきなりのタメグチだ。 「大学は関関同立目指してるんだって?」 「そんなん、でたらめや!」きつい表情になって、「おかんが勝手に言ってるだけや。受かるわけないやんか。学校の勉強も全然分からんのに」自嘲的な口ぶりだ 「成績は中の上だって聞いてるよ」家庭教師センターで聞いた事を思い出した。 娘は、「そんなもん……」と鼻でせせら笑った後、 「先生可愛いね。ジャニーズ系やね」と、おちょくってくる。 それには取り合わず用意してきたプリントを応接セットのテーブルに広げる。 「今日は君がどれぐらい分かっているか知りたいから、ちょっとこの問題やってみて!」 彼女は汚物でも見るような目でプリントにちらっと視線を走らせた後、幾分甘えを含んだ声で、 「今日は初日やから、お話だけでいいやん」と言う。 「駄目、駄目、僕は時間泥棒はやらない」と言いながらも、本人がやる気が無いんじゃ仕方が無いなという気持ちが頭を擡げそうになる。 「本当はね、ちょっと相談に乗ってほしいことが有るんよ」今度は少し顔を近づけてくる。頬が紅潮している。 「クラスの友達に、出会い系サイトで知り合った人がいるんよ。三十過ぎてるけど、とってもええ人らしいわ。今度一緒にお茶せえへんかって言われてるんやけど先生どう思う?」 「あかん、あかん、何考えてんの?」びっくりして思わず大きな声になる。家庭教師の初日でこんな相談を受けるなんて思いも寄らなかった。この子相当変わってるとしか思えない。体全体が熱を帯びて、汗がどっと噴出しそうだ。 「何でやのん?」と娘が聞き返してくる。目が悪戯っぽく笑っている。 「喫茶店でお茶するだけよ。それだけで一万円もらえるんよ。絶対それ以上のことは無いって、裕子も言ってたよ」 とんでもない話だ。お茶がきっかけで売春に走る事が多いぐらい、いかに世間知らずの僕だって分かっている。 「親を泣かせるような事はあかんよ」年寄りくさいと思ったが、気弱な僕には他に思い切った事が言えない。 「親がなんやの!親父は外で女作ってるくせに、私の顔見るたんびに説教してくるし、おかんは親父のこと何でも知ってるくせして、知らん振り。何かっちゃあ、勉強、勉強っていうけど、本当は私のことなんかどうでもええんよ。弟ばっかり可愛がりやがって!」投げ捨てるような言い方だ。僕はただ黙っていた。本当に何といってよいか分からなかったから。 しばらく経ってから、プリントの英文法問題をやった。彼女はいつの間にか又、さっき母親と一緒にいた時のような大人しい態度に戻っていた。びっくりした事に解答はほとんど正解だった。 「何だできるんじゃないか」うつむきながらシャープペンをかちゃかちゃいわしている娘に声をかける。返事はない。 なにか狐につままれたような気分で、依頼者の家を退出する。路地を挟んだ、向かいの病院の待合室にはまだ灯りが点っている。 「先生!」誰か声をかける者がある。振り向くと、ジャージー姿の少年の姿が目に入る。坊主頭だ。 「僕、弟です」声が上ずっている。 「姉さんは大学行きたくないんです。東京の俳優養成所へ入って女優になりたいんです。でも親が大反対やから、毎日ふさいでいるんです。新しい先生が来ると憂さ晴らしにいろんな出鱈目を言って遊んでるんです。今日なんかましなほうやと思います。本当は頭いいんです」 その瞬間僕はわりと冷静でいられた。怒りがこみ上げる事もなかった。 「君はいい弟やな。しっかり姉さんフォローしたりや」弟の両肩に手を置い てぐっと押すようにした。
目が覚めると、車窓の外はすでに薄暗い。列車は、山陰に灯る人家の明りを縫うように走っている。 隣の席では、妻の法子が相変わらず新聞を読み続けていた。眠い目を擦って、腕時計を見る。 あと一時間の辛抱だ、と思った矢先、ひとりの男が「そこいいかな」と妻に声をかけた。そこに見覚えのある顔が覗き込んで、私は思わずのけぞった。半年前から失踪し音信が途絶えたままの叔父だった。 「おじさん! まさかこんなところで会うとは」 法子は新聞をたたみ、むすっとして席をひとつ移動した。三人席の真ん中に叔父が座った。 「タカオ、何してんだ?」 「今、妻と田舎へ帰ってきたところですよ」 私が答えると、叔父は笑って、 「ほう。という事は、彼女がお前の嫁さんか」 法子は黙ったままぺこりと頭を下げた。叔父は見向きもしない。法子は機嫌が悪そうに僕の方を睨んだ。 「嫁さんは、大切にしなけりゃいかん」 十も年が違わないはずだが、叔父は相変わらず私を子供扱いした。 私の知る限り、彼ほど波乱万丈の人生を歩んできた人間はいない。若くして会社を興し、すぐ倒産に追い込んだ。その後、株の歩合外交員から一躍し仕手グループを結成、その世界では結構知られた顔になった。 詳しいことは知らないが、結局、株の買占めで失敗し、一夜で財産と信用をなくすことになった。叔父が世間から消息を断ったのは、その後のことである。 「連絡が取れなくなって、母さんも心配してますよ」 「いやあ、すまん、姉さんにはいつも迷惑をかけて……実は、命を狙われていてね」 「え!」 危うく大声を上げそうになった口を、叔父の手がふさいだ。 「しっ、相手は凶悪なやくざだ」 叔父の手が離れても、僕の頭はしばらく混乱していた。法子は叔父の言葉に知らん顔を装っていたが、その表情は歪んでいる。 「どういうことですか?」 「奴らの資金を預かって、株の仕手戦を仕掛けたんだが、あっという間に買い占めた株が下落した。奴ら、そのときの数億の損害を賠償をしろ、と血眼になっている」 私は、思わず四方を見回した。 「だが、心配いらん。二週間すれば、奴らは土下座してひれ伏す事になるんだから」 何を夢のような…私は無性に暗い気分になった。この叔父は家族の心配を毛ほども感じていないようだ。 「そうだ、タカオ! せっかくここで会ったんだ。遅ればせながらお前に結婚祝があるぞ」 叔父は法子の方に向いて、彼女が手にしている新聞紙を引ったくろうとした。法子はしばらく抵抗を試みたが、結局手を離した。 「まったく強情な姉ちゃんだな」 法子は唇をかみ締めている。負けず嫌いなのだ。 叔父は目の前で新聞を力いっぱい広げた。株式面の中を指差した。 「この株だ。タケナカ製薬を貯金をはたいて買っておけ。すぐに何十倍に跳ね上がるぞ」 「タケナカ……額面ニ百円って、これ、倒産株ってやつじゃないですか」 タケナカ製薬は数年に渡る経営難で、最近は薬害裁判でも敗訴し、倒産は時間の問題だと言われていた。素人でも知っている情報だ。 叔父は膝のかばんをぱんと叩いて見せた。 「まあ、俺を信じろ。このかばんの中身は、全部タケナカ株だ。二週間後にタケナカ製薬は『テレパミン』を世間に発表する。全世界は驚愕し、たちまち株価はうなぎのぼりだ。俺は億万長者さ」 叔父の鼻の穴が興奮で膨らんだ。私は記事の一点を呆然と見つめた。 「エ、エイズの特効薬ですか?」 「いや、もっとすごい。テレパシーが使えるようになる薬だよ……」 それは、とても信じられない体験談だった。 ある夜、帰宅の路上で後から殴られ、叔父は気を失った。気がつくと、狭く薄暗い部屋の中にいた。 そこで二人の男女が数時間おきに、交替で奇妙な錠剤を飲ませに来た。彼らは異様に無口で、ほとんど何も喋らなかった。 やがて、部屋の真ん中の机で、不思議な実験が始まった。 丸や三角の絵を書いたカードを、彼らの一人が隠し持ち、それを当てろと言うのである。もちろん簡単に当たるはずがない。が、何度も繰り返しすうちに、叔父は突然、カードを持った相手の心の声が聞こえるようになった。まさに奇蹟だ。 そのうち、この陰謀の意味がわかった。彼らは産業スパイで、今や倒産寸前のタケナカ製薬が極秘裏に発明し、起死回生を狙った薬「テレパミン」を盗み出して、その効果を人体実験しようとしていたのである。 「テレパミン」はテレパシーが使えるようになるという画期的な薬だった。相手が口を動かさないのに、心の声が聞こえてくるという信じられないものだ。 叔父はテレパシー能力によって、男たちの心の声が聞こえるようになり、カードの内容から、新薬「テレパミン」のこと、この奇妙な体験の秘密や、テレパミン発表時期を知った。しかし、叔父はその事実を男たちには隠し続けた。 監禁されてずいぶんたったある日のことである。男の一人が、心の中でちぇっと舌打ちした。 (テレパミンは、やはりガセネタだったか) 男はそう考えていた。 (人の心が読めるなんて、不可能よ) 女の心も読めた。 思ったとおりだった。叔父の芝居はついに成功したのである。 「気がついたら、家の前の路上で倒れていたんだ……」 私は叔父の話に完全に引き込まれていた。もちろん今はテレパミンを飲んでいないので、人の心は読めないらしい。 「仕手師として、この経験を株に利用しない手はない。俺は資金をかき集め、最後の仕手戦に臨んだ」 それからは手に汗握る波乱万丈のかけひきだった。が、結局、タケナカ製薬の株価はさらに暴落。それが、叔父の緻密な計算だとは、資金を預けた連中は知らない。 話が一区切りしたとき、列車が止まった。叔父は突然この駅で降りると言う。 「街に入るのは、まだやばい。あと少しのがまんだ」 そう言いながら、叔父は逃げるようにプラットホームから消えた。列車が走り出し、しばらくして法子がふいに言った。 「あなた、今、変な事考えている? 鼻の穴がふくらんでるわ」 「いや、株をちょっとだけ買ってみようかと。君も今の話を聞いたろう……」 「まさか、お金を捨てるつもりなの?」 「何いってんだ。これは男のロマンだ。それに叔父さんは嘘はつかないぞ」 私は少し興奮していたようだ。法子はため息をついた。 「叔父さんは騙されているだけよ。確か相手の男の舌打ちが心に聞こえた、と話していたわね。それは言葉じゃないわ、意味を持たない破裂音よ。心の言葉って音じゃないはずでしょ。これは叔父さんが株を買い占める事で大儲けを企む別の仕手筋の仕組んだ罠ね」 「だ、だって、心が読めるようになったんだぞ。直接心に声が聞こえたと……」 「馬鹿ね、テレパミンなんてあるはずないじゃない。心の声が聞こえ、相手の口が動かなかったのは、おそらく腹話術……」 私は絶句した。もし、そうだとしたら、なんて巧妙な詐欺だ。 叔父が飲まされていた錠剤はテレパミンなどではなく、腹話術をさらに効果的にするための幻覚剤だったのかも。 「じゃあ、叔父さんは……」 私は頭を抱えた。恐ろしい想像で心の中が一杯になった。 やくざに殺されてしまうかもしれない。 「あのおじさんならなら大丈夫よ。騙されたと知ったときには落ち込むかも知れないけど、ちゃんと立ち直るわ、だって……」 「だって?」 「あなたの自慢の叔父さんでしょ」 ふと顔を上げると、法子は底抜けに明るい笑顔になっていた。
培養室に、無数の菌床が並ぶ。 菌床一つに一つづつ、茸が生えている。 気密服姿の職員が、携帯端末を手に、一つ一つチェックしていく。 職員は松茸の傘を「見上げる」。 松茸の大きさは、人間より一回りも大きかった。 職員は満足げに頷き、次の菌床に移る。 ――と。 小さなプールほどもある、この試験場で最も巨大な菌床は、抉られたような跡があり、松茸の姿はなかった。 プレートには「ギガント・防衛型第七世代」と、手書きされていた。 職員が首を傾げた瞬間。 土中から伸びた二本の筋が、職員の顔と腹を貫いた。 防刃ジャケットとショットガンで武装した下田両次巡査部長他六名は、中村聡の先導で赤松の茂る山道を歩く。 中村の左手首には、GPSとアラーム付きの片手錠がはめられている。 「巨大化した松茸は、育成に失敗した時のダメージも大きいですから――」 中村の表情は、子供の自慢をする親のそれだった。 「確実に、より良い環境に移動できるよう、粘菌の性質を採り入れたのです」 「それがどうして人殺しの化け物になる?」 下田は中村を睨む。 「あれは想定外です。良い土や日当たりを求めて動くまでは想像していましたが、まさか動物が栄養源と気付くとは、大したものです」 同僚が殺された事も意に介している風ではなかった。 「大したものだよ、まったく」 苦々しげに下田は呟く。 「ちょっと休みましょうよ」 中島は速度を弛める。 「またかよ?」 慌てて下田は立ち止まる。 「本当に探すんですか? そろそろ傘も開くし、すぐ枯れてしまいますよ」 「どういう、意味だ」 「そりゃ傘が開いて胞子を飛ばすんですよ」 「あの化け物の胞子がか?」 下田は中村の襟元をねじ上げる。 「ひぃっ!」 中村の身体が持ち上がっている。一見華奢な身体つきの中年に見える下田だが、かなりの腕力だった。 「事の重大さを分かってんのか!」 中村は、泣きそうな顔になる。 「社員だけですぐに追跡しようとしていたんだ。でも、あんたらが捜査になんか来るから、防犯ビデオを作り替えたり、血の痕を掃除したり無駄な時間を」 「貴様は!」 「下田さん」 捜査員の指す先には、片方の靴が落ちていた。 「この近くに松茸がいるのか……?」 下田は辺りを見回しながら、禁煙パイプをくわえ、吸い込む。 ミントの香りが鼻に抜けた後。 ふわり。 微かな芳香を感じた。 「なんか、良い香りがしねえか?」 「え?」 「特に何も――」 次の瞬間。 土中から筋のようなものが飛び出し、靴を調べようとした捜査員たちを貫いた。 下田と中村は、林業用の倉庫小屋に逃げ込む。 「これでちったぁ安心か」 床は、コンクリート打ち放しだった。 「はぁ、はぁ、はぁ……片手錠を付けて、走らせるなんて、虐待だ、訴えてやる……」 中村は床に倒れ、荒い息をする。 「生きて帰れりゃいくらでもしろ。民事でも刑事でも負ける気はしねえけどな」 ショットガンの残りの弾数を確認した後、下田はポケットから携帯端末を取り出す。 「――下田だ。標的の確保に失敗した。五名負傷、多分五名とも死亡、生存確認が出来ているのは報告者含め二名。救援を頼む。尚、標的は極めて危険、万全の態勢で挑め。具体的には」 携帯端末をテレビ電話モードに切り替えると、椅子の上に置き、物置の外に向ける。 「これから見せてやる」 倉庫の外に、人間の二倍はあろうかという松茸が、土中からその姿を現していた。 倉庫から出ずに、下田はショットガンの引き金を引く。 松茸の身体は凹み、後じさりする。 尚も発砲を続けると、散弾は松茸の身体を貫き、孔を空けた。 しかし。 みるみるうちに、その傷口は塞がり、ボロボロと散弾が押し出される。 「銃弾は大して効かねえか」 松茸は、その身体をほぐし、無数の菌糸を触手のように動かし始める。捜査員たちを一瞬で倒したのも、これだった。 一応警戒しているのか、松茸は近寄って来ない。 ずん。 床が僅かに揺れる。 地中から下田を狙った菌糸が、物置のコンクリート基礎に当たったようだった。 ずん、ずん、がっ。 衝撃は激しく、コンクリートが揺れる。 (長くはもたねえ、か) 小屋の中を見回す。 鉈に、大型の鋸、工具一式、枝打ちロボットの交換パーツとオイル。後はシートやロープの類。 下田はオイルの缶の蓋を開け、裂いたハンカチを口に固定して半分オイルに浸し、ライターで火をつける。 「警官が火炎瓶作る羽目になるとは、なっ!」 投げつけられたオイル缶を、反射的に松茸は菌糸で貫く。 オイルが飛び散り、松茸は火に包まれた。 「やった!」 激しい炎に、松茸の菌糸が暴れ、縮こまっていく。オイルの燃える臭いと、松茸の焼ける香りが漂う。 下田は携帯端末を取る。 「やっこさん、炎に弱いみてぇだ。火炎放射器かバーナーか、そういったもんを用意して――」 と。 下田の肩を、菌糸が貫いた。 「っ!」 松茸は、焦げた表面をボロボロと落とし、菌糸を繰り出していた。 「馬鹿だな、ギガントは菌糸の集合体だ。表面をまだらに焦がしたぐらいで死ぬもんか」 床に寝転がったままで中村が笑う。 完全に表面が新しくなった松茸は、傘を軽く開いて胞子を飛ばした。 「もう諦めなよ、ギガントは最高に優れた松茸なんだ」 「黙れ、下衆が」 下田は肩から菌糸を引き抜く。 「これは、俺と松茸の喧嘩だ」 再び、床下からの衝撃が始まる。 ヒビは少しづつ大きくなっていく。 「この秋の味覚が」 下田は、ニューナンブを握る。 「……いや、待て」 目を凝らし、松茸を見つめる。 松茸は燃えた影響で、一回り小さくなっている。焼き切れた菌糸のうちのいくつかは、短くなってビクビクと動いている。 (そう、か) 下田はニューナンブをポケットに戻し、鋸を手に取ると、刀のように正眼に構える。 地中からの連続的な衝撃に、コンクリートのヒビは、次第に大きく、深くなっていく。 下田は、じっと松茸を見つめながら、鋸を脇構えに直す。 「松茸は」 ふと、静かになった後――。 大衝撃と共に、コンクリートの床が砕け、菌糸の束が飛び出した。 小屋の中に血が飛び散る。 貫かれていたのは、しかし中村一人だった。 下田は松茸に突進している。 地中に張り巡らされていた菌糸が次々地上に飛び出すが、下田のスピードはそれより僅かに速い。 松茸は迎撃の菌糸を正面に繰り出そうとするが、地中に張り巡らせた分が多すぎ、僅かに三本を発したのみ。 「縦に裂ける!」 鋸は、松茸の胴を真横に、菌糸を垂直に断つ。下田は完全に松茸の胴が切断されるまで幾度も、幾度も斬りつけた。 『今年も松茸狩りのシーズンがやってきました』 女のキャスターが笑顔でニュースを読み上げる。 『松茸狩人たちは、山へ入って行きます』 身の丈ほどもある斬松茸刀を背負った松茸狩人が、警察によって閉鎖された登山道に入っていく映像が流れる。 『おいしい松茸を狩って来て欲しいものですね』 男のキャスターが付け加える。 『尚、松茸狩猟は、専門資格が必要です。一般の方は、この時期に間違っても山に入らないよう、注意して下さい』 『ところで高見さん、知ってますか?』 男のキャスターは、ニヤニヤ笑う。 『なんです?』 『松茸って昔はちっちゃかったんですよ。これぐらい』 男のキャスターは、二十センチほどの長さを作って見せる。 『もうっ、冗談ばっかり』 女のキャスターは、笑って顔を赤らめた。
薄暗く見えるほどに深い青。遠近感が薄い。真一文字に横切るレンズ雲。浮遊する巨鳥。ゆっくりと旋回。地の果てまで続くはずの高速道、視界を真っ二つに割る。橋脚エレベーターとの接合部に小さな点。巨鳥が回り込んで、やっと巣だと分かった。いつか、行かなきゃならない。親鳥が巣を離れる。目だけで追う。高架の上に消える。親は戻ってこない。代わりは僕だから。それは仕方ない。 「今宿くん、休憩行っていいよ」 「あ、はい」 とりあえずのバイト中。目の前は遊園地。こじんまりとして古びている。傍らにレジスター。あまり衛生的とは言えないソフトクリームを生み出す機械。一日に何組もの親子が最後の晩餐に、甘いものを選んでいく。大人気ない笑い声。 「あ、あたしのお昼も買ってきてくれる? 同じので」 北条さんはいつも僕をかまう。いや、僕だけじゃない。誰でもかまう。別にかまわないから、よく一緒にいる。…違う。格好つけてる。一緒にいて欲しいのは僕だ、多分。誰だってかまわない。 「何ずっと突っ立ってるの?」 心底不思議そうな彼女の声。一瞬自分がどこにいるのか分からなくなることがよくある。 「…何でしたっけ?」 「お昼の休憩」 「ああ、そっか」 「大丈夫? 疲れてる?」 「え、何でですか?」 「って、いうか壊れてる?」 「はい?」 気がつくと、ビーッ、という警戒音が橋脚エレベーターの方から聞こえてくる。何人もの若い男女が心配そうに高速道路を見上げ、話し合い、二、三人がこっちに走り寄って来る。 「ごめん、休憩後でね。ちょっと行ってくるわ。見てて。あと天頂に連絡お願い」 北条さんのあまりの変わり身に着いて行けない。 「え、店長ですか? わざわざ?」 「あのね、敬語、気持ち悪いから止めてくれないかな」 「いや、一応仕事中はそうと決めましたので」 「あっそ。このお店の店長のことじゃなくて、橋脚エレベーターの天頂、高速道のコントロールセンターに連絡してって言ってるの。いいかげん覚えてね!」 他人行儀な態度をとるとすぐ怒る。彼女は僕に何の説明もせずに、客と一緒に行ってしまった。客に怒っている様子はない。皆、真に困った泣きそうな顔をしている。 仕方なく、電話を手に取る。壁に備え付けの電話の横、幾つもの事務的な電話番号が並んでいた。 「はい、橋脚エレベーター総合制御室です」 事務的で衛生的な女性の声が鳴る。 「あの、屋上遊園『はこにわ』で売り子をしています、今宿というものですが…」 「はい、わかっています。ご用件をどうぞ」 「あの、何かエレベーターで、非常ベルみたいなものがずっと鳴りっぱなしみたいなんですけど…」 「少々お待ちください…」 バロック音楽が取って変わる。 僕は何の為に生まれてきたのか。わからないと思っているからこそ、考えは深みにハマっていく。僕ごときがたちうちできる問題じゃないことは分かってる。ただ、いざ一人になってみると、とても切実な思いに変わってしまって。 例えば、義春にしてもそうだ。あいつはいつも強がって、周りにあてつけてばかりいるけれど、僕の親が橋脚エレベーターを登ってしまってからは、毎日のように遊びに来る。 「お前、将来何になるの?」 正直言って迷惑だった。お前に答えて何の解決になるんだ、と問い返したい。 「俺は出ていく。お前だって分かってるだろ、狂ってるんだ、こんなとこ」 出ていって何処へいくのか、と問い返したい。 「俺と一緒に行こう、な」 義春はそう言うが、僕はこの世界が間違っているとは思ってない。間違ってるとしてもルールを変えることはできない。問題はどう生きていくかだ、が、それが分からない。 いつも義春とはケンカして、夜がふける。 「お待たせ致しました。『古体』は全て無傷で高架上に上がってきております。ご安心ください、とお伝えください」 無機的な女の声はそう言った。 「そうですか」 「どうだった!」 受話器を置こうとして、初めて隣に北条さんがいるのに気づいた。何だか僕は気分が沈んだまま、戻ってこなかった。 誰にも言ったことの無い、本心がツルリと彼女の前に現れた。 「あのさ…、そんな必死にならなくってもいいんじゃないの? 『古体』のこと何てさ。どうせ『処理場』に送られちゃうんだし。僕らだって…」 彼女は黙ってしまった。たっぷり五分は僕の顔を見つめたまま、ただ目を見ていた。僕は目を逸らした。彼女の後ろでは、数人の客が親の無事を確認したくて、そわそわしている。 「今宿くんは、そういう目で人のこと見てるんだ」 彼女は瞬きもしない。 「あの人も、あの人も、どうせ『処理場』行きのブタ野郎だって思ってるんだ」 怒っているようでもなかった。ただ無表情だった。本気なのかもしれない。彼女はため息をついた。 「まあ、いいや。で、無事だったのね?」 頷きながら、心が動揺していた。全身に嫌な汗が走り、括約筋がすぼまった。 軽蔑。 されても仕方の無いことを言った。そう体が確信していた。 北条さんは、待ちくたびれた客たちに『古体』の無事を告げ、その息子、娘たちも、つぎに橋脚エレベーターに乗ろうとしていた親たちも安堵の声を上げた。 数分後には、遊園地は元通りにぎやかになった。 「今宿くん、休憩行っていいよ」 すぐには答えられなかった。北条さんはさっきと少しも変わらない口調でそう言った。 「あ、はい」 遊園地事務所の食堂でおにぎり弁当を二つ買って来て、店に戻った。北条さんは立ったままレジの横にお弁当を広げて食べ始めた。僕は店の外で食べようと思った。 「どこ行くの?」 「はぁ」 「一緒に食べようよ」 僕もソフトクリーム製造機の横に弁当を広げた。 北条さんは何気なく言った。 「今宿くんてさ、子供嫌いでしょ」 「…苦手です」 「自分が親になっても?」 彼女がいたずらっぽい笑みを浮かべる。ジェットコースターの轟音。大人気無い叫び声が過ぎていく。 「あたしは欲しいな」 婉曲なプロポーズなのか? おにぎりの味がわからなくなる。彼女とのそういう関係がないわけじゃなかった。早鐘が鳴る。 「今宿くん、何か自分が一代限りでいなくなるみたいな不思議な言い方、いつもするね」 彼女の言い方の方が不思議に感じた。何を言ってるのかわからない。 「なんで『古体』なんて嫌な言い方するか、知ってるでしょ。子供は言うなれば『新体』よね。自分が嫌いな人はきっと好きになれないよね」 会話は続かなかった。僕が黙ったからだ。僕の休憩時間は過ぎた。 北条さんは本当に典型的な人だ。休憩時間の度に、違う男と待ち合わせている。そのうちの何人と関係があるのかは僕は知らない。ただ彼女は、自分が橋脚エレベーターに登るとき、沢山の子供たちと遊びたいと言う。沢山の男たちとエレベーターに乗りたいと言う。それは犯罪だし、無理だと思うけど、その中に僕や、僕の子供がいたらいいな、と思う僕も典型的かもしれない。 さて、今日の北条さんの相手は誰だろう? バイト着のまま、彼女は人ごみにまぎれていく。『はこにわ』で、若いカップルは珍しいので目立つ。男の方は…。 義春? あいつ、旅立つんじゃなかったのか? あいつと兄弟になってしまうのか? 子供って、何だ? 途方にくれて、高速道を見上げた。子供を育て上げた立派な大人だけが通ることを許される『正式な死』のルート。僕は、不覚にもそんなものに一瞬、憧れを感じてしまった。