お腹に食い込むヘルパーの浮力に身を捩りながら、ビートバンにすがり付いた。礼子の力強く無邪気なバタ足は目の前に飛沫を上げては、何度も視界を遮った。その飛沫をよけるよう、薄目を開け、紗代はゆっくりと足をバタつかせた。 日曜日の太陽はいつも、平日よりもずっと激しく光を水面に漂わせている。硬質な光の束は、水面下からぐにゃりと骨を失い、プールの底ではキラキラと砕け散る、月の破片のようだった。紗代はサッと辺りを見渡すとヘルパーを素早く解き、ザブリと深海へ潜る海女の如く、プールの床へと這い蹲った。水の中でグルグルと腕をかき回すと、その度に光の破片はキラリと微笑み、紗代の腕に絡み付いてきた。 「よーし、ここまで」 コーチの合図がアーチ型の天井に木霊する。水の中で聴くコーチの声はとても遠くて、くぐもった声はそのまま消毒液の匂いに溶けていった。 「紗代ちゃん!」 礼子の声がグンと紗代の周囲の薄幕を引き千切り、知らぬ間に飲み込んだ水が、喉からゴホゴホと溢れた。急に陸上へ引き上げられた魚のように身を捩り、呼吸を整えたいのに、周囲に浮かぶ大勢の同じような顔が、グルグルと黒目の上で回転していた。 「紗代、大丈夫か?まだ泳げないんだからヘルパー外しちゃ駄目じゃないか」 コーチの声は相変わらず膜の外で有耶無耶に消えそうで、沙世は礼子の右手を力任せにグッと掴んだ。 「紗代ちゃん?今日は上がった方がいいよ。私、送っていってあげる」 礼子はそのまま立ち上がると、ふらつく紗代を小さな水着姿で支え、冷えたロッカーへと向かった。 「礼子ちゃん、ごめんね。今からお母さんに電話して迎えにきてもらうから。ありがとう」 「大丈夫?一緒に待ってようか?」 「ううん。大丈夫」 紗代は大きな扇風機の前でくつろいだふりをして、礼子に小さく手を振った。 さっきたくさんの光の欠片を遊ばせた両腕を眺めても、何の跡形もない、日に焼けた華奢な腕が二本、ぶらさがっていただけだったけど。 「お母さん?いないの。じゃぁ、お父さんは?今日、はやく終わったの。今から迎えにきて」 紗代は蛙色の重たい受話器を両手でガシャッとひっ掛けると、100円のアイスクリームをチロチロと舐めながら、階下のプールを眺めていた。次々とターンを繰り返して25mをものともしない、上級ジュニアクラス。米粒みたいに小さいのに、隣に座った誰かのお母さんは、ひとりの少年をじっと目で追っている。最後までアイスを食べきれずそのままゴミ箱に捨てると、熱気が地面を溶かしそうな外へと飛び出していった。べったりと塗られた水色の空に向かって蝉がけたたましく鳴く、ただの夏の日曜だった。 「お父さん!」 見慣れた白いワゴン車はぐるりと駐車場を迂回し、紗代の前でブレーキを踏んだ。紗代は蝉時雨の熱帯を置き去りにするとすぐにワゴン車の中へと乗り込んだ。 「遅いよ!暑いんだから!」 「ごめん、ごめん」 お父さんは少しだけ笑うと車内のクーラーを強にし、カチッと銀の金物で煙草に火をつけた。ゆっくり煙を胸に送り込む日焼けした喉元が僅かに上下した。まるで知らない誰かの、知らない動きのようで、漣のような心細さが、紗代を静かに呑み込んだ。 「お父さん!煙草、吸っちゃ駄目だよ!お母さんに怒られちゃうよ!」 いつもならすっと笑いで包み込まれる無邪気な紗代の言葉が、その時は何故か煙たい空気に遮られ、胸が一瞬だけ空っぽになったような気がした。 そわそわと足元が覚束なくなり、紗代は靴を脱ぎ捨てて助手席で体育座りをした。何か怖いことがあると、いつもそうしていたように。 「シートベルト、しろよ」 「嫌だ」 「危ないだろ」 「嫌」 嫌だ嫌だと繰り返すのは、紗代の得意技だった。そうすればいつもお母さんが頭を撫でて、包み込んでくれるから。 「ブラックジャックの3巻、先読んでいいよ」 いつも持ち歩いているバックからブラックジャックの漫画を取り出し、お父さんの横に置き捨てた。 「紗代は優しいんだな」 お父さんの耳は、普段どおり同じ場所にくっついているのに、どうしてこんなにいつもと違うふうなのだろう。いつも紗代をおちょくって笑ってばかりのお父さんが、何を言っても、大人のような言葉で大人のような返事をする。ちぐはぐした違和感が、固い壁のようにお父さんに張り付いてるみたいで、それは紗代にはどうしても壊せない、何かとてつもなく哀しい色に見えた。 体育座りして小さな体を抱え込んだ腕にぎゅっと力を込めて、下を向いたまま眠ったふりをした。 お父さんなんか嫌いだ。 そんな想いが声に出そうになって、ふいに口を噤んだ。ぶつけてしまえば、もっともっと何かがずれていってしまう気がした。 長い時間を我慢し、ようやく家に辿り着くと、赤や青の見知らぬ車が玩具のようにあちこちに停まっていた。その色とりどりの車の群れは、ぼんやりとした影を、紗代の胸にスッと落とした。リクだけが勇敢にその群れに立ち向かい、鎖が千切れんばかりに体をつんのめらせてバウバウと不穏な鳴き声を上げている。 「リク!ただいま!」 紗代が手を差し伸べるとリクは急に恥ずかしそうに尻尾を丸め、鼻先を紗代の腕に擦り付けてきた。 「おとなしくしてるんだよ、お客さんなんだからね!」 「クウ……」 リクはうな垂れると同時に真っ直ぐに紗代を見て、嬉しそうに尻尾を振る。 「リク、もうちょっとの我慢よ。すぐに皆帰っちゃうんだから」 家の中に入ると、ザワザワと淀んだ囁きが、あちこちから聞こえてきた。急いで部屋に入ろうとすると、浅野のおばちゃんの顔がチラリと見えた。今日浅野のおばちゃんが来るなんて、何にも聞いてないのに。それに、浅野のおばちゃんの目にいつもの陽気な光は微塵もなかった。まるで何にも見てないような空ろな目。どうして今日はこんな日なのか。おばあちゃんはトコトコとスリッパを鳴らして、紗代を優しく見つめると、ゆっくりと紗代の腕をとった。 「紗代ちゃん、今日は、浅野のおばちゃんとお買い物にでもいってきなさい。夜も何かご馳走してもらって」 しわしわの柔らかなおばあちゃんの腕はお母さんの次に大好きだった。それなのにそのおばあちゃんの腕がなんだか恐ろしくて、振り払うと同時にただの蝉の鳴く庭に飛び出した。 「リク!」 紗代はリクの前でボロキレになった大きなバスタオルをヒラヒラと煽ると、待ってましたとばかりにリクはタオルに噛み付き、じゃれついてくる。リクだけが、いつも通りだった。安心してサラサラした白い毛を撫でながら、誰かの哀れみや同情の眼差しが通り過ぎる度に、タオルをヒラヒラとふって視線を遮っては、リクとじゃれあった。 時間は容赦なく過ぎた。何を感じていいのか、何がなんだか、サッパリ分からないまま。大嫌いな真っ黒の服を無理やり着せられ、静かに眠るお母さんの髪に白い花を飾り、そして、太い杭は棺をカンカンと閉め切った。その杭は同時に、紗代の心に纏足を施した。 「お母さん、死んじゃったんだって」 リクの毛むくじゃらの体は温かくて、その体温に触れると、轟々と吼える野獣のように、それなのに、涙がちっとも出ずに、ただ、リクを抱いて泣いた。 空には三日月が失速する角度に傾いて、手を翳せば、ヒラヒラと、三日月の破片が星のように、華奢な腕に降り注いできた。キラリと微笑む月の破片を掴もうと手を握り締めるや否や、指の間からサラサラと砂のように月が毀れた。
「苦情のメールが、累積で二十九万件、電話が記録を始めてから二千七百件、署名が二百万人分、直談判が二百十件となります」 弓削学は分厚いファイルを差し出す。 「『貨幣電子化対策推進室』発足から半年だから……思ったよりは少ないな」 財務大臣の栗原隆太は、報告書の数字にラインを引く。 「はい。ただ、来月の四条三項の改訂施行に向け、加速度的に増えている状況です」 二次関数のように急激に上昇している苦情件数グラフを、弓削は見せる。 「言っても仕方がないものを、物分かりの悪いヤツはいるものだ」 「まったくです」 弓削は力なく笑う。 「一年も前からテレビCMは打った、新聞にも広告を載せた、ラジオでも毎度流している」 恨めしげに、弓削は右上がりのグラフを見つめる。 「なのに、初めて聞いたような顔で、文句を言いに来る」 「ははは、ご立腹だな、室長」 栗原は笑いながらも、表情を引き締める。 「しかし我々は、改革者であってはならない」 「……はい」 「あくまでソフトランディングさせなければならない。その為の対策室だ、分かるな」 「ソフトランディング、か」 大量のメールに、定型文で返信を出しながら、弓削は呟く。 『財務省に火をつける』 『国会議事堂に爆弾を仕掛ける』 『造幣局に火をつける』 『財務大臣を殺す』 『飛行機をハイジャックする』 脅迫まがいの文言の入ったメールは、公安に転送する。 ぼんやりと端末の画面を見つめながら、漫然と作業を続ける。 「室長」 深沢が自分のデスクについたままで、声をかける。 「新聞広告のゲラ、届きました」 「そうか」 弓削は共有フォルダを開き、画像を表示させる。 広告は、弓削たちが、あらゆる媒体で幾百度も繰り返してきた説明を、中学二年生――義務教育卒業レベルの学力――の国民にも分かるように噛み砕いたものだった。 使用実態、作成コスト、偽造リスク、防犯、全ての要素は、実貨から電子マネーへの移行を得と裏付けている。異論を差し挟む余地はない。 「……これでは、違うんだろうな」 声に出さずに呟いて、弓削はゲラに電子署名をした。 日付も代わり、駅の電光掲示板の発着表示は消えていた。 繁華街は、居酒屋や、二十四時間営業の食べ物屋のおかげで、深夜でも明るい。 「かけ蕎麦とおにぎり二つ」 のれんをくぐるなり、弓削は注文する。 店員はおにぎりを出しながら端末を操作する。弓削のポケットの中の携帯端末から代金が音もなく引き落とされた。 「こんばんは」 弓削が蕎麦をすすっていると、中年の男の客がのれんをくぐった。 「月見蕎麦をお願いします」 客がゆっくり箸を取り、割った丁度その時に月見蕎麦が出来上がった。それに唐辛子をさっとかけ、すすり始める。動きに、一つの無駄もない。 三分と経たずに、男は月見蕎麦を食べ終えた。そして、手入れの良い二つ折りの革財布を開け、小銭を取り出す。 「お代は、ここへ置いておきますよ」 ちゃりん、と、澄んだ微かな音が、カウンターの上で鳴った。 弓削は、男の後ろ姿を無言で見送った後、思い出したように息を吐いた。 『――もしも大地震とか火事とか事故とかで端末が壊れたりとかねぇ?』 ぼんやりと、弓削は苦情の電話を聞く。 『それになんて言うのかな、お金のやり取りっていうのはさぁ、当たり前っていうか』 「……文化があった」 弓削は呟いた。 『そうそう、文化。お金って何百年も前からあったでしょ? だから』 「日本に実貨が初めて現れたのは、飛鳥時代後期、数百どころか千三百年も昔です。世界史的には、紀元前七世紀のリディア王国と言われています」 『そ、そう。だから、いきなり廃止なんて――』 「……ったら」 ぎゅっと受話器を握りしめる。 「だったらどうして、こんな法案を通した。電子マネーが蔓延り始めた時に、財布を捨てて携帯端末をこれ見よがしに読み取り機に当てて喜んでいたのは誰だ、硬貨を邪魔だと言って、カード決済ばかり使っていたのは誰だ! どうして火の小さいうちに消さなかった。燃え広がった炎を消せないからと言って!」 いつの間にか、電話は切られていた。 「――どういう風の吹き回しだい?」 印刷局の局長補佐、浅羽正が弓削を出迎える。 「実貨廃止の尖兵さんが」 「茶化すなよ」 弓削はガラス張りの見学路を歩く。 紙が、印刷され、裁断され、札になっていく。 「俺たちが、これを停めようとしている」 「ああ、そうだ」 「或いは……」 弓削は呟く。 「まだ、なのかも知れない」 「どんな生き物だって、止めを刺される寸前には、結構暴れ回るさ」 浅羽が笑う。 「でもそいつは、反射みたいなもんだ。神経が反応してただ動くだけ。生きた、意思のある行動じゃない」 無数に刷られていく札は、例えようもなく美しかった。 財務省の敷地内に、財布と紙幣が積み上げられる。 墨書で『実貨供養』と書かれた白木の板が掲げられ、神主がお祓いを行う。 『実貨をなくすな!』 『手に触れられない金は、子供の健全な金銭教育の妨げになります!』 『強行採決は無効だ!』 『実貨は文化だ!』 警察に守られた敷地の外では、市民団体がシュプレヒコールを上げている。 『皆さん!』 ハンドマイクを持った弓削が、トラックの荷台に上り、怒鳴る。 『電子化対策推進室の弓削と申します!』 弓削の声に負けまいと、市民団体は声を張り上げる。 『貨幣は経済の血液です。貨幣が巡って初めて、経済は成り立ちます』 自然と大きくなる声に、スピーカーがハウリングを起こす。 『だとして、実貨は? 生産コストから輸送コスト、あまつさえやり取りに計算を必要とする! こんなものは、血管を詰まらせ破壊する、血栓であります。慢性疾患のようなものであります!』 怒声があちこちから上がる。 『実貨は文化と仰いますが、茶席で、茶菓子を貰う時に実貨を払いますか? 生け花の鉢に硬貨を山もりにしてどうなるのです? 謝礼でさえ、後でこっそりと隠すように渡すではありませんか。貨幣などというのは、卑しいものです!』 弓削が目配せをすると、積み上げられた財布と札に火が放たれた。 カメラは一気に火に向けられ、同時に市民たちが警察と押し合いを始め、また、タマゴや石が飛び始める。 『実貨の時代は終わるのです。いや、既に終わっていたので――』 石が弓削の顔面に当たり、ハンドスピーカーが地面に落ちる。大きなハウリングを一つ上げて、ハンドスピーカーは止まった。 「実貨は死にました!」 次の石が、弓削の頭に当たる。 「最早実貨など何の価値も」 警察が投石をしている市民を次々に確保していく。 「正しく、一円の価値もないのだ!」 その間に、炎は益々大きくなる。演出用に混ぜておいたガソリンのお陰で炎は――少なくともどんな弱小マスコミのカメラマンでも、ベストショットを撮れるだけの時間は――燃え続けた。 ずず、ずずずず……。 立ち食いそば屋のカウンターで、弓削はそばをすする。額の傷跡は、誰も気付かない程小さくなっていた。 「月見蕎麦をお願いします」 隣りに来た客がメニューも見ずに注文をする。 客は唐辛子をひとふりして、食べ始める。 「ごちそうさま」 三分と経たずに、丼は空になった。 小銭がカウンターの上で鳴る。 「お代はここに置いて行きますよ――実貨ですいませんね」 店員が露骨に嫌そうな顔をしながら、小銭を拾う。 手を洗う水音を聞きながら、弓削はそばをすすり続けた。
クスリを買ってきてよと彼がベッドの中から言う。乱れたシーツを体にくるんでこちらを見ている。風邪なんだよ。なんだか身体がとてもだるくてね。 「熱が、あるのさ」 うたうように彼は言う。たばこが数十本ほどまわりに転がっていた。読みかけの本。まるめられたメモ用紙。音楽は無い。無音。ピアノのふたは閉められている。いいよと答えてわたしは立ち上がる。大丈夫か? と言って彼の額に触ろうとする。大丈夫だよ。待っているから早く行って来てくれ。彼はわたしの手を見つめたままそう言う。 街へ出る。街へ。途端に騒音。騒音。耳を覆う、何処か歌のような騒音。部屋は彼の希望で完全な防音室になっていた。そこにピアノとベッドだけを置いて暮らしている。 光を避け、路地へと入る。歪んだコンクリートの壁が何処までも続いている。壁にはポスターが貼られていた。ポスターの図版はエルンストの荒野のナポレオンであった。赤いコートの女。トーテムポール。それが何枚も何枚も何枚も、誰が貼ったのか執拗な正確さで何枚も。全て同じ柄のポスターが何枚も。わたしは歩く。歩き続ける。 彼は詩を書く。彼は詩人である。とても良い詩を書く詩人である。うっとりとするような詩をたくさんたくさん書く詩人である。世間的な評価はまだ無い。数冊本を出版したけれど、それらの詩はほとんど売れなかった。しかしそんなこと彼には関係が無かった。彼は今も書き続けている。今年の末にまた詩集を出版予定である。そしてそんな出版ペースではまったく追いつけな いほどの量の詩を、彼は毎日書いている。 壁のエルンストを手に取り引き剥がす。びりびりと中途半端に破け、さらに隣の繋がったエルンストも一緒にくっ付いてきて剥がれ、半分、無事なエルンスト×2、3分の2エルンスト、という按配になったものがわたしの手の中に残った。路地を曲がる。光の洪水。大通りに出る。 そこに悪魔が立っていた。 「よう」 悪魔は2メートルほどある。その背丈は年々大きくなっていくようだった。全身は真っ黒で、細部は目を凝らしてもはっきりとしない。時折その体はちらちらとほの赤い光が走る。悪魔は全体的に言って黒い炎のような感じであり、手や足の数などははっきりとしない。触られてはじめてそれが腕だと解る。 「久しぶりだな、ああ久しぶりだ」 わたしの肩を掴み、悪魔が言った。 「随分、会ってなかった。本当に、久しぶりだ」 「ああ、そうだな」 「お、これは良いな。良い物を持ってる。なんだいこれは。とても良いものじゃないか」 悪魔は破れたエルンストを手に取り言う。 「向こうにもっとちゃんとしたのがいっぱいあるよ」 「いや、俺はこれが良い。俺はこれが気に入った」 「じゃあやるよ」 「そうか。ありがとう。ありがとうな」 悪魔はエルンストを懐にしまう。 「ところで本当に久しぶりだな。前会ったのは何時だったかな。ええと。何時、何処だったかな。ええと、思い出せないが」 悪魔はわたしを壁に押し付けた。がしゃん。シャッターが背中で鳴る。 「とにかく久しぶり、また会えて、嬉しい」 言い終えると悪魔はわたしの口中に舌を捻じ込んできた。ぐにゅる。ぐにゅるぐにゅる。みちゃ。にちゃ。わたしの口内がめちゃくちゃにかき回される。 「ああ、本当に会えて嬉しいよ」 悪魔が囁く。わたしの舌を、歯を、喉を、その長くしなやかな舌でめちゃくちゃにしながら悪魔が囁く。 「元気だったか? 少し痩せたんじゃないか」 ぐにゅる。ぐにゅるぐにゅる。みちゃ。にちゃ。ぐにゅる。ぐにゅるぐにゅる。 「肩なんてこんなに、腰なんてこんなに細くなって」 みちゃにちゃにちゃにちゃにちゃみちゃ。悪魔はわたしの身体中をまさぐり、めちゃくちゃに愛撫する。悪魔はわたしと会うとずっとそうだった。わたしは目を閉じてじっとそれに耐える。 「あいつともこんなことしてるのかい?」 してない。そのような関係じゃない。わたしはそんなことはしない。大体彼にはそのようなことには何も興味が無い。ぐにゅるぐにゅるにちゃにちゃにちゃみちゃ。 「もう、詩は書かないのか」 「書かない」 わたしは悪魔を身体から引き離し、言う。 「もう書かない。わたしはもう詩は書かない」 「昔はあんなに書いていたじゃないか」 「書かないんだ。わたしはもうわたしの詩を書かない」 「そうか」 悪魔はそう言うとわたしから一歩下がった。 「好きだったんだけどな、お前の詩」 わたしは髪を撫でつけ、襟を直し、歩き出す。 「どこへ行くんだ」 「クスリを買いに行く」 わたしは振り向かず叫ぶ。 「同居人の調子が悪いものでね。熱が、あるのさ」 「待てよ、クスリなら持ってるぜ」 悪魔は何時の間にわたしの隣に立ち、言った。 「ほらよ」 悪魔は手を開く。 手の中から不思議な形の鈍い光沢をした小さなものが次々と溢れ出した。 ぱらぱらぱらぱらぱらぱら。それらは手の平から溢れ出て地面へと落ち、乾いた音を立てる。 「俺の自慢のクスリだ。効き目はばっちりだぜ」 ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら。悪魔は笑う。ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら。 「楽に、死ねるぜ」 ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら。 ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら。 「ほら、ふた粒やるよ」 悪魔はわたしの手の中へそれをふた粒押し込んだ。 「じゃあな」 車が通り過ぎる。わたし達をヘッドライトが照らす。 「また、会おう」 そう言うと悪魔はくるりと背を向け、大通りを歩いていった。 見えなくなるまでわたしはその姿を眺めていた。 「おかえり」 ベッドに立ち、彼を上から見つめる。眠っていたようだ。薄闇の中でも眩しそうに目を細めている。細い胸、肩、首筋が露わになっている。 「ただいま」 首筋にキスをし、わたしは言う。 「クスリ、買ってきたよ」 「そう」 貰ったクスリのひと粒を彼に渡す。わたしは残されたひと粒を口に入れ、飲み込んだ。 「君もクスリを?」 「わたしも、少し調子がね」 「そう」 彼もクスリを飲み込んだ。 「いろいろ、また、書いたよ」 「そうか」 「たくさん詩を書いた。たくさん、たくさん」 「聞かせて」 「良いよ、聞かせてあげる。たくさん書いたんだ。たくさん聞かせてあげる。聞かせきれないくらいに、たくさん書いたからね。たくさん、たくさん、たくさん書いたから。聞いてくれるかい? 僕の詩を、聞いてくれるかい? 聞かせきれないほどの、書ききれないほどの、この僕の詩を」 「ああ。聞かせておくれ」 彼を抱きしめ、わたしは言う。 「聞かせておくれ」 闇に目を向け、わたしは言う。