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第7回3000字小説バトル
Entry16

茶の湯はなぐさみに候

作者 : 厚篠孝介
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文字数 : 3000
 松永久秀はその七十余年の生涯を反骨と抵抗とに費やした人間で
あった。主君三好長慶を凌駕し将軍義輝までも殺した久秀は、幾度
か信長に降ったものの、事あるごとに信長に抵抗した。義昭と呼応
して謀反したものの失敗し、三たび許されて本拠多聞山城を譲り、
九歳と八歳になった我が子を人質に差し出した。
 その久秀が四度目の謀反を決意したのは天正五年の八月のことで
ある。
 久秀は意を決して本願寺攻めの役目を捨てて領国の信貴城に兵を
退いた。織田に勝てる可能性など皆無だった。それは十分に久秀も
分かっていたはずだ。久秀はそれでも信長に抗わずにはいられなか
った。謀反を知った信長はただちに人質二人を京の六条河原で処刑
して獄門に晒した。
 それと前後して編成された討伐軍二万数千は直ちに大和へ進撃し、
信貴山城を包囲して助命の条件に平蜘蛛の茶釜を出すように迫った
…

天正五年十月十日、大和国信貴城天守
 天守から見下ろす山並みが身を切るような寒風と共に赤く染まっ
てゆく、それを追うように雲は闇へと沈み始める。総攻撃を下知す
る織田の軍太鼓の音が大地から染み出すように、どーん、どーんと
響き始めた。その時、久秀は天守で茶を点てていた。
「将軍殺し」の異名を取り、かつては畿内に覇を唱えた久秀も七十
を過ぎて髪は抜け落ち、わずかに残った髪にも黒いものは無かった。
 今、風炉の上で鳴っている茶釜こそ名器中の名器と謳われる平蜘
蛛だった。武野紹鴎の愛弟子として天下に知れた茶人でもある彼は
茶器の蒐集に情熱を注いできた。それも謀反に失敗する度に、命の
代価として信長に差し出さねばならなかった。その辛さが臓腑で煮
え滾っている。残っているのは平蜘蛛だけである。信長はそれすら
欲しがっている。そのためなら手段を選ばない。信長の態度はいつ
でも明らかに久秀を謀反に誘おうとしていた。そうして許し、茶器
を奪うことで久秀の自尊心に傷をつけ、己の誇りを満足させようと
する。
 誰もが嫌がる本願寺征伐に加えられ、その矢面に立たされ続けた。
その時も久秀の自尊心を傷つけることを忘れない。
「お前は南都の大仏殿を焼いておる。将軍も殺した。それで地獄に
落ちるは必定と言うものじゃ、どうせ落ちるなら、本願寺を誅して
から落ちろ」
そう言って久秀を本願寺征伐に加えたのだった。
(信長め)
憎悪が胸に噴き上がる。長慶、義輝を凌駕したのは戦国のならいだ。
信長とて主家を蹴落とし、一向宗門徒を数万人も虐殺し、義昭を追
放しているのである。地獄に落ちるのは信長の方ではないか。
 ちょっと気を反らした隙に碗が手をすり抜けて落ちた。どろどろ
とした濃緑の湯が畳に広がり、畳の襞を伝って流れるのを見て、久
秀は胸を押さえた。
(あやつはこの度もワシが平蜘蛛を差し出して屈すると思うておる
のじゃ)
久秀は袱紗で畳を拭いた。拭い切れなかった跡が急速に落ちてゆく
日の仄暗さの元で、黒い染みのように見えた。血が固まったような
跡だ。獄門に処せられた息子二人のことが思い浮かぶ。
(広丸、竜法師、すまぬ)
久秀は宿痾の発作が体内で蠢くの感じ、眉を歪ませて必死に耐えた。
その時
「織田より使いが参っておりまする」
小姓の一人が間に入るなり言った。小姓は平蜘蛛を差し出すなら命
だけは許す。と使者の言上を伝える。応じる気など微塵も持ってい
なかった。
「追っ払え」
久秀は小姓をさがらせて再び一人になる。月が闇を破って輝き始め
ていた。今日は十年前に久秀が奈良の東大寺を焼いた日である。
(ワシに因果仏罰でも下す気取りか)
荒くなった息を整えながら久秀は慣れ親しんだ間を眺めた。裏切り
を重ねた人生だけに、彼はどんな人間も信じられなかった。義輝、
長慶の悪夢にうなされた夜も一度や二度ではない。発作の病も裏切
りに怯え、気の休まる時のない日々の中に得たのだ。
(ワシはあやつの態よきなぐさみではないぞ)
久秀は天守に運ばせておいた火薬樽を見た。ここ数日、久秀は天守
にこもってひたすらに茶を点てていた。そうしなければ憎悪が身を
引き裂いてしまいそうだった。
 果ても無く茶を立て続けた。久秀の頭の中にはもはや一念しかな
い。敗北が兵道だけでないことをあいつに思い知らせてやる。人の
意地の辛き味を味わらせてやらねば納まらぬ。平蜘蛛は渡さぬぞ。
何があっても平蜘蛛は渡さぬ。お前が平蜘蛛を欲すれば欲するほど、
貴様が味わう意地は辛くなるのだ。
 思い耽るうちにも太鼓の響きに鉦音や吶喊が混ざり、天地を揺る
がすほどに大きくなってゆく。退路を断つために周辺の村落は残ら
ず放火されて赤く、激しく燃え上がっていた。
 久秀は天守の戸を開け放ってから風炉の前に座った。わずかに欠
けた月が冽直たる光線で畳を一気に染め上げた。
 その光りの瀞ような青さの中で久秀は茶筅を動かした。
 茶を一口含んだ久秀はじっと茶器を見つめた。もう一度飲んで再
び茶器を見つめた。寒風が皺に覆われた顔を打つ。兵の吶喊は益々
勢いを益してゆく。
 破竹の勢いで二の丸を落とした織田軍は本丸にも殺到し、城に突
入を始めていた。嫡男の久通は寡勢でもって織田軍に突撃して壮絶
な最後を遂げていた。あとは敵が天守まで登って来るのを待つばか
りである。
 大筒玉が城を直撃する振動で風炉の上の平蜘蛛がかたかたと鳴る。
 松永家滅亡。その気配は月光に乗って、もはや止めようもなく久
秀ただ一人の天守を包んでいた。
 久秀は茶器を握り締めた。武士のならいなど糞くらえだ。屈辱に
塗り込められた生を長らえ、平蜘蛛までを差し出して信長の機嫌を
うかがって生きることにどんな楽しみが残されていると言うのだ。
ワシは商人の子だ。ワシは己の身一つでここまで上りつめたのだ。
切腹などしてたまるものか。ワシにはワシのやり方がある。
 その時、小姓が息を切って間に入ってきた。
「またか」
「は、直ちに開城し平蜘蛛を差し出すのならば、罪を許し、大和の
本領も安堵、禁裏に奏請し新たな官位も与えると、古今に例無き御
寛恕にござります」
(罪を許すだと!)
目尻が激しく吊り上がる。久秀は直立して言い放った。
「貴様に許してもらう罪など犯した覚えはないと伝えよ」
久秀は激しい発作を押さえながら眼下を見た。山野を埋め尽した二
万数千もの織田兵が名月の光に照らされて波のように動いている。
それを見た時、久秀の中で何かが爆発した。
(それほどまでにこんな茶釜が欲しいか!)
久秀は風炉の上で鳴っている平蜘蛛をつかみ上げた。ジッ、と手の
焼ける音がした。
(安土に豪奢な城を建てたとて、天下あまねく我が物としたとて、
人は必ず死ぬわ!)
久秀はそのまま平蜘蛛を振りまわして湯を撒き散らした。赤々と燃
えている風炉の火を両手で抱え上げ、縁まで戻ると火薬樽にぶちま
けた。そうして城を隙間なく取り囲んだ兵に大音声で叫ぶ。
「畢竟、人は死ぬ。信長!貴様に呉れてやる。この平蜘蛛を呉れて
やる。地獄まで取りに来い!」
火を浴びた火薬樽が不気味な音を立てる。
「茶の湯などなぐさみ程度と覚えおれ!」
その瞬間、凄まじい爆音が轟いて信貴山城の天守が火柱を上げた。
 兵士は唖然として一瞬にして吹き飛んだ天守を見上げた。天を沖
した走り火がその頭上へと降り注ぎ、城は大きく揺らいで業火と共
に崩れ落ちてきた。
 彼等は狼狽し、逃れようとして一目散に走り出す。大地を踏み荒
らす泥だらけの足が闇の底で鉄屑となっている釜を蹴っても、彼等
は気にも留めない。