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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第80回バトル 作品

参加作品一覧

(2007年 8月)
文字数
1
麻埒 コウ
3000
2
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
3
ごんぱち
3000
4
akky
3000
5
伊勢 湊
3000
6
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000

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おもいでばいばい
麻埒 コウ

 今夜も眠れない。目を閉じると、決まって耳が開くのだ。
「クスクス……、クスクス……」
「アハハ……」
 頭の中に染みこんでくる、笑い声。小さな女の子からおじいさんまで僕を笑っている。「人ご~ろしぃ~」。違う。あれは愛情表現だ。ちょっと度が過ぎただけだ。僕の叫びをよそに、やがて半開きの唇が浮かび、いやらしい歯が飛び出してくる。死にかけのネズミのように痙攣する喉。激しくなる嘲笑。唾液が降り注いでくる、止められない嘔吐のように。僕は夢の入り口へ向けて走り出した。だけど、生暖かい唾液が足元に水たまりをつくり、僕は足をすべらせて、不眠の穴へと頽落する。
「……ダメだ。眠れない」
 しょうがない。今夜も行くとしよう。あの場所へ。あそこなら誰の声もとどかない。二人だけ。そう、世界でたった二人だけの場所へ。

 僕は家の真裏にある林を進む。君が眠る、約束の場所まで。懐中電灯だけが僕の歩く道を照らす。
 約束の場所。僕はひざまずいて君にキスをする。王子様の口づけですら目覚めさせることのできない白雪姫。毒りんごの解毒剤はもうこの世にないんだ……。
 なんてことを考えていたら、暗いはずの林の奥から煌々と明かりがもれているのに気づく。
「なんだろう」
 僕は明かりのもとへ近づいていく。なにか店のようなものができているようだ。そのせいで約束の場所のシークレットでミステリアスな雰囲気が台無しになっていた。なんなんだ、あの建物は? おととい行ったときはなかったのに。僕はブツブツと悪態をつきながら謎の建物のなかに入っていった。 
「いらっしゃい」
 明かりの中から、人のよさそうなおじさんがひょっこり。見た感じ、自分で焼いたパンに命を吹き込んで街の平和を守らせる使命感を背負った人に似ていなくもない。っていうか似ている。むこうがイチゴジャムだとしたらこっちはマーマレードといったところだろうか。逆か? まぁ、どっちでもいいけど。
「こんな・ところに・コンビニが・でき・たんだ」
 僕は無意味に台詞を区切って言う。その言葉を、おじさんは柔らかく否定する。
「違います。ここはコンビニではありません」
 たしかに中をのぞいてみると、とても“便利小売店”と和訳できるような品揃えではなかった。店の棚に所狭しとガラスのビンが並んでいるだけ。ずらっと。からっぽのものもあれば、いろんな色の液体が入っているものもある。
「ここでは、記憶を売ったり、買ったりすることができます」
「記憶?」
「はい。あのビンのなかに入っているものが記憶です。鮮やかな色ほど、楽しい思い出であることが多いようです」
 へ~。ずいぶんと不思議なものを売買してるんだな。
おじさんはとても営業用とは思えないほどの洗練された笑顔を浮かべ、レジのよこの天秤を指さした。
「ただし記憶の値段は楽しいか辛いかで決まるのではないのです。その重さによって決まるのです。どうです、あなたもなにか買っていきませんか」
「いや、僕は買うよりも売るほうがいい」
 僕はおじさんの催促を断った。
「最近、眠れないんだ。イヤなことばかり思い出す。だからさ、いやな記憶だけを買い取ってよ」
 おじさんの表情をうかがう。露骨に嫌な顔。
「たまに、そうおっしゃるお客様もいます。しかし、そういったお客様は必ずしも幸福にはなれませんでした。思い出というものは、それがどんなものであれ、易々と手放すものではないのだと思います」
「かまいやしないさ。僕はそんな未練がましくないんだ。それより、どうやって記憶を取り出すんだい?」
 おじさんの内ポケットから出したのは、一本の注射器。これをこめかみに指して、記憶を吸い上げるらしい。
「最後にもう一度だけききます。本当に、いいんですか?」
「しつこいな。僕はいやなことぜんぶ忘れて、ぐっすり寝たい。それだけなんだ」
 僕はこめかみに針をさし、ピストンを吸い上げた。脳みその置くからずるずると、蛇のような生き物が引きずりだされていく感じがした。
 走馬灯。そう言うんじゃなかったっけ。こんなとき。
僕の頭のなかをいろんな思い出が駆けぬけていく。でも、目まぐるしく巻き戻される記憶のなかで、聞こえるのは、笑い声。僕をからっぽにしていく、嘲笑。
 ピンク色の肉の壁がべりべりとはがれて、その中から無数の白骨。白いあごを、かちかち鳴らして。
「アハハ……」
「アハハハ……」
「ハハハ……」
「ハハ……」
「……」
「ぬふぅ」

「やはり、こうなりましたか……」
 おじさんがからっぽの僕にむかって言う。でもそれをきいてるのは僕じゃない。僕はもう、僕の外にいるから。
「ちょっと待ってよ。話がちがうじゃないか! 僕はイヤな記憶だけを消してくれっていったのに!!」
 おじさんの(だから言ったのに)みたいないいかたが気に入らなくて、僕はつかみかかった。
 ズルッ、
 と僕の腕はおじさんの胸ぐらをすり抜けてしまう。
 転んだ僕は、思った。ん? なんで僕は怒っているんだろう??
「おそらく、まだこの近くにいるんでしょう。ならしばらくそのままで聞いてください」
 おじさんはどこも見ずに言った。
「あなたは、生きることをとても面倒なことだと思っていました。かといって死ぬのは怖かった。そこには葛藤すらありませんでした。どうでもいい、あなたに残った感情はそれだけです」
 おじさんはつづける。その声は、僕のからだ以上にからっぽだった。
「ならばいっそ、綺麗なままここからいなくなりたいと思った。生きていることがどうでもいい以上、あなたに残った思い出はすべて嫌な思い出になっていきました。そしてあなたは自分の嫌な記憶をすべて売ってしまった。
あなたは自分の思い出のなかではく、誰かの記憶のなかで生きようと願ってしまったのです」
 おじさんは僕を見上げている。僕のことは見えないはずなのに、僕と目が合った。
「あなたは決して取り出すべきではない記憶を取り出してしまった。それは失くしてはいけないものだったのです。もう一度、思い出せませんか? この場所を、よく見てください」
 おじさんの言葉どおり、僕はあたりを見まわす。そうなんだ。ここは、なにか僕にとってとても大切な場所だった。そんな気がする……。ズキン。ガラスの破片が突き刺さるような頭痛。まるで、かたちを奪われたことを、復讐するみたいに。
 なんだろう。笑い声? たくさん。どうして。僕の顔になにかついてる?
 なぜみんな僕を見るんだろう。僕は透明な存在。ほら向こうが透けて見える。だから僕に視線を留めないで!
 轟く笑い声のなかに、たったひとつだけ、僕を呼ぶ声。
「待ってたよ」
 あれ、きみは……
「あなたは私の首を絞めてここに埋めてくれた。私があなたに支配されることを望んだから。私はあなただけのものになりたかったから。思い出せる? 土のなかは冷たかったよ。あなたが時々さしだしてくれる手の温もりだけが私を温めてくれた。でも、いまは、私たちは体ごと抱きしめあえる。そうだよね?」
 はだけた下着から肋骨をちらつかせながら彼女はいった。彼女の肌はもともと白骨のように白かったから、何も変わりはない。僕たちは抱き合った。彼女の骨の冷たさが僕の体に伝わり、温かさと交わって夢のような感覚をあたえていた。
 足元には虹を溶かしこんだような鮮やかな色の液体が入ったビンが転がっていた。それは月の明かりを反射して、キラキラと輝いていた。
おもいでばいばい 麻埒 コウ

(本作品は掲載を終了しました)

バベル!
ごんぱち

 夜空へ伸びる塔。壁の継ぎ目の凹凸は、砂粒二つか三つ分の深さしかない。
 ルグは、その僅かな凹凸に、指先を食い込ませる。
 十三、四歳の少年だが、目は鋭く、その身体は異様な程に痩せて小柄だった。紫外線でボロボロになった肌を、ボロ布がへばりついている程度のシャツとパンツで覆っている。そして、パンツは不自然に膨らんでいた。
 一呼吸でも早く、ひとかきでも高く。
 壁を上り続けていた。
 そして。
 東の山から日が顔を出した頃。
 ルグの指先は、塔の最上部へ到達した。
 壁の上は、一メートルほどの幅しかなかった。
 上から眺める塔――否――壁は、町が二つか三つは入るであろう、途轍もなく巨大な円筒だった。
 内側には、整然と建ち並ぶ建物、舗装された道、洗練された乗り物。
 ルグは振り返って、イサドの町を見る。
 埃と土の色にくすんだ町。
 別世界――否、別時代の光景だった。
 ルグはパンツから、木に折れた錆釘を埋め込んだ鉤縄を出す。細く黒いその縄は、丁度ルグの髪と同じ色つやの――人毛縄だった。
 ルグは鍵を外壁の僅かな凹みに引っかけると、そのまま内壁を伝って降りて行った。

 イサドの町には、日干しレンガと石積みで出来た崩れかけの家ばかりが建ち並ぶ。
 その中でも、裏通りに面した、ひときわボロボロの家に、ルグたちは集まっていた。
 子供が五人に、大人が二〇人、その誰もが鋭く暗い目つきをしている。
「凄ぇ、なんだこの麦、でけ――おぐっ!」
 テーブルに広げられたルグの戦利品――巨大な麦に手を伸ばそうとしたギジアを、ドグラが殴り飛ばす。
「大事な売り物に手を出すんじゃねえ」
「ご、ごめんよぉ」
 ギジアの口から、折れた歯が落ちる。
「こいつはバベルの魔法麦だ。一粒だって勝手に取ってみろ、死ぬだけじゃ済まねえぞ」
 ドグラが皆を睨む。
「親分、でも」
 言いかけた男の頭を、ドグラは腰に提げた石斧で殴る。頭が砕け、飛び散った。
「他に逆らうヤツは誰だ」
 皆、テーブルから出来るだけ離れようとする。ルグも顔を蒼白にしていた。
「いいか、これはバベルの宝だ。麦一粒だと思うな、一粒が麦蔵と同じに違いねえ」
 血のこびりついた石斧を腰に戻す。
 血溜まりの中に落ちた麦のうちの一粒を拾う。既に、僅かながら根が伸びていた。
「これを手に入れる為に、ガキを三〇人も育てた。五〇〇人の髪を集めた。逃亡の為に放火する油、馬、情報屋、どれだけ金を使ったか。慎重に、公平に分けるんだ」
 ドグラは左腕を上げる。
「我ら『南風』の鉄の結束!」
 大人達が続き。
「刃向かう者から肉を奪い!」
 子供達が繋ぐ。
「仲間には、骨をも与えよ!」
「肉を奪え!」
「骨を与えよ!」
「肉!」
「骨!」
「肉!」
「骨!」
 狂信的とも言える叫びが、繰り返される。
「――じゃあ、麦は返して貰おうか」
 いつの間にか。
 入り口に、背の低い、髪の薄めな、化学繊維の服を着た中年男が立っていた。

「バベルだ!」
 皆に動揺が走る。
 しかし。
「よく見ろ、たった一人だ、殺せ!」
 ドグラが怒鳴る。
「逃げたヤツは、俺が殺す!」
 その言葉に皆は我に返り、ルグたちは一斉に中年男に襲いかかる。
「ふっ」
 中年男は、腰の小瓶の蓋を開け、数滴こぼす。それが地面に落ちる前に、火種に受ける。
 次の瞬間。
 激しい爆発音が皆の耳をつんざいた。
「プリゾンド・テクノロジー、君らの言うところのバベルの魔法の一つ。三硝酸グリセリン、別名ニトログリセリン。人類を最も大量にミンチにした物質だ」
 が。
「びっくりした!」
「音だけだぞ!」
「大した事ねえぞ、バベル!」
「やっちまえ!」
 ルグたちは、中年男に襲いかかる。
「こっ、こら、人の話はきちんと聞け!」
 ルグが足を払う。
 中年男は、それを軽く跨ぎ越す。
「でいっ!」
 ギジアが釘棍棒で背中を狙う。
 だが、中年男は右へ一歩分身体を傾けてかわす。
 片足を浮かせたところを、左右前後から四人が手槍で一度に突き掛かる。
 これをほんの僅かに前に姿勢を向ける事で、槍の穂先の到達時間に誤差を生み、一つ一つかわす。
 二撃目を仕掛けようとするギジアの真後ろから、ドグラが石斧を一閃する。
 ギジアの首を砕き切りながらの一撃を、中年男は反り返ってかわし、軽く飛び上がると石斧の上に立ってしまった。
「バベルの、魔法」
 ドグラは呟く。
「勘違いしちゃいけない、これはニトロを扱う技師の必須技術だぞ?」
 石斧から飛び降りた中年男は、尚ものらりくらりと攻撃をかわし続ける。
「扱う、技術?」
 空振りばかりで息を切らせながら、ルグが思わず尋ねる。
「うむ。ニトログリセリンというのは、衝撃に弱いので、何があっても転んだりしないように、針供養の豆腐の上でアルペン踊りを踊る的な特訓をしたのだ。だから別に、魔法とかは関係ない」
 中年男は、またニトログリセリンの瓶に手を伸ばす。
「ニトロはちゃんと使う。覚悟しろ」
「……つかぬ事を聞くけれど」
 ルグのハイキックをバク宙でかわしながら、中年男は瓶の蓋を取る。
「なんだ?」
「そのニトログリセリンってのを使って殺したりしないのか?」
「そんなに大量に使ったら、オレが巻き込まれるじゃないか」
「だああああっ! こいつアホだ! 魔法全く意味ねえ!」
 叫ぶルグの視界に、血溜まりの中から伸びる一本の麦が留まった。既に穂を付けている。常識外れの成長の早さだった。
「あ――」
「待て!」
「俺のだ、よこせ!」
 ルグが手を伸ばそうとするのと、中年男が止めようとするのと、ドグラがルグを石斧で殴り飛ばすのと――。
 麦がその実を超音速で周囲に飛び散らせるのとは、ほぼ同時だった。

「――遺伝子組み上げ麦『クラスター』」
 中年男は、壁にめり込んだ麦をほじり出す。
「地力をすっかり奪って実を付け、そして、余剰のエネルギーを爆発させて種を飛ばす。バベルに封じられた、プリゾンド・テクノロジー――技術の虜囚の一つ」
「あんたは、おれたちを、助けてくれようとしてたのか……」
 石斧で殴られた腕から血を流しながら、ルグは呟く。
 クラスターの種飛ばしをまともに受けたドグラの頭は、すっかりなくなっていた。
 驚きと恐怖で、ある者は意識を失い、ある者は這いずり、ある者は姿を消していた。
「バベルは、科学という虜囚を幽閉する牢獄。そして我らはそれを管理する、看守だ」
 麦を拾い終えた中年男は、ルグのシャツを掴む。
 シャツの裾には、麦が折り込んで入れてあった。
「だからって」
 ルグは中年男の手首を掴む。
「ボスも、沢山の仲間も死んだ。バベルに忍び込む為に、蓄えも使い切った。これでバベルの宝まで失ったら!」
「これは危険だ。さっき見て分からんかったか?」
「バベルの宝だって言ったら、買うヤツは幾らでもいる! そうでもしなけりゃ、おれたちは生きて行けないんだ!」
「んーと、な」
「あのバベルの中で喰うにも困らないでぬくぬくと生きているあんたに、何が分かる!」
「一つオレが言える事はな」
 中年男はルグの手首をひねり、麦を難なく取り上げた。
「盗賊団が被害者ぶるな、バーカ」
 とても良い音で、中年男はルグの頭を張り飛ばした。

 保管ケースに管理職員の手によって封印が施され、ドアが閉じられる。
 倉庫のエアダクトにも、新たに鉄格子がはまっていた。
「これにて一件落着、か」
 中年男は背を向け歩く。
「次の出動は、いつになるかなぁ」
 バベルの西壁に落ちる陽は、まだ強く明るかった。




バベル! ごんぱち

遺族がやります
akky

 B大陸C国に置かれた我が社初の海外拠点へ赴任するに当たり、現地スタッフのD氏に案内を請うべく、着任のその日に国際空港で落ち合った。彼の紹介で現地在外公館の駐在大使と特別に親しく歓談させてもらい、取引先のめぼしい人物に着任の挨拶を済ませたあと、D氏の薦めで市内見物に出た。
 永らく諸外国の植民地として留め置かれ、経済的な立ち遅れの目立つB大陸諸国の中で、C国は抜きん出た存在である。郊外の国際空港から首都中心部へ抜けるハイウェイが整備され、首都圏の地下鉄網・鉄道網は完備、市街にはニューヨークの摩天楼と見まがうばかりの高層ビルが建ち並び、巨大なターミナル駅のショッピングセンターには常に人が溢れていた。
 C国建国の父を記念したモニュメントを見学したあと、D氏の案内でとある広場を通りかかったとき、私はそこに大きな人だかりを見た。
「何をやっているのですかね」
 何気なく問いかけると、D氏はどうということはないという調子で、
「ああ。公開処刑ですよ」
「公開処刑?」
 私はすっかり腰を抜かしてしまった。これほど高い近代性を誇るC国において、公開処刑というような非文明的な制度がいまだに存在しているというのは大きな驚きだった。
 私の心を察したらしく、D氏は快活に笑って、同国の死刑制度について簡単に説明してくれた。死刑は同国でももともと非公開であったが、数年前、死刑制度に関する法律の大改正が行なわれ、従来死刑台の置かれた各刑務所の刑務官が公務として行なっていた死刑の執行を犯罪被害者の遺族が行なうことになったのに伴い、公開処刑に切り替えられたのだという。
「死刑を犯罪被害者の遺族にやらせるんですって!」
 私はまたまた腰を抜かしてしまった。
「だってそのほうがずっと合理的なのですよ」
 D氏はいくぶん気分を害したような表情でいった。「元来、我が国の死刑制度においては応報的な意味合いが強く主張されてきました。国家が法に基づいて犯罪者に対する復讐を代行するという側面が強かったわけです。しかし、それには大きな問題がありました。処刑の現場を担う刑務官たちの心の問題です。いかに凶悪な犯罪を犯したとはいえ、死刑囚もまた人間。彼らと身近に接する刑務官に情が沸くのもまた道理というものです。個人的な遺恨など初めからないわけですから、いざ死刑を執行する段になって強い良心の呵責を感じたとしてもおかしくありません。現に死刑執行経験者の中には、その後精神に異常を来たし、廃人同然の生活を送っている者もあると聞きます。遺族による死刑執行は、国家が一方的に収奪していた復讐権を遺族に返還する意味合いをもつとともに、人道的な観点から、死刑執行官をその精神的な負担から解放しようというのが第一の目的です。また公開で処刑を行なうことにより、非公開の場合よりも大きな犯罪抑止効果が期待できると同時に、一般民衆の報復感情をも慰撫することが出来るのです」
「しかし」私は大いに首を傾げた。「遺族の中には自ら死刑を執行することを望まない人もいるでしょう」
「むろんそうです」とD氏は大きくうなずき、「新制度においていわゆる死刑相当判決と呼ばれるものは死刑判決そのものではありません。被告人を死刑にするか、罪一等を減じて終身刑にするかを被害者遺族に決定させる旨の判決なのです。遺族には、加害者を死刑にするか否かを判断するために、半年という時間が与えられます。判決後半年以内に、最高裁判所へ死刑の執行を申し出ることによって最終的に死刑が確定し、それから1ヶ月以内に刑が執行されるのです」
「万一、刑を執行するまでに遺族の気持ちが変わった場合はどうなるのです」
「その場合、死刑判決が破棄されて、改めて終身刑の判決がなされることになります。遺族は死刑執行のその瞬間まで、いつでも死刑執行の意思表示を撤回することが出来ますが、一度死刑執行を放棄したあとはそれを撤回することは出来ません」
 私はなお釈然としない思いを抱きながら、儀礼的に「なるほど」と呟いた。そのとき、群衆の間からどよめきが起こった。両手を後ろ手に縛られ、頭から黒い頭巾を被せられた死刑囚がいましも絞首台にかけられるところだった。絞首台の下に置かれた長机の前に並んでいるのが遺族で、彼らが机の上のボタンを押すことによって絞首台の底が抜け、刑が執行されるのだとD氏は説明した。
 ふいにガタンという大きな物音がし、死刑囚はあっという間に台上に宙吊りになった。その身体は初め、電気ショックを与えられた動物のように激しく痙攣し、やがて海老のように反り返って硬直したあと、ぱたっと脱力してそのまま動かなくなった。期せずして群衆の間からまばらな拍手が起こったが、当の遺族たちは重苦しい沈黙の中で宙に揺れる死刑囚の姿を憑かれたように凝視し、あるいは目を背けた。
「身近な人間を無惨に殺された人びとが自らの手で恨みを晴らしたいと望むのは至極当然の考えです。死刑はけしからんなどと分別顔でいう者がおりますが、凶悪な犯罪者をおめおめと生きながらえさせようという死刑廃止論者の主張のほうがよほどけしからんですよ」
 車で私を支社へ送りながら、D氏は誇らしげにそういったが、私は一刻も早くいま見た光景を忘れたかった。
 それから数年の月日が過ぎた。私はその間、着実に仕事上の成果をあげ、支店長にまで昇りつめた。ある日のこと、私は現地の新聞で気になる記事を見かけた。死刑執行を行なった遺族のもとに、嫌がらせの手紙や電話が相次ぐ事例が急速に増えているというのだ。さらに数ヵ月後、今度は死刑執行を行なって間もない遺族の一人が何者かによって惨殺されるというショッキングな事件が起きた。数日後に自首した犯人は警察の調べに対し、「死刑制度に名を借りた殺人者に天誅を下した」と述べたが、世論はなぜか殺された遺族よりもむしろ犯人のほうに同情的であった。この事件を境に、死刑相当判決の事例で遺族が終身刑を選択するケースが激増した。加えて、かつて犯罪被害者遺族として死刑執行を行なったある人物がその内情を赤裸々に綴った手記がベストセラーとなり、遺族による死刑執行の過酷さを世に訴えて物議を醸した。C国ではその後、死刑制度廃止を求める声が急速に強まり、ついにその数年後、私が現地での任を終えようとしていたまさにその年に、死刑は廃止されたのである。
 本国へ帰るその日、D氏に送られて空港へ向かう途中で、いつか公開処刑を見た広場の前を通り過ぎた。ふとした懐かしさから思い出話を口にすると、D氏は車のハンドルを握ったまま刑場の跡地にちらりと目をやり、分別臭いため息をついた。
「廃止されて当然なんですよ死刑なんて。少なくともわたしは初めからそう思っていましたね。そもそも、人を殺すという行為とそこから得られるものとが等価になっていないのが死刑制度の最大の欠点なんです。遺族がいくら犯人を殺したいと思っていたって、殺人犯が人を殺そうと思うのとは訳が違います。人ひとり殺すことによって、誰も得をしない。得をするとすれば、死刑をショーとして楽しむ一部の民衆だけでしょう」
 私はD氏のあまりの豹変ぶりに内心びっくりしながらも黙っていた。
「いっそ、私みたいな人間に私的に金で請け負わせればいいのだ」
 D氏はいった。「あなた、Xって女を知ってますね」
 エッと振り返った瞬間、鋭い銃声が響いた。
遺族がやります akky

きっと坂を強く上る
伊勢 湊

 悔しいけど、もう気力が尽きた気がする。毎日、毎日「死ね」と言われ、無視され、教科書やカバンや靴がなくなり、トイレで一人涙を流してたらバケツで水がかけられた。「どうしてこんなことするの?」とささやかな抵抗を示したのも最初の数週間だけ。日が経つにつれ心は削られ、力を失い、そしてもう疲れてしまった。でもネット上のわたしは本当のわたしと違ってとても強気で、とてもよく喋る。誰かがわたしの振りをして別の誰かの悪口を言うのだ。でも、それを否定するのにももう疲れた。勇気を振り絞って先生に相談したときに「ホントはおまえが書いてるんだろ?」と言われたあのときから、わたしは緩やかな坂道を滑り下り続けていた。彼が来たのは、わたしがほとんど坂を下りきっていたときだった。
 その転校生は神城くんといった。自己紹介では中学の途中から親の仕事の都合であちこち引っ越していると言った。高校も二年になってまで転校するなんて珍しいと、いじめにでも遭って転校したのかな、と少し勘ぐった。正確に言うと、たぶんわたしは期待していた。でも彼がいじめに遭うタイプではないことはすぐに分かった。
 それは昼休み終わりのことだった。いつものようにひとり校舎の裏で隠れてお弁当を食べて、教室に戻ってくるとわたしの机の上に花瓶の花が置かれ、机にはわたしの似顔絵と「死亡」という落書きが書かれていた。それを取り囲んで何人もが「いやー、あいつは臭い奴だった」などと教室の入り口のわたしに聞こえるように言っていた。わたしは行き場もなしに立ち尽くしていた。するとわたしの側を誰かがすり抜けていった。神城くんだった。神城くんは手に雑巾を持っていて、花瓶を脇においやると落書きを消し始めた。
「ちょっと。遊びなんだから邪魔しないでよね」
 加奈子が言った。中学の頃は少し仲良かった加奈子。神城くんは手を止めない。
「やめとけよ。おまえよく事情知らないだろう? 余計なことはしないほうが身のためだぜ」
 不良っぽい井筒くんが睨みをきかす。でも神城くんは手を止めない。ただちらりと周りを見回して「やれやれ。根暗な連中だな」と言った。
 場は騒然となった。「やってやろうか!」と突っかかろうとする井筒くんを何人かが止めた。よくあるシーンだった。突っかかる不良に、止める取り巻き達。でも、そこで予想もしないことが起きた。神城くんが自分から井筒くんのほうに歩いていった。手を出したわけではない。脅し文句を言ったわけでもない。ただ泰然と井筒くんの目の前まで行き、「どうするって?」と微笑みながら言った。そのときわたしは加奈子たちの視線に気が付いた。無言の命令で、わたしはなぜかそれに抗うことは出来ない。わたしは自分の机まで小走りに行き、「やめてください。ほんの、遊びですから」と言って場を収めた。でも心の中でわたしは嬉しかった。一瞬で、たぶん神城くんに恋をした。でも彼はそんなわたしを一瞬でまた暗い世界へ突き落とした。そのときのわたしには、そう思えた。
「いじめられる人に理由はない、とか偉そうに言うやつがいるけど、少なくともいじめ続けられる奴には理由がある。自分の勇気のなさは他人のせいになんて出来ない。君は生き物として弱い」
 神城くんはそう言ってわたしに軽蔑の視線を投げるとそれ以上は何も言わずに自分の席に着いた。

 その夜、わたしは久しぶりにそこはかとない怒りを感じていた。なんでよく知らない転校生に勝手なことされたうえで、あんなことを言われなきゃいけないのか。明日にでも彼には文句を言ってやろう。そう思って眠りについた。久しぶりに、へんな言い方だけど、心地良い怒りだった。
 でもそんな気持ちは朝のホームルームで粉々にされた。わたしは担任の先生に教卓の前に立たされた。「何で呼ばれたか分かってるな?」と先生は言ったけどわたしにはまるで分からなかった。すると先生はわたしにプリントした紙を投げつけた。一瞬目を瞑り、それから足元に落ちた紙を拾った。それはネットの掲示板をプリントしたものだった。
「教師やクラスメートに対するこれだけの誹謗中傷がよく書けたものだな。いったいどういうつもりだ!」
「わたしじゃありません!」
 わたしは必死に抵抗した。でも加奈子たちが紙を拾い、「ひどい。最低」などとわたしを蔑む。そのたびにわたしは力を失う。声がどこか遠いところから聞こえるようで現実味を失っていく。
「わたしじゃありません」
 わたしは力なく言う。それに対して先生が「おまえじゃない証拠をはあるのか?」と言う。視界が暗くなっていく。
「じゃあ先生。彼女が書いた証拠はあるんですね?」
 不思議に思う。それでも少しづつ視界が明るくなる気がした。神城くんだった。昨日あんなことを言っておいて、どうしてわたしを庇うのだろう? 
「この程度のサーバなら、ちょっと調べればどこからの書き込みか分かる。警察に被害届を出せば、プロバイダは調査に協力しないわけにはいかない。言うほど、インターネットに秘匿性なんてない。もしこれが、彼女の書き込みでないと証明されたら、先生はどう責任を取るんですか?」
 先生が怯んでいるのが分かる。「おまえ、教師に向かってそんなこと言って」と言いかけたところで手のひらをかざして神城くんが会話をさえぎる。
「その先は言わないほうがいい。たとえこの教室の中で君臨していても、なにもかもが自由になるわけじゃない。言うべきではないこととか簡単に口にすると、取り返しつかなくなりますよ」」
 場の空気が急激に冷めていった。たぶん、わたしを庇ってくれたわけじゃない。分かりかけていた。それでも、やっぱり嬉しかった。

 その日、わたしは神城くんと一緒に帰った。結果として、次の日からわたしへのいじめは徐々になくなっていった。その一番の要因は教室での神城くんの行動ではなく、この帰り道での会話だった。朝の出来事の後、わたしのなかで何かが消えた。それと同時に神城くんの勝手な行動になぜか怒りが湧いてきた。そこでわたしは帰り道に彼を追いかけて言ったのだ。
「どうして勝手なことしたのよ!」
 それを聞いた神城くんは一瞬ぽかんとして、そして笑い出した。
「な、なによ!」
「いや、怒れるんだ」
 彼は笑い続ける。
「だって、あんな勝手なことして。あなたにいじめられる気持ちなんて分かるの?」
 返ってきたのは意外な答えだった。
「いじめの経験を威張られても困るなぁ。でも、分かるよ」
 えっ? そんなふうには見えかった。
「中学のときはひどかったよ。僕の場合は主に暴力だったけど。でも金も取られたなぁ」
「うそ?」
「ほんと。でもある友達がいじめっ子をやっつけてくれた」
「助けてくれたのね」
「うん。でもその後で僕も殴られて失神させられた」
「えっ?」
「で、目が覚めたとき、殴られるのってそんなに痛くないだろ、って言われた。まあ、そこからかな。ちょっとしたことに気が付いたんだ。それまで勝手に萎縮してた。そしてそれを誰かのせいにしてた。でも結局そこだけは自分でどうにかするところなんだ。それからいじめられてもやり返してたらすっかりいじめられなくなったよ」
 わたしは彼の足を蹴って「なによそれ、わたし男じゃないんだから。勝手なこと言わないでよね」と言い放ってから走り出した。でも、わたしが闘えるようになったのは、きっとそのときからだったと思う。
きっと坂を強く上る 伊勢 湊

ハイウェイに立つ
るるるぶ☆どっぐちゃん

 少年は砂漠の絵を描いている。
 コンビに強盗は美しい黒髪の女だった。
「僕は将来爆撃機に乗る気がするよ」
 東京ドームに突き立った東京タワー。
 ホームレスぼさぼさの頭で、スポーツ新聞と缶コーヒーを持って、早くしろ早くしろ早くしろ、とぶつぶつ言っていた。

 わたしは砂漠へ行く。
 花が咲き乱れた砂漠に行く。
 皆楽しげにトランプやクロケット、タイル貼りをしていた。
 ポルシェとフェラーリが派手な音を立てながら正面衝突を繰り返している。飛び散る真っ赤なかけら。真っ赤な花びら。拍手。様々な民族。トランプ。エースとジョーカーが並んで立つ。拍手。太鼓。ミロの、あの失われた腕を持つヴィーナスの拍手。永遠に伸ばされ続ける。永遠に失われている。永遠に、どの瞬間にも存在している。雲のように。夕焼けがきれいだ。夕焼けがきれい。夕焼けがきれい。きれい。斑の模様を持った蜘蛛が徐々に焼かれていく。
 砂まみれの地球儀。
 砂まみれの地球儀屋。
 間違った地球儀。地球では無い地球儀。こうなるはずだった地球儀。店の男は宇宙服を着ていた。もこもことしたシルエットの男だ。
 数学の本と一緒に小さな地球儀を買う。
 女の家へ行き、枕元で読む。
 数学の本には七つの大罪についての章があった。

 街へ出る。
砂の中にぽつんと駅ビルがある。
ショーウインドウの中に七色のハンマーを持ったマネキンが立っている。

「こんなの大量生産して良いのかね」
「良いんですよ資本主義の我々は作り続ける義務があるのでね年率十%の経済成長が必要なんですよはははは、はははあははは、いや失礼、急に笑いがこみあげてきてね。とにかく爆発するまで作りけるんですよ、地球を爆発させるために」
「じゃあラインを爆発させるまで動かすよ」

 大量生産と言ったって、小種適量生産と言ったって、結局みんな欲しいものはひとつだ。

 抱きしめる。

 届かない。

 飛び続ける。

 宇宙に浮かぶブランコ。振り子時計。
 流れている音楽はジャズ。オールザットジャズ。
 夫はジャズマンだ。トランペットとシンバルを手放さない。いつも黒いスーツ。いつも黒い帽子。わたしは楽器を弾けない。窓ガラスに絵を描く。

「嘘だ。全て嘘です。ごめんなさい」
「いや、本当だ。嘘だなんて信じられない」
 白い部屋。黒いロープに全裸の少女が縛られている。カールのかかった美しい金髪には可愛らしいリボン。

 ジャズ。ブランコ。オルガン。
 帰宅途中、白い闇に迷い込んでしまった。
 白い闇の中にはヤミーがいる。子供のときにそう聞かされた。
 ノイズ。
 ヤミーは理想の子供であり、闇の中に永遠に閉じ込められている。
 その小さな手を取り、家へ連れて帰る。夫と二人で育てる。
 ヤミーはとても可愛いので沢山服を作ってしまう。沢山絵を描いてしまう。わたしは子供服メーカーになった。
 ヤミーは闇の中から助け出されたが、その為に、光の下では徐々に弱っていく。そのように決まっている。振り子時計。
 ヤミーは成長し、大統領選に立候補する。

 足を折ってしまった。病院へ行く。最近の病院はとても綺麗だ。とても良い匂い。リボンのような包帯。
 窓の外ではパトカーと犯人の車が銃撃戦を繰り広げていた。発砲音。爆発音。ジャズ。いつもジャズなのは何故か。
 血まみれの警官が運び込まれてきた。髭面で長髪で茨の冠なんてしててかっこよかったから愛想を言う。
「はーい、今日はいい天気ね」
「黙ってろ、このスベタ!」
 警官は医者に色目を使い続けている。茨の花を贈られる。医者は困ったような顔でそれを受け取る。TVからはポップスターの歌。百人が並んでタバコを吸っている。列から一人、男が離れる。公園へ歩き去る。百本のタバコが撒き散らされた道。公園で、男は歌を歌う。あの良く聴いた声では無く、ひどい声。魂を剥き出しにしたかのような、ひどい声。
「汝姦淫するなかれっていうのは良い言葉だね」
 銃撃戦の中へよろよろと歩いていくポップスター。全ては因果だ。ポップスターには因果が含まれていて、それは悲劇だ。それがエンターテイメントってものだ。
 わたしはただのOLだが、ここで一つ手品を。宴会芸だが、つまり時間を止めてみる。
 時間を止めるということはすなわちどの場所にも存在出来るということ。地球儀を回しながら歩く。全てが可能になる。つまり音楽は時間に左右されないのだ。ティラノサウルス。ティラノサウルス・レックス。
 マーク・ボランの声が思い出せない。日記をなくしてしまった。

 何も、何も、何も、考えてない訳じゃない。
 タバコの煙で目が。
 白い肌。
 太陽。
 犬。
 ギター。
 かきむしる。

 風。

 馬鹿みたいうそ臭い拳銃自殺。
 六年その女の死体と暮らす。

 青空。

 六年後。花束。

「おかえり」

「ただいま」

 すぐに十字架を見つけてしまうよ。

 すぐに虹を見つけてしまうよ。

 アイドルコンサートに行くんだ。
 ポップコーンが撒き散らされた道。

 ビルのように巨大な超技術スピーカー。

「ラッコの上着が来ねえんだよ!」
「ザネーリ! ラッコの上着がよう!」

 某グーグルアースの衛星写真には、交通事故死した娘が写ってないかな。
 そんなことはないか。

 地平線に大きく立派で美しい船が落ちていく。
 アリストテレスの時代には既に地球が丸いことが証明されていた。
 船は垂直に落ちて行く。地平線とで大きな十字架を成す。
 きらきらと輝く、マリー・テレスト号。
 ハイウェイに立つモーゼ。
 ハイウェイに立つペリクレス。
 ハイウェイに立つシーザー。
 ハイウェイに立つ。
 一台も車が通らない。街灯だけがアスファルトを照らして。
「虹をあげよう」
「虹を掲げよう」
「虹はどこだ」
「虹を壊そう」
 七色のハンマーが最後の晩餐を叩き壊す。それでも地球は回っている。
 めちゃくちゃに壊れた、モノクロのバスには女。
 その隣に座って、詩を書く。
 詩を書くのは難しい。だからこうやって歩き回って、歩き続けて、疲れて座り込んで、そうやって書く。
 戦争へ向かう人々。
 コンサートに向かう人々。
 花火。
 サーカスに向かう人々。
 ミラーボールが落ちて、虹が落ちて、ビルの屋上に立って。
 そして青空を七色に塗り替える、七色のピアノ。

「おまえ、だれ、おまえ」
 からすが言う。
 いや、からすじゃない。からすじゃない。からすじゃない。
 からすはそんなことは言わない。
「おまえ、だれ」
 視線を斜めに電車が通り過ぎる。色々な人々が見える。色々な人が詰め込まれてしまっている。芸術。ローマ。楽譜。塔。色々な人が、詰め込まれてしまった。
 電車は視線を斜めに通り過ぎる。
 灰色に色づいた街路樹から、ミラーボールが足元に落ちた。
落ちた衝撃で、少し割れてしまっている。
持ち上げるとがちゃりと音がした。
思い切り投げる。
 からすが飛んでいく。今度は本当のからすだ。真っ黒な。すぐに視界から消える。
 ミラーボールは電車に当たり、がちゃりと音をさせ、また足元に戻る。
 街路灯に灯りが点る。
 何かを口走る。もう二度と言えない、思い出せない、本当の、本当の名前。
「絵は要らないか」
 男が寄って来てそういった。
「カレーが食べたい」
 そう答えた。

 演説会はいつでも熱狂に包まれていた。
 そのあいまに、私たちは海へ観光に行った。
 海。縛られた少女。波音。ノイズ。ジャズ。オルガン。
 海を見ながら、安らかに、笑顔のまま、ヤミーは死ぬ。