第82回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1エッチなことしたいんだ3000
2雪望金河南3000
3ターフの天使様紫生3000
4翅を取ったら、油虫ごんぱち3000
5Sorrow Juice麻埒 コウ3000
6わすれたよるるるぶ☆どっぐちゃん3000


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エントリ1 エッチなことしたいんだ 葱


 あきらめる訳じゃないんだ。下手の横好きなんだろうけど、小説書くのは止められない。止めようと思えば、止められるんだろうけど、止めたくない。

 あと三年、僕に執行猶予をくれないか。二年で職業としての作家の道は、すっきりさっぱりあきらめる。今書いているやつが何処にもひっかからなければね。でもやっぱりそんなの夢だろう? 十中八九ダメだろう? だから二年たったら、就職するよ。時間給のヘルパーを辞めて、固定給+ボーナスの付く特別養護施設の職員になるよ。そのために介護福祉士っていう資格も取るよ。一応、国家資格なんだよ。
 だから、ねえ。今の彼氏と別れてくれないか。無理? そうだね。中学の時から付き合ってるんだったね。絆もあるよね。だけど、彼氏、君と結婚する気あるの? しかも借金あるんでしょ? とても君のことを考えているとは思えないね。だって、そうだろう?
 うん。突然だもんね。そんな急に比べられないよね。でも、ちょっと考えてくれないか。彼の仕事は不安定だろう? クリエイティブでもないだろう? 僕の方が未来があるんじゃないか? 対して、変わりないか……。
 そう? でしょ? いや、自分でも何でこんなに自信満々に言ってるのか、よくわからないんだけど。でも、実行にうつせる自信はあるよ。普通の人からしたら、たいしたことじゃないのかもしれないけど。作家になれれば、たいしたことかもしれないけどさ。
 優しい人なんだね。そいつ。わかってるよ。何度か会ったことあるしさ。君のそういう真面目なところは好ましいと思ってるよ。
 そう。昨日の夜中にずっと考えてたんだ。だけど、よくわからない。わからないけど、確信があるんだ。
 あんまり結婚願望ってない方なんだけどな。前にも言ったけど。でも、君なら何故かイメージ出来たんだよね。他人と二人で暮らしていくっていうことが。そろそろつらくなってきた? 長い? いい? ごめんね。
 君もさっき言ったけど、最近友達が結婚式とかしていって、やっぱり考えるじゃない。焦りとかじゃないけどさ。
 子供とかもさ。前は全然興味なかったし、正直嫌いだったんだけど。多分、それって嫉妬だったんだろうね。何で自分には家族がいないんだ、というね。母親、父親はいるけどね、そうじゃなくてさ。ひとりだと頑張れる自信がないんだ。当然、友達はいるけどね。それとパートナーとは違うでしょう?
 君を利用しようとしてるんじゃないんだ。かといって、恋人になりたいっていうのも違う気がする。お互いに励まし合えるパートナーが欲しいんだ。そのイメージが君とピッタリするんだ。
 タイプとかじゃないんだけど。うん。僕の子供とか産む気になれない? わからないよね。でも僕のイメージの中では、君が赤ん坊を抱いてるんだ。おかしいよね。笑わないでよ。いや、笑ってくれた方が楽だけど。
 君の病気についてはさ、大丈夫だよ。行きつけの医者にも聞いたし、ネットでも調べてはみたけれど。命には関わらないみたいだしね。でも、一応、救急救命士の講義を受けてみるつもりだよ。そう。役に立たないかもしれないけれど。
 君に都合のいいことばっかり言って気持ち悪い? そうかもね。わからないよ。わからないと言えば全部わからない。君の彼氏が急にお金持ちになったりするかもしれないし、僕が心筋梗塞で死ぬかもしれない。結婚してもすぐ離婚するかもしれないし、付き合っても三日で別れるかもしれない。だけど、妙な確信があるんだ。君と僕は、多分、うまくいく。また笑う。
 やっぱり気持ち悪いかなぁ。気持ち悪いよなぁ。だけど想像してみてよ。昨日寝ないで考えたんだ。例え赤ん坊が生まれなくてもさ、僕は養子でもいいと思ってるんだ。うまくいかないかもしれないよ。だけど、うまくいくかもしれないじゃないか。
 僕は男でも女でも、どちらでもいいんだ。女の子だったら、目の前で女性が育ってゆく姿を見られるって凄いことだと思う。男の子だったらって考えたとき、もし幼稚園児くらいになって、僕が「お前が母さんを守るんだぞ」って言ったとするじゃない。その男の子が「うん、僕が母さんを守る!」とかオウム返しでもさ、言った日には、もう泣きそうじゃない? やぱいかな。頭。
 でもさ、仕事柄さ。考えてしまうんだけど。もしその子供が障害を持って生まれてきたら、どうするんだろうって。身内の苦労は本当にはわからないけど、目の前で見てるからね。障害者の人には悪いんだけど、やっぱり人は障害もって生まれてくるべきじゃないんだろうな、って悪いんだけど思ってしまうんだ。程度にもよるけどね。まあ、僕の判断できることじゃないか。頭でっかちに考えれば、優生保護法とかにも繋がるしね。デザインベビーとか。そしたら僕みたいなおかしな人間は生まれてこなくなるかもね。
 ごめん。脱線した。まだ、時間ある? ごめんね、本当。何で怒るの? 謝るのがいけないの? そうか、ごめん。
 君のことが、どうしても頭から離れなくて、困ってるんだ。どう思う?
 うん。
 うん。
 そうか。
 そうだね。
 ごめんね、あ、ごめん。
 信じられないのは分かるよ。でも、僕が女っていうのがそんなに問題ある? そうだよね。実際問題、まだ偏見があるからね、法律上も。そういう問題じゃないの? ずっと友達だったからって、そっちの方が重要度薄い気がするけどな。2090年の医学は凄いんだよ。この間の新聞記事に男に性転換した女の人が、恋人の女性を体外受精だけど、妊娠させたって載ってたんだ。知らなかった? 僕の遺伝子を乗せた精子が作れるようになったんだ。本当は、生まれつき生殖機能のない男性や事故で生殖器を失ってしまった男のために開発されたらしいよ。すごいことでしょう。ね。
 でもやっぱりそう簡単には別れるなんてできないよね。分かった。言われた通りに、待つよ。でもね、ちゃんとしないとお互いに辛いと思うからさ。今後は夜中に遊びに行ったりはしないよ。まあ、彼氏に怪しまれることはないと思うけど。
 それに隠しておくのも意味がないから、このさいはっきり言わせてくれ。
 君の手に触れたい。
 君と手を繋ぎたい。
 君とキスしたい。長く、長くフレンチキスしたい。
 君の胸に触れたい。
 君のおっぱいを舐め回したい。乳首に吸いつきたい。
 君の股間に触れたい。
 君をいっぱい気持ちよくしたい。
 君をもっと愛おしくしたい。
 僕の乳首を吸ってほしい。股間をなで回して欲しい。
 キスしながら、股間を触って、思いきり抱きつきたい。
 僕の股間をしゃぶってほしい。
 君の股間に入れたい。
 何度も、何度も、息を切らせて、何度も、何度も、達したい。
 思いっきり、苦しいくらいに抱きついて、大声出して、君の息を耳元で聞きながら、朝までずっと一緒にいたい。眠るときも。
 二人きりで朝食を食べたい。裸にエプロンとかさせたい。
 君の小説を書きたい。
 ずっとずっと、何百年も後に残るような傑作を、本名で書きたい。
 売れなくてもいいよ。
 嫉妬したい。君が他の男の子と喋っていたら、殺したくなるぐらいに嫉妬したい。
 今の僕にはどれもしちゃいけないことだから。
 そんなこと考えたら、興奮していつも眠れなくなるんだ。
 それが、僕の……
 助けてほしい。君しかいないんだ。

 ごめん。
 嫌われる覚悟は出来てる。
 君と、エッチなことしたいんだ。







  エントリ2 雪望 金河南


 思いきり沈み込むようならまだいい。
 鬱になって一日中その場から動かなかったり、睡眠時間が連日半日を超えて会社を休んだり、食事もとらず水も飲まず自分の世界にこもることも、いい。本当なら、それらさえ救える気がしないのでやめてほしいのだが、今日の彼よりは、まだ。
 外は雪がちらついていた。
 暦の上ではもう、春を迎えている3月のことだった。
 いつものようにマッチを壁にこすりつけた朝、私より先に起きていた彼は既に上機嫌で、それは、このくそ寒いのにYシャツ一枚とジーンズしか着ていないことにも現れていた。鼻歌をうたいながら、コーヒーを淹れている。まるで夏の装いだ。
 彼は、普段は温厚な一般人であり、仕事で毎日慌しく動き回る私は、どっしり落ち着いているその雰囲気に、ずいぶん助けられている。若いのに、私より年上に見える外見もそうだった。
 こんな休みの日、たいてい彼はキッチンテーブルで頬杖をついていて、無秩序に並べ立てられた私のつたない話を、ニコニコと、本当に穏やかに笑いながら聞いているだけなのだが、今日は立場が逆だった。今日以外の日に見たなら、必ず眉ひとつ動かさないと断言できるようなテレビのCMで笑い転げたり、朝食用のフランスパンを手に持ちながら居合い切りの真似をしたり、あることないこと陽気に喋り続けたあげく、合間に何回も私を抱きしめた。
 今日はあぶない日だと確信した私は、屈託なく笑う彼に寒気を覚え、目をこらし、唇を噛む。
 おかしい。
 熱があるのかしら。いえ、彼は。違う、望んでそうなっているんだわ。
 だって。
 そうだわ、今日は。
 ――予感は見事に的中する。
 夕闇がそぞり寄った午後六時半、雪の降る中、彼は家から飛び出した。
 上着を着ていないことに気づき、私は彼のコートを手に持つと即座に追いかけた。寒い。街灯を見上げた。オレンジ色がともる。
 つっかけたままの靴をしっかり履き、私は走って道路に出た。辺りを見回し検討をつけ、大通りに出る。ゆるい坂道になっている商店街の人ごみに、彼の白いYシャツが見えた。
 あぁ。
 黒と茶のコートたちにまぎれた、死にそうな私の天使。
 笑みをうかべたままステップを踏み、クルクルとまわりながら人ごみの中をすり抜けていく。ただの人間である私は、無様に追いかけるしかない。
「すいません! あ、ごめんなさい!」
 何度も誰かにぶつかり、そのたびに私は謝った。彼は既に商店街を抜け、左にそれて見えなくなっている。その先は路地が入り組んでいて、暗い中捜すのはさらに困難になる。けれど、捜さないわけにはいかない。
 彼は、心が孤独になってしまったのだ。
 もう誰も、たとえ彼が望んで死んでも、覚えている人など居ない。と、自分を諦めさせたのだ。それが彼を大人にさせた。
 私には義務がある。彼に、私だけは違うと信号を発信する、義務が。それは私が、去年眠っている彼の前で声に出した、ただひとつの決定的な項目だった。去年の今日、彼は手首を切り、救急車で病院に運ばれている。
 息を切らし、小さな公園に着くと、彼はすべり台の上で雪を眺めていた。周囲にはビルがそりたち、オレンジの灯りは、まるでスポットライトのように彼を照らしていた。
 この距離からでもわかる。
 彼の眼には、私には見えない何かが映っている。
「やぁ、今晩は。今日はなに? 用がないなら帰ってくれないかな」
 彼もまた、肩で息をしていた。口元がゆるくつり上がっている。儚い、白い花が、口から出ては消える。吐息が寒さで白くなることに、私は、今、気がついた。ここのところの暖かい陽気に、その事実をすっかり忘れていた。
 何も言い出せないでいると、彼は闇を見上げた。ゆっくり両手をあげ、口をあける。雪を受け止めようとしている。瞳を閉じ、舌を出した。それは普段肉を食べないせいで真っ白になってしまった哀れな舌だった。普段から肉を食べない彼が、最近さらに肉を遠ざけていることを、本当は、知っていた。
 何もしなかったのは私だ。
 仕事に忙しすぎて、今日がくるまでこの日が何の日かすらー…。
 ゆっくり、すべり台に近づく。頭をかたむけこちらを見た彼の瞳は、ふっと優しく細められたけれど、表情は一層の狂喜をみせた。彼はケラケラと笑い出し、
「――聞いてくれ諸君!」
 高らかに、宣言したのだ。
「今日は、僕が×××を殺した記念日だ!!」
「知ってるから……降りておいで!」
 つとめて冷静に言ったはずなのに、いつのまにか叫んでしまった。彼は上にあげたままの両手を、握って、また、開いた。風が吹く。はためいた彼のYシャツの襟元から、鎖骨がのぞいた。
 オレンジの光に照らされているのに、それは青い。病的な色をしている。
 叔父がこの間言っていた、紫の夜を思い出した。
「×年前の今日、僕はトイレに駆け込んで吐いたよ。胃液しか出てこなかったけどね!」
 見知らぬ少年が、叔父の育てた花を、死んだ犬にパサリと落としたという話。
「夜から何も食べてなくて、朝をむかえてそのまま昼になったんだ。便器は真っ黄色さ!」
 見てもいないのに、彼の鎖骨でその光景が頭を過ぎった。
「血が。このへんについた。手に、こびりついてね、水で流してもとれないんだ。だから、石鹸をつけようと思った……そしたら!! 石鹸の匂いで、また吐き出しちゃったんだよ僕は! ッハハ! おかしいね、おかしくないかい?!」
 ひとしきり泣くように笑ったあとで、彼は、腕をだらりと下げた。
 二つの目は、もう虚ろではなかった。ぴったりと私をとらえて離さない、いつもの、あの、殺されそうなくらいの優しさが入った視線だった。
 真剣に狂おうとしているのだ。本当はどこもおかしくなく、ただ演技的におかしく見せようとしているだけ。そうしないと今日一日を過ごせないと思ったのだろう。あながち間違ってはいない。
 ぴりっと、首筋に雪が入った。
 反射的に私は、走って、すべり台の階段をかけあがった。彼のあわてた動きが、ボンボンと音になって私に届く。それより早く、もっと、早く。雪が融けるよりも早く、私は彼を抱きとめた。
 車が通る音。犬の鳴き声。ブーツの足音。商店街の、賑わっている遠い音。それらをひとしきり聞いた後、あぁ、と、彼はうめいた。
「あなたは本当、僕がどこに行っても追いかけてくるんですね」
 感服しますよ、と肩をすくめられた瞬間、私は思いつき、手に持っていたコートを彼の肩にかけた。
「そうよ」
 自殺したら、追いかけて死ぬわ。
 耳元でそう囁いたあと、動こうとしない彼ひきずって、なんとか家に帰った。安心したのもつかの間、今度は躁状態を抜け出して、自分の中に閉じこもっている。私の作った夕食を、見てすらくれない。当分この状態だろう。毎年、私を驚かせる一大イベント。
 眠る前、ベッドに入った私をちらりと見て「かみさまなんて居ない」と、彼は虚ろにつぶやいた。私もそう思う。彼を救うのは彼自身だ。私は、彼のあとを追いかけることしかできない。けれど、彼にとっても私にとっても、それが一番の薬になる。
 真夜中、彼が悪夢の中にはまりこんでいく声で目がさめた。部屋の角に座ったまま、うなされている。私は羽毛布団を持って彼の隣に陣取った。夢の中まで追いかける気でいた。
 けれど、朝起きると私はなぜか元通りベッドの上で寝ていた。横を見ると彼が、満足げに深く、寝息をたてていた。







  エントリ3 ターフの天使様 紫生


「しかし、ナンやね」
 秋晴れの東京競馬場。パドックで前を周回するスピゾ君が、関西馬特有のとうとつさで思念波をきりだしてきた。
 ボクはいつも(ナニってナンやねん)(しかしって、なにを否定してんねん)と、つっこみたくなるのだが思念波にはださずおとなしく次の言葉を待った。
「貧乏神って奴はおるとこにはおるもんやね。見てみい、血まなこでもうけようとしとる奴にかぎって、とりついとるやろ」
 と、鼻ヅラで見物を示すスピゾ君。
 見渡すとペタリと貧乏神を貼りつけたおじさんが、じっとりとした視線でボクを見つめている。
 やめてくれ、見ないでくれ、おまえはもう負けている。ボクの馬券だけは買わないでくれ。
 必死で思念波を送ったがあきらかに人の耳に念仏、ボクの思念など赤とんぼの鼻唄ほども感じないらしい。
「そうですね。それに今日はいつもより多いような気も……」
「あったり前や。なんせキミが一番人気……あっ、あかん。口すべった」
「それ、どういう意味ですか! 勝負前にそんな不吉なジョウダンやめてくださいよ」
 ボクは思わずいななきそうになったがどうにかこらえてため息をついた。ボクの鼻息でスピゾ君のシッポが優雅になびいた。
「ハハハッ……とりあえず、笑ろとけ」
「だから、笑えないですって……うっ!」
 スピゾ君に気をとられて、うっかり誰かのボロまで踏んでしまった。さんざんだ。
 カーブを曲がるスピゾ君はいつもながらうっとりするほどの美丈夫で、均整の取れたつややかな馬体を柔軟にしならせながら歩く姿に、スター馬らしい華が満開なのだった。
「なんやおまえ、オレに気ィあるんか。目ぇがハートやないか。気色悪っ。……でもまあ、どうしてもって言うんやったら抱かれてやらんこともないけど」
「おいおい、抱かれるんかい……って、こっちはそんなシュミないですから」
「そうかあ? しっかし、ナンやね。カレーといえば、ナンやね」
「え? またそんな、いかにも食べたことがあるような言い方しちゃって」
 スピゾ君はもともと気さくでゆかいな馬だが、勝負前にこんなにからんでくるなんてなんかおかしかった。そう、なんか変。なんか妙。
「あのぉ、スピゾ君。ボクになにか嘘ついてない?」
「いやだなあ、なに言っちゃってるの。キミの方こそ、うんこついてない?」
「ええ、実はさっき、うっかりふんでしまって……って、そうじゃなくて!」
 スピゾ君はすました顔でさらにまぜかえす。
「なんや、“そうじゃなくて”鬱なんか。お気の毒やな。せやけどしょんぼり歩いとったらあかんで。気合はパアーっとおもてにださなあかんねん。パアーっとな。ナーバスに歯噛みしながら内にいれこんどったら、白の天使様もよう寄りつかんで」
 ターフには天使様がいるという。そして、その天使様には白と黒がいるらしいという噂はボクたち競走馬の間では有名な話で、白の天使に愛されればそれこそ羽が生えたような走りで優勝を手に出来るし、黒の天使に見初められれば間違いなく命をとられるといわれている。
 でも、ターフの天使様なんて本当にいるのかな。ボクは一度も目にしたことがないし、感じたこともない。見たくもない貧乏神はしょっちゅう見えるっていうのにおかしな話だ。
 ――止まーれー!
 停止命令がかかってジョッキーが騎乗する。ジョッキーを乗せたスピゾ君は、後ろ脚の一本で虚空にケリをいれてからきびしい目つきで地下馬道に進んだ。観衆の一部が沸いて、ジョッキーは苦笑した。
 先導馬が地下馬道を抜けて本馬場入場が始まると、客席から津波のような歓声がわきおこってボクの心臓も激しく高鳴った。歓声の豪雨の中、馬だまりまでキャンターで駆け抜ける。調子はまずまずのようだ。あとは落ちついて展開にのれれば勝ち目はある。
 あるものは激しく首を上下させ、あるものは瞳に闘争の炎を宿して、各馬それぞれに志気を高めつつウォークする中、またもやスススッとすり寄ってきたスピゾ君。
「オレの好きな四字熟語、当ててみい」
 なんでまた、四字熟語? と思ったけれど、まじめなボクは真剣に考えてしまう。
「ええと……うーん……、抱腹絶倒ですか?」
「アホか! おまえはどんだけ笑いたいねん。重賞優勝に決まっとるやろ」
「ええっ! それって四字熟語なの? じゃあ、嫌いな四字熟語は予後不良ですね」
「……ホウ、えらい察しがいいな。せや。予後不良になるくらいやったら、九州あたりで馬刺しにでもなった方がまだましや」
「それって、どっちも死ぬんじゃないですか」
 赤旗が振られ、GTのファンファーレが鳴り渡った。それを合図に割れんばかりの拍手と歓声が吹き荒れ、場内は半ば狂気のような荒々しいエネルギーに支配されてひとつの生きもののように大きくうねった。
 ボクの視界は一瞬スーっと白くなったあと異様なまでにくっきりとし、全身に心地よい緊張感がみなぎるのを感じた。
 ゲート入りは順調だ。大ソトが少しためらってから速足でおさまると、間髪をいれずゲートが開く。大きく出遅れた馬はいなかった。だが、先行とみられていた馬が行きたがらないことで勝負は波乱の様相を帯びた。
 まるで前方に見えない敵でもいるかのような違和感があった。それは威圧感や畏怖感とも言えるような、なにかしら謎めいて底知れない〈なにか〉だった。
 団子状になった馬ごみで馬体を接しないよう神経を使いながら、みんなじっと耐えている。ボクも無駄な気力や体力を使わないよう忍耐強く我慢した。
 第三コーナーを回り、いいかげん業を煮やした何頭かが脚色を強めた。そのあとを追ってスピゾ君もスルスルとあがっていく。ボクも彼をマークした。
 第四コーナーを回る。スピゾ君は一気に加速した。まるでナイフが飛んでいくように空間を鋭く裂きながらゴールへと突き刺さっていく。
 負けるもんか!
 強く思って、スピードを上げたその時、スピゾ君の背中に羽を見た。一瞬目を疑ったがどうにも消えない。消えないどころか白くなったり黒くなったりしながら炎のように揺らめいて羽ばたく。
 白、黒、白、黒、白……。そして、黒。
 宝石をばらまいたような閃光がスピゾ君を包んだ。直後、彼はえもいわれぬ厭な破壊音をさせて失速した。
 かわすときに黒いペガサスがスピゾ君から抜けるのを見た。
(……スピゾ君が&%$%&#&$……!)
 ボクは頭の中で意味不明の叫び声を上げながら、走って、走って、走った。全身をつかって弾丸のようにターフを駆け抜けた。ゴール前、あし毛に襲われる。必死で、首を、伸ばし、鼻差で……ゴールした。
 勝負は写真判定に持ち込まれた。
 ボクは首をめぐらせてスピゾ君を探した。今にも馬運車に乗せられそうになっているスピゾ君を発見すると、精一杯の思念波で呼びかけた。
「スピゾくーん!」
 ボクに気づいたスピゾ君は痛みをこらえて照れくさそうにこう言った。
「あかん、やってもうた。……おまえ、よう頑張ったな。かっこよかったで」
「スッ、スピゾ君……」
 ボクは思わず泣きそうになった。その時、確定のランプがともり、掲示板に着順が表示された。
「あっ、おまえ負けとるやん! ……ったく」
 スピゾ君はチャーミングにウインクするとこう続けた。
「あんた、はんかくさいんでないかい」
 なっ、なんで北海道弁!
 ボクは泣き笑いでスピゾ君を見送った。

 微かな思念波を残して、馬運車は小さくなってゆく。
「ありがとな」








  エントリ4 翅を取ったら、油虫 ごんぱち


 ジャングルの木々の間から洩れる陽光が、じりじりと即席の滑走路を灼く。
 組み立ての終わった飛行機の操縦席に座り、岩原少尉は点検をする。
「ふむ、どうやら良いようだな」
 木材や、布張り、更には木の葉を編んだ部分もある、もろさを感じさせる歪んだ造りで、仕上げにも粗さがあり、また、海水に浸かった金属部品は、錆を噴いている。
 そんな練習機が九機。
「教官殿!」
 機械油だらけの四谷二等兵曹が駆け寄って来る。
「全機、組み立て完了しました!」
「よし、集合!」
 岩原の号令で、四谷達九人は飛行機の前に整列する。
「諸君」
 岩原は、一人一人の目をじっと見つめる。
「輸送艦が、この名もなき島に漂着してからの一ヶ月、滑走路を築き、飛行機の組み立て、ご苦労だった」
 四谷達は直立不動だったが、その顔はこの一ヶ月の苦闘を思い返しているらしく、涙が溢れそうになっている。
「だが、この苦労も明日報われる!」
 岩原は、練習機の方を向く。
「我らの特攻によって、硫黄島の敵陣を破壊する!」
 岩原の目からは、涙が流れていた。
「『硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ』、大本営発表だ。我らは硫黄島守備隊の大和魂を受け継ぐ者である!」
 他の兵士に食べ物を分けている為、岩原は痩せていた。
「敵の反撃は激しいだろう、しかし、きっと諸君の大和魂は、その弾を跳ね返し、敵に一撃を加え戦意をくじくに違いない! 硫黄島に打撃が加われば、敵の空襲は続けられず、銃後の父母女房子供がどれだけ助かるだろう」
 寸法の完全に合っていない飛行機の木の部品が、灼熱の日に照らされて、びしり、と嫌な音を立てる。
「我らの命一つが、一千人の子供の命を救い、一千人の子供たちは我らの大和魂を引き継ぎ一千人の兵となる、そして、一千機の特攻は、敵の空母をも屠るであろう!」

「では、行って参ります」
 四谷は操縦桿を握り前を見る。
 プロペラの回転数を上げ、ブレーキを外し滑走に――。
 ばきり。
 何かの割れる音がした。
 振り向くと、機体に使った木材がへし折れていた。
「うわああっ、まずい、まずいまずいまずい!」
 滑走路が終わり砂浜に入り、激しい砂煙を上げながら、飛行機は止まった。
「……はあ、加工しやすいと思ったら」
 四谷は脂汗を拭う。
「四谷!」
 岩原が走って来る。
「はぁ、はぁ、はぁ、はあ、はあ……貴様、どうして離陸を取り止めた!」
「それはご覧の通りで」
「故障如きで離陸を取り止めるとは、それでも日本軍人か!」
「ですが、この状態では硫黄島どころか、離陸も出来ません」
「口応えするか、この非国民が!」
 岩原がビンタを一発食らわせた時、ようやく他の兵士たちも追い付いて来る。
「一度出発したならば、例え破片の一つになろうとも敵司令部以外のどこに落ちる事も許されんのだ! 壊れたら戻ろうだの、止めようだのという心に弛みがあるから、このような事になるのだ! 恥じて死ね!」

 滑走路の片付けと、飛行機の撤去が終わった時には、既に日が暮れていた。
「……作戦は明日に順延とする。四谷」
「はい」
「出られるように直しておけ」
「は、はい」
「なんだ、その返事は!」
「はい!」
「解散!」
 解散した四谷は、飛行機の修理を始める。
 ふと。
「……また、折れるんだろうな」
 呟きがこぼれる。
「離陸まで折れなかったとして」
 出来る限り太くした木を、両手で曲げてみる。四季を経ない為に木の密度は薄く、容易く割れる。
「途中で折れて、墜落して」
 ため息をつく。
「……どうせ、特攻するんだ、死ぬのは一緒」
 空を見上げる。
 びっしりと星に埋め尽くされていた。
「そもそも、硫黄島の司令部なんて、見ただけで分かるのか?」
 四谷の脳裏に、以前に読んだ、日露戦争やヨーロッパの大戦などの戦争物の挿絵が次々と浮かぶ。
 司令本部は分厚いコンクリートで守られていたり、地下の壕に作られていたり。
「こんなトンボ一匹突っ込んで、どうにかなるのか?」
 四谷は首を横に振る。
「いや、敵は大和魂に怯えるって……」
 ぶるり、と震える。
「でもだったら、輸送船が攻撃を受けた時にオレが感じた恐怖は?」
 華々しい戦果や、武勇伝を、四谷は思い起こす。
「英雄の人たちが持っているのが、本当の大和魂で、だから敵をあんなに倒せたんだ」
 ぐっと握ろうとした四谷の手に、力が入らない。入らずに、震えていた。
「だったらオレは? そんな、大和魂なんか、ないぞ」
 飛行機の部品である木の葉を見つめる。
「なのに、特攻して、どうにかなるのかな――あ、いや、いや」
 固い葉を編んで翼に巻き付ける。
「勝つとか負けるとかを、最初から考えるようじゃ駄目だ。脇目もふらずに、敵を倒す事だけを考えればきっと大戦果を」
 四谷の頭の中で、四谷の乗る飛行機が硫黄島の対空砲火を華麗にかいくぐる様が浮かぶ。浮かぶが。
 島をびっしりと埋めるアメリカの兵士達。
 分厚い装甲に覆われた艦艇。
 コンクリートに覆われたた司令本部。
「死んだら、どうせ、一緒だけど関係ないし」
 四谷は考え込み、考え続け、そして。
「まずい」
 目を開いた。

 翌朝。
「どういう事だ、全然直ってないではないか!」
 岩原が怒鳴る。
 飛行機は、故障したまま。四谷はぼんやりと操縦席に座って、朝焼けの空を見上げている。
「そんな事では、家族に顔向けが出来んぞ! この非国民が!」
「それなんですけど」
 四谷が岩原を見下ろす。
「この飛行機一機ぶつけて、どうにかなるんでしょうか?」
「一機ではない!」
「いや、五機でも六機でも良いですけど」
「馬鹿者!」
 岩原は一喝する。
「勝つか負けるかではない、華々しく散るのが日本軍人の務めだ」
「硫黄島のアメリカ軍を叩くのが目的でしょう?」
「違う! 有終の美を飾り、後進を勇気付ける事がだな」
 岩原の怒鳴り声を聞きつけ、皆が集まって来る。
「こらっ、来るな! 作業に戻れ!」
 岩原は追い払おうとするが、皆の興味は逸れない。
「兵隊ってのは、敵を倒すのが……というより、命を棄てて敵を倒す事に、一体どんな意味があるのかさっぱり」
「こ、この……非国民が!」
 岩原は怒鳴る。
「戦果がどうの、敵がどうの、今さら気にするな! 大日本帝国軍人は、美しく散るからこそ!」
 怒鳴り散らす岩原を、皆は黙ってじぃっと見つめていた。

 木陰に、蔓でグルグル巻きになった岩原が転がされる。
「――やった、動いたぞ!」
 四谷たちは声を上げる。
 錆だらけの通信機が、ノイズ混じりに動き始めた。
「あー、あー、こちら福神丸乗組員。敵の攻撃を受け沈没、搭載の航空機は全て破壊された。救出されたし、救出されたし」
「アメリカでも良い、ヘルプ! エスオーエス!」
『――救出に……』
 激しいノイズ混じりの通信は、ノイズばかりになった。
「こら、救出に来るのか来ないのか! おい!」
 四谷が怒鳴るが、ノイズは一層激しく、何も聞こえない。
「畜生! 一体何が!」
 その時。
 激しいノイズに混じり、妙な男の声が聞こえ始めた。
『――を、堪え……忍び難きを忍び……』
「あっ! 繋がった! おい、救出! 助けてくれ!」
 四谷は怒鳴るが、通信機から聞こえる声は一方的によく分からない言葉をまくし立てるだけだった。
「ふざけんな、聞いてんのか!」
「こら!」
「何とか言え!」
『……万世……を開かんと……』
「お前じゃ話にならん、責任者出て来い!」
 四谷達の声は、ジャングルに空しく響き渡った。








  エントリ5 Sorrow Juice 麻埒 コウ


「雨が降ると、なんだか牢獄にいる気がしないかい?」と木村は言った。「それは孤独の涙だからだ。あの娘は今も空にいる」。
 空の色はあの娘の瞳の色。覆う雲はあの娘の憂い。彼女はいまでも世界を見下ろしてはときどき哀しみの涙を流し、それが雨となって世界を濡らす、あの娘の涙が完全に乾くとき、空には虹の橋がかかり僕はそれを渡ってあの娘のもとへ行くんだ……。
 木村はそう言って部屋から出てこない。毎日ギターを手にとり窓を全開にしながらエアロスミスの『ドリーム・オン』を歌っている。

 誰もいなくなった教室。外からは部活動にはげむ生徒たちの声が聞こえる。真夏の炎天下。地上での残り少ない時間を与えられたセミたちといっしょに、鳴き叫び、情熱を焦げつかせている。軟式テニス・ボールの弾む音。ときおり混ざるコーチの叱責。陸上部は今日も走り、ホッケー部は今日も打つ。青春のかがり火を消さないようエールを送るのは吹奏楽部の――。
「ねえ、剛。帰りに吾郎くんの家に寄ろうよ」
 小説の冒頭としては禁じ手とされる風景描写を日誌の備考にだらだらと書いていた俺に、ゆかりが声をかけた。髪の毛を人差し指にまきつけ、ポッキーをかじりながら近づいてくる。
「ったく。今日はまた、いちだんと“金”だな」
 ゆかりの髪の色のことだ。現役バリバリの中学生のくせにハリウッド女優も呆れるほどの金髪をしている。
「なにか大切な宝物みたいでしょ。ボロボロの地図の、×って書いてある場所に埋まってるような」
「そんな秘宝、ホーキンズだって探しはしないよ」
 ゆかりは「ホーキンズって誰だよ」という顔をしてふてくされた。
「ところで、明日はその髪なんとかしてくるんだろうな」
「べつに。このままだよ」
「そういうわけにもいかないだろ」
 オレはゆかりの髪をまじまじと見ながら言った。そして思った。そういえば、ゆかりの黒髪をオレは一度もみたことがないな。
 小学校が違うゆかりとは出会って二年になるが、入学式当日からゆかりの髪は金だった。とうぜん学校側によばれいろいろと警告をうけた。が、そのときゆかりは自身のことを「イギリス人と日本人の混血」だといい、金髪であることを正当化した。学校側も平謝りし、みんながそれを受け入れたが数日後にはゆかりの血は純粋な日本人のものだとわかり停学処分をうけた。
 いまでも教師たちの目は険しいが、ゆかりはこれ見よがしに校則を逸脱していく。本来ならとっくに退学されてもしかたがないはずだが、権力のあるものには肉体を提供して丸め込んでいるらしい。今日も生活指導の小早川にこってりとしぼられたことになっているが、しぼりとったのはむしろゆかりのほうだろう。
「そんなことよりも。帰りに吾郎くんの家に行こうよ。そろそろ部屋から引きずり出して太陽の光あびさせないと、本物のもやしになっちゃうよ」
 吾郎くん――、木村吾郎はいまでは二酸化炭素を出す観葉植物という有様になっているが、あれでもオレの数少ない親友だ。ほうってはおけない。
「そうだな。そろそろこっちに来てもらわないと困る」
 オレたちは空にいる少女に恋する木村にあうことにした。

 二ヶ月ぶりにみた木村の部屋は、予想していたほど荒れ果てていなかった。時間が止まってしまったようになにも変わっていない。ただ木村が少しやつれただけだ。
「体調はへいきなの? 病気してるみたいだよ」
 ゆかりが言う。
「恋の病も、病気みたいなもんだからな」
 オレが言う。木村は「ドリーム・オン」を歌っている。
 木村は歌がうまい。というより、音楽全般の才能が長けている。「音楽っていうのは、心の声なんだ」と木村は話す。言うことは少し臭い。
 サビの部分の「ドォリームオン、アギャー!」を歌い終えた木村に、オレは聞いた。
「まだいるのか。その……空にいる、女の子っていうのは」
「……ああ。僕たちを見おろして、憂いている。いいかい、香取くん。彼女は愛を具現化した存在なんだ。僕たちが憎みあい、許しあえないことを嘆き哀しみ、涙を流す。僕は雨がキライだ。それは彼女の涙だからだ」
「その女の子は、なんというか、人間の業みたいなものを一身に背負ってるのか。オレたちの罪をその子が償っていると」
「そう言い換えてもいいかもしれないな。君にわかるかい? 無限の実体のなかで誕生と消失という両義性を抱きしめることが。真実と虚偽のあわせ鏡の中心で、僕たちの本来性が帰ってくる場所で、すべてを受け止めつづけること。それは神の認識だ」
 そこまで言って、木村は目を閉じた。
 オレには正直ぴんとこなかった。この世界に生きとし生けるものを代表して、罪だのなんだのといった日常を超越したものをたった一人で背負い込むなんてバカバカしいと思った。そんなことより……、とオレはゆかりを見る。スカートから横たわる、二本の白い足を。木村の言う空の青さより、ゆかりの足の白さのほうがよっぽど『現実』だった。
「いいかい。香取くん。僕は彼女とひとつになることで、永遠を体現する」

 鉛をのみこんだような重たい気持ちのまま、オレたちは木村の家を出た。
 実らない片想いをあきらめさせるのは、正しい友情のありかただと思うんだがどうだろうと、オレはゆかりに聞いてみた。
「あ、ごめん。スズメバチのこと考えてた」
 ゆかりはポカンとした顔で言った。
――スズメバチ? なぜいまここでアナフィラキシーショックの危険性に考えをめぐらす必要があるのだろう。そういえばアドリブが苦手な野球部員がゆかりとの会話後、ぼそりと言ったことがある。「整備されていないグラウンドみたいだ」。
 言い得て妙。ゆかりからのワンバウンド送球はいつもあらぬ方向にイレギュラーする。
「冗談だよ。それより、吾郎くん。けっこう重症だったね」
「ああ。こっちに来てもらうまで、時間がかかりそうだ」
「でもね、剛。あんまり「早く目を覚ませ!!」みたいなこと言っちゃダメだよ。いくら友達でも心のなかには、入っちゃいけない場所があるんだから。むやみに引っかきまわすと、吾郎くんの自分で自分を守ってる鎧みたいなのが、グシャって壊れちゃうよ」
「わかってる。ただ、オレは、オレには、木村が必要なだけなんだ」
「うん」
 ゆかりは表情を変えないままうなずいた。こんなときのゆかりは人間の感受性ではありえないほど鮮やかに、情報を手懐けてくれる。
「おまえは、優しいな」
「その言葉キライ」
「……なあ、ゆかり。ゆかりは、オレにとってのなんなんだろう」
 恋人、と呼ぶにはどこかズレてる。友達以上恋人未満というわりと利用範囲のひろい言葉があるけど、どうもしっくりこない。恋人同士でできることを忌憚なくできる反面、友達のような気軽さはなぜかない。
「そんなことどうでもいいんじゃない? ただひとつたしかなことは、わたしは剛のいちばん近くにいるってこと」
 ゆかりはハニカミながら、人差し指をオレの胸のうえに置いた。そして空いている方の手で俺の股間を掴む。全身の血液がゆかりの掌に吸い込まれていく感じがした。
「にゃはは」
 熟練された性的技巧と呼ぶべき下品さでもって、ゆかりは笑った。
 空には厚い雲がかかっている。
 明日は雨が降るだろう。
 もし女の子が空に一人ぼっちだとしたら。オナニーでもしなきゃやってられないはずだ。雨は涙なんかじゃなく愛液なんだという新説を明日の放課後、木村に伝えようと思った。








  エントリ6 わすれたよ るるるぶ☆どっぐちゃん


「ゴッホよりもゴーギャンの方が不幸せだったと思うよ。世間がどう思うか知らないけれど」
「南国のパラダイスで裸の女の子はべらせて適当に絵を描いてたロリコン野郎だろう。思い通り、好き勝手にやった奴じゃねえか。なんでそんなふうに言うんだい」
「南国のパラダイスで裸の女の子はべらせて適当に絵を描いてたって、好き勝手、やりたい放題やったって、得られないものだってあるだろう。無いとは思わないか?」
「お前は、何を、言っているんだ?」
「南国のパラダイスで裸の女の子はべらせて適当に絵を描いてたって、好き勝手、やりたい放題やったって、得られないものだってあるだろう。無いとは思わないか? って言ってるんだよ」
「倦怠ってやつか? 虚無感ってやつか? その両方か? そうじゃないのか? なんだ、あれか? 言葉には出来ないのか?」
 向日葵。
 虹。
 七人のゴッホ。振り下ろされる向日葵。
 父親の自傷癖。母親の自傷癖。妹の自傷癖。CDショップには全て同じCDが並んでいる。本屋には全て同じ本が置かれている。買った本にはカミソリが挟まっていた。長く綺麗な、定規のようなカミソリ。
(鉄の起源は紀元前十八世紀、ヒッタイトの人々にある。彼らは鉄で出来た強力な武器を使い、瞬く間に領土を拡大していった。史上初めての帝国を彼らは完成させた。鉄の元素は地中に含まれている中では一番多いが精製には非常な高温が必要だった。ヒッタイトの人々は鉄の精製方法を秘密にした。彼らの滅亡で、鉄は世界へと広まった)
(鉄の精製には木材が欠かせなかった。木を焼いて炭を作る。炭を使って高温を起こし、鉄を精製する)
(核分裂という現象を予見した時、シラードが真っ先に思いついたのは、強力な破壊兵器だった。全ての新技術はまず破壊兵器に使われる。これはどうしようも無い原理だ。重力がある以上、りんごは木から落ちる。これと同じようにどうしようも無い原理だ。シラードはユダヤ人であり、当時ナチスはヨーロッパで猛威を振るっていた。シラードは、アインシュタインは、ユダヤ人であった。彼らは熟考し、ためらいながら、うしろを振り返りながらも、亡命先の全アメリカの科学者に訴えた。核分裂という現象を。そしてそれがもたらす強烈な破壊効果を。戦争の帰趨はこの破壊兵器をどちらが先に開発するかで決まる。当時ドイツの科学力は、世界一、だった。彼らは情報を結集し、共同で研究し、数年のうちにドイツに先んじて核爆弾を完成させた)
「ファットボーイ・スリムか。良いよな」
「IPodでシャッフルしてたから」
「ファットボーイ・スリムか。懐かしいな」
「IPodでシャッフルしてたから」
「レッド・ツェッペリン、か」
 カミソリ。定規のように真っ直ぐできらきらと光るカミソリ。
 強く握り締め、持ち上げ、振り下ろす。
 ぱあん。
 右耳がちぎれて飛ぶ。
 右耳のカケラ。強く握り締め、持ち上げ、振り下ろす。
 ぱあん。
 右耳がちぎれて飛ぶ。
 右耳のカケラ。
 振り下ろされ続ける。
 カケラは美しい光沢を持っていた。そして再生する。がらんどうの右耳のカケラ。トゥエンティセンチュリーガールズ。
 右耳。右耳。右耳右耳右耳右耳右耳。
(ヒトデの一種はばらばらに切り裂いても、全てが同じく再生します。プラナリアはばらばらにして、ガーゼで濾して、それで放っておいても、一つの固体へと再生することが出来ます)

「いや、まじで第九ってすげえから。あのベートーベンの交響曲第九番。ベートーベンの交響曲第九番。まじで。全部聴いたことある? あれまじやばいよ。歌詞見たことある? まじであれだから。ベートーベンの交響曲第九番。イってるから。まじだから」
アレキサンドロスは永遠に繰り返され続ける。マケドニアからアルビオンへ。ギリシアへ。アルルへ。
 アンコールワットに立ちすくむアレキサンドロス。
 右耳が飛び散ちり続け、トゥエンティセンチュリーガールズのカケラに落ちる。
 トゥエンティセンチュリーガールズはカケラになっても再生する。少しずつ、少しずつ、その綺麗なカケラの形を繋げていく。そのことはマーク・ボランが証明していた。ずっと前に、Tレックスの前身、ティラノサウルスレックスを結成する前から、彼にはそんなことは証明出来ていた。
 トゥエンティセンチュリーガールズの右足の小指が少しずつ固まり始まる。右足の小指からくるぶしの裏側あたりまでが、がらんどうになった足が、再生されている。
 がらんどうの青い鳥。
 マーク・ボランは手すりを背にして、正上位のような格好でゴッホに貫かれていた。ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。
 アルルの土壁を背にして、上着を脱ぎ捨て。何処へ行こう?
 ハイウェイに立つ。
 叩きつけられるギター。
 マケドニア・コーリング。
 アレキサンドリアとジョー・ストラマー。
「これ以上なにを壊したい?」
 へへへ、さあねえ、でも良いんじゃあねえかおやっさん。
 ファットボーイも奈美田橋もセイブザクイーンも、おやっさん、俺にはどうでも良いんだ。へっ、へへへ、見ろよやっこさんの目をよう。ぎらぎらと燃えて。あれは太陽なんじゃねえか? あれは太陽だ。磔刑のキリストとアポロンとヴィーナスが、身を燃やし尽くしながら抱きしめているんだ。へへ、だからおやっさん、やぼなことは言いっこ無しだぜ。あれは太陽さ。さしずめ俺は太陽に焼かれる向日葵ってとこかい? まあそんなことは関係ねえんだ。おやっさん、大丈夫だ。見えているよ。全部見えている。見えているというのはこういうことなんだな。おやっさんのおかげだぜ。
 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし、ぎし。
 衛星なんかで中継しなくてもよう、俺には世界の裏からだって、やっこさんのパンチが見えているぜ。過去からのパンチ。今放たれようとしているパンチ。未来からのパンチ。全て見えているんだ。だからそんな心配そうな顔すんなっておやっさん。へへへ、見ろよやっこさんの目をよう。ぎらぎらと燃えて。あれは太陽なんじゃねえか? あれは太陽だ。磔刑のキリストとアポロンとヴィーナスが、身を燃やし尽くしながら抱きしめているんだ。
「ファットボーイ・スリムか。良いよな」
「IPodでシャッフルしてたから」
「ファットボーイ・スリムか。懐かしいな」
「IPodでシャッフルしてたから」
(最初の核実験が成功した頃、イギリスにはV2ミサイルが撃ち込まれていた。最初のV2ミサイルが沖縄に撃ち込まれていた頃、イギリスにはきのこ雲が立ち昇っていたら? そんなことは誰にも解らない。その可能性は多分にあったというだけだ。ヒトラーが選択を誤ったのか。シラードに先見の明があったのか。少なくともユダヤ人の虐殺はヒトラーに有利には働かなかっただろう。そしてその十年後には原子爆弾をはるかに上回る破壊力の水素爆弾と、それを搭載可能で、V2ロケット以上の精度と飛距離のミサイルが、ソビエト連邦共和国とアメリカ合衆国で開発されている。その二十年後にはミサイルの技術を利用して、人類は月へと降り立った(ヒューストン、こちら静かの海基地。『鷲』は舞い降りた)。アポロ十一号は星条旗を月の大地に立て、月の石を、地球に持ち帰ることに成功した)
 ぎしぎしぎしぎしぎしぎしぎし。
 燃え尽きたアポロ三号。
 燃え尽きた向日葵。
 血だらけの手で花を積む。

「マーク・ボランの歌声を覚えているか?」
「忘れたよ」