おー・それみお ――宣教師安井さん
ごんぱち
日はすっかり暮れ、まばらに星が現れ、虫の声がやかましい。
アパートの鉄の階段の上の方に腰掛け、安井絵留はため息をつく。背が高めで凹凸のはっきりした体型をした、それなりに整った顔立ちはしているが極端に目立つという程でもない若い――いわゆる普通の女だった。
「あー、こんな星まで布教に来て……なんで」
太陽表面に浮かぶ地球外国家から極秘にやって来た「大日教」宣教師である事を除けば。
携帯電話の画面を眺める。送信者名「大家」で、「了解、すぐに向かいます」とのメッセージがあった。
「大日様、お腹空きましたー」
ため息をつく。
何度目かのため息をついた時。
門の掛け金の動く音がした。
「やっとか!」
絵留は腰を上げ、階段を駆け下りる。
「ん、こんばんは」
漆原尚政が絵留の方を向く。二〇代そこそこで、均整の取れた体型に知的な顔立ちだが、床屋カットの髪に、Tシャツにジーパン姿、ファッションに気も金も使う方ではないのが分かる。
「あ……漆原さん」
絵留は思い切りがっかりした顔になる。
「どうか、しましたか?」
政尚は尋ねる。少々のんびり目の、静かな声だった。
「あ、いえ、ちょっとカギなくしちゃって。いや、問題はないんですけどね、今暖かいし、大家さんがすぐに来てくれるって。マヌケですよね、どうも」
「そうですか」
尚政は頷いて、一階の、絵留の部屋の真下の部屋のドアを開け、入ってしまった。
「すぐ……って、言ったよな」
階下から、飯と油の香りが漂って来る。
「もう一回メール出そうか……でも、無理言ってるのはこっちだし」
がっくり肩を落とす。
「お腹、減ったなぁ」
街明かりで、空がうっすらと光っていた。
遠くで犬の鳴き声がして、怒鳴る男の声がする。
「あの」
「え?」
ぼんやりしていた絵留は、びくりと顔を上げる。
「良かったらどうぞ」
いつの間にいたのか、尚政が皿に載せたおにぎりを差し出す。
米だけの白いおにぎりが四つ。思いの外、形は整っており、かなり大ぶりだった。
「大日様は、大地を生み、大地から人は生まれました。死した後、命は大日様に還ります」
次の日の夕方、バイトを終えた絵留は、駅前で辻説法と自作した大日教教義の豆冊子を入れたティッシュ配りを行う。
(漆原さん……なんか、世話になっちゃったな)
たまに、足を止めても、長くて一〇秒程度ですぐに立ち去ってしまう。その他の通行人は、ティッシュを受け取れる距離自体を通ろうとしない。
(お礼もちゃんと言ってない気がするし)
説法にため息が混じり、慌てて絵留は表情を引き締めると、見るとはなしにティッシュに目を向けた。
ティッシュが夕日に赤く染まっている。
「――そうだ」
アパートに帰った絵留は、一階の尚政の部屋のドアをノックしようとする。
「ご用ですか?」
「うおあっ!」
背後から声をかけられ、絵留はびくりとして振り向く。
大学帰りなのか、肩にショルダーバッグを引っかけた尚政が立っていた。
「ん、何か驚かせました?」
「いえ、突然だったんで」
「そうですか」
「えーと、昨日はありがとうございました。なんか、ものすごくおいしかったです」
絵留は深々と頭を下げ、空の皿を渡す。
「お気遣い無く」
ほんの少し照れた風に、尚政は微笑む。
「お礼にですね」
絵留はぐいと手製の冊子を突き付ける。
「大日教の事を教えてあげます」
「……は?」
尚政はカギを持ったまま、一瞬固まる。
「人生のどうしようもない不安も、大日教であれば解消出来ます」
「ええと」
尚政は、少し考えてから、申し訳なさそうな顔になる。
「不安というの特にはないんですよ」
「そう言われると……少しまとめて来ます、じゃ!」
「あ、安井さん」
立ち去ろうとする絵留を、尚政は引き留める。
「ちりめん山椒作ったんですけど、少しどうぞ」
「いただきます!」
書店バイトの休み時間、休憩室で絵留と同僚の伊能清過は向かい合わせで昼食をとる。
「不安がないと言い切られるとなぁ」
弁当箱のコーンフレークに、絵留はパックの牛乳を足す。
「幸せになって欲しいなら、今の時点であなたの目的は達せられてるんじゃないですか?」
「ん、まあ、そう言えなくもない……のか?」
絵留はコーンフレークをバリバリ音を立てて噛み砕く。
「でも、こう、積極的に幸せになって欲しいだろう」
「一つ、気づいたんですけどね」
「なに?」
「絵留さん、料理下手なんですか?」
「色んな味の食材が多すぎんだよ」
「こんばんは」
絵留は尚政の部屋のドアをノックする。
「ああ、こんばんは」
ドア越しに返事が聞こえてからドアが開く。
「不安がないと言いましたが、人間、未来は分からないもので」
「あの、立ち話も何なので、中へどうぞ」
尚政はドアを大きく開く。
「おじゃまします! 人生とは――」
「お茶どうぞ」
尚政は手際よく茶を淹れ、湯呑みを差し出す。
「ありがとう!」
音を立てて、絵留は茶をすする。
「大日様は全てを生み――ずずっ、ふはー――育み、そして――ず――還って行くのです。自分をその大きな流れの――ずずっ――一つと考えれば、現世の悩みも――ぷはー」
「ご飯もどうぞ、たっぷり作ったので。豚バラと白菜の味噌鍋です」
「ありがとう!」
「ですから、大日様の――むぐ、うまっ――存在を受け――んぐ――容れる事で、ずっと平穏が――ごぐもぐ――訪れるのです」
「ビールどうですか?」
「ありがとう!」
食事を終えた絵留は尚政に見送られ、自分の部屋に戻る。
「ふーー、あー、んまかった。漆原さん、料理上手いな」
部屋の片隅に畳んである布団を広げ、ごろりと寝転がる。
「いや、地球の食材の問題かも知れない。確か、四季の変化が味に深みを出すとか言うしな。太陽だと、気温とか変わらないし」
寝転がったまま、幸せそうな顔でぐっと伸びをしかけて、がばりと起き上がる。
「って、あたしの方が幸せになってどうする!」
翌日の夕方、また絵留は尚政の部屋のドアを叩く。
「こんばんは! 大日様を信じて救われた人の喜びの声を――」
「あ、良かった。もしも来てくれなかったら、この大量のカレーどうしようかと思いました」
「いただきます!」
「うおおおおお! 幸せにされるだけで、ちっとも幸せにしてねえええ!」
休憩室で弁当箱を二つ広げながら、絵留は頭を抱える。
「あれ? エルさん、今日のお弁当はカレーですか」
箸でジャガイモのひとかけを取って食べる。
「薄味だけど、おいしいですね」
「取るなあああああ!」
「――このカレーも、例の布教に失敗した方の作ですか?」
「布教じゃなくて」
絵留はカレーのルーを、スプーンでご飯にかける。
「幸せになって欲しいだけなんだよ」
じぃっと伊能は絵留の顔を見つめる。
「な、なんだ?」
「気づいてないようだから言っておきますけど」
「へ?」
「普通、誰か特定の人を幸せになって欲しいと思う感情や行動の事を、愛とか恋とか言うんですよ」
アパートの門を開け、尚政の部屋のドアをノックする。
「ああ、安井さん」
ドアが開いて尚政が顔を出す。
尚政の顔を見た瞬間、絵留の全身の筋肉が強ばる。
「えと、その、あの」
説法の時の流暢さは吹き飛び、言葉が喉に引っかかっているようだった。
「す、その、で、そ、と、その、すみません、出直します」
「いや、言葉がまとまるまで待ちますから、その……」
尚政は、ドアを大きく開ける。
「カレーうどん、どうですか?」
「いただきます!」