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6000字小説バトル

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6000字小説バトル
第7回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 4月)
文字数
1
榎生 東
5987
2
鬱宮時間
6000
3
霜月 剣
6000
4
吉備国王
5906
5
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
6
ごんぱち
6000
7
ながしろばんり
6000
8
橘内 潤
5851

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料亭宇田川の茶懐石
榎生 東

「僕は茶懐石は今日が初めてです」と、杉浦が言った。
「頼まれりゃ茶室の設計もやるだろうに、デザイナーってのはそんなことで商売が出来るのか、ワイン飲んで横飯喰らうだけじゃ、世の中の美味いものを半分捨てるようなもんだ」
 この程度の太田垣の悪口は屁でもない。杉浦はもう慣れっこなのである。
「お言葉に甘えて、今日は、茶懐石を堪能させていただこうと、仕事を放り出して馳せ参じました」大野は滝本を前に適宜な挨拶だった。
 料理を堪能すると言うが、大野等の狙いが軽井沢にある事は誘われたとき既に、滝本は直感していた。
(百歩譲って持ちつ持たれつなら組む手もあろう。だが、喰われるとなれば話は別、ゼネコンだろうが銀行だろうが、勝手にはさせぬ。不肖滝本修治、喰うことはあっても、心中するとも、タダで喰われることは断じてない)と、肝に銘じている。
 両刃の太田垣とは本音では誰もが縁を切りたい。その力を借りた報酬として、その都度多額な金子を取られるとしても、後は他人でありたい。
 だが、太田垣は一度掴んだ獲物は逃がさなかった。彼を頼った人々はその後もずるずる引きずられ、いろいろな名目で小金をむしり取られている。滝本は後に、彼の常套手段である強請の禁じ手を逆手に取り、縁切りに成功するが、太田垣のアキレス腱を急襲する以外に彼から逃れる方法はなかった。
 
 給仕口の襖が開かれた。
 宇田川は両膝の前に指を揃え静かに浅礼をした。
「ご亭主、紹介しておこう、こちらが日本インスツルメントの滝本社長、鹿島工務店の大野副社長、東洋美大の杉浦先生」太田垣は大きな手を広げて指し示した。
「宇田川でございます」ご亭主は今度は仰々しく総礼をした。
「今日の座敷は本来わしが亭主なのだが、茶懐石をみんなで楽しんでいただくつもりだ、適当に運んでくれ」
「承知いたしております」と、滝本に折敷を手渡す。
 滝本は両手で受けた折敷をそのまま前に置いた。
 ご亭主は後の者に順に手渡すと、
「どうぞ、お召し上がり下さい」と言って襖を閉めた。
 向付と汁椀と飯椀が、折敷の中に三角形に置かれ、箸が右の縁に架けられている。
 太田垣は左手で、飯椀の蓋を、右手で汁椀の蓋を同時に取り、汁の蓋を飯の蓋にかぶせて、折敷きの右側に置いた。
 初めて見る茶懐石の作法に、滝本は苦痛さえ感じている。
 大野が箸を取った。
 柔らかく炊かれた飯を、一口食べ、三州味噌の香るじゅんさいの汁を一口飲んだ。
 汁には水からしが落とされていた。
 大野は飯と汁に蓋を戻した。使った箸は、折り敷きの左端に口を付けた先を出して置く。
(なるほど、一々蓋をするのか)滝本は極度に緊張した。が(どうって事はない、飯を食うだけの事だ)と、開き直る。
 大野に習い、箸を取って飯を口に運ぶと、緊張が解け始めた。自分を取り戻した。茶室が見えてきた。
 滝本に習って杉浦が続く。
 倉井は心得があるらしく箸の運びが自然だ。
 料亭の料理は酒を美味く呑む料理で、飯は最後に漬け物でいただく事になっているが、茶懐石は初めから飯と汁がでた。
「一汁三菜は、本膳料理に精進料理の侘びを求めて創られている」太田垣が箸を置いて言った。
 しかし、具をみると獣肉魚鳥を避ける料理ではない。
「季節感を大切にしますね、材料を吟味して素材を生かす味付けをしていますよ」茶懐石は日本料理の真髄だと大野は言う。
 太田垣がズルズルっと音を立てて汁を飲み干した。
(これも作法か……)滝本には嫌な音だった。
 これをあいずに倉井が酒を注ぎ始める。
 滝本から順に注いで回り、もう一度滝本の前に来て、銚子を預けた。
 大野は酒を飲んだ盃を、向付けの右隣に置き、鯒に箸を付けた。
 明るいトルコ青の舟皿に、鯒の湯引きが盛られている。
 さんごのり、柴芽、ピンクの小さな花穂の紫蘇と茗荷があしらわれていた。山葵と梅肉でまったりした柿色の、かげん醤油をつけていただくのだ。
「うまい!」大野が思わず声をあげた。
「宇田川は元料亭福田の板長だ、美味くて当然さ」太田垣が声を落として教えた。
「福田の板長でしたか、流石ですな。お口に合いますか?」滝本に向かってつい口が滑った大野に戸惑いが見えた。
「はい」
「合うに決まっとる」滝本より太田垣が引っ掛かった。
「ええ、美味しいです」大野の口を吐いた目下の者に対する言葉使いに気付いたが、滝本は素直に答えた。
「今の福田にはこれといった料理はないが、晩年の先代が、板場を宇田川に任していた頃はよかった。それが、事もあろうに、先代が亡くなった時に、女将が男前の若いのを板長にしたものだから、宇田川は飛び出してしまった。腕の良さは知られていたから、引く手は数多だったが、意地もあったのだろう、仲居頭と一緒になって料亭宇田川を開いた。敷地が三百坪もあるこの屋敷を買い取ったんだ。銀行は宇田川の腕を見込んで金を貸した。朴訥な男だがやる事はドラスチックだ」

 再び襖が開かれた。
「ご飯をどうぞ」と、ご亭主がお代わりの挨拶をする。
 太田垣の前に飯器を置いたご亭主が、
「よそいましょう」
「どうぞ、おまかせを」
 太田垣は飯器を受け取って膝の上に抱き上げる。
 自分の椀に飯を盛って滝本に手渡す。
「左手に抱えて、私のように盛りなさい」小声で教える。
 滝本は太田垣を見習って一文字に盛る。
「盛ったら渡しなさい」太田垣は手取り足取り教えた。
 滝本は飯器を大野に手渡した。
 この間に、ご亭主は滝本の汁椀を持って行き、直ぐに汁を持って引き返し、今度は太田垣の汁椀を持ち帰った。同様にお代わりの汁を運んで、最後に空の飯器を下げて行った。
 
 次に、椀盛りと、四人分を一緒に盛りつけた焼き物が運ばれた。
 ご亭主は滝本の椀盛を丸盆に乗せて運び、後は長盆で一緒に運んだ。
「冷めないうちにどうぞ」
 ご亭主の言葉に従い、直ぐに平椀の蓋を取る。
 鱧の葛たたきに、熱いすまし汁が張られていた。
 汁を一口味わう、柚の香りに包まれる。
 鱧に箸をつける。葛がとろむ鱧の舌触りが、量感を口の中に感じさせた。
「黒の平椀に、細い沈金の流れる線模様、透明感のある葛の汁、白い鱧、その上に緑の柚の細切り、土色の牛蒡につる葉の濃緑が添えられる。華やかなれど、静かな深みを覚える。これぞ和の美意識です」と、杉浦が悦に入って表現した。
「どうだ杉浦先生、縦飯も悪くあるまい。茶懐石は料理だけではない、閉めた襖を再び開ける間、料理を運ぶ間に、最大の気を使うんだ。これが、本当のもてなしなんだ。早過ぎては客を追い立て、遅すぎては席がだれる。微妙な呼吸に全神経を集中する。もてなしの大切さ、難しさだ」
太田垣が蘊蓄を披露した。
「客も料理の向こうの心を感じていただく、これが大切ですな」と、滝本を覗き見る。大野はこうして時折滝本を注視した。が、それ以上のことはなかった。
「忙しい時間を割いてでも、料理人は様々なジャンルの客と触れあい、嗜好の変化を感じて自分の味を変える。変える勇気を持った上で、守り続けるものは頑固に変えない。一流の料理人であり続けるには、俎板を離れた修行が大切なのだ」太田垣は専門家としての片鱗を垣間見せた。
「言うは易く行うは難しですな」大野と二人の掛け合いだった。
 初めて知る食の文化に滝本は一層寡黙になった。
 倉井が二献の酒を注いで回る。
「女将は福田の仲居頭でしたか、言われてみれば、福田の座敷で記憶がありますな」大野は思い出すように言った。
「惚れた同士だ」

 この座敷が仕事の場である事は宇田川の女将ですら承知している。
 男たちは仕事で飯を喰っているのだ。
 滝本は太田垣の狙いは察しがついていた。が、誰も仕事を口にしない。駆け引きは当たり前、腹の底は見せない。
(設計は太田垣の顔で杉浦で良い。事業資金融資が絡む建設工事は金融機関の意向を無視できない)銀行は融資にゼネコンの導入預金を、滝本は工事完成保証を取り付けたいと望んでいる。

「高級料亭の料理が美味いからと、吉兆や金田中に食事に行く奴はいやしない。料亭は政治家や財界人などが、卑劣な裏取引の内密の場に利用するのが本筋だ」太田垣の言葉に、
「仰るとおりです。私らゼネコンもダーティな利用をする張本人です」大野が嘆いて見せた。
「料亭は料理だけじゃ駄目なんだ。外部を遮断する豪壮な建物と信用が売りなんだ。料亭は主の一代のセンスで築かれるものと言っても過言ではない。創業以来の危機を大衆化で食い繋いだ京都の老舗の料亭もある。そもそも二十歳過ぎまで大学で遊んで『はい、二代目で御座います』と、出来る商売じゃないんだ」
「昔から大阪や京都には料亭や割烹が沢山ありますけれど、消えていく店もあるのでしょうなあ」
「明石から播磨灘にかけて魚介類がふんだんに揚がるから出来たのだが、何の商売でも永く続けるのは難しい」

 襖が開かれた。
「どうぞおとりまわして下さいまし」ご主人が強肴を太田垣の前に置いた。
 手書きの鹿の絵の染め付け皿に焼きものが五切れ、一緒に盛られている。
「鱸の塩焼きだ。白身に青竹色をチョロっと垂らしただけだが、たで酢はたでの葉に白飯を少し加えてすり鉢ですり、裏ごしにして二割酢のだし汁で少し濃いめにのばしたもので、手が込んでいるんだよ」太田垣がご亭主に代わって説明し「器を暖めてある」と言った。
 水に濡らした両細箸で太田垣が一切れ取り、以下順に取り分けられた。「瓢亭など自らを料亭と称していますがあれは料亭じゃないでしょ」
「瓢亭の朝粥は本当に朝しか食べられないそうですね」滝本も瓢亭の朝粥は知っていた。
「祇園で朝まで遊んだ旦那衆が、お屋敷に帰る途中、南禅寺の門前の茶店を叩き起こして腹を整えたのが始まりだよ。銀座の帰りに杉浦大先生とホステスが腹ごしらえする赤坂のラーメン屋と同じでござんす」太田垣の冗談は言い得て妙だった。
「まあ、料理は割烹で料亭じゃないですな」大野にも一家言あった。
「今年の春、我々の仲間が七にんが七つの茶室をデザインして、ニューヨークで展示しました。宗家の三男坊が企画したのですが、現地では大変な好評を頂きました」杉浦は本題に繋げようとするのか、自らの仕事を話題にした。
 宗家の機関誌『枯淡』の発行責任である三男坊は杉浦と同期であった。
 家元は長男が継ぎ、次男以下は宗家の関連会社に従事させる習わしになっている。不祥事を起こし、宗家が巻き込まれるのは勿論、非難が及ぶ事も避けるためだ。
「ニューヨークですか」滝本が関心を示して杉浦は気が入った。
「外人には躙り口が窮屈ですから広くしたり、正座も駄目ですから、掘りごたつ式に亭主の側の床を落とし、テーブルでお茶を頂く様式にしたりして」
「そんなもの茶室じゃない」太田垣は一言で切り捨てた。
「アルミの柱とパネルに、透明度の高い和紙を貼って造りました。露地の飛び石なども、ポリでコーティングし白モルタルを塗って、バリアフリーにしました。外人は日本のお年寄りみたいに飛び石に躓きますから」杉浦は太田垣に構わず滝本に語りかけた。
「茶室は精神性の高い空間で、禅の思想を根底としているんだぞ。くだらん事をするな、宗家自らが茶事の精神性を否定するものだ」太田垣は本気になっている。
「茶に対する価値観によって変わるとしても、茶事をする空間なのだから、自ずとルールはあるだろうな」大野は柔らかい口調で取りなした。
「そんな事じゃない、人間の原罪を顧みる精神を具現化した苫屋、それが茶室だ。アルミだのモルタルだのバリアフリーだのと茶のなんたるかも判らんで、冒涜するのも甚だしい、怪しからん」太田垣は顔を赤くし、目を剥いた。
 襖が開かれた。険悪な空気が入れ替わる。
「ごゆっくりお召し上がりください」と、ご亭主が鉢肴を太田垣に預けた。
 ブルーの切りガラスの鉢に、冬瓜と小茄子に、車えびの叩き寄せを盛り合わせてあった。
 極細に刻んだ柚の皮が添えてある。
「小茄子の茶筅の切り目に料理人の丁寧さが現れている」小茄子に箸をつけた太田垣が板場を褒めた。ケロッとしている。太田垣のいいところだ。
「えびの香ばしいだし汁がよく浸みている、美味いなあ」大野は小茄子を一口に頬張っている。
「色がいい、エビ団子の赤と紫の取り合わせが鮮やかです、切りガラスのブルーも涼しい」杉浦も色彩のコントラストを楽しんだ。
「この冬瓜、なかなかの食感ですよ」珍しく倉井が口を挟んだ。

 茶懐石は大野を相手の太田垣の独壇場であった。
 作法に疎い事が仕事の立場をも悪くするのを滝本は懸念していた。
 美味いの不味いのと食べ物に拘るのを生活信条として嫌う滝本だったが、仕事となれば茶懐石でも居酒屋でも料理や酒で男を下げてはつまらない。滝本は下手な信条は捨てねばと考えた。
 それにしても、軽井沢のカの字もでない。杉浦の話は本題に繋げる仕事の話ではなかったのか。

 襖が開けられた。
「不加減で失礼致しました」ご亭主が給仕盆に箸洗いを乗せて入ってきた。
 箸洗いを滝本の前に出して空になった器を下げる。後は長盆で残りの箸洗いを配り、空の器を下げた。
 続いて、八寸の四方盆を左手に持ち、右手にお銚子を持って来た。
 三献の酒は太田垣が注ぎ始めた。
 八寸とお銚子を持ち、滝本の前に座り、酒を注いで、山のものを付けた。
「お流れを」戸惑う滝本に「別盃を持ち合わせませんので」と、催促した。
「盃を懐紙で拭いて私に返しなさい」太田垣はまた例によって滝本には優しく教える。
 滝本は盃の飲み口を懐紙で拭き、盃台に乗せて太田垣に差し出した。
「肩の力を抜きなさい、美味い物をいただき、いい酒を飲んでいるのだから、楽しくやらにゃあ」太田垣はそれでも満足そうに滝本に微笑んで言った。
 大野が太田垣に酌をする。
「お流れを」と、大野が盃を乞う。
「この盃を暫く拝借させてください」太田垣は滝本に断りを入れ、大野に盃を渡し、酌をする。順に肴を付けながら太田垣は倉井まで献酬して廻った。そして最後に滝本に盃を返してもう一度酌をした。
 滝本は少し酔った。
 
 湯桶と香の物が運ばれる。
「どうぞおまかせを」と、太田垣がご亭主から湯斗を受け取る。ご亭主は空の箸洗いを長盆で下げた。
 やがて太田垣が促し、箸を一斉に落として茶懐石は終了した。
 誰もが仕事を忘れて堪能した表情をした。
 
 門前の迎えの車に乗り込む滝本を大野が追った。
「近々に、御社へ伺いたいのですが」と、初めて仕事の伺いを立てた。
「どうぞ、お出で下さい」滝本は真顔で答えた。
大野は最敬礼をした。
 今日一日の仕事に滝本のこの一言が欲しかったのである。運転手がドアーを閉める。車はゆっくりと去っていく。
「お見送りなさっております」運転手が滝本に知らせる。
 杉浦と倉井が、日照りの路地に並び、深々と頭を垂れている。太田垣は木陰に立って上機嫌に手を挙げていた。
料亭宇田川の茶懐石    榎生 東

ICU
鬱宮時間

 顔を上げる事ができなかった。今にも胃が口から飛び出してきそうな気分だ。向かい側に座っている医師が僕の顔を覗き込むように見てはまた顔を離し、腕を組んで、うーん、うーん、と悩んでいるように見える。また僕の顔を覗き込む。うーん、うーん。さっきからこの繰り返しだ。僕にはこれを二時間はやっていたように感じたが、実際はもっと短かったことだろう。気がついたら口から茶色いものがズボンへとドロドロと落ちた。それは溶けたチョコレートのような感じがした。隣で心配そうな顔をして立っている母がそれに気付き、持っていたタオルで急いで拭き取った。
「ではK病院へ運びます。迎えの救急車が来るまで待合室のほうでお待ちください」
 さっきまでうーん、うーんと悩んでいた医師の口から違う言葉が聞こえた。夜勤の医師ってのは本当にやる気がないんだな、コンビニで働くアルバイトの大学生の方がまだ接客がうまいな、なんて思った。他には特に何も感じなかったし、思考回路はストップしていた。
 それにしても真夜中の救急病院の待合室は不気味だ。蛍光灯は確かにあるのだが、部屋の隅までは光が行き届いていない。規則的に並べられた安っぽいビニールの椅子が更にその雰囲気を出している。僕はその一番後ろの一番端に座った。苦しみで顔を正面に上げられないから、足元に広がる椅子の影ばかり見える。影の中で赤や緑、黄色といった粒子が踊っている。ふと自分の足に目をやると、それらの色で構成されたオーラのようなものが出ていた。いや、足だけじゃない、体中から出ていた。蒸発しつつあるガソリンが作り出す陽炎のようなものだろうか。ドライアイスを水に入れたときに出るスモークのようなものだろうか。がんばって顔を上げると、目の前にはまた、それらの色の集合体のような丸いゴルフボールくらいの何かが浮いていた。球の形ではあったが、それは僕の体から出ているオーラと同じような性質のもので、微妙に形を変えながら浮いていた。触れたとしたら多分軟らかくて、まるで女性の乳房のような感触を得られるような気がした。もちろん触ってみようと手を伸ばしたが、それに触れることは出来なかった。ああ、これが幻覚か、と分かった瞬間だった。ふふ、とつい笑ってしまった。そうか、これが幻覚なのか。多くの人間が、これを見たいがために死んでいったのだ。そう考えるとおかしなものだ。僕はたまたまこれを見ている。別に見たかったわけじゃない。成り行き上見ているだけだ。でも確かに、こんなものを故意に見ていたとしたら、人間が変わってしまうのだろうな、と思った。笑っている僕を見る母親の顔は未だに忘れることが出来ない。
 救急車に乗った。ふらふらと、まるで会社帰りに一杯やって帰宅するサラリーマンが駅のホームを歩くかのように。
「名前は?」
「鬱宮時間」
「年は?」
「十七です」
「住所は?」
救急車の中ではこんな会話をしただけだ。救急車に乗るとまずする事が、名前と年齢と住所を聞かれることだ。未だかつて救急車に乗った事がなかった僕には貴重な経験になったと思っている。救急病院まで連れてきてくれた父と母は、自分たちの車で向かう。
 少し経つと、K病院に救急車は着いた。後部のドアが開いたら、急患用入り口には数人の看護士と医師が待機していた。皆僕の方を見た。まるで、宇宙から降り立った宇宙人が、宇宙船を降りる時のような感じだった。
「ええと、患者さんはどちらで? 重症だと聞いたのですが」
一人の看護士が不思議そうに聞いてくる。救命士が、こちらの方です、とふらつきながらも自分の足で救急車を降りようとしている僕を指差し答えた。不思議そうな顔で看護士達は僕に駆け寄る。こちらへどうぞ、と誘導された。
「自分で歩けますか?」
「ふらつきますが大丈夫です」
「普段お酒で今日くらい泥酔したことは?」
「一応ないです」
一応とは、仮にも僕は当時高校生だったし、実際にここまで酔ったことなどなかった。そのまま建物の中に入ると、移動用のタンカがおいてあった。ここに寝てください、と言われ、言われるようにした。そのままどこかへ運ばれたが、運ばれている途中、どんどん世界が回りだした。廊下の角を曲がる度に横Gが有り得ないくらいかかるようになり、治療室へ運ばれる頃には恐らくさっきのように自分の足で歩くことは出来ないのだろうというくらい平衡感覚が失われていた。移動途中、白い天井が天井なのだか床なのだかすらわからなくなった。ふと自分の右側を見ると、幼い少女が何やら袋のようなものをいじっている。おかしいな、と思った。恐らく今は真夜中の三時は確実に回っている。仮にもこの少女がこの病院に入院している患者だとしても、こんな時間に起きているはずがない。よく見ると、僕の栄養失調気味の左腕には点滴が刺さっていた。少女はその点滴の液体がためてある袋をいじっていた。あどけない顔で、無表情で、全く感情が見受けられない顔だった。天使が本当にいたならば、こんな、全くの無しか感じ取れない顔をしているのだろうなと思った。お嬢ちゃん、それは点滴って言ってね、子供がいじっちゃだめなんだ。さあ手を離して。ママはどこだい? そう言おうと思った瞬間、幼い少女に見えた彼女が、看護士だと気付いた。これは相当やばいな、と感じた瞬間だった。
 治療室に入ると、移動用のタンカからベッドへと移された。自分で移動出来ますか? と聞かれたが、この時はもはや立つ事すら出来いくらいになっていた。いち、に、さん、と掛け声で四人くらいで僕を持ち上げてベッドへ移した。移される瞬間、背中がタンカから離れた瞬間、目の前に天井が接近した。大して高くもない僕の鼻がこすれるのではないかという距離まで近づいた。まるで胴上げをされているような感覚だった。遊園地のジェットコースターなんかよりもよっぽど恐怖感を感じた。ああ、体の感覚も完全に麻痺したな、と思った。
 治療室のベッドは、真上から吊り下げられた手術室にあるようなライトに照らされていた。このベッドがステージで、このライトがスポットライトで、ベッドに横たわる僕は多分、主人公なのだろう。しかしせっかくの主人公は身動きが取れない。周囲の白で統一された衣装の脇役に服を脱がされ、院内用の薄い羽織を着せられた。とんだ主人公だ。まるで着せ替え人形じゃないか。むしろ、着せ替え人形はこんな気分で過ごしているのか、全て他人任せで、自分では何もする事が出来ない。着せ替え人形に心があったらとてもじゃないけど生きていけないだろう。そんなくだらない事しかこの状況では考えられなかった。我ながら幼稚な感覚だと思った。
 女性の、恐らく四十代くらいだろうと思われる医師が僕に話しかけてきた。
「薬、どれくらい飲んだのかな?」
「五十ミリを約百錠だから、五千ミリくらいです」
そう答えると少しあきれた表情でまた質問する。
「いちいち量を数えながら飲んだの?」
「はい」
なんとも言えないといった感じで僕の顔を見ていた。
「それだけの薬、どこで手に入れたの?」
「通院していたので、処方箋で出してもらいました」
「なんて病院?」
「I病院です」
医師は、そう、と言った。ここで僕は、毎週通っていたI病院の先生には悪い事をしたな、と思った。自分が出した薬で死のうとしたなんて聞いたら、嫌だろうなと思った。そこだけは冷静に考えられたし、少し反省をした。次は血液検査をするから血を取らせてね、と言いながら医師は、僕の腕をまくってまたさっきのような表情を見せた。
「これ、自分でやったの?」
「まあ」
この医師がこのような反応をするのも仕方ない。僕の左腕には、手首からひじにかけての内側に、カッターナイフで付けた傷跡が無数もあったからだ。僕みたいな人間にとってはある意味、お約束みたいなものだ。元々肌が白い方の僕の腕だから、余計目立って痛々しく見える。左腕を諦めた医師は、右腕をめくると、こっちは大丈夫みたいね、と言って血を抜き始めた。それを見ていると、医師って結構大変なんだなあと改めて思った。自分の腕に入ってきて、皮膚の下を這っている注射針を見ていると不思議と気分が悪くなってきた。それに気付いた医師は、見ない方がいいわよ、と言った。僕も、もう反対側を向こうとしていた。それにしても、さっき死のうとした人間と、それを阻止する医師が、つまりは、反対の意思を持った二人が、こんなに仲良く話をしているなんて、不思議だと思ったし、少なくとも救急病院の医師よりはこちらの医師のほうがコンビニの店員をしても客から苦情はこないだろうなあなんて考えていた。もしまだ吐きそうなら吐いちゃってくれるかな、と言われ洗面器のような器具を渡された。実は家で相当量の嘔吐物を出してしまった僕の胃からは、胃酸しか出なかった。少量の血が混じっていて、昔、父に血を吐いたら危険だと言われたことがあったので少し不安になったが、よく考えたら危険な行為をしたのだから当たり前だと気付いた。
 さて、じゃあ次は胃を掃除するからね、と医師が言った時、ついに来たと内心びくっとした。話には聞いた事がある。いわゆる胃洗浄というやつだ。これをした事がある人間で、痛くなかったと言っている人を見た事がない。ある意味で、胃洗浄はオーバードーズかそうでないかの境界線だと思っていい。ついに来たんだ、これをやる時が。痛いのは最初だけですからねえなんて言いながら、ストローより少し太めのチューブを握り締めている看護士に反抗すら出来ず、ちょっと待って、心の準備がまだできていないんだなんて言う前に鼻の中にチューブを入れられた。初めて注射をする幼児とか、あるいは処女を失うときの少女はこんな感じなのだろうと想像してみたが、他の事に集中することなんてできない。鼻から入ったチューブはゆっくりと進む。まるでSF映画のようだ。これにはびっくりした。こんなものが入るなんて、人体は不思議だ。チューブの先端が喉まで達すると、看護士は優しく、ゴックンしてくださいね、なんて言ってくる。本当にさっき想像したシチュエーションのようだ。ところで、看護士はよく、白衣の天使などと表現される事が多いが、その表現は間違ってはいないと思った。天使は、神の命令に従って動く。例えそれが人間にとってプラスの事だろうがマイナスの事だろうが、全く関係はない。ただ、神の命令のみを実行する。無の心で実行する。そういう意味では、彼らはまさに天使に近い存在なのだろう。僕は決して生きることを望んでいるわけではないし、痛い思いをしてチューブを胃まで突っ込むことなど望んでいるわけがない。それでもつばを飲み込むと食道を通って胃まで到達したのがわかった。チューブの生ぬるい感触が食道を刺激する。ああ、まるで人造人間みたいだ。鼻からこんなチューブをぶら下げて、いや、今の意味のわからない流行のファッションの移り変わりを考えると、意外とこういうのがこれから流行るとおもしろいな、と神経を拡散させて痛みに耐えた。チューブが胃に達すると、洗浄する為の液体が入れられる。チューブから直接異に液体が流し込まれる感触がある。入れては吸い出され、また入れられる。それを数回繰り返した。とても嫌な気分だ。幼い頃、母に座薬を打ってもらった事がある。普段有り得ない物が有り得ない場所に人工的に入れられる。あの不自然な感じ。胃から出てきた液体を見て医師が、もうきれいになったわね、と言い一通りの治療が終わった。完全に疲れきっていた。
 点滴と洗浄用のチューブを鼻に刺したままICUへと運ばれた。ICUは暗く、窓の向こう側のナースステーションから漏れる蛍光灯のかすかな光だけが白いベッドの存在を確認させてくれた。点滴を換えに看護士が来たので時間を聞くと、まだ午前四時半だった。まだ春の中程、この時間に太陽が昇ることはない。暗闇の中にいると、救急病院の待合室で見た例の幻覚が襲ってくる。赤や緑や黄色が混ざった気体と液体の中間くらいの何かが、まるで僕の体から噴出すように垂れ流し、床を這って部屋全体に行き届き暗闇を覆う。ゆっくりであったり、いきなりすごいスピードになったり、一瞬消えたりして。今度はそれだけではない。それと同時に部屋が揺れている。震度三か四くらいの揺れが止むことはなく、僕の体から噴出す何かが部屋全体へ広がるときの衝撃かと思うような揺れ方をしている。また、音もする。これもまた、僕から噴出す何かが、部屋へ広がる過程で出ているように感じたが、その音というのは、大昔に流行ったゲームの音に似ている。単純な音で構成された電子音だ。トランスにも似ていると言える。一音一音がランダムに楽譜に散らばったような、それ自体が全く無意味とも言えるような、存在しているのだかしていないのだか分からないような音だ。ピコピコと鳴り響くその音も、揺れと同じで止むことがない。頭が張り裂けそうになる。耳をふさいでも聞こえてくる。僕の体内とこの部屋は、それらの存在の分からない現象で包まれていた。よだれを垂らしている自分にすら気付かなかった。この部屋は外の世界とは別のものになっていた。白いベッドの中でいつの間にか夢の中に逃げ込むことに成功していた。
 次に気がついたとき、外に面した窓のカーテン越しに青白い光が見えた。部屋は暗闇から開放されていた。まだ揺れていたし、電子音も聞こえていたが、体から噴出すものは何もなかった。しかし、まだ悪夢は続いた。隣の部屋から家族の声がした。言い争っているようだ。僕が大量の薬を飲んで自殺を図ったことに対する責任の擦り付け合いだ。これは脳が溶けてしまうほどの苦痛だった。あまりに耐えられなくて、点滴を換えに来た看護士に、隣の部屋から家族の声が聞こえるのですが、と言ったところ
「隣は廊下ですよ。廊下を歩く人の声がそう聞こえたのかもしれませんね」
と言われた。ああ、また聞こえてくるはずのないものが聞こえてきたのか、と改めてまだ薬が抜けていない事を実感した。
 次に目が覚めると、昨夜の女性の医師が立っていた。隣には母がいた。
「もう血液も尿も正常になったし、後遺症は残りませんでした。退院していただいて大丈夫ですよ」
僕は母が家から持ってきた服に着替えた。時計を見ると午後三時半だった。こんなに早くこの部屋を抜けられるとは思っていなかった。点滴を抜いて、鼻から伸びるチューブも抜いてもらった。チューブを抜くときの痛みで現実に戻った。
「もう、馬鹿な真似しちゃだめよ」
「あの、一つ質問していいですか?」
「どうぞ?」
「薬、あの量で死ねましたか?」
「足りなかったわね」
「そうですか」
 少しふらつきながら病院の廊下を歩いた。
 久しぶりのコーラは、チューブよりも刺激があった。
 幻覚は炭酸に溶けた。
ICU    鬱宮時間

低気圧少女
霜月 剣

 腕時計のバンドが、金属製なのに突然変なところで音もなく壊れた。ほどけたリボンが髪からふわりと逃げていくみたいに、頬杖をしていた左腕をすべりおりて、机に落ち、静かな教室にコトリと音を立てる。
 高校進学のお祝いにもらった、おばあちゃんの大切にしていた地味で古くて小さなこの腕時計は、背の小さいわたしによく馴染んでいた。だから誰も、この腕時計のことなんか気にも留めていなかったし、なにより、高価なものにも見えなくて、わたしはとても気に入っていた。
「なにかひとつ、上等なものを身につけていなさい」
 それがおばあちゃんの遺言にも、形見にもなってしまったので、お母さんは大事にしまっておきなさいとわたしの左手を見るたびに言う。
「だって、おばあちゃんが身につけていなさいって、くれたんだよ」
「それはおばあちゃんが生きてたときのことじゃないの。だいいち、その腕時計は子供にはまだ早いわよ」
 そんなこと、わかってるよ。
「何か言ったか? 伊藤」
 低気圧の中心に向かって反時計回りに風は吹く。そのぐらいまではちゃんと授業を聞いていたつもりだった。白衣がいまだに似合わない地学の新米先生が、わたしの席の前に立つ。しょうがないのでわたしも立ち上がり、目の前のネクタイの格子柄を見ながら、なんでもありませんと答えて、先生の顔を見上げた。先生の表情が、引きつった笑みのまま凍り付く。
「腹も減っただろうが、もう少し我慢しろ」
 誰かが噴き出した。柔らかに停滞していた正午すぎの空気が、じわりと反時計回りに動き出す。
 笑い声は、きっと高気圧だ。低いところめがけていっせいにやって来る。楽しげな視線が乾いた音をさせて、わたしに向かってくるくると吹き込んで来た。上昇気流の熱気が、足元から吹き上げてくるみたいだ。
「静かにしろ、まだ授業中だぞ」
 となりの席の千島くんが、半袖の真っ白いシャツから伸びた、日焼けした手首を指さしている。どうしたの? ううん、何でもない。
「伊藤、南半球の低気圧は、どっち回りだ?」
「と、時計回りです」
「独り言は今度から小さい声で言えな」
「すみません」
 席について、帰り道の景色を順にたどり、腕時計を修理してくれそうなところを探してみたが、思い当たる店がない。あちらこちらへ記憶の寄り道をしているうちに授業が終わり、お弁当のにおいが教室を満たし始めた。バンドの壊れたところを、裏返したり天井の蛍光灯にかざしたりして見てみると、針金ぐらいの細長いネジが入りそうな空洞がすうぅっと空いていた。
 腕時計をスカートのポケットに流し込み、しゃがみこんでしばらく机の周りの床をなでて針金ネジを探してみたが、手のひらがほこりに汚れただけで、何も見つからない。そばを通りかかった香織が、わたしがコンタクトレンズを落としたのかと勘違いして、マネキンみたいに目の前で凍りつき、まばたきまで我慢していた。
「大丈夫だよ、コンタクトじゃないから」
「なんだぁ、びっくりした」
「香織って背が高いから、そうやってるとほんとにマネキンみたいね」
 スタイルも悪くないし、美人の部類だし、ほめたつもりでそう言ったのに、香織は背中を丸くかがめてわたしを見おろし、あたまをなでながら意地悪な顔で笑った。
「伊藤だってそうやってたら、砂場で遊んでるちびっこみたいだし」
 ちびは損だ。満員電車であたまの上に雑誌を置いて読まれてしまう。図書室に行っても【あ】の段の本はひとりじゃ借りられない。ブラウスもキッズもののサイズが似合ってしまう。いま香織がしたみたいに、わけもなくあたまをなでられたりする。その香織は、なぜかうれしそうに手を振って、廊下へ出て行った。
 針金を探すのをあきらめて、トイレに行き、ハンカチを口にくわえて手を洗っていたら、あの暑苦しい合図がスピーカーから流れてきた。まだ、お昼、食べてないのに。
 ポケットの中の腕時計をスカートの上から確かめる。ぽんと叩いたら、ビスケットが増えるみたいに直ればいいな、と思った発想がちびっぽくて、早くこの腕時計が本当に似合う年齢になりたい、と思いながら、前を歩いていた香織を小走りに追い越した。球技大会のスナップ写真がきちょうめんに並んだ、廊下の模造紙や掲示物がはためいて、笑い声みたいにくすくすと鳴った。
 結局、下校の時間を過ぎても針金は見つからなくて、帰り道に時計を直せそうな店もあてがなくて、低気圧はどっちがどっち回りだったか思い出せなくて、でも教科書のどこに書いてあるのか調べるのは面倒で、地学の先生の部屋へ寄ってついでにちょっとからかってから、きょうはまっすぐ家に帰ることにした。
 一階の突当たり、地学室の扉をそっと横へすべらせて、息を殺して奥の準備室を覗きこむと、先生が背中を向けて椅子に座っていた。
 おなかのあたりで石か何かを磨いているみたいで、忙しそうだ。呪文みたいな、何かを繰り返しつぶやいて、腕を小刻みに動かしている。遠慮気味に、せんせ、と口にしたところで先生の足首までズボンが下ろされているのに気付き、ひっ、と息を吸い込む音がのどから漏れてしまった。
「伊藤っ!」
 先生のほうが、たぶんもっと驚いていた。紙片が床に散乱するのも構わず、椅子に座ったまま慌てふためいて、震える腕と脚でズボンをはき直しながら、かわいそうなぐらい裏返った悲鳴をあげて、わたしを呼び止めた。
「待て、待ってくれ」
 学校でするには、あまりほめられない行為に、先生がふけっていたのは間違いなさそうだ。思い詰めたような目の先生が、白衣を羽織り直して立ち上がる。ごめん、伊藤。まさかおまえが来るなんて。
 声が思うように出てこない。金縛りにあったみたいに身体も言うことを聞かない。
「黙っててくれるって約束してくれるなら、伊藤の言うこと、なんでも聞くから」
 先生の顔が暑そうに、赤らんでいる。でもその理由を考えるだけで恥ずかしい。なんとかその場を切り抜ける方法を考えながら、スカートのポケットのなかの腕時計を握りしめたとき、ちょっといいことを思い付いた。あのぉ、と切り出した声がかすれた。
「それじゃあ、ひとつ、いいですか?」
「ああ、何だ」
 壊れたバンド修理に出したいんだけどたぶんお小遣いじゃ足りないから、と腕を斜めに差し出す。恐る恐る近付いて来た先生が一メートルぐらい離れたところで身体を曲げて、腕時計を覗き込んだ。
「これ高いだろ、しかもかなり」
「値段は判らないけど、おばあちゃんの形見なんです」
「参ったな」
 まだ若い先生の給料では、かわいそうな修理代かもしれない。天井を仰ぎ、左手の見えないそろばんを弾いている先生の顔が、なんだか曇っている。
「あ、いいです、やっぱり」
「待った待った、なんとかする。その代わり」
「その代わり?」
 透明なそろばんとどんな相談をしたのか、ひと呼吸おいて、なにか決心したように話し始めた。
「よりによって伊藤に見られちまったし、思い切って言うけど」
 先生の交換条件は、今の行為を最後まで、離れたところからでいいから、わたしに見ていてほしいというものだった。最初は激しい聞き間違いかと思った。やっぱり高校教師なんて、ろくなもんじゃない。それより教師という立場をわきまえているのだろうか。
「だめだよな、やっぱり忘れてくれ」
 ずっと前に、何も言わずにドアを開けたらアイドルの写真集に顔が隠れた弟が、全裸でベッドに横たわり、こちらに足を突っ張って自分で握り締め、わたしに気づかずに熱中していたのを思い出した。
 そのあとのことは、興味本位で見てみたい気もしなくもない。腕時計の修理代も出してくれそうだし。
「見てるだけで、本当にいいんですよね?」
 のどをゴクリと鳴らして先生がうなずき、準備室の扉を、歯ぎしりみたいな音をさせて閉じた。
 わけのわからない早さで動き出した鼓動を聞かれてしまいそうで、カバンを抱えて心臓を隠す。脚が震えて立っているのがやっとだ。
 すごいことをお願いしたわりには、ズボンを脱ぐのにずいぶんとためらい、やっと脱いだと思ったら、まだすこし大きいままだったのか、斜めになっていた。弟より凶暴なその造型に軽いショックを覚えているわたしを尻目に、先生は椅子に座って、大胆にそのことに没頭し始めた。
 じゅうぶんに大きいと思っていたものが、いつの間にか風船が水でふくらむように、さらに膨張している。椅子にふんぞり返って右手で握りしめ、いやらしい、としか言いようのないゆったりとした速度とひねり具合を、気色悪いと考える一方で、気を許すと凝視してしまいそうになる。
 当の先生はとろんとした目つきで、どこを見るでもなく、ぼんやりと視線を上下させている。わたしがどこを見ているのかは問題にしていないらしい。視界の隅にうごめく先生は、まさに、おなかの下で丹念に石を磨いている職人のように見えた。
「いい、伊藤、伊藤」
「は、はい、なんですか?」
「いや、なんでも、ない」
 椅子からずりおちそうな先生の、手がやけくそみたいなスピードで回転し始めた。赤黒い円柱状の物体を、摩擦熱で膨張させている表情がやたらに無防備で、やや無気味だ。先生は自分が教師であることを、いま、覚えているのだろうか。こんなこと、もしもばれて問題になったら先生はどうなるんだろう。わたしはどうなるんだろう。
 伊藤伊藤という呪文が、ミューズみゅうずみゆず美柚子、というわたしの名前に変わり、なんかイヤだなあと思って壁の地層図に視線をそらした。名前が頻繁に繰り返され、みゅうずう、と救いを求めるようにうめいた次の瞬間、おしりを椅子から浮かびあがらせた先生の石柱から、ソレが勢いよくわたしの方へ飛んできたように見えて、反射的に後ろへ飛び跳ねた。温泉に肩まで浸かって思わずうめいてしまうおばあさんみたいに、動物的な熱っぽい声をもらしている。ソレは床にも先生のおなかのあたりにも、だらしなく飛び散っていたが、さほど気にしているようには見えなかった。
 椅子を半回転させて机の方に向き、ティッシュペーパーを大量に使って後処理をした先生が、ばつが悪そうにあたまをかく。伊藤ごめんなと、わたしを見ないで言い、机の上の地球儀をなでるように回転させた。
「謝らなくても、いいですよ」
「いや、軽率過ぎた」
「でも交換条件だし。学校でするのは、どうかなって思うけど」
 先生はわたしに背を向けたまま、地球儀を回し続けている。キキィと椅子の軸が油を欲しがる音を立てた。ごめんな、いつもそんな目で見ているわけじゃ。
 先生が立ち上がった。ことばに詰まって、床に散らかった書類や写真を拾い集めようとしたら、雲や星の写真に混じって、香織とわたしが並んで写っている写真が落ちていた。
「あ。球技大会の」
「えっ?」
 体育館の舞台の前で、Tシャツの袖を肩までまくり上げてピースしている香織のとなりに、あたまの上にバレーボールを乗せられたわたしがいる。男子並みに背の高い香織に、ボールを乗せても伊藤のほうが小さいと、からかわれたんだった。
「廊下の、はがれてました?」
 先生がわたしの手から、乱暴に写真を奪い取る。
「きゃ」
 そこまでしてあの写真を内緒にしたがるなんて、何かやましい気持ちがあるとしか思えない。きっと、香織の写真が欲しかったんだ。廊下から、こっそり盗んで来たんだ。香織のことが好きなんだ。
「先生その写真、廊下の取って来ちゃったんでしょ」
「いやあの、そういうわけじゃなくて」
 なんとなくちょっと意地悪な気持ちが沸き上がる。自分でもびっくりするようなことばが口から出てくる。
「もしかしてさっき、その写真見ながら?」
 耳まで真っ赤にして先生が口ごもる。恥ずかしそうに、写真をチラ見してわざとらしく裏返した。
「あたし、こっそり戻しておいてあげるよ、香織にも言わないし」
 首をかしげた先生が何秒か考えて、何がおかしいのか、笑いをこらえて裏返しの写真をわたしに差し出す。
「何か勘違いしてるみたいだな、おれはああいう背の高いのは、女としては、どっちかって言うとちょっと苦手だ」
「ええ? 香織、美人じゃん」
「もしかして、気付いてないのか?」
 いつの間にか、目の前が白衣を着た先生の胸で真っ白になるくらい接近して、話をしていた。ほとんど天井を見るように首を上げて、左右に振ると、わたしを見下ろす先生の表情が切なそうに、授業の時と似た凍り方をした。
「せんせ?」
 締め切られた準備室によどむかび臭い空気が、ほんの少しだけ、均衡を崩した。温水と冷たい色水を仕切る水槽の板が慎重に抜き取られて、厳かな対流を始めるように。ふっとわたしの視界の全部は白くまぶしく、さえぎられていた。でもそれはほんの一瞬で、身体が反応する前に準備室の天井や先生の顔や、壁や本棚が視覚に取り戻されていた。
「ごごごめん」
 男の人に、抱きしめられた。瞬間の出来事で、快不快の判断もつかなかった。初潮があってから、お父さんにも抱きしめられたことはなかった。わたしはただ、先生の表情が済まなそうにゆがんだり照れくさそうに引きつったりするのを見上げていた。
「気付いてないって?」
「いや、いいんだ、気付かない方がいいかもしれない」
「そう言われると気になる」
「とにかく」
 急に教師の口調に戻って、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「この瞬間から、教師と生徒だ」
「はぁ」
「さっきは、悪かったな、つい教師だってことを忘れちまった」
 先生がわたしに手のひらを差し出した。
「腕時計」
「あ。そうだ、お願いします」
 壊れたバンドが白衣のポケットへ滑り込んでいった。しばらく会えないね、わたしの腕時計。
「修理が済んだら、伊藤の家に送っておくから」
「え? うちに?」
 家に腕時計が送られてくることに、なぜか肩すかしをくらったような気がした。わたしはまた準備室に来て、先生がするのを見てから返してもらうのだと思い込んでいたのだ。そのことを期待していたはずはないのに、なぜあの行為を見るつもりでいたのだろう。よくわからなくて、目をしばたかせて首をひねる。すっかり教師の顔に戻った先生が、気を付けて帰れよと、みんながするようにわたしのあたまを撫でた。
「ああ! 先生まであたしを子供扱いする」
 ほほをふくらませて先生をにらみ付けた。本気で怒っているわけではないけれど。
「そうやって上目遣いに怒っても、怒ってるようには見えねえよ」
 ちょっとしゃがんで、あたまの上の大きな手のひらの下からずれて、半歩、先生から遠ざかる。
「あの、先生」
「ん? 何だ?」
「低気圧って、どっちまわりでしたっけ?」
「これと反対だ、北半球はな」
 先生が白衣のポケットから、へびつかいのへびみたいにわたしの腕時計をのぞかせた。吹くはずのない風が、わたしの横をすりぬけてとびらの外へ、駆け抜けて行ったような気がした。
低気圧少女    霜月 剣

香港の女
吉備国王

 午前零時の深夜に電話の音が鳴り響いた。一瞬、誰からだろうかと不安が過ぎって受話器を取ったが相手は口を開かず黙っているだけで、此方の呼び掛けにも何の反応示さず、只の悪戯かと思いながら受話器を置いた。
 それから一週間ほどして、会社から持ち帰った書類の整理を深夜していると電話の音が鳴り響いた。また、例の悪戯電話だろうと訝りながら出てみると、相手は、私の気持を探るような息使いを見せて暫く沈黙していた。
 私は、その不安な空白の時間に我慢できず、無言電話の相手に向かって苛立つ感情をぶっつけていた。
「何方か知りませんが、何か言いたいのでしたらはっきり言って下さい!」
 それでも相手は暫らく沈黙していたが、少し間をおいてから若い女らしいすすり泣の声を洩らしはじめた。
それは、聞き覚えのある親しい女の声であった。私の脳裏から忘れ去ることのできないほど愛していた、長山美恵の声に相違いなかった。
「美恵ちゃんじゃない・・・外国に逃げたと聞いているが、正直に話して・・・」
 と、説得を試みたが、電話の相手は何も語ろうとはせず、ただ、泣き続けるだけだった。
もし、美恵が電話をしてきたのなら、まだ、私に対して信頼を持ち続けている証だろうかと思って訊ねた。
「君、今、何処から電話しているの・・・正直に、はっきり話して?」
 私は、美恵を救い出そうと思って積極的に尋ねた。すると、今まで無言だった相手が堰を切ったかのように声を漏らして話し始めた。
「私を助けて下さい。今は死んでしまいたいほどの生き恥を晒していますの?」
 と、声の主である美恵は、必死に救いを求めてきた。
 私は、そんな彼女の態度が暇しく一層可愛相に思えて胸を詰まらせてしまった。
「いま、香港とマカオを転々としながら、見知らぬ男の相手をさせられていますの・・・こんな生活が嫌で自殺を計りましたが、見張り役の男に助けられてどうしょうもなく・・・日本へ帰りたいです?」
 そして、啜り泣く声をしばらく漏らし続けた。私は、救いの声を投げ掛ける間を見計らって優しく声をかけた。
「君が騙されたにしても、私には本当のことを話して欲しかった。一生を左右するほど重要な事なのに、一度も相談してくれなかったので寂しくて悔しい気持ちで一杯だよ!」
「私、室長を巻き込みたくなかったんです。もし話していたらきっと殺されていましたわ!」
 その途端、
「バン、バーン!」
 と、突然、受話器に銃声の音が二度ほど聞こえて、美恵との会話は途中で絶えた。その後は虚しい信号音だけが暫く寂しく響くだけで、美恵の声は遂に聞こえてくることはなかった。
 私の脳裏に不安が過ぎったが、遙かな外国での出来事に、今更どうすることもできず、美恵が無事であることを心に願いながら、この出来事に、どう対処すればよいか苦悩しつつ、美恵を是非とも救出してやりたい情念だけは強く湧き上がっていた。
 私は、受話器を持った手を降ろして、彼女を救い出す手立てを考えはじめていたが、香港に出掛けるしか解決の道は残されていないように思えた。そして、書斎に篭って方策を思考していたが、連夜の仕事の疲れと酒の影響か、午前一時を過ぎた頃には眠気に襲われて何時しか深い眠りに落ちていた。
 空白の時間がどれだけ過ぎ去ったのか判らなかったが、私の意識の中を駆けめぐる想像が具体化しているようであった。それは如何にも真実であるかのようにはつらつとして車を走らせて空港のゲートを潜る頃には、これまでの焦る気持ちが幾分か和らいでいるのが不思議に思えるほど落ちついていた。それでも、飛行機のタラップを踏んで機内に入ると不安が再び再熱したかのように気が動揺し始めていた。
 関西空港発、香港行十二時十五分の全日空機に搭乗して関西空港を飛び立っていた。約三時間ほどのフライトで香港に到着する定期便だが、その機内の座席に座っても、美恵を救出することしか、私の脳裏には何もなかった。
 飛行機は着陸予定時刻に香港上空を旋回しながら、啓徳空港への着陸態勢に入り、九竜市街地を下界に見わたしながら、何故か、旋回を繰り返す機体に不安と焦りを感じていたが、やっと予定時刻を十五分過ぎて無事着陸した。
「ア・テーションプリーズ・・・・」
 と、機内に流れる客室乗務員のアナウンスの指示に従って、乗客が次々と席を立ってドアの前に集まり始めた。
「ドアが開きましても押さないで、足元には十分注意してゆっくり降りて下さい!」
 と、客室乗務員の指示に誘導されてタラップを降りてバスに乗り換えると、入国手続きのゲイトに向かった。その先には制服に身を包んだ税関職員がカウンター越しに通関審査をしていた。
 私は、Aゲイトに並んだ列の最後部に入ると、その後ろから金髪の外人女性が足早に近づいてきた。
「エクスキューズーミー・ア・モウメント」
「メイアィ・ヘルプ・ユウ」
 と、尋ねた。
 金髪の外人女性は小柄ながら親しみ易い笑顔を絶やさず、日本製の高級カメラを手にしていた。
「ナイス・ミティ・ユー、マイ・ネイム・イズ・メアリィ。日本で高価なショッピングをして持ち込み限度額を越えて困っています。このカメラを、貴方の持ち物として通関手続きして下さいませんか?」
「イッテ・イズ・グッド」
「サンキュー・ベリーハピィ・・・お礼に、今晩のホテルのディナーに招待しますわ」
 と、旅の気安さから親しくなり、彼女のホテルでの持てなしを受けることになった。
「私は、オリエンタル・ホテルに予約していますから・・・」
 と、話すと、メアリィは税関へ提出する申告用紙を差し出してサインを求めた。私が署名すると、手にしていた日本製高級カメラを私に預けてきた。
 私が税関審査に入ると、彼女は素知らぬ振りをしながら黙って後に続き、私から離れようとはしなかった。
 入国審査の通関手続きは、パスポートと本人を見比べて身元を確認し、その手荷物の中に不法な物が無いかを調べるもので、香港の税関史の検査は厳しかった。
「観光ですか?何か申告するものはありませんか?」
「観光です。全部身の回り品ですから・・・」
 と、答えた。
 その税関史は鋭い眼つきで、肩に下げた高級カメラに目を止めて見つめた。
「このカメラは、私の使用している品です!」
「高価なものは、それだけですか?」
「イエス・・」
「よろしいでしょう・・・」
 私の様子から旅なれた観光客だろうと判断してか、特に詮索されることもなく無事に解放されてゲイトから出てくると、メアリィも笑顔を覗かせて後から出てきた。そして、私に渡した日本製高級カメラを奪うようにして、革の鞄の中に収めた。それから、メアリィは手振り身振りよく愛想を振りまいて、迎えの車のところまで案内した。
「迎えの車が来ていますから・・・」
 と、私は誘われるままに、彼女の後に続いた。
 メアリィの金髪は美しかったが、外人特有のソバカス肌の顔立ちでは上品とは言えなかった。
「その白い車です!」
 と、目の前の白いワゴン車を指差した。
その車の運転席には、中国人らしい男がハンドルを握って座っていた。
 メアリィが、その男に英語で話し掛けると、それに応えて、男は笑顔を覗かせた。
「ユーァ・ウエルカム。プリーズ・カミン・・・」
 と、メアリィを招いた。
そして、後部トランクを開いて、旅行鞄や手荷物を積み込ませた。
「レッツ・ゴウ・・・」
 と、メアリィの一声で車はスタートした。
 今は、英国統治時代の香港と違ってタクシーもベンツから日本車に代わり、西洋人の姿が極端に減少してやたらと東洋人が目立っていた。
 二人の乗った車は繁華街のネーザンロードを走り抜けて、海岸寄りのサンセットストリートに入り、帆船や中華船で込み合うビクトリア湾を眺めながら走っていた。
「お疲れですか?・・・もうすぐホテルですよ!」
 私が外の景色を黙って見ていると、メアリィが助手席から後ろを振り向いて声をかけた。自動車は香港島の玄関である、スターフェリー乗り場のロータリーを右に曲がった。
「万国旗が掲げられているのがコンチネンタル・ホテルです。その横にある黄色い建物が、貴方の泊まるオリエンタルホテルですよ」
「サンキュー!」
 自動車がホテルの玄関前に着くと、メアリィは、中国人の運転手にドル紙幣を渡すと、男は笑顔を覗かせ、それを素早く受け取ってポケットに押し込んだ。そして、広東語らしき言葉で近寄ったホテルボーイに声を掛けた。
 ホテルのメッセンジャーボーイは、旅行鞄や手荷物をメアリィから受け取ると、ホテル正面のドアから受付けに案内した。
 メアリィが宿泊の手続きを受け付けでしていたが、何故か、やたらと待たされて、余りに遅いのでトラブルに巻き込まれたのではと思っていると、メアリィがこちらにやって来た。
「私が部屋を予約したのに、誰かが、私の名前を騙ってキャンセルしたらしく、今夜は満室で泊まれないので、貴方のホテルに泊めて欲しいのです?」
 と、メアリィに頼まれたが、幸か不幸か、私の泊まるオリエンタルホテルは道路を一つ隔てた隣にあり、それを断る理由も見出せず、それどころか、金髪美人と一夜を一緒に過ごせるチャンスとばかりに喜んで胸を躍らせた。
「ユーアー・ウエルカム、プリーズ!」
「サンキュー、ナイス・ハピィ・・・」
 メアリィの喜ぶ顔を見つめて、オリエンタルホテルのフロントで予約を確認すると、フロント係が予約票をモニター画面で確認しながら尋ねた。
「ご予約はお一人の筈ですが、其方の女性もご一緒に泊まられるのですか?」
 と、傍に立ち竦む、メアリィを指差して尋ねた。
「イエス、二人になりましたのでお願いします!」
 と、変更を申し込むと、メアリィは不安そうに、私から離れず、恋人のように寄り添って、フロント係を見つめ返した。
「ツインルームはありませんが、ダブルルームでも宜しいですか?」
「それにしてください!」
「はい、承知しました。暫らくお待ちください!」
 その間、メアリィは身体を密着させて手続きを見ていたが、私がサインして支払いを済ませると、頬に唇を寄せてキスした。私が少し躊躇すると、ルームボーイの目を気にするでもなく、外人らしく感謝の気持を身体一杯に現して更に抱擁を繰り返した。
 私は、メアリィの攻勢にたじろぎながら、鼻腔をつく香水の香りに性的興奮を呼び覚まされていると、後ろからルームボーイが声を掛けてきた。
「お部屋にご案内しますから・・・」
メアリィは愛撫を中座して、二人の手荷物を提げて見つめるルームボーイを恨めしく見返しながら、その後に続いた。
「此方のお部屋です・・・」
「サンキュー」
「お部屋も素晴らしい。わたし、本当に嬉しい・・・」
「私も知り合えて嬉しいですよ・・・」
 と、素直に話した。
 メアリィは、自分の手荷物を解いてロッカーに納めながら話し掛けた。
「わたし、バスルームで汗を流します。一緒に如何です?」
 私の気持を見抜いたかのように単刀直入に誘ってきた。
「ありがとう、直ぐにいきます!」
 メアリィは、ベッドでドレスを脱ぎ捨て、誰を気にするでもなく着ていた洋服を全て脱いで真ッ裸になり、残っていたショーツを脱いで恥部を晒し、大きく張り出した乳房を揺すった。
「ユーア、プリーズ・・・」
 私の気持を探るかのように悪戯っぽく笑った。盛り上がった身体も見事だが、崩れを知らない乳房とウエストの締まった下腹部に外人特有の魅力が溢れていた。
メアリィは、私の目を誘うようにしてバスルームに駆け込んだ。その後に、メアリィの甘い体臭が私の鼻腔をくすぐり、我慢できず、後を追うようにしてバスルームに駆け込んでいた。
 メアリィは浴槽の縁に腰を乗せて恥部を曝け出していた。私が侵入すると手を伸ばして男の肉棒を握り締めた。
「ベェリーグー・・・」
 と、臀部を露出させて、縦に割れた肉襞に、手にした肉棒を押し込んだ。
「オーイエス・・・ナイスファック、ミィハッピィ・・・ベェリーグー」
 肉棒を出し入れする度に連続的な悦びの声を漏らし、バックで責め立てれば高いハーモニーを奏でた。早く動かすと、ラッパになり、ゆっくり動かすと、フルートの音色を発した。女襞と摩擦して起こす微妙な音色に聞き惚れながら、その行為に夢中になって同じ事を何度も繰り返していた。
 私は感情を高めて夢中になったが、二度の交接を終える頃は疲れ果て、何時しか深い眠りに落ちていた。
 翌日の昼過ぎに目を覚ますと、横に寝ていたはずのメアリィの姿はなく、フロントに連絡を入れると、訪ねてきた中国人の男と一緒に出掛けていったと告げられて唖然としていた。そして、美恵からの伝言が届いていることを聞かされた。
 明日、マカオから高速水中翼船で香港のスターフェリー乗り場に行くので、正午に来て欲しいとのことだった。
 私は、美恵に合う前に持ってきたものを点検しようと、鞄の一番奥に入れていた現金を探しても無かった。メアリィが計って同宿したらしく、一夜のアバンチュールにしては高くついたが、メアリィのサービス精神溢れる行為には十分満足していた。美恵を救出するための資金の一部を失いはしたが、計画を変更するほどではなかった。ホテルのフロントに預けた貴重品のポーチにあるカードとドル札を受け取ろうと下に降りていた。
 私は伝言を守り、翌日の昼前にスターフェリー乗り場で、マカオからの高速水中翼船を待っていたが、予定時刻を過ぎても船は中々現れなかった。そして、その船らしき船影が見え始めたのは、予定時刻を一時間余りも過ぎた頃で、しかも、係留されて船の乗客の全員が降りても、美恵の姿を見ることは遂になかった。
「私の知り合いの日本女性が降りてきませんが?」
 と、船員に尋ねた。すると、言葉を選んで話した。
「乗船の時、日本人の女性が拳銃で撃たれて運ばれました。きっと、その人でしょう?」
 その瞬間、私の額から汗が流れ出て、目の前が真っ暗になり、朦朧として意識を失って足元から崩れた。
 真っ黒な闇の中に吸い込まれていた。どれほど時間がたったのか、娘の春江の呼ぶ声を耳にして目覚めていた。
「お父様、どうしたの・・・魘されて、汗を掻いているんですもの・・・悪い夢でも見ていると思って?」
 私は何事かを見極めることなく、目に飛び込んできた娘の顔を漠然としながら見つめていた。そして、夢を見ていたことに気づいて、幾分かの気まずさを抱きながら娘の春江に声を返した。
「ありがとう・・・」
 美恵を救いたいとの情念が無意識に働いて夢を見てしまった。その三日後の毎朝新聞に、夢で見た出来事が新聞記事として載っていた。
香港の女    吉備国王

(本作品は掲載を終了しました)

長岡怨霊篇
ごんぱち

 降り続く雨が、飯場の筵屋根から染み出す。
「止まぬな」
 造営長官・藤原種継は、窓の外を眺める。
 整地の済んだ平らな土地は、地平まで続くほど広い。いくつかの建物は、その姿が分かるまで建築が進んでいた。
 種継は書物と、簡素な羅針盤を机に置く。
 羅針盤の針は定まらず、フラフラと揺れていた。
「――相変もわらずに、天の気が乱れているな」
 閃光と爆発音のような雷鳴が、辺りに鳴り響いた。
 窓の外に見えていた建物の一つの柱が、縦に割れ、倒れる。
「種継様!」
 入口の筵が乱暴に開けられ、役人が入って来る。
「小畑川の堤が切れました! ここも危険です!」
「……そうか」
 窓の外に見える空は、どす黒い雲が渦巻き、一瞬、怒りに震える人の顔のようにも見えた。

 小畑川に供物が流され、僧侶たちは香を焚き念仏を唱える。
 水鎮の儀式中にも、役夫たちの土手の工事が続く。
 長い長い念仏は終わり、僧侶たちが立ち去った。
 種継は、佐伯奈比等から手渡された羅針盤を持ち、土手に登る。
 乱れ切っていた羅針盤の針は、静まっていた。
「効果、ありそうですな」
 種継の手の羅針盤を、藤原小黒麻呂が横から覗き込む。
「ああ。思った以上に効果が大きいな」
 種継の表情は僅かに和らぐ。
「これならば、難波宮の移築も始められそうだ」
「和気殿の準備が整い次第、ですな」
「ああ」
 土手は、本来寺院の礎石用に用意されていた石が流用され、これまでにないほど堅牢に作られていた。
「さあ、次の雨が来る前に、工事を急ぐとしよう」
 種継は笑う。
「もっとも、もう洪水など起こらぬかも知れないがな」

 数日後。
 種継は牛車から、工事の様子を眺める。
 洪水の片付けも終わり、工事は滞りなく進んでいる。道も整えられ、牛車の揺れも少なく、車軸がずれて止まる回数も減っていた。
「ここは良い。長岡宮へ向かえ」
「はい」
 御者が牛の向きを変え、進んでいく。
 平城京より、尚、美しく大きな都。
(もう、遷都などしなくても良くなるだろう。帝が代わっても遷宮するだけで、百年――いや、千年は保つ)
 種継は知らず、笑みを浮かべていた。
(怨霊も近寄れぬ結界を作り、国は栄える)
 働く民たちの疲れた顔を眺める。
(もう、民を都造りで駆り出す事もなくなる)
「都の在りようが、変わるのだ」
 自身の手を握り締める。
「変えるのだ」
 長岡宮が近付いて来た。
 長岡宮は、かつての宮である難波宮を移築して作られるため、他の建物よりも工事が早い。
 現場には、種継のものと変わらぬほど豪華な牛車が止まっていた。
「おお、和気殿だ。隣へ着けろ。ぴったり隣だ、前にも後ろにも出すのではないぞ」
「分かっております」
 種継の牛車が、摂津大夫・和気清麻呂の牛車の隣に止まる。
「和気殿、しばらく」
『おお、種継殿でしたか』
 牛車の窓越しに、種継と清麻呂は言葉を交わす。
「長岡宮の視察か?」
『工事の途中に、勝手に入ってしまって申し訳ありません』
「ははは、難波宮移築は、清麻呂殿の仕事。何も遠慮する事はない」
『そう言って頂けると、助かります。どうも自分の目で見ないと心配で』
「忙しいでしょうに、感心な事ですな」
『憶病なだけです』
 二人が笑った時。
『あぶないっ!』
 監督に当たっていた役人が叫ぶ。
 釣り上げられていた、木材の綱が切れた。
 柱用の巨大な木材が、転がってくる。
「うわっ!」
『なんと!?』
 勢いのついた木材は、地面に落ちてから跳ね返り、真っ直ぐ清麻呂の牛車へ跳ぶ。
 木材は清麻呂の牛車にぶつかり、衝撃で車軸が折れ、車輪が外れる。
「清麻呂殿!」
 慌てて種継は牛車から飛び出す。
 それから、清麻呂の牛車の御簾をめくる。
 だが、中には誰もいない。
「清麻呂殿!?」
「大丈夫です」
 清麻呂は牛車の外にいた。
「逃げられていたか。良かった」
「ご心配をおかけしました」
 清麻呂は服に付いた土を手で払う。
「早速、責任者を処刑しよう」
 近くの役人に、種継は命令しようとする。
「いやいや、私の車が、少し前に出過ぎていたのです」
「しかし……」
「ただの事故ですよ。それよりも、工事を早く進めた方が良い。人手を減らすなんて、もってのほかです」
「清麻呂殿がそう仰るのなら」
 種継は木材に残る、吊り綱に触れる。
 洪水の後に作った筈の太い綱は、すっかり腐っていて指先でボロボロと崩れた。

 筵をかけられた担架からは、血が滴っていた。
「これで何人目になりますかな」
 窓から様子を伺っていた小黒麻呂は、遠ざかる担架に手を合わせる。
「祟らなければ良いですが」
「庶民が祟るものか」
 種継は設計図面と地図を開いて、算盤を弾いている。
「種継様、何をされているのです?」
「少し気になる事があってな」
 地図には、無数の筋が放射状に描かれていた。始点は、まだ判然としていないようだったが、それが一点に集まりそうな事は、一目で分かる。
「気になること――とは?」
「最初の小黒麻呂殿の報告と、竜脈が変わっておってな」
 算盤を弾きながら、種継は応える。
「……ほう、どう変わりましたかな」
「この前の洪水で狂ってしまったらしい。竜脈が一点に集まりそうなのだ」
「一点に? とすると、気が満ちる事になりましょう」
「そう楽観出来るものでもない。一点に集まるという事は、気が一点、要からしか扱えぬという事。それまでは怨霊を防ぐ結界が成り立たぬ。今までの事故の多さも、そのせいかも知れぬ」
「ならば、工事を急ぐ他はありますまい。完成すれば、この上なく強力な結界となるでしょうし」
「……要が清浄な気で保たれていればな。しかし一度汚れた気に染まれば、周囲の怨霊や魔を吸い寄せる事になりかねない」
 種継は、計算結果を紙に書き付ける。
「危険と表裏一体の街に、人々を住ませるのはいかがなものか」
「……ははは、種継様は心配性ですな」
 小黒麻呂は笑う。
「要が清浄な気に保たれるのは当然でしょう。そうなれば、千年の都となるも夢ではございません」
「危険は分散しておいた方が良い、と思うのだ」
「工事は進んでおります。完成させた方が早うございますぞ」

「長岡京の設計を見直せ、と?」
 御簾の内から、帝の声だけがする。
「はい。工事の最中に起こる災いは、結界の脆弱さの証拠でございます」
 種継は図面を従事に渡す。
 御簾の内に、図面が運ばれる。
「この設計なら、工事の始まった道を大きく変更する事なく、小規模な結界を七ヶ所に分散させられるので、僅かな工期の延長だけで――」
「種継」
「は?」
「災いが起こる起こると申しても、それほど多くの人が死んだ訳でもなかろう?」
「それは、そうですが」
「資材も流されず回収出来たと、清麻呂から聞いている」
「はい……」
「ならば、問題は工事の遅れだけであろう。工事を遅らせぬために、工事を遅らせるというのは、また妙な話ではなかろうかな?」
「しかし、こんな結界では、次に何が起こるか!」
「小黒麻呂から、この前の式で竜脈も回復したとの話を聞いた。まだ暫くは保つのではないか? しかも完成すれば、唯一無二の強力な結界になるのであろう? それで充分ではないか」
 種継は無言で頭を下げた。

「あれ?」
 工事に当たっていた太った男が、道に石畳を敷きながら、首を傾げる。
 道幅の目安にしている尺縄を持ち、腕一杯に伸ばす。
「何やってるんだ?」
 隣で仕事をしていた痩せた男が、振り向く。
「何だ、どうかしたのか?」
「いや、何だか、ちょっと短い気がしてな」
 両腕を尺にして、尺縄を計る。
「前は二開き分あったんだが……」
 残りの縄は、太った男の両腕を開いた長さより、人差し指一本分ほど短い。
「湿気で伸び縮みしたか、さもなきゃ気のせいだろ」
「そうかなぁ?」
「さあ、工事が遅れてるんだ、急ごうぜ」
「……そうだな」

 種継は川の橋の陰で、無数の尺縄を燃やす。
(……尺をごまかして、街をずらす。これが精一杯か)
 羅針盤を地に置く。
 針は静かに気の流れを示し、乱れる事はない。
「何事も……なければ良いが」
 重たい雲のかかった空を見上げる。
(怨霊ならば、やはり)
「弓――」
 声に出しそうになって、口を閉じる。
(弓削禅師、道鏡か)
 清麻呂との政争に破れた怪僧。
(噂では、下野に流されて一年とせぬうちに死んだというが。怨霊となっても不思議はない、か)
「さもなくば」
 再び口を閉じた。

 平城京の南の外れに、墓所がある。
 丁寧に奉られている様子とは対照的に、土は浸食を免れておらず、所々巨大な石が露出している。
 何より異様なのは、埋葬者を示す碑の類が一切ない事だった。
 種継は奈比等独りを供に、牛車から降り、墓の前に立つ。
 種継――中臣鎌足の直系の者達――にだけ、そこに何が埋まっているのか知らされていた。
 大化改新で粛正されたのは、蘇我入鹿一人ではない。逃亡を図った蘇我の血族、家臣、その血族、親族から使用人の家族から牛馬に至るまで、全てが殺され、この墓所に埋められているのだった。
 無数の怨霊が、目に見えるほどに濃く、往生もせずに渦巻いている。
 その怨念の強さ故か、草一本生えず、いくら土を盛り直しても雨に流されていく。藤原家が補修工事を続けなければ、数年を待たずに土は流れ去り、その石室を露出させるに違いなかった。
 種継は酒をふりまき、香を焚き、符を焼き灰をまく。しばらくすると、怨念が僅かながら和らいで来た。
「奈比等、帰るぞ」
 逃げるように墓所から離れた彼らに、墓所の一部の土が掘り返されたような色をしていた事に気づく余裕はなかった。

 街並みは次第にその姿を現し、最も早く移住した者の家の中には、住み古して建て替えや改築が行われるものすら出て来た。
「――これで、何件目か」
 板場で、種継は帳簿に、事故死者の名を書き留める。
「収まっていたと思っておりましたが、また増えて参りましたな」
 小黒麻呂は指を折って数える。
「堤の結界、建築中の事故、疫病、喧嘩による殺人」
「やはり、怨霊の仕業か……」
「良い事もあるではありませんか」
「どんな事だ?」
「穀物倉に、よく出ていた鼠が、ここしばらく現れない事や、建設が何だかんだと言っても完成に近付いてる事等です」
「鼠……か」
 種継は呟く。
「沈む船からは、鼠が逃げると言うが」
 羅針盤を手に取る。
「種継殿、いたずらに怨霊に怯える様子を見せては、下々の者に影響が出ますぞ。言霊もございます、あまり不吉な事は申されますな」
「気になるものは仕方がない」
「それを見せぬのが、殿上人というもの。恐れれば枯れた蔓まで物の怪に見えますぞ」

「枯れた蔓、か」
 月明かりのない深夜、蝋燭一つを明かりに、種継と奈比等は建設中の道を歩く。
「種継様」
 羅針盤を持っていた奈比等が、立ち止まる。
 種継は振り向いて羅針盤を覗き込む。
 針が動かない。何か、強烈な力で押さえ付けられているようだった。
 種継は道に銅鏡を立てて置き、鏡面をゆっくりと回す。
 鏡が長岡宮に向いた時。
 落雷にも似た音が、辺りに鳴り響き、難波宮から移築された門柱が弾けた。
「種継様」
「これほどの邪気に、何故気づかなかったのか!」
 鏡は、真っ二つに割れていた。
 種継は剣を抜く。
 奈比等も、慣れた調子で懐剣を逆手に持つ。
 そして、真っ直ぐ長岡宮へと歩いた。

 破れた門をくぐり、種継と奈比等は長岡宮に入る。
 豪奢な造りは、種継が幾度となく足を運んだ難波宮と似通っていた。
 種継が一歩踏み出した途端。
 礎石という礎石に掘られた文字が、種継の頭一杯に広がって来る。
 文字に押し潰されそうになりながら、種継は剣を一閃した。
 気を断たれ、呪文は消える。
「人払いの、結界ですな」
 先に立つ奈比等の後を、種継は剣を振って周囲の邪気を断ちながら進む。
 長岡宮は、生者の気がなく、息苦しさに満ちている。
 種継と奈比等は割れた銅鏡を腹に縛り、進む。
 息苦しさは次第に強くなり、内裏に近付くと尚強まった。
 内裏の奥の部屋。
 そしてその床の下。
 まだ板の張られていない床は、地面が見えた。
 そこには、一つの大きな石が置かれていた。
 礎石の一つにしては、いびつだった。
 種継は息を止め、石を見つめる。
 石の色に、見覚えがあった。
 毎年、見えては隠した石。
 百年近い月日、怨霊たちが藤原家への怨念を燃やし続けた舞台。
「蘇我の……墓所だ」
 瞬間。
 石から這い出そうとする無数の怨霊がはっきりと見えた。
 大化改新で暗殺された蘇我入鹿、自害した蝦夷を筆頭に、皆殺しにされた一族郎党――だけではない。
 近隣で起こった、ありとあらゆる不幸な死に見舞われた者たちの怨霊が、凝縮されていた。
「なんだ……これは」
 奈比等が呆然と立ちすくむ。
「奈比等、臆するな!」
 種継は剣を構える。
(一点集中する結界は……)
 石からはみ出して来る怨霊たちを、剣で牽制する。
(中央に蘇我の墓石という邪気の塊を置かれ、邪気を吸い付ける装置となった、か)
 見る間に、怨霊が集まっていく。
 怨霊は蘇我入鹿の怨念に統合され、一つの身体を形作り始める。巨大な、鬼か、それとも魔神か。
(倒さなければ)
 種継は剣を握る。
 震えを全身で押さえ込み、隙を伺う。
(長岡京を救わねば!)
 怨霊に隙はない。
 否。
 何も恐れぬ怨霊は、隙を突いたところで避けもしないし、怯みもしない。怯まぬ敵は、完全に破壊しない限り倒せない。
 また一つ、怨霊は新たな怨霊を吸い込んだ。
(どんどん大きくなる……これだけ集まったら、周りの怨霊は一体もいなくなるかも知れな――)
「まさか」
 種継は目を見開く。
「長岡京は、初めから吸魔のための捨て駒!?」
「ご名答」
 種継の背中に、深々と剣が刺さっていた。
「そして、この吸魔陣は、長岡京に最も強い執着を持つ者の怨念によって、完成する」
 いつの間にか現れていた清麻呂は、返り血を布で拭く。
 奈比等も、小黒麻呂に首を取られていた。
「完璧な吸魔陣都市として、長岡京は完成しますよ。周囲の災いも、鬼も、怨霊も――そう、怨霊も、あの毎夜毎夜現れた、おぞましい怨霊も、これで消える。吸い取られて消える! ふは、ははは!」
 清麻呂は笑い狂う。
「いや、もうその名を言っても大丈夫だ。言霊が引き寄せたとて、この吸魔陣に吸い取られるだけだ。来るなら来い、道鏡! 道鏡、弓削道鏡! あははあははっ!」
 ひとしきり笑ってから、清麻呂は種継に微笑みかけた。
「頼みますよ、種継殿。せいぜい、道鏡が迷い出ないように、睨みを利かせて下さい。あなたは長岡京の、最高責任者なのですから」
 清麻呂の言葉を聞きながら、肉体から離れた種継の霊魂は、真っ直ぐに墓石に吸い寄せられ、怨霊たちと混じり合って行った。
「さあ、平安なる千年の都は、次こそ完成するのです。見ていなさい!」

 数年後、和気清麻呂の提案によって、長岡京は廃都となった。
 次に遷都された都・平安京は、一二〇〇年を経た今も、その姿を残している。
長岡怨霊篇    ごんぱち

丑の日
ながしろばんり

 風に乗って妙に花の香がするな、と思ったところでやはり女衒街の通りなのだろう。まだ陽が落ちきらぬ内から嗄れた老婆の声、娘の嬌声などが八方から聞こえてくる。アタシに声をかける人間はいない。金にもならない老いぼれになんかだれが声をかけるものか。踊念仏の雲水を三年やったが水に中って辞め、結句乞食やら玉子売りだのをしているうちに年を食ってしまった。馬鹿にしやがって。
 それでも後から声を掛けてくる間抜けな牛太郎もいたもんだ。まあしかたねえか。アタシは幾分か背筋がしゃんとしてるもんだから。
「兄さん、いい妓がいるんだよ。一度上ったら忘れられない様な妓ばっかりだよ。ねえ、上がってやんなよ」
 こっちがわざと何も言わずに歩いていくと、奴さんの方が前の方に廻って引き止めようとする。そして、例に漏れず不機嫌になる。
「なんでえ、盲か」
 舌打ち、便乗して真っ黒い唾の一つも吐いているかもしれない。気配が去っていく。こちとら関係のない話だ。だれもおめえらなんかに用はねえよ。といいつつも、今更ながら按摩の一つでも覚えておけば良かったな、と思う。そうすれば笛が吹ける。ぴいぃ、どこからか御呼びが掛かる。家のばあさんが腰を抜かしちゃってねぇ、一つ頼むよ。へいへい、ようがす……いけねえや、何考えてんだい。アタシゃ急いでんだよ。新宿原町の旦那に御呼びを頂いてるんだい。昨今稀に見るいい旦那、こんなしがねえめくら爺にも、情けをかける、いい旦那。玉子を買っていただく代わりに話の種を分けてやる。
 色街をぬけて上水を渡ると醤油を焦がしたようないい匂いがして来る。煎餅屋じゃない。煎餅だったらこれほど胸が高鳴るものかい。なんとも油ののった心踊る匂いぢゃないか。鰻だよ。たまらない、なんといっても鰻。春夏秋冬通しても鰻。二、三〇年前に清の国を潰しちまったえげれす産の上物阿片も粋なもんだが、鰻のあの匂いにはかなわない。とりわけこれから御相伴にあずかれるのがわかっていると、厭が応にも口の中が潤ってくる。あの飴色のタレ、端のカリカリ、粉山椒のよく合うこと。現金なもので、今までの心鬱がにわかにそっぽを向く。力が身体のなかに湧いてくる。足取りも軽くなる。暮六つ前の夕間暮れの湿った風も身体にいい気分になってくる。春とは名ばかりの、もう梅雨に入る時候、お天道様なぞギリギリと渦を巻いて、じりじりと背の毛を灼くようで、夏の日もかくやという有様、この陽気じゃ一雨来るわな。古傷の左足首が少々痛むが、まあ仕方あんめぇ。
 鰻の匂いがもうもうとしてやがる。そういえば俺は今日は何も口にしていない。昨日もそうだったかな。昨日は……そうだ、建前の、地主の振る舞いだ。あれから何も食べていない。
「ごめんよ」   
 おっと、敷居につまずいちまったい。妙に高い敷居だねこりゃ。
「そこな爺さん、植え込みに向かって何をおしだい。」
 妙に気合いの入った婆ぁサンの声だね。婆ぁさんに爺さんたぁ呼ばれたくない。
「イヤすみません、こツらさんに呼ばれているもので。新宿原町の谷村伊豆守様……いけねえや。もう江戸は終わったんだ。谷村惣兵衛様はいらっしゃいますかね」 
「いえいえ、お武家様はいらしてませんよ」
 妙にツンケンしてやがる。風の都合かなんなのか、たれの濃い匂いが、女の肌に顔を埋めたようで息が詰まる。
「ええ、もしもし」
 男の声だ。
「もしや、前田喜六様でいらっしゃいますか。」
「前田……おう、この前御上から頂戴した姓だ。喜六たあ俺のことだ。いかにもそうだけれども、なにかあるのかい」
「先程はうちの家内が飛んだ御無礼をいたしました。先程谷村様から、お客さんがお越しになりしだい待たせてもらってくれという言伝を承ってございます。ささ、どうぞこちらへ」
 谷村様、湯屋にでも寄ってからいらっしゃるのだろうか。いつものこと、飄々としているようでしっかり周りの人間のことを見ていてくださる。ヨヨと泪が、出ない。安物の芝居じゃねえんだし、この辺で見せ場を作らなくていいわいな。
 アタシの眼が見えないということも話しておいてあったのだろう。ここの主人であろうオヤジ自らがアタシの手を引いて土間から畳へ通してくれる。喧騒からして人の入りは十人強、十人強でこの響き具合、店がそれほど広いわけではなさそうだが。たいした熱気で汗ばんでくる。
 座っているだけの時間ができる。少々暇になる。なので耳の穴を開いてみる。要するに澄ましてみるんや。すると周りの話す声が幻燈みたいによく聞こえてくる。聞き耳をたてるなぁあんまりいい趣味ぢゃあないが、なにぶん、暇なもんで。後ろに座っている野郎の二人連れは、どっかのぼんぼんと幇間に違いない。ぼんぼんの方が間抜けな声を出しやがって昨日の穴っ入りの自慢なんかしてやがる。
「それでな、その梅ヶ瀬ってえ妓が、辰ン刻まで離してくれないんだわな」
「流石ぁ若旦那。憎いねぇ。悪い人だねえ。いよッ、光中将の再来ッ、女泣かせの色男ッ」
 あのぼんぼんは馬鹿か。どうせ一晩中、花魁の一人も来ずに淋しく手酌で飲んでたに決まってらぁ。それにしてもあの幇間の気色の悪いダミ声はなんだい。ろくなもんじゃないよ……耳と鼻だけになっちまうと人となりなんて声だけで分かっちまうもんさね。あァ胸糞の悪い、あのぼんぼん、まだくっ喋ってやがる。
「今日は一八、おめえを幇間の中の幇間と見込んでお願いがある。実は……

 もの凄い雨の音で急に話し声が掻き消されてしまう。夕立が降ってきたようだ。がらっぴしゃん、まだ俺の目は死んでいないようだ。稲妻が奔るのが目の奥でなんとなくわかる。雨音は耳の底から染み渡って、俺の禿頭を荒く揺さぶって話さない。後ろでボンボンの悲鳴、まるで死んだ馬が反魂したような呻き声も弾幕の奥で、幽かに。一閃、目の明くような光が通って、だすううう、と槌の割れるような。
 吹きこんでくる温い風は鼻の周りの空気を取り払って、俺は思わず深く息をする。そういえばこの辺は地面の低いところだから、このままじゃ堀の水が溢れて来ちまうんじゃないかね。厭だね。それでも、土埃が泥になっていく、この雨の匂いは嫌いじゃない。しばらく耳と鼻を使ってぼうっとしていると、アタシの横を通る女中かなにかの運ぶ蒲焼きの皿が、これまたふくよかな匂いで通りすぎる。
 柱を打つ水音。軒の細かな軋みを聞くたびに、俺には屋守の齷齪が見える気がする。
「えぇ、済みませぬ旦那さま」
 肩をはっきりとつつかれる。「旦那さま」だってよ。さっきの婆ぁサン、今度はちゃんと客扱いしてくれるらしい。
「谷村様からの言伝てなのでございますが」
「おう」
「谷村さまは湯屋においでだそうで」
 そらみろ。
「雨が上がったら行くので先に食べていてくれ、という伝言をこの雨の中湯屋の丁稚が伝えてきまして……」
 あの人らしいやな。分かったと伝える。雨はどうなんだ、と問うても「えらい降りようで」とモゴモゴ云って向こうにいってしまった。馬鹿にしやがって。

 店の主人が自ら鰻を持ってやってきた。だいたい、お盆のなかは平皿に蒲焼きを乗せたのに丼飯、香の物に玄米茶の一つもついて一膳。頼めば酒もついてくる。味噌汁やら吸物やらまでついてくるのはよほど奇特な店か大店かである。
 恐る恐る盆の上を探ってみる。……差し出した右手首の辺りにふわりとした湯気があたる。ちゃんと汁物がついてきている。思わずへえ、と息が洩れる。思わず褒めてやろうと思ったのに。ちぇっ、主人はもういなくなったらしい。
 お茶を一口。つっ、思わず指先を擦る。指先をいためるような茶なんか出すもんじゃないよ。湯呑が握れなくてとりこぼしそうになったぢゃないか。馬鹿にしやがって。ゆら、とあがった茶の湯気で、鼻の下が汗をかいたようになる。玄米茶、鼻先で香を掠めおり。それにしてもたいしたもんだ。谷村様には名前だけ聞いてこの店にようようやってきたが、実はかなり名の知れた店なんじゃねえのか。
 どですかでん、とてつもない雷の音。これは落ちたときの音だよ。時折眼の奥で少々は気になっていたが、稻光と音のずれから凡そここから四半里の間と見える。ここまで大きな音だと恐ろしいもんだ。雨足もどんどん強くなってきやがるし。周りの人の声なんか雨の音で全然聞こえやしない。鼻からもどんどん雨の匂いが流れこんできて鰻がどんどん冷えていくような気がしてならねぇ。折角の鰻ぢゃねえか。早く食べちまおう。へい、いただきやす。

 ……悲鳴かね?雨中一閃、吃驚したよ。金を切るような音だったけれども、何だか周りの椅子もガラガラいってやがって、喧嘩かね。ありゃきっと女将さんが止めてるんだよ。しょうがないねえ。この雨ン中、おんもに叩きだされっちまうってのも情けない話だよ。こっちにとばっちりが来なきゃいいけど。
 ありゃ。誰か来たよ、アタシの隣に。土間から一段あげた畳敷なんだからどこに座ってもらったって別にかまわねえけれども、喧嘩もあったらしいし……あ、そうか。とばっちりを受けて逃げてきたんだね。嗚呼、剣呑剣呑……。
 うまい鰻だよこれは。うん。これはどこの鰻だろうね。中川かね。百本杭かね。主人。主人ヨォッ、おい。なかなか来ないね。これじゃお茶のおかわりもできないぢゃないか。なんやかや、こつらに向かって叫んでいるようだけれども、だめだね。雨の音で聞こえないんだか、それとも仲裁で忙しいんだか誰も来やしないよ。あんまり喧嘩も長引くと、警邏の連中が来ちまうぞ。
 耳の傍、雨の川、どうどうと坩堝の滾るようで、一人ポツンと取り残された按配、探り探り鰻を口に運ぶも、ふと、この肉片の温みがふと消えたときのことを考える。舌先に触り、糸切り歯に当たった太い骨を摘み上げて、鰻の骨ってこんなに立派だったかと思う。鼓膜のざらざらした感じを受けていよいよ寂しく、致し方ねえ。隣の奴にでも尋ねてみようかい。
「もし旦那、失礼しやす」
「    」 
「アッシはあいにくの不視でやんして。その、なんかあったんですかい」
「    」 
 先方が何も言わないのが気になるが、えらい眼力を肌に感じる。もしかして忍じゃないだろうねえ、盲に忍ぢゃあお話にもならない。
「もし、申し訳ございやせんが、その……湯ゥのお代わりでもいただけるように、お願いしていただけやせんでしょうか」
 おっ、奴さん立ち上がったぞ。何とも言わなかったのは聞こえなかっただけに違いなく、立ちあがるのに膝から降りてトン、膝をさばいてコツン、こりゃあ小笠原流でずいぶんと……女性かね。女性にしてはずいぶんと大柄な気がする。
 それにしても、よく降る雨だ。また、悲鳴が上がってるよ。いいかげんに止めときゃいいのに。足音がこっちに向かってくる。カツコツコツコツ、この雨の中で不思議とよく聞こえてるけれども、この足音の硬さは……ははぁ、もしかすると西洋靴だろうか。となると……毛唐か。隣の奴は。
「    」
「へえ、おありがとうござい。さ、せんきゅうっ」
「    」
 通じねえか。それもそうだわな。
「うへっ。」
 湯呑みを持って驚く。
 ……さっきとはうってかわってずいぶん冷てえ。氷室で冷やしておいたみたいぢゃねえか。雨水でも入ったんじゃないだろうね。いくらこの店が大店だったとしても、ここまで冷えたお茶はでねえだろう。氷代だけでおあしが出ちまう……それとも、もしかしてこの店が実は本当に大店中の大店だったとしたら……谷村様、どうしちまったんだろう。却って気味が悪いや。隣りの奴は座ったっきり身じろぎもしない。ざんざ振りの中一人、神経を尖らせれば尖らせるほど、己の心音だけがトントンと響いて、闇。
「よかったら、この鰻、食べるかい。」
 なんでそんなことを云ってのかはわからない。ただ、口から出た。
 するする伸びて来た手が、皿にあたって、かつっ、と乾いた音を立てる。木箸の温みも無い、丸く冷たい音だ。

 おかしいな。

 耳を澄ましてみても、人の気がしないのだ。
「よう、旦那。」
 ……通じねえか。日本語は。
「     」(セッショウウナギニアリツイテナントキョウハヨキヒゾヤ)
 なにか言ってやがるのか。
「     」(クウネスノムダスアリガタヤアリガタヤ)
 ・・・・・・訳がわからねえ。
「     」(ヨノナカハクッテハコシテアトハシヌルバカリゾ)
 さっきっから歯ばっかカチカチ鳴らしやがって。
「     」(ヨハナンメンノラクヲエオリ)
「いい加減にしろい」
「        」(サンゼンセカイノカラスヲコロシヌシトマッポウネテイタイ)
「いいかげんに……気味が悪リィ」
 む、向こうは耳が、否、そんなことはねえ。現にさっきお茶を頼んだら持ってきてくれたじゃねえか。それだからなんだってんだ。奴さんはなにか、人外、気違い、魑魅魍魎、もう、勘弁、歯の根、合わ、ねぇ。
「       」(カタコトノコヘデス)
 わ、笑ってるんじゃねえよッ!
 ひや、と冷たいものが首筋に当たる。外の雨風に打たれたのであろうそれはじっとりと生臭く、振り払う暇もあればこそ、二の腕にぴたりとついて離れない。刹那強張ったようになって、背中に押し当てられたいくつもの硬い横刃に厭な予感がじわり、バールのようなもの、いやさ、違いなく肋骨の縞、背筋の震えあがるのにもう片腕も捕られて、腰が凝ったように動かない。あぐらからひゃん、と飛びあがると板張りにすっくと立ち、二十数年間上がらなかった左腕が楽々高々、両手を上に上げて背伸びの運動、と思いきや屈伸から金魚の動き、骨のみしみしいうのも構わずに口がぱかりと開いた。

 かんかんのう
 きゅうのれんす
 さわきです
 さんしょならえ
 さあいほおい

 泣き笑い、死体にかんかんのうを踊らされて、奴さん、藤娘、黒田武士、終えて汗だくだがそれでも背中の骨は停まりゃがらねえ。いやだね、行く先も分からないでひょっくらひょっくら、踊念仏の古傷が疼いてかなわねぇ、馬鹿にし、や、がって、あぁ、鰻だろ、いま、踏ンづけたのッ!
 事は一変運ぶは一瞬、ダダと駆けあがる音のして刹那、おそらく戸口のほうだろう、土間の向こうのほうからさっと風の入りける、「喜六ゥ」の声あって振り向、こうとするが骨ががっちり首筋に食い込んで動かない。
「だ、旦那ですかい?」
「おうよ、今助けてやる。走屍にゃあ、箒だあ」
「かたじけない、待ちかねたァ」
「去ねぇっ!」
 一喝。ばさ、ばさぁ、と背中を細竹で強か打たれて前のめり。骨の邪気、ついと抜け出る感じがする。
「悪魔退散!」
 覇気一閃、箒の柄だろう背中の上を通り、ポリンと《もの》の割れる音がして、見えないはずの俺の目に角大師の滑稽な面がふと浮かんで、消えた。

 驟雨の去って白々と眼を照らす。どこから迷い出たのか骨が一つ、鰻屋にあがった話である。
丑の日    ながしろばんり

『精霊殺し』
橘内 潤

 千の精霊を従え、無敵の魔術を為すその男は、みずからを精霊王と名乗った。精霊王の呼び出した精霊軍は国軍をただ一戦で壊滅させ、揮われた魔術は一日にして王城を攻め滅ぼした。
 精霊王は服従したものたちに魔術を授けて配下とし、またたくまに各地の領主や反抗勢力を平らげて国家を掌中に収めてしまう。精霊王に忠誠を誓ったものは魔術の力を与えられて各地の領主として登用され、傅くことを拒んだものは容赦なく殺された。
 魔術師による恐怖政治――それが精霊王の治世だった。
 魔術の力を笠に着て暴政のかぎりをつくす領主。今日も今日とて、官吏の機嫌を損ねた領民が往来の只中で鞭打ちに処されていた。官吏たちは魔法を使えないが、その後ろには魔法使いの領主がいる。歯向かえば容赦なく殺される。ある者は水をかけても砂をかけても消えない炎で焼かれ、またある者は鼻と口に張りついた水で地上にいながら溺死させられる――いまではもう、逆らうものはいない。人民はただ、理不尽な責苦がみずからに降りかからないことを祈るばかりだった。
 精霊王の治世がはじまって一年、物語は動きだす。

 王都から遠く離れた、人間の侵入をかたくなに拒むシグムント山脈にもっとも近い領地――この土地でもまた、魔術師の暴威が領民を支配していた。
 領主の雇ったならず者の兵士たちを養うために重税を課され、逆らえば容赦なく殺される。街を我が物顔で闊歩する兵士に目をつけられようものなら、ただ泣き寝入りするしかなかった。

 領主ジムゾンの館。およそ不必要な規模の居城は、ただジムゾンの権威を誇示するためだけに建てられたものだ。建設のために狩りだされた領民たちにはなんの恩賞も減税もなく、その季節の税を納めるために娘を人買いに売った者もおおい。そうできた者たちはまだ幸運で、幼子の首を絞めて一家心中した者たちも少なからずいた。
 人血を啜って建てられた館は今日も、ジムゾンの私兵に守られていた。といっても、ジムゾンの館に正面きって乗り込もうというほど無謀な領民はいない。館を守る私兵などいなくとも大差ないのだが、これもやはりジムゾンの虚栄心を満たすためだけに養われている悪漢どだ。彼らのすることといえば、形ばかりの門番と、気晴らしに街中を歩きまわって無銭飲食や暴行をくりかえすことくらいだった。
 しかし、この日は違った。館の門柱に寄りかかって大あくびする門番ふたりの前に、人影が立ち止まったのだった。
「おい、おまえ。なんの用だ? 用がないんなら、さっさと消えろ」
 門番のひとりが恫喝する。が、人影はまったく無視して突っ立ったままだ。フードつきのマントにすっぽりと身を包んだ人影は男ふたりよりも小柄で、背中に革の入れ物に包まれた長い板のようなものを担いでいた。門番たちにその板が剣だと想像できたのは、人影の背中越しにあきらかに両手剣のそれとわかる柄が見えていたからだ。
 しかし、自分たちよりも体格の劣る者がそのような巨大な剣を扱えるはずがない――と考えるのは当然のことだったろう。事実、人影の腰には小剣の鞘が吊られていた。
「……用ならある」
 押し殺したように小さな声だったが、それは若い女の声だった。ふたりの男は下卑た笑いを浮かべる。
「どんな用だ、女。ことと次第によっちゃ、俺たちが領主さまに取り次いでやらんこともないぞ」
「必要ない」
 人影――外套の女は一言吐き捨てると、無造作な歩みで門の奥へ進もうとする。
「あ……おい、女!」
 門番が咄嗟に手を伸ばして外套に包まれた肩を掴もうとして――違和感に気がつく。一拍遅れて、白熱した衝撃が腹から頭のさきへと奔った。女の手に握られた小剣が、男の内臓を貫いていた。はっきりとわかる致命傷だった。
 刺された門番は、叫び声をあげようとした顔のままで絶命し、引き抜かれた剣を追うようにして倒れ伏す。そこでようやく状況を飲み込むことができたもうひとりの門番が剣を抜いた。
「女、きさま! おれらに歯向かうってことがどういう意味か、わかってるんだろうな!?」
「………」
 外套の女は答えなかった。答えるかわりに、風に吹かれる枯葉のような踏み込みで間合いを埋める――その流れのままに突き出された剣先が、剣を構えたまま一歩も動けなかった門番の喉許を刺し貫いていた。
 ひゅうひゅう、と声にならない声と血塊を吐いて男は倒れる。
 外套の女は血塗れた剣を男たちの衣服で拭ってまた鞘へと戻し、一度も息を乱さぬまま館に踏み入った。

 領主ザムゾンが治めるのは辺境の領地だ。
 王都からもっとも遠い土地であり、その国境には未踏のシグムント山脈がまたがっている。外交上の重要性は低い、まさに辺境の地だったが、それは裏を返せば、王都の支配が薄いということ――領主ザムゾンが意のままに支配できる領地ということだった。
 その支配の象徴ともいえる豪奢な館でいま、人間の姿をした暴風が荒れ狂っていた。
 背に大剣を担いだマント姿の侵入者が、小剣を縦横に振るって行く手を阻む兵士たちを斬り捨てていく。廊下や戸口の狭い空間を上手くつかって囲まれないように立ちまわり、剣先を相手の喉許や手首に引っ掛けるような最小の動きで戦闘不能にしていく。女剣士の顔を隠していたフードはすでに脱げていて、短く切り詰められた老婆のような白髪と、戦いへの昂揚もなにも感じさせない漆黒の瞳を晒している。整った顔立ちは、だが、見るものに畏怖しか与えない――彼女と目が合った住みこみの召使いが「ひぃ!」と悲鳴をあげて気絶した。
 女剣士は襲いかかる兵士たちを淡々と斬り伏せて、領主を探す。常日頃から弱者を虐げてきてばかりだった兵士たちは、束になってかかっても女剣士と対等にやり合うことすらできなかった。仲間を数名殺されると、風に吹かれた麦が倒れるように道を左右に開ける。
 どうせおれたちが戦わなくとも平気だ――兵士たちが、睨みをきかせて駆けていく女剣士をあっさり見送ったのも、そう思えばこそだった。
 女剣士が階段を上って広間にでると、兵士とも召使いとも違った服装の男が待っていた。
 金糸銀糸を織り込んだ豪華なローブを身につけた小太りの男だ。血色のいい丸々した体型は、この男が淫蕩な日々を過ごしてきたのだろうことを雄弁に語っている。
「ほう……凄腕の侵入者だというからどんな巨漢かとおもえば、女性だったとはな」
 男はお世辞にも上品とは言えない視線で女剣士を値踏みする。
 女剣士は、男の視線を一顧だにもしなかった。
「おまえが領主だな」
 男の手には、先端に魔玉を嵌めこんだ杖が携えられている。それは、この男が魔術師――すなわちこの館の主であることを示していた。
 ザムゾンは器用に片方の眉だけを持ちあげる。
「いかにも、わたしがこの地の領主ザムゾンだ。女、死ぬ前におまえの名も聞いておいてやろう」
「エーリカ……おまえを殺しにきた――!」
 小剣を握りなおして間合いを詰める女剣士エーリカ。それに応じて杖を振り上げ、空中に複雑な印形を描くザムゾン。彼我の距離が剣の間合いまで詰まる前にザムゾンの魔術が完成し、全身に真紅の炎をまとった荷車ほどの巨大な蜥蜴――召喚された火の精霊サラマンダーが顕現した。
 エーリカの突いた小剣は火蜥蜴の燃える皮膚に弾かれる。体勢のくずれたところを狙って吐きだされた炎の息吹は、どうにか横っ飛びにかわした――だが完全には避けきれず、火の粉が乗り移ったマントを脱ぎ捨てる。それと同時に両手を背中にまわし、右手で背負っていた大剣の柄を握り、左手で鞘の留金を外す。
 かちん、と音を立てて鞘の片側が開いて絨毯に落ちる――剣が規格外に大きすぎるため、こうしなければ鞘から抜けないのだ。
「みっともない悪あがきはやめろ――どんな剣だろうと精霊を斬れないことぐらい、知っているだろう?」
 嘲笑うザムゾンの言葉どおり、いわば思念の投影体である精霊を物理的手段で傷つけることはできない。精霊を倒せるのは魔術師の技だけであり、すべての魔術師は精霊王の配下である――だからこそ、魔術師は叛乱を恐れずに暴政を布けるのだ。
 エーリカは鞘の落ちた大剣を両手で握りなおし、前転するかのような勢いで前方に振りぬく。勢いあまった剣先が絨毯を切り裂いて床にめり込む。
「は――! なんだ、その剣は。大方こけ脅しだろうが、まともに扱えないようでは話にならんではないか」
 声高に笑うザムゾンには一瞥すらくれず、エーリカは火精霊に狙いをさだめる。サラマンダーもまた、二又にわかれた炎の舌をちらつかせてエーリカに飛びかかる間合いを計っている。
 エーリカは大剣の切っ先を低く構え、膝をたわめていつでも斬りかかれる体勢をとる。エーリカにとって重過ぎる大剣は、“突く”や“斬り上げる”のように筋力のみをつかう扱い方ができない。その重量を活かして、上から下へと“振り下ろす”か、横に“薙ぐ”かの二通りしか攻め手がない。
 サラマンダーは蜥蜴の姿をしてはいても、その本質は精霊――人間とは異質ながら、高次の知能をもった存在だ。標的の構える大剣が二通りの軌跡しか描かないことを悟ったのだろう、大きく裂けた口から炎の舌をのばして嘲笑う。いや、そもそも物理的手段では傷つかないのだから、みずからに剣を向ける行為自体を嘲笑ったのかもしれない。
「――は!」
 すり足でじりじりと間合いを詰めたエーリカは、鋭い呼気を吐いて床を蹴り、最後の距離を駆ける。それに呼応してサラマンダーが深く息を吸い込む――エーリカの斬撃を無視して、跳びこんできたところに炎の息吹を浴びせるつもりなのだろう。
 エーリカは構わず踏み込む。床を蹴った反動で腰をひねり、肩をぐるんと振りぬく。走ることで得た慣性を遠心力に転じさせ、大剣を左から右へ一気に振りぬく。唸りをあげて空を切り裂く刃が、いままさに必殺の火炎を吹かんとするサラマンダーの頭部を襲い――真一文字に断ち割った。
「な――!」
 驚愕に目を見開くザムゾンの前で、サラマンダーは断末魔すら残すことなく消滅する。
「な……なんだ、おまえは――その剣はなんだ!?」
 無敵の存在であるはずの精霊を倒されてうろたえるザムゾンに、エーリカはただ一言、答えた。
「精霊殺し」
「……精霊殺しだと? そんな――そんな馬鹿なものがあって堪るかあ!!」
 ザムゾンが杖を振り上げると、生みだされた巨大な火炎弾がエーリカを襲う。だが大剣のひと薙ぎで火弾は二つに割られ、「ぽしゅっ」と空気を抜かれたような音をたてて消滅する。
「――っ」
 しかしエーリカもまた体勢を崩していた。大剣を一度振りぬくいただけで、転んでしまわないようにバランスをとるのが精一杯だった。大剣が重すぎるのだ。
 ザムゾンの顔にふたたび勝ち誇った嘲笑が浮かぶ。
「ふ、ふっははは――なにが精霊殺しだ。女、その剣がどのようなものか知らんが、まともに扱えんようであれば棒切れ以下だ。さっさと焼け死ねい!」
 ザムゾンが杖を振るうと、今度は真紅の矢が無数に生まれて、エーリカ目掛けて空中に幾筋もの軌跡を刻む――火矢ひとつひとつの殺傷力は火弾に劣るだろうが、これだけの数を一振りで薙ぎ払うことはできない。剣を振るえば、先ほどのように体勢を崩した瞬間、残りの火矢に焼かれるだろう。すぐには死ななくとも、おなじ攻撃を受けつづければどうなるかは明白だった。
 大剣を構えたまま、エーリカは動かない。ザムゾンが勝利を確信したそのとき、
「死にたくなければ散れえ!!」
 エーリカの怒号が館を震わせた。
 火矢は、エーリカに当たる寸前でみずから消えた――すべての火矢が、消滅した。一度でも殺される恐怖を覚えた精霊たちはもう、ザムゾンの命に従おうとしなかった。
 精霊の力が遠のいたことは、ザムゾンにもすぐにわかった。いま、形容しえない恐怖が、ザムゾンの足から頭までを満たしていた。
「ひ――ぃ……なんだ、なんなんだ、おまえは? 止めろ、来るな……来るなああ」
 精霊王に忠誠を誓って以来はじめて覚えた恐怖に、腰が抜けた。大剣をひきずって近づいてくるエーリカから、両手と尻で床を這いずって必死に逃げようとする。ザムゾンはこの時ほど己の贅肉を憎悪したことはなかった。
 エーリカはわざと緩い歩調で近づき、ザムゾンの顔が恐怖でひきつるのを楽しんでいた。ザムゾンが恐怖に色を失くすほどに、エーリカの顔はこれ以上ないほどの愉悦一色に染められていく。
「た、頼む、殺さないでくれ……そ、そうだ。金だろ、金が欲しんだろ? 幾らでもくれてやるから、な?」
 無理やりひきつった笑いを浮かべるザムゾンに、エーリカも微笑みをかえす。その顔はまるで、蟻の巣に水を流しこんで遊ぶ子供のような微笑みだった。
 エーリカは大剣を無造作に持ち上げて――落とした。それでザムゾンの右膝が割れた。
「ぎゃ――あ、ああ、あああぁぁああ!!」
 ザムゾンの絶叫に、エーリカの笑みはいっそう深まる。
 極上の音楽に鼻歌で応えるかのような気軽さで、大剣を持ち上げては落とす。子供のように泣きじゃくるザムゾンの両膝、両肘を叩き潰し、剣の平で即頭部を殴打する。肩や太腿に刃を食い込ませて鮮血をあふれさせ、四肢をざっくざっくと切り刻む――。
「あは、あははっ――あっはははっ」
 そして狂喜した。エーリカは大口を開けて、腹の底から哄笑した。
「……」
 ザムゾンはすでに泣くことすら忘れている。頭部への打撃と過度の激痛、そして流れすぎた血が、ザムゾンの精神をとうに打ち砕いていた。そこにいるのは、放っておいても遅からず絶命するだろう、血塗れの脱け殻だった。
 遊び飽きたエーリカの一振りが、脱け殻の頭蓋を砕いた。

 魔術師の支配する時代にあって唯一それを脅かす者、精霊殺しの女剣士。
 精霊を狩り、魔術師を殺すことでしか感情を表現できない女、エーリカ――いま、その姿をはるか遠くから見つめる視線があった。いや、その視線はエーリカではなく、彼女が携える大剣を捉えていた。
 ザムゾンの領地から遠く離れた王都――かつては常花の都と美称された街並みは未だ再建の最中にあるなかで、王都の中央にそびえ立って都下を睥睨している王城だけが真新しい。
 その王城に居ながらにして精霊殺しを見つめていた男は、本当に懐かしそうな目をして呟いた。
「精霊殺しか――久しいな」
 かつては大逆の徒にして、いまは玉座の主である男――精霊王と精霊殺しが再会を果たすのは、まだ先のことである。