風に乗って妙に花の香がするな、と思ったところでやはり女衒街の通りなのだろう。まだ陽が落ちきらぬ内から嗄れた老婆の声、娘の嬌声などが八方から聞こえてくる。アタシに声をかける人間はいない。金にもならない老いぼれになんかだれが声をかけるものか。踊念仏の雲水を三年やったが水に中って辞め、結句乞食やら玉子売りだのをしているうちに年を食ってしまった。馬鹿にしやがって。
それでも後から声を掛けてくる間抜けな牛太郎もいたもんだ。まあしかたねえか。アタシは幾分か背筋がしゃんとしてるもんだから。
「兄さん、いい妓がいるんだよ。一度上ったら忘れられない様な妓ばっかりだよ。ねえ、上がってやんなよ」
こっちがわざと何も言わずに歩いていくと、奴さんの方が前の方に廻って引き止めようとする。そして、例に漏れず不機嫌になる。
「なんでえ、盲か」
舌打ち、便乗して真っ黒い唾の一つも吐いているかもしれない。気配が去っていく。こちとら関係のない話だ。だれもおめえらなんかに用はねえよ。といいつつも、今更ながら按摩の一つでも覚えておけば良かったな、と思う。そうすれば笛が吹ける。ぴいぃ、どこからか御呼びが掛かる。家のばあさんが腰を抜かしちゃってねぇ、一つ頼むよ。へいへい、ようがす……いけねえや、何考えてんだい。アタシゃ急いでんだよ。新宿原町の旦那に御呼びを頂いてるんだい。昨今稀に見るいい旦那、こんなしがねえめくら爺にも、情けをかける、いい旦那。玉子を買っていただく代わりに話の種を分けてやる。
色街をぬけて上水を渡ると醤油を焦がしたようないい匂いがして来る。煎餅屋じゃない。煎餅だったらこれほど胸が高鳴るものかい。なんとも油ののった心踊る匂いぢゃないか。鰻だよ。たまらない、なんといっても鰻。春夏秋冬通しても鰻。二、三〇年前に清の国を潰しちまったえげれす産の上物阿片も粋なもんだが、鰻のあの匂いにはかなわない。とりわけこれから御相伴にあずかれるのがわかっていると、厭が応にも口の中が潤ってくる。あの飴色のタレ、端のカリカリ、粉山椒のよく合うこと。現金なもので、今までの心鬱がにわかにそっぽを向く。力が身体のなかに湧いてくる。足取りも軽くなる。暮六つ前の夕間暮れの湿った風も身体にいい気分になってくる。春とは名ばかりの、もう梅雨に入る時候、お天道様なぞギリギリと渦を巻いて、じりじりと背の毛を灼くようで、夏の日もかくやという有様、この陽気じゃ一雨来るわな。古傷の左足首が少々痛むが、まあ仕方あんめぇ。
鰻の匂いがもうもうとしてやがる。そういえば俺は今日は何も口にしていない。昨日もそうだったかな。昨日は……そうだ、建前の、地主の振る舞いだ。あれから何も食べていない。
「ごめんよ」
おっと、敷居につまずいちまったい。妙に高い敷居だねこりゃ。
「そこな爺さん、植え込みに向かって何をおしだい。」
妙に気合いの入った婆ぁサンの声だね。婆ぁさんに爺さんたぁ呼ばれたくない。
「イヤすみません、こツらさんに呼ばれているもので。新宿原町の谷村伊豆守様……いけねえや。もう江戸は終わったんだ。谷村惣兵衛様はいらっしゃいますかね」
「いえいえ、お武家様はいらしてませんよ」
妙にツンケンしてやがる。風の都合かなんなのか、たれの濃い匂いが、女の肌に顔を埋めたようで息が詰まる。
「ええ、もしもし」
男の声だ。
「もしや、前田喜六様でいらっしゃいますか。」
「前田……おう、この前御上から頂戴した姓だ。喜六たあ俺のことだ。いかにもそうだけれども、なにかあるのかい」
「先程はうちの家内が飛んだ御無礼をいたしました。先程谷村様から、お客さんがお越しになりしだい待たせてもらってくれという言伝を承ってございます。ささ、どうぞこちらへ」
谷村様、湯屋にでも寄ってからいらっしゃるのだろうか。いつものこと、飄々としているようでしっかり周りの人間のことを見ていてくださる。ヨヨと泪が、出ない。安物の芝居じゃねえんだし、この辺で見せ場を作らなくていいわいな。
アタシの眼が見えないということも話しておいてあったのだろう。ここの主人であろうオヤジ自らがアタシの手を引いて土間から畳へ通してくれる。喧騒からして人の入りは十人強、十人強でこの響き具合、店がそれほど広いわけではなさそうだが。たいした熱気で汗ばんでくる。
座っているだけの時間ができる。少々暇になる。なので耳の穴を開いてみる。要するに澄ましてみるんや。すると周りの話す声が幻燈みたいによく聞こえてくる。聞き耳をたてるなぁあんまりいい趣味ぢゃあないが、なにぶん、暇なもんで。後ろに座っている野郎の二人連れは、どっかのぼんぼんと幇間に違いない。ぼんぼんの方が間抜けな声を出しやがって昨日の穴っ入りの自慢なんかしてやがる。
「それでな、その梅ヶ瀬ってえ妓が、辰ン刻まで離してくれないんだわな」
「流石ぁ若旦那。憎いねぇ。悪い人だねえ。いよッ、光中将の再来ッ、女泣かせの色男ッ」
あのぼんぼんは馬鹿か。どうせ一晩中、花魁の一人も来ずに淋しく手酌で飲んでたに決まってらぁ。それにしてもあの幇間の気色の悪いダミ声はなんだい。ろくなもんじゃないよ……耳と鼻だけになっちまうと人となりなんて声だけで分かっちまうもんさね。あァ胸糞の悪い、あのぼんぼん、まだくっ喋ってやがる。
「今日は一八、おめえを幇間の中の幇間と見込んでお願いがある。実は……
もの凄い雨の音で急に話し声が掻き消されてしまう。夕立が降ってきたようだ。がらっぴしゃん、まだ俺の目は死んでいないようだ。稲妻が奔るのが目の奥でなんとなくわかる。雨音は耳の底から染み渡って、俺の禿頭を荒く揺さぶって話さない。後ろでボンボンの悲鳴、まるで死んだ馬が反魂したような呻き声も弾幕の奥で、幽かに。一閃、目の明くような光が通って、だすううう、と槌の割れるような。
吹きこんでくる温い風は鼻の周りの空気を取り払って、俺は思わず深く息をする。そういえばこの辺は地面の低いところだから、このままじゃ堀の水が溢れて来ちまうんじゃないかね。厭だね。それでも、土埃が泥になっていく、この雨の匂いは嫌いじゃない。しばらく耳と鼻を使ってぼうっとしていると、アタシの横を通る女中かなにかの運ぶ蒲焼きの皿が、これまたふくよかな匂いで通りすぎる。
柱を打つ水音。軒の細かな軋みを聞くたびに、俺には屋守の齷齪が見える気がする。
「えぇ、済みませぬ旦那さま」
肩をはっきりとつつかれる。「旦那さま」だってよ。さっきの婆ぁサン、今度はちゃんと客扱いしてくれるらしい。
「谷村様からの言伝てなのでございますが」
「おう」
「谷村さまは湯屋においでだそうで」
そらみろ。
「雨が上がったら行くので先に食べていてくれ、という伝言をこの雨の中湯屋の丁稚が伝えてきまして……」
あの人らしいやな。分かったと伝える。雨はどうなんだ、と問うても「えらい降りようで」とモゴモゴ云って向こうにいってしまった。馬鹿にしやがって。
店の主人が自ら鰻を持ってやってきた。だいたい、お盆のなかは平皿に蒲焼きを乗せたのに丼飯、香の物に玄米茶の一つもついて一膳。頼めば酒もついてくる。味噌汁やら吸物やらまでついてくるのはよほど奇特な店か大店かである。
恐る恐る盆の上を探ってみる。……差し出した右手首の辺りにふわりとした湯気があたる。ちゃんと汁物がついてきている。思わずへえ、と息が洩れる。思わず褒めてやろうと思ったのに。ちぇっ、主人はもういなくなったらしい。
お茶を一口。つっ、思わず指先を擦る。指先をいためるような茶なんか出すもんじゃないよ。湯呑が握れなくてとりこぼしそうになったぢゃないか。馬鹿にしやがって。ゆら、とあがった茶の湯気で、鼻の下が汗をかいたようになる。玄米茶、鼻先で香を掠めおり。それにしてもたいしたもんだ。谷村様には名前だけ聞いてこの店にようようやってきたが、実はかなり名の知れた店なんじゃねえのか。
どですかでん、とてつもない雷の音。これは落ちたときの音だよ。時折眼の奥で少々は気になっていたが、稻光と音のずれから凡そここから四半里の間と見える。ここまで大きな音だと恐ろしいもんだ。雨足もどんどん強くなってきやがるし。周りの人の声なんか雨の音で全然聞こえやしない。鼻からもどんどん雨の匂いが流れこんできて鰻がどんどん冷えていくような気がしてならねぇ。折角の鰻ぢゃねえか。早く食べちまおう。へい、いただきやす。
……悲鳴かね?雨中一閃、吃驚したよ。金を切るような音だったけれども、何だか周りの椅子もガラガラいってやがって、喧嘩かね。ありゃきっと女将さんが止めてるんだよ。しょうがないねえ。この雨ン中、おんもに叩きだされっちまうってのも情けない話だよ。こっちにとばっちりが来なきゃいいけど。
ありゃ。誰か来たよ、アタシの隣に。土間から一段あげた畳敷なんだからどこに座ってもらったって別にかまわねえけれども、喧嘩もあったらしいし……あ、そうか。とばっちりを受けて逃げてきたんだね。嗚呼、剣呑剣呑……。
うまい鰻だよこれは。うん。これはどこの鰻だろうね。中川かね。百本杭かね。主人。主人ヨォッ、おい。なかなか来ないね。これじゃお茶のおかわりもできないぢゃないか。なんやかや、こつらに向かって叫んでいるようだけれども、だめだね。雨の音で聞こえないんだか、それとも仲裁で忙しいんだか誰も来やしないよ。あんまり喧嘩も長引くと、警邏の連中が来ちまうぞ。
耳の傍、雨の川、どうどうと坩堝の滾るようで、一人ポツンと取り残された按配、探り探り鰻を口に運ぶも、ふと、この肉片の温みがふと消えたときのことを考える。舌先に触り、糸切り歯に当たった太い骨を摘み上げて、鰻の骨ってこんなに立派だったかと思う。鼓膜のざらざらした感じを受けていよいよ寂しく、致し方ねえ。隣の奴にでも尋ねてみようかい。
「もし旦那、失礼しやす」
「 」
「アッシはあいにくの不視でやんして。その、なんかあったんですかい」
「 」
先方が何も言わないのが気になるが、えらい眼力を肌に感じる。もしかして忍じゃないだろうねえ、盲に忍ぢゃあお話にもならない。
「もし、申し訳ございやせんが、その……湯ゥのお代わりでもいただけるように、お願いしていただけやせんでしょうか」
おっ、奴さん立ち上がったぞ。何とも言わなかったのは聞こえなかっただけに違いなく、立ちあがるのに膝から降りてトン、膝をさばいてコツン、こりゃあ小笠原流でずいぶんと……女性かね。女性にしてはずいぶんと大柄な気がする。
それにしても、よく降る雨だ。また、悲鳴が上がってるよ。いいかげんに止めときゃいいのに。足音がこっちに向かってくる。カツコツコツコツ、この雨の中で不思議とよく聞こえてるけれども、この足音の硬さは……ははぁ、もしかすると西洋靴だろうか。となると……毛唐か。隣の奴は。
「 」
「へえ、おありがとうござい。さ、せんきゅうっ」
「 」
通じねえか。それもそうだわな。
「うへっ。」
湯呑みを持って驚く。
……さっきとはうってかわってずいぶん冷てえ。氷室で冷やしておいたみたいぢゃねえか。雨水でも入ったんじゃないだろうね。いくらこの店が大店だったとしても、ここまで冷えたお茶はでねえだろう。氷代だけでおあしが出ちまう……それとも、もしかしてこの店が実は本当に大店中の大店だったとしたら……谷村様、どうしちまったんだろう。却って気味が悪いや。隣りの奴は座ったっきり身じろぎもしない。ざんざ振りの中一人、神経を尖らせれば尖らせるほど、己の心音だけがトントンと響いて、闇。
「よかったら、この鰻、食べるかい。」
なんでそんなことを云ってのかはわからない。ただ、口から出た。
するする伸びて来た手が、皿にあたって、かつっ、と乾いた音を立てる。木箸の温みも無い、丸く冷たい音だ。
おかしいな。
耳を澄ましてみても、人の気がしないのだ。
「よう、旦那。」
……通じねえか。日本語は。
「 」(セッショウウナギニアリツイテナントキョウハヨキヒゾヤ)
なにか言ってやがるのか。
「 」(クウネスノムダスアリガタヤアリガタヤ)
・・・・・・訳がわからねえ。
「 」(ヨノナカハクッテハコシテアトハシヌルバカリゾ)
さっきっから歯ばっかカチカチ鳴らしやがって。
「 」(ヨハナンメンノラクヲエオリ)
「いい加減にしろい」
「 」(サンゼンセカイノカラスヲコロシヌシトマッポウネテイタイ)
「いいかげんに……気味が悪リィ」
む、向こうは耳が、否、そんなことはねえ。現にさっきお茶を頼んだら持ってきてくれたじゃねえか。それだからなんだってんだ。奴さんはなにか、人外、気違い、魑魅魍魎、もう、勘弁、歯の根、合わ、ねぇ。
「 」(カタコトノコヘデス)
わ、笑ってるんじゃねえよッ!
ひや、と冷たいものが首筋に当たる。外の雨風に打たれたのであろうそれはじっとりと生臭く、振り払う暇もあればこそ、二の腕にぴたりとついて離れない。刹那強張ったようになって、背中に押し当てられたいくつもの硬い横刃に厭な予感がじわり、バールのようなもの、いやさ、違いなく肋骨の縞、背筋の震えあがるのにもう片腕も捕られて、腰が凝ったように動かない。あぐらからひゃん、と飛びあがると板張りにすっくと立ち、二十数年間上がらなかった左腕が楽々高々、両手を上に上げて背伸びの運動、と思いきや屈伸から金魚の動き、骨のみしみしいうのも構わずに口がぱかりと開いた。
かんかんのう
きゅうのれんす
さわきです
さんしょならえ
さあいほおい
泣き笑い、死体にかんかんのうを踊らされて、奴さん、藤娘、黒田武士、終えて汗だくだがそれでも背中の骨は停まりゃがらねえ。いやだね、行く先も分からないでひょっくらひょっくら、踊念仏の古傷が疼いてかなわねぇ、馬鹿にし、や、がって、あぁ、鰻だろ、いま、踏ンづけたのッ!
事は一変運ぶは一瞬、ダダと駆けあがる音のして刹那、おそらく戸口のほうだろう、土間の向こうのほうからさっと風の入りける、「喜六ゥ」の声あって振り向、こうとするが骨ががっちり首筋に食い込んで動かない。
「だ、旦那ですかい?」
「おうよ、今助けてやる。走屍にゃあ、箒だあ」
「かたじけない、待ちかねたァ」
「去ねぇっ!」
一喝。ばさ、ばさぁ、と背中を細竹で強か打たれて前のめり。骨の邪気、ついと抜け出る感じがする。
「悪魔退散!」
覇気一閃、箒の柄だろう背中の上を通り、ポリンと《もの》の割れる音がして、見えないはずの俺の目に角大師の滑稽な面がふと浮かんで、消えた。
驟雨の去って白々と眼を照らす。どこから迷い出たのか骨が一つ、鰻屋にあがった話である。