わたしが父の存在を知ったのは、高校ニ年の春だった。
学校の帰り道、近所に居着いた野犬に追いかけられ、死に物狂いで家に逃げ帰ったあくる日のこと。その野犬がはらわたを抉られた無残な死骸になって、通りの角の電信柱に磔(はりつけ)にされていたことがあった。たまたま通りかかった生物担当のオタク教師が、犬の内臓がきれいに並べられている現場を見てひとこと、「みごとなメス捌きだ」と感嘆したらしい。
驚いたのはそのあとだ。泣きながら話をするわたしに、母は「パパの仕業ね」と悲しく呟いたのである。
父親は商社マンで、わたしが小さい頃、外国で病死したはずではなかったのか。
「ごめんなさいね京子、いままで隠していて」と、母はわたしの頬に暖かい手を添えていった。
「きっと、あれであなたを守っているつもりなのよ。でもパパを恥ずかしがることはないわ。あの人はもう私たちにとっては他人だから」
「離婚したってこと?」
母は頷いた。
「ひどい人だった。毎日が暴力の繰り返し。ママの心が休まるときはひと時だってなかった」
「それって、聞いたことがある。ドメスティックバイオレンスね」
「家庭内暴力ってことなら違うわ。まだそっちの方が、他人に迷惑をかけないだけまし」
母は父についてそれ以上語りたがらなかった。しかし、たった二人だけの家庭だ。私は、それから何日かかけて、父に関するいろいろな話を、断片的に聞き出すことに成功した。
わたしの父は相当な変人だったようだ。例えば、手製のナイフを抱いて眠るような人だったらしい。おそらく心の病気(きっと重度の被害妄想)だったのかもしれない。ナイフもギザギザのついた奇妙な形だったというから、その異常性が推察できる。
困った母がある日、ナイフを持って寝ないで、というと、次の夜は鎧のような鉄の服を着てベッドに入ってきたらしい。そこまで聞くと、母の思い出話も笑い話のようになってくる。
しかし、母の本当の苦労や悩みは、わたしには想像もできないものなのに違いない。さらに言葉では読み取れない何かを、まだたくさん隠しているようでもあった。
ただ、母がどう考えようと、父の存在を知った日から、私にとってその事実は避けて通れないものになっていた。気がつくと、わたしは特別な何かを身の回りに感じていたのだ。おそらくそれは父の目だった。怖いほどの鋭さを感じるときもあれば、身を包まれるような暖かさを感じるときもある。もちろん、それをはっきりと証明することなどできはしないのだが……。
それでも、出来事は唐突に起きた。
すでにわたしは大学生になっていた。初めての大学祭の打ち上げコンパが終わった帰り道。夜風に頭を冷やしながら、賑やかなネオン街をはずれた国道に沿った帰路を、とぼとぼと歩いていたときのことだ。
少し酔っ払って千鳥足の私は、ほとんど無意識のうちに、ほの暗い道路にふらりと足を踏み出していた。
そこに耳をつんざくようなクラクションの音。
アッと気がつくと、まばゆい光の把の向うに、怪物のように巨大なバイクの群れが窮屈そう留まっているのがわかった。
道路一面を振動させているけたたましいエンジン音が、立っていられないほど強くわたしの内臓を揺さぶっている。その機械を操っているのはどれも異様な風体の男たち。
どうやら、アルコールのせいとはいえ、たったひとりで暴走族の先頭に踊り出てしまったようなのである。別に彼らの行く先を邪魔するつもりはなかった。でも、状況はまさにそういう形になっていた。
「関八州連合、魔鬼死霧(マキシム)」というのが、彼らの団体名らしい。刺繍を同じ文字で統一した特攻服の裾を翻して、男たちがいっせいにバイクから降りてきた。
わたしは、とっさに携帯電話をハンドバックから取り出した。
どこにかけるつもり? どっちにせよ、指先が震えて、ボタンもうまく押せない。
「な、何。いったい私に何の用があるってのよ」
わたしはただ恐ろしかっただけだが、その言葉はまるで相手を挑発しているように聞こえたのかもしれない。
「お前こそ、何のつもりだあ、あ~っ」
「別に何のつもりもないわよ。なんか文句ある~警察呼ぶわよ」
ますます、相手の神経を逆なでしている。アルコールに操られている自分が自分ではないようだった。
「痛いっ!」と思ったときには、男たちのうちのひとりに携帯電話を持った手を掴まれていた。そのまま携帯をひったくられ、地面に叩きつけられた。
なんだかわからないが、光物をじゃらじゃらとぶらさげた男が、
「姉ちゃん、いい度胸じゃねえか」と、爬虫類のように奇妙な顔を突き出した。酷い口臭だ。さらに続いて、凶暴な男たちのドスの効いた脅し文句が洪水のように押し寄せ、呆然とするわたしの鼓膜をぴりぴりと震わせた。
ともあれ、まず今ここにある現実をはっきり認識しなければならなかった。
逃げよう。
……しかし全身の力が抜けたようになって即座に動けない。
ああ、なんて災難だろう。こんな突拍子もない出会い頭に、わたしという花の命が散るかもしれないなんて。
が、悲観よりも前に、この最悪の場面で、ふいに口からひとつの言葉が湧いて出た。
「パパ、助けて!」
言いながら、わたしは驚いた。どこから見も知らぬ父に助けを求める発想が浮かんできたのか。
ところが、その疑問もすぐに吹っ飛んでしまった。なんと唐突に、目の前に一目でホームレスだとわかるボロボロの服を着たおじさんが現れたのである。
「その言葉を何年も待っていたぞ、京子」
そう言ってくしゃくしゃの笑顔を向けてくる。どうやら、それがわたしが始めて見る父親であるらしい。
しかし、父もすでに魔鬼死霧たちに取り囲まれている。
「君たち、私の娘に手を出すな」と、群れの中から聞こえてくる声も、何だか心細い。
一方、新たな闖入者が風采の上がらない中年男だという事で、群れの感情は一気に沸騰した。たちまち、凶暴な野獣たちが、たったひとりの父に寄って集って飛び掛っていった。
喧騒の中で何が起こっているのかよくわからなかった。
「目玉くり抜くぞ、こらあ」という叫び。
ナイフがちらりと見えた。
その先に、丸いものが刺さっている。
それが父の目玉だということがわかったとき、ついにわたしの意識の糸も切れてて暗闇に落ちた。
気がついたとき、わたしは懐かしい腕の中にいた。記憶にあるはずがないのに、それが父の腕だということがすぐにわかった。
「大丈夫か、京子」
父の声は驚くほどやさしかった。しかし、目前に覆い被さる父の顔を見て、わたしは小さな叫び声を上げた。片目がなかったのである。
父は丸い玉を舐めて、眼窩に差し込んだ。あっちこっちの方向を向いていた両目が、ぐるぐると回って一方向に揃い、私を再び見た。
「一応、正当防衛ということにしておかないと、相手に手出しはできないからね。だから片目を……いやいや、心配することはないよ。もともと義眼なんだ。ほら、ここも」
といって、見せてくれた右手の指のうち半分ぐらいが途中でなくなっている。まるで棒グラフのようにでこぼこしていた。
わたしはもう一度気を失いそうになった。安堵や喜びよりも、おおきな失望感に襲われたからだった。
この汚れたホームレスのおじさんが、わたしの本当の父親だとは……思い描いていた父とはまるで違う人ではないか。
せめて、普通の父でいてほしかった。
というのは、今では儚い望みだった。そういうわたしの複雑な心境をわかっているのかいないのか。父は相変わらず笑顔で、
「奴らは、すぐに大勢で私たちを追って来る。ぐずぐずしてはいられない」
とわたしの手を引いて起こした。
「奴らって?」
「牧伸二とかいう、変な名前の銀輪部隊だよ」
魔鬼死霧(マキシム)のことらしい。ニュースでもよく見る名前だ、と思い出した。県下でも有名な広域暴走族で、総勢数百人もいる大組織である。しかもバックに日本最大の暴力団がいるという話を聞いたことがある。
でもまさか、あの暴走族に狙われることになるなんて。
「パパがお前を助けようとして、五人ほどやっつけたからね。残りは仲間を呼んでくると息巻いて走っていったよ。どうやら逆恨みを買ってしまったようだ。だがパパは今まで陰からずっとお前たちを見守ってきたんだ。だから何も心配は要らない」
逆恨みというより、それでは相手もメンツがある、後には引けないだろう。わたしは焦った。
「と、とにかくここを逃げようよ」
「いや、京子。逃げてしまうのでは、何も解決しない。人生という奴は、常に戦いだ。だからパパは、走り去っていく奴らにちゃんと住所を教えてやった。正々堂々と大部隊を相手にするには、戦略が必要だからね」
「住所って?」
「もちろん我が家だよ。これから篭城戦だ」
頭がくるくるしてきた。路上には確かに数人の暴走族のメンバーがうんうん唸り声を上げて転がっている。彼らをやっつけたのが、良かったのか、悪かったのか、 こうなると判断しかねる。
ここはやはり二度目の気絶をするべきだ、とわたしは思った。これがもし悪夢なら、次に目が醒めたとききれいさっぱり忘れてしまっているはず、と願いながら。
「すまないが、緊急事態だ。ママに家に入れてもらえるように、口添えしてくれないか」
そういって父の腕の中から、地面に下ろされたとき、目の前に我が家があった。小さいが、母の愛情があふれて、その暖かさが漏れてくるような家だ。
玄関を開けると、自然に涙が出た。
だが、迎えに出てきた母は、「おかえり」の言葉を失っていた。視線がわたしの後方に釘付けになったまま、
「ボム!」と、叫んだ。
ボムって、爆弾のこと?
「パパだっていってるけど……それ名前?」
「この人は、中東の火薬庫といわれるところで、皆にそう呼ばれていたのよ。世界を駆け巡る商社マンだなんて大嘘つきだったわ」
火薬庫に爆弾? 火に油よりも、もっとひどい関係じゃん。
母はわたしを奪い取るように抱きしめた。鬼のような形相で父を睨んだ。
「知らなかったのはママだけ。この悪魔は、世界平和を願う一途なボランティア学生を騙したのよ」
「それはないよ、ハニー。仕方なく嘘はついたが、わたしの気持ちはいつでも変わらない。君のためにすでに除隊もしている」
「何でまた、のこのこと! 離婚調停で、わたしたち親子には三十年間、半径三百メートル以内に近づかないと裁判所に誓ったはず。それができないなら、国外追放なのよ」
「それはわかっている」と、父はおおきな体を縮めるようにして、媚びたような声をだした。
「だが、今度ばかりは特別だ、私たちの大事な娘の命が危ないんだからね」
母は目を丸くした。父は私を振り返って、
「京子、最初からママに状況を説明してくれ。その間に、ちょっとパソコンを使わせてもらおう」
「何すんの?」
「インターネットで、ペンタゴンの友人に連絡する。このナイフだけじゃ、ちょっと心細いんでね……」
父が今まで右手に持っていたのは、例のナイフ……と、ぴんときた。それをくるくると回して、曲芸師のように軽やかに懐に収めた。ひょっとしたら、暴走族の何人かは、この凶器の餌食になってしまったのかもしれない。
母はわかってくれたのだろうか。
三十分後には父に誘われて、わたしは家の屋根に寝そべっていた。母はそれを何もいわずに許してくれたが、父のすべてを受け入れたわけではないのだろう。でも、わたしに父がいるという事実は、いつか認めなければならなかった。それだけのこと。
満天の星空の下。父はそこで昔の話をずっとした。
わたしが生まれる前、わたしが生まれた後。家族と離れた生活。でも、肝心なところがよくわからない。父の話は、出合ったときの母がどんなに美しく魅力的だったかとか、わたしが生まれたときどれほどうれしかったかとか、そういう情緒的で掴みどころのない内容ばかりだった。
「何?」
どの程度の時間が過ぎたのだろう。突然星空が真っ暗になって、わたしは体を起こした。
天空の暗闇の中からさらに黒い点が浮かび、こっちに向かって、大きく近づいてきた。黒いパラシュートだった。
「ステルス機だよ。大丈夫、領海を横切るのに十五分もかからない。日本の自衛隊がスクランブルかける間もないし、明日のニュースにもならないさ」
パラシュートの荷物は棺おけのような形だった。時どき逆噴射を繰り返しながら、目的地を探るようにして、屋根の上に落ちてきた。
「しかし、みごとな精度だな。ピンポイント補給は、今でも中東実戦部隊の夢だが、さすがはアメリカだ」
そういいながら、舞い落ちてきた荷物を手早く解いた。その中から化け物のような機械がぞろぞろ出来てきた。全部、銃器である。父は一番でかい奴を肩に担いで、にやりと笑った。
「FIM92スティンガー。中古で赤外線シーカーはぶっ壊れてるが、充分使える。しかし、二・三百人程度相手するのに、地対空ミサイルはやりすぎかも、ははっ」
父の顔はすでにホームレスの顔ではない。
瞬時に薄い唇が引き締まり、眼窩に炎が浮かんだ。ボロ服から透けて見える筋肉が、鉄のように底光りしている。
と、そのときだった。
爆音が波のように我が家に押し寄せ、瞬く間に回りを取り囲んだ。巨大なホタルのような群れで、静寂で穏やかだった住宅街が昼間のように明るくなった。
魔鬼死霧の大軍がついにやって来たのだ。
「あなた!」と、下から母の金切り声がした。「ご近所迷惑だわ。あのうるさいのをすぐに静かにさせて」
「任せなさい。家の前の掃除は、ずっと私の仕事だった」
父はその巨大なミサイル砲を大空に向けて構えた。爆音とともに赤い軌跡を引き、巨大花火のように空中で破裂した。
わたしはたまらず両手で耳を塞いだ。そんな私を見下ろして、父はウインクしてみせた。
その明かりの元に、暴走族の大群が隅々まで浮かび上がった。思ったよりも多い。町内中を埋め尽くしているように見えた。
本当にひとりで戦うつもりだろうか。しかし、ベランダから屋根を見上げている母の顔に不安は感じられない。
父は母のいる方にさらに声を投げた。
「ハニー、私のことを許してくれないか」
「あなたのような人を許せると思っているの? わたしがどれだけ大変だったか」
「愛しているんだよ」
父は哀願するようにいった。
「どさくさに紛れて何いっているのよ、家に入れたからって調子に乗らないで」
「私は君のためなら、何だって絶えられる。君はどうだ」
「ぜ~んぜん……」と、答えた母の声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。
「その話はあと! 目の前のゴミを早くどうにかして」
家庭内暴力なら、誰かがとめることができる。が、外に向かって無限に拡大する父の暴力をとめられるのは、かつて母だけだった。
だが、それが今、開放されたのである。