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6000字小説バトル

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6000字小説バトル
第8回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 10月)
文字数
1
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
2
ごんぱち
6000
3
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
4
のぼりん
6000

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貨道列伝
ごんぱち

 値段の記された木の品符がテーブルに並ぶ。
「千七百六十四円です」
 同時に、しかし急ぎ過ぎの印象を全く与えず、スーツ姿の近藤雅弘が合計金額を読み上げる。
 着物姿の女の買手は、素早く実貨の二千円札を一枚差し出す。
 一瞬の間もなく、雅弘は銭箱から硬貨を掴み出す。
「二百三十六円のお返しです」
「ありがとうございます」
 互いに爽やかな会釈を交わし、一礼した。
 それから、買手はカウンターを通り、また元の椅子に座った。
 拍手が部屋に満ちる。
 雅弘は軽く会釈してから、売手席から離れた。
「流石は三代目、素晴らしい」
「動きの一つ一つに気品がありますね」
「あの計算の早い事!」
「田口様が霞んでしまいますわね」
 同席した者達の称賛に、雅弘は笑顔で会釈する。
(当たり前だ。俺は三歳の時から品符を持たされてたんだ)
 笑みが僅かに皮肉っぽく歪む。
(だからこそ、俺はここにいられるんだから)

 電気モーターの微かなうなりと共に、黒塗りのリムジンや、純白のロールスロイスが走り去った。
「ふぅ……」
 雅弘は小さく息をついて、ネクタイを弛めた。
「――見事な手前だった」
「父様」
 声に雅弘が振り向くと、そこには杖にすがるようにして父の伸行が立っていた。
 紋付き袴姿の伸行の髪はとうに白く、腕には鬱血が見られる。十七歳の雅弘とはとても親子には見えない。
「お疲れでしょう、お休みになっていて下さい」
「客のもてなしが貨道の心。出迎え、見送りをせずして、席主が務められるものか」
「父様……」
 雅弘は呟いて、その朽ちかけた男を見る。
(あなたは席主なんてやれませんよ。もうとうの昔に。近藤流貨道家元の名は、俺が守っているのですから)
 最後の車が、見えなくなった。
「さぁ、戻りましょう」
 雅弘は伸行の手を取った。
(その為に、俺を拾ったんでしょう? 義父様)

 古びた老舗デパートに、雅弘はやって来る。
「いらっしゃいませ」
 ゲートが雅弘を感知し、人間と寸分の違いもない合成音声が挨拶する。
 店内では、自走式監視カメラが、器用に客の間を縫って巡回している。
 笑顔のない人間の店員が、二名だけいるサービスカウンターの前を通り過ぎ、雅弘はエレベーターに乗る。
「――七階、ホビーフロアでございます。文具、古銭、画材、玩具はこちらでお求め下さい」
 エレベーターから降りた雅弘は、真っ直ぐに古銭屋へ向かう。
 画材売場と書店の間にある古銭屋のショーケースには、切手、古銭、有価カード等が並んでいた。
 ショーケースの側には、「競技用実貨」とPOPを付けられたワゴンがあり、比較的新しい時代の貨幣が並ぶ。
 置かれているのは、千円、二千円等の紙幣から、全種類の硬貨まで様々で、樹脂でパックされており、ほぼ額面の三倍の値段が付いていた。
(ふうむ)
 雅弘は五千円実貨を手に取り、新渡戸稲造の印刷を確認する。
 電子マネー出現以前に流通し、幾人もの手を経た実貨は皺が寄っており、それがまた人物画に趣を与えている。
(使い込まれているのはいいけど……これは、三嶋流の貨道皺だな。使用皺じゃない)
 そんな事を考えながら、雅弘が次の実貨を品定めをしていると。
「――ちょいとゴメンよ」
 隣から伸びた手が、無造作に千円実貨を三枚取った。
(!)
 そう、あくまで無造作だった。
 手を伸ばし、札を三枚指先だけで数え、掴んで手を引く。その動作は、流れ、淀みなかった。そして、その指先には、札ダコがくっきりと出来ていた。
(貨道家?)
 雅弘は反射的に振り返る。
 ごつ。
「痛っ!」
「おわっ!」
 勢い良く振り向いた雅弘の頭と、千円実貨を取るために覗きこんでいた手の主の頭が激しくぶつかる。
「も、申し訳ありません」
「あ、い、痛たたた……」
 額をさすりながら、手の主は顔を上げる。
 雅弘より少し年上に見える青年だった。合成革のジャンパーを着ている。
「大丈夫ですか?」
「平気平気、平気、だけど、あんた頭固いなぁ」
 青年は額をさする。
「言われた事ありませんよ」
 雅弘は床に落ちた札を拾う。
「すみませんでした」
「――ん、あんた、貨道やるのか?」
「え?」
「札扱いが凄く綺麗じゃねえか。その歳で」
 青年は屈託なく笑う。
「君こそ、さっきの手さばき。大分やってるんですか?」
「あはは、オレのはオフクロに教わっただけだよ」
(――親? という事は、どこかの貨道家元か? 流派はなんだ? 実際、どれほどの腕だ?)
 雅弘の心に浮かんだ興味は、急激に膨らんでいた。
「君、こうして会ったのも何かの縁、時間がありましたら一席どうですか? 私は近藤雅弘です」
「貨道家としては、一会を無駄には出来ねえ――なーんてな。OK、一局ぶつか。オレの名前は錦織昭一ってんだ」
(局と呼ぶのは……三嶋流か? 交流貨会での見覚えはないが)
「それじゃ、これを買っとくかな」
 昭一は、先ほどの千円実貨三枚をバッグに入れ、売場出口のゲートをくぐった。
「一万円のお買いあげになります。ありがとうございました」
 自動的に支払いは完了し、合成音声が響き渡った。

 デパートの近くのコミュニティセンターのロビーで、雅弘と昭一は向かい合わせに座る。
 誘った側の雅弘が品符を並べ、昭一が銭箱を置く。
 品符は黒光りするほどに使い込まれ古びているが、手入れは良く文様も描き直されくっきりしている。
「なあ、茶果にしねえか? 品符って、どうも固くなっちまってさ」
「いいですよ」
 雅弘は品符をしまい、席を立つと、自動販売機で茶と炭酸飲料を買う。
(品符が基本なのは、三嶋流でも同じ筈だが)
 カップを取りながら、雅弘は椅子に座って紙幣を確認している昭一に視線を向ける。
(よほど自信があるのか、それとも妙な癖でも付いているのか)
 昭一の実貨さばきは、無造作な動きの中に、熟練のキレが見える。
(対峙すれば分かる事か)
「お待たせしました」
 雅弘はテーブルにカップを二つと、自分のバッグの中に入っていた飴を置く。それから、付箋に値段を書き込み、カップと飴に貼る。
 二人は視線を合わせ、軽く一礼する。
 ぴんと空気が張り詰めた。
「こんちわ」
 実に自然に昭一が微笑む。
(――型からはずれているが、初礼も完璧)
「いらっしゃいませ」
 雅彦は一礼する。
「これと、これ、くれ」
 昭一が、カップ一つと飴を一粒寄せる。
「二百四十八円になります」
 急ぎ過ぎず遅過ぎず、雅彦は値段を告げる。
「二百四十八円だな」
 無造作に昭一は銭箱から硬貨を三枚掴む。
(二百五十円だと? 釣り銭が二貨では、貨音が満足に出ないぞ?)
「二百五十円お預かりします」
 雅彦は平静を装いつつ、硬貨を手のひらで受け取る。
 チャリン。
 限りなく澄んだ貨音が響く。
 この数十年間、貨幣が電子マネーに移行して以来、聞かれなくなった音。電磁支払い方式のせいで、消失した売り手と買い手の交流。
 それが、貨道家たちの手によって残され、このテーブルの上で再現される。
「二円の……お返しです」
(二貨でどう貨音を鳴らす?)
「ありがとう」
 昭一は穏やかに微笑み、アルミ実貨二枚を手のひらに受ける。
 何の音もない。
(やはり、払い金選びを見極めなかった素人か――)
 その時。
 ピシッ!
 今まで、雅弘がどんな貨席でも聞いた事のない音がした。
 鋭く、力強く、しかし耳障りではない。
(手の中で当てた!?)
 それから昭一は銭箱の上で手を開いた。
 チャリン。
 一円実貨二枚は、銭箱の硬貨の上に落ち、胸のすく様な貨音を立てた。
(美しい……)
 雅弘は呆然と昭一を見つめていた。
「また来るぜ」
「あ、ありがとうございました」

「いや、実際のとこ、オフクロから習った事って少なくてさ」
 貨席は終わり、昭一はカップの炭酸飲料を飲む。
「じゃあ誰に?」
(我流であんなものが出来たっていうのか? ふざけるな)
 尋ねる雅弘の目は、鋭くなっていた。
「よく分からないんだが、家に山ほど実貨があったんだよ」
 昭一に嘘をついたり、はぐらかそうとしている様子はない。
「山ほど?」
「だもんで、実際に使っててな」
「店で?」
(馬鹿な。そんな店が、そうあるわけがない!)
「案外、相手してくれるもんだぜ。どんな店だって、店番の店長ぐらいはいるからな」
「実際に使って……」
(そんな事を、しているのか)
「後、三嶋って人のビデオは何度か観たな」
「貨道開祖のビデオなんて残ってたんですか?」
(やはり、三嶋流の人間か)
「そうらしいな。荒削りだけど、いい金遣いだったぜ」
「でしょうね」
「まあ後は、あちこちのカルチャースクールに潜ったりなんたりだな」
「家主催の貨席には出られないんですか?」
 雅弘は、茶に手を出す事もない。
「分かんねえけど、オフクロはその辺の関係ずっぱり切れてるし、オレも特に入門する気にならねえんだよ」
「何故? そこまで腕があるのに?」
「オレは実貨を使うのが面白えだけで、技術を磨こうとかそういうのはどうでもいいんだ」
 昭一の手に出来たバランスの良いタコは、その言葉を物語っている様だった。

「錦織――?」
 書斎で実貨を磨いていた伸行の手が止まる。
「三嶋流の者の様ですが、父様、ご存知ありませんか?」
 伸行の顔から目を離さぬ様にしながら、雅弘が尋ねる。
「腕前は、どうだった」
 一瞬の後、雅弘は答えた。
「貨席は、設けておりません。古銭屋で立ち話をしただけです」
(負けを、知られてはいけない。俺は、負けてはいけない。いや、負けるにしても、打ちのめされた等と、近藤流の跡取りが)
 雅弘の顔色に変わりはない。
 いつもと同じ、生き延びるための言葉。生き延びるための、自分の存在価値を認めさせるための。
「……お前よりも三歳年上になるか」
「ご存知なのですか」
「あれは」
 俯いた伸行は、一瞬言葉を切った。
「お前の兄だ」
「どういう、意味ですか」
 雅弘は伸行から目を離さない。
「私の、たった一人の嫡子だ」
 伸行の目は、ギラギラと光っていた。
「三嶋の女との間に生まれた子供だ」
(不義の子、か)
「近藤流二代目家元を継ぐかどうかという時期だ。そんなものは攻撃材料にしかならない。私は妊娠中の彼女と、手を切った。手切れ金は四千万円分の実貨。その後、彼女が三嶋から逃げたのか追い出されたのかは知らん」
 喉の渇きを覚え、雅弘は唾を飲み込もうとしたが、喉を通らなかった。
「妻は私の跡取りを身ごもる事はなかった。だから、お前を養子にし、全てを教えた。お前に教え込んだ貨道こそが、我が貨道。その事実は寸分も狂わん」
 伸行の胸が、ひゅうひゅうと鳴り、言葉に雑音が混じる。
「錦織は、私の死に気付いてやって来たハイエナ。死体になった私から、家元の名を奪うべく、お前に勝負を挑んで来るだろう」
 伸行が両手で、雅弘の手を握る。
「だが心配はない。私の跡は、私の貨道が継ぐ。私の貨道は、最高だ」
 痩せこけた指だった。
「……はい。父様」

 半年後。
 二代目家元伸行の遺影が飾られ、線香の煙が漂う日本間で、雅弘と昭一はテーブルを隔てて対峙していた。
 立会人たちに聞こえないように、昭一は囁く。
「――あの時、既に気付いていたんですね」
「知って近付いたんだよ。実践を知らねえ型貨道家の割には、マシな腕だったがな」
「君は三嶋流ではないのか」
「どっちでもいいんだよ。買い物に、流派なんて無意味だ」
「貨道が嫌いなのか?」
「好きさ。こいつはオレに成功をくれる。家元という、下らんが金にはなる成功をな」
 二人は一礼する。
 雅弘が買い手。昭一が売り手。
「こんにちは」
 雅弘の初礼は、正に教本通りだった。
「いらっしゃい!」
 実践で練り込まれた昭一の動作には、圧倒的な説得力がある。
「これと、これと――」
 雅弘は品符を五枚選ぶ。
(何故、貨道が生まれたか)
 その流れる様な手さばきには、寸分の狂いも、そして何より迷いもない。
(それは、実貨取引が失われたからではなかったか)
「六百八十八円になります」
「はい」
 雅弘は銭箱から百円実貨二枚と、五百円実貨一枚を取り、昭一に手渡す。
 チャリン。
(開祖の三嶋は、消えゆく実貨取引に美しさと文化を見た)
「はいよ、十二円のお返しです」
 チリン。
(この人間同士のやり取りの、美のみを取り出し、永遠に遺そうと思った)
 雅弘は受け取った釣り銭を、静かに銭箱に戻した。
(ならば、万人の手を経て洗練された型は、その基本であり歴史の結実。つまり俺の貨道が――)
「どうもありがとう」
(最も美しい)
 雅弘の動きは、型通り、寸分の狂いもなく、それでいて優雅だった。
「ありがとうございました!」
 二人は一礼した。
「勝負ありましたね」
 立会人たちは、雅弘に会釈をする。
「馬鹿な……」
 呆然と昭一が呟く。
「何故だ、何故負ける。この前は、完全にオレが勝っていた!」
「確かに、実践に裏付けられた君の貨道は素晴らしい」
 雅弘は銭箱に納めた小銭を整える。
「だが、貨道は悠久を見据えた芸。刹那の美しさを追求するものではありません」
 一枚の硬貨を見せる。ある程度磨かれてはいたが、くすんだ色をしていた。
「もっと磨けば、銅の輝きを出す事は可能でしょう。ですが、それではより早く硬貨が朽ちてしまう」
 そっと硬貨をしまう。
「実貨を使う事は、貨道の精神にむしろ反する。それに気付いた時、君の貨道に翻弄されることはなくなり、私は私の貨道を行うだけで良かった」
「オレは、外道だってのか」
 呻くように昭一は言う。
「認めねえ! 認めるもんか! オレたち一家をゴミクズのように捨てた近藤や三嶋の貨道なんぞ!」
 昭一は畳に両手をついて、肩を震わせる。
「君の身の上には同情します。相応の遺産分配も行いましょう。ですが」
 銭箱の蓋を、雅弘はぴったりと閉めた。
「近藤の貨道に、君の貨道が負けたのは、事実です」
 燃え尽きた線香の灰が、音も立てずに崩れ落ちた。

「お見事でございました」
 弟子達が、深々と頭を下げる。
「流石は雅弘様」
「あの相手によく勝たれました」
「素晴らしいお手前でしたわ」
「私も負けるんじゃないかとヒヤヒヤしていたんですよ」
 雅弘は笑う。
 弟子達の何人かも笑った。
「――君たちもそう思いましたか」
 先ほど笑った半分ほどの弟子が、笑う。
「今笑った君たち」
 鋭い目で雅弘は弟子達の一部を睨む。
「破門です」
「そ、そんな!」
 弟子達はうろたえる。
「近藤流を疑う者に、弟子たる資格はありません」
 雅弘には、いつの間にか家元の威厳が宿っていた。
「出て行きなさい」
(この感情は怯懦――だろうか)
 有無を言わせぬ雅弘の口調に、幾人かの弟子達はうなだれて席を立つ。
(或いは、見たいのかも知れない)
「三嶋にも行くことは許しません。続けたければ、錦織にでも行く事です」
(完成された、義兄の貨道を)

 ――この一席の三年後に発した『錦織流貨道』は、「実践貨道」を提唱した。
 それまで主流だった三嶋流、近藤流の在り方を否定、長い対立の歴史を歩む事となる。
貨道列伝 ごんぱち

(本作品は掲載を終了しました)

わたしの爆弾
のぼりん

 わたしが父の存在を知ったのは、高校ニ年の春だった。
 学校の帰り道、近所に居着いた野犬に追いかけられ、死に物狂いで家に逃げ帰ったあくる日のこと。その野犬がはらわたを抉られた無残な死骸になって、通りの角の電信柱に磔(はりつけ)にされていたことがあった。たまたま通りかかった生物担当のオタク教師が、犬の内臓がきれいに並べられている現場を見てひとこと、「みごとなメス捌きだ」と感嘆したらしい。
 驚いたのはそのあとだ。泣きながら話をするわたしに、母は「パパの仕業ね」と悲しく呟いたのである。
 父親は商社マンで、わたしが小さい頃、外国で病死したはずではなかったのか。
「ごめんなさいね京子、いままで隠していて」と、母はわたしの頬に暖かい手を添えていった。
「きっと、あれであなたを守っているつもりなのよ。でもパパを恥ずかしがることはないわ。あの人はもう私たちにとっては他人だから」
「離婚したってこと?」
 母は頷いた。
「ひどい人だった。毎日が暴力の繰り返し。ママの心が休まるときはひと時だってなかった」
「それって、聞いたことがある。ドメスティックバイオレンスね」
「家庭内暴力ってことなら違うわ。まだそっちの方が、他人に迷惑をかけないだけまし」
 母は父についてそれ以上語りたがらなかった。しかし、たった二人だけの家庭だ。私は、それから何日かかけて、父に関するいろいろな話を、断片的に聞き出すことに成功した。
 わたしの父は相当な変人だったようだ。例えば、手製のナイフを抱いて眠るような人だったらしい。おそらく心の病気(きっと重度の被害妄想)だったのかもしれない。ナイフもギザギザのついた奇妙な形だったというから、その異常性が推察できる。
 困った母がある日、ナイフを持って寝ないで、というと、次の夜は鎧のような鉄の服を着てベッドに入ってきたらしい。そこまで聞くと、母の思い出話も笑い話のようになってくる。
 しかし、母の本当の苦労や悩みは、わたしには想像もできないものなのに違いない。さらに言葉では読み取れない何かを、まだたくさん隠しているようでもあった。
 ただ、母がどう考えようと、父の存在を知った日から、私にとってその事実は避けて通れないものになっていた。気がつくと、わたしは特別な何かを身の回りに感じていたのだ。おそらくそれは父の目だった。怖いほどの鋭さを感じるときもあれば、身を包まれるような暖かさを感じるときもある。もちろん、それをはっきりと証明することなどできはしないのだが……。

 それでも、出来事は唐突に起きた。
 すでにわたしは大学生になっていた。初めての大学祭の打ち上げコンパが終わった帰り道。夜風に頭を冷やしながら、賑やかなネオン街をはずれた国道に沿った帰路を、とぼとぼと歩いていたときのことだ。
 少し酔っ払って千鳥足の私は、ほとんど無意識のうちに、ほの暗い道路にふらりと足を踏み出していた。
 そこに耳をつんざくようなクラクションの音。
 アッと気がつくと、まばゆい光の把の向うに、怪物のように巨大なバイクの群れが窮屈そう留まっているのがわかった。
 道路一面を振動させているけたたましいエンジン音が、立っていられないほど強くわたしの内臓を揺さぶっている。その機械を操っているのはどれも異様な風体の男たち。
 どうやら、アルコールのせいとはいえ、たったひとりで暴走族の先頭に踊り出てしまったようなのである。別に彼らの行く先を邪魔するつもりはなかった。でも、状況はまさにそういう形になっていた。
「関八州連合、魔鬼死霧(マキシム)」というのが、彼らの団体名らしい。刺繍を同じ文字で統一した特攻服の裾を翻して、男たちがいっせいにバイクから降りてきた。
 わたしは、とっさに携帯電話をハンドバックから取り出した。
 どこにかけるつもり? どっちにせよ、指先が震えて、ボタンもうまく押せない。
「な、何。いったい私に何の用があるってのよ」
 わたしはただ恐ろしかっただけだが、その言葉はまるで相手を挑発しているように聞こえたのかもしれない。
「お前こそ、何のつもりだあ、あ~っ」
「別に何のつもりもないわよ。なんか文句ある~警察呼ぶわよ」
 ますます、相手の神経を逆なでしている。アルコールに操られている自分が自分ではないようだった。
「痛いっ!」と思ったときには、男たちのうちのひとりに携帯電話を持った手を掴まれていた。そのまま携帯をひったくられ、地面に叩きつけられた。
 なんだかわからないが、光物をじゃらじゃらとぶらさげた男が、
「姉ちゃん、いい度胸じゃねえか」と、爬虫類のように奇妙な顔を突き出した。酷い口臭だ。さらに続いて、凶暴な男たちのドスの効いた脅し文句が洪水のように押し寄せ、呆然とするわたしの鼓膜をぴりぴりと震わせた。
 ともあれ、まず今ここにある現実をはっきり認識しなければならなかった。
 逃げよう。
 ……しかし全身の力が抜けたようになって即座に動けない。
 ああ、なんて災難だろう。こんな突拍子もない出会い頭に、わたしという花の命が散るかもしれないなんて。
 が、悲観よりも前に、この最悪の場面で、ふいに口からひとつの言葉が湧いて出た。
「パパ、助けて!」
 言いながら、わたしは驚いた。どこから見も知らぬ父に助けを求める発想が浮かんできたのか。
 ところが、その疑問もすぐに吹っ飛んでしまった。なんと唐突に、目の前に一目でホームレスだとわかるボロボロの服を着たおじさんが現れたのである。
「その言葉を何年も待っていたぞ、京子」
 そう言ってくしゃくしゃの笑顔を向けてくる。どうやら、それがわたしが始めて見る父親であるらしい。
 しかし、父もすでに魔鬼死霧たちに取り囲まれている。
「君たち、私の娘に手を出すな」と、群れの中から聞こえてくる声も、何だか心細い。
 一方、新たな闖入者が風采の上がらない中年男だという事で、群れの感情は一気に沸騰した。たちまち、凶暴な野獣たちが、たったひとりの父に寄って集って飛び掛っていった。
 喧騒の中で何が起こっているのかよくわからなかった。
「目玉くり抜くぞ、こらあ」という叫び。
 ナイフがちらりと見えた。
 その先に、丸いものが刺さっている。
 それが父の目玉だということがわかったとき、ついにわたしの意識の糸も切れてて暗闇に落ちた。

 気がついたとき、わたしは懐かしい腕の中にいた。記憶にあるはずがないのに、それが父の腕だということがすぐにわかった。
「大丈夫か、京子」
 父の声は驚くほどやさしかった。しかし、目前に覆い被さる父の顔を見て、わたしは小さな叫び声を上げた。片目がなかったのである。
 父は丸い玉を舐めて、眼窩に差し込んだ。あっちこっちの方向を向いていた両目が、ぐるぐると回って一方向に揃い、私を再び見た。
「一応、正当防衛ということにしておかないと、相手に手出しはできないからね。だから片目を……いやいや、心配することはないよ。もともと義眼なんだ。ほら、ここも」
 といって、見せてくれた右手の指のうち半分ぐらいが途中でなくなっている。まるで棒グラフのようにでこぼこしていた。
 わたしはもう一度気を失いそうになった。安堵や喜びよりも、おおきな失望感に襲われたからだった。
 この汚れたホームレスのおじさんが、わたしの本当の父親だとは……思い描いていた父とはまるで違う人ではないか。
 せめて、普通の父でいてほしかった。
 というのは、今では儚い望みだった。そういうわたしの複雑な心境をわかっているのかいないのか。父は相変わらず笑顔で、
「奴らは、すぐに大勢で私たちを追って来る。ぐずぐずしてはいられない」
 とわたしの手を引いて起こした。
「奴らって?」
「牧伸二とかいう、変な名前の銀輪部隊だよ」
 魔鬼死霧(マキシム)のことらしい。ニュースでもよく見る名前だ、と思い出した。県下でも有名な広域暴走族で、総勢数百人もいる大組織である。しかもバックに日本最大の暴力団がいるという話を聞いたことがある。
 でもまさか、あの暴走族に狙われることになるなんて。
「パパがお前を助けようとして、五人ほどやっつけたからね。残りは仲間を呼んでくると息巻いて走っていったよ。どうやら逆恨みを買ってしまったようだ。だがパパは今まで陰からずっとお前たちを見守ってきたんだ。だから何も心配は要らない」
 逆恨みというより、それでは相手もメンツがある、後には引けないだろう。わたしは焦った。
「と、とにかくここを逃げようよ」
「いや、京子。逃げてしまうのでは、何も解決しない。人生という奴は、常に戦いだ。だからパパは、走り去っていく奴らにちゃんと住所を教えてやった。正々堂々と大部隊を相手にするには、戦略が必要だからね」
「住所って?」
「もちろん我が家だよ。これから篭城戦だ」
 頭がくるくるしてきた。路上には確かに数人の暴走族のメンバーがうんうん唸り声を上げて転がっている。彼らをやっつけたのが、良かったのか、悪かったのか、 こうなると判断しかねる。
 ここはやはり二度目の気絶をするべきだ、とわたしは思った。これがもし悪夢なら、次に目が醒めたとききれいさっぱり忘れてしまっているはず、と願いながら。


「すまないが、緊急事態だ。ママに家に入れてもらえるように、口添えしてくれないか」
 そういって父の腕の中から、地面に下ろされたとき、目の前に我が家があった。小さいが、母の愛情があふれて、その暖かさが漏れてくるような家だ。
 玄関を開けると、自然に涙が出た。
 だが、迎えに出てきた母は、「おかえり」の言葉を失っていた。視線がわたしの後方に釘付けになったまま、
「ボム!」と、叫んだ。
 ボムって、爆弾のこと?
「パパだっていってるけど……それ名前?」
「この人は、中東の火薬庫といわれるところで、皆にそう呼ばれていたのよ。世界を駆け巡る商社マンだなんて大嘘つきだったわ」
 火薬庫に爆弾? 火に油よりも、もっとひどい関係じゃん。
 母はわたしを奪い取るように抱きしめた。鬼のような形相で父を睨んだ。
「知らなかったのはママだけ。この悪魔は、世界平和を願う一途なボランティア学生を騙したのよ」
「それはないよ、ハニー。仕方なく嘘はついたが、わたしの気持ちはいつでも変わらない。君のためにすでに除隊もしている」
「何でまた、のこのこと! 離婚調停で、わたしたち親子には三十年間、半径三百メートル以内に近づかないと裁判所に誓ったはず。それができないなら、国外追放なのよ」
「それはわかっている」と、父はおおきな体を縮めるようにして、媚びたような声をだした。
「だが、今度ばかりは特別だ、私たちの大事な娘の命が危ないんだからね」
 母は目を丸くした。父は私を振り返って、
「京子、最初からママに状況を説明してくれ。その間に、ちょっとパソコンを使わせてもらおう」
「何すんの?」
「インターネットで、ペンタゴンの友人に連絡する。このナイフだけじゃ、ちょっと心細いんでね……」
 父が今まで右手に持っていたのは、例のナイフ……と、ぴんときた。それをくるくると回して、曲芸師のように軽やかに懐に収めた。ひょっとしたら、暴走族の何人かは、この凶器の餌食になってしまったのかもしれない。
 母はわかってくれたのだろうか。
 三十分後には父に誘われて、わたしは家の屋根に寝そべっていた。母はそれを何もいわずに許してくれたが、父のすべてを受け入れたわけではないのだろう。でも、わたしに父がいるという事実は、いつか認めなければならなかった。それだけのこと。
 満天の星空の下。父はそこで昔の話をずっとした。
 わたしが生まれる前、わたしが生まれた後。家族と離れた生活。でも、肝心なところがよくわからない。父の話は、出合ったときの母がどんなに美しく魅力的だったかとか、わたしが生まれたときどれほどうれしかったかとか、そういう情緒的で掴みどころのない内容ばかりだった。
「何?」
 どの程度の時間が過ぎたのだろう。突然星空が真っ暗になって、わたしは体を起こした。
 天空の暗闇の中からさらに黒い点が浮かび、こっちに向かって、大きく近づいてきた。黒いパラシュートだった。
「ステルス機だよ。大丈夫、領海を横切るのに十五分もかからない。日本の自衛隊がスクランブルかける間もないし、明日のニュースにもならないさ」
 パラシュートの荷物は棺おけのような形だった。時どき逆噴射を繰り返しながら、目的地を探るようにして、屋根の上に落ちてきた。
「しかし、みごとな精度だな。ピンポイント補給は、今でも中東実戦部隊の夢だが、さすがはアメリカだ」
 そういいながら、舞い落ちてきた荷物を手早く解いた。その中から化け物のような機械がぞろぞろ出来てきた。全部、銃器である。父は一番でかい奴を肩に担いで、にやりと笑った。
「FIM92スティンガー。中古で赤外線シーカーはぶっ壊れてるが、充分使える。しかし、二・三百人程度相手するのに、地対空ミサイルはやりすぎかも、ははっ」
 父の顔はすでにホームレスの顔ではない。
 瞬時に薄い唇が引き締まり、眼窩に炎が浮かんだ。ボロ服から透けて見える筋肉が、鉄のように底光りしている。
 と、そのときだった。
 爆音が波のように我が家に押し寄せ、瞬く間に回りを取り囲んだ。巨大なホタルのような群れで、静寂で穏やかだった住宅街が昼間のように明るくなった。
 魔鬼死霧の大軍がついにやって来たのだ。
「あなた!」と、下から母の金切り声がした。「ご近所迷惑だわ。あのうるさいのをすぐに静かにさせて」
「任せなさい。家の前の掃除は、ずっと私の仕事だった」
 父はその巨大なミサイル砲を大空に向けて構えた。爆音とともに赤い軌跡を引き、巨大花火のように空中で破裂した。
わたしはたまらず両手で耳を塞いだ。そんな私を見下ろして、父はウインクしてみせた。
 その明かりの元に、暴走族の大群が隅々まで浮かび上がった。思ったよりも多い。町内中を埋め尽くしているように見えた。
 本当にひとりで戦うつもりだろうか。しかし、ベランダから屋根を見上げている母の顔に不安は感じられない。
 父は母のいる方にさらに声を投げた。
「ハニー、私のことを許してくれないか」
「あなたのような人を許せると思っているの? わたしがどれだけ大変だったか」
「愛しているんだよ」
 父は哀願するようにいった。
「どさくさに紛れて何いっているのよ、家に入れたからって調子に乗らないで」
「私は君のためなら、何だって絶えられる。君はどうだ」
「ぜ~んぜん……」と、答えた母の声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。
「その話はあと! 目の前のゴミを早くどうにかして」
 家庭内暴力なら、誰かがとめることができる。が、外に向かって無限に拡大する父の暴力をとめられるのは、かつて母だけだった。
 だが、それが今、開放されたのである。