第1回6000字小説バトル Entry13
路地
夢の中で、僕は海に浮かんだ大きな氷の上にあぐらをかいて、白熊の話を一生懸命聞いていた。見渡すかぎり世界には氷しかなく氷のないところには黒い海がのぞいていた。どうやらそこは南極だか北極だかそういう場所のようであったが、彼は夏のいちばん暑いときに公園の広場でアイスクリームを売り歩く男のような顔をしていた。つまり、少し疲れていて何だか怒っているみたいだった。そう思ってみると白熊はたしかに、背中にクーラーボックスをくくりつけていたし、お客さんにたいして文句を言っているようであった。
「だからね、いくら寒い夏だからってね、あんなことしちゃあいけないよ、そうだろ?アイスクリームが売れないから言うんじゃないよ。いや、アイスは売れたさ、ただね、あいつらはそれを捨てちゃったんだよ。なんでかって?そんなことオレは知らないよ。寒かったからか、ほかにわけでもあったのか。とにかくアイスクリームを売るのがオレの仕事であってそれ以外のことは聞いちゃいけない。あいつらは捨てちゃったんだよ、みんなで一斉にね」そう言って白熊はクーラーボックスからアイスクリームをひとつ取り出すと僕の前の海にそれを投げた。するとそこに小さな氷の塊が浮かんできて、みるみる大きくなると雪だるまの形になり、やがてそれは雪だるまですらなくなりただの大きな氷のかたまりになって海に水しぶきをあげて倒れた。氷は海面にちいさな波をたてながらぷかぷかと浮いていたが、やがて何か意思をもっているかのように僕たちのいる大きな氷のほうにやってきて、そっとくっつくとそのまま動かなくなった。僕たちの乗っている氷はより大きな氷になったが、白熊のほうはそれには気をとめていないようだった。
「食べないんだったらオレが来年の夏までとっておくのにさ」と言って背中を指すと白熊はため息をついた。「わかるかい?気温がほんの少し下がればあっというまに世界は氷だらけさ。みんなが思っている以上にいろんなことは影響を受けやすいし、ちょっとしたことで変化は起こるんだよ。それが問題なんだ」
僕には白熊の言ってることがよくわからなかったが、それでも彼がなにかに絶望しているように思えなかった。僕は言ってみた。「だいじょうぶ、ほんの少しあったかくなれば氷なんてすぐに溶けますよ」
白熊は少し考えるように首をかしげたあと、なにか納得できる答えを見つけたかのように一人でうなずいてみると、何も言わずに海に飛び込みどこかに行ってしまった。彼の話によるとどうやらまだ夏は終っていないらしかった。
それから僕は目を覚ました。
寝転んだまま窓から外の通りに目をやると、すっかり日が落ちていて、住宅街はひっそりとしていた。
まだ九月にはいって間もないころだったけど、その夜は湿った空気に秋の匂いをわずかに感じることができた。
窓の傍の街灯に小さな虫がたかっていて、プラスチックのカバーの内側にはもっと小さな虫が沢山集まっているのが見えた。虫はほとんど死んでいるかあるいは死にかけているようだった。八月が終って次の季節もまだ来ないのに、そうやって虫が集まって死んでいくのはとても不思議だった。ただ季節を感じない時期だからかもしれない。無人島で演説をふるうことにそれは似ていて、なんだか状況にそぐわず、また永久運動のように繰り返されることが無意味に思えた。
起き上がろうとしたが、うでが思うように上がらず、体が疲れているときに特有の重さがふしぶしに感じられた。
「ねえ明日早いからやっぱりもう帰る。買ってきたものもったいないから食べちゃってね」と彼女が言った。
ほとんど不意打ちにそう聞こえたので僕は、うん、と言って、彼女がいることを思い出した。夕飯の買い物をしに部屋を出ていたのだ。
「今日泊まっていかないの?」
「うん。準備してから行ったほうがやっぱり安心だし、とても大事な用事だから。ご飯だけ作ってこうかって思ったんだけど、ごめんね」と言って空き缶を拾い上げ、細々したものを集めると、バッグを手にとって確認するように部屋をちょっと見回した。狭い部屋だったけど彼女が立ち上がるとたいしたものはなにも残らなかった。テーブルにはのせるものがなかったしごみ箱にはごみがなかった。この部屋にうつって三ヶ月になるが、いざ一人で暮らすようになると、いろんなものが不要に思えて、ほとんどなにも買い足すことなく落ち着いてしまったのだ。
「ねえ、怒ってないよね?」
彼女は怒ってないよ、というように笑顔を見せてくれたが、言葉ではなにも言ってくれなかった。これは悪い兆候だった。
「どのくらい寝てたのかな?」と僕は言った。
「ほんの少しだったと思うけど」
「送ってくよ」
彼女の腕時計をのぞいてみると六時を少しまわっていた。
あたりには人通りがめっきり減り、申し合わせたような沈黙がやってきた。ひきのばされた雲と午後の残り日がまじって、弱いひかりが街のすみずみまで流れだし、僕らのいる路地にもとけこんでいた。この街はなんだか少し元気がないみたいだな、と僕は思いそれから彼女の住む街について考えてみた。
「ねえ、ここでいい。ひとりで帰るから」と彼女が言った。
彼女は立ち止まることなく、静かな住宅街に軽い足音を響かせて行ってしまう。
僕は階段下の暗がりに立って、彼女がかどを折れて細い路地に入るのを見送るかたちになっていた。
とくべつにひどい喧嘩をしたわけでもないし、なにかまずいことを言ったわけでもない。こうやって僕と彼女のあいだには月に一度くらい食い違いが起こり、それでお互いのこころがちょっとばかり擦りきれるだけなのだ。たぶん他のどんな人たちにもそういうことが起こっているだろうし、僕も彼女もそのことをわかるくらいには分別があるからあまり気にしないことにしている。
でも問題は、そうやって僕たちのあいだにあるものが確実に擦りへっていくということだった。それについて言えば他の人がどうであろうとまったく関係ない。世界中の人がそうであるなら、それは世界中が同じ問題を抱えているというだけで、その重みは等しく世界を圧迫しているのだ。
僕はさっき見た夢をおもいだして、彼女にそれを話してみたかった。彼女は白熊の話なんて聞いてくれないかもしれないし、僕のほうにもそれが白熊が出てくる夢だということ以上には、うまく話しの意味を伝える自信はなかった。それでも、その夢にはとても大切なものが含まれているような気がしたし、僕はできるだけ早いうちにそれを知り、彼女に伝えなくてはいけないと思いあとを追うことにした。
彼女のまがった路地は駅前に抜ける細い道で、突きあたりを左に折れてしばらく行くと大通りに出るようになっていた。
僕が急いで路地に入ると、両脇に家屋の並ぶとおりは、夕暮れ時の薄闇を深く落としこんでいて、街灯のあかりがその暗さをよけいに引き立てていた。彼女はその中ほどを歩いていた。
「ねえ、待ってよ」と僕は言った。「ほんとうに泊まっていかないの?」
彼女はほんの少し振り返ると、何も言わずにまた前を向き歩き出した。街灯の明かりがとどかず表情がよく見えなかったが、彼女がなにかを言おうとしてやめたのだという気がした。それとも反射的に振り向いただけで何も言うつもりはなかったのかもしれない。おそらくそうだろう。
彼女のあとを追いながら自分の想像力がどんどん窮屈になっていくのを感じ、少し落ち着こうとしてみたが、頭の中はいっぱいになった灰皿のように役に立たなくなった。そして火を消すことができず僕はあたふたしていた。
なにも慌てるようなことは起きていないしそれはわかっていたが、僕は少しずつ混乱しているようだ。そんなことを考えているうちに彼女に追いついていた。
「ねえ、大きな声で言わないでよ」と言ったあとに、彼女は口元に微笑みを浮かべた。
「うん?ああ、ごめん」僕は彼女と肩を並べて、少しうつむくようにして歩いた。
「今日はだめなの、ごめんね」
「うん。あっ、でも送ってくよ。ここまででてきちゃったし」
「うん。ありがと」と言って彼女は僕のほうをちらりと見た。僕は足元に視線を落として、街路灯にぼんやりと照らされた自分の靴の色合いを眺めていたが、彼女がこちらを向いたのがわかったし、そのときに少しはにかむように
笑ったこともわかった。僕はそれで少しうれしくなった。焦りも急速におさまったようだった。
「ねえ、この路地には七不思議があるんだよ。」と言ったのは僕だった。なんでそんなことを言ったのかは自分でもよくわからなかったが、あるいは自分の想像力を試してみたくなっただけかもしれない。こんな路地にはどんなに探してみても不思議なんてひとつだってなさそうだったし、七つなんてことになれば、ほとんど自分を追い込むようなものだったからだ。
「ふうーん。それってここで起きるの?」
「うん、この路地を男と女が歩いているとね。」
「ふうーん」
僕は落ち着いた頭でもう一度さっきの夢について考えてみた。白熊もアイスクリームもどうでもいい気がしたが、かと言ってそこには物語があるわけでもなく、ただ枠を固定しつつ構造だけを抽出してくるべきではないだろうか?つまりそれは・・
「ねえ、で、どんな話?」
「え?ああ・・」
なんだか不意をつかれてばかりだな、と思い、なにかないかとあたりを見回したが、路地のつきあたりがさっきよりも近づいただけで、壁には選挙ポスターもなければ、チカン注意の張り紙もないし、犬の散歩をする人だっていない。なにか落ちていないか目を走らせてみるが、きれいに扱われているとも思えないのに、道にはゴミひとつ落ちていなかった。両隣にぱっとしない家が並んでいるだけだった。
「ひとつめ。この路地には石原さんの家がある。」と僕は言った。
「うん。」
でもそれ以上の言葉をつなぐ前に石原さんの家の前を僕たちは通りすぎていった。
「次に佐藤さんの家がある。家の前を通るとピアノの音が聞こえてくるんだよ。これでふたつだね」と僕は言った。
「石原さんの家はどうしたの?」
「石原さんの家は通っただろ?」
「佐藤さんの家は誰か住んでいるの?
「佐藤さん夫婦と年頃の女の子一人が住んでるよ。もちろんみんなちゃんと生きてる。」
「なにそれ。全然不思議になってないじゃない」
少し自己過信がすぎるんじゃないかと思い、適当なことを言い出した自分をうらみながらも、僕はみっつめ、よっつめの話を探して先に広がる暗闇に目をこらしてみるが相変わらず状況に変わりはなく、おまけに路地にはあと三軒しか家がなかった。彼女は興味を失っていたが、かまわずに僕は職業的義務感のようなもので話を続けた。七つの話があるとういうことはチャンスも七回というわけだ。好機を狙う打者のように僕は神経を研ぎ澄まし、頭に空気を送り続けた。路地はこの手の通りにしてはずいぶん長くつきあたりまでは折れる道もないので、まっすぐに並んだ街灯に照らされると少しばかり幻想的に見えないこともなかったが、それは単純に物珍しさからくる感覚でしかないようだった。
僕の話は少しづつ物事の細部を語るようになり、登場人物にもずいぶんと複雑な背景を与えたが、それでもやはり決定打にかける話でしかなかった。僕はなんだか近所のうわさ話をでっちあげて一人で吹聴しているような気にまでなってきた。
「結局、加藤さんは年齢のわりには優秀だって評価に落ち着いたんだ。でも非常事態に誰がそんなもの気にするかってことになると誰もとめてはくれなかったんだね」それが五つ目の話だった。
話し終えると僕は後ろを振り返ってみた。ちょうど路地の入り口あたりに僕たちと同じくらいの年格好の男女が歩いてきていた。僕らはしばらく黙って歩いた。
それで僕は白熊の出てきた夢のことをまた思いだした。夢の中では世界には氷と海しかなくて、白熊が警告をしていた。ちょっとしたことで変わってしまう?いまの僕と彼女の関係をどうみたものかよくわからないが、たとえ僕らの関係が冷えたからって世界が凍りつくとも思えないな。ずいぶんとおおげさな夢だ。
僕はもう一度振り返ると、後ろの男女を確認した。低い声で男がなにかを語り、女はとてもうれしそうにそれに答えていた。もしかしたら、しあわせに続いている関係なんてそんなにないのかもしれない、彼らがその最後の一組だってこともありえるな。それともまったく逆で、僕たちだけが問題を抱えているのだろうか?
最後の街灯が薄灰色の壁を照らし、僕たちが路地の終わりまできていることを知らせていたが、話はまだふたつ残っていた。
どちらにせよ、世界はすごくよくできていて、九月に氷の海があらわれるなんてことはないし、白熊がアイスクリームを売り歩くことだってありえないのだ。それに氷なんてあっというまに溶けてしまうさ。そう思いながらも僕はまた少しずつあたまを締め付けられるような気がしてきて、彼女の顔を見た。
「ねえ、次は?」
六つめの話はすぐに思いついた。
「うん。次にね、この路地を抜けると、つまりこのかどを曲がると、男と女は薄暗い夜道で恋人同士が抱き合っているのを見つけるんだ。」
「へえ。当たるかな?」
「間違いないね」
そして僕たちはかどを折れた。
細い道には街灯もなく暗闇がいちだん深まったようで、大通りの明かりも騒音もぼくたちのいるところまでは届かず、川の底にいるようにひっそりとしていた。立ち止まって、彼女の背中にそっと手をまわしてみたが、彼女はなにも言わずにため息をついた。小さくもなく大きくもないなんだか意味のくみとれないため息で、僕はまた少し彼女のことがわからなくなった。
僕たちはただ向き合うような格好で、お互いの顔も見ずにじっとしていた。
それから少しして、後ろを歩いていた男女が僕らのわきを取り抜けていった。彼女は僕のほうを少し見てそれからまた僕の肩のあたりに目をおとした。彼女には、あの路地を抜けてきた男女に六つめの話が本当に起こったことがわかったようだった。
しかし、この暗闇の中で彼らは恋人たちが抱き合っているのをみとめることができたろうか?
「それで最後のはなしは?」しばらくして彼女が言った。
最後の話?
僕は最後の話について考えてみた。世界が凍りつく前に、目の前にいるこの子のこころに届く話をしなくてはいけない。
僕は半分ばかり閉じたまぶたの裏に、どこまでも広がる黒い海を描き、それからそこに浮かぶ大きな氷たちが次々と溶けるところを想像しながらゆっくりと次の言葉をさがした。ほんのちょとしたことで氷なんて溶けるかもしれない。だけどそれには言葉が必要だった。僕にそれを探すことが出来るだろうか?