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第1回6000字小説バトル Entry15

雨模様

 雨がやまない。
 もう一週間になる。異常気象だと騒ぎ立てる天気予報によれば、今日も夜まで降り続けるらしい。
 ――梅雨の季節でもないのに。
 早苗は不機嫌だった。学校からの帰り道。いくら傘をさしても、強い雨が体を濡らす。寒いし、柄を持つ手が湿り不快だった。制服のスカートにもいつも以上に皺が残る。雨は嫌いだ。
『沙都美は雨が好きだったけどねぇ』
 幼い頃、雨が嫌だと早苗が泣いて暴れる度、母の名を出して祖母は苦笑した。今はもう、いくらなんでも雨が降ったからといってわめいたりはしない。けれど、やはり気分は暗くなる。心が重くなる。雨雲が、体の中にまで満ちてしまう。

 住宅街の中の公園を抜けると、もう家は近い。いつもは子供達が遊び回っているそこも、今日は誰もいない。座る者のないベンチ。黒く湿った砂場。滑り台の上では、雨粒が次から次へと鈍い音をたてていた。
 雨の日は、世界が色を失う。灰色の雲が地面を翳らせる。くすんだ世界。それが早苗をさらに憂鬱にする。そんな中。

 ちらり。
 ただ一つ光ったのは。
 鮮やかな、色。

 突然、視界に飛び込んできたその青に、早苗は顔を上げた。自分が入ってきたのとは逆の入り口――つまり、今向かっている「出口」だ――から、一人の少年が歩いてくる。
 一瞬、彼の持つ傘の、眩しいくらいの青に驚き足を止めかけたものの、改めて見た相手は、普通の小学生。特に気にするほどのことはない。ほんの少し勢いを増した雨に、早苗は足を速めた。
 そして、少年とすれ違った瞬間。
 なぜだか、わかってしまった。根拠は何もない。冷静に考えれば馬鹿らしい。けれど、本当に自然に、わかってしまったのだ。

 ああ、雨を降らせているのは、この人だ。

 すれ違いざま振り返り、離れていく彼を目で追う。歩調に合わせて揺れるランドセル。水たまりに踏み入っていく長靴。遠ざかるレインコート。
 少年はそのまま一歩を公園の外に踏み出し――そこで唐突に早苗の方へと振り向いた。交差する視線。
「ねえ!」
 見ていたことを気付かれたのだろうか。しかし、何と言えばいいのだろう。早苗の焦りをよそに、少年は数歩の距離まで近づいて来る。顔をじっと見つめながら、少年が尋ねる。
「雨を降らせているのは、君?」

「は?」
「聞こえなかった? この雨は、君のせいだろ?」
 その問いかけに早苗は唖然としてしまい、すぐには答えることができなかった。何とか頭を回転させ、言葉を探す。
「……違うわよ」
「え?」
「雨を降らせているのは、あなたの方でしょ?」
 少年は、眉間に皺を寄せた。
「は?」


 それから数分後、小さな喫茶店で二人は向かい合っていた。埒のあかない問答の末、屋根のある場所に移動しよう、それが唯一、二人の一致した意見だった。
 再び訪れた沈黙。落ち着かず、グラス越しに少年を窺ってしまう早苗に対し、彼は平然とフルーツパフェのアイスクリームをつついている。しかし、先に言葉を発したのは、今度も少年の方だった。
「雨師、って知ってる?」
 聞きなれない言葉に、早苗は首を横に振る。少年はペーパーナプキンを一枚抜き取ると、そこにさらさらと字を書いて見せた。
「これで、うしって読むんだ。辞書で意味を引くと「雨の神」って載ってるけど、それとはちょっと別物。昔は中国とかそっちの方で、雨乞い専門の道士のことをこう呼んでいたらしい」
「ふーん。……突然そんな話して、何か関係があるの?」
 私がその「雨師」だ、とか言ったら、ぶん殴ってやろうか。早苗は自分に霊感も第六感も全く存在していないことをよく自覚している。とても、その雨師とやらになれるとは思えない。しかし続く少年の言葉は、幸か不幸か、全くの逆だった。
「俺の家系、その雨師なんだ」
「え?」
「雨乞いしたり、逆に雨が降らないようにしたり。あまりに大規模なことは無理だけど、雨に関することなら大抵やるよ」
 早苗は信じられず、目を丸くして少年を見つめた。そんな彼女に向かって、少年はぺろりと舌を出す。
「ただし、料金は馬鹿高いけどね。それで、今回はこの町を中心に降り続いている雨を止めるために――あ! 信じてないでしょ?」
「当然でしょ! からかってるんじゃないの?」
「本当だってば」
「それじゃあ、証拠を見せてよ。この雨、今すぐ止めてみせて」
「だから、俺もそのためにこの町に来たんだって。でも、今すぐは無理」
「ほら、やっぱりエセじゃない」
「違うよ! この原因は、君だから。君が止めようと思わなければ、やまないよ」
「そんなこと、できるわけないじゃない!」
「できるんだよ。まあ、俺が近づいたことで勢いは増したかもしれないけど。あくまで根本的な原因は君だよ」
 信じがたい話だった。だが、少年の瞳は真っ直ぐで、表情は真剣で。嘘をついているようには見えなかった。笑い飛ばせなかったのは、だからだろうか。あるいは、正反対といえ、私も同じ類のことを感じたからか。
「……私じゃないわよ。そもそも、雨が降ればいいなんて思うわけがない」
「君は、雨が嫌い?」
 少年の質問に、早苗は今度は即答する。
「嫌い。降らないと困るのはわかるけど、憂鬱じゃない」
「俺は好きだけどな」
「……お母さんも、好きだったって」
「過去形?」
「私が小さい頃に死んじゃったから。ずっと入院してたし、あまり覚えてないけど」
 早苗が幼稚園に入るより前、天国へと去った母。病院以外の場所で共に過ごしたことはないけれど、晴れの日は陽だまりの中、雨の日は雨音の中、いつも笑っていたのをぼんやりと覚えている。それにつられるように、私も――。
 ……私も?
 そう、あの頃は雨が嫌いじゃなかった。嫌いになったのは、いつだろう。

 小雨の日。家にかかってきた一本の電話に、父が慌てて飛び出した日。
 どしゃ降りの日。「お母さんは死んだんだよ」。そう言われて、何のことだかわからなかった日。
 静かな雨。葬式の日。私はひたすら泣き、涙と雨が黒い服を更に濃く染めた。祖母はそっと私を傘の中に入れた。それでも、涙と共に心に降り続けた雨。
 感傷は好きじゃない。トラウマなんか抱えるほど過去に縛られているわけでも、雨が降るたびに母のことを思い出すわけでもない。むしろ今日まで、母の死と雨がこんなにも関係あったことを、忘れていたくらいで。
 それじゃあ、どうして――?
 どこで私は、雨が嫌いになったのだろう?
『沙都美は雨が好きだったけどねぇ』
 脳裏に浮かんだ、一つの光景。


 梅雨の頃だったろう。雨の日の病室。父親は用事でおらず、母と二人きりだった。
『あーあ、せっかくお母さんに会える日なのに、雨なんてやだなぁ!』
『早苗は晴れてる方が好き?』
『好き!』
『どうして?』
『だって、雨だと外で遊べないもん』
『そっか。でも、お母さんは雨も好きよ。ほら、見てごらん』
 母は細い腕で私のことを抱えあげ。一緒に窓から、雨の降り続く外を眺めた。
『綺麗でしょ?』
『晴れてる方が、きれいだよ。空も青いし』
 そう膨れる私に向かって、優しく、本当に優しく母は笑い。そして。
『雨の日はね――』
 そこで、途切れる記憶。私ははっと我に返った。


「私……ぼーっとしてた?」
「うん。突然トリップしてたから、声かけられなかったよ」
 目の前では、少年がスプーンをくわえ、人懐っこく笑っている。
「何か『思い出しました』って顔してる。教えてよ」
「……母が、雨の日に言っていた言葉があるの。多分、雨が好きな理由だったと思うんだけど。それが思い出せなくて」
「へぇ……」
 自分で驚くほど、素直にこぼれ出てきた言葉。それを聞いた少年は、最後のイチゴを口の中へ放り込み、少しの間考え込む。
「その日は、確かに雨が降っていたんだね?」
「それは間違いないけど……?」
「じゃあ、俺の出番だ」
 空の器の横にスプーンを置くと、少年は手を伸ばして早苗の腕を掴んだ。驚いて、早苗はグラスを落としかける。
「ちょっ、どうしたのよ?」
「いいから。黙ってて」
 彼があまりに真剣な顔をしているから。早苗は無言で彼を見つめた。そして。
「あっ……」
 不意に、世界が開けるような感覚に襲われる。足場を失ったような。
 そして、次の瞬間。早苗は先ほどの光景の続きを見ていた。


 ベッドの上、母親に抱かれながら、幼い早苗は窓の外を眺めている。穏やかな空気。雨の音に包まれた病室。
『雨の日はね――』
 母親が口を開く。早苗は窓から視線を離し、母を見上げる。
『雨の日は、世界が光るのよ』
『えー、嘘だよ』
『そんなことないわよ。ほら、よく見てごらん』
 自身ありげな母に、早苗は不信の視線を送る。母は笑って、窓の外を指差す。その指先を追って、早苗も窓の外に視線を戻す。
『ほら、世界の全てが、キラキラ輝いているでしょ?』
『――あっ』

 草花を、木々を、屋根を濡らした水滴が。キラキラ、まるで宝石のように光る。派手にではない。けれど言われてみれば、あちらで、こちらで、次々と。車のライトが当たるたび、誰かの靴で水しぶきが上がるたび。雫が光る。
 キラリ。キラリ。
 じっと見ていると、静かに落ち続ける雨ですら、天から降り注ぐ細い細い光の糸。輝きながら、地面へと向かっていく。
 光る世界。空は確かに、曇り空なのに。太陽の光は差し込んでいないのに。それでも確かに、光り輝く世界。

 綺麗だった。不思議で、じっと窓の外を見つめたまま、早苗は母にぎゅっと抱きついた。
『ね、雨も悪くないでしょ?』
『うん! 今の話、好きだよ。忘れない』
 母は語りかける。優しさと、愛を込めて。
『でもね、ほんとは、雨の日だけじゃないんだよ。覚えていてね。この世界は、どんな天気の日でも、どんな時でも、本当はとても綺麗に輝いているんだよ……』


「見えた?」
 少年の声に、早苗はここがどこか、そして自分がもう幼くないことを思い出す。目の前には、生意気な少年の笑顔。思わず辺りを見回しても、母がいるわけもなく。
「ねえ、聞いてる? 何か見えた?」
「見えたわよ」
「それで?」
 少年の問いかけがどんな答えを促しているのかわからず、早苗はとりあえず、一番伝えたい言葉を口にした。
「……ありがとう」
 少年が笑う。生意気。ふざけてちょっと睨んでやる。
『覚えていてね』
 脳裏に甦る、母の声。忘れないって言ったのに。こんなにも大切で、愛しいことだったのに。どうして忘れていたのだろう。雨が嫌いだったのも、この思い出のこもった心の欠片を、見失っていたからに違いない。
 窓の外に目をやれば、相変わらず降り続く雨。思い出の中、病室の窓から見た景色と重なる。さっきまで色褪せていた世界、光を失っていた世界は、よく見れば、ちゃんとキラキラ輝いていた。店名の書かれたガラスをつたう雫が。通り行く人の傘ではねる雨粒が。
「綺麗ね」
「え?」
 少年がきょとんとした顔で聞き返すから、早苗は繰り返すのがなんだか気恥ずかしくなってしまって。だって、なんでもない光景だから。
「……雨もそう悪くないかもしれない、って言ったのよ!」
 少年はそれを聞くと、にやりと笑い、唐突に立ち上がった。そして何も持たずに歩き出す。早苗の向かいには、ランドセルがぽつんと置き去り。
「ちょっと、どこ行くの? 待ちなさい!」
 早苗の静止には全く耳を貸さず、少年は喫茶店を駆け出していく。他の客の視線が彼を追う。溜め息をついて座席を見れば、ランドセルだけではなく、傘すらも置きっぱなし。嫌な予感を感じながら窓の外を見れば、案の定、頭から雨を浴びる少年が、早苗を早く早くと手招きしている。
「全く……」
 ランドセルと学生カバン、二本の傘、それに伝票を抱え持つ。レジで理不尽さを覚えながらも二人分の代金――しかもパフェはジュースの二倍の値段だ――を払い、外に出ようとし。そこで気が付いた。両手の塞がったこの状態では、早苗も傘がさせない。とにかく体でドアを押し開けて、早苗は怒鳴った。
「自分の荷物くらい持ちなさいよ!」
「嫌だよーだ!」
「あんたの荷物でしょ? 捨てるわよ!」
「そんなこと、できないくせに」
 図星を指されて言葉に詰まる。と同時に、かっと頭に血が上った。
「待ちなさい! 風邪ひくわよ?」
 荷物を抱えたまま、少年を追って駆け出す。もちろん傘はさせないまま。濡れるのは、この際諦める。
 少年は笑いながら、早苗の少し先を駆けていく。私、どうしてこんな雨の中、鬼ごっこなんかしてるんだろう。しかも名前も知らない小学生と。疑問が頭をよぎる。けれども、止まる気にはなれなかった。あんな子供にからかわれて、悔しかったから。そしてさらに悔しいことに、雨に濡れて駆け回ることが気持ちよかった。もう、雨は嫌いじゃない。憂鬱なだけじゃないって知ってしまったから。それこどろか。
 気が付くと、早苗も笑っていた。それに気付いた少年が、さらに笑う。
 もしかしたら、この雨は母が降らせていたのかもしれない。早苗があの言葉を、あまりにも綺麗さっぱり忘れているから。思い出すのを待っていた母も待ちくたびれて。だから、早苗が思い出すように、雨が嫌いじゃなくなるように、この長雨を降らせたのかもしれない。そう思うと、この異常気象は素敵だね。


 それから、どこをどれだけ走ったのか。いつの間にか二人は出会った公園へと戻ってきていた。少年はベンチを見つけると、そこがびしょびしょなのにも躊躇わず、駆け寄って座り込んだ。少し遅れて辿り着いた早苗も、迷うことなく隣に座る。服が肌に張り付くのは、雨のせいか汗のせいか。もう二人ともふらふらだった。
 弱まった雨が、火照った体を静かに冷やす。早苗はしばらくボーっと空を見上げていたが、はっと思い出して少年に荷物を突きつけた。ついでに軽く頭を小突くと、髪についた雫がキラキラと光った。
「あなた、光ってるわよ」
「君も光ってるよ。……なんて、変な会話だね。誤解されそう」
 もう片手は空いていた。けれど、今更傘をさす気になんかなれなかった。セーラー服はすっかり変色しきっている。こんなに濡れて、明日も学校あるのに、乾くのかな。それより、革靴の方が危ないかも。
 ねえ、だけど。まるで濡れ鼠みたいになってることなんて気にならないほど。綺麗だね。泣きたくなるほど、綺麗だね。

 天を仰ぐ。遠くの空で、雲の切れ間から覗く青。少年の傘の色。鼻の奥がつんとした。少し涙出てるかも。でも、きっとこの雨と溶け合ってわからない。
「雨、夜のうちに上がるよ。仕事、成功だ」
 明るい声。結局、この子は本当に雨師なのか。その真偽は謎のまま。だけど、確かなこともある
 次に雨が降ったとしても、早苗の心は曇らない。
 雨の日に浮かぶ思い出は、母の優しい微笑みと、雨師を名乗る少年の生意気な笑顔。ちょっとせつなく、ちょっと甘く。少しの不思議と、たくさんの高揚感。
 そして、世界はいつだってキラキラ輝いているから。

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