第1回6000字小説バトル Entry16
スターターの光と音がスタジアムに響き渡った。
(いける)
会心のスタート。他のランナーを、コンマ〇〇〇七秒は出し抜いている。
風間祥一は身体中の筋力を足に集中し、地面を蹴った。
身体に装着した風圧避け用のブレードが、瞬く間に空気との摩擦で熱を持ち始める。
投与された薬剤が作り上げた肉体と骨格が、ほんの百メートルの間に時速五百キロまでの加速を生む。この常識離れした加速こそが、『ドーパー大会』スプリンター部門の醍醐味。
二呼吸する間もなく、風間は五〇〇メートルコースを走り切った。他のランナーたちは横目にも見えない。
三.五九九九秒。
電光掲示板にタイムが表示された。
(三.六を切った!)
喜びに風間が気を弛めた一瞬。ずっと真正面に向けられていた彼のブレードが、ほんの僅かに傾いた。
(しまっ……)
瞬間、強烈な風圧が減速しきっていない風間を襲う。転倒した彼は、そのまま数百メートル転がって止まった。
観客の歓声と怒声がスタジアムに響き渡る。
(あ、脚は)
痛みはなかった。
しかし。
あるべき場所に、右脚がなかった。
病院から帰る風間は、ほんの少しだけぎこちなく歩く。
人工肢の右脚は、まだ調整が必要そうだった。
「どんな薬も許されるドーパーも、サイボーグだけは御法度、か。参加期限の五年まで、まだ一年も残ってたんだがな」
その時、風間の前で一台の自動車が停まり、中からヒゲを生やした男の運転手と、作業着姿の若い女が降りてきた。
(服のセンスのない女だな)
「風間祥一さんですね」
女が声を掛ける。敬語が少しぎこちなかった。
「キャッチセールスも宗教も間に合ってる」
「違います、川本製薬のドープ課の者です。私は、課長の川本です」
女は名刺を差し出した。
「聞いた事がねえな」
風間は名刺を受け取りもせず、立ち去ろうとする。
「業界ベスト十六に入ってるのようちは」
「手形の多さか何かがか?」
「取引額に決まってるでしょ!」
「川本さん失礼です! 私に代わって下さい」
堪えきれなくなったのか、運転手の男が口を挟んできた。
「申し訳ありません、風間様。計画の最高責任者とはいえやはり川本は技術畑の人間ですので」
「斬新な営業手腕だと思ったが」
「風間祥一様」
運転手の男は、深く頭を下げた。
「あなたのドーパーとしての実力を、我が社に貸して頂きたいのです」
「テストドーパーだな」
車の後部座席に座った風間は、憮然としたままの川本の横顔を見ながら呟く。
「はい」
運転手が頷いた。
「人工肢でドーパーのレギュレーションから外れたとはいえ、風間様の走力はご健在の筈。こう言ってはなんですが、世界レベルのドーパースプリンターとしての実力、このまま腐らせるのはあまりにもったいない」
「だからテストドーパー、か?」
「はい」
「言ってみれば、新薬のモルモットって奴だな」
「引き受けて頂けないでしょうか?」
「イヤなこった」
「なに? 副作用が怖いの?」
挑発気味に川本が口を挟む。
「百メートル走るのに十秒もかかる奴が偉そうに吠えるな」
「失礼ね! 三十秒よ!」
「もっと遅いじゃねえか」
風間は両腕を背もたれに掛ける。
「テストドーパーの話は、もうファーザーやロードなんて大企業から来てんだ。零細企業は、お呼びじゃねえ」
「寄らば大樹の陰ってわけ!?」
「悔しかったら、大樹になってみろよ」
「な!」
「ごもっともです」
言葉に詰まる川本を抑え、運転手が静かに言った。
「ですが風間様」
にやりと彼は笑った。
「音速を超える気は、ありませんか?」
――長い沈黙のあと、風間はバックミラー越しに運転手を見つめた。
「あんた、俺の最高速知ってるだろ?」
「最高時速六六二キロメートル。ちなみに世界レコードが六七〇キロですね」
「単純な算数だ、音速の一一九三キロには目一杯足りねえ」
「そうでしょうか?」
「ドラッグレースの事を言ってるのか?」
「まあそんな顔をなさらずに。確かにドラッグレースは、薬物の使用過多と事故発生率の高さで、ドーパー界にあっても異端です」
運転手の目は、鋭かった。
「でもね!」
川本が強引に口を挟む。
「もしも、超一流のドーパーが、最高の薬を使って最高速だけを目指して走ったら、突破できるの、音速を!」
「音速、か」
風間は目を閉じ、天井を仰ぎ見る。
「それで、あんたたちはそんな馬鹿げた薬を作ってどうする気だ?」
「人間が自分の肉体で音速を超える、それ以上何があるっていうの!」
川本が怒鳴った。
「やれやれ」
小さく風間は溜息をついて笑みを浮かべた。
「ギャラはいくらだ? せめてそれぐらいはまともなんだろ?」
ゆっくりと落ちていく青黒い点滴の雫を、風間は見つめる。
「どうですか?」
白衣姿のスタッフが尋ねる。
「……大丈夫だが、何を入れてる?」
「ナノマシン――分かり易く言えば、血球ロボットです」
「血球ロボットだと?」
「各種血球と同じサイズで、数万倍の働きをするマシンです」
「っと待て」
風間は点滴用の柔らかい針に触れた。
「つまり何億って血球を、一つ一つ作ったってことか?」
「そうです」
「死ぬほどコストが掛かるだろ、それ」
「その代わり、一回の投与で一年は保ちますから」
「無茶な薬だな、しかし」
「川本製薬の社運を掛けた薬剤ですから」
風間は走る。
血中のナノマシンが、筋肉を活性化し、血流をも操る。
まるで、自分の肉体ではないようだった。
案外、脳も操られているのかも知れない。
狂的な加速に驚く間もなく、風間は二〇〇〇〇メートルのコースを走り切った。
「最高時速一〇五〇キロ、ですよ」
スタッフルームでは、ヒゲを生やしたスタッフが、大きく溜息をつく。
「初投与、初計測で、人類記録を超えちゃった……」
川本は呆然と呟いた。
「ドラッグレーサーを元にしたシミュレーション結果は、九〇〇強ですからね。本物の違い、でしょうか」
「――おい」
ドアが開いて冷たい風と共に、風間が入ってきた。
「あ、風間さん、お疲れ――」
「ふざけんな!」
憮然として、風間は座った。
「あんなブレードじゃ、あと一〇キロも上げられねえ!」
「ブレード?」
スタッフたちは顔を見合わせる。
「ち、ちょっと待ってよ」
川本が声を上げる。
「今のブレードだって、ドラッグレース用のチタン・リチウム合金製の最高級品だよ?」
「俺は、ドラッグレーサーよりも二〇〇キロ増しで走ってんだ。同じもんが通用するか!」
「でも」
「ブレードが三ミリ歪めば、ドーパースプリンターは死ぬんだ。金に糸目ぇ付けずに用意しろ! それが出来るまでは、一歩たりとも走らん!」
大きな音を立ててドアを閉め、風間はスタッフルームを出て行った。
「自分の実力を棚に上げて物に当たるなんて最低!」
「……耐えましょう、課長。記録は本物ですよ」
「だから気に喰わないんだよ!」
川本は吐き捨てるように言った。
(いいブレードだ)
ほんの時速三〇〇キロ程度に加速しただけで、風間は実感していた。
どんどんスピードが上がっていく。
新しいブレードは、カミソリのように鋭く空気の壁を切り裂いて行く。人工肢に置き換えられた右脚の動きも、完璧だった。
そして、血管の中を流れるナノマシンも、順調に筋肉を活性化させる。
時速五〇〇、六〇〇、七〇〇――。
体感速度を測りつつ、風間は走る。
新たに用意させた加速用の四〇〇〇メートルトラックを、もう一周走る。
九〇〇、一〇〇〇、一〇五〇。
(この前のベストか)
風間の表情が鋭くなった。
(ここから、だ)
彼はスピードを上げていく。もう、トラックの曲線を走れない。直線コースへ――。
わずか二〇〇〇〇メートルの直線コースを一気に駆け抜ける。
無尽蔵に上がって行くスピード、そして壁のようにまとわりつく空気。空気の摩擦で、ブレードが熱を発する。
(!)
と、ブレードが揺れ始めた。
スピードを上げれば上げるほどブレードの揺れは大きくなり、風間は体勢を維持できなくなる。
(くっ)
気がつけば、彼は速度を弛めていた。
「はぁ、はぁっ、はあっ」
ゆっくりと減速し、立ち止まった風間は、うつむいたまま肩で息をする。
「音速の、壁か」
ぽつりと呟いて、彼はブレードに手を掛けた。
「熱っ!」
加速していく風間のブレードが、激しく震える。これ以上、これ以上揺れたら、音速の壁にぶち当たって――。
風間は減速して立ち止まった。膝が痛む。
「畜生!」
ブレードを引き剥がし、彼はスタッフルームに入った。
「お疲れ様」
川本が心配そうな顔で、風間にタオルを手渡す。
「大分、タイムが上がって来たよ。もう時速一一〇〇キロを超えて……」
「停滞してるのは俺自身が分かってる」
空いている椅子にどっかり腰を下ろし、風間は自分の顔にタオルを掛けた。
「必要なのは、音速の壁をねじ伏せるだけの安定性だ」
川本の返事はなかった。
「ブレードを、あと〇.七グラムだけ重く――あ、それと気温も五度ほど下げてくれ。音速は少しでも遅い方がいい」
タオルを掛けた顔を天井に向けたままで、風間は自分の左脚をもむ。
「風間、さん」
遠慮がちに川本が声を掛ける。
「なんだ」
「脚、大丈夫?」
「まだ走れる」
「違う、大丈夫かって訊いたの!」
「充分走れる」
顔にタオルをのせたままで、風間は答えた。
「医療スタッフから聞いたけど、もう骨も筋組織も――」
「俺が走れるってんだから走れるんだよ」
風間は立ち上がり、顔に掛けていたタオルを川本に放った。
「温度は下がったか?」
「はい」
遠慮がちにスタッフが返事をする。
「よし、もう一本走る。計測を頼む」
「あと一回で音速を突破できなかったら!」
「……もう一回走るまでだ」
ブレードをひっつかみ、風間はコースに出て行った。
「せっかく人が心配してるってのに!」
密度の高くなった音波が、必死に風間に抵抗する。
もう少し。
もう少し。
しかし、激しい揺れにブレードが傾き、またしても空気抵抗に押し戻され――。
「ぬあっ!」
バランスを崩し、風間は転倒した。
がああああああっ!
激しい音と火花が散り、風間は数百メートル滑ってからようやく止まった。
「い、痛たたた」
ふと自分の脚に目をやると――。
「み、右脚が――って、人工肢だったか」
人工肢が、まるで下ろし金ですり下ろされたようにすっかりなくなっていた。
「後一歩で脚が縮む」
大きく溜息をついて、風間は身体からひしゃげたブレードを引き剥がしすと、左脚だけでゆっくり立ち上がる。
「興奮剤でもごまかし切れねえとはな」
遠くに、担架を持って駆け寄ってくるスタッフが見えた。
「もうやめて!」
病室の風間に、川本が怒鳴る。
「やっぱり駄目だよ、今度こんな事故があったら!」
「ちょいとヘマをしただけだ。構うなよ」
風間は新しい人工肢を叩いてみせる。
「そのちょっとのヘマで、宇宙合金製の人工肢が粉になっちゃったんだよ! もしもこれが頭だったら!」
「今、こうして脚が動いて走れる以上、なんの問題もねえ」
点滴の針を自分で引き抜くと、風間はベッドから起き上がる。
「ダメだよ!」
「俺は走れると言っている」
「風間、さん!」
川本はその場で土下座をした。
「ごめんなさい、あたしが馬鹿でした」
床に付きそうなほど、頭を下げる。
「残りのギャラも、違約金も払いますから、だから」
涙の溜まった目で、川本は風間を見上げた。
「お願い、もうやめて下さい」
病室の中が、しんと静まりかえった。
立ち上がり掛けた風間は、ベッドに腰を下ろした。調整前の人工肢が、微かな金属音を立てる。
「――世界一になったことあるか?」
「え?」
「世界一だ。みんな俺の後ろを必死に走る。俺が最速、俺が世界を切り拓く。不遜、自己満足、優越感、言いたきゃ言え、俺はそのためにドーパーの道を選んだ」
風間は真っ直ぐ川本を見つめる。
「そして今、敵は音速だ。誰かの記録なんて手垢にまみれた代物じゃない。人類初、未知の領域だ。ここに到達出来るなら、悪魔に魂だって売ってやるさ。高枝切りバサミだってオマケに付けてな」
何も言えない川本をそのままに、風間は立ち上がった。
「先に、行ってるぜ」
風間は助走を始める。
(世界一、か)
ブレードに覆われた口元が弛む。
(我ながらすっかり忘れてたぜ。こんなハシタ銭で走ってる理由をよ)
人工肢の調子はいい。だが左脚には、ドーパーとしての四年半の疲労が溜まっている。
(これが、最後だな)
時速三〇〇、四〇〇、五〇〇――。
風間はゆっくりと加速していく。
(音速か)
空気抵抗で、ブレードが加熱され熱が伝わってくる。冷たいコースの空気が暖められていく。
(行くか)
風間は直線コースに出た。
九〇〇、一〇〇〇、一一〇〇――。
(来た)
ブレードがガタガタと揺れ始めた。下手に傾けば、また転倒する。
(二本の脚での超音速、人類誰も成し得なかった記録)
転倒の記憶が恐怖となって脚を縮める。
(出来ないかも知れない)
スピードを緩めようとする。
(出来るわけがない)
何より、ブレードの激しい揺れが、強烈に風間を襲う。
しかし。
(怖え)
風間は恐怖した。
(俺は怖がってる!!)
恐怖を認めた。
もう一歩を踏み出した。次の一歩も、また次。更に速く更に遠くへ。
揺れは最大に達し、そして。
ぷつっ。
左脚の何かが、切れた。
もうブレードを抑えきれない。こんな脚では支えられない。
死ぬ。
「死ぬかあああああっ!!」
風間が叫んだ時。
ふいに全てが静かになった。ブレードは、静かに風を切っていた。壊れたはずの左脚は、すさまじい速さで動いていた。
(音の壁を……)
静けさの中を、風間は走り続けた。
いつまでも、いつまでも。
ドラッグレースで、音速を超えたドーパーたちが、次々とゴールしていく。
優勝トロフィーを手にしたドーパーが控え室に戻ると、一人の老人が座っていた。
「? だれだ、あんた」
「いい走りだった。それだけ言いたくてな」
老人と見えたが、よくみれば目は若く、両足とも人工肢になっていた。
「そりゃどうも。じいさんもドーパーだな?」
「元、な。スプリンターだった」
「ふーん。ま、ともかく出て行ってくれ。ここは部外者立入禁止だ」
「そうだったな。邪魔した」
老人は立ち上がった。
「ところでじいさん、現役のレコードはどれくらいだったんだ?」
「参考記録だが、時速一二三三キロだな」
「大したこたぁないな」
ドーパーは、少し馬鹿にしたように笑う。
「俺は一四〇一キロだぜ」
「流石はチャンピオンだな。格が違う」
老人はドアを開けると、一度だけ振り向き、にやりと笑った。
「もっとも、大したことのない俺の記録も」
彼はドアが閉まる間際に言った。
「十年間ばかし世界一だったがな」
「え?」
――ドーパーの顔色が変わる。
「まさかあんた!」
彼は廊下に飛び出した。
しかし、老人の姿は既になく、一陣の風だけが取り残されたように吹いていた。