第1回6000字小説バトル Entry22
相手にされていないかもしれない。
ときどき、貴文は思うことがある。
無防備にさらされた足が、細く白く。暑い季節にはまだあるのに、下着のようなうすいシャツに短いクォーターパンツ。(小学生が体育ではくようなやつだ)
男の部屋でこんな格好でぐっすり眠れるか?
自問自答した結果、やっぱり相手にされていないのか、と思った。
貴文はそっと顔をのぞきこむ。そんなことにはまったく頓着せず上下する胸。長い睫毛。かたごしまである髪は、耳のあたりで軽くウェイブしている。それは一見すると茶色なのだが、光にすかすと緑に見えるのだ、と自慢そうに話していた麻子。綺麗にぬられた爪の色も緑。
不意にううんと呻いて麻子が小さく目を開けた。
うすく開いた目と、のぞきこんだ目とがあう。焦点のあっていない、寝起きの目に射すくめられて、完全に顔を上げるタイミングを逃す。貴文はそのまま大きく口を動かした。
「お・は・よ・う」
麻子はうるさそうに顔をしかめて手をふった。おはようじゃない、まだ寝るわ。そう言って顔をふせてしまう。
貴文はとんとんと麻子のかたを叩く。時計がさししめすのが、もう七時だと気付いたからだ。嫌々、それはもうものすごくいやだという表情で(だって額のたてじわはどうしてくれよう)麻子が顔を上げる。
「七時だ。会社」
「有給休暇」
「今月に入って三回は聞いたぜ?」
「きのう三人組の女の子が全員買ってくれたからいいのよ」
ご丁寧にお友達紹介カードまで書いてくれたしね、と麻子は再び目を閉じた。
麻子は化粧品のセールスをやっている。ひがな一日繁華街にいて女の子に声をかけ、綺麗だなんだとほめたたえ、バカ高い化粧品のセットを買わせるのが彼女の仕事だ。完全出来高制なのでしょっちゅう麻子は「有給」休暇をとっている。
貴文は小さく溜息をついてシンクに向かった。コーヒーでも入れて目をさまさなくてはなるまい。またすうすうと寝息を立て始めた麻子は目の毒だ。
空の向こうにはどんよりとした雲がたれこめている。雨は降っていない。
珍しい。梅雨が終わるにはまだ早すぎるのに。
コーヒーの匂いに目をさましたのだろうか。麻子がごそごそと起きだし、キッチンにやってくる。
おはよう。コーヒーを入れながら貴文が言う。
おはよう。寝癖を直しながら麻子が言う。
コーヒーのカップを軽く掲げてみせる。飲む? という疑問符。
「いらない。コーヒーってこんなにいい匂いなのに飲むと胸焼けするんだもの」
自分専用のカップをだしながら麻子が言う。勝手知ったる何とやらだ。カップとココアの缶(麻子が買い置きしたやつ)をとりだす右手の薬指に針金の蝶がとまっている。
針金の蝶々。
うれしさとさみしさが同時にこみ上げてくる。それは、貴文が麻子にプレゼントしたものだった。
貴文がちょっと前にやっていた割の良い内職に、それはあった。
針金のリングを作る。天使の羽やら、かわいいハート型やら、ちょっとしたビーズを通したり、そんな小細工のようなものを作る。手先の器用さには自信があった貴文にとって、そんなものをひとつ作るだけで50円も貰えるというのはおいしい仕事だった。(ちなみに、それは店で350円もして売られている。ただのような材料費と自分の賃金と、指輪の価格とを見比べて。なんだか複雑な気分になって貴文はその仕事をやめた。)
ひょうほんみたい。
つくえの上に、大量に並んでいる蝶を見て、麻子は言った。右手を差しだして、つくえ向かいの貴文に右手の薬指に針金を巻きつけさせながら。(だからあの店に並んでいるのは、全て麻子の薬指のサイズなんだ)
こんなのが欲しいなんてわからん。
貴文は器用に針金を蝶に変化させながら言った。この頃にはもう、資本主義の驚くべき秘密を知ったあとだったので、もう追加の注文は受けないつもりだった。あっという間に、一匹の蝶が標本に加わる。どうしてこんなのが欲しいんだ、自分で作ればいいじゃないか。
声には出さなかったのに口は動いていたのか、麻子が返答する。
自分でなんて作れないよ。
麻子は耳が聞こえない。唇を読む。生まれつきではない。小学校のなかごろから聴力を失ったらしかった。だからちゃんとしゃべれる。全然聞こえないわけではないらしく(医者によると普通の十分の一程度は聞こえているようだ)それに、読唇術に長けてもいるので、事情を聞かなければ普通の人と同じに見える。
貴文の手の中で蝶がまた一匹生まれ出る。もう良いかな、と思う。ここの店にこんなに貢献してやることもあるまい。
作ってやろうか。
ことん、と小さな音を立てて蝶は標本に舞い降りた。きっとこの音は麻子に届いていないだろう。
良いの?
別に大した労働でもないし。
言って貴文は、麻子の左手をとってその細い薬指にくるくると、いささか緊張しながら(しかし麻子にはそれを悟られないように)針金をふた巻きする。
ねぇ、
形、なにが良い?
あ、ええと。蝶々。
そっと指から針金を抜き取って蝶の形に仕上げていく。さっきまでと同じ作業なのに、見知らぬ誰かのために作るのと、目の前の麻子のために作るのではこんなにも違う。
なんで左手なの?
え?
さっきまで右手の薬指で型取ってたのにさ、急に左手で取ったから。
羽の模様は複雑で、触覚は繊細で、蝶は針金リングの中でも一番むずかしい。カンタンに作っているようでいて、実はけっこう疲れる。特にこんな話題を出されると。
出来上がった蝶は、今度は標本に加わらない。左手をもちあげて、薬指にそっとはめてやる。それはそれはぴったりとはまる。(さっき型を取ったばかりなんだから当然だ)
薬指に指輪をはめる夢ぐらい見たっていいだろ。
そう言えたら。でも、それこそ夢だった。実際口からでてきたのは、実に無愛想なひとことだけ。
べつに。
耳が赤くなっていないかということだけが気掛かりだった。
あの、蝶が。
あの小さな針金の塊が。今とまっているのは右手なのだ。
まだ付けていてくれたのだ、というよろこびもあり、しかし右手にはめられている指輪の意図を思って悲しくなった。
「それ、まだ付けてたんだな」
え、といって麻子はカップにココアを注ぐ手を休めた。
「だから、その、蝶」
なぜだか指輪、という単語は素直にでてこなかった。あんなものを指輪、と称してしまうのはなんだかあんまりな気がしたし、指輪という単語はとにかく気恥ずかしかった。
「これ?」
かわいいから。答えはそれだけ。かわいいから。
何事もなかったようにココアをコップに入れる作業を再開。冷蔵庫を開けて牛乳をとりだすと、ココアを作るにはいささか大きな(しかしミルクナベなどというものは、独り暮らしのオトコのうちに、そうそうあるものではないから仕方ない)片手鍋に牛乳をたぷたぷと注ぐ。そのまま火にかける。
作業の中にも答えはない。だって麻子にとってはかわいいから、で理由は済んでしまっているのだろう。
それ以上の答えなんてあるのか、と貴文は自分の位置に苦笑する。麻子にとって、それは『少し親しい友達がくれたプレゼント』以上でも以下でもないのだろう。
「どしたの? ココア飲む?」
のぞきこまれた目には、今の気持ちなんて見透かされたくない、と思った。でも見透かされた方が絶対に楽にはなるのを、分かっているくせに目をそらす。
「いや、いい」
恥ずかしくて、カップの中に顔をうずめた。コーヒーの気持ちいい湯気を気管支いっぱいに吸いこんで、貴文は。
少しだけむせた。
「バックギャモンしない?」
「俺はなにをしてるのかな?」
仕事だよ仕事。
「ねぇねぇ。前々から思ってたんだけどさ、貴文くらいならあたしが食べさせてあげられるよ?」
「それはなに? 俺にヒモになれと?」
そうじゃないけれど。麻子はむくれてつぶやいた。こういうときの麻子はとてもかわいい、と本当にそう思う。しかしながらそれは貴文にとって、麻子を直視できないときでもある。だから、わざとそっぽを向いて仕事に集中しているふりをする。今日のお仕事は作曲。知り合いのアマチュアバンドなので報酬はスズメノナミダだが、だからといって手を抜いていい理由にはこれっぽちもならない。
とんとんとシャープペンシルの尻でこめかみを叩くが、そんなことでメロディが浮かぶなら世界中みんなが作曲家だ。貴文は一息大きな溜息をついて五線譜が書かれているノートを閉じた。せっかく麻子のためにメシのタネを閉じたっていうのに、かんじんの麻子は視線をまどのそとに走らせている。
「雨、降らないのにじめじめしてるね」
「だから洗濯日和ってわけでもない」
意外と家庭的なのね、とやっと貴文のほうを見た麻子がからかう。プータロウらしくお食事はほとんどコンビニ弁当だけれど、確かにゴミ箱みたいな部屋で万年床に横になってるイメージは湧かないわ。
笑みをふくませて言いながら、麻子は革張りのバックギャモンをあけた。
「光栄だね」
取扱説明書は行方不明だ、ということを知ると、記憶だけをたよりにバックギャモンのコマを並べはじめた麻子の手に、貴文は自分の右手を軽く添えた。
弾かれたように麻子が顔を上げる。顔と顔の距離が驚くほど近い。
「な……に?」
るるるるる。るるるるる。
貴文は立ち上がる。つかつかと歩く。麻子に見えないように舌打ちして。
だから麻子はぽかんとした。そのあとすぐに憤怒の表情で。
「なんなのよ!」
「電話、鳴ってんの。ちょっと待ってて。もしもし?」
あ、タカ? おれ、久志。聞きなれた声に、貴文は文句を言うチャンスも逃す。
電話を左の方にはさんで、麻子に、久志から、と声に出さずに言う。ふてくされている麻子は、果たしてそれを見ていたかどうか。
「どうした?」
「いや、今、外からなんだけど、りくもいてさ。みんなで一緒に映画でも見に行かないかな、と思って」
「お前達のカップルの中に入って行くの勇気がいる」
貴文は笑って言った。が、それは半分以上が本心だった。りくも久志もあれでイチャイチャしていないつもりなのだから恐れ入る、と貴文は小さく毒づく。
「いつも楽しく談笑してるだけだろ?」
「うそつけ」
「それに。今りくが麻子にも電話かけてるから」
りく。
りくの声は、麻子がはっきりと聞き取れる唯一の音だ。と言っても人一倍声が大きいなんてことではない。心因性の麻子の失聴は、確かに人によって聞こえたり聞こえなかったり、という可能性はある。それも麻子が聞こえる、聞こえないを選んでいるわけではない。それは分かっている。しかし。
なぜ聞こえるのが俺の声じゃないんだ。貴文がそう自問したのも一度や二度ではない。
「タカ?」
「あ? ああ。わかった。決めてからまた電話するわ」
「いいけど。いつもの角の所の映画館だから。二時に始まるから。別に四時からのやつでもいいんだけど」
分かった分かった、と適当な返事をする貴文をいぶかりながらも久志はそれじゃ、と電話を切った。
「うんうん、分かった二時ね。じゃあね」
語尾にハートマークが確実についていただろう口調で、麻子が電話を切っていた。りくは麻子の大のお気に入りでもある。チュッと携帯電話をひとしきり愛でたあと、貴文の視線に気付き、繕うでもなく訊いてくる。
「あ、映画。だってね。どうする? 行く?」
「なんの映画だっけ?」
どこまで上の空だったのか、と貴文は自分で自分に嘲笑でもしてやりたい質問をした。訊いたあと実際、鼻で笑った。
「たしか、ラブストーリーよ」
そう言って麻子は、超古典的な恋愛映画だ、とテレビや新聞でしんらつな批評を述べられている映画の名前を口にした。
「あたしは」
麻子が、言いながらくるりとベランダに視線を向けた。今泣き出しそうな空。灰色と言うより黒に近い雲、雲、雲。さっきまではなんだかんだ言ったって、雨は一滴だって落ちてきそうになかったのに。
「バックギャモンしてる」
ひとりでバックギャモンはできないでだろ? それを分かっているのか? 期待していいのか?
「貴文は?」
ぽつり、と雨が硝子を叩いた。
「やめとく」
行くなってさ。雨が背中を押してくれる。
「雨降ってきたし、映画なんか行く気失せた」
麻子の視線とぶつかった。麻子は世にもやさしい笑顔で破顔した。そして、バックギャモンの続きを並べはじめる。
貴文は久志に電話をかけに行く。久志に麻子も行かないって、と伝えるのはどうだろう。思いっきり色男の声でさ。
るるるるる。
久志が電話を取るまでのコールの時間、麻子が訊いてきた。
「ねぇ」
なに? コール音は続く。久志のやつ、りくと「楽しく談笑」してでないんじゃないだろうな、と貴文は不穏な想像をめぐらす。
「さっきの、なんだったの?」
「さっきの?」
るるるるるる。五回。るるるるるる。六回。
「いきなり、手、握ってきたりして」
「ああ、あれ」
只今、電話にでられない状況にいます。留守番電話サービスに……
電話口を押さえて言ってやる。笑いながら。
「右から二番目のコマは三つじゃない、二つ」
電話口を押さえてる手を外して。
麻子から声が飛んでくる。それと大型のクッションも。
「あっ、そう!」
貴文はもろにクッションにあたりながら、笑い声で留守番電話に伝言を入れはじめた。