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第1回6000字小説バトル Entry23
富士山の見えるこの地方都市に越してきて四か月余。彼女は私の後を逐ってきた。名前を比奈子と云う。この先にある秋葉神社に行けば出会える。そう、其処の角を曲がって、幅一間程の濡れた路地を進めばいい。彼女は死者である。私が殺した。以来、仕事前の夜には必ず彼女に会うことにしている。理由は分からないが。
着いてみると、比奈子は今日も神社の鳥居の上に腰掛けて、私を見下ろしていた。
「遅いではないの?」
「いや、定刻の筈だが」
「ふうん」
言うが早いか、ひらりと地面に降りる。
「今日は何をする?」
「オセロ」
一言告げると比奈子は足音もさせず、ふらりという体で、秋葉神社の石段を上がっていく。私は少し億劫になりながらも後を往く。
(今日こそ私の勝ち)
それはやってみなければ分からない、そう口の中で呟くと、比奈子は振り返り、小さめの赤い唇を尖らせるようにしながら、意地悪、と云い、膝に手をついて笑った。
「いつもと違うな、何か」
「そんなことないよ。私はいつも通り」
この神社は所謂村社といったもので、数間ほどある小高い丘の頂上に社を祀っている。長い石段の下にはお百度もあるが、ここで祈る者を見たことがない。信仰を喪した神社。そして比奈子。いつも思うがお誂え向きである。本殿の前にある、屋根こそ立派だが四方の壁一つない拝殿に二人腰を下ろした。
比奈子は着物の懐に手を差し込み、緑色の布を取り出した。それはハンカチにオセロの目が印刷されたもので、木製の床にはらりとそれを置くと、夜光塗料か何かで印刷されたもののように、賽の目の線が青白く浮かび上がった。続いて黒白の石をその上にざらざらと零す。
「貴方には黒が似合うよ」
黒二枚、白二枚の石を比奈子はハンカチの中央にクロスさせて置く。先攻はいつも比奈子である。白い石を一枚置き、黒を一枚白に。そして私は、黒い石を一枚置き、白を一枚黒にする。彼女は大きめの瞳を真っ直ぐに向けると、いつもと同じ言葉を告げた。
「私が勝ったら、貴方はこちらへ来る約束よね」
「ああ、いつも通りだ。私が勝ったら、此処から帰れる」
私の下半身は既に石と化している。比奈子は勝負が終わらぬ限り、私を解放することはない。将棋、チェス、トランプ。この三年ばかりの間で様々なゲームを比奈子と戦ってきたが、全て私の勝ち。彼女は私を自分の元へ引き寄せるまで、この永遠とも言える勝負を続ける積もりなのである。
「明日は、誰を殺すの?」
菖蒲色の小袖の口から雪のように淡い白さを持った二の腕が伸び、しなやかに長い指が、月の光を跳ね返す石を置く。伏せる目蓋の長い睫が綺麗に影を作っている。
「若い女だ。新新興宗教の教祖ということだ。それ以上のことは知らない」
「綺麗な人?」
「君と同じくらい美人だな」
「抱いたの?」
「抱くも何も。相手は教祖様だ」
そう、と呟いて床からぶら下がっている足をばたばたとさせる。嬉しいのか何なのか? 私は問われれば事実を答える外はない。比奈子は如何なる嘘も僅かな時間のウチに見破ってしまう。死後の人間、殊に死後の女の洞察力は生者の比では無い。
「私を抱いたのは教祖では無かったからかな」
「女は死ぬと、考え方が短絡になるのか?」
私は右上隅に黒い石を置く。斜めに三枚。横へ四枚、更に下に二枚の白石を黒にする。比奈子は白い歯を口元から少し覗かせると、悔しそうに下唇を噛んだ。
「女はいつも短絡的だよ。それの何処が悪いって云うのかな。貴方たち男の方が屈折し過ぎているんじゃない。男はいつもそう。口にしないことが美徳だとでも思っているんだ。結局、卑怯だよ。何時でも手を引けるようにしておく。何も言わないまま、いつまでも私の体に縋り付こうとばかりしてる。そう云われた方がずっとマシなのに。疲れた時に甘えられるように女が必要だと認めたくないだけでしょ。女は都合のいい生き物だと思ってる」
「そうかもしれないな」
「あら、認めるわけ。黙っているのが貴方らしいのに」
比奈子の姿が少しずつ変貌し始める。爪が腐臭漂う黄色に変化し、肌が乾き、張りのあった頬が崩れ始め、目の下の隈がどす黒く落ち窪んでいく。艶の無くなった白い顔は頭蓋に近付いていく。
「その姿は私の前では見せない約束だが」
「こういう姿にした張本人は貴方」
嗄れた声を上げる白骨の乙女は、骨と皮だけになった指先に白い石を摘み、緑の盤に置く。一度に十枚近い黒が白に変わっていく。最早、オセロに触れることなく、石は独りでに裏返っていく。
比奈子が死ななければならなかった理由など、分かろう筈は無い。命じられた人間を殺すのが私の仕事だ。月の下で、桜の下で、そしてこの夜の下で。それが偶然、自分と関わりを持った人間だったというだけのことである。
桜が咲いていた。信号を無視して強引に右折すると、そこに菖蒲色に身を包んだ女が立っていた。大きな衝撃がクルマを襲った瞬間、女は腰の辺りを奇妙にへし曲げ、長い髪を風に飛ばしながら、顎を反り返らせたまま宙に舞った。胸元から首を経て顎へ至る曲線が美しいと思った。バックミラーで地面に落ちる瞬間まで見ていた。前を走る車に追突しそうになって我に返り、アクセルを踏み直した。私は、あの女が比奈子だということは理解していた。
「それで何故?」
何処から取ってきたのか、小さな笹を指先に持って比奈子は唇に当てた。彼女は花開くように元の姿に返っていく。鮮やかさの消えた着物は色を戻し、幾重にも折り畳まれたような首を刻む皺も姿を消した。触れば跳ね返ってくるような、二十歳の肌。陰影を造っていた頭蓋の形はなくなり、月光を白い頬が跳ね返す。比奈子は柔らかさの戻った掌と甲の両方を見つめ、くすっと微笑んだ。双眸は夜の光に潤んだ光を放っている。私は、その微笑に奇妙な懐かしさを憶えた。今日の比奈子はよく笑う。そのせいだろうか。
比奈子は白と黒の石を数える。一、二、三、四、五、六……小さな声で、楽しそうに。
「二つ差だね、今日は勝てるかしら」
「何故そんなに拘る? 私を殺そうと思えば、いつでもお前には出来るだろう」
「貴方に負けを認めさせたいんだ」
「負け?」
何故、私は比奈子を殺したのだろう。そして、彼女はどうして私を殺さないのか。彼女は私の考えていることさえ手に取るように分かる。さっき、比奈子が宙を舞う姿を回想した時、彼女は「何故」と聞いた。そして微笑み。私の心の中で形に出来なかった何かが、確かに組み上がりつつあるような感覚に囚われる。
「どうして私を殺しちゃったんだろうね、貴方は」
「仕事だからだ」
私の声を掻き消すように、比奈子は白い石を置く。私の手前の一列が全て白に変わっていく。形勢不利。今日は勝てないかもしれない。だが、何故だか清々しい気分になってくる。彼女のところへ行くとは、つまり自らの死を意味するにも関わらず。
「恐い? 私のところへ来るのは」
比奈子は右手の人差し指を私の顔の前に立てると、オセロの上の何もない空間の上でくるりと輪を描く。
「この勝負、ナシにしてあげてもいいよ」
比奈子の顔を見上げた。彼女はにこりと笑う。暗闇で鼻をつままれたような気分だ。だが、その提案が至極尤もに聞こえるのは何故であろう。三年間、彼女とゲームを続けていて、負けることがあればその時は命がなくなる時、と自分を理解させてきた。であるにも関わらず、彼女の提案は意外にさえも感じない。
「何故だ? 自分の復讐を果たす積もりなのだろうに」
「そう。その積もりだよ。でも、楽しいでしょ、こうやってゲームをするのが」
「ああ」
「じゃあ、決まり。今日の勝負は無し。その代わり、貴方が子供だった頃のことを教えて」
比奈子の人差し指が再びオセロの上で円を描いた。オセロは乾いた音と共に枯葉の山となって空に飛び散った。
私は祖父に育てられた。故郷は何処なのか分からない。両親がいたことは憶えているものの、物心ついた頃にはナイフを握らされていた。拳銃の扱いも習った。組み打ち術、剣道、その他諸々。十歳の頃に祖父と二人で最初の殺しをした。祖父はこの道の専門家で、仕事の段取りから実行までを全て一人でこなしていた。最初に殺した相手は、やはり若い女であった。私はその頃から、夜に自分が殺した女の姿を見るようになったが、祖父はそれを知ってか知らずか、いつも云っていた。「若い女を殺すことに慣れるまでは、独りで仕事をするな」と。十六になるまでに、何十人もの血の味と匂い、死の表情を見てきた。そしてその半分以上が若い女だった。祖父は、徹底して私にそういう相手を回したのだろう。正面から殺さねばならない場合には、必ず相手の瞳を見ろと教えられた。そして、出来ることならば、その女を抱けと命じられたのだ。それが生き残るための術だと。
「それで私を抱いたのね」
「それが理由なのか分からない」
比奈子はその返事に満足そうに頷く。笹の葉を口の前に持ってきて、ふうっと吹いた。私は秋の風が吹く肌寒さを忘れている。
「じゃあ、殺す相手以外を抱いたことはないの」
「無い」
比奈子の腕が伸びてくる。私の左手を握りそっと自分の襟元へ滑り込ませる。柔らかい膨らみがそこにある。私の手はそのまま、果実の先端を探し当てる。彼女を抱き寄せて口づけをした。互いの舌を絡ませて互いの匂いを嗅ぐ。舌が彼女の歯茎を探り、彼女の舌が私の歯茎をまさぐる。右手を彼女の豊かな臀部へ回し、裾から艶やかな太股を撫でていく。唇を襟元へ、そして耳朶を経て耳の穴に舌を差し込む。比奈子の体から力が抜けていき、心地よい重みが上半身を包み込んだ。今度は比奈子が私のシャツに手を伸ばしてボタンを外す。私の胸の上で円を描くように撫でさする。温かい舌が、私の胸腺を経て乳首の形をなぞっていく。そして、彼女はいきなり私の首に両腕をかけた。
「こうして、貴方は殺すの」
「そうしたこともある」
「そう」
比奈子の腕に力がかかった。私は呼吸の苦しさに悶えながらも、彼女の顔を見ていた。瞳の中をじっと覗き込んでいる。このままでいい。彼女の顔には何ら険しさも、厳しさもなかった。無表情でもない。こちらの気持ちが落ち着く柔らかい笑み。拝殿の軒の向こうに白い月が照っている。光に重さがあるのだと初めて分かった。彼女の重さよりも月光の質量の方が大きく感じる。
突然、比奈子は腕に込めていた力を緩めた。私は咳き込み咽せる。彼女は私の頭を抱き、体を寄せる。
「このまま私のところに来てもいい、と思ったでしょう」
私は頷く。それを見て、彼女は顔を逸らして目蓋を伏せる。
「もう、会ってくれなくてもいい。貴方の負けだから」
その言葉の意味をすぐに理解できた。そして何故、自分が人を殺す前に、この女に会おうと思うのかが分かった。私は比奈子に会いたかったのだ。そして彼女の顔を確かめたかった。匂いを、微笑を、そして肌の柔らかさを。何故そうなのかは分からない。ただ、安心する。それ以上に表現のしようがない。
「お前が勝ったら、私はそちらへ行くんじゃないのか」
「すぐ、とは言ってないよ」
石のように硬直した下半身がいつの間にか自由になっていることに気付いた。だが、立ち上がろうとは思わない。私の口は、私には信じられない言葉を吐いた。
「もう少し、お前と一緒にいたいんだ」
「馬鹿じゃないの」
比奈子は顔を逸らしたままである。聞きたくない言葉を、真正面から聞くのが厭だと言っているようだ。
「今の、忘れてくれ」
「その方が貴方らしいよ」
「ありがとう」
「くす、気持ち悪い」
比奈子は、乱れた着物を正して立ち上がる。拝殿から地面にふわっと飛び降りると、漸く私の方を向いた。奇妙な気分になる。部屋に置いてあるトランクのことを思う。中には狙撃用のライフルと、銃弾。自分が明日、富士の裾野にある建物の影に身を潜め、女の頭を撃ち抜くということが、非現実的な夢のように思えてくるのだ。果たして私にとって何が現実なのだろう。
「貴方、憶えてる。一緒に映画を見に行ったことがあるでしょう」
「つまらない映画だったな」
辺りで急に、人の気配がし始めた。二人、三人、いやもっとである。十数人か。本殿の陰、杉林の暗闇、拝殿の上にも。鍛錬によって培われた鋭敏な皮膚感覚が危険を察知している。
「映画はつまらなかったけれど、私は楽しかった。貴方、あの日の帰り道に初めて私にキスをしたよね。男性経験が少ないわけじゃないし、それがどんなものだったのかくらい、わかる」
頭上で鴉の鳴き声が響き、身を固める。肩に下げたナイフ一本でどれだけ倒せるか。
「貴方は、私のこと泣き虫だって言って、よくハンカチを貸してくれた。それに、誕生日にはずっと一緒にいてくれたし。喧嘩だってしてくれた。私は、でも貴方に死んで欲しいなんて思ったことは一度もなかったし、今でも、そんなこと思ってない。例え、貴方が私を殺したとしても、貴方は私を殺したかったわけじゃない。それだけは分かってる」
空から、林から、そして本殿から何か黒いものが飛んでくる。素早くナイフを取り出して左右にふるった。私の切っ先をかわして二度三度と羽ばたく。
鴉であった。無数の鴉が次々と頭上から降りてくる。奇声に近い鳴き声が辺りを満たしていく。数が多過ぎる。私はナイフや手刀、そして蹴りなどを繰り出しながら、一羽、二羽と大地に落としていく。だが、鴉は地面に落ちると黒い影のようになり、骸も残さず消えてしまうのである。そして、新たな鴉が再び天から舞い降りてくる。全く際限が無い。
鴉は私を狙うようでいて、実はそうではなかった。鴉達の目的は、実は比奈子であった。鴉達は上昇と急降下を繰り返しながら、鋭利な爪で比奈子の白い肌を刻んでいく。肩を抉り、腕を切り裂く。菖蒲色の着物には沢山の鉤裂きが出来、彼女は苦悶の表情を浮かべながらも、気丈にも立ち続けている。
「私は本気だったよ。そして、今も本気だよ」
反射的に比奈子を抱きしめていた。目の前が滲み、自分が泣いていることに初めて気付く。比奈子の体は、まるで作り物の粘土細工のように、鴉に蝕まれた部分が欠落してしまっている。無数の鴉は私たちの頭上で輪を描き始めた。
殺せ、早く殺せ。頭上から沢山の女の声が響いている。それは比奈子への抗議の声に聞こえる。鴉達は頭上で一列の編隊を形作ると、天高く上昇していく。
「もっと強く抱きしめて」
自分の感情をどう表現していいのか、分からなかった。生まれて初めて誰かを守らなければならないと感じた。私は壊れたのか?
「嬉しいな」
比奈子が微笑んだ。鴉たちが天空から一本の槍のように一直線に舞い降りてくる。背中に嘴の刃が突き込まれるのを感じた瞬間、漆黒の槍は比奈子をだけを貫いていた。彼女の体の重さが不意に消え、私は何もない空間を掴むような形でその場に倒れた。
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